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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「新宿区市谷本村町の謎の前方後円形」

 これまで、東京を中心に都心部の古墳や塚を巡ってきました。

 言わずと知れた大都会である東京、特に23区内では、すでに多くの遺跡が開発により消滅しています。
 江戸期から昭和にかけての地誌類や伝承、地名などから、かなり多くの塚の存在を確認することはできるのですが、残念ながら所在地がまったくわからず、痕跡を見つけることができなかった古墳や塚は少なくありません。

 そんな中、失われた古墳や塚の正確な位置を知る手がかりとしてお世話になったのが、明治以降に作成された古地図や、昭和の空中写真です。特に戦後の空中写真は、まだ開発が進む以前の東京の地形を詳細に見ることができ、多くの塚の位置や形状を知るうえで役立ちました。
 今や、地域の図書館に足を運ばなくても、ネットで各年代の空中写真を閲覧することができるようになりましたし、便利な時代ですよね。

 そんな中、一体この形状はなんだろう?と不思議に思いながらも、正体の分からなかった地形も少なからず存在します。最初の画像も、そんな中の一つです。


「新宿区市谷本村町の謎の前方後円形」
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1179130&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)9月8日に米軍により撮影された東京西北部の空中写真です。わかりやすいように周辺を切り取っています。
 画像の中央に、まるで前方後円墳を思わせる形状がはっきりと写っています。場所は新宿区市谷本村町5丁目42番地、靖国通り沿いの合羽坂下交差点の北側で、現在は中央大学法科大学院の1号館が建っている場所です。

 これ、空中写真を眺めていて偶然見つけたのですが、最初は、「マママママジかよ」とびっくりしました。
 『東京都遺跡地図』で確認してもこの場所に古墳は登録されていないようなのですが、南に200mほどの「三栄町遺跡」や「荒木町遺跡」からは発掘調査により埴輪片が出土しており、古墳の推定地とされています。
 ひょっとしたらこの地形も前方後円墳の残骸なのかもしれないし…」と半信半疑ながらも調べてみました。


「新宿区市谷本村町の謎の前方後円形」

 画像は現在の中央大学法科大学院です。
 おそらくは、このあたりに前方部が存在したはずです。
 段丘の裾のあたりで、周辺は一段高くなっているのですが、中央大学の敷地は削られてしまったのか平らに整地されています。


「新宿区市谷本村町の謎の前方後円形」

 後円部にあたるところは防衛省の敷地内で、かなり高くなっています。
 やはり古墳らしき形状は存在しないようです。
 もしこの場所に前方後円墳が存在したのであれば、例えば「××塚」や「××山」などの名称で呼ばれていたとか、また遺物の伝承や祟りの言い伝えのようなものが残されているのではないかと考えましたが、区内の図書館で調べたところではうまく見つけることができませんでした。
 最終的に、新宿歴史博物館を訪ねて、学芸員の先生にお聞きしたりと色々調べてたのですが、防衛省の敷地は『東京都遺跡地図』では新宿区の遺跡番号61番の「市谷本村町遺跡」として登録されています。発掘調査も行われており、『尾張藩上屋敷跡遺跡』の名称で報告書が刊行されています。
 古墳らしき地形に近いところでは「第5地点」として発掘調査が行われており、これはちょうど後円部の東側の、後円部に重なるか重ならないか、というあたりです。
 この調査では、残念ながら古墳に関係する遺構はまったく検出されず、また遺物も採集されなかったようです。
 やっぱり古墳じゃないのかな?


