「狛江百塚コンプリート2020」、いよいよ今回が最終回です。
昭和35年に作成された「狛江古墳群地名表」には、和泉支群、猪方支群、岩戸支群の3つの支群以外にも、小足立地区に2基の古墳が記されています。古墳が密集した狛江古墳群の中心部からは少々北に外れた地域となりますが、小足立地区にも古墳が存在したのでしょうか。

昭和35年(1960)に行われた分布調査により作成された「狛江古墳群地名表」の136番には「箕輪田塚」が記載されています。
ただし、不思議なことにこの古墳は名称まで記載されているにも関わらず、所在地の欄にはなにも記述がありません。したがって正確な所在地はわからず、古墳の詳細も不明です。
しかし、昭和51年(1976)の調査の際には「1976年の調査時点で現存していないが、存在の可能性の高い古墳」として紹介されており、「高さ5.3m」という規模と、土師器と勾玉の出土の伝承について記載されています。そして、所在地についても「小足立1036番地」と記載されています。
画像はこの、小足立1036番地周辺の現在の様子です。
この区画はなぜか周辺の区画と比べて面積が広く、ピンポイントに塚の跡地を特定することはできません。果たして箕輪田塚は古墳だったのでしょうか。。。

実はこの箕輪田塚は、以前に一度取り上げました。
『狛江市史』に記載されている箕輪田塚の所在地は「西野川4丁目8番地」で、当時はこの場所を散策して写真を掲載しました。
この頃はまだ広い空き地だったのですが、これは旧狛江第七小学校の跡地であり、古墳らしき痕跡はまったく見当たらないという状況でした。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-312.html(「箕輪田塚」2015/02/01)

この旧第七小学校の跡地は開発が進み、大きく景観が変わっています。
「西野川4丁目8番地」が箕輪田塚の所在地で間違いなければ、画像の児童遊園の奥の大きなマンションのあたりが跡地となるかと思われますが、古墳らしき痕跡は皆無という状況です。。。
結論として、昭和51年(1976)の地名表にある「小足立1036番地」と『狛江市史』にある「西野川4丁目8番地」は異なる地点となるようですが、箕輪田塚の正確な所在地は判明せず。詳細も不明です。

画像は、西野川2丁目に所在する「八幡神社」です。
小足立の鎮守社で、岩戸の総鎮守社である八幡神社と区別して「小足立八幡神社」とも呼ばれています。
この神社の創建は明らかではないものの、仁徳天皇の頃、この地に住した強頸直(こわくびあたち)という人物が初めてこの社を祀ったといわれ、その居館が強館と呼ばれたため、小足立という地名が生まれたともいわれています。
昭和35年に作成された「狛江古墳群地名表」の137番には、無名称の古墳が記載されており、古墳の所在地「小足立790番地」を『狛江村土地宝典』と照らし合わせると、この神社の社殿の背後、東側あたりとなるようです。
古墳の痕跡は残されていないものでしょうか。。。

江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には小足立の八幡神社について、次のように記されています。
八幡社 除地四畝、小名箕輪田ニアリ、村ノ鎮守ナリ、ワツカナル社ニテ、東向、上屋ハ茅葺ニテ一間半余、村持。 記述からすると、当時の八幡神社は幅一間半ほどの茅葺の覆屋をかぶせた小さな祠であったようです。
ひょっとしたら塚上に祠が祀られていたのか、祠に隣接して塚が存在したのか真相はわかりませんが、この地に存在したと考えられる塚については、残念ながら何も記されていません。
その他、江戸時代から昭和にかけての狛江の郷土誌類を調べてみましたが、塚について記述のある文献は見つけることはできませんでした。

古墳の所在地とされる「小足立790番地」は大体このあたり。
この一帯も宅地化が進んでおり、古墳らしき痕跡は見当たらないようです。

唯一「ここは?」と感じたのは、八幡神社社殿の北側にある境内社の祀られている場所です。
祠の周囲がわずかに高くなっているようにも感じられますが、う~ん、、、古墳ではなかったかな。。。

画像は、西野川3丁目5番地に所在する稲荷神社です。
何度かこの横を通り過ぎながら、祠の周囲が若干高くなっているような印象があり、「怪しい!」と感じていました。
特に古墳や塚にまつわる伝承はないようですし、気のせいだったかな。。。

これは、以前にも一度取り上げた、東野川4丁目の謎のマウンド。
正直、古墳ではないかもしれないなあとは思っているのですが、何かの塚かもしれないし、農地だった頃の残土の山かもしれないし、単なる自然地形かもしれない、正体不明のマウンドです。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1043.html(「謎の塚状地形」2019/11/04)

