
画像は、府中市分梅町1丁目にある「天王宮八雲神社」を東から見たところです。
この天王宮八雲神社は、古くは天王宮と称され祀られていました。明治期の神仏分離令により神仏習合とみなされて、現在は八雲神社として祀られています。天王宮の祭神は牛頭天王、八雲神社の祭神は素盞嗚尊ですが、合祀されているそうです。創設年は未詳であるようですが、分梅通り(陣街道、古鎌倉街道)に面した境内の東北角には、元応元年(1319)の石板があり、享保9年9月(1723)の祭神像、安永7年(1778)の石造の鳥居が現存しており、かなり歴史のある神社であるようです。
この神社の境内には、高倉古墳群の29号墳にあたる「天王塚」と呼ばれる古墳が残存します。

八雲神社境内のようすです。
画像の本殿の左奥に、古墳がチラリと見えていますね。
早速近くで見てみましょう。

南東から見た天王塚です。
この古墳は、平成19年に行われた八雲神社本殿覆屋・拝殿建て替え立会において、塚の縁辺部に周溝の内側のラインが検出され、古墳であることが確認されています。そしてその後、平成24年3月には墳丘保存目的の確認調査が行われています。
古墳は墳丘径約17mの円墳に周溝が廻るもので、現況は1.2mほどの高さが遺存していますが、本来の墳丘高はわからないようです。
画像に見えるように、古墳の東側は若干削平されており、石垣となっていますが、この墳丘東側を除く墳丘が遺存する部分については、裾部から少なからずの中世の陶器類が出土しており、中世段階に塚とし裾部を中心に手が加えられていると考えられるようです。

南から見た天王塚。
かなり良好に残されている印象です。
埋葬施設については詳細は不明。埴輪の有無も不明です。

南西から見た天王塚。

この分梅町の八雲神社といえば、やはり板碑に触れないわけにはいかないですよね。
府中市内で代表的なものが、三千人塚の上に立つ康元元年(1256)銘の板碑と、この八雲神社北東隅に立つ元応元年(1319)銘の板碑で、三千人塚のものが多摩地区最古、八雲神社のものが市内最大です。
この八雲神社の板碑の場所は、分梅通りが府中崖線を抜ける切り通しの縁で、分梅通りは中世の幹線道である鎌倉街道上道の推定ルートにあたり、沿道の発掘調査でも道路跡が発見されているそうです。
発掘調査の結果、板碑の地下には拳大の礫が詰まっていて、板碑の基部は地表から約50cmの深さまで埋められていることがわかっています。
板碑の周辺からは、常滑焼など中世の焼き物の破片が多く出土しており、他に江戸時代の通貨である寛永通宝が11点も出土しています。八雲神社前にこの板碑が立っている様子は江戸時代の地誌『江戸名所図会』にも描かれており、寛永通宝はこのころのお賽銭だったのかもしれませんね。

この板碑は、以前は背後に立つ樫の古木の伐り株に挟まれていました。
この板碑はレプリカですが、古木に取り込まれた状況も再現されています。
以前は屋根があったのですが、整備されたらなくなっちゃったんですね。笑。
府中市教育委員会により設置された説明板には、次のように書かれています。
府中市指定有形文化財
八雲神社脇の元応の板碑
指定 平成元年八月二十三日
鎌倉時代の中頃から室町時代の末までのおよそ三百年の間、
府中では埼玉県秩父地方や比企地方で産する緑泥片岩を板状
に加工した供養塔婆が盛んに造立されました。このような石造
の供養塔婆を板碑と呼んでいます。
市内からは大小様々の六百基を超える板碑がみつかっています
が、この板碑は市内では最大級であり、加えて鼓動の傍らにあっ
て造立当時の面影を残しているとみられる貴重なものです。
この板碑は元応元年(一三一九)年十一月八日に、大蔵近之という
人物が亡き父親道仏の十七年忌追善供養のために建てたものと
考えられています。
八雲神社境内のこの板碑は、風化が激しくなり現状での保存
が困難になったため、現在は複製を設置しています。
平成二十四年三月
府中市教育委員会
説明板に掲載されていた、昭和10年前後の板碑のようすです。
『あるむぜお』100号にはこの板碑について「中世に立てられた板碑は、一定期間が経過するとその多くは地中に埋もれてしまいます。しかし、この板碑は作られてから700年近くが経過しているにもかかわらず、現在もその姿を見ることができます。このような景観を維持する原動力となったものは、この地域の人々が持っていた信仰心ではないでしょうか」と書かれています。
その傍ら、「風化が激しくなり現状での保存が困難になったため、現在は複製を設置」とされたようです。

