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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「調布市内の正体不明の塚 その2」

調布市佐須町の正体不明の塚1

 さて、前回に引き続き、今回も調布市内で見かけた正体不明の塚です。
 画像は、調布市佐須町4丁目の、僅かに残された畑地の一角に残された塚状の高まりです。
 周辺を自転車で走っていて偶然に見かけて、「怪しい!」と感じてすぐに見に行ってみたのですが、案の定、祠が祀られているわずかな高まりを発見!笑。
 「ニヤリ」と不敵に微笑みながらバシャバシャと写真を撮りまくったわけです。
 
 この周辺には古墳の存在はなく、立地的には古墳である可能性はあまり感じられません。
 ただし、やはり祠が祀られている塚ということで興味があって、何の塚なのか色々と図書館で調べてみたのですが、残念ながら最後までわかりませんでした。(実は私は、ちょっと前に引っ越していて東京都民ではなくなってしまっています。都内の図書館へ調べ物をしに行くのはちょっとハードルが高いので、正体のわからなかった塚はわからないまま載せる方向に転換しています。。。)


調布市佐須町の正体不明の塚2

 塚の北側には、狭いながらも舗装された道路が東西に走っています。 
 画像は、北側の道路から撮影した塚の様子です。


調布市佐須町の正体不明の塚3

 塚の上に祀られた、小さな石の祠です。
 地方の農村を歩けば、こうした小さな塚はちょいちょい目にするのですけどね。
 農作業をしている人が周辺にいれば、塚についてお聞きしてみるところなのですが、何度通っても誰もいなかったのです。。。


調布市佐須町の正体不明の塚4
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1178106&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)8月1日に米軍により撮影された、調布市佐須町4丁目周辺の空中写真です。
 このあたりもわずかながら農地が残されている地域ではありますが、終戦後はバッチリ農村なんですよね。東京はここ100年も経たないうちにあっという間に家だらけになっちゃったんですよね。

 ちなみに画像の真ん中の小さな木立が、祠のある場所であると思われます。
 おそらくこの頃から、今よりはもう少し大きな(?)塚の上に祠が祀られていたのかなと妄想しますが、塚の名称や由来等についての詳細はわかりません。(別に名称などないのかもしれませんが。。。)


 なんか。。。「桜と古墳」をテーマに、満開の桜と古墳の写真を撮りに行きたいなあなどと妄想してましたが、そういう状況でもないようですよね。みなさん、どう過ごしておられるんでしょうかね。
 去年は群馬に遠征したんですけどね。今年はちょっと無理かなあ。。。


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  1. 2020/03/25(水) 21:44:50|
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「調布市内の正体不明の塚 その1」

調布市入間町の正体不明塚1
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1178051&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年に米軍により撮影された、調布市入間町1丁目周辺の空中写真です。
 とりあえず、終戦後のこの地域はまだ農村だったんだなあとしみじみ思います。
 今でもわずかながらの農地が残されている地域ではありますが、この時代はほとんど畑しかありませんね。
 なぜこの画像を取り上げたかというと、中央に塚ではないかとも考えられる影が見えるのです。
 そしてさらには、画像の右端にも塚ではないかという形状の影が見られます。
 一体なんだろう。。。


調布市入間町の正体不明塚2
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=430009&isDetail=true)

 同じく国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和38年に国土地理院により撮影された、調布市入間町1丁目周辺の空中写真です。
 1枚目の画像から16年が経過して、少しづつ民家が増えていますね。
 中央の塚も右端の塚も、まだ健在です。


調布市入間町の正体不明塚3
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=999335&isDetail=true)

 今度は、昭和50年(1975)に国土地理院により撮影された、同地域の空中写真です。
 さらに22年が経過して、かなり宅地化が進んでいる様子が伺えます。
 中央の塚が残されているのかどうかは少々わかりにくいのですが、少なくとも塚の場所に建物は建てられていないようです。右端の塚は、残されているのかどうかよくわかりません。。。


調布市入間町の正体不明塚4

 画像は、最新のGoogleマップの同地域の画像です。
 右端の塚らしき地形は無くなってしまったようなのですが、中央の塚はまだ残されているように見えます。
 さて、現在どうなっているのか、いよいよ現地を訪れた時の画像です。


調布市入間町の正体不明塚5

 画像が、空中写真の中央に見えていた塚の様子です。
 現在は入間地域福祉センターの駐車場の北西角に所在します。

 この塚、人為的に造られた何か由来のある塚なのか、図書館等で調べても最後までわかりませんでした。
 (わからなかったから今まで公開しなかったわけなのですが。。。)
 福祉センターの単なる築山なのかもしれませんし、農地だった頃の残土の山であった可能性も考えられます。
 逆に、福祉センターの建設の際にも壊さずに残した、とも言えるかもしれませんし。。。

