
昨年の8月28日に、三鷹市の「塚」交差点と大鷲神社について取り上げました。
三鷹市上連雀と境南町との境にあたる、新武蔵境通りと連雀通りが交差する「塚」交差点周辺にはかつて2基の塚が存在したという伝承があり、これは一里塚であったといわれています。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、1基が江戸往来の接するところに、もう1基が南の林の中にあり、ともに高さは三尺余りの小さな塚であったことが記されています。
ところがその後、この地域が、多摩地域に存在した尾張藩(尾州)の御鷹場の境界となっていたことがわかってきました。
大鷲神社の地点に『井口新田 字二ツ塚 5番杭』が、また「塚」交差点付近には『井口新田 字二ツ塚 6番杭』という鷹場の標石が建てられ、いずれも目印に榎の樹が植えられていたそうです。
鷹場の標石の場所には、目印として、規模にして2間四方、高さ6〜7尺(2m程度)ほどの塚が築かれていたといわれています。

画像は、三鷹市井口1丁目所在の大鷲神社を南東から見たところです。
神社の敷地が周囲と比べて一段高くなっています。どうやらここは一里塚の跡地ではなく、尾張藩お鷹場境界杭が設置された「御鷹場塚」の跡地である可能性が考えられるようです。
東京都内においては、御鷹場塚は残存しないと思われますので、この大鷲神社の高まりが御鷹場塚の痕跡であれば、かなり貴重な存在かもしれません。。。

北西から見た大鷲神社。
ちなみにこの場所に設置されていた『井口新田 字二ツ塚 5番杭』は、現在は東大和市在住の個人宅内に保管されているそうです。そして、「塚」交差点付近に建てられていた『井口新田 字二ツ塚 6番杭』がこの場所に移され、現在は祠の中に収められているそうです。
この6番杭を見学できないものかと、大鷲神社を再訪したのですが。。。

祠は施錠されており、6番杭を見学することはできませんでした。
残念。。。
三鷹市の「三鷹」の名称のそもそもの謂れは、明治22年にそれまでの十ヵ村を合わせて三鷹村となるわけですが、合併前の村々が徳川時代に幕府の鷹場村となっており、野方、府中、世田谷の三領に含まれていたことから三鷹村と名付けたそうです。その後は昭和15年に三鷹町、昭和25年に三鷹市となり、「三鷹」の名称がそのまま引き継がれています。

鳥居の横に建てられている「大鷲神社」の碑。
この背面に神社の由緒が刻まれており、鷹場の標石や塚についてもふれられています。
由緒
弊社ハ縁起不詳ナルモ江戸中期創建ト相伝フ当所ハ元二
ツ塚跡及徳川尾張公鷹場碑ノアリシ跡ニシテ祠ト供ニ約
三十間東方ニアリ明治初年道路改修ノ爲塚ハ撤去シ祠ハ
現位置ニ移ス尚祠内ニ鷹場碑破片ヲ蔵ス 連雀二ツ塚ハ
江戸中期ヨリ明治初期頃迄宿場トシテ繁栄シ近郷ニ聞エ
前方南北ニ通ズル道路ハ旧鎌倉街道ト伝フ 遺跡ヲ後世
ニ伝ル爲講者相寄リテ之ヲ建 昭和三十三年五月吉日
「塚」交差点周辺の様子です。
大鷲神社の由緒からすると、元二ツ塚(一里塚)と徳川尾張公鷹場碑の跡があったのはこのあたりになると思われます。大鷲神社の三十間東方ということですから、交差点の北西角あたりが跡地になるのかもしれません。痕跡は何も残されていないようです。
この地域は、一里塚と御鷹場塚という、少なくとも3基の塚が混在する塚の密集地帯だったことになるわけで、交差点名やバス停の名称をあえて「塚」としているのも、そういうことなのかもしれませんね。。。
鷹場に取り込まれると農民は様々な法度にしばられますし、領主の支配のみならず将軍や大名の支配のもとで御用を務め負担を請け負わなければならないということで、実はあまり歓迎すべきことではなかったようです。そりゃあ昔も今も、いろいろあるわけですよね。。。