ちょっと角度を変えると、小形の前方後円墳のように見えなくもないのですが、ま、それはないですよね。。。
狛江市は、都内では最も古墳が残されているとても貴重な地域で、散策するたびに新たな発見があり、これを調べてみるとまた新たな発見があり散策する、ということを繰り返して、その結果多くの忘れられた古墳を掘り起こすことにもつながりました。
これで、狛江市の古墳について調べたことはすべて吐き出したので、すっきりした気持ちで新年を迎えられそうです。
引き続き、来年もよろしくお願いいたします。
<参考文献>
塩澤栄八郎『東京府北多摩郡狛江村土地宝典』
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
狛江市『新狛江市史民俗調査報告書4 小足立の民俗』
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- 2020/12/30(水) 13:32:27|
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「狛江百塚コンプリート2020」、いよいよ今回は”その22”です。
最初の画像は、昭和35年の地名表の129番、「第2明神塚」の所在地周辺の様子です。
所在地は旧番地の「岩戸1032番地」で、画像中央の道路が右に折れ曲がった左側のマンションのあたりが所在地かと思われます。残念ながらすでに古墳らしき痕跡は見られません。。。

画像は、昭和35年の地名表の130番、「第1明神塚」の所在地周辺の様子です。
所在地は旧番地の「岩戸921番地」で、道路と道路の間の角地が古墳の跡地かと思われますが、こちらも残念ながらすでに古墳らしき痕跡は見られません。。。

画像は「屁ッピリ塚」の跡地周辺の様子です。
「第1明神塚」の道路を挟んだ南隣りで、道路が微妙にカーブしているあたりは塚の痕跡を感じさせます。
かつては田んぼの中で繁みになっていて、田んぼ仕事の時にそこを共同のトイレにしたのだそうです。それで、土地の人からは「屁ッピリ塚」と呼ばれていたそうなのですが、現在、痕跡は残されていません。
昭和35年、昭和51年の地名表ともに未掲載という塚で、古墳であったかどうかもよくわからないのですが、念のため書き記しておこうと思います。。。

画像は、昭和35年の地名表の131番、「田中塚」の所在地周辺の様子です。
所在地は、昭和35年の地名表では「岩戸950番地」、昭和51年の地名表では「岩戸970番地」で、正確な跡地を特定することは少々困難な状況です。ちなみに写真は、『狛江市の古墳(Ⅰ)』の分布図を参考に訪れた場所です。。。
耕地整理区域となり水田となった場所ですが、埴輪片や土器片が出土したという伝承もあり、古墳であった可能性はかなり高そうです。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-847.html(「田中塚古墳」2018/01/23)

画像は、狛江市岩戸南1丁目に所在する「土屋塚古墳」です。
昭和35年の地名表には、「駄倉明神塚古墳」の名称で133番に記載されています。
狛江市内で、次に整備、公開されるのはおそらくこの土屋塚古墳であると思われますが、整備後には墳丘上に登ることもできるようになるそうなので、公開が楽しみです。
この古墳は過去に取り上げていますので、詳細はそちらを参照してくださいませ。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-54.html(「土屋塚古墳 ―狛江市指定史跡―」2012/09/1)
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1049.html(「土屋塚古墳 その2 ―狛江市指定史跡―」2019/11/14)

画像は、岩戸北3丁目の「古屋敷塚古墳」の跡地周辺の様子です。
昭和35年の地名表には134番に記載されており、この調査当時は残存していました。
すでに開発により削平され、消滅してしまいましたが、その後には発掘調査が行われており、存在の間違いない古墳です。
周溝の内径は39m、外径は52mの円墳で、5世紀第2四半期の築造と推定されています。
この古墳も過去に取り上げていますので、詳細はそちらを参照してくださいませ。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-594.html(「古屋敷塚古墳」2016/07/14)

画像は、岩戸北3丁目に所在する「橋北塚古墳」です。
昭和35年の地名表には「三角塚」の名称で135番に記載されている古墳です。
以前は竹藪の中に墳丘が残存するという状況でしたが、数年前からは保育園が開園しており、この園内に奇跡のごとく園庭として残された古墳です。
墳頂付近に円礫が集中して残されていることが確認され、主体部は木棺の周りを挙大ほどの丸い石を集めて覆った礫槨であったと考えられています。この主体部の部分が保護されているようです。
この古墳も過去に取り上げていますので、詳細はそちらを参照してくださいませ。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-120.html(「橋北塚古墳その1」2013/04/21)
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1048.html(「橋北塚古墳(三角塚古墳)その2」2019/11/12)

画像は、岩戸北1丁目の「宿屋敷西1号墳」の所在地周辺の様子です。
2018年10月の東京文化財ウィークの関連事業の際、文化財課の方の解説を聞きながら撮影しました。
発掘調査が終了した後の、区画整理が行われた状態です。
この古墳も過去に取り上げていますので、詳細はそちらを参照してくださいませ。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1046.html(「宿屋敷西1号墳」2019/11/08)