「新宿区市谷本村町の謎の前方後円形」
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=694946&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和11年(1936)6月11日に陸軍により撮影された同地点の空中写真です。こちらもわかりやすいように周辺を切り取っています。
 実は国土地理院ウェブサイトを後日よく見てみると、先の写真よりも11年も古い、昭和11年の写真も公開されているのです。笑。
 この時期には、前方後円形の地形は見られないようなので、やはり昭和22年の地形は古墳ではなく、この時期にたまたまなんらかの築山が存在したのか、上空からの光景が偶然前方後円墳のように見えただけなのかもしれません。
 結論として、昭和22年の空中写真を見てびっくりして、ワリと一生懸命調べてしまったものの、古墳でもなんでもなかったという、慌て者の私でした。(とほほほ。。。)


「新宿区市谷本村町の謎の前方後円形」

 画像は、中央大学西側の「合羽坂」です。
 この地域の低地は江戸時代には水田地帯で、大小多くの池があったそうです。その池に住むカッパが夜の坂に出てきて通行人を驚かせたことから、カッパ坂と名付けられ、後に「合羽」の字を当てたそうです。
 ただし、これは実はカッパではなくカワウソで、ケロリとしてとぼけているカワウソから、架空のカッパが生み出されたものと言われているようです。
 『新撰東京名所図会』には「合羽坂は四谷市片町の前より本村町に沿ふて仲之町に上る坂路をいふ。昔時此坂の東南は蓮池と称する大池あり。雨夜など獺しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思皮脂より坂の呼名となりしが、後転じて合羽の文字を用ひ来利子といふ。」と書かれています。

 ニホンカワウソはすでに絶滅種となっているようですが、渋谷川では明治の始め頃にカワウソがとれたという記録があるそうです。
 都内にカワウソなんて、今となってはまったく信じられませんが、栃木県那須町や対馬では目撃例もあるようですし、どこかで生き残っていてくれたらいいなああと切に思います。


「新宿区市谷本村町の謎の前方後円形」

 坂の上には「合羽坂」の石碑が。

<参考文献>
芳賀善次郎『新宿の散歩道』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
東京都埋蔵文化財センター『尾張藩上屋敷跡遺跡 Ⅲ』


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  1. 2019/10/19(土) 23:31:04|
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「下戸塚遺跡(下戸塚古墳群)」

下戸塚古墳群 1号墳

 「下戸塚古墳群」は、新宿区西早稲田3丁目の「No.49-4遺跡(下戸塚遺跡)」内で確認された2基の古墳の総称です。『東京都遺跡地図』には古墳としての登録はなく、新宿区の遺跡番号49番の遺跡として「No.49-4遺跡(下戸塚遺跡)」が登録されています。
 この遺跡の南東側にある「穴八幡宮」は、その名称の由来となった横穴墓が存在したといわれ、また現在の早稲田大学9号館の位置に所在したとされる「富塚古墳」は前方後円墳だったともいわれており、江戸時代の地誌類には、この周辺に古来古塚が多くあり、これを「十塚」と呼んだのが「戸塚」になったとする説が記載されるなど、多くの古墳が存在したのではないかと想定される地域です。

 下戸塚遺跡の環状第四号線(西早稲田地区)の発掘調査は平成11年に行われており、調査当時すでに墳丘は失われていたものの、周溝が検出されたことにより古墳の存在が確認されています。画像は「下戸塚古墳群 第1号円墳」の跡地を南東から見たところです。
 第1号円墳と第2号円墳は約2mの間隔をあけて南北に配置されており、このうち南側にあるのが第1号円墳です。径9.24mと小規模な円墳で、北東側には幅87cmの陸橋部が設けられています。周溝内からは土師器坏が1点出土しており、この遺物により古墳の築造は5世紀末から6世紀初頭と推定されています。

 画像は「下戸塚古墳群 第2号円墳」の跡地を南東から見たところです。
 第1号円墳とともに主体部が未検出で詳細はわからないようですが、規模は径10.38m、周溝の幅48~90mの陸橋部付の円墳で、周溝内から採集された土師器坏や土師器甕より5世紀末から6世紀初頭の築造と推定されているようです。