三鷹市内には、ほかに3基の鷹場の標石が残されています。
早速この3基の標石も、見学に巡ってみました。。
画像は、野崎2丁目の吉野家門前に保管されている鷹場標石です。
土地の所有者に許可を得て見学させていただきました。

山角角柱形で「従是西北尾張殿鷹場」と刻まれています。
吉野家でお聞きしたところでは、かつては南のほうの林の中にあったそうです。おそらくはかつて人見街道と古道が交差する、現在の「野崎」交差点の西側あたりであったと思われますが、正確な位置は不明です。。。

吉野家の敷地内で見かけた謎の塚状地形。
びっくりして「まままままさか御鷹場塚の名残ですか?それとも古墳?」とお尋ねしてみましたが、実はお庭の築山だそうでした。笑。



標石は三鷹市の文化財として指定されています。
敷地内には三鷹市教育委員会による説明板が設置されています。

大沢2丁目の長久寺境内に保管されている鷹場標石。
たくさんの石造物の中に鷹場の標石が見られます。

山角角柱形で「従是西北尾張殿鷹場」と刻まれています。

標石は三鷹市の史跡として指定されています。
敷地内には三鷹市教育委員会による説明板が設置されています。

野崎1丁目、三鷹市役所の敷地内で公開されている標石。
破損もなく、台座まで見られる珍しいものです。
大沢2丁目の長久寺所有のもので、ここに移設されています。

山角角柱形で「従是西北尾張殿鷹場」と刻まれています。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1014.html<参考文献>
三鷹市教育委員会『てくてく・みたか 市内歴史散歩』
多摩中央信用金庫「特集 御鷹場(1)」『多摩のあゆみ 第50号』
三鷹市教育委員会『みたかの石造物』
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- 2020/06/10(水) 23:24:28|
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画像は、三鷹市の連雀通りと伏見通りが交差する「塚」交差点です。
この交差点は、私はなんども通っている場所で、周辺は比較的土地勘がある地域でもあるのですが、古墳巡りを趣味とするようになってからは、この交差点名は心の片隅で小さく気になっていました。
「庚申塚」とか「稲荷塚」といった、塚の性格がわかるような名称が交差点名となっている事例は少なからず存在しますが、「ただ”塚”って、いったいなんの塚なんだよ」と思いますよね?(思わないか)
久しぶりに訪れたこの交差点、かつては片側一車線の道路が交差する、狭くて小さな交差点だったのですが、南北に走る伏見通りが拡張されたおかげで歩道も整備され、大きな交差点となっていてびっくりしました。

さて、ここに一体なんの塚があったのか、調べてみました。
この場所は上連雀と井口の接するところで、かつては一里塚が造られていたそうです。『新編武蔵風土記稿』によると、1基は江戸往来の接するところに、もう1基は南の林の中にあり、ともに高さは三尺余りの小さな塚で、この通りは「二つ塚」と呼ばれていたようです。
残念ながら塚は道路の改修により壊され、塚の性格な位置までは特定できませんでした。
やはり塚の上には榎が植えられていたのでしょうか。。。

バスの停留所も「塚」の一文字。
「一里塚」とか「二つ塚」といった名称とならなかったところは不思議ですよね。

交差点西側脇の、連雀通り沿いに所在する「大鷲神社」です。
明治9年(1876)、井口南横町蓮華寺後にあった神社がこの地に移されたといわれています。地元では「お酉さま」と呼ばれており、近隣では最も古いお酉さまです。三鷹市の名誉市民でもある作家の武者小路実篤の書による寺社名碑があり、御鷹場の石碑の破片が祠内に収められたことが記されています。
土台が周囲よりも一段高くなっていて、ひょっとしたら元々あった塚の上に建てられているのかな?と深読みしてしまいますが、どうなんでしょう。。。

