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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「御岳塚」

「御岳塚」1

 JR南武線谷保駅から南西方向に谷保天満宮からさらに数百メートルほど進んだ、三方向を現在の中央自動車道と国立府中料金所、日野バイパスに取り囲まれた一角に、僅かながらの水田が残されており、この水田の片隅にひっそりと1基の塚が存在します。画像は、この塚を北西からみたところです。

 中央自動車道が開通する以前までのこの一帯は一面に広がる田園地帯で、水田の中のこの場所がこんもりとした雑木林となっており、塚を背に御岳神社の小祠が建立されていました。塚は「御岳塚」といい、かつて塚の前に流れていたという用水堀は「御岳堀」、前の田園は「御岳前」と呼ばれていたそうです。
 御岳塚は、分倍河原合戦による戦死者の武具等をとり集めて埋め築いたものであるとも伝えられていたようですが、学術的な調査が行われていないことから塚の性格はわからないままです。


「御岳塚」2

 画像は、西から見た御岳塚です。
 『武蔵名勝図会』によると、北寄りの畑の中から「弘長元年(1261)?月十六日」と刻まれた長方形の古碑(おそらくは板碑でしょうか)が発掘されているようです。残念ながらこの碑の行方はわからなくなっているようですが、これが史実であれば、塚は中世の供養塚という可能性も考えられます。


「御岳塚」3

 塚を背に建つ御岳神社の小祠です。
 実際に現地で見学した時には、塚の形状は方形だったのかな?とも感じたのですが、今になって写真を見てみると、方形だと感じられるのは1枚目の写真だけですね。府中市の「横海道北1号塚」や国分寺市の「国分寺尼寺跡北方の塚」などと同様に、中世に築かれた修法壇跡とも考えられますが、発掘調査が行われてみないとなんとも言えません。(敷地の会社のスタッフの方に許可をいただいて見学しました。ありがとうございました。)


「御岳塚」4

 北東から見た御岳塚です。

 開発が進めば、いずれは破壊されて消滅してしまう運命なのかもしれません。
 この塚を探すために周辺で地元の人に尋ねても、誰も塚の存在も由来も知りませんでした。
 おまけに『東京都遺跡地図』にも登録されていないという、ひっそりと残された無名の塚です。

 人知れず都会に埋もれた無名の塚もしっかり取り上げておきたい『古墳なう』としては、とても理念に沿った存在なのですが、許されるならば塚と塚にまつわる由来が後世に残されるといいなあと思います。。。
 
<参考文献>
原田重久『国立歳時記』


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  1. 2020/04/07(火) 20:36:46|
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「石塚古墳」

「石塚古墳」

 画像は、国立市谷保に所在する「石塚古墳」を南東から見たところです。『東京都遺跡地図』には国立市の遺跡番号28番の遺跡として登録されている古墳です。

 石塚古墳は、青柳付近に点在する古墳よりも一段高い立川段丘上にあり、下谷保古墳群の西端に位置する「谷保古墳」の北西約250mの地点に所在します。古くは江戸時代の地誌類に記述があり、『新編武蔵風土記稿』には「仮屋坂 村内安楽寺の西をいふ、其所に小坂あり、坂上に三間四方許の塚あり、石塚といふ、来由を伝へず、武具永銭など掘出せし事ありと伝…」とあり、また『江戸名勝図会』には「石塚 右の仮屋坂の北の方、街道より五、六間ほど入りて、高さ二、三尺、高さ三間四方許。先年この塚の側なる田畠の小溝をさらえしに武具并に永銭三貫程も掘り出せしことあり。事実を知るものなく、古老の伝えもなし。」と書かれています。また、ここで大昔に千頭の牛を殺してその骨を埋めた跡であるという伝説もあり、「石塚」ではなく「牛塚」であるという説もあるようです。


「石塚古墳」

 画像は、東から見た石塚古墳のようすです。この角度から見る石塚が一番大きく感じられます。
 この古墳に隣接する南北に走る道路は、古墳の東側で古墳を避けるように半円を描いています。この道路により墳丘の東側が削平され、また残る三方も住宅により直線的に削られています。
 発掘調査は行われていないため、詳細はわからないようですが、平成5年(1993)に国立市教育委員会により実地された地下レーダー調査の結果、片袖型横穴式石室と周溝の存在が確認されたことにより、石塚が古墳であることが判明しています。また、翌年には多摩地区所在古墳確認調査団により墳丘測量調査が行われており、東西径約10m、南北径約15m、高さ約1.8mの規模で残存していることがわかっています。墳形は円墳と推定されているようです。


