
さて、前回に引き続き、今回も調布市内で見かけた正体不明の塚です。
画像は、調布市佐須町4丁目の、僅かに残された畑地の一角に残された塚状の高まりです。
周辺を自転車で走っていて偶然に見かけて、「怪しい!」と感じてすぐに見に行ってみたのですが、案の定、祠が祀られているわずかな高まりを発見!笑。
「ニヤリ」と不敵に微笑みながらバシャバシャと写真を撮りまくったわけです。
この周辺には古墳の存在はなく、立地的には古墳である可能性はあまり感じられません。
ただし、やはり祠が祀られている塚ということで興味があって、何の塚なのか色々と図書館で調べてみたのですが、残念ながら最後までわかりませんでした。(実は私は、ちょっと前に引っ越していて東京都民ではなくなってしまっています。都内の図書館へ調べ物をしに行くのはちょっとハードルが高いので、正体のわからなかった塚はわからないまま載せる方向に転換しています。。。)

塚の北側には、狭いながらも舗装された道路が東西に走っています。
画像は、北側の道路から撮影した塚の様子です。

塚の上に祀られた、小さな石の祠です。
地方の農村を歩けば、こうした小さな塚はちょいちょい目にするのですけどね。
農作業をしている人が周辺にいれば、塚についてお聞きしてみるところなのですが、何度通っても誰もいなかったのです。。。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1178106&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)8月1日に米軍により撮影された、調布市佐須町4丁目周辺の空中写真です。
このあたりもわずかながら農地が残されている地域ではありますが、終戦後はバッチリ農村なんですよね。東京はここ100年も経たないうちにあっという間に家だらけになっちゃったんですよね。
ちなみに画像の真ん中の小さな木立が、祠のある場所であると思われます。
おそらくこの頃から、今よりはもう少し大きな(?)塚の上に祠が祀られていたのかなと妄想しますが、塚の名称や由来等についての詳細はわかりません。(別に名称などないのかもしれませんが。。。)
なんか。。。「桜と古墳」をテーマに、満開の桜と古墳の写真を撮りに行きたいなあなどと妄想してましたが、そういう状況でもないようですよね。みなさん、どう過ごしておられるんでしょうかね。
去年は群馬に遠征したんですけどね。今年はちょっと無理かなあ。。。
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- 2020/03/25(水) 21:44:50|
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出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1178051&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年に米軍により撮影された、調布市入間町1丁目周辺の空中写真です。
とりあえず、終戦後のこの地域はまだ農村だったんだなあとしみじみ思います。
今でもわずかながらの農地が残されている地域ではありますが、この時代はほとんど畑しかありませんね。
なぜこの画像を取り上げたかというと、中央に塚ではないかとも考えられる影が見えるのです。
そしてさらには、画像の右端にも塚ではないかという形状の影が見られます。
一体なんだろう。。。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=430009&isDetail=true) 同じく国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和38年に国土地理院により撮影された、調布市入間町1丁目周辺の空中写真です。
1枚目の画像から16年が経過して、少しづつ民家が増えていますね。
中央の塚も右端の塚も、まだ健在です。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=999335&isDetail=true) 今度は、昭和50年(1975)に国土地理院により撮影された、同地域の空中写真です。
さらに22年が経過して、かなり宅地化が進んでいる様子が伺えます。
中央の塚が残されているのかどうかは少々わかりにくいのですが、少なくとも塚の場所に建物は建てられていないようです。右端の塚は、残されているのかどうかよくわかりません。。。

画像は、最新のGoogleマップの同地域の画像です。
右端の塚らしき地形は無くなってしまったようなのですが、中央の塚はまだ残されているように見えます。
さて、現在どうなっているのか、いよいよ現地を訪れた時の画像です。