画像は、「高倉32号墳」の周溝で確認されたという円筒埴輪と朝顔形埴輪です。
府中市のふるさと歴史館で行われていた特別展「府中の発掘お宝展2019 府中の古墳時代」で公開されていたものです。
「高倉古墳群」を形成する古墳は、現在までに発掘調査により「35号墳」まで確認されています。
「18号墳」は欠番となっていますので、発掘調査により存在が確認された古墳は計34基ということになります。
高倉古墳群の、『古墳なう』で探訪した古墳としてはとりあえず今回の29号墳まででひと段落です。
気が向いたら30号墳以降の古墳も巡ってみるかもしれませんが、このご時世ですからね。。。
まだ未調査ながらも、その存在が確実視されている古墳もまだ残されており、今後の調査によりさらにその数は増えていくのでしょう。楽しみにその進展を見守ろうと思っています。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府の調査 45』
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- 2020/04/11(土) 20:02:03|
- 府中市/高倉古墳群
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「山王塚」は、府中市美好町3丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には、府中市の遺跡番号4-28番に登録されている古墳です。
立川段丘上の府中崖線縁辺に所在するこの古墳は、古くは、昭和39年(1964)12月18~19日にかけて、菊池山哉氏と明星学苑の生徒達により発掘されています。この当時の塚は、長方形に柵で覆われた土地の中に東西8.9m、南北15m、高さ約1.5mの墳丘があり、東側に祠が祀られていたそうです。表土より陶磁器の破片が出土したのみで、塚の時代や性格が明らかにされることはなかったようです。
その後、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にはまだこの塚は残存すると書かれていますので、少なくとも20年程前までは塚は残されていたようですが、その後の開発により残念ながら消滅してしまったようです。

そして、平成20年(2008)2月から3月にかけて行われた発掘調査により、山王塚のものと考えられる周溝が検出されます。検出された周溝は南側部分の一部であり、調査地区内で円弧の径を復元するには至らなかったようですが、元々はかなり大きな古墳であったようです。
周溝内から土師器の坩が出土しており、この遺物の年代観から古墳は4世紀末頃の築造と考えられており、府中市内で調査が行われた古墳の中では最も古い古墳であることがわかっています。
上円下方墳である「武蔵府中熊野神社古墳」から近距離にあるこの場所に、最も古い時期の古墳が存在したことは、とても興味深いところですね。。。
<参考文献>
府中市史談会「府中市内屋敷神調査報告」『府中市郷土館紀要 第8号』
岡田淳子「府中市の奈良・平安時代の遺跡」『府中市史史料集(十)』
府中市郷土の森博物館『南武武蔵の古墳』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府の調査 41』
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- 2020/04/10(金) 21:27:33|
- 府中市/高倉古墳群
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「高倉古墳群」は府中市西方、京王線分倍河原駅の西側に広がる立川段丘緩斜面一帯に位置する古墳群です。これまでに30基以上の古墳が調査あるいは確認されており、その多くは墳丘が失われているものの周溝を持つ直径9~26mの円墳で構成されています。
このうち、比較的規模の大きい古墳は木棺直葬であると推測されており、発掘された周溝からの出土品から6世紀前半頃の築造と考えられています。また、規模の小さな古墳は河原石積横穴式石室を主体部に持ち、石室から出土した埋葬品から6世紀後半から7世紀にかけて築造されたと考えられています。
画像は、府中市美好町3丁目に所在する「高倉古墳群 27号墳」を東から見たところです。
「首塚」とも称される伝説に残る古墳で、周囲を宅地に囲まれながらも僅かな墳丘が残されています。

南東から見た首塚。
住宅街の一角の小さくわずかな高まりですが、れっきとした古墳の残存部分であると思われます。
墳丘上にモリッと小さな小山が見えますが、以前はここに木が生えていました。この何年かの間にいつの間にか切られてしまったらしく、小山はその切株です。