その後、今年に入って「宿屋敷西1号墳」の跡地を見に行ってみました。
閑静な住宅街に変貌していてびっくりしました。笑。

さて、今回の「狛江百塚コンプリート2020」は、昭和35年の「狛江古墳群地名表」の、所在地が記載されている古墳(塚?)120基と、その後の発掘調査により確認された古墳を含めて、狛江古墳群の全貌を解き明かそうというコンセプトで進行しました。
ここまで記事をまとめてみて判明したのですが、91番の「小川塚(猪方504番地)」、106番の「無名古墳(猪方844番地)」、132番の「境塚(岩戸2022番地)」の3箇所は廻っていないことが判明。全ての古墳を廻ったつもりになっていたのですが、抜かりがありました。。。
画像は、狛江市駒井町3丁目の「宿河原稲荷神社」です。
古墳めぐりの最中に参拝した神社で、古墳とは特に関係のないかもしれない神社ですが、めぐり忘れてしまった、地名表91番の「小川塚古墳」はここから北西に数十メートルほどと、かなり近い位置に所在したようです。

今回で猪方支群も終了です。
<参考文献>
塩澤栄八郎『東京府北多摩郡狛江村土地宝典』
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
狛江市『新狛江市史民俗調査報告書3 岩戸の民俗』
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- 2020/12/28(月) 14:21:22|
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「狛江百塚コンプリート2020」、いよいよ今回は”その21”です。
最初の画像は、「八幡塚(明神塚)」の跡地の様子です。
昭和35年の「狛江古墳群地名表」には119番に記載されており、所在地は「岩戸1084番地」とされています。
ここは駄倉明神(八幡神社)の旧社地でもあり、おそらく古墳らしき塚の上に神社が祀られていたのではないかと想定されますが、旧駄倉明神が現在の岩戸八幡神社に移された跡、何か訳あってこの噴水が造られたようです。
この古墳は以前に取り上げていますので、詳しくはそちらを参照してくださいませ。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1047.html(「八幡塚(明神塚)」2019/11/11)

画像の道路を入った奥が駄倉明神(八幡神社)の旧社地となるわけですが、この周囲にはもう1基、古墳が存在したようです。
「狛江古墳群地名表」の127番の「第4明神塚」の所在地は「岩戸1085番地」と記載されています。これは八幡塚の「岩戸1084番地」とは1番地違いで、かなり近い位置にあったのではないかと想定されます。
しかし、『狛江村土地宝典』で確認すると、確かに駄倉明神(八幡神社)の旧社地は1084番地で、その西側に1080番地から1083番地が、そして東側に1086番地から1089番地までが並んでいるのですが、なぜか1085番地のみが存在しません。したがって、「第4明神塚」の所在地はよくわからない状況です。
ひょっとしたら駄倉明神(八幡神社)の境内地に別にもう1基の塚があって、そこにも明神さまが祀られていた?みたいなことなのかもしれませんが、真相は不明です。。。

画像は「屏風塚」の跡地の様子です。
現在の岩戸地域センターの地点となります。
この場所は、昭和35年の「狛江古墳群地名表」では112番に記載されており、所在地は「岩戸593番地」の名称のない古墳とされています。
そして、『狛江市の古墳(Ⅰ)』の「1976年の狛江古墳群調査」の項に「屏風塚(岩戸593番地)は1977年の東京都教育委員会による調査により古墳ではないことが判明したのでここに附け加えておく)と書かれています。
この1977年の調査の報告書が見つからなかったので詳細は不明ですが、少なくともこの場所にかつて「屏風塚」という名称の塚が存在したことは間違いないようです。そして、岩戸地域センターの東側に存在する、建物の建設時に削り残されたかのような塚状の地形は、やはり古墳の残存部分ではなかったということになります。。。
このあたりは、以前「岩戸小川塚」の回で一度取り上げていますので、詳しくはそちらを参照してくださいませ。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-851.html(「岩戸小川塚」2019/10/17)

画像は、昭和35年の地名表123番の無名古墳の跡地周辺の様子です。
所在地は旧番地で「岩戸593〜4」となります。
現在の岩戸地域センター(屏風塚)のすぐ東側で、東京多摩病院の敷地内となります。該当地点に思わせぶりな植え込みがあり、巨石が置かれているのですが、古墳との関係は不明です。。。

画像は、昭和35年の地名表124番の無名古墳の跡地周辺の様子です。
所在地は旧番地で「岩戸622番地」となります。
駐車場となっている場所が「怪しい(笑)」と感じて狙いを定めました。笑。
奥に見えている建物が東京多摩病院で、私は「岩戸小川塚古墳」はこの124番の古墳ではないかと想定していますが、真相は不明です。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-851.html(「岩戸小川塚」2019/10/17)

昭和35年の地名表125番の無名古墳の跡地周辺の様子です。
所在地は旧番地の「岩戸622番地」で、画像の道路の右側あたりが跡地となります。

画像は「古屋敷遺跡 第7地点」周辺のようすです。
開発が進み、マンションや戸建て住宅が立ち並ぶこの周辺の古墳の痕跡は見られませんが、発掘調査により埴輪片が出土している区画です。
伝承のすべてが古墳であったかどうかは別にして、かなり多くの古墳が密集していたことは間違いないようです。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1045.html(「古屋敷遺跡 第7地点」2019/11/07)