 特に説明板の類も見当たらないようです。
 一体なんの塚なんだろう。。。


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  1. 2020/03/24(火) 20:57:17|
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「下仙川村弁天庚申塚」

「下仙川村弁天庚申塚」

 画像は、調布市緑ケ丘1丁目に所在する「下仙川村弁天庚申塚」を南東から見たところです。
 「仙川一里塚」の石碑が建てられている、甲州街道の「仙川駅東」交差点から北方に200メートルほど進んだ仙川のほとりの、白百合学園通りのY字路の角に所在します。

 庚申祠建立委員会により設置された説明板には次のように書かれています。

 下仙川村辨天坂 庚申塚(塔)の由来
                      所在  緑ケ丘1−1
 この庚申塔は、今を遡る三百年程前の宝永元中年(一七〇四)、
武蔵国多摩郡下仙川村宅添の現在地に、村人によって建立されました。
 往時は、六十日ごとにめぐってくる庚申の日に、講中の人びとが宿の
当番の家に集まって、飲食を共にして眠らずに過ごすという庚申待ちの
風習がありました。この民間信仰が、仏教の守護神である青面金剛と
結びつき、病魔を払い悪疫を防ぐために村の辻々に塔が建立されたと
云い伝えられています。
 石塔の正面に青面金剛の姿と三匹の猿が刻まれ、台座に寄進者九名の
名前がありますが、風化してはっきり読み取れません。
 この希少な石塔を露立するに忍びず、ここに祠を建立し先人の風習を
構成に伝承するため、町内各位にご協賛をいただきました。
当時主(浜島和男氏)のご厚意ご協力に対し感謝申し上げます。
  平成十七年(二〇〇五年)十二月
                       庚申祠建立委員会



「下仙川村弁天庚申塚」

 都内の古墳を散策するにあたって、古墳であるか否かに関わらず「××塚」と塚の名がつくものはひと通り巡ってみているのですが(その存在に気がついた塚のみに限りますが)、分かれ道の小さな塚の上に庚申塔が祀られた「庚申塚」に愛おしさを感じるようになってしまいました。
 この下仙川村辨天坂庚申塚は、塚状の高まりは存在しませんが、段丘下に存在していることから、背後の丘が塚のように見えて風情を感じてしまいます。笑。


「控塚」

 この庚申塚の東方数十メートルほどの地点には「控塚」と呼ばれる塚があったといわれています。この塚には「みたかきちじょうじへの道」と刻まれた、宝暦4年4月15日建立の道標が立てられていたといわれており、元桜金属の工場があったところが所在地であるということですが、現在はスーパーマーケットとその駐車場の敷地となっており、残念ながらこの道標も塚も失われているようです。。。

<参考文献>
調布史談会『調布市談会誌 第4号』
現地説明版


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  1. 2019/10/08(火) 01:24:52|
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「山野庚申塚」ー市指定有形民俗文化財(民俗)ー

「山野庚申塚」ー市指定有形民俗文化財(民俗)ー

 画像は、深大寺北町6丁目に所在する「山野庚申塚」を南からみたところです。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、所在地は「庚申塚児童遊園」として整備されており、現在も3基の庚申塔が祀られています。
 庚申塔の場所がわずかに小高く盛り上がっているようですが、かつての塚の名残なのでしょうか。。。


「山野庚申塚」ー市指定有形民俗文化財(民俗)ー

 北西から見た山野庚申塚です。
 古墳時代に墳墓として築造されながらも、後世に塚として流用された事例は数多く存在します。東京都内でも、多摩市には庚申塚として流用された「庚申塚古墳」や、狛江市には経塚として流用された「経塚古墳」などが現存します。
 この山野庚申塚も、古墳であった可能性はないものかと期待して訪れましたが、どうやら古墳とは無関係であるようです。
 ちなみに南西500メートルほどの地点には、上円下方墳である「天文台構内古墳」が現存します。。。


「山野庚申塚」ー市指定有形民俗文化財(民俗)ー

 塚上に祀られた3基の庚申塔です。
 公園内には、調布市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。