南から見た首塚。
この古墳は、分倍河原の合戦(鎌倉時代後期の元弘3年(1333)に、現在の府中市内の分倍河原一帯で北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦)に関係する塚ではないかと言い伝えられており、江戸時代の地誌類に多くの記述が見られます。
『新編武蔵風土記稿』には「古戦場 分倍河原につづきし地所にて古戦場なりといふ、耳塚頸塚などといへる小塚あり、又村南に堂塚といふあり、来由を伝へず、この所に弘長元年の文字みえし断碑あり、又それより北によりて御嶽塚といふあり、高一丈五尺許なり」、また「田間に胴塚、頸塚などいひて多くの小塚ありて、其數しらず…」とあり、頸塚(首塚)のみならず、耳塚、堂塚といった分倍河原の合戦に関係する塚の存在についても記されています。
「堂塚」はすでに消滅しており、その所在はわからなくなっているようですが、「耳塚」は同じ美好町3丁目内に残されています。

墳丘上の様子。南西から見たところです。
お稲荷さんの祠が祀られており、狛犬が見えます。
祠の横には「辨戝天 御霊神」と刻まれた石碑が建てられています。

その後、平成17年(2005)5月に武蔵国府関連遺跡の第1288次調査が行われ、周溝が検出されたことにより、この「首塚」が間違いなく古墳であることが確認されています。
周溝は古墳の南西側で全周の約8分の1ほどが検出され、検出された割合が少ないことから復元規模はやや不正確であるものの、墳丘径約24mの周囲に幅約3.6mほどの周溝が巡る円墳であると推定されています。
主体部は検出されていないため詳細は不明ですが、検出された周溝から首塚の稲荷社が祀られているあたりが古墳のほぼ中心と推定されているそうですから、この約1mほどの高まりとして残る首塚の敷地内から将来、埋葬施設の一部が見つかる可能性も考えられるのかもしれません。

気になる河原石。
これが石室の石材であれば、埋葬施設は河原石積の横穴式石室ということになるのでしょうか。

これは最初に訪れたときの「首塚」。2011年の写真です。
まだ墳丘上の木が切られずに残されています。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査団報告書』
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府の調査 41』
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府関連遺跡調査報告 40』
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- 2020/04/09(木) 21:17:48|
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「高倉古墳群」は府中市西方、京王線分倍河原駅の西側に広がる立川段丘緩斜面一帯に位置する古墳群です。これまでに約30基の古墳が調査あるいは確認されており、その多くは墳丘が失われているものの周溝を持つ直径9~26mの円墳で構成されています。このうち、比較的規模の大きい古墳は木棺直葬であると推測されており、発掘された周溝からの出土品から6世紀前半頃の築造と考えられています。また、規模の小さな古墳は河原石積横穴式石室を主体部に持ち、石室から出土した埋葬品から6世紀後半から7世紀にかけて築造されたと考えられています。
「高倉塚古墳」は、府中市分梅町1丁目に所在する古墳で、画像はこの高倉塚を北北西から見たところです。高倉古墳群の中心に位置するこの古墳は墳丘の残存する数少ない貴重な古墳であり、周辺の多くの古墳が削平されていく中、中世から近世にかけて塚として流用されたことにより削平を免れてきたようです。昭和50年(1975)の最初の調査が行われて以降、何度かの調査が行われており、平成13年10月30日には府中市の文化財に指定され、平成16年(2004)に史跡公園として整備、公開されています。

画像は南西から見た高倉塚古墳です。この古墳は古くから知られた存在であったと考えられ、江戸時代の地誌類にもその記述を見ることが出来ます。『武蔵名勝図会』には「分倍の北にて、屋敷分村の裏にあり。この辺をすべてタカクラと呼ぶ。(中略)この府中も国府なれば、国造。国司の居地にて、塚は即ち葬地の標なるべし」とあり、『新編武蔵風土記稿』には「(前略)田間に胴塚、首塚などいひて多くの小塚ありて、其數しらず、其中に就て高倉塚と呼ぶものあり、是古へ國府屯倉の蹟なるべしといへり、今按に天應元年高倉福信遷彈正尹兼武蔵守とみえしことあり、或は福信此府にありて卒し、むくらをここに埋めしも又しるべからず。」と書かれています。