昭和35年の地名表126番には無名称の古墳は記載されています。
画像の駐車場となっているあたりが古墳の跡地と考えられますが、古墳の痕跡はまったく見られません。。。

塀を隔てた隣接地には小さな祠が祀られています。
126番無名古墳との関係は不明ですが、気になってしまいますね。

昭和35年の地名表128番の「第3明神塚古墳」の跡地周辺の様子です。
所在地は「岩戸1043の2」で、画像の道路の左側あたりが跡地となります。現存する「土屋塚古墳」に南に隣接する位置で、比較的小型な古墳であったようですが、昭和30年ごろには削平されてしまったようです。

とても気になるのが、「第3明神塚古墳」の道路を挟んで向かい側(西側)に存在するわずかな土盛りです。道路が造られた際に削り残された古墳の残骸か、はたまた削平された古墳の残土の山か、真相はわかりませんが色々と妄想が膨らんでしまいます。

正体不明の盛り土のすぐ横に祀られている2基の祠。
とても気になって古墳との関係を調べていましたが、今のところ真相はわかりません。。。
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-852.html(「無名古墳と気になるその周辺」2018/01/29)
<参考文献>
塩澤栄八郎『東京府北多摩郡狛江村土地宝典』
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
狛江市『新狛江市史民俗調査報告書3 岩戸の民俗』
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- 2020/12/24(木) 23:04:24|
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「狛江百塚コンプリート2020」、今回は”その20”です。
画像は、昭和35年の「狛江古墳群地名表」の114番に記載されている無名称の古墳の跡地周辺の様子です。
所在地「岩戸385番地」という以外の詳細はまったくわからない古墳で、近年の開発により宅地化が進んでおり、古墳の痕跡はまったく見られません。

画像は、「狛江古墳群地名表」の115番に記載されている無名称の古墳の跡地周辺の様子です。
この古墳も「喜多見古墳群」に属するかという古墳です。
やはり、近年の開発により宅地化が進んでおり、古墳の痕跡はまったく見られません。。。

画像は、「狛江古墳群地名表」の116番に記載されている無名称の古墳の跡地周辺の様子です。
やはり近年の宅地化が進み、古墳の痕跡はまったく見ることができません。。。

画像は、「狛江古墳群地名表」の117番に記載されている無名古墳の跡地周辺の様子です。
やはり古墳の痕跡はまったく見られません。。。

画像は「慶元寺古墳群7号墳」の跡地と想定される周辺です。
『東京都遺跡地図』には世田谷区と狛江市のどちらにも登録されているという古墳で、墳形は「円墳」で、規模は「径10.6m、高さ1.4m」、主体部も「横穴式石室」とかなり具体的な状況が書かれているのですが、この『東京都遺跡地図』に記載されている以外には特に情報が得られませんでした。
周辺を散策した印象ではすでに古墳は消滅しているようなのですが、いつ頃削平されてしまったのか、また発掘調査が行われたのかどうか等、所在は不明です。
所在地とされる地点は道路がS字に曲がっている角地にあたり、手前の舗装されている敷地は世田谷区喜多見4丁目、その奥の宅地となっている敷地が岩戸南3丁目となります。
おそらく古墳はこの境界にまたがるように存在したのかと想定されますが、すでに痕跡を見ることはできませんでした。
ここまでの5基の古墳(塚?)は、所在地は狛江市内ではあるものの、狛江古墳群の「岩戸支群」というよりは世田谷区の「喜多見古墳群(もしくは慶元寺古墳群?)」に属するのではないかという、狛江古墳群の密集地域からは少々東に離れた位置に位置しています。
喜多見古墳群の西への広がりを想定させる、興味深い分布の様相ですね。。。

画像は、「狛江古墳群地名表」の120番に記載されている「番場塚古墳」の跡地周辺の様子です。
「狛江古墳群」の岩戸支群と「喜多見古墳群」の間の、古墳が分布しない空白となった地域が所在地となるようですが、やはり古墳の痕跡はまったく見られません。。。

狛江市岩戸南2丁目に所在する「八幡神社」です。
個人的には、この八幡神社は古墳跡なのではないかと想定していますが、まったく根拠はありません。笑。
狛江市内の古墳めぐりの最後にこの八幡神社でお参りしてからひと息つくというパターンが幾度となくあり、とても馴染みのある神社です。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1044.html(「岩戸八幡神社」2019/11/06

八幡神社境内の様子です。
今回の狛江特集は長丁場になりましたが、なんとかゴールが見えてきました。
残るはあと3回。
年内に全てを公開できそうです。。。
<参考文献>
塩澤栄八郎『東京府北多摩郡狛江村土地宝典』
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
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- 2020/12/23(水) 23:54:18|
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今回も「狛江百塚コンプリート2020」、その19です。
まず最初の画像は、狛江市岩戸北3丁目に所在する「井伊出森稲荷」です。
隣接する蘇我家によって古くから祀られてきたことから、地元では「蘇我稲荷」とも呼ばれるお稲荷さんです。
この井伊出森稲荷については、2019年10月15日の「野屋敷塚」の回で取り上げましたので、詳細はこちらを参照していただきたいですが、平成8年に現在地に移される以前は広い境内地の中の小丘上に祀られていたといわれており、この小丘が古墳であった可能性はないものかと感じていて、その後も調べていました。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-850.html(「野屋敷塚」2019/10/15)