「石塚古墳」

 石塚古墳を北から見たところ。開発の進んだ住宅地によく残されたと思います。。。


「石塚古墳」

 比較的緩やかな斜面となっている墳丘南側に参道が設けられており、平坦な墳頂部にはコンクリート製の台座の上に祠が祀られています。


「石塚古墳」

 墳丘裾にはなんとも可愛らしいお地蔵様が祀られています。癒されます。。。

<参考文献>
原田重久『わが町国立』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』


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  1. 2017/07/05(水) 01:24:26|
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「南養寺古墳」

「南養寺」

 画像は、国立市谷保に所在する「谷保山南養寺」を北から見たところです。臨済宗建長寺派の禅寺で、正平2年(1347)に立川入道宗成が大檀那となり、鎌倉の建長寺から禅師・物外可什(ぶつがいかじゅう)和尚を招いて開山したと伝えられるお寺です。この南養寺の境内には「南養寺古墳」と呼ばれる古墳が所在したといわれています。『東京都遺跡地図』には、国立市の遺跡番号14番に登録されている古墳です。


「南養寺古墳」
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=17433&isDetail=true)

 この南養寺古墳は昭和29年(1954)、甲野勇氏と国立第一中学校有志により行われた「矢川遺跡」の発掘の際に発見されています。当時の記録によると、「南養寺南側の台地にあって、縄文遺跡の中に存する。外部を多摩川の礫をもって築造した積石塚で、内部主体は長方形の竪穴式石室であり、礫を持送り状に積み、その断面はアーチ状を成していた。遺物は何も発見されなかった。」と報告されており、石室の写真も残されているのですが、現在は古墳の正確な所在地は不明となっています。
 なんとかこの南養寺古墳の所在地を知ることが出来ないかとずっと調べていたのですが、『町勢要覧 昭和32年』には滝乃川学園の東側の畑で発見されたと記載されており、またほかに、南養寺遺跡の西側の「青柳古墳群」内に所在するという説もあるようなのですが、これまでに行われた南養寺遺跡の発掘調査からは古墳は検出されなかったこともあり、現在のところは詳細不明とされています。

 南養寺古墳の唯一の手がかりは上記の画像です。撮影は昭和23年(1948)3月3日で、甲野勇氏による発掘調査の6年前の米軍による空中写真で、画像中央に古墳らしき円形の影がはっきりと写っており、畦道が西側から円形の影に向かってまっすぐに延びています。
 位置的にも、南養寺南側の台地であり、またこの当時は滝乃川学園の東側の畑であり、『東京都遺跡地図』にも大体このあたりに登録されているようです。果たしてこの円形の影が南養寺古墳なのでしょうか。


「南養寺古墳」

 画像は、空中写真に見える円形の影の地点の現在のようすです。当時は農地であったこの一帯は、現在は南養寺の墓地となっています。円形の影が南養寺古墳であるならば、おそらくはお墓のあたりか、その右奥のシートがかけられているあたりが古墳の跡地であると思われますが、古墳らしき痕跡は見られません。


「南養寺古墳」

 シートの場所です。うっすらと盛り上がっているようにも見えるのが気になるところです。。。

<参考文献>
原田重久『わが町国立』
東京都国立市遺跡調査会・東京都国立市教育委員会『下谷保一号墳』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
国立市観光まちづくり協会『くにたちNAVI』


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  1. 2017/07/04(火) 02:52:10|
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「国立市内の古墳かもしれない塚」

「国立市内の古墳かもしれない塚」

 多摩川中流域左岸の古墳は、府中市の「武蔵府中熊野神社古墳」や三鷹市の「天文台構内古墳」といった単独で築造された古墳を除くと、そのほとんどが立川段丘上の府中崖線縁辺部等、ハケ沿いに集中しています。したがって、多摩川流域の古墳散策を行った際には、未確認の古墳の痕跡が残されていないものかとハケ沿いをブラブラしてみたのですが、国立市内で唯一、古墳跡なのではないかと思えたのが、国立市谷保の民家の敷地内にある屋敷神のマウンドです。青柳段丘面の崖線縁辺部から100mほどの地点にあるこの屋敷神は、わずかなマウンドの頂部に祀られています。