下戸塚古墳群 2号墳

 この周辺地域の丘陵上に未確認の古墳が存在した可能性は高いのではないかと思われます。開発の進んだ新宿区内で発掘調査が行われるにはなかなかハードルが高いかもしれませんが、今後の調査の進展を楽しみにしたい地域です。。。

<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
東京都建設局・財団法人新宿生涯学習財団『下戸塚遺跡Ⅳ』


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  1. 2017/10/23(月) 00:38:32|
  2. 新宿区の古墳・塚
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「富塚古墳」その2

「富塚古墳」その2

 前回に続き、「富塚古墳」の続編です。
 画像は、新宿区西早稲田3丁目の水稲荷神社社殿を東から見たところです。この社殿の背後に富塚古墳の石室が移されており、また境内に高田富士が移築されています。


「富塚古墳」その2

 画像が、水稲荷神社本堂の西側に移築された、現在の富塚古墳のようすです。(古墳と呼んでよいものか躊躇するところですが、墳丘らしき前には一応「富塚古墳」の立て札もあったので。。。)
 一見すると、横穴式石室が開口した円墳のようにも見えますが。


「富塚古墳」その2

 鳥居をくぐってみたところ。確かに、古墳の石室を構築した石材で造られているようではあるのですが、富塚古墳削平の際に学術的な調査は行われなかったようなので、残念ながらこの石室は正確に復元されたものではないようです。石室を復元したというよりも、小稲荷が祀られていた狐穴を復元した、という表現が正しいのかもしれませんね。


「富塚古墳」その2

 狐穴のようす。鳥居をくぐって狐穴を覗くと穴の中にも鳥居が立てられているという、いったいどうやってお参りしたらよいのか迷ってしまいました。笑。



「富塚古墳」その2

 溶岩で固められた塚の前には「戸塚の町名の起源になった富塚古墳」という立て札が見られます。
 新宿区や教育委員会等による説明板は立てられていないようです。。。


「富塚古墳」

 塚上には祠が祀られています。
 そもそも富塚古墳は前方後円墳であり、高田富士は前方部を改変して築造されたといわれているようですので、この水稲荷神社裏の塚は「富塚古墳の後円部」ということになるのか!などと考えながらお参りしました。。。


「富塚古墳」

 同じく塚上に祀られた祠とお狐さまたちのようすです。
 東京都内でも大都会だと思われる新宿区にあって、この場所はまったくの異空間でちょっと怖いくらいです。。。


「高田富士」

 さて、画像が移設された現在の富士塚です。

 安永8年(1779)に富士信仰の行者である高田藤四郎により築造されたという高田富士は、昭和40年(1965)に早稲田大学校域拡張工事により敷地が買収されてしまいます。これには当時の富士講や水稲荷神社氏子も反対したようですが、残念ながら江戸の富士塚第一号である高田富士は崩され、富士塚直下に葬られていた高田藤四郎の墓である「日行墓」も移されてしまいます。するとその後、数年を経ずして水稲荷神社神主が死亡。富士塚取り壊し工事に関係した工事請負人、施行責任者も死亡。そして、日行墓の位置には大学の商法学部教授の研究室がつくられたようですが、この研究室に属する教授三名が次々と他界したことで、因念めいたことを感じた教授会は研究室の移転を考えているという噂が流れたといわれています。
 果たしてこれが、長い苦労の末に富士塚築造の大願を達成し、その山裾に埋葬されてまで富士塚が永遠に残ることを願望したという藤四郎の因縁か、それとも破壊された古墳に埋葬された被葬者の祟りなのか、真相はわかりませんが、当時の富士講の信徒たちは、何千人かの信徒が心を込めて築き上げた信仰のシンボルを、金権を以て奪い取った者へ下された、仙見大菩薩の罰ではないかと語っていたそうです。。。


「高田富士」

 富士塚は、富士祭が毎年7月の海の日と前日の日曜の2日間行なわれ、この2日間だけ富士塚が開放されています。早速、富士塚に登ってみましょう。
 入り口には立て札があり、「高田富士 安永九年(一七八〇年)先達日行青山藤四郎翁により築かれた江戸市中最大最古の富士塚」と書かれています。