大鷲神社とは逆の、交差点東側の連雀通り沿いに所在する、上連雀神明社の庚申塚です。この場所は塚状の高まりは見られないようですが、元々マウンドの存在しない塚だったのでしょうか?
この地域に古墳の存在は考えにくいところではあるのですが、歴史が多く残っている三鷹の、廻り甲斐のある一日でした。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1152.html
<参考文献>
三鷹市教育委員会『てくてく・みたか 市内歴史散歩』
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- 2019/08/28(水) 23:07:35|
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今回は、三鷹市内にある富士塚を紹介しようと思います。
画像は、三鷹市中原3丁目に所在する「中嶋神社」です。
この神社の創建年代等は不詳ながら、古くは稲荷社と称し、弘治3年(1557)に土地の豪族麻生氏が稲荷明神として勧請し、延宝3年(1675)に大社宮を建立したといわれています。
祭神は、五穀豊穣、産業振興、家内安全などの宇迦乃御魂命、そして良縁、福徳の大貴己命で、新田義貞奉納の手旗あるいは大将の手旗といわれるものが宝物として保管されています。
この神社の境内に、三鷹市唯一の富士塚が存在します。

中嶋神社社殿の様子です。
社地奥には中仙川不動堂があります。

富士嶽神社です。
鳥居の奥にチロっと見えているのが富士塚です。

画像が、中嶋神社の富士塚です。
コンクリートで固められていて、まるで異形のオブジェといった様相ですが、富士信仰の講中が造営寄進した富士塚で、近年に整備された塚なんだそうです。

境内社の厳島神社です。
この形状がたまらないですね。
三鷹市内に富士塚が存在するというのは、実は今年に入って初めて知りました。ちょうど自転車を買い換えた時期でもあったので、新しい自転車の試運転も兼ねてこの周辺を散策しました。
この地域はかなり土地勘のある場所なのですが、まさかここに富士塚があるなんて知らなかったなあ。。。
<参考文献>
三鷹市教育委員会『てくてく・みたか 市内歴史散歩』
現地説明板
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- 2019/08/27(火) 09:07:55|
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三鷹市では、とても稀有な存在である「天文台構内古墳」なる上円下方墳が確認されています。国分寺崖線沿いに単独で存在するこの古墳以外に、三鷹市内には高塚古墳は存在しないといわれており、『東京都遺跡地図』にも天文台構内古墳以外の高塚古墳は登録されていないようです。
果たして本当に」「天文台構内古墳」以外の高塚古墳の存在はなかったのでしょうか?
画像は、三鷹市新川3丁目にある勝淵神社です。
この神社の祭神は弥都波能売神で、地元では「ミョウジンサマ」と呼ばれており、水の神、お産の神といわれています。柴田勝重が、祖父勝家公より与えられた黄金の兜を埋納したという伝承があり、昭和の時代までは境内に樫の御神木があり、「兜塚」と呼ばれる塚があったといわれています。

勝淵神社の境内と社殿の様子です。
この神社の由来について、境内にある勝淵神社由来碑には次のように書かれています。
天正十一年(一五八三)織田信長の重臣柴田勝家は賤ヶ岳の戦いに敗れ
北ノ庄城に於て自刃したが、その折、孫の権六郎(三才)に愛用の兜を与
え郎党を供に、上野国の外祖父日根野高吉の元にのがす。権六郎十六才に
して元服、柴田三左衛門勝重と名乗る。慶長四年(一五九九)徳川家康は
勝重を召し出し、上野国群馬・碓氷両郡のうち二千石を与える。慶長五年
(一六〇〇)勝重は関ヶ原の戦いに初陣、更に慶長十九年(一六一四)大阪
冬の陣、翌年元和元年(一六一五)大阪夏の陣に従軍し、その戦功により
武蔵国多摩郡上仙川村(現新川)・中仙川村(現中原)その他合わせて五百
石を加増される。上仙川村に入村した勝重公は村の中ほどの台地(現島屋
敷)に陣屋敷を建て住居とし、それより北方の台地水神の森に社殿を建立
し、その傍らに祖父勝家公より与えられた黄金の兜を鎮めて、神霊として
祀り社号を勝淵明神とした。
以来四百年、当社は村の鎮守として村民の崇敬の念篤く代々の氏子会に
より護持されている。 社殿の右奥に、再建された現在の兜塚が所在します。