市指定郷土資料(民俗資料)
 山野庚申塚の庚申塔 三基
      所在 深大寺北町六丁目八番地十九
      指定 平成二年十二月二十六日
 これらの庚申塔は、市内における最も代表的な
ものである。いずれの塔も正面に青面金剛像と三
匹の猿を配し、中でも正徳五年(一七一五)の塔に
は野崎村の二名をはじめ深大寺村山野三名、深大
寺村宿二名の人びとの名が刻まれている。享保四
年(一七一九)の塔には「深大寺村庚申講中拾五人」、
同六年(一七二一)の塔には「講中深大寺村七人」と
あり、行事に関係した人数があげられている。
 庚申信仰は、中国の道教からおこった信仰で、
既に古くは平安時代の貴族たちの間に行われ、江
戸時代になると広く民間に普及した。それは六十
日ごとにやってくる干支(えと)の庚申の夜に眠ると
命が縮まるといわれ、その夜は眠らずに身を慎み
一夜を過ごすという信仰行事であった。そのため、
全国各地に庚申講がおこり、石塔や塚をこしらえ、
飲食を共にしながら語り明かした。
 その行事は、村人にとって楽しい社交の場であ
るとともに、互助の役割も果たした。
 民間信仰の長い歴史をもつ庚申信仰の資料とし
て、歴史上、民族上貴重なものである。
              調布市教育委員会


<参考文献>
現地説明版


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  1. 2019/08/24(土) 01:35:32|
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「布田九塚 その3」

 今回は布田九塚シリーズの最終回、『布田九塚 その3』と題して、広範囲に分布したと考えられる布田九塚のうち「上布田古墳群」の範囲内に存在したと思われる塚の推定地を探っていきたいと思います。今回も、地元の郷土史家である石森直吉氏により書かれたという塚の所在地を記した手書きの地図とわずかな文献のみが手がかりですが、おおよその位置を推定出来る塚を紹介しようと思います。

「ツカ」

 画像は、布田九塚の手書きの地図の、上布田古墳群中南東側に位置する塚の跡地周辺のようすです。比較的大きな塚である円形のマークが記されており、カタカナで「ツカ」とのみ書かれています。東西に走る品川道と、南北に走る調布駅に向かう白山通りが交差する辻の南西角に所在したと推定される塚で、画像の、弧を描くようにカーブする道路の左側あたりに塚が存在したと考えられます。この道の形状も、塚の痕跡である可能性も考えられるところですが、詳細はわかりません。周辺は完全に宅地化が行われており、塚の痕跡は全く残されていないようです。


「旧品川みち」

 この場所は断片的にわずかに残る品川道の旧道で、「旧品川みち」の標識と、調布市教育委員会による「旧品川道」の説明板が設置されています。説明板には次のように書かれています。

 旧品川道(いかだ道)

 この掲示板の脇に東西につながる道は、かつ
ての品川道である。
 この道は、今の府中に武蔵国府がおかれたこ
ろ、相模国から国府に行き来する旅人たちの交
通路であるとともに、東海道方面に通じる脇街
道であったという。また、府中の大国魂神社(六
社宮)の大祭にさいして清めに用いる海水を、
品川の海から運ぶための重要な道であった。
 この品川道は、府中から調布を通り、狛江・
世田谷を経て、品川の立会川付近で東海道に結
ばれていたといわれている。
 近世になると、筏乗たちが多摩川の上流から
河口まで材木を運びその帰り道に利用したので、
「いかだ道」とも呼ばれていた。このような由
緒ある品川道も、今では市内のところどころに
残るのみである。
(国府は政府の出先機関としての役所)
平成元年二月十日
             調布市教育委員会


 帰宅後に画像をチェックしていて気がついたのですが、中央に見えるのは火の見櫓だったのですね。いつだったか瑞穂町を探訪していて、火の見櫓の存在が妙に気になっていたのですが、古墳の痕跡ばかりを気にして、あまり空を(上を)見上げなくなってしまっているなあと、妙な反省をしました。。。


「白山宮神社」

 画像は、調布市布田5丁目に所在する「白山宮神社」を東から見たところです。布田九塚の手書きの地図には、この白山宮神社と思われる鳥居が描かれており、この西側に円形の塚マークが記されています。名称はなく、大きさからしてかなり小さな塚だったのではないかと推定されますが、周辺の古墳の分布状況や府中崖線からの距離からすると、古墳であった可能性も考えられる、気になる塚です。


「白山宮神社」

 画像は白山宮神社境内のようすです。少なくともこの敷地内に塚の痕跡は見られません。塚の推定地と考えられる社殿の西側の地域も宅地化が進んでおり、やはり塚の痕跡は残されていないようです。
 さらには、白山宮神社南側の三軒家と呼ばれる地域にも、鳥居のマークの西側に同じような小さな塚のマークが記されています。この塚に関しては、神社か祠の存在も発見できず、塚の痕跡も見つけることは出来ませんでした。戦後の空中写真等で確認すると、まだ宅地化される以前の畑の中にポツリと塚かもしれない影を見ることが出来るのですが、現在のこの周辺は宅地化が進んでいます。