「高田富士」

 富士祭の日にのみ立てられていると思われる説明板には次のように書かれていました。

    高 田 富 士
 安永九年、一七八〇年、大先達、日行藤四
郎が身禄同行という富士信仰の人達(富士講
)と白い行衣を身につけて、富士山頂の岩や
土を運んで、九年五ヶ月の末、ついに富士塚
を築きました。藤四郎の富士登拝は、五十八
回ともいわれています。
 御山は高さ十メートル、江戸の人造富士中
最大最古のものです。
江戸の町民で富士山に行きたくとも行けない
人達は、この人造富士山に登って、富士講で
富士登山すると同じ心境を味わうことができ
るということで大変な人気でした。これのま
ねをして江戸のあちこちで富士塚が造られま
した。
 御祭日は七月十六日、ふもとに浅間大神を
祀り五合目に小御岳大神を祀っており、毎年
富士祭として三日間、御山登拝ができます。

順路にそって足元に気をつけて登ってくださ
い。道のない所は危険ですから行かないで下
さい。


「高田富士」

 登山道の途中にも祠が祀られています。


「高田富士」

 案内に従ってさらに登ります。
 考えてみれば、富塚古墳の前方部を改造したのが富士塚であるということですから、この富士塚はものすごく薄まった元前方部でもあるわけです。


「高田富士」

 お。ようやく山頂が見えてきました。


「高田富士」

 山頂に到着。日頃の運動不足がたたって、かなりハアハアいっています。


「高田富士」

 山頂には祠が祀られています。
 山頂では鐘を鳴らすようになっているのですが、私は一人だったので鐘を鳴らす姿を自分で撮影することもなく、鐘の写真はありません。何回か叩くようになっていたのですが、何回叩いたかは忘れてしまいました。。。


「高田富士」

 山頂から見下ろしてみたところです。かなり高さがあることがわかると思います。
 富士塚の全貌を撮影出来るスペースを見つけることが出来なかったのですが、かなり大きな富士塚であるようです。


「高田富士」

 下山した右手に胎内が。
 なんだか開口した横穴式石室みたいですね。元前方部ですからね。

<参考文献>
芳賀善次郎『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』
(財)日本常民文化研究所『富士講と富士塚 ―東京・神奈川―』
東京都新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり 戸塚・落合編』
現地説明版


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  1. 2017/10/22(日) 00:52:17|
  2. 新宿区の古墳・塚
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「富塚古墳」その1

宝泉寺

 画像は、新宿区西早稲田1丁目にある「宝泉寺(ほうせんじ)」を南東から見たところです。
 このお寺は、西暦810年頃の草創と伝えられ、また承平年間(931-938)に平将門の乱を平定した藤原秀郷の草創とも伝えられる天台宗の寺院です。かつては、早稲田大学キャンパスの大部分が宝泉寺の寺領であり、境内裏手にある早稲田大学9号館の場所には、戸塚の地名の起源ともいわれる「富塚」と呼ばれる古墳が所在したといわれています。
 『東京都遺跡地図』には、「富塚古墳」の名称での記載はないようですが、新宿区の遺跡番号49番に「下戸塚遺跡」が登録されており、「遺跡の概要」の欄に、弥生時代の方形周溝墓とともに「円墳」が記載されています。