画像は墳頂部のようすです。古墳の規模は推定外径約26m、高さ約2.4mで、形状は円墳であると考えられています。埋葬施設は後世の攪乱により確認されず、また古墳に関係する出土遺物としては坏片1点のみであるようです。

私はこの古墳は好きです。開発が進んで宅地化された地域にあって、住宅街にひっそりと残された高倉塚には趣があり、なぜか気持ちが落ち着くような気がします。アスファルトで固めて建物だらけにしてしまうよりも、こうして歴史と共存する町並みに風情を感じますよね。
画像は夏の高倉塚古墳です。季節によって様々な表情を見ることが出来るのも古墳の良いところかもしれません。冬には黄金色に染まる墳丘も、夏になると青々と輝く姿を見ることが出来ます。

画像は雪の高倉塚古墳です。子供たちの遊び場になってしまっています(笑)。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査団報告書』
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府の調査 30』
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- 2016/08/04(木) 00:21:15|
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「高倉古墳群」は府中市西方、京王線分倍河原駅の西側に広がる立川段丘緩斜面一帯に位置する古墳群です。その多くは墳丘が失われているものの、周溝を持つ直径9~26mの円墳で構成されています。このうち、比較的規模の大きい古墳は木棺直葬であると推測されており、発掘された周溝からの出土品から6世紀前半頃の築造と考えられています。また、規模の小さな古墳は河原石積横穴式石室を主体部に持ち、石室から出土した埋葬品から6世紀後半から7世紀にかけて築造されたと考えられています。
「高倉古墳群 25号墳」は、昭和58年(1983)6月から9月にかけて行なわれた武蔵国府関連遺跡第216次調査と、昭和61年(1986)6月から8月にかけて行われた326次調査の2度にわたり、周溝が検出されたことにより確認された古墳です。内径約15.6mの円墳であると推定されていますが、主体部は未検出で遺物の出土もないため詳細不明の古墳です。
画像の細い道が交差するあたりが古墳の中心部であると思われますが、やはり地上には痕跡は何も残されていません。。。
<参考文献>
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府の調査 18』
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府の調査 24』
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府関連遺跡調査報告 40』
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- 2016/04/10(日) 06:46:47|
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「高倉古墳群」は府中市西方、京王線分倍河原駅の西側に広がる立川段丘緩斜面一帯に位置する古墳群です。その多くは墳丘が失われているものの、周溝を持つ直径9~26mの円墳で構成されています。このうち、比較的規模の大きい古墳は木棺直葬であると推測されており、発掘された周溝からの出土品から6世紀前半頃の築造と考えられています。また、規模の小さな古墳は河原石積横穴式石室を主体部に持ち、石室から出土した埋葬品から6世紀後半から7世紀にかけて築造されたと考えられています。
「高倉古墳群 24号墳」は、平成7年8月から10月にかけて行われた武蔵国府関連遺跡第857次調査により確認された古墳です。この調査により古墳の周溝が検出されていますが、古墳の規模は不明で主体部についても検出されていないため不明、遺物の出土もないため築造年代はわからないという詳細不明の古墳です。
画像の建物の奥のあたりが古墳の跡地であると思われますが、この古墳もやはり地上に痕跡を見ることはできません。

ここを散策していてビックリしたのが画像の「八雲神社脇の元応の板碑」です。24号墳の道路を挟んで向かい側に立てられている地元では有名は板碑ですが、以前は木の根本のところに設置されて屋根がつけられていたのですが、整備されたことにより向きが変わってしまったようです。
ちなみにこの場所は発掘調査が行われており、当時地表から約50cmの深さまで埋められていた板碑の地下部分には拳大の礫がつまっていて、周辺からは常滑焼など中世の焼き物の破片が多く出土しているそうです。
府中市教育委員会により設置された説明板には次のように書かれています。
府中市指定有形文化財
八雲神社脇の元応の板碑
指定 平成元年八月二十三日
鎌倉時代の中頃から室町時代の末までのおよそ三百年の間、
府中では埼玉県秩父地方や比企地方で産する緑泥片岩を板状に
加工した供養塔婆が盛んに造立されました。このような石造の
供養塔婆を板碑と呼んでいます。
市内からは大小様々の六百基を超える板碑がみつかっています
が、この板碑は市内では最大級であり、加えて古道の傍らにあっ
て造立当時に面影を残しているとみられる貴重なものです。
この板碑は元応元(一三一九)年十一月八日に、大蔵近之という
人物が亡き父親道仏の十七年忌追善供養のために建てたものと
考えられています。
八雲神社境内のこの板碑は、風化が著しくなり現状での保存が
困難になったため、現在は複製を設置しています。
平成二十四年三月
府中市教育委員会
ちなみに前回訪れたときはこんな状況でした。レプリカではなく本物が立てられていたように思うのですが、もはや記憶が定かではありません。。。