「上布田4号墳(庚塚)」

 画像は、2017年3月25日付『古墳なう』の「上布田4号墳(庚塚)」の回でも紹介した、庚塚跡地と推定される南側の民家の敷地内に存在する祠です。布田九塚の手書きの地図にある「カナモリイナリ」と書かれた稲荷はこの祠ではないかと思われるのですが、確信はありません。最近になって画像を見てみると、祠の周囲に石造物らしき存在があり、もしこの石造物の中に庚申塔があればこの場所が庚塚で間違いないと思うのですが、散策している当日は気がつかず、確認しませんでした。。。


「カナモリイナリ」

 布田九塚の地図では、「カナモリイナリ」の鳥居のマークの南側に小さな円形の塚マークが記されています。庚塚の跡地と推定されている場所は祠の民家の北側の駐車場の場所ですので、地図とは矛盾するのですが、この地図が描かれた当時は塚の北側に祠が祀られていたのかもしれませんし、真相はわかりません。
 現地を散策すると、祠の北側の道路の形状が弧を描くようにS字にクランクしていて、古墳の痕跡ではないかと妄想してしまいます。。。


「上布田3号墳(飯盛塚)」

 画像は、2017年3月23日付『古墳なう』で紹介した「上布田3号墳(飯盛塚)」の跡地周辺のようすです。道路が左に折れ曲がった右側あたりが飯盛塚の跡地です。布田九塚の地図では、実際の道路の曲がり方と逆になっていてわかり難いのですが、この周辺の道は昭和初期から変わっていないようなので、この道路の曲がり方は古墳の痕跡といえるかもしれません。。。


「古天神」

 「布田九塚」の最後は、「古天神」と書かれたかなり大きな円形のマークの塚です。この古天神とは、現在は甲州街道の北側に移された「布多天神社」の旧地を指す名称で、文明9年(1477)の多摩川の洪水のために移されたといわれています。この神社は「延喜式神名帳」に記載されている古社で式内社多摩八座のひとつであり、現在の布田5丁目53番地周辺が伝承地とされています。
 宅地化が進む以前のこの場所は雑木林となっており、これは戦後の空中写真等で確認することが出来ます。これを現在の地図と重ね合わせると、布田九塚の地図にある円形のマークの塚が発掘調査により存在が確認された3基の古墳のいずれかであると仮定すると、「古天神1号墳」である可能性を感じます。この地図が書かれた当時は、雑木林の中に古墳の墳丘が残されていたのではないかと思われますが、これも真相はわかりません。
 画像は、「古天神2号墳」が保存されている「市立古天神公園」のようすです。

 さて、ここまで「布田九塚」と呼ばれた、古墳の可能性も考えられる塚の跡地をめぐってみました。調布市の郷土研究家である故石森直吉の手記、『たづくりを巡りて』には、「扇台塚」や「砂利塚」といった、所在地不明の塚の名称も存在します。また、府中崖線から一段下がった崖下の水田地帯にも、「三本松塚」、「神明塚」、「不動の森塚」といった名称の塚が存在したともいわれています。
 今後の調査により、これらの未確認の塚の所在が明らかにされる日を楽しみに待ちたいと思います。。。

<参考文献>
調布市市史編集委員会『調布市史 上巻』
調布市史編纂委員会『調布市史 民俗編』
多摩中央信用金庫『多摩のあゆみ 第52号』
現地説明版


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  1. 2017/05/06(土) 01:35:35|
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「布田九塚 その2」

「椿稲荷(小山稲荷)」

 前回に続き、今回は『布田九塚 その2』と題して、広範囲に分布したと考えられる布田九塚のうち、下布田古墳群の範囲内に存在したと思われる塚の推定地を探っていきたいと思います。手がかりは、地元の郷土史家である石森直吉氏により書かれたという塚の所在地を記した手書きの地図とわずかな文献のみですが、おおよその位置を推定出来る塚も存在します。

 画像は、調布市布田6丁目41番地付近に所在する「椿稲荷(小山稲荷)」を北東から見たところです。品川道沿いの「椿地蔵前」交差点の南西角にあり、享保二十年(1735)造立の地蔵尊が一体安置されています。敷地内に「シロハナヤブツバキ」という自然状態ではまれに見られる珍しいツバキがあることが「椿地蔵」の名称の由来となっているというお地蔵様です。
 布田九塚の地図には、円形の塚のマークの中にお地蔵様が描かれていますので、かつてはこの地蔵は塚上に祀られていたようです。ただし、この地蔵とツバキは品川道の拡張工事の際に、現位置よりも北に約5メートルの位置から移されているようですので、この場所に古墳が存在したとすれば、現在は品川街道のアスファルトの下(画像右側の横断歩道のあたり?)に埋没しているのかもしれません。


