
画像は、台東区上野公園5丁目にある「摺鉢山古墳」を南東から見たところです。台東区の遺跡番号3番の古墳で、東京都台東区から発行された『台東区史 通史編Ⅰ』では、上野台の古墳群の「第1号墳」としています。画像の向かって左奥が前方部、右手前が後円部です。
この上野台の古墳については、在京の考古学者の間では古くから知られていました。日本の古墳について最初に編集された地名表であるとされる明治33年(1900)発行の『古墳横穴及同時代遺物発見地名表』には「東京市下谷区上野公園内摺鉢山古墳?」と摺鉢山古墳の名前が紹介されています。その後、大野雲外氏により『人類學雑誌』第三十巻第一号(大正四年)の雑報欄に「櫻雲臺に於ける埴輪」というタイトルで、上野公園内で採集した埴輪片についてや、東京帝室博物館奉献美術館(現東京国立博物館表慶館)の建設工事により多くの遺物が出土したことについて記述されています。この大野雲外氏の埴輪採集に同行していたした鳥居龍蔵氏は、その後の大正5年(1916)に野中完一氏などとともに東京市内の古墳の調査をしており、『上代の東京と其周囲』に次のように記述しています。
「本郷の高臺を去つてそれから上野の公園に向つた。上野公園では先づ最初に磨鉢山に行つた。これは非常に巨大なる古墳であるが、大分形は壊されて居る。或は瓢箪形の古墳が壊されたものではあるまいかと思はれる。それから尚ほ上野の停車揚を見下ろす方の崖に臨んだ所に、三、四の丸塚の上を削られたものが分布して居る。其の内一個は原形を存じて居る。私は甞つて此の附近で埴輪の破片を拾つたことがある。又た大野延太郎氏も此處に埴輪の破片を拾つたことがある。尚ほ此の附近に祝部土器の破片を拾つたこともある。斯ういふやうなことから考へて見ると、埴輪の破片を出す古墳を中心として、此處に古墳の多く存在して居つたことが知られる。而も埴輪の存在して居る工合から見ると、芝の公園にある古墳と時代が同じやうに思はれる。
此處へ寛永寺が建てられない以前には、相當古墳があったものと思はれる。然るに今は惜いかな多くは亡くなり、更に寛永寺の建立に依つて此の土地が開拓せられて、猶更に無くなつてしまつたのである。(今回の震災後、此の土地が段々修理せられるに連れて、尚ほ一層それが亡くなつたのは更に惜むべきである)」(『上代の東京と其周囲』71~74ページ)
鳥居龍蔵(1870~1953)とは、考古学のみならず人類学を研究した東京の古墳研究の先駆者で、その後の大正12年(1923)に起こった関東大震災で東京が廃墟と化した際、震災によって建物が焼けたり崩れたりして元々の地面の起伏が露出したことを鳥居龍蔵氏はチャンスと捉えて、カメラを携えて東京市中の古墳と思われる塚を調査したのだそうですからびっくりです!
「摺鉢山古墳」は、昭和59年(1984)に東京都教育委員会によって正式に測量調査されており、次のように報告されています。
「古墳の規模は、前方後円墳とすれば現存長70メートル、後円部径43メートル、前方部幅は最大で23メートルを計る。後円部と道路との比高差は約5メートルである。主軸は北―70・5度―東で、前方部は西を向いている。前方部と後円部の比高差が大きく、くびれ部では後円部から前方部へ急に低くなり、6メートル×4メートルくらい現存長70メートル、後円部径43メートル高さ5m、前方部最大幅23メートルを計る。内部主体については不明である。葺石は確認できないが、埴輪片が採集されている。かつて本墳を中心として円墳群が存在していたが、現在は認められない」(『台東区史 通史編Ⅰ』73ページ)

画像は後円部を北から見たところです。階段の裾には台東区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。
摺鉢山古墳
台東区上野公園五番
摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ていると
ころから名付けられた。ここから弥生式土器、埴輪の
破片などが出土し、約千五百年前の前方後円形式の古
墳と考えられている。
現存長七十m、後円部径四十三m、前方部幅は最大
部で二十三m、後円部の道路との比高は五mである。
丘上は、かつての五條天神、清水観音堂鎮座の地で
あった。
五條天神の創立年代は不明であるが堯恵法師は『北
国紀行』のなかで文明十九年(一四八七)に忍岡に鎮座
する五條天神を訪れた際、
契りきて たれかは春の
初草に 忍びの丘の 露の下萌絵
と、うたっている。現在、上野公園塩忍坂脇に鎮座。
清水観音堂は、寛永八年(一六三一)寛永寺の開祖天
海僧正により建立されたが元禄年間(一六八八)~(一七
〇三)初めごろ寛永寺根本中堂建立のため現在地に移
転した。
現在、丘上は休憩所となっているが、昔のまま、摺
鉢の形を保っている。
平成六年三月
台東区教育委員会

