
画像は、板橋区志村2丁目にある「熊野神社」を南から見たところです。この神社の社殿は古墳上に建てられているといわれており、『東京都遺跡地図』には、板橋区の遺跡番号159番の年代不詳の塚として登録されています。

塚を別角度から見たところ。
このところ跡地ばかりで風景写真みたいになっていましたが、やはり墳丘が残されている古墳を見たいものです。。。

『新版江戸名所図会』には「今奥の院と称する地に石祠あり、十四、五年前この地を穿ちて古鏡二面と刀一と振を得たりしとなり。されどその故をしらざれば祟あらん事を恐れ元の如く埋蔵したりとなり」と書かれています。つまりは安永の頃、古鏡二面と刀一と振を掘り出したものの祟りを恐れて元の場所に埋め戻してしまったということのようで、その後明治33年(1900)の社殿改築の際に古鏡二面と合子が出土しており、塚が経塚であるということは間違いないようです。
塚は、社殿の北側に残されています。この大きな盛土からして、この塚が古墳であるなら埋葬施設の残骸くらいは残されているのではないかとも思いますが、塚は発掘調査はされていませんので、詳細はわかりません。

画像は、墳頂部を南西から見たところです。埴輪や土師器の破片でも落ちてないものかとキョロキョロしてみましたが、特に見当たりませんでした。。。

この周辺は「志村城」の跡地で、通称城山として知られています。志村小学校の運動場のあたりが本丸、熊野神社のあたりが二の丸と推定されており、小学校と神社の間には今も空濠、土塁の後が残されています。画像は、社殿の西側に残されている空濠のようすです。板橋区立郷土資料館でお聞きしたところによると、この空濠は古墳の周溝を利用して造られたものではないかと考えられているそうで、やはりこの塚が古墳である可能性は高いようです。
<参考文献>
東京都板橋区役所『板橋区史』
板橋史談会『改訂版 いたばし郷土史辞典』
板橋区教育委員会『まち博ガイドブック(志村坂上・中台・蓮根・舟渡・前野)』
- 2013/10/30(水) 23:41:16|
- 板橋区/志村古墳群
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画像は、お伊勢塚があったとされる板橋区志村2丁目の推定地を北西から見たところです。板橋区の遺跡番号158番の古墳として登録されており、直径13m、高さ3mの規模の円墳であったとされています。コパル第一工場の建設により消滅しており、当時の調査によると「地面下二米程に平鍬けずりあとのある巾一米四〇程の蒲鉾形の天井のある玄室がほぼ南北にあり、人骨一体分が掘り出された。頭蓋後頭部、大腿骨、上・下肢骨、歯等があった。副葬品としては挙大の巻貝一コ、土師器高杯の上皿部分一コ、挙大の河底石数十コは副葬ではなかろうが、玄室の南側から出た。また、密掘が行われたらしい。」と報告されています。
この調査を担当した北條治宗氏が現地を訪れたとき、すでに古墳は20メートルも移動しており、もとあった古墳の2メートル下に人骨を伴う玄室があったと伝えられています。古墳が20メートルも別の場所に移動するというのも不思議な話なのですが、『板橋区史 資料編1 考古』によるとこのお伊勢塚古墳と玄室とは別個のものであるとしていて、報告された玄室とは崖面にうがたれた横穴墓であると推定しているようです。
この人骨は、志村城址供養塔(宝塔)が工場敷地内に立てられて移してあるそうなのですが、現在この場所には集合住宅が建てられており、供養塔がどこにあるのかもよくわからず、残念ながら見ることは出来ませんでした。
コパル第一工場が建設される以前には、この台地上にお伊勢塚以外にも十数基の古墳があったと云われているそうですので、広く古墳群が形成されていた可能性もあるのかもしれませんね。。。
<参考文献>
板橋区史編さん調査会『板橋区史 資料編1 考古』
板橋区史編さん調査会『文化財シリーズ第17集 いたばし風土記』
板橋区教育委員会『まち博ガイドブック(志村坂上・中台・蓮根・舟渡・前野)』
- 2013/10/25(金) 01:54:12|
- 板橋区/志村古墳群
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1932年1月、人類学者の石田収蔵氏が小豆沢・志村一帯を調査しており、志村古墳3基と熊野神社西方に「伊勢塚」という名の古墳があると手帳に記述していたそうです。その後、1953年に板橋区志村2丁目にある志村城の一角が光学機器コパルに払い下げられる際に、北條治宗氏により「お伊勢塚」が調査されており、他に「熊野神社社殿下の古墳」と「東方に離れた地点」の3箇所の古墳の存在が確認されています。
画像は、「東方に離れた地点」の古墳が所在したとされる周辺です。塚は開発により発掘調査されることなく宅地化され、現在は跡形もなく消滅しています。『東京都遺跡地図』には、板橋区の遺跡番号157番の年代不詳の塚として登録されています。

