
調布市布田6丁目では、平成23年(2011)に行われた、上布田遺跡第103地点の宅地造成に伴う調査により、古墳の周溝が検出されています。画像はこの古墳の所在地の現在のようすを西から見たところです。
この古墳は、周溝の北西部にあたる、古墳全体の約1/4ほどが検出されています。外周径は約28mほどの円墳と推定されており、埋葬施設等の遺構は未確認であるため、詳細は不明であるようです。順当であれば「上布田5号墳」となるのではないかというこの古墳に、現状はまだ名称が付けられていないようです。
調査区は当然ながら宅地化されており、古墳の痕跡は地上に見ることは出来ません。。。
<参考文献>
調布市教育委員会『埋蔵文化財年報 ―平成23年度版―(2011)』
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- 2017/03/29(水) 23:33:00|
- 調布市/上布田古墳群
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「上布田古墳群」は、多摩川中流域左岸の立川段丘縁辺部に所在する古墳群です。これまでの発掘調査により円墳5基と河原石積横穴式石室1基が確認されており、また、かつて「布田九塚」と呼ばれた塚群に数えられる「飯盛塚(上布田3号墳)」と「庚塚(上布田4号墳)」が否定されています。
画像は、調布市布田5丁目に所在する「古天神3号墳」の跡地を西から見たところです。画像中央の道路が左に折れ曲がった右側あたりが古墳の所在地となるようです。この古墳は、平成9年(1997)から翌10年にかけて行われた市道及び個人住宅建設に伴う調査により確認されており、検出された周溝から、「古天神1号墳」の周溝跡に酷似する外径27m前後の円墳であったと考えられているようです。古墳の築造時期を推定できる遺物は出土しなかったようですが、葺き石や石室の一部であった可能性も考えられる河原石が周溝内から出土しています。
<参考文献>
滝沢亮「調布市上布田遺跡の調査」『考古学ジャーナル 昭和58年6月号』
調布市市史編集委員会『調布市史 上巻』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/03/26(日) 22:33:05|
- 調布市/上布田古墳群
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「上布田4号墳(庚塚)」は調布市布田5丁目に所在したとされる古墳です。すでに墳丘は削平されて消滅しているものの、『東京都遺跡地図』には調布市の遺跡番号53-6番の古墳として登録されています。
「上布田古墳群」は、「下布田古墳群」と並んで調布市布田5・6丁目にかけて分布する古墳群です。昭和の初め頃までは多くの塚が並んでいたそうですが、戦中から戦後の食糧難の時代の農地の開墾に伴って、徐々に崩されてしまったといわれています。「上布田4号墳(庚塚)」はこの「上布田古墳群」に属する古墳で、「布田九塚」と呼ばれた塚の中の1基であるといわれています。この古墳は、すでに墳丘は削平されて現在ではみられませんが、嘉永5年の上布田村の絵図には「上布田3号墳(飯盛塚)」の北方に描かれており、古墳であると想定されているそうです。
発掘調査報告書や東京都遺跡地図等のこの地域の古墳分布図を参考にすると、庚塚は画像の駐車場のあたりに記されているようです。昭和19年から22年頃の空中写真と照らし合わせてみると、この時期には何らかの痕跡が残されていたと見られ、たしかに円形の塚跡らしき木立をこの位置に見ることが出来ます。おそらくはこの場所が庚塚の跡地であると思われますが、残念ながら古墳の痕跡は何も見ることができません。
調布市史編纂委員会より発行された『近世の上布田村』にはこの塚について、「嘉永五年の地図を見たところ、品川道の小島分村に近い南側に「庚塚」なるものがあった。申の字を省いたものと推定される」とあり、古墳ではなく、庚申塚だったのではないかとも考えられているようです。

やはりこの庚塚も飯盛塚と同様に、跡地とされる隣の民家の敷地内には屋敷稲荷が祀られています。庚塚との関係はわかりませんが、この稲荷の場所がわずかに盛り上がっているようにも見え、気になる存在です。。。
<参考文献>
調布市市史編集委員会『調布市史 上巻』
調布市史編纂委員会『近世の上布田村』
調布市郷土博物館『下布田古墳群の調査』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/03/25(土) 23:37:33|
- 調布市/上布田古墳群