宝泉寺と早稲田大学9号館

 現在の町名である「西早稲田」は昭和50年の新住居表示により生まれた町名で、「早稲田」の西にあたるうえに、早稲田大学があることからつけられた名称といわれています。早稲田大学の名称は、蘭学者の松本順が東京初の洋式病院と洋学校である蘭疇学舎を現在の早稲田鶴巻町に建て、その後、東京専門学校が大学にする際に縁の深い地名である早稲田の名をとったものであり、江戸時代まではこの一帯は「戸塚村」の一部であったものの、戸塚」の地名は皮肉にもこの早稲田大学が元になって消えてしまったようです。
 元々の村名である「戸塚」の地名の由来は諸説あり、江戸時代の地誌『江戸名所図会』には、宝泉寺境内に「富塚」という塚があったことから地名となり、その後、富を戸にしたということが書かれています。また、同書や『江戸砂子』には、旧岡本氏某の邸内に古い塚があり、そこに白狐が住んでいたことから「狐塚」と呼ばれていたが、この狐塚が戸塚になったとも書かれています。
 『高田雲雀』には、この富塚に狐の形の石の扉があったから、とも書かれているようです。また『江戸名所図会』には、この周辺に古来古塚が多くあり、これを「十塚」と呼んだのが「戸塚」になったとする説もあり、また同書の「百八塚」の項には「供養塚 昔富塚と号消しも、富民の制する所なればかの供養塚を富塚と唱へし(後略)」と、喜久井町に所在した「供養塚」という塚を「富塚」と呼んでいたのが「戸塚」になったとする説もあるようです。またほかに、穴八幡の社伝には、源頼家が東征した凱旋の際にこの地にかぶとを埋めたことから「かぶと塚」と呼んだものから名づいたともあるようです。
 いずれにせよ、かつてはこの周辺に数多くの古塚が存在しており、そのうちの1基である「富塚」と呼ばれる古墳が「戸塚」の地名の由来となっているという説は、信憑性の高い話ではあるようです。

 宝泉寺墓地の背後に見えるのが現在の早稲田大学9号館です。この建物の真下に富塚古墳は存在したと思われます。この場所はかつては南側に続く高台と同じ高さだったようですが、この9号館が掘り下げて建てられていることから、地中に残されていたはずの周溝等も含めて古墳の痕跡は何も残されていないのかもしれません。。。


早稲田大学9号館西側、「富塚跡」の説明板

 早稲田大学9号館西側の築山には、新宿区教育委員会による「富塚跡」の説明板が設置されています。
 この説明板には次のように書かれていました。

新宿区登録史跡
富 塚 跡
所 在 地 新宿区西早稲田一丁目六番地
登録年月日 昭和六十二年三月十二日

 このあたりは、昭和四十一年(一九六六)
に甘泉園内に移転するまで水稲荷神社の敷
地であった。神社の境内には、富塚という
古墳(円墳)があった。
 戸塚の地名の起源は、この付近に塚(古
墳)が多く「十塚」・「百八塚」などと呼
ばれたからとか、そのうちの一つである富
塚に因んだ、とかいわれている。
 水稲荷神社移転時に崩され、整地された
が、地名の由来を物語る史跡として貴重で
ある。
 平成三年十一月
        東京都新宿区教育委員会



富塚古墳

 早大敷地内の説明板の記述では富塚は円墳とされており、『東京都遺跡地図』にも円墳の存在が記載されているようですが、言い伝えでは富塚は前方後円墳だったといわれています。江戸時代に、この富塚古墳を流用して「高田富士」と呼ばれる富士塚が造られていますが、この富士塚は古墳の前方部を流用して築かれたといわれており、当時の高田富士の写真を観察したところでは、確かに大きな富士塚の横に小さなマウンドを確認することができます。
 画像は、往時の高田富士のようすですが、当時の水稲荷神社境内の略図でも前方後円形の築山を確認することができるようです。富塚古墳は前方後円墳だった可能性が高いのではないでしょうか。
 