こちらは現地説明版に掲載されている昭和10年前後の板碑です。長い歴史を感じる写真です。。。
<参考文献>
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府の調査 25』
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府関連遺跡調査報告 40』
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- 2016/04/09(土) 00:23:54|
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「高倉古墳群」は府中市西方、京王線分倍河原駅の西側に広がる立川段丘緩斜面一帯に位置する古墳群です。その多くは墳丘が失われているものの、周溝を持つ直径9~26mの円墳で構成されています。このうち、比較的規模の大きい古墳は木棺直葬であると推測されており、発掘された周溝からの出土品から6世紀前半頃の築造と考えられています。また、規模の小さな古墳は河原石積横穴式石室を主体部に持ち、石室から出土した埋葬品から6世紀後半から7世紀にかけて築造されたと考えられています。
「高倉古墳群 23号墳」は、平成7年5月から9月にかけて行われた武蔵国府関連遺跡第840次調査により確認された古墳です。この調査により、22号墳と23号墳の2基の古墳の周溝が検出されており、23号墳は内径14mの円墳であると推定されています。主体部は検出されていないため不明で、遺物の出土もないため築造年代はわからないようです。
府中市片町2丁目の画像の奥のあたりが古墳の跡地であると思われますが、この古墳もやはり地上に痕跡を見ることはできません。。。
<参考文献>
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府の調査 25』
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- 2016/04/08(金) 00:21:48|
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「高倉古墳群」は府中市西方、京王線分倍河原駅の西側に広がる立川段丘緩斜面一帯に位置する古墳群です。その多くは墳丘が失われているものの、周溝を持つ直径9~26mの円墳で構成されています。このうち、比較的規模の大きい古墳は木棺直葬であると推測されており、発掘された周溝からの出土品から6世紀前半頃の築造と考えられています。また、規模の小さな古墳は河原石積横穴式石室を主体部に持ち、石室から出土した埋葬品から6世紀後半から7世紀にかけて築造されたと考えられています。
「高倉古墳群 22号墳」は、平成7年5月から9月にかけて行われた武蔵国府関連遺跡第840次調査により確認された古墳です。この調査により、22号墳と23号墳の2基の古墳の周溝が検出されており、22号墳は内径12.2mの円墳であると推定されています。主体部は検出されていないため不明で、遺物の出土もないため築造年代はわからないようです。
この調査区からは他に奈良・平安時代の竪穴建物跡が検出されていますが、この建物跡は、古墳の周溝を意識的に避けて構築されているそうです。この当時はまだ古墳の被葬者を敬う意識が残されていたということなのでしょうか。
府中市片町2丁目の画像の周辺が古墳の跡地であると思われますが、この古墳もやはり地上に痕跡を見ることはできませんでした。。。
<参考文献>
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府の調査 25』
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- 2016/04/07(木) 01:56:33|
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「高倉古墳群」は府中市西方、京王線分倍河原駅の西側に広がる立川段丘緩斜面一帯に位置する古墳群です。その多くは墳丘が失われているものの、周溝を持つ直径9~26mの円墳で構成されています。このうち、比較的規模の大きい古墳は木棺直葬であると推測されており、発掘された周溝からの出土品から6世紀前半頃の築造と考えられています。また、規模の小さな古墳は河原石積横穴式石室を主体部に持ち、石室から出土した埋葬品から6世紀後半から7世紀にかけて築造されたと考えられています。
画像は、府中市美好町3丁目の「高倉21号墳」の跡地を西から見たところです。この21号墳は、墳丘はすでに削平されて存在しないものの、前回紹介した「高倉20号墳」と同様に武蔵国府関連遺跡の第785次調査により存在が確認された古墳で、この調査により周溝の北側が検出されています。また、その後の第1485次調査では周溝南側が検出され、規模は墳丘の内径が約13m、外周径約16mの円墳であることがわかっています。
この地点には「耳塚」と呼ばれる塚が存在したという伝承が残されています。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「田間に胴塚、首塚などいひて多くの小塚ありて、其數しらず、」と胴塚と耳塚について記されており、また『太平記』にも首塚、胴塚、耳塚が取り上げられています。耳塚は分倍河原の合戦による戦死者を埋葬した塚で、戦の際に印に首では重いので耳をそぎ、その耳を埋めた塚であるという伝承があり、また道の両側に一対に存在したからともいわれています。明治時代に削平されたとされており、周辺からは人頭骨やカメが出土しているものの、この耳塚からは何も出土しなかったようです。かつてはこの道の両側に、正確な所在地は不明としながらもこの伝承ともとに「№4-J遺跡」と「№4-I遺跡」としてこの耳塚が登録されてましたが、現在ではこの21号墳が耳塚であった可能性が考えられているようです。
この古墳の北側には墳丘の残る「高倉20号墳」が存在します。前回、この20号墳を地元の人が「耳塚」と呼んでいるという話を紹介しましたが、2基並んで存在したといわれる耳塚が果たして20号墳と21号墳であるのか、それとも21号墳ともう1基、未発見の「耳塚」が存在するのか、今後の調査の進展がとても興味深いところです。。。