「椿稲荷(小山稲荷)」

 画像は、椿地蔵を正面(北)から見たところです。敷地内がうっすらと盛り上がっているようにも見えるのが気になるところです。。。


「椿稲荷(小山稲荷)」

 画像は、椿地蔵の敷地内のようすです。敷地内に保存されている樹齢約700年と推定されるシロハナヤブツバキは、昭和41年(1966)4月1日に調布市の天然記念物(植物)に指定されています。かつては五幹に分かれ、高さは約5メートル、東西7メートル、南北8メートルにわたって茂っていたようですが、平成2年頃に樹勢が衰え、回復に努めたものの、現在残っているのは、枝分れの一本とひこばえです。平成23年にも樹勢回復作業を行っているようです。


「山口稲荷」

 布田九塚の地図には、品川道の北側に「旧ツカ」の名称で、三角のマークの小塚が描かれています。現在の品川道のあたりからは、近年の発掘調査により「下布田16号墳」が確認されており、小塚は16号墳である可能性も考えられますが、地図で上では品川道から少し離れた位置に塚が描かれていることから、画像の「山口稲荷」のあたりが小塚の推定地ではないかと考えました。
 この塚に関しては位置を特定するための情報がなく、根拠はありません。周辺を歩いてみた感覚で、このあたりかなあという感じです。山口稲荷周辺に塚の痕跡は残されていないようです。


「狐塚(下布田6号墳)」

 画像は「狐塚(下布田6号墳)」を北西から見たところです。この古墳は、『古墳なう』の2015年12月15日の回でも一度取り上げていますが、「布田九塚」において唯一残存する古墳で、発掘調査ののちに「歴史の広場」として整備、公開されています。平成26年(2014)3月14日には、「下布田6号墳(狐塚古墳)及び出土品」が、調布市指定記念物(史跡) として登録されています。


「釈迦塚」

 「釈迦塚」は、この塚が古墳であれば「下布田古墳群」に属する古墳であると思われ、この地域で一番大きな塚であったともいわれています。
 この周辺の古墳については明治時代に井上喜久治氏が報告しており、明治26年発刊の『東京人類学会雑誌 第93号』に掲載されている「玉川沿岸遺跡探検の記」には「(前略)翌十四日案内者を雇ひ再ひ玉川沿岸に至て古墳の二三ヶ處に散在しあるを見る何れも皆土饅頭にして石槨の顯れたるものなし此處は總て調布村の内にして右二三個の内釋迦塚と云云るは大なるものにして先年發掘の際石槨顯れたるも今は舊に復して其形狀を見る能はず(後略)」とあり、なんとこの当時23基もの古墳と考えられる塚が残されていたことが記載されています。また、「狐塚の西方」に所在したとされる釈迦塚は、付近に埴輪の破片が散布しており、面積260平方メートル、高さ3.6メートルの円墳であったされています。この釈迦塚の所在地について、調布市郷土史料保存会より発行された『調布のあゆみ』では「今の布田6–27~28」としています。画像はこの釈迦塚の跡地周辺を南西から見たところです。
 下布田古墳群は、まだ発掘が行われていない空白地帯があり、釈迦塚についても学術的な調査は行われていないために詳細は不明ですが、「埴輪の破片が散布していた」という記述からしてこの釈迦塚が古墳であった可能性はかなり高いのかもしれません。ちなみにこの推定地の西側では、比較的大形の円墳である「下布田17号墳」が確認されています。果たしてこの17号墳が釈迦塚であったのか、未調査の区画から今後釈迦塚が確認されるのか、調査の進展が楽しみな古墳です。


「釈迦塚」

「釈迦塚」

 画像は、調布市布田2丁目の蓮慶寺に安置されている「釈迦如来座像」を南から見たところです。このお釈迦さまは元々は釈迦塚の近くに祀ってあったといわれており、塚の名もそこから付けられたそうです。お釈迦さまは、明治以降から流浪の旅をすることとなり、昭和38年から八雲小学校北裏の荒井茶舗に置かれた後、現在では蓮慶寺に移されて大切に保護されています。