狛江の図書館で調べましたが有力な情報は得られず、狛江市の文化財課にてお聞きしてみました。
聞き取り調査の結果などから推測すると、この伊井出森稲荷のもともとの場所は現在地の南隣りのマンションあたりとなるようです。ちなみにこの場所は、昭和35年の「狛江古墳群地名表」には古墳としての記載のない地点です。
小高い丘の上に祠があったとされていますが、この丘が古墳であったとどうかは不明で、その場所ずばりではなくその近隣で何箇所か試掘調査などが行われているようですが、今のところ古墳の存在を示唆するような情報は得られていないようです。
位置的に、古墳が存在した可能性も考えられる場所であると思われますが、これ以上の情報は皆無な状況です。

井伊出森稲荷境内の様子です。
特に古墳にまつわる痕跡は見られません。

小丘上に井伊出森稲荷が祀られていたと想定される周辺の様子です。
すでに大きなマンションの敷地となり、かつての面影は見られません。。。

画像は、「狛江古墳群地名表」の110番に記載されている「無名称古墳」の所在地周辺の様子です。
道路の突き当たりが跡地となるようですが、痕跡はまったくなし。
残念ながらすでに削平されてしまったようです。。。

昭和35年の「狛江古墳群地名表」の112番には「竜光寺古墳」が記載されています。
所在地とされる「岩戸1341番地」を『狛江村土地宝典』で確認すると、現在はコンビニエンスストアの敷地となっている、画像の地点が所在地となるようです。すでに古墳らしき痕跡はまったく見当たりません。
この古墳も以前に一度取り上げましたが、その後、ご近所のこの地域の歴史を知る方から、とても興味深い情報を得ることができました。。。

出典:国土地理院ウェブサイト(
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=193509&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年に米軍により撮影された「竜光寺古墳」の跡地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
道路が交差する辻の北側にはL字の形状の民家が見られ、ここが「岩戸1341番地」となります。そして、むしろ辻の西側にこそ古墳らしき塚状の地形が見られます。。。

古墳らしき塚状の地形の場所です。現在、タバコ屋さんになっている場所です。
ちなみに画像の左側から向かってくると、コインランドリーの位置までと比べてタバコ屋さんの前の道路がわずかに狭くなります。ひょっとしたらこれが古墳の痕跡なのかもしれません。
地元の歴史を知る、模型屋さんの旦那さまにお聞きしたところによると、「古墳があったかどうかはわからないが、この塚状地形の場所には「タクゾウイン」というお坊さんのお墓があり、その墓石は今も建物と建物の間に残っているよ」という貴重な情報!そして、コンビニの場所にはかつて「お地蔵様があったんだけど今はなくなちゃったんだよ」というお話。
いかにも、古墳にまつわるエピソードらしく、胸が高まりました。(;◔ิд◔ิ) ドキドキ。。。

建物と建物の間にひっそりと残されている、「タクゾウイン」というお坊さんの墓石です。卒塔婆には「宅蔵院成蓮法師菩薩」とあり、現在もしっかりと供養されているようです。
お教えいただけなければ絶対に気がつかなかったと思われますし、感謝です。。。

暮石の様子です。
コンビニの周囲もぶらりと歩いてみたのですが、かつて建てられていたというお地蔵様はみられず、所在は不明です。(もちろん見落としている可能性もあるかもしれませんが。。。)
おそらくは、「狛江古墳群地名表」に記載の所在地は間違いで、タバコ屋さんの場所が竜光寺古墳の所在地なのではないかと考えられます。古墳の痕跡は見られませんでしたが、少なくともなんらかの塚が存在した可能性は高そうです。

「狛江古墳群地名表」の113番の「無名古墳」の跡地周辺の様子です。
所在地は「岩戸1344番地」で、竜光寺古墳のすぐ西側に隣接したと考えらますが、マンションとその駐車場となっており、痕跡はまったく見られません。。。

「狛江古墳群地名表」の118番の「無名古墳」の跡地周辺の様子です。
現在、老人ホームらしき建物のあたりです。
先ほど取り上げた「井伊出森稲荷」のすぐ東側あたり。
この周辺もかなり古墳が密集していたのかもしれませんね。。。

「狛江古墳群地名表」の121番には「野屋敷塚」が記載されています。
この古墳も以前に一度取り上げていますので、くわしくはそちらを参照していただきたいですが、昭和53年の地名表に記載されている「岩戸1349番地」が所在地と想定され、画像の道路の右側あたりが跡地と考えられます。
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- 2020/12/22(火) 23:42:42|
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「狛江百塚コンプリート2020」、今回はその18です。
昭和35年に作成された「狛江古墳群地名表」の100番には、名称のない古墳が掲載されています。所在地は「猪方673番地」とされており、調査当時は直径約11m、高さ1~1.2mの墳丘が残されていたようです。
その後、昭和51年の地名表では「猪方673番地墳」と名称がつけられたようですが、古墳は「破壊」されたと捉えられていたようです。
画像は、猪方673番地墳の所在地の現在の様子です。
分かれ道の間に庚申塔が祀られており、その奥には猪方673番地墳らしき高まりが残されています。