JR南武線と京王線が交差する分倍河原駅前には、合戦を戦った新田義貞公の像が立てられています。
府中市により立てられた石碑には次のように書かれていました。
この像は、新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らし
た分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。
元弘三年(一三三三)五月八日、上州生品神社(群馬県新田町)の社前で鎌倉
倒幕の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、翌九日には
利根川を渡って武蔵国へ入り、千寿王(後の足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指
して南下した。一方、幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上、同月十一日、
両軍は小手指原(所沢市)で遭遇し合戦となった。合戦の勝敗は容易に決しない
まま十二日の久米川の合戦につづき新田軍有利の中で、幕府軍は陣立てのため急
ぎ府中の分倍河原まで退いた。
同月十五日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原に
おいて大いに戦ったが、泰家率いる幕府軍の逆襲にあって大敗を喫し、堀兼(狭
山市)まで敗走した。この時、新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍は灰燼に帰
してしまったといわれている。その夜、堀兼まで後退した焦燥の義貞のもとに相
模の三浦義勝らが相模の国人衆を引き連れて参陣した。幕府の本拠地である相模
の国人衆の加勢に意を強くした義貞は、翌十六日の未明に怒涛の如く分倍河原を
急襲、前日の勝利におごり油断していた幕府軍は、武具を整える間もなく総崩れ
となり、鎌倉の最後の防衛線である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍
の大勝利に終わった。多摩川を越えて鎌倉に進撃した新田軍は、鎌倉で激しい市
街戦を展開し、終に百四十年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。
こうした史実を通して市民の郷土史への理解を深めるとともに、これを後世に
伝えるため、日本の中世史上重要な意義を持つ分倍河原合戦ゆかりのモニュメン
トを制作し、この地に設置するものである。
制作は、我が国彫刻界の重鎭で文化功労者・日本芸術院会員の富永直樹先生、
題字は、府中市長吉野和男の揮毫による。
この「新田義貞公之像」が永くふるさと府中の歴史を伝え、市民の心に生きつ
づけることを願うものである。
昭和六十三年五月
府 中 市