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「上布田3号墳(飯盛塚)」は調布市布田5丁目に所在したとされる古墳です。すでに墳丘は削平されて消滅しているものの、『東京都遺跡地図』には調布市の遺跡番号53-5番の古墳として登録されています。
この古墳は、嘉永5年(1628)の上布田村の絵図に描かれており、古墳と想定されています。学術的な調査は行われていないため正確な跡地は不明で、周溝や埋葬施設等の詳細もわからないようです。調布市の郷土研究家、故石森直吉の手記『たづくりを巡りて』には、この調布市布田周辺の墳丘が削平されて失われた古墳(塚)について書かれていますが、品川道の南側の崖線付近に存在した「布田九塚」と呼ばれていた塚の中には、この飯盛塚も含まれていたようです。ひょっとしたら戦前頃までは痕跡が残されていたのかもしれません。周辺地域の発掘調査報告書や東京都遺跡地図等の古墳分布図からすると、古墳は宅地化された民家の敷地内にあたるため、勝手に侵入することはできませんが、路上から、 邸宅内に祀られている屋敷稲荷がみられます。古墳と関係のある祠なのかもしれませんが、こちらも詳細はわかりませんでした。
かつてはこの周辺には雑木が生えていて、松の木もあったそうです。塚にはよくイモリがたくさん上がってきたので、それで「イモリ塚」と呼ばれたのだという言い伝えが残されているそうです。また墳丘が飯を盛り上げたような形をしていて、それで「飯盛塚」と呼ばれたという言い伝えも残されているようです。
こうした、言い伝えの残された塚が開発により消えてしまうことは残念です。。。
<参考文献>
調布市市史編集委員会『調布市史 上巻』
調布市郷土博物館『下布田古墳群の調査』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
調布市立図書館『子供のための調布のむかしばなし』
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- 2017/03/23(木) 23:20:03|
- 調布市/上布田古墳群
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「上布田古墳群」は、多摩川左岸の標高33m付近に位置する、布田5〜6丁目に分布する古墳群です。これまでの発掘調査により円墳5基と河原石積横穴式石室1基が確認されており、また、かつて「布田九塚」と呼ばれた塚群に数えられる「飯盛塚(上布田3号墳)」と「庚塚(上布田4号墳)」が否定されています。「古天神2号墳」は、調布市布田5丁目に所在する古墳です。調査時にすでに墳丘は消滅しており、昭和54年(1979)に調布市遺跡調査会により行われた試掘調査により検出された古墳です。『東京都遺跡地図』には、調布市の遺跡番号53-4番に登録されています。
この古墳は試掘調査により周溝の一部のみが確認されており、「古天神1号墳」とほぼ同規模の古墳であることがわかっています。その後、未調査のまま「市立古天神公園」内に埋没保存されており、築造時期や規模については不明となっています。画像が、古天神2号墳の所在地となる公園内のようすです。おそらくは公園内に造られた円形の施設は古墳の周溝を表しているものではないかとも考えられるのですが、敷地内に設置された説明板には特に記述は見られないようです。

調布市により設置された説明板には次のように書かれています。
古天神遺跡 調布市布田5丁目53番地
ここは昔から古天神とよばれ、今から千余年前の
『延喜式』という本にみえる、布田天神のお社があっ
た所といわれています。
昭和五十五年三月からこの一帯に住宅ができるた
め、遺跡の発掘調査が行われました。
その時、今から一万年ぐらい前の旧石器や、四~五
千年前の縄文時代における人びとの生活の跡などが
発見されました。
それらの近くには人を埋葬したまわりに、幅四~
五メートル、深さ約四十~七十センチメートルの溝
を直径三十一メートルにわたって掘りめぐらした、
円形周溝墓とよばれる五世紀ごろのお墓や、七世紀
ごろの竪穴住居の跡が三軒発見されました。その他
にも鎌倉-室町時代ごろとみられる地下式横穴とよ
ばれる、穴ぐらのような墓が十基分と、たくさんの
河原石を積んでこしらえた室町-江戸時代の墓が十
数ヶ所発見されています。
なお古天神のまわりには、これらにつづく各時代の
遺跡や遺物が広い範囲に発見され、市内でもとくに
埋蔵文化財の多い重要地帯の一つにかぞえられます。
昭和五十八年四月一日
調布市<参考文献>
滝沢亮「調布市上布田遺跡の調査」『考古学ジャーナル 昭和58年6月号』