「下布田7号墳」

 布田九塚の手書きの地図には釈迦塚と狐塚の間に小さな塚が描かれていますが、これは発掘調査により確認されている「下布田7号墳」である可能性が高いように思います。明治初年の地租改正の際に作成された『地籍図』には、下布田7号墳ではないかと考えられる不規則に小さな区画が存在しており、地籍図が作成された時点では古墳の墳丘の高まりが残されていたのではないかと想定されている古墳です。戦後の空中写真でもわずかに7号墳の墳丘らしき影を確認することができます。この古墳は、外径22m、内径15.2mの円墳であることがわかっています。


布田九塚2-10

 布田九塚の手書きの地図を参考にすると、狐塚の南東に「サイド」と書かれた塚と、南西に「旧ツカ」と書かれた、それぞれ三角マークの小塚が描かれています。また釈迦塚の南西方向に1基、「ツカ」と書かれた丸いマークの大きな塚が描かれています。狐塚の南西と南東に描かれている2基の小塚は、発掘調査により確認されている「下布田3号墳」と「同5号墳」ではないかと考えるのが妥当ではないでしょうか。この下布田地区一帯は、第二次世界大戦中の高射第一1師団高射砲第112連隊第14中隊の矢ケ崎照空隊陣地が設営された場所であったといわれており、この照空灯は、当時残存していた3号墳と5号墳の墳丘を流用して設置されていたといわれています。そして、昭和初期の空中写真で2基の古墳の墳丘らしき影を確認することができます。
 また、釈迦塚の南西方向の大塚は、調布市郷土博物館分室の西側に現存する塚と考えるのが妥当ではないでしょうか。この塚は、近年行われた発掘調査により性格は判明していないという正体不明の塚ですが、現在もマウンドが残存するこの塚は当然昭和初期にも存在したはずです。ただし、この正体不明の塚は、内径31.8mの円墳である「下布田3号墳」や内径約17mほどの円墳であるとされる「下布田5号墳」と比較するとかなり小さな塚であり、釈迦塚の南西の「ツカ」が丸い大塚のマークで書かれていることからすると、未発掘の地域に狐塚や釈迦塚と同程度の未知なる古墳が存在した可能性も考えられるかもしれません。

 以下、次回の「布田九塚 その3」へ続く…

<参考文献>
井上喜久治「玉川沿岸遺跡探検の記」『東京人類学会雑誌 第93号』
石森直吉『たづくりを巡りて』
調布市市史編集委員会『調布市史 上巻』
多摩中央信用金庫『多摩のあゆみ 第52号』
調布市郷土博物館『下布田古墳群の調査』
企画調整部広報課『調布こぼれ話』
調布ブッククラブ『調布の民話集』


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  1. 2017/04/26(水) 01:53:47|
  2. 調布市/その他の古墳・塚
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「布田九塚 その1」

「布田九塚」原図

 調布市の郷土研究家、故石森直吉の手記『たづくりを巡りて』には、この調布市布田周辺の墳丘が削平されて失われた古墳(塚)について書かれています。同書によると、品川道の南側の崖線付近には、狐塚、釈迦塚、飯盛塚、扇台塚、砂利塚といった多くの塚が分布しており、これらは「布田九塚」と呼ばれていたそうです。また、崖下の水田地帯にも、三本松塚・神明塚・不動の森塚といった塚があったといわれています。
 この布田九塚と呼ばれる古墳(もしくはこれに類似する塚)は、ほとんどが太平洋戦争中から戦後にかけて削平されており、痕跡を残すのは、発掘調査の結果古墳であることが確認された「狐塚(下布田6号墳)」1基のみです。ほかに「飯盛塚(上布田3号墳)」と「庚塚(上布田4号墳)」の2基が『東京都遺跡地図』に登録されているものの、これ以外の塚は所在地もわからなくなっているようです。ただし、地元の郷土史家である石森直吉氏により書かれた、塚の所在地を記した手書きの地図が残されており、おおよその塚の位置は知ることが出来ます。(実際には円形マークが大塚、三角マークが小塚で、合わせて18基が記されています。)
 今回はこの地図を頼りに、布田九塚と呼ばれた塚のうちの国領南古墳群の範囲内に存在したと思われる塚の跡地を探ってみました。

「十万石稲荷(小山稲荷)」

 画像は「十万石稲荷(小山稲荷)」を北西から見たところです。
 この近くに十万石大名の蔵があった伝承に由来するといわれる神社で、国領町4丁目12番地付近の三角地に祀られています。果たしてこの場所に古墳が存在したのでしょうか。。。