画像が、空中写真の中央に見えていた塚の様子です。
現在は入間地域福祉センターの駐車場の北西角に所在します。
この塚、人為的に造られた何か由来のある塚なのか、図書館等で調べても最後までわかりませんでした。
(わからなかったから今まで公開しなかったわけなのですが。。。)
福祉センターの単なる築山なのかもしれませんし、農地だった頃の残土の山であった可能性も考えられます。
逆に、福祉センターの建設の際にも壊さずに残した、とも言えるかもしれませんし。。。
特に説明板の類も見当たらないようです。
一体なんの塚なんだろう。。。
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- 2020/03/24(火) 20:57:17|
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画像は、調布市緑ケ丘1丁目に所在する「下仙川村弁天庚申塚」を南東から見たところです。
「仙川一里塚」の石碑が建てられている、甲州街道の「仙川駅東」交差点から北方に200メートルほど進んだ仙川のほとりの、白百合学園通りのY字路の角に所在します。
庚申祠建立委員会により設置された説明板には次のように書かれています。
下仙川村辨天坂 庚申塚(塔)の由来
所在 緑ケ丘1−1
この庚申塔は、今を遡る三百年程前の宝永元中年(一七〇四)、
武蔵国多摩郡下仙川村宅添の現在地に、村人によって建立されました。
往時は、六十日ごとにめぐってくる庚申の日に、講中の人びとが宿の
当番の家に集まって、飲食を共にして眠らずに過ごすという庚申待ちの
風習がありました。この民間信仰が、仏教の守護神である青面金剛と
結びつき、病魔を払い悪疫を防ぐために村の辻々に塔が建立されたと
云い伝えられています。
石塔の正面に青面金剛の姿と三匹の猿が刻まれ、台座に寄進者九名の
名前がありますが、風化してはっきり読み取れません。
この希少な石塔を露立するに忍びず、ここに祠を建立し先人の風習を
構成に伝承するため、町内各位にご協賛をいただきました。
当時主(浜島和男氏)のご厚意ご協力に対し感謝申し上げます。
平成十七年(二〇〇五年)十二月
庚申祠建立委員会

都内の古墳を散策するにあたって、古墳であるか否かに関わらず「××塚」と塚の名がつくものはひと通り巡ってみているのですが(その存在に気がついた塚のみに限りますが)、分かれ道の小さな塚の上に庚申塔が祀られた「庚申塚」に愛おしさを感じるようになってしまいました。
この下仙川村辨天坂庚申塚は、塚状の高まりは存在しませんが、段丘下に存在していることから、背後の丘が塚のように見えて風情を感じてしまいます。笑。

この庚申塚の東方数十メートルほどの地点には「控塚」と呼ばれる塚があったといわれています。この塚には「みたかきちじょうじへの道」と刻まれた、宝暦4年4月15日建立の道標が立てられていたといわれており、元桜金属の工場があったところが所在地であるということですが、現在はスーパーマーケットとその駐車場の敷地となっており、残念ながらこの道標も塚も失われているようです。。。
<参考文献>
調布史談会『調布市談会誌 第4号』
現地説明版
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- 2019/10/08(火) 01:24:52|
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画像は、深大寺北町6丁目に所在する「山野庚申塚」を南からみたところです。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、所在地は「庚申塚児童遊園」として整備されており、現在も3基の庚申塔が祀られています。
庚申塔の場所がわずかに小高く盛り上がっているようですが、かつての塚の名残なのでしょうか。。。

北西から見た山野庚申塚です。
古墳時代に墳墓として築造されながらも、後世に塚として流用された事例は数多く存在します。東京都内でも、多摩市には庚申塚として流用された「庚申塚古墳」や、狛江市には経塚として流用された「経塚古墳」などが現存します。
この山野庚申塚も、古墳であった可能性はないものかと期待して訪れましたが、どうやら古墳とは無関係であるようです。
ちなみに南西500メートルほどの地点には、上円下方墳である「天文台構内古墳」が現存します。。。