画像は、墳丘上のようすです。かなり削平されているようで広々としています。

墳丘上から前方部を眺めてみると、かなりの比高差があるのがわかります。築造当時はもっと大きな前方後円墳だったのかもしれませんね。。。

私が、上野公園内で一番面白いと思う場所がこの「上野大仏」です。
この大仏はなんと、大正12年の関東大震災によって頭部が崩落してしまったそうで、その後は寛永寺に保管されていたものの、今度は第二次世界大戦時に金属供出により胴体が解体。昭和47年の春に尊顔がこの地に祀られて再建された、ということのようです。大仏様の巨大な顔面のみが祀られているこの風景はなかなか衝撃的だと思うのですがいかがでしょうか。。。
<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都台東区役所『台東区史 上』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都台東区『台東区史 通史編Ⅰ』
現地説明版
- 2015/01/28(水) 01:50:41|
- 台東区/上野台古墳群
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画像は台東区上野公園、「東京国立博物館」の庭園内に存在する「築山」を南西から見たところです。
さて、画像の築山を発見したのはもうずいぶん前になります。国立博物館の東側に所在するこの築山は大きな円形の塚で、南側には前方後円墳の前方部にあたるような方形の盛土も見られ、その姿はまるで世田谷区野毛にある「野毛大塚古墳」を小さくしたような感じです。上野公園内には「上野台古墳群」と呼ばれる古墳群が存在したとされており、前方後円墳ではないかと考えられている「摺鉢山古墳」が残存しているほか同じ東京国立博物館の敷地内には「表慶館古墳」が存在したといわれています。したがって、この築山も古墳である可能性はないのだろうかと期待が膨らみ、館内の女性スタッフにお伺いしたところ、そのうちの一人が「古墳だという話を聞いたことがある」というお返事。やっぱりと思い色々調べてみたのですが…

その後、図書館等でいくら調べてもこの塚に関する記述はまったく発見できず、鳥居龍蔵氏により大正13年に発行された『武蔵野及其周囲』や、昭和2年に発行された『上代の東京と其周囲』などは購入してまで調べましたが、これまたなんの記述もなし、いくらなんでもあの鳥居龍蔵氏がこれだけの塚を見落とす筈はないし、おかしいな?と思いながらもしばらく放置していたのですが…