庚申塔は正面に「庚申塔」と刻まれており、文政9年(1826)に建立されたものです。
道しるべを兼ねており、寄進者18名の名が刻まれています。

これが現在の猪方673番地墳です。
今でも直径約11m、高さ1~1.2mに近い規模が残されていて、大きく崩されてはいないのではないかとも感じます。
学術的な調査は行われていないことから塚の性格は不明で、古墳ではなく塚(庚申塚?)である可能性もあり得るのかもしれません。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-856.html(「猪方673番地古墳」2018/02/02)

ここも、戦後の空中写真で見ると古墳かもしれない地形がみられる、気になる場所です。
道路も折れ曲がっているし。笑。

画像は、狛江市猪方1丁目に所在する「清水塚1号墳」です。
昭和35年に作成された「狛江古墳群地名表」では101番に記載されており、現存する古墳として『東京都遺跡地図』には狛江市の遺跡番号33番の古墳として登録されています。
この古墳は以前に一度取り上げていますので、詳しくはそちらを参照していただきたいところですが、今回の写真は前回のものとはまた別の日の写真です。
2度目に通りかかった時にも偶然に土地の所有者の奥様と目があって、1度目と同じように「お参りさせてください」とお願いして参拝させていただきました。o(*^▽^*)o~♪
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-858.html(「清水塚1号墳」2018/02/04)

南から見た清水塚1号墳です。
前回の写真は曇りの日だったので、今回は晴れの日バージョンで同じ角度からの写真を紹介します。

墳丘上の様子です。

画像は、「清水塚2号古墳」と「同3号墳」の跡地周辺の様子です。
道路の左側に2号墳、右側に3号墳が存在したようですが、すでに痕跡はなく、性格な所在地はわかりませんでした。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-277.html(「清水塚2号古墳+3号古墳」2014/12/24)

「大塚古墳」は、昭和35年の「狛江古墳群地名表」の104番に記載されている古墳で、「矢崎山古墳」とも呼ばれています。
昭和35年の地名表では所在地「猪方760~767番地」と記載されているのに対して昭和51年の地名表では「猪方727・737番地」とあり、正確な所在地まではよくわからないのですが、地元の古老の言い伝えによると、狛江第三小学校の敷地内にある「矢崎花壇」の場所が古墳の跡地ということになるようです。
この古墳も以前に一度取り上げていますので、詳しくはこちらを参照してくださいませ。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-302.html(「矢崎山(大塚古墳)」2015/01/22)

「矢崎花壇」を取り巻く道路は弧を描くようにカーブしており、古墳の痕跡であるようにも感じられます。
地名表には「付近には数基の古墳ありという 台地の先端に近い地」と書かれていますので、この記述からすると、古墳は群集して複数存在したのかもしれませんが、すでに古墳の痕跡はなく詳細はわかりません。

本日最後の古墳は「猪方767番地古墳」です。
昭和35年の地名表には無名称の古墳として記載されていますが、昭和51年の地名表には「猪方767番地古墳」の名称で記載されています。
昭和35年の調査当時には、林地に直径10m、高さ1.5mの墳丘が一部残存していたようですが、現在は開発が進み、古墳の痕跡はまったくみられません。
画像の祠が古墳と関係があるのかはわかりません。猪方767番地古墳にかなり近い場所に祀られているお稲荷さんなのですが、実際の猪方767番地はこの祠よりももう少々北側でかなり広い敷地を持つため、正確な所在地までは突き止めることはできませんでした。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-274.html(「猪方767番地古墳?」2014/12/21)
「狛江百塚コンプリート2020」と銘打ちながらも、果たして今年中に終わるかなと少々不安になりましたが、なんとか終わりそうですヾ(o´▽`)ノ
今回で猪方支群も終了。次回からは岩戸支群に移ります。。。
<参考文献>
塩澤栄八郎『東京府北多摩郡狛江村土地宝典』
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
狛江市『新狛江市史民俗調査報告書1 猪方の民俗』
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- 2020/12/21(月) 22:34:50|
- 狛江市/その他の古墳・塚
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「狛江百塚コンプリート2020」、今回はその17です。
最初の画像は、「狛江古墳群地名表」の96番に記載されている「前原塚古墳」です。地名表には「久保塚古墳」の名称で記載されています。
おそらく、狛江古墳群の猪方支群で最も良好に残されている古墳です。しかも、古墳の周囲の土地がまだ農地として使用されていることから、景観として古墳が映えます。笑。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-859.html(「前原塚古墳(久保塚)」2018/02/05)