塚上に祀られた3基の庚申塔です。
公園内には、調布市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
市指定郷土資料(民俗資料)
山野庚申塚の庚申塔 三基
所在 深大寺北町六丁目八番地十九
指定 平成二年十二月二十六日
これらの庚申塔は、市内における最も代表的な
ものである。いずれの塔も正面に青面金剛像と三
匹の猿を配し、中でも正徳五年(一七一五)の塔に
は野崎村の二名をはじめ深大寺村山野三名、深大
寺村宿二名の人びとの名が刻まれている。享保四
年(一七一九)の塔には「深大寺村庚申講中拾五人」、
同六年(一七二一)の塔には「講中深大寺村七人」と
あり、行事に関係した人数があげられている。
庚申信仰は、中国の道教からおこった信仰で、
既に古くは平安時代の貴族たちの間に行われ、江
戸時代になると広く民間に普及した。それは六十
日ごとにやってくる干支(えと)の庚申の夜に眠ると
命が縮まるといわれ、その夜は眠らずに身を慎み
一夜を過ごすという信仰行事であった。そのため、
全国各地に庚申講がおこり、石塔や塚をこしらえ、
飲食を共にしながら語り明かした。
その行事は、村人にとって楽しい社交の場であ
るとともに、互助の役割も果たした。
民間信仰の長い歴史をもつ庚申信仰の資料とし
て、歴史上、民族上貴重なものである。
調布市教育委員会<参考文献>
現地説明版
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- 2019/08/24(土) 01:35:32|
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今回は布田九塚シリーズの最終回、『布田九塚 その3』と題して、広範囲に分布したと考えられる布田九塚のうち「上布田古墳群」の範囲内に存在したと思われる塚の推定地を探っていきたいと思います。今回も、地元の郷土史家である石森直吉氏により書かれたという塚の所在地を記した手書きの地図とわずかな文献のみが手がかりですが、おおよその位置を推定出来る塚を紹介しようと思います。

画像は、布田九塚の手書きの地図の、上布田古墳群中南東側に位置する塚の跡地周辺のようすです。比較的大きな塚である円形のマークが記されており、カタカナで「ツカ」とのみ書かれています。東西に走る品川道と、南北に走る調布駅に向かう白山通りが交差する辻の南西角に所在したと推定される塚で、画像の、弧を描くようにカーブする道路の左側あたりに塚が存在したと考えられます。この道の形状も、塚の痕跡である可能性も考えられるところですが、詳細はわかりません。周辺は完全に宅地化が行われており、塚の痕跡は全く残されていないようです。

この場所は断片的にわずかに残る品川道の旧道で、「旧品川みち」の標識と、調布市教育委員会による「旧品川道」の説明板が設置されています。説明板には次のように書かれています。
旧品川道(いかだ道)
この掲示板の脇に東西につながる道は、かつ
ての品川道である。
この道は、今の府中に武蔵国府がおかれたこ
ろ、相模国から国府に行き来する旅人たちの交
通路であるとともに、東海道方面に通じる脇街
道であったという。また、府中の大国魂神社(六
社宮)の大祭にさいして清めに用いる海水を、
品川の海から運ぶための重要な道であった。
この品川道は、府中から調布を通り、狛江・
世田谷を経て、品川の立会川付近で東海道に結
ばれていたといわれている。
近世になると、筏乗たちが多摩川の上流から
河口まで材木を運びその帰り道に利用したので、
「いかだ道」とも呼ばれていた。このような由
緒ある品川道も、今では市内のところどころに
残るのみである。
(国府は政府の出先機関としての役所)
平成元年二月十日
調布市教育委員会 帰宅後に画像をチェックしていて気がついたのですが、中央に見えるのは火の見櫓だったのですね。いつだったか瑞穂町を探訪していて、火の見櫓の存在が妙に気になっていたのですが、古墳の痕跡ばかりを気にして、あまり空を(上を)見上げなくなってしまっているなあと、妙な反省をしました。。。

画像は、調布市布田5丁目に所在する「白山宮神社」を東から見たところです。布田九塚の手書きの地図には、この白山宮神社と思われる鳥居が描かれており、この西側に円形の塚マークが記されています。名称はなく、大きさからしてかなり小さな塚だったのではないかと推定されますが、周辺の古墳の分布状況や府中崖線からの距離からすると、古墳であった可能性も考えられる、気になる塚です。

