
画像は、板橋区赤塚4丁目にある「赤塚氷川神社富士塚」を南東から見たところです。『東京都遺跡地図』には、板橋区の遺跡番号135番の年代不詳の名称のない塚として登録されています。平成23年に板橋区の登録文化財に指定されています。
昭和29年に東京都板橋区役所より発行された『板橋区史』には、「上赤塚氷川神社及び下赤塚町諏訪神社境内その他にある浅間神社の人造富士塚は、古墳を利用して盛土したものかとも考えられる。」と、この富士塚が古墳を流用しとものである可能性を指摘しています。また、「古墳はその性質上群在する場合が多いのであるが、板橋区の地域には、古墳群と認むべきものが存在せず、従つて個々にある古墳状の盛土が、果して古墳なりや否やを断定するのに困難を感じるもので、前記二つの人造富士塚も、同様古墳を利用したものとの確証は無いのである。盛土の形状及び土地の人の何々塚と呼ぶ名称からして、直ちに古墳なりと認定することはまことに至難であり、また危険でもある。」とも書かれています。この周辺にはかつて古墳ではないかと考えられた塚が数多く存在しており、この赤塚氷川神社富士塚が古墳であった可能性も十分に考えられるのではないかと思われますが、それには学術的な調査を待たなければならないようです。

頂上には浅間神社の祠が祀られています。こうして小さな祠を下から見上げると富士塚はとても大きく見えます。
敷地内には板橋区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。
赤塚氷川神社富士塚
富士塚は、一般的には、富士山への登拝することを目的に組織された「富士講」の人びとによって、富士山を模して造られた、ミニチュアの人造富士山のことで、富士講が爆発的に広がった十八世紀以降に、各地で盛んに造られました。
富士塚の特色は、山麓から山頂にかけて登山道を模した道を設け、それに沿って石碑を配して、富士山各所の礼拝所を表現していることや、「黒ボク」と呼ばれる富士山の溶岩石を取り寄せ、使用している点にあります。
なお、他地域の富士塚では毎年七月一日前後の富士山の山開きに合わせて祭礼が行われている所があります。また、富士山への登山行為自体が富士山登拝と同様の御利益があるといわれています。
当富士塚を造成したのは、新座郡中沢村(現在の新座市)出身の浅海吉右衛門(行名 蓉行芙厚)が開いた「丸吉講」です。当地(旧上赤塚村)へと丸吉講が伝播した時期については、丸吉上成(上赤塚・成増)講に伝わる御三幅の「御身抜」に、「天保六年、蓉行芙厚?、七拾七年、書之」という墨書銘が確認されていることから、天保六年(1835)頃と考えられます。
なお、この富士塚の造成時期については、志木市敷島神社の境内にある「田子山富士」に奉納された、明治五年の「丸吉講新富士百三十三所奉納額」に、「下赤塚仙元 富士山」と表記されていることから、それ以前の段階だと考えられます。
また、塚上に慶応四年(1866)に白子丸瀧講(現在の和光市)の先達を努めた富澤藤七が造立した「登山三十三度大願成就」の碑があり、造成時期はさらにさかのぼる可能性も考えられます。平成二十三年度に区の登録記念物(史跡)となりました。
平成二十五年三月 板橋区教育委員会
(?の部分にはにんべんに杓という字が書かれているのですが、これは富士講特有の異体文字で「くう」と読むそうです)

氷川神社社殿の北側に祀られているのが、画像の大黒天です。東京の破壊された塚ばかり見学していると、こちらの方がよっぽど古墳らしく見えてしまいます。。。
<参考文献>
東京都板橋区役所『板橋区史』
板橋区史編さん調査会『板橋区史 資料編5 民俗』
現地説明版
- 2015/01/16(金) 02:03:07|
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画像は、板橋区赤塚5丁目にある「上赤塚観音堂」を西から見たところです。『東京都遺跡地図』には、この敷地内に板橋区の遺跡番号136番の名称のない塚が登録されています。
この観音堂は松月院の境外堂で、江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿』にも観音堂、松月院持と書かれています。お堂の中には江戸時代作の木造正観音菩薩立像が安置されています。大正11年(1922)に火災で全焼しているそうで、門の左にある再建碑には、寛文年間(1661~1673)の創建で、同13年(1924)に再建したとあるそうです。
訪れた日には入口が施錠されていて中に入ることが出来ませんでしたが、外から観察したところでは敷地内はすっかり整備されていて、古墳らしき面影はまったく残されていないように見えます。