南から見た前原塚古墳です。
内径は約23.5m、外径約31.5mで、発掘調査により陸橋部が検出されています。レーダー探査の結果、墳頂部からほぼ並ぶように存在する主体部が2箇所確認されたことから、竪穴式の主体部が2基存在すると考えられています。
いずれはこの周辺も宅地として開発されてしまうのでしょうかね。
狛江はいいところだから私は好きなんですけどね。。。

狛江市猪方3丁目に所在する「立榊稲荷」です。
社地内に本サカキの木が植えられていることから立榊稲荷と呼ばれている神社で、ハケ(崖)の斜面の中腹に社地があり、この周辺にも古墳が存在したようです。
昭和35年(1960)の古墳の分布調査により作成された『狛江古墳群地名表』には、97番に「峡塚」という名称の古墳が記載されています。
墳形は「円墳」とされており、調査当時には径10m前後の起状があり、その塚上に稲荷祠が祀られていたようです。とあり、当時はまだ墳丘の痕跡が残されていたことがわかります。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-267.html(「前原下峡塚」2014/12/14)

神社境内の様子です。
すでに古墳らしき高まりは見られません。

祠内には江戸時代に祀られた古い石造神狐一対が納められているそうです。
平成13年には京都の伏見稲荷大社から分霊を勧請しており、伏見稲荷の正式な分社となっています。

昭和35年の地名表では所在地は「猪方623~2」とされており、これを『狛江村土地宝典』で確認すると、道路を挟んだ東側の民家の敷地に当てはまります。
しかし、昭和51年の古墳分布図地名表では「猪方694」、狛江市史の狛江古墳群一覧表では「猪方3-16」と微妙に違いがあり、正確な所在地を特定するのはなかなか困難な状況です。

画像は、狛江市猪方3丁目の「地蔵塚古墳」の跡地とされる周辺の様子です。
狛江市教育委員会より発行された『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている古墳分布地図ではこの周辺が跡地として記されています。
確かに、「地蔵塚」の名称の由来とも考えられるお地蔵様が今も安置されていますし、目の前の道路が「く」の字に折れ曲がっているあたりも、かつtれの古墳の存在を連想させます。
ただし、昭和35年の地名表、昭和51年の地名表ともに所在地は「猪方626番地」とされており、これを『狛江村土地宝典』で確認すると、南側の道路が交差するあたりが該当地となります。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-270.html(「地蔵塚」2014/12/17
跡地にはお堂があり、この中にお地蔵様が安置されています。
かつては墳丘上に祀られていたのでしょうか。古墳は、大正期に道路用の土砂の採取のために削平されたといわれています。

お地蔵様。
もともとこの場所にあった古い石地蔵を、昭和48年(1973)に再建したものであるそうです。

地蔵塚の南の辻にある「猪方626番地」です。
「猪方626番地」はこの場所であり、『狛江市農業協同組合史』でもこの場所を地蔵塚の跡地として取り上げています。この周辺は古墳が密集した地域でもありますし、どちらも古墳の跡地であった可能性も考えられますが、真相はわかりません。。。

南西から見た馬頭観音の石塔です。
塚上に高くなった部分が古墳の残存部分ではないだろうかと妄想するのが楽しかったりするわけなのです。。。

本日最後の古墳は昭和35年の地名表の99番に記載されている「猪方稲荷塚古墳」です。
昭和35年の地名表の所在地は「猪方650番地」、昭和51年の地名表の所在地は「猪方694番地」と記載されています。現在の「山本稲荷」の社地は650番地と一致します。
道路を挟んだ西側が694番地ととなるようですので、かつては両区画にまたがる大きな古墳であったのかもしれません。
直径10~15メートルほどの墳丘が存在したといわれています。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-273.html(「猪方稲荷塚」2014/12/20)
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-855.html(「猪方稲荷塚(山本稲荷)その2」2018/02/01)

山本稲荷は、古墳ではないかと考えられる塚の頂部に祠が祀られていました。「山本稲荷」の名称の由来は、山(塚)の上に祠があったためであるといわれています。塚は昭和初期に削平されて平地にされ、その跡地に祠が再建されたそうです。
社地が周囲よりも一段高くなっており、これは古墳の名残ではないかとも考えられるのですが、これが古墳の残存部分であるか否かは今後の調査の進展を待たなければなりません。

以前は、社地の南側に消防団の器具置き場の建物があったのですが、いつの間にかなくなって駐車場になっています。
おかげで写真が撮りやすくなりました。。。
<参考文献>
塩澤栄八郎『東京府北多摩郡狛江村土地宝典』
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
狛江市『新狛江市史民俗調査報告書1 猪方の民俗』
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- 2020/12/18(金) 23:39:01|
- 狛江市/その他の古墳・塚
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今回最初の古墳は、狛江市猪方3丁目に所在する「猪方小川塚古墳」です。
この古墳は、平成23年の発掘調査により、多摩川中流域から下流域の古墳の中では数少ない、切石積みの横穴式石室が確認されています。石室内の壁面を観察すると工具で加工した痕跡が残されており、切石を巧みに組み合わせて造られたことが判明しています。
その後、この貴重な石室の保存、公開を目指して、狛江市により保存整備が取り組まれてきました。石材には保存処理が施され、石室には覆屋が設けられて石室内部をガラス越しに観察できるように整備されました。
画像は、整備が終わり、ついに今年公開された「猪方小川塚古墳公園」です。