画像は白山宮神社境内のようすです。少なくともこの敷地内に塚の痕跡は見られません。塚の推定地と考えられる社殿の西側の地域も宅地化が進んでおり、やはり塚の痕跡は残されていないようです。
さらには、白山宮神社南側の三軒家と呼ばれる地域にも、鳥居のマークの西側に同じような小さな塚のマークが記されています。この塚に関しては、神社か祠の存在も発見できず、塚の痕跡も見つけることは出来ませんでした。戦後の空中写真等で確認すると、まだ宅地化される以前の畑の中にポツリと塚かもしれない影を見ることが出来るのですが、現在のこの周辺は宅地化が進んでいます。

画像は、2017年3月25日付『古墳なう』の「上布田4号墳(庚塚)」の回でも紹介した、庚塚跡地と推定される南側の民家の敷地内に存在する祠です。布田九塚の手書きの地図にある「カナモリイナリ」と書かれた稲荷はこの祠ではないかと思われるのですが、確信はありません。最近になって画像を見てみると、祠の周囲に石造物らしき存在があり、もしこの石造物の中に庚申塔があればこの場所が庚塚で間違いないと思うのですが、散策している当日は気がつかず、確認しませんでした。。。

布田九塚の地図では、「カナモリイナリ」の鳥居のマークの南側に小さな円形の塚マークが記されています。庚塚の跡地と推定されている場所は祠の民家の北側の駐車場の場所ですので、地図とは矛盾するのですが、この地図が描かれた当時は塚の北側に祠が祀られていたのかもしれませんし、真相はわかりません。
現地を散策すると、祠の北側の道路の形状が弧を描くようにS字にクランクしていて、古墳の痕跡ではないかと妄想してしまいます。。。

画像は、2017年3月23日付『古墳なう』で紹介した「上布田3号墳(飯盛塚)」の跡地周辺のようすです。道路が左に折れ曲がった右側あたりが飯盛塚の跡地です。布田九塚の地図では、実際の道路の曲がり方と逆になっていてわかり難いのですが、この周辺の道は昭和初期から変わっていないようなので、この道路の曲がり方は古墳の痕跡といえるかもしれません。。。

「布田九塚」の最後は、「古天神」と書かれたかなり大きな円形のマークの塚です。この古天神とは、現在は甲州街道の北側に移された「布多天神社」の旧地を指す名称で、文明9年(1477)の多摩川の洪水のために移されたといわれています。この神社は「延喜式神名帳」に記載されている古社で式内社多摩八座のひとつであり、現在の布田5丁目53番地周辺が伝承地とされています。
宅地化が進む以前のこの場所は雑木林となっており、これは戦後の空中写真等で確認することが出来ます。これを現在の地図と重ね合わせると、布田九塚の地図にある円形のマークの塚が発掘調査により存在が確認された3基の古墳のいずれかであると仮定すると、「古天神1号墳」である可能性を感じます。この地図が書かれた当時は、雑木林の中に古墳の墳丘が残されていたのではないかと思われますが、これも真相はわかりません。
画像は、「古天神2号墳」が保存されている「市立古天神公園」のようすです。
さて、ここまで「布田九塚」と呼ばれた、古墳の可能性も考えられる塚の跡地をめぐってみました。調布市の郷土研究家である故石森直吉の手記、『たづくりを巡りて』には、「扇台塚」や「砂利塚」といった、所在地不明の塚の名称も存在します。また、府中崖線から一段下がった崖下の水田地帯にも、「三本松塚」、「神明塚」、「不動の森塚」といった名称の塚が存在したともいわれています。
今後の調査により、これらの未確認の塚の所在が明らかにされる日を楽しみに待ちたいと思います。。。
<参考文献>
調布市市史編集委員会『調布市史 上巻』
調布市史編纂委員会『調布市史 民俗編』
多摩中央信用金庫『多摩のあゆみ 第52号』
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- 2017/05/06(土) 01:35:35|
- 調布市/その他の古墳・塚
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