さて、画像は「上赤塚観音堂」を南東から見たところです。観音堂の敷地の南東側に道路でも墓地でもない不思議な一角が存在します。現在は植え込みとなっているようなのですが、まさかここが古墳の跡地?と思い撮影しておいたものです。戦後の航空写真で確認しても古墳らしき盛土を特定することは出来ず。府中市に、似たように敷地の一角が古墳の跡地とされている場所を見学したことがありますが、ここはどうなんでしょうか。。。
<参考文献>
板橋区教育委員会『文化財シリーズ第76集 まち博ガイドブック(下赤塚・成増・徳丸・高島平)』
- 2015/01/15(木) 01:05:45|
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酒詰仲男氏は板橋区史編纂のため、1952年から1953年にかけて板橋区内の実地調査を行っています。この結果、「古墳らしきもの」まで含めたという25基の塚が、昭和29年に発行された旧板橋区史の古墳表に掲載されています。現在の『東京都遺跡地図』に掲載されている古墳や塚はこの調査の結果が元になっているそうです。したがって、赤い色の「現存」マークが付けられていてもその後の開発によって消滅してしまったものが多く、今ではその姿をみることは出来ません。
面白いのは、例えば「弁天塚」や「姥塚」のように調査当時に間違いなく残存していた塚であっても(当時の写真が数多く残されている)古墳表には掲載されていません。「古墳らしきものまで含めた」という古墳表には、古墳ではないと判断された塚は掲載されなかったのでしょうか。
画像は板橋区赤塚5丁目、板橋区の遺跡番号137番の年代不詳の名称のない塚が登録されているのはこの周辺です。画像中央の道路のあたりに塚の跡地として記されているのですが、やはり塚は消滅しており、痕跡すら見当たりません。言い伝えや由緒等の情報も見つけることは出来ませんでした。
唯一、昭和22年と38年の航空写真と見ると、畑の中にぽつりと塚らしき木立があり、それはちょうどこの写真を撮るために立っていた足下あたりなのですが、ここが塚の跡地である確信を得るにはいたらず、詳細はわかりませんでした。。。
<参考文献>
東京都板橋区役所『板橋区史』
- 2015/01/14(水) 11:09:36|
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画像は、板橋区赤塚5丁目にある「妙見祠」を東から見たところです。画像の左側が「赤塚城二の丸跡」の石碑で、その右横にあるのが妙見祠です。『東京都遺跡地図』には、板橋区の遺跡番号138番の年代不詳の名称のない塚として登録されています。
板橋区教育委員会から発行されている『まち博ガイドブック』にはこの「妙見祠」について次のように書かれています。
妙見菩薩は北斗七星を神格化した菩薩で、国土を守り災難を除去し、敵を退け人の寿命を延ばす霊験があるとされています。千葉氏の祖、平忠常が長元元年(1028)に関東に乱を起こし、追討軍との戦いで危機に陥った時に、妙見菩薩が現れて助けられたとの伝説から、千葉氏の守護神として崇められています。千葉氏の月星の家紋はこれに由来します。(『文化財シリーズ第76集 まち博ガイドブック(下赤塚・成増・徳丸・高島平)』35~36ページ)
昭和29年に発行された『板橋区史』には、古墳表のほかに往時の「妙見塚」の写真が掲載されています。昭和初期頃までは塚は残存していたようですが、現在は跡形もなく削平され、この「妙見祠」のみが残されています。
出土品の言い伝え等、塚についての情報はほとんど見つからずこれが古墳であったのか塚であったのか、詳細はわかりませんでした。

妙見塚の所在する「乗蓮寺」で有名な「東京大仏」です。この大仏は昭和56年、赤塚城主であった千葉氏一族をはじめ、日清日露戦役、第二次世界大戦での戦死者を供養するために建立されたものだそうで、高さは13mもあるそうです。この乗蓮寺の敷地内にも数多くの文化財が残されていて、見応えがあります。。。
<参考文献>
東京都板橋区役所『板橋区史』
板橋区教育委員会『文化財シリーズ第76集 まち博ガイドブック(下赤塚・成増・徳丸・高島平)』
- 2015/01/13(火) 10:53:19|
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画像は、板橋区赤塚6丁目にある「大堂」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には、この敷地内に板橋区の遺跡番号139番の名称のない塚が登録されています。
板橋区教育委員会より昭和62年に発行されている『いたばし風土記』には「このお寺神社総体が大古墳の中腹に建てられ、古墳の中心が八幡社の裏の大木であるといわれている」と記されており、いたばしまち博友の会から発行された『板橋の史跡を訪ねる』にも同様の記述が見られます。「Googleマップ 」でこの地点を上空から見ると、境内を取り巻く道路がまるで前方後円墳を取り巻くような形状で曲線を描いており、板橋区内にも大古墳が存在したのかとビックリしました。これがもし巨大な前方後円墳であるなら、画像はちょうど後円部を見上げたような状況になるわけですが、これの説はどうやら誤りのようで、板橋区立郷土資料館で確認したところでもこれは自然地形だと考えられているようです。

画像は『江戸名所図会』に描かれた大堂のようすです。(実際には色はついていませんが、これは彩色されています。一昨年の東京文化財ウィークの際に松月院の松宝閣で見学させていただいたものです)周囲を取り巻く道路が作られていなかった江戸時代のようすを見ると、やはり前方後円墳などではなく自然地形であるように見えます。
現在古墳ではないかと考えられているのは、右端に見える「八まん」神社の土台になっている盛土で、前々回に紹介した松月院門前の古墳と同様に、墳丘上に神社が建てられているようすを見ることが出来ます。

画像は、現在の八幡神社を南から見たところです。この神社の背後にある、ブロック塀に囲まれた塚が古墳であると考えられているようですが、この位置から見ると崩された古墳の上に神社が建てられているようにも思えます。調査が行われてみないと何とも言えませんね。

角度をかえて見たところ。祠の後ろの薮の中に墳丘が隠れています。
<参考文献>
板橋区教育委員会『いたばし風土記 文化財シリーズ第17集』
板橋区教育委員会『文化財シリーズ第25集 いたばしの昔ばなし』
板橋史談会『改訂版 いたばし郷土史辞典』
いたばしまち博友の会『板橋の史跡を訪ねる』
- 2015/01/12(月) 01:45:37|
- 板橋区/その他の古墳・塚
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