富塚古墳

 「高田富士」は、安永8年(1779)に高田藤四郎という富士信仰の行者により築造されたとされる富士塚で、高さ10メートルほどもある大きな塚は、段丘下の宝泉寺本堂から見上げるとかなり巨大な山に見えたといわれています。安永8年に刊行された『大抵御覧』には「かたはらの山をきりたいらげ、その土を以て新規に山のかたちをきづく。それより老若男女を論ぜず、うぶ子はふ子にいたるまで、われもわれもと土をはこぶ。力すぐれし壮士は十人前も一人ではこび、或は一もっこう或は二もっこう、又やごとなき姫御前も紙につつみてそれぞれに多少を論ぜず、土持してだんだんつもる。一簀の功、終に九仭の山となれり。」と、富士塚築造当時のようすが書かれています。また、その50年後に刊行された 『新編武蔵風土記稿』の下戸塚村の項には「浅間社」として「高さ三丈余仮山上にあり、安永八年の勧請にて山は奇石を畳みて築立巧を極めたり、毎歳六月十五日より十八日まで登山を許し参詣の人にきはへり、里人高田富士と云へり。」とあり、このころには高田富士はかなり知られた存在になっていたことがわかります。
 また、後円部には洞窟があり、この洞窟には小稲荷が祀られていたといわれていますが、これは石室を利用したものであったと考えられているようです。


日行墓

 高田富士を築いたという高田藤四郎は、宝永三年(1706)に京都市の北部で生まれ、11歳で江戸に上り、植木屋をしながら戸塚で暮らしていたといわれています。16歳で身禄の弟子となり、師と別れてからは身禄同行という富士信仰の結社を組織しており、これが「富士講」です。藤四郎は57回もの富士山登拝を行い、正保三年(1646)、年106歳で富士山の三味堂で静かに入定したといわれています。
 藤四郎は日行ともいい、墓は宝泉寺墓地内にあります。画像はこの「日行墓」です。

 新宿区原町1丁目の天祖神社の西には昔報恩寺があり、このお寺には江戸時代に「竜の玉」と「雷の玉」と呼ばれる珍宝があったといわれています。竜の玉は直径15cmほどの死んだ竜の卵で、雨の降る前には湿気を帯びて大きくなるといい、雷の玉は直径約9cmで乳白色にうす藍色とねずみ色、うす茶色の木目のような模様があり、光沢があったそうです。このうちの雷の玉は戸塚で拾ったものといわれ、富塚古墳に落雷した時に副葬品の飾り玉が崩れた玄室から飛び出したものだろうといわれているそうです。
 報恩寺は、明治2年頃に下落合の薬王院に合併して廃寺となっており、この2つの玉は残念ながら行方がわからなくなっているようですが、とても興味深いお話です。


水稲荷神社

 富塚古墳(高田富士)を含む付近一帯はその後、早稲田大学の校地として買収され、時に昭和38年(1963)、古墳は高田富士もろとも崩されてしまいます。古墳の東隣にあった水稲荷神社が西方の甘泉園に移転したことにより、富塚古墳の石室を利用した小稲荷と高田富士も移築されています。
 この際、大学は水稲荷神社の敷地と甘泉園の土地の一部を交換するようなかたちで取得したといわれ、この土地交換に際しては、水稲荷神社氏子の反対運動などもあったようです。古墳が旧地に残されていれば、新宿区内唯一の残存する前方後円墳!となっていただけに、移転による古墳の削平はとても残念ですね。。。
 画像は、新宿区西早稲田3丁目の現在の「水稲荷神社」です。元は早大商法研究室のところにあり、昭和38年(1963)7月25日にこの場所に移転したものです。この神社裏には、富塚古墳の石室の石材を利用した小稲荷が移されており、また境内東には、富塚古墳を流用して築造されたという「高田富士」が移されています。

 以下、次回の「富塚古墳 その2」に続く。。。

<参考文献>
芳賀善次郎『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』
東京都新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり 戸塚・落合編』
現地説明版


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  1. 2017/10/21(土) 00:34:46|
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「穴八幡宮」