「国立市内の古墳かもしれない塚」

 東から見た、屋敷神の塚のようすです。周囲は河原石によって石垣が造られています。


「国立市内の古墳かもしれない塚」

 さらに、この屋敷神に隣接する竹林には多量の河原石が置かれています。いかにも地中から掘り出された河原石という感じで、破壊された河原石積横穴式石室の石材ではないかと想像してしまいます。
 国立市谷保に所在したとされる、発掘調査が行われながらも所在地がわからなくなっているという「南養寺古墳」を調べている過程で、この屋敷神に出会いました。当初はひょっとしてこのマウンドが南養寺古墳の残骸なのでは?とも考えたのですが、南養寺古墳は、東方の南養寺境内のくにたち郷土文化館に近いあたりが跡地となるようなので、この屋敷神が古墳跡であれば未確認の古墳発見!というところですが、耕作に邪魔な石を集めただけかもしれませんし、真相はわかりません。
 実は、この屋敷神の見学をお願いをした際に、このお宅の奥様にお聞きしたのですが、ご主人が帰宅しないとよくわからないということで、詳細はわかりませんでした。この塚に関しては機会をみつけてまだ調べてみようと思っているので、何かわかったら追記しようと思います。。。


「国立市内の古墳かもしれない塚」
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=17432&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)3月3日に米軍により撮影された国立市内の「四軒在家古墳群」の所在地周辺の空中写真です。よく目を凝らすと、農地にうっすらと古墳の周溝の形状を見ることが出来ます。左から4、5、6、7号墳の周溝であると考えられます。これは、地中の土質や水分の違いによって米や麦の育成のようすが違ってくるために起こる現象で、クロップマークと呼ばれるそうです。
 消滅してしまった古墳の位置を確認するために空中写真を眺めていると、意外とあちこちで見つけることが出来ます。ちなみに近隣では調布市の下布田古墳群にも同様の現象を見ることが出来るようです。私は、中野区の古墳を調べているときに最初にこの痕跡を見つけました。。。


「四軒在家古墳群のクロップマーク」
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=17432&isDetail=true)

 画像は、同じ昭和23年(1948)3月3日に米軍により撮影された空中写真の、国立市谷保に所在する滝乃川学園周辺のようすです。校舎の南側に、大きな塚ではないかとも考えられる円形の影を見ることが出来ます。農地などに見られるクロップマークよりもはっきりとしているようですし、ひょっとして戦後にはまだ残存していた古墳の跡ではないかと考えて、国立の古墳散策の際に立ち寄ってみました。


「国立市内の古墳かもしれない塚」

 画像が、円形の影がある周辺のようすです。校舎の前に築山らしきマウンドが存在するようですが、古墳と何か関係はあるのでしょうか。(この場所の写真は3枚撮影したのですが、なぜか3枚ともに塚の周囲にオーブと呼ばれる白い丸い玉が写っている!)
 このマウンドは古墳ではないかもしれないな〜とも思いますが、何か詳細がわかったら追記します。


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  1. 2017/07/03(月) 00:54:02|
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「国立市内の消滅した塚」

 国立市内では、立川段丘上の「下谷保古墳群」と一段下がった青柳段丘上の「青柳古墳群」から合わせて30基程度の古墳が確認されていますが、他に、現在は開発により消滅してしまった多くの塚の言い伝えが残されているようです。この中には、位置的に古墳だった可能性が考えられる塚も存在するようです。これらの消滅した塚についてはどれも正確な所在地を突き止めることができず、また遺物等の言い伝えもないことから、本当に古墳であったかどうかはわからなかったのですが(あまり深追いしませんでしたが)、探訪記録を書き留めておこうと思います。