この像はすごくリアルにできていて、近くで見るとスゴイ表情です。。。
<参考文献>
府中市郷土の森博物館『南武武蔵の古墳』
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府の調査 41』
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府関連遺跡調査報告 40』
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- 2016/03/25(金) 08:34:11|
- 府中市/高倉古墳群
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「高倉古墳群」は府中市西方、京王線分倍河原駅の西側に広がる立川段丘緩斜面一帯に位置する古墳群です。その多くは墳丘が失われているものの、周溝を持つ直径9~26mの円墳で構成されています。このうち、比較的規模の大きい古墳は木棺直葬であると推測されており、発掘された周溝からの出土品から6世紀前半頃の築造と考えられています。また、規模の小さな古墳は河原石積横穴式石室を主体部に持ち、石室から出土した埋葬品から6世紀後半から7世紀にかけて築造されたと考えられています。
「高倉20号墳」は、府中市美好町3丁目に所在する古墳です。府中市内では墳丘の残る数少ない古墳のうちの1基で、武蔵国府関連遺跡の第785次調査で周溝の南側が検出されたことにより、この塚が古墳であったことが確認されています。未調査部分である北側に残存する墳丘は、現在の地表面より約1.4mほど高い塚状の高まりとして残されており、主体部の規模によるものの、この墳丘中に主体部が遺存している可能性も想定されているようです。古墳の規模は、内径18.8mの周囲に幅4.3m前後の周溝が巡る円墳で、周溝内からは土師器の坏や壺が出土しています。
画像は南西から見た高倉20号墳です。手前の駐車場のあたりが周溝が検出された場所で、南側の奥に藪に覆われた墳丘を見学することができます。

画像は北西から見た高倉20号墳です。墳丘南側はブロック塀により直線的に切られており、これ以外の墳丘裾部も古墳の高まりを保護するためにコンクリートの土台に玉石を並べた土留により円形に削平されています。
この古墳の見学の際に知ったのですが、どうやら地元の一部の人はこの20号墳を「耳塚」と呼んでいるようです。「耳塚」は、道の両側に一対に存在したという伝承が残されており、20号墳のすぐ南側から発見された「高倉21号墳」は耳塚の伝承地とほぼ重なるような位置から検出されており、21号墳が2基存在した耳塚の1基ではないかと推定されているようです。もう1基の対になる「耳塚」がこの20号墳であった可能性も考えられるところではないでしょうか。
この耳塚をはじめ、首塚、胴塚、鼻塚、腕塚、千人塚などと呼ばれる、往古の合戦で戦死した人々の遺骸や身体の一部を埋葬したという伝承の残る塚は、日本中に無数に存在します。ただし、これらの伝承が全て史実であるとは限らず、近年の発掘調査の結果、古墳であったり中世の経塚であることが判明したという事例も少なくありません。ちなみに府中市内では、元弘3年(1333)に戦われた分倍河原合戦で亡くなった三千人の戦死者を埋葬した塚であるといわれる「三千人塚」について昭和30年と平成17年に発掘調査が行われており、伝承とは関係がなく、鎌倉時代後期に築造された墳墓に、江戸時代に塚の高まりが造られたことがわかっています。また、美好町3丁目にある「首塚」に関しては近年の発掘調査により周溝が検出され、古代に築造された古墳であることがわかっています。
室井康成著『首塚・胴塚・千人塚』には「近年では、歴史学においても、塚の伝承の真偽について検証する試みがなされている。たとえば清水克行は、戦国時代の合戦における死者の耳を埋葬したとする「耳塚」について、その伝承内容が史実を反映したものではないということを、信頼できる史料をあげながら論証した。それによると、その特徴的な形状などから「耳塚」とよばれていた由来不詳の塚が、後に歴史の知識を蓄えた人々によって、過去に起きたそれらしい合戦と結びつけられ、いつしか「史実」として定着した疑いが強いという。」と書かれています。ちなみに清水克行氏は『耳塚・鼻塚・鉄火塚 村の慰霊碑が語る戦国の伝説』のなかで19基の耳塚、鼻塚を紹介していますが、実際に戦場で削いだ耳や鼻が葬られているものであることが証明できる事例は京都方広寺の一例をのぞいてほとんどなく、考古学的に耳塚と証明されたものは一例もなかったとしており、府中市美好町の耳塚についても、「一対になって道の両側にあるから」という説が穏当な解釈であるとしています。

やはり、分倍河原の合戦で亡くなった戦死者の耳を葬った塚であるという説はあくまで史実ではなく伝承であり、一対になって道の両側に存在した2基の古墳であるという説が妥当であるようです。。。
<参考文献>
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府関連遺跡調査報告 40』
清水克行「耳塚・鼻塚・鉄火塚 村の慰霊碑が語る戦国の伝説」『慰霊の系譜 死者を記憶する共同体』
室井康成『首塚・胴塚・千人塚 日本人は敗者とどう向きあってきたのか』
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- 2016/03/23(水) 08:51:28|
- 府中市/高倉古墳群
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