「十万石稲荷(小山稲荷)」

 画像は、十万石稲荷の境内のようすです。地図を参考にすると、鳥居のマークより西の道路側に円形の塚のマークが記されていますので、画像の手前のあたりが塚の跡地かと考えられますが、周囲は開発による宅地化が進んでいることから境内が狭くなっている可能性もあり、また社殿の位置が変わっている可能性も考えられますので、正確な塚の位置は何ともいえないところです。境内に特に地面が盛り上がっているような場所も見当らず、痕跡は残されていないようです。
 府中崖線からかなり距離のあるこの場所に古墳が存在した可能性は考え難いようにも思いますが、発掘調査は行われていないため詳細は不明です。


「十万石稲荷(小山稲荷)」

 西から見た十万石稲荷です。やっぱり三角地なんだ!という感じですね。。。


「赤稲荷(衢稲荷)」

 続いて、国領町5丁目37番地付近に所在する「赤稲荷(衢稲荷)」です。品川道沿いの「国領町5丁目」交差点の北東角にあり、調布市史編纂委員会より発行された『調布市史 民俗編』には「社と地続きの範囲の上ヶ給の地付の家七、八軒で祀る大人のビシャ講は今もあるが、子供のコモリ行事は三〇年ころまでだった。」と書かれています。
 ちなみに布田九塚の地図には「血又イナリ」と書かれているのが気になるところですが、どんな意味があるのでしょうか。。。


「赤稲荷(衢稲荷)」

 分布図では塚のマークの円形の中に神社の鳥居が描かれていますので、稲荷の祠は塚上に祀られているものと思われます。画像は赤稲荷を南西から見たところですが、確かに稲荷の敷地は周囲よりも若干高くなっており、塚の跡地であることを感じさせます。


「赤稲荷(衢稲荷)」

 赤稲荷境内のようす。祠の位置がわずかに高く盛り上がっているようですが、この地膨れのほかには、古墳跡であるような痕跡は特に見られないようです。赤稲荷も府中崖線縁辺部からは少し距離があるようですので、この場所が古墳であったかどうかは微妙なところですが、近年の発掘調査により、崖線から離れた位置に存在する下布田16号墳が発見されていますので、この赤稲荷が古墳跡である可能性も考えられるかもしれません。


Y字路の間の無名塚

 画像は、調布市国領町6丁目3番地付近を南から見たところです。布田九塚の地図を参考にすると、このY字路の間の三角地周辺に古墳らしき塚が存在したようです。この塚には名称の記載がなく、また周辺に塚らしき痕跡は全く見ることが出来ず、詳細はわかりません。

 ちなみに、このY字路を右に進んだ右手の京王バスの調布営業所の敷地が、発掘調査により「国領南2号墳」が検出された場所です。布田九塚の地図にも、この辺りに三角の小塚のマークが記されており、「稲荷山跡」と書かれています。おそらくこの塚は、国領南2号墳と同一のものではなく、稲荷山はもう少し南側にあったのではないかと思われるのですが、この塚についてはあまり深追いはせず、画像はありません。。。

以下、次回の「布田九塚 その2」へ続く…

<参考文献>
調布市市史編集委員会『調布市史 上巻』
調布市史編纂委員会『調布市史 民俗編』
多摩中央信用金庫『多摩のあゆみ 第52号』


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  1. 2017/04/22(土) 00:15:49|
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「十三坊塚」

調布市 十三坊塚

 調布市内には「十三塚」の伝承が残されているようです。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、上布田宿の項に「十三坊塚 乾ノ方ニアリ」とあり、小島分村の項には「十三坊塚 又十三本塚トモイヘリ街道ノ北裏ニアリ」と書かれています。この上布田宿の乾と小島分の甲州街道の北裏とは同じ場所を指しており、これは現在の調布市調布ヶ丘1丁目の一部から同3丁目の一部にかけてであるようですが、近年の町名改正以前のこの地域が「塚通」という字名であったことから、この地域に「十三坊塚」呼ばれる塚が存在したことが想定されているようです。

 十三塚については、柳田国男氏と堀市郎氏による『十三塚考』に秋田県から鹿児島県に及ぶ223ヶ所が取り上げられており、昭和59年(1984)に発刊された『十三塚―実測調査・考察編―』には333ヶ所の十三塚が取り上げられています。十三塚は、13基の塚が一列に並ぶ列塚をなすものが最も多く、東京都内で唯一現存する稲城市平尾と川崎市白鳥との境に所在する十三塚は1m前後の小さな塚が東西方向に一直線に並び、中央の1基が若干高いという典型的な十三塚の形態となっているようですが、北区や荒川区内に存在したという「十三坊塚」は点在しており、塚ではなく古墳群だったのではないかという説もあるようです。
 この調布の十三坊塚については、早い時期に消滅しており、また塚にまつわる伝承も残されていないことから、どんな性格の塚であったかはわからなくなっています。。。