「御経塚」&「日経塚」

① 御経塚

 画像は、国立市谷保にある谷保天満宮の参道を出た、甲州街道の「谷保天満宮前」交差点から北側を見たところです。この画像中央の道路の東側(右側)には「御経塚」という小字を持つ土地がありました。現在の南武線谷保駅の周辺で、かつては谷保天満宮の近くに塚があり、空海上人が諸国巡錫のみぎり、一万陀羅の経巻を埋めた塚だともいわれ、正治元年(1199)1月13日に源頼朝が入寂した際、天満宮別当寺安楽寺開山活円僧正が手向けの読経をしたところだとも伝えられているようです。原田重久氏氏の著書『わが町国立』には、「それらしい塚もあるにはあったのだが、経書らしいものも、また、同時に埋めたであろう経筒などもいまのところ発掘されていない」とあり、昭和の頃までは塚の痕跡 くらいは残されていたのかもしれないのですが、現在は、塚の正確な所在地はわからなくなっているようです。
 この御経塚という地域は下谷保古墳群として古墳が展開する地域に隣接しており、塚が古墳、もしくは古墳を流用した経塚だった可能性も考えられるところですが、真相をわかりません。。。

② 日経塚

 さらに、谷保天満宮北方の丘陵上にあったといわれているのが「日経塚」です。江戸時代に行われた土地改正の際に、この塚を中心にして谷保の三四五帳を記帳したところであるといわれているようです。日経塚も、谷保天満宮前交差点北側の立川段丘縁辺部に所在したものと思われますが、すでに痕跡はなく、正確な所在地はわかりませんでした。。。


「阿弥陀塚」

③ 阿弥陀塚

 画像は、国立市谷保の「滝の院」を南から見たところです。現在は無住職寺で、「国立ふれあい霊園」と呼称されています。この滝の院の西隣は、梅香山松寿院安楽寺と称する天台宗深大寺の末寺(天満宮の別当寺)があったところで、滝の院はこの安楽寺の中六坊の一つで、元は「滝ノ本坊」と称されていました。この由来について、滝の院内の石碑には次のように刻まれています。

  滝之院の由緒
 滝之院は、今はなき天台宗安楽寺という寺院の子院六坊の中の一
つ滝ノ本坊(滝本坊とも云う)に由来します。
 梅香山安楽寺は、谷保天満宮の別当寺として平安時代の天暦元
年(九四七)に方圓阿闍梨により天神島(府中市日新町)に建立さ
れました。安楽寺はその後鎌倉時代初期の養和元年(一一八一)、
菅原道真公の子孫津戸為守により天満宮と共に此の谷保の地に遷座
され、あわせてその子院六坊が建立されました。
 六坊とは、梅本坊、松本坊、桜本坊、尊住坊、邑盛坊、そして滝
之坊の六つで、いずれも安楽寺に属していましたが、次第に衰微し、
江戸時代中頃には僅かに滝之坊だけが滝之院として残りました。
 安楽寺はもと本院の西隣にあり、調布市の深大寺の末寺で、谷保
天満宮の別当寺つまり付属寺院として、長い歴史を有してきました
が、明治維新の際、神仏分離により廃寺となってしまいました。
 滝之院は、明治以降は地域の共同墓地となり、現在では宗派を越
えた二〇〇を超える墓域を擁しています。
 滝之院の持仏堂に安置されている仏像仏具はいずれも旧安楽寺の
什物であり、その信仰は今日まで守られています。
平成二十年三月八日            滝之院墓地管理組合


 この滝の院(滝ノ本坊)に所在したとされる塚が「阿弥陀塚」です。江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』には「健保七年正月石府薨去のとき二品禅尼の御計らいとしてかの御遺骸をここに渡し奉られければ、偏えにその御菩提を弔い申しける。以上伝文也。翼賛美遺事伝御骨を納めた即士墳壟を築いて、その上に小堂を建て、この本尊を安置し不断念仏を勤行し拾う。村民この塚を呼びて阿弥陀塚という。今、安楽寺の傍にありと云々。寺の縁起には開山の墳墓なりといいて、いまも信心の輩は弥陀の尊容を拝せしことありなどいいて、実朝公の御骨を埋めしことは伝えず。如何なることにや。」と書かれています。同書からすると、この塚は古墳ではなく遺骨を埋納した墳墓で、本尊を安置したという小 堂の場所が塚の所在地となるようですが、正確な位置はわからず。消滅した塚ということであまり深追いをしなかったのですが、位置的に古墳を流用した塚である可能性を感じさせます。。。
 立川段丘縁辺部に点在する下谷保古墳群西端の「谷保古墳」や、古墳であるとされる「第六天神社」のさらに西に「日経塚」や「阿弥陀塚」があり、さらに西に「石塚古墳」が残存するあたりは、下谷保古墳群の広がりを考えるうえでかなり興味深いところです。