画像が、現在の「兜塚」の様子です。
塚の前には「兜塚再興之碑」の石碑が建てられており、「(前略)彼の兜は 歳月の過ぐるに隨い 神社の傍の樫の木の根元に鎮められ これを兜塚と言い伝う この謂れある塚も近年はその形跡をとどめず 氏子中 これを惜しむ事切にして何時の日にかと この歴史的遺構の再建を願う 今忽に機熟し関係者の協力を得て もとの地に兜塚を再興し 後世に残さんとする者なり」と刻まれています。
かつての塚の所在地もこの地点で間違いないようですが、土台となっている高まりは塚の名残というわけではなさそうです。
ちなみに形状は、上円下方墳ですね。。。

説明板によると、織田信長の重臣であった柴田勝家の兜が孫の孫の勝重によりこの地に埋納されたという伝承は、これを裏付ける史料として天明5年(1785)の紀年銘がある柴田勝家位牌奉安添状が春清寺に所蔵されており、その後は『新編武蔵風土記稿』にみられるように江戸時代を通じて継承され、少なくとも戦前頃までは口承によって伝えられていたことが、文献や聞き取り調査等により確認されているそうです。
思うに昭和から平成という時代は、地域に伝わる伝承が途絶えてしまった時代なのかもしれませんね。。。

境内に設置された三鷹市教育委員会による説明板には、昭和40年(1965)の、往時の兜塚とご神木が掲載されています。
この見上げた感じからすると、以外と大きなつかだったのかもしれませんね。。。

三鷹市新川4丁目の春清寺には、柴田勝重の墓が残されているという事で立ち寄ってみました。

画像は、春清寺の墓所内に残る、柴田勝重の墓です。
三鷹市教育委員会による設置された説明板には、次のように書かれています。
三鷹市指定史跡 柴田家家碑・柴田勝重墓
柴田勝重は戦国武将織田信長の重臣柴田勝家の孫で、江戸時代の始め頃、上仙川・中仙川村(現・三鷹市新川・中原及び調布市緑ヶ丘・仙川等の一部)を治めていました。
家碑によると、祖父の勝家は、天正11(1583)年、???の戦いで豊臣秀吉に敗れ、越前国北の庄(現・福井県)で、妻のお市の方と共に自刃しますが、その時三歳であった孫の勝重は、外祖父とされる上毛州(現・群馬県)日根野氏のもとへ逃されたと記されています。
慶長4(1559)年、17歳になった勝重は、徳川家康に仕官し、翌慶長5(1600)年関ヶ原の戦いで初陣を遂げ、大坂冬の陣、夏の陣にも出陣し、戦功を挙げています。これらの戦功によって上・中仙川二村と入間郡藤沢村(現・埼玉県入間市)内で500石を加増され2,520石の旗本となりました。『新編武蔵風土記稿』等によると勝重は、島屋敷(現・新川島屋敷通り団地付近)に館をかまえ居住したと記されており、発掘調査によって居館跡が確認されています。勝重は寛永9(1635)年、54歳でこの地に病死し、春清寺に葬られました。墓石は宝篋印塔とよばれるもので、武家では市内で唯一のものです。勝重の死後、柴田家は代々旗本として幕府に仕え、元禄11(1698)年まで仙川の地を治めたのち、三河(現・愛知県)へ転封になりました
柴田勝家碑は、勝重から数えて10代目の勝房が建立した、柴田家の由来が記された石碑で、寛政8(1796)年に建立されたものです。この墓所には柴田家一族20基の墓標が建てられています。
なお、勝淵神社(新川3-20)には、勝重が祖父勝家から譲り受けた兜を埋納したという伝承が伝えられており、「柴田勝家兜埋納伝承地」として三鷹市の登録史跡となっています。
昭和53年5月8日 史跡指定 三鷹市教育委員会
寛政8(1796)年建立の柴田勝家碑です。