「穴八幡宮(横穴墓跡)」

 画像は、新宿区西早稲田2丁目の「穴八幡宮」を東から見たところです。

 この神社の祭神は応神天皇、仲哀天皇、神宮皇后で、寛永13年(1636)、武士、松平左衛門尉直次が射術の練習のために的場を造営、弓矢の守護神である八幡神の小祠を営んだことに始まるといわれています。
 そして、その後の寛永18年(1641)、良昌僧都が放生寺造営のため山麓を工事中に洞穴を発見、この穴の奥の台の上に高さ10センチほどの金銅製の阿弥陀如来像があり、その前に小さな瓶が一つあり、左右に多くの人骨があったといわれています。
 この穴は奈良時代初期に築造された横穴墓ではないかと考えられているようです。


「穴八幡宮(横穴墓跡)」

 画像は、「出現殿」を東から見たところです。神武天皇遥拝所脇から放生寺側へ降りていく石段の途中の玉垣に囲われた建物で、金銅製の阿弥陀如来像が出現したという神穴の所在地です。
 この穴八幡は、はじめは「高田八幡」といったそうですが、横穴が発見されてから参拝人が多くなったことから「穴八幡」と呼ぶようになったといわれています。。。


「穴八幡宮(横穴墓跡)」

 神穴の場所を隙間から覗いてみました。神穴の周囲は石造で構築されており、その全面に拝殿が設けられ、合わせて出現殿とした建築です。この中に神穴が整備されているようですが、残念ながら公開は一切しないということです。


「穴八幡宮(横穴墓跡)」

 穴八幡宮は元々大きな前方後円墳である、という説もあるとても興味深い場所です。この前方後円墳説の真相はよくわからなかったのですが、横穴は横穴墓ではなく、前方後円墳の横穴式石室だったのでしょうか。
 画像は、まだ見学することが出来た昭和の時代の横穴のようすです。この横穴を見学できるチャンスはどうやら皆無であるようですが、う〜ん、見たかった。。。

 この横穴古墳近くには、江戸時代には「光り松」という名木があったそうです。
 時に寛永13年(1636)、穴八幡の本殿落成の祝賀の夜のことですが、神前で風流の踊りが行われた10時から11時にかけての頃、この松から提灯ほどの光るものが飛び出して神社の後ろに落ちたと言います。集まっていた人々はびっくりしたようですが、これは神霊が光ったのだろうといって伏し拝み、その後参拝者が次第に増えていったそうです。
 この松は、それ以降毎夜青白い光を放つことから「光り松」と呼ばれて名木となり、東都十八名松の一つとして有名になったそうです。これは、地表から多量の地電流が発生しているにもかかわらず十分な放電が行われない場合に、尖った物体の先端などで、静電気などがわずかずつ放電して発光するというものだそうですが、私は昼間に訪れたせいか、子の放電現象を見ることはありませんでした。
 残念ながらこの名木は延享年間(1744~1747)に枯れ、二代目も昭和20年の戦災にあって枯れ、現在は東側から上る石段右上に三代目が植えられています。
 

「穴八幡宮(横穴墓跡)」

 境内の拝殿に向かう右手の水屋の中に石布袋像の手洗鉢があります。これは、かつては横穴墓の右傍にあったもので、昭和43年にこの場所に移されており、新宿区の文化財に指定されています。慶安二年(1649)の銘があり、元江戸城吹上御苑にあったもので、第四代将軍家綱が拝殿落成時に奉納したものといわれています。手洗鉢としては新宿区最古とされ、特殊な形状も貴重なものであるようです。


「穴八幡宮(横穴墓跡)」

 穴八幡宮横の「放生寺」です。
 横穴から出土したという金銅製の阿弥陀如来像はこの放生寺に奉納されたと言われていますが、残念ながらその所在はわからなくなっているようです。

<参考文献>
羽賀善次郎『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』
新宿区教育委員会『新宿区町名誌 ―地名の由来と変還ー』
新宿歴史博物館『ガイドブック新宿区の文化財 史跡(東部編)』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2017/10/20(金) 00:05:59|
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