「血文阿弥陀如来石塔」

 滝の院内を見渡しても阿弥陀塚らしき痕跡は残されていないようですが、敷地内には「血文阿弥陀如来石塔」が残されています。「『武蔵名所図会』によると、谷保天満宮中興の津戸三郎為守が割腹した際に、自らの血でしたためた妻子宛書簡を木造阿弥陀如来の胎内に入れたことから、その仏像は血文の阿弥陀如来と呼ばれているようです。この血文の阿弥陀如来は法然上人が作ったといわれるもので、この仏像を祈念して建てられたとされるのが、画像の「血文阿弥陀如来石塔」です。上部に小さく阿弥陀如来座像が浮き彫りされており、「津戸三郎為守血文之阿弥陀如来法然上人作」と刻まれています。ちなみに木造の「血文の阿弥陀」は現在谷保天満宮に保管されており、通常は非公開となっている ようです。。。
 

「山王塚」

④ 山王塚

 現存しないものの、江戸時代末期まで存在したと言われる塚が「山王塚」です。農家の人が交代でこの塚の上に立ち、畑を荒らす鳥や鷺を追い払ったものであると伝えられています。現在の富士見台第三団地のあたりに存在したと考えられるのですが、この塚も正確な所在地はわからなくなっているようです。富士見台団地自体が下谷保古墳群に並ぶ立川段丘縁辺部にあることからとても気になる存在ですが、古墳だった可能性はないのでしょうか。。。


「お鷹塚」

⑤ お鷹塚

 国立市谷保周辺には、尾張徳川家のお鷹場があったといわれています。「お鷹場」とは、徳川将軍やその下の大名が鷹を野に放ち、狩猟を催した場所のことで、富士見台団地街ができる以前、この周辺が一面の畑地帯だった頃に「お鷹塚」と呼ばれる塚が所在したといわれています。大正時代の初め頃までは塚は残されており、『わがまち国立』によると、東西に走る旧江戸街道と千丑道が交叉するあたりが所在地で、現在の国立市中央図書館の北側あたりにあたると書かれています。
 画像は、国立中央図書館の北方200mほどの、江戸街道が不自然に二股に分かれたあたりの地点です。この塚も完全に消滅しており、正確な所在地を突き止めるために深追いはしなかったのですが、古墳が群集する立川段丘縁辺部からはかなり距離がありますので、古墳ではなかったのかもしれません。。。

<参考文献>
原田重久『わが町国立』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
くにたち中央図書館『くにたちしらべ NO.15』            


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  1. 2017/07/01(土) 00:02:25|
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「庚申塚」

「庚申塚」

 国立市内にはかつては3ヶ所に庚申塚が存在したようですが、下谷保の東方の原と石神の市役所通りに存在したという2ヶ所は開発により消滅しており、唯一残されているのが、画像の国立市西3丁目に所在する庚申塚です。国立市立国立第二中学校の北側を走る旧江戸街道の道沿いにあり、土で盛ったマウンドは存在しないようですが、現在も庚申塔が祀られています。
 現地に設置されている、国立市教育委員会による説明板には次のように書かれています。

 庚 申 塚
 庚申塚は、悪疫を防ぎ、長寿を招くという中
国の庚申信仰に基づいて造られたものです。
 中国の道教では、六十日ごとにめぐってくる
庚申(かのえさる)の日は、人間に体内にいる三
尸の虫が、人の眠りに乗じて天帝にその罪悪を
告げ、人の寿命を縮めるという教えがあり、そ
の夜は眠らずに過ごすという風習が生まれまし
た。これを庚申待といいます。
 日本にも庚申信仰は古くから伝わっていまし
たが、江戸時代に入ると、庶民の間に庚申塔造
立や庚申待の風習が広まりました。
 この庚申塚は、かつての江戸街道に面して造
られており、今でも十月二十六日には庚申待の
行事が行われています。
 平成二年三月
             国立市教育委員会