三重の塔の横にある「多摩大仏」。
この地域は比較的土地勘があるところなのですが、こんなお寺があるなんて知らなかったな。。。
<参考文献>
三鷹市教育委員会『市内歴史散歩』
現地説明板
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- 2019/08/26(月) 02:06:36|
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画像は、三鷹市大沢にある「天文台構内古墳」を北西から見たところです。三鷹市の遺跡番号13番の古墳です。
この古墳は武蔵野段丘の南端、東京都三鷹市内の国分寺崖線沿いに所在します。昭和45年(1970)と46年に2度の発掘調査が行われており、測量図が『三鷹市史』に掲載されたものの調査結果は学会に報告されなかったそうで、この古墳の存在は長い間ベールに包まれたままでした。その後、平成4~6年に東京都教育委員会が多摩地区所在古墳確認調査団に委託して行われた確認調査による報告書により、平成7年にようやくこの古墳の内容が周知されることとなりました。
江戸時代の地誌『江戸名勝図会』には「富士塚」として記載されており、また「甲府様の御鷹場のお立場」という記述も見られるようです。
富士塚 大沢村内字羽根沢台というところにあり。高さ一丈許。頂上二間四方程。この塚は先年この辺甲府様御鷹場にてお立場になりし塚ゆえ、いまに村内にて女人不登。富士浅間を祀るゆえ、いまに斯くは唱う。(『多摩川流域の古墳』76ページ)

その後、平成16年度には測量が行われ、さらに翌平成17年度から21年度にかけて再調査が行われました。これにより新たに玄室が発見され、復室構造の横穴式石室であることがわかります。更に翌年には方形の周溝が発見され、上段が円形で下段が方形を呈する「上円下方墳」であることが確認されます。また玄室からはフラスコ形の須恵器と坏形土師器2点が完形で発見されるなど、次々と新たな発見があったようです。この土器は築造年が660年前後だとはっきりとわかっており、この古墳の築造も7世紀後半と推定されているそうです!
古墳の規模は、周囲を周溝に囲まれた南北30~31m、東西25~27mの方形を呈する一段目と、上段に直径18.6mの円形の墳丘からなる「上円下方墳」です。高さは現在2.1mほどですが、築造当時は3.6mほどはあったと考えられています。上円下方墳であるこの「天文台構内古墳」の発見当時は、東京都府中市の「武蔵府中熊野神社古墳」をはじめ奈良県奈良市の「石のカラト古墳」、静岡県の「沼津市清水柳北1号墳」、福島県白河市の「野地久保古墳」に続き5例目だったそうです。