調布市市史編集委員会『調布市史 上巻』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/03/22(水) 00:30:19|
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「上布田古墳群」は、多摩川左岸の標高33m付近に位置する、布田5〜6丁目に分布する古墳群です。これまでの発掘調査により円墳5基と河原石積横穴式石室1基が確認されており、また、かつて「布田九塚」と呼ばれた塚群に数えられる「飯盛塚(上布田3号墳)」と「庚塚(上布田4号墳)」が否定されています。「古天神1号墳」は、調布市布田5丁目で発掘調査により確認された古墳で、『東京都遺跡地図』には調布市の遺跡番号53-3番に登録されています。
この古墳は調査時にはすでに墳丘が失われており、昭和54年(1979)に調布市遺跡調査会により行われた発掘調査により、周溝のほぼ全体が検出されています。古墳の規模は、外径約31mの陸橋部を持つブリッジ付円墳で、埋葬施設は検出されなかったものの周溝からは土師器広口壺や坩、椀、高坏が出土しています。築造時期は5世紀前半と推定されているようです。画像が古墳の跡地周辺のようすですが、調査後には宅地化のために整地が行われ、古墳は完全に消滅しています。
この地区は、古くより古天神(ふるてんじん)と呼ばれる、「延喜式」という書物に見られる布多天神社の比定地であるといわれています。「上布田古墳群」に属していながらも「古天神××号墳」という名称がつけられているのはこれが理由であり、現在確認された3号墳までの3基の古墳が台地縁辺部に並ぶように存在していたことがわかっています。今後の調査次第では、未確認の古墳発見の期待が大きい地域ではないでしょうか。。。
<参考文献>
滝沢亮「調布市上布田遺跡の調査」『考古学ジャーナル 昭和58年6月号』
調布市市史編集委員会『調布市史 上巻』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/03/21(火) 00:00:06|
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「上布田古墳群」は、布田5・6丁目に分布する古墳群です。これまでの発掘調査により円墳5基と河原石積横穴式石室1基が確認されており、また、かつて「布田九塚」と呼ばれた塚群に数えられる「飯盛塚(上布田3号墳)」と「庚塚(上布田4号墳)」が否定されています。
画像は、「上布田1号墳」と「同2号墳」の跡地である調布市布田6丁目周辺を南から見たところです。この2基の古墳は、昭和56年(1981)に調布市遺跡調査会により行われた調査により確認されており、『東京都遺跡地図』には1号墳が調布市の遺跡番号53-1番に、2号墳が53-2番に登録されています。
上布田1号墳は、調査時にはすでに墳丘は失われており、版築の状態は確認されなかったそうです。周溝の南東部と西部の一部が検出されており、直径約20mの円墳であると考えられています。埋葬施設は河原石積横穴式石室で、石室内からガラス玉17個が出土しています。
「上布田2号墳」は1号墳の北東約13m、周溝の外側で確認された古墳で、墳丘や周溝は確認されず、地表の下約50cmの深さで河原石積の横穴式石室が検出されています。玄室規模は約1.1×0.4m、幅が奥壁部分で30cm、中央部分が最大45cm、羨道部で23cmと若干の胴張りを呈する小石室で、この石室内からは遺物は出土しなかったそうです。

上布田2号墳の埋葬施設は、発掘調査終了後に小島町3丁目の調布市立郷土博物館の敷地内に移築されて展示されており、画像はその石室のようすです。郷土博物館の正面から入った右手の植え込みの中にひっそりと存在しますが、保存状況はちょっと残念な感じで、目立たない場所に説明板も色褪せています。昨年夏に訪問した際に、新しく買ったカメラで撮影しようと石室の場所を訪れましたが、草ボウボウで草をかき分けないと石材も見えない有様で衝撃的な光景でした。調布市の郷土博物館は何度か訪れたことがあり、スタッフの方にも質問に丁寧に答えていただいたり、資料を頂いたりと親切にしていただいているのですが、この石室だけはもう少し何とかならないものでしょうか。。。
<参考文献>
調布市市史編集委員会『調布市史 上巻』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/03/20(月) 00:41:05|
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