<参考文献>
調布市市史編集委員会『調布市史 上巻』


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  1. 2017/04/19(水) 08:20:25|
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「郷土博物館分室西側の正体不明の塚」

「郷土博物館分室西側の正体不明の塚」

 画像は、調布市郷土博物館分室の西側、調布市小島町3丁目に所在する正体不明のマウンドです。

 このマウンドは、調布市布田6丁目地域を中心とする「下布田遺跡」の崖線際に所在しており、平成14年(2002)3月に学術調査が行われています。塚は、人為的に版築された構築物であることが判明しています。
 版築土には円礫と縄文時代の石器が混入しており、周辺からはこの塚に伴う周溝は確認されなかったようです。また、塚の頂部の地表直下からは、粉状の骨と寛永通宝6枚が納められた、江戸時代の壺を容器とした蔵骨器が出土しているものの、地表直下から出土していることから、この埋納が塚の築造の本来の目的ではないのではないかと考えられています。現時点では、この塚の築造時期や性格は不明とされています。

 「下布田古墳群」は、多摩川中流域左岸の立川段丘縁辺部に立地していますが、この地域は南東から北西方向にかけて僅かな段差があり、これは古多摩川によって形成されたと考えられています。このうち古墳群は北側の高位段丘面の縁辺部に沿う形で形成されており、低位段丘面には古墳時代後期集落が広がっています。低位段丘面からはこれまで古墳は確認されていないことから、やはりこの塚が古墳であるとは考え難いかもしれません。。。

<参考文献>
調布市遺跡調査会『下布田遺跡 ―第70地点(宅地造成工事)の調査―』
調布市教育委員会『埋蔵文化財年報 ―平成23年度―』


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  1. 2017/04/16(日) 22:54:04|
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「道正塚」

「道正塚」

 画像は、国道20号(別名甲州街道)と東京都道123号境調布線(通称天文台通り)が交差する、調布市上石原1丁目の上石原交差点の北西角に所在する「道正塚」の石碑です。

 実はこの石碑は、自転車でぶらぶらと移動中に偶然見つけました。甲州街道という幹線道路の歩道に1基の「墓」が立っていて花が生けてあるという光景は異様でびっくりしたのですが、よく見てみると、石碑には「道正塚」と刻まれています。古道が交わる辻のところに存在する塚はこれまで数多く見てきましたし、ひょっとしたら古墳が存在した可能性もあるかも知れないと考え、そのまま調布市の中央図書館に直行して調べてみました。しかし、この道正塚について記載されている文献は全く見つかりません。後日ネットで調べてようやく、『東京珍景録』という書籍に道正塚についての記事が書かれていることを知ることが出来ました。
 同書によると、この塚は分倍河原の合戦による戦死者を埋葬した塚であるという伝承が残されているようです。本来の塚はこの場所より北側に存在しており、昭和の初め頃にそこを買い取った人が塚を壊して家を建てたところ、3人の不幸が立て続けに起ったことから塚を壊した祟りではないかと考え、元の場所に塚を再興したそうです。その後、この土地は別の人の手に渡り、さらに現在の運送会社の手に渡った際に、塚を現在の場所に移して手厚く供養した、というのが現在の道正塚の碑であるようです。
 塚が削平されたのは昭和の初め頃であり、学術的な調査が行われた形跡はないようなので塚の性格についての詳細は不明で、出土した遺物等の伝承も残されていないようです。
 この道正塚は古墳とは関係はないようなのですが、味の素スタジアムにほど近い東京の主要道路に、墓石のような碑がポツリと残された光景があまりにも衝撃的だったことから、今回取り上げてみました。


「道生神社」

 道正塚の碑のある上石原交差点の北方、現在の調布飛行場の敷地には、かつて「山王様」という神社と「道生塚」という塚が一緒に祀られていたといわれています。この道生塚は当時かなり知られた存在であったとみられ、周辺の地名の由来ともなっていたようですが、昭和18年の調布飛行場整備に伴う立ち退きにより移転しており、現在は調布市飛田給2丁目の「道生神社(みちおいじんじゃ)」として合祀されています。
 画像は「道生神社」を東から見たところです。現在の道生神社には、塚に関係するような痕跡は見当らないようです。上石原交差点に碑が残る「道正塚」と山王様と一緒に祀られていたという「道生塚」は何か関係があるのか、それとも全く無関係の別々の塚であるのか、残念ながらその詳細はわかりませんでした。。。

<参考文献>
林望『東京珍景録』


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  1. 2017/04/13(木) 23:56:34|
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