主体部は3室構造の横穴式石室です。墓前域には門柱石と、「ハ」の字形に広がる両脇の川原石積みが確認されています。前室は天井石が崩落していましたが、床には直径3~5cmほどの川原石による敷石があるようです。玄室は胴張り形で、天井が崩れ落ちているものの凝灰岩の切石を積んだ壁面が残されています。この形態の石室は、多摩地区において八王子市の「北大谷古墳」、府中市の「武蔵府中熊野神社古墳」などとよく似ているそうで、関係が注目されています。
葺石は、同じ上円下方墳である「武蔵府中熊野神社古墳」の全面が葺石で覆われていたのに対して、この「天文台構内古墳」には葺石は存在しないようです。
この古墳は国立天文台三鷹キャンパス内に所在します。守衛室で受付をして国立天文台の常時公開コース見学の見学路から見ることができますが、残念ながらコースを外れて古墳に立ち入ることはできないため、遠方からの見学になります。
今後の更なる調査と整備を楽しみに待ちたいところです。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
三鷹市教育委員会・三鷹市遺跡調査会『東京都三鷹市 天文台構内古墳』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
雄山閣『東京の古墳を考える』
財団法人 たましん地域文化財団『多摩のあゆみ 第137号』
- 2013/12/31(火) 00:08:12|
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画像は、三鷹市大沢にある「原横穴墓群」の推定地を西から見たところです。三鷹市の遺跡番号19番の横穴墓です。
「原横穴墓群」は昭和49年、住宅建設のための宅地造成に伴い3基の横穴が偶然に発見され、調査の結果、埋葬された人骨6体が確認されています。この横穴墓群は、三鷹市内の他の横穴墓群がすべて野川沿いの国分寺崖線に所在するのに対し、野川に注ぐ支流の谷に面しているのが立地の特徴であるそうです。この谷を挟んで向かい側には上円下方墳である「天文台構内古墳」が所在しています。
残念ながらこの横穴墓群もすでに消滅しており見学することは出来ませんでしたが、他に1基の存在の伝承があるそうですので、まだ未発見の横穴が存在する可能性もあるのかもしれませんね。。。
<参考文献>
三鷹市ホームページ
- 2013/12/30(月) 23:57:32|
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画像は、三鷹市大沢にある「羽根沢台横穴墓群」を東から見たところです。三鷹市の遺跡番号21番の横穴墓群です。
この羽根沢台横穴墓群は、昭和52~53年に宅地造成工事に伴い6基の横穴が発掘調査されています。1~3号墓の全体と4~6号墓の墓前域が調査された結果、玄室内から埋葬された人骨総数23体のほか、陶器や須恵器、「和釘」の頭部2点が出土したそうです。以前は台地上に横穴が残されていたのですが、宅地造成の工事により台地ごと削られており、すでに消滅していました。残念ながら再訪するのが遅すぎたようです。。。
横穴は、画像の右側から2号墓、3号墓、1号墓、4号墓、5号墓、6号墓の順に所在していました。ただし、画像左側の雑木林の部分からは新たな9基の横穴墓が確認されており、このうち偶然に開口した1基(7号墓)の内部が確認されているそうです。この区域は現状保存されているようなので今後の調査が楽しみです。

同じ台地上の縁辺部に祠が祀られていました。まわり中を削られて崖線上にへばりつくように残されていますが、今でもこの横穴墓群を見守っているのでしょうか。。。
<参考文献>
三鷹市教育委員会・三鷹市遺跡調査会『羽根沢台遺跡 Ⅱ』
- 2013/12/28(土) 22:26:48|
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画像は、三鷹市大沢にある「御塔坂(おとうざか)横穴墓群」を東から見たところです。三鷹市の遺跡番号22番の横穴墓群です。
御塔坂横穴墓群は、三鷹市大沢4丁目付近の国分寺崖線中腹に位置する、市内で最大規模の横穴墓群で、墓の分布は市境を越えて調布市域にも及んでいます。宅地化が進んだために見学できる古墳は残されていませんが、これまで17次にわたる発掘調査で19基が確認されているようです。画像の中央の道路とその周辺にほぼ横一列に並ぶように配置されており、多くの横穴は天井などを失った状態で地下に埋没しているそうです。ちなみにこの道路の整備に伴う調査は当時、「横穴ストリート」の名でメディアに紹介されたそうです。
この御塔坂横穴墓群の東側の区域については、新たな横穴の発見の見込みはないことが判明していますが、西側の「羽根沢台横穴墓群」との間にはまだ多くの未発見の横穴墓が存在すると考えられています。
この横穴墓群の名称は、国分寺崖線から野川に下る「御塔坂(おとうざか)」に由来するそうで、この「御塔坂」は、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に登場する「うとう坂」に由来するそうです。ではなぜ「御塔坂」が「うとう坂」になったかは、諸説があり定かではないそうです。「御塔坂」は現在は、バス停や交差点名として残されています。
<参考文献>
三鷹市教育委員会・三鷹市遺跡調査会『御塔坂横穴墓群 Ⅰ』
- 2013/12/26(木) 01:08:23|
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