塚の推定地前の路上には、板橋区により「いたばしまちあるきマップ」が設置されています。こういうのがあるだけでも、ここが跡地だった!と自分を納得させて帰ることができたりするわけです。。。
<参考文献>
東京都板橋区役所『板橋区史』
板橋区史編さん調査会『板橋区史 資料編1 考古』
- 2013/10/21(月) 01:05:04|
- 板橋区/志村古墳群
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板橋区小豆沢2丁目19番のちょうど角のところに1基の庚申塔が立っています。この場所にはかつて小高い塚があり、庚申塔はその上に祀られていたと云われています。
東京都板橋区役所から昭和29年に発行された『板橋区史』の古墳表には、同じ小豆沢2丁目に「志村第一号古墳」、「同2号墳」とともに「3号墳」の存在が記されています。この塚と3号墳が同一のものなのか詳細はわかりませんが、この周辺に多くの古墳や塚が存在したのは間違いないようです。
遺跡というのは本来、その土地、その場所に保存されるのが理想だと思いますが、開発の進んだ東京にあってこうして歩道のど真ん中に文化財が残されているのを見ると、ちょっとビックリしてしまいますね。。。
<参考文献>
板橋まち博友の会『板橋の史跡を訪ねる』
- 2013/10/13(日) 04:41:56|
- 板橋区/志村古墳群
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「総泉寺(そうせんじ)」は、板橋区小豆沢3丁目板にある曹洞宗の寺院で、妙亀山総泉寺と号します。本尊は釈迦如来座像です。このお寺は以前は台東区橋場にありましたが、関東大震災で被災し昭和3年にこの地にあった大善寺と合併して移転して来たそうです。画像は、その総泉寺を南東から見たところです。
『東京都遺跡地図』には、板橋区の遺跡番号161番の名称のない塚がこの総泉寺の敷地内に残存扱いで登録されておりますが、現地を訪れてみたところでは、残念ながら塚は残されていないようで。昭和29年に発行された『板橋区史』の古墳表にも総泉寺墓地に1基記されていますので、少なくとも昭和初期には古墳らしき高まりが残されていたのかもしれません。

画像は、総泉寺の東方100mほどの地点で見かけた祠です。オリエンタル酵母工業株式会社の敷地内にあり、祠の周囲が塚状に高くなっていたので、ひょっとしたらこれが161番の塚かもしれないと思い(161番の塚ではないと思いますが)、カメラに収めておいた一枚です。この祠について後日調べてみたところなかなか面白いお話が見つかったので、紹介してみたいと思います。
この工場に祀られている神社は、稲荷神社で、京都の伏見稲荷神社から分霊を勧誘、祭祀した社で、「穣福稲荷」と命名されている。勧誘したのは、昭和十三年四月で、当時、出征していた兵士の武運長久と工場の安全、工員の健康の祈願をする神社として、代表者が伏見稲荷の本社から神霊を受けてきた。ところが京都から帰る途中、不思議なことに奉持していた御神体が、あるときは重く、またあるときはとても軽く感じられたという。「不思議なことがあるものだ」と、当時の代表者たちは話し合ったという。
ところが、勧誘した翌十四年五月、板橋の工業史上、最も悲惨といわれる大日本セルロイドの大災害が発生、六二棟を全焼、三四人の死者が出た。
その日、つまり昭和十四年五月九日は晴天であったが西風が吹いていた。ところが、わずかな煙草の火の粉が、セルロイドのくず袋に引火、その火が西風にあおられ、隣のマグネシウム工場に燃え移り、さらに隣の日本火工でほしていた火薬に引火、大爆発をおこした。そして日本火工の屋根で、マグネシウム工場の火事を見ていた三四人を吹きとばし、大日本セルロイドでも、倉庫や事務所を全焼、一三人のけが人を出した。まことに悲惨な爆発事故であった。
当時、オリエンタル酵母工業の隣は、トーハツ株式会社であったが、この社も類焼、煙は遠く都心の方からも、ながめられたという。
ところが、この大惨事にもかかわらず、オリエンタル酵母工業株式会社は類焼をまぬがれ、軽微な被害ですんだ。
そこで、これはまことに天の助けであり、当社で祀っている祭神の稲荷大明神「穣福稲荷」のおめぐみに違いないと語り合い、ますます信仰を深めたという。なお、昭和十九年・二十年の米軍の飛行機による爆撃の時にも、少しの被害も受けなかったが、これまた、稲荷様の霊験によるものと深い信仰を捧げている。(『板橋区史 資料編5 民俗』749〜750ページ)
<参考文献>
板橋区史編さん調査会『板橋区史 資料編5 民俗』
板橋区教育委員会『まち博ガイドブック(志村坂上・中台・蓮根・舟渡・前野)』
- 2013/10/10(木) 05:00:58|
- 板橋区/志村古墳群
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