「庚申塚」

 古代に築造された古墳を流用して造られた庚申塚も存在する中、下谷保古墳群など多くの古墳が築造された立川段丘縁辺部からさほど遠くない位置に所在する、この庚申塚を見学に訪れたわけですが、古墳とは無関係であるようです。
 庚申塚の名称はかつては古い道などに残されていたようですが、同じ敷地内のアパート名にも平仮名で「こおしん荘」と命名されているあたりが、いい味を出しているようです。。。

<参考文献>
原田重久『わが町国立』
くにたち中央図書館『くにたちしらべ NO.15』


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  1. 2017/06/06(火) 03:14:28|
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「神明塚古墳」

「神明塚古墳」

 画像は、国立市谷保栗原にある「神明宮」を南から見たところです。
 この神社は段丘縁辺に所在しており、周辺にはかつて古墳ではないかと考えられる塚が存在したといわれています。『東京都遺跡地図』には「神明塚古墳」の名称で、国立市の遺跡番号16番の”古墳時代の円墳(?)”として登録されています。学術的な調査は行われていないために詳細は不明で正確な所在地もわからないようですが、江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』に記述があることからこの古墳の存在が知られているようです。


「神明塚古墳」

 画像は神明宮境内のようすです。少なくともこの神社の敷地内には古墳らしきマウンドは存在しないようですが、「神明塚古墳」はどこに存在したのでしょうか。

 『武蔵名勝図会』は、千人同心組頭で『新編武蔵国風土記稿』の編纂にも参加した植田孟縉著作の江戸時代後期の地誌で、多磨郡の名所や旧跡が挿絵入りで描かれています。同書には「この神明塚と城山の間に、神明の社地あり。往古よりの鎮守社にてもありしや。いま城山の地は神明の除地免なり。又伝この塚は百姓屋敷の内にて折廻したる土手の鼻の少し高き地にて、榎の古木一株あり。その下に板石の古碑一基土中に埋まりて、二尺程出たり。その上に雨覆いをなし、この碑を神明に祀れり。祟りしことあるゆえなりとぞ。土俗この石碑の謂われも不知。この塚の前の平らかなるところに大なる平面ありて、その下に石函の如きもの埋まりてありと数百年の言伝えなり。」とあり、城山とともに描かれた神明社の南西に「古塚」として古墳らしきマウンドが描かれています。


「神明塚古墳」

 武蔵名勝図会の挿絵を参考にすると、画像の周辺が古墳の跡地ではないかと推測されます。一部は宅地化されている区域もあるようですが、これまで古墳の周溝や埋葬施設が検出されたという記録は見当たらないようですので、農地となっているどこかに「石函の如きもの」が残されているのかもしれません。残念ながら、地上には古墳の痕跡は何も残されていないようです。


「神明塚古墳」

 古墳のあるところにお稲荷さんが祀ってあると、かつては墳丘上に祀られていたのではないかと気になってしまいます。多摩川流域の小円墳が単独で存在するとは考え難いですし、四軒在家古墳群のように、将来の発掘調査により群集する古墳群が検出される可能性もあり得るかもしれませんよね。周囲には畑地もかなり残っているし。。。。

<参考文献>
東京都国立市遺跡調査会・東京都国立市教育委員会『下谷保一号墳』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2016/06/30(木) 23:43:02|
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「梅林1号横穴墓」

「梅林1号横穴墓」

 「梅林1号横穴墓」は、下谷保10号墳の東方8m程の立川段丘斜面地から検出された横穴墓です。玄室と羨道、墓前域から構成されており、墓前域の先端から玄室奥壁までの全長は4.7mを測ります。出土遺物がなく、人骨等も出土しなかったものの、玄室の規模が小さいことや多摩地域の横穴墓の変還等から、終末期である7世紀後半から8世紀前半に築造されたものと推測されています。