昨年、再度東京国立博物館を訪れる機会があり、事情を知る男性スタッフにお話を聞くことができたのですが、これによると当時に勤続していた先輩スタッフからの口承として、「昭和44年(1969)の東洋館の建築の際、基礎工事のために地面を深く掘り下げており、その残土を"平らな地面"に盛ったものがこの築山である」とのことでした。鳥居竜蔵氏の調査は大正時代ですから、昭和44年に作った築山が把握されているわけはないし、結論としては「なーんだ、やっぱり古墳じゃなかったのか、ちゃん、ちゃん」ということのようです。(笑)
ただし、博物館で配布されている『東京国立博物館 庭園散策マップ』には「庭園は何度も改修を重ねており、今ある茶室などものちに移築されたもので、当時の面影を残しているのは、東洋館北側のこんもりと高い築山、中央の池のごく一部分、そして庭の一角の古い墓石のみです。」などと書かれており、江戸時代には既にこの築山が存在していたとしています。このあたりは、正確な情報が記載されてほしいところですよね。。。
- 2015/01/27(火) 08:40:30|
- 台東区/上野台古墳群
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「表慶館古墳」は、現在の「東京国立博物館表慶館」の敷地に所在したと考えられている古墳です。画像は、台東区上野公園にある「表慶館」を南から見たところで、東京都台東区から発行された『台東区史 通史編Ⅰ』では画像の中央あたりが推定地とされています。台東区の遺跡番号5番の古墳で、『台東区史 通史編Ⅰ』では上野台の古墳群の「第4号墳」とされています。
東京都台東区より発行された『台東区史 通史編Ⅰ』には次のように書かれています。
第四号墳(表慶館古墳)
寛永寺「中堂」の西北方、東京帝室博物館奉献美術館(現、東京国立博物館表慶館)の敷地より、明治35年(1902)に4月25日に古墳の副葬品と考えられる遺物が出土し、その地に古墳が存在していたことが明らかになった。出土遺物は、杯残片1、直刀1括(3)、鍔残片3、鉄蔟1、同残片3、辻金具残片1であった。
杯は、土師器の口縁部片で歴史時代のものとされている。直刀は、鉄蔟(1)現存長10.3センチの切先部残片、(2)現存長31.6センチの刀身片、(3)現存長48.4センチの刀身片である。鍔は、鉄製で3点あり、現存長径3.5~7.0センチ、六透鍔である。鉄蔟は、現存長5.6センチの箆被部の破片であるが、ほかに残片が3点あると言う。辻金具は、鉄地金銅張で、鉢部に四状の凹線がみられ、現存高2.7センチである。このほか、大野雲外が和田千吉より「刀剣玉類」の出土を聞いているので、玉類の出土も考えられるが現存していない。なお、以上の遺物出土地を第4号墳としてきたが、複数古墳の副葬品として捉えることも出来るであろう。(『台東区史 通史編Ⅰ』76~77ページ)
残念ながらこの「表慶館古墳」も跡形もなく消滅しており、痕跡を見ることはできません。。。
<参考文献>
東京都台東区役所『台東区史 上』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都台東区『台東区史 通史編Ⅰ』
現地説明版
- 2014/04/11(金) 01:41:22|
- 台東区/上野台古墳群
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「蛇塚古墳」は、現在の「東京都美術館」の敷地内に所在したと考えられている古墳です。画像は、台東区上野公園にある「東京都美術館」を北東から見たところで、東京都台東区から発行された『台東区史 通史編Ⅰ』では画像の中央あたりが推定地とされています。台東区の遺跡番号13番の古墳で、『台東区史 通史編Ⅰ』では上野台の古墳群の「第3号墳」とされています。
この「蛇塚古墳」については、古くは江戸時代の地誌、『江戸名所図会』に塚状の地形が描かれており、これが「蛇塚古墳」の位置であると考えられています。『都心部の遺跡 1985』には、昭和57年(1982)から昭和59年(1984)にかけて東京都教育委員会により実施された「都心部遺跡分布調査」により、明治17年頃の五千分の一東京図に墳丘が認められる、としておおよその推定地を記されています。
東京都台東区より発行された『台東区史 通史編Ⅰ』には次のように書かれています。
第三号墳(蛇塚古墳)
『江戸名所図会』「寛永寺」の図中の「二本杉」の前方「弁天」社などをのせている高まりが本墳の位置と推定され、現在は東京都美術館となっている。都立美術館の前身、東京府美術館の南に接して「二本杉原運動場」があったが、その運動場と美術館の中間に「蛇塚」と俗称されていたところがあった。そこには複数の大石がおかれ、周囲より一段と高まりを見せていた。大石が古墳の主体部用材か判断することができなかったが、付近より内面に青海波文のみられる須恵器片が採集されていた。現都立美術館の建築に伴って「蛇塚」はとり壊され、大石の所在は不明になった。本墳の北側には第四号墳の所在地である東京国立博物館があるので同一グループの古墳と推定される。なお、明治時代の地形図にその位置が記録されている。(『台東区史 通史編Ⅰ』74〜76ページ)
現在この「蛇塚古墳」は消滅しており痕跡を見ることはできませんが、副葬品と考えられる遺物が出土していることから主体部の存在は明らかであり、出土した遺物により6世紀代の所産であるとされています。
<参考文献>
東京都台東区役所『台東区史 上』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都台東区『台東区史 通史編Ⅰ』
- 2014/04/08(火) 02:27:02|
- 台東区/上野台古墳群
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「桜雲台古墳」は「摺鉢山古墳」の東方、現東京文化会館の敷地内に所在したと考えられている古墳です。「摺鉢山古墳」とともに埴輪片が採集されていることから、築造年代は6世紀代であると推定されており、円墳であると推定されています。人類学者の鳥居龍蔵氏(1870~1953)は、『上代の東京と其周囲』に「上野の停車揚を見下ろす方の崖に臨んだ所に、三・四の丸塚の上を削られたものが分布している。」と記述していることから、この桜雲台古墳以外にも幾つかの古墳が存在した可能性も考えられています。
画像は、台東区上野公園内の、「桜雲台古墳」があったと推定される「東京文化会館」を南東から見たところです。台東区の遺跡番号14番の古墳で、東京都台東区から発行された『台東区史 通史編Ⅰ』では、上野台の古墳群の「第2号墳」としています。

昭和57年(1982)から昭和59年(1984)にかけて、東京都教育委員会により「都心部遺跡分布調査」が実施されています。「桜雲台古墳」については『都心部の遺跡 1985』に、「明治17年頃の五千分の一東京図に墳丘が認められる」としておおよその推定地を記しています。これによると「東京文化会館」の裏側にあたる、画像の周辺を古墳の跡地としているようです。
偶然にも、東京国立博物館に公開予定の「キトラ古墳壁画」の説明板が立てられていました!
<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都台東区役所『台東区史 上』
東京都台東区『台東区史 通史編Ⅰ』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
- 2014/04/06(日) 03:21:53|
- 台東区/上野台古墳群
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