 国立市内の同じ立川段丘上からは「谷保東方横穴墓」が発見されています。この谷保東方横穴墓周辺からは、レーダー探査の結果、複数の横穴墓の存在の可能性が想定されています。横穴墓は単独で築造されることは少なく、群集する例が多いことから、梅林1号横穴墓の周辺にも未発見の横穴墓が存在するのではないかと考えられているようです。
 また、多摩川上中流域の古墳群と横穴墓群はそれぞれが独立して存在することが多いようですが、国立市内の横穴墓に関しては、下谷保古墳群の東側の支群に谷保東方横穴墓画存在しており、西側の支群に梅林1号横穴墓が隣接しており、この古墳群と横穴墓群の関係についても注目されているようです。

 画像の周辺が梅林1号横穴墓の跡地となるようですが、すでにこの場所は駐車場として整備されており、残念名がら古墳の痕跡は何も残されていないようです。。。

<参考文献>
国立市教育委員会『東京都国立市 市内遺跡緊急調査報告5 平成21~23年度』
くにたち郷土文化館『くにたち発掘 ~最近の発掘から~』


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  1. 2016/06/24(金) 05:00:52|
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「谷保東方横穴墓」

「谷保東方横穴墓」

 画像は、国立市谷保の「谷保東方横穴墓」の跡地を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には国立市の遺跡番号25番の横穴墓として登録されている古墳です。

 この横穴墓は昭和51年12月の道路改良工事中に偶然に発見され、翌52年3月より調査が行われています。画像の府中崖線上の道路沿いの柵に説明板が設置されているのが見えると思いますが、この説明板のある地上から2〜3mのあたりが横穴墓の跡地となるようです。
 主軸の長さ3.6m、奥壁は底面の幅2.25m、高さ0.65mで半円形を呈しており、床面には河原石が敷き詰められていたそうです。玄室からは人骨が発見されていますが、少なくとも成人4個体が葬られていて、そのうち3人は男性であったと推定されています。副葬品として鉄製の刀子が出土しており、築造の時期は7世紀末から8世紀代と推定されています。発見された横穴墓は1基のみですが、同一斜面に多くの横穴墓が群在していると考えられています。


「谷保東方横穴墓」

 画像は、崖線上の道路沿いに国立市教育委員会により設置された説明板です。残念ながら横穴墓を見学することは不可能で、この説明板のみが古墳の痕跡と言えそうです。

  谷保東方遺跡 横穴墓
 この横穴墓は、昭和五十一年に行われた道路
改良工事の際に発見されたもので、横穴墓とし
ては市内で初めての発見です。
 構造は、段丘の斜面を横に掘削して造られて
おり、奥行き三・六メートル、天井はアーチ型
で高さ一・三八メートル、床面には河原石が敷
き詰められています。このような造り方から、
築造年代は七~八世紀と考えられています。
 また、玄室(墓室)からは四体の人骨と、副
葬品として鉄製刀子(ナイフ、長さ十四センチ
メートル)一口が発見されました。

 平成二年三月      国立市教育委員会


<参考文献>
国立市教育委員会『国立市文化財調査報告書第5集 谷保東方遺跡』
現地説明板


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  1. 2016/06/22(水) 00:35:07|
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「無名古墳」

「無名古墳」

 画像は、国立市谷保にある「無名古墳」を南から見たところです。東京都遺跡地図には未登録となっていますが古墳ではないかと考えられており、個人邸内に若干の高まりが残されているそうです。

 多摩地区所在古墳確認調査団により1995年に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の40ページに下記のように記載されています。


占地状況:台地縁辺。青柳付近に点在する古墳より一段高い段丘上に存在する(立川段丘上)。
墳  丘:残存。台地縁辺に位置する宅地敷地内に若干の高まりが残存している。


 この情報だけを頼りに散策したものの見つからずにあきらめて帰ろうと、甲州街道を歩き始めたときに偶然見つけたのが画像の鳥居と祠です。発掘調査等は行われていないようですので、詳細はわかりません。当日も遠方から眺めただけですので、正確にこの地点が古墳かどうかはわかりませんが、この周辺に1基の古墳が残されているのは間違いないようです。。。
 
<参考文献>
くにたち郷土文化館・国立市教育委員会『国立の古墳-四軒在家遺跡の発掘調査-』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』

  1. 2013/08/07(水) 23:53:20|
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