公園整備中には説明板がフェンスに設置されていましたが、今はちゃんと地面に設置されています。笑。
この古墳は、以前にも二度取り上げており、発掘調査後の現地説明会の様子も取り上げています。詳しくはそちらを参照してくださいませ。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-88.htmll(「猪方(いのがた)小川塚古墳」2012/12/31)
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-857.html(猪方(いのがた)小川塚古墳」その22018/02/03)

公園内に入ったところ。
古墳をイメージできるように周溝部分に芝が張られて修景されています。
開発の進んだ閑静な住宅街にあって、センスを感じる最先端の史跡公園ですね。
この公園は、公開を楽しみに待っていましたが、新型コロナウィルスによる緊急事態宣言などもあり、すぐに訪れることができませんでした。
ようやく訪れたのは宣言が解除された直後の6月でしたが、公園が公開された直後ということもあり、とても綺麗な状態でした。

墳丘の様子です。
墳丘の一部は復元されており、覆屋内の石室を見学することができます。

覆屋の正面から内部を見たところです。
前室から玄室手前にかけて、大きめの河原石が敷き詰められており、玄室奥には細かい礫が敷き詰められています。この礫の上部からは2個一対の耳環が出土しています。
東京都内ではこうした石室を見学できる施設は限られていますし、素晴らしいですね。。。

現地説明会は、2012年10月20日と21日に行われています(確か)。
画像はこの現地説明会にて公開されていた石室の様子です。

墳丘上には木製の階段が設けられており、覆屋の横からも石室内を見学することができます。
発掘された周溝により、古墳の規模は直径約22mの円墳で、7世紀代の築造と推定されています。。。

内部はこんな景観です。(*'v^*)ステキ♪
都内の古墳の整備・公開の状況は、今後は狛江市が引っ張っていくのかもしれませんね。この猪方小川塚古墳と亀塚古墳は公園整備が終わり、公開されています。兜塚古墳と経塚古墳も見学が可能ですし、飯田塚古墳も破壊されずに住宅街の中に残されました。
次は土屋塚古墳の整備、いずれは白井塚古墳の整備も行われるものと思います。楽しみです。。。

画像は、「狛江古墳群地名表」の94番に記載されている名称のない古墳の跡地周辺の様子です。所在地は旧番地で「猪方529番地」で、『狛江村土地宝典』で照らし合わせると、道路の右側あたりが跡地となるようです。
こちらは古墳の痕跡はまったく見られませんでした。。。

画像は、「狛江古墳群地名表」の95番に記載されている「大塚古墳」の跡地周辺の様子です。所在地は旧番地で「猪方529番地」で、『狛江村土地宝典』で照らし合わせると画像のあたりが跡地となるようです。
多くの古墳が密集する狛江古墳群中にあって「大塚」という名称ですので、かなり大きな古墳であったかと思われますが、やはり痕跡はまったく残されていないようです。。。

画像は「猪方649番地墳」の所在地周辺の様子です。
この古墳は『狛江市の古墳(Ⅰ)』にある地名表には記述がなく、『狛江市史』にのみ記載がある古墳です。
この古墳は以前に一度、この『古墳なう』で取り上げました。
所在地と思われるお宅も訪ねて色々お聞きしてみたのですが、敷地内に古墳はなく、過去の古墳にまつわる伝承も特にないという、まったく正体のわからない古墳です。
狛江はこうした広い農地が残されていますしね。未確認の古墳の残骸がひっそりと残されている可能性は考えられるのですが、この古墳に関しては何もわかりませんでした。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-276.html(「猪方649番地古墳」2014/12/23)

画像は、「久保・前原1号墳」の所在地周辺の様子です。
道路の右側あたりが古墳の所在地です。
この周辺は多くの古墳の伝承も残されている地域ですが、実際に発掘調査により古墳の周溝が確認されています。
この古墳は、2014年12月18日の回で一度取り上げていますので、詳しくはそちらを参照してくださいませ。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-271.html(「久保・前原1号墳」2014/12/18)

「久保・前原2号墳」の所在地はこのあたり。
この古墳も、2014年12月19日の回で一度取り上げていますので、詳しくはそちらを参照してくださいませ。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-272.html(「久保・前原2号墳」2014/12/19)
今日はここまで。
最近、長文を書き上げて「記事を保存」をクリックすると、メールアドレスとパスワードを要求される画面に飛ばされて、パスワードを入力してクリックすると、書き上げた長文が全て消失してしまうということが3度続き、さすがに気持ちが折れました。
記事を書きながら日をまたいでしまうとダメなのかな?
それで更新をやめてしまうのもシャクなので、気を取り直して、まずは下書きを完全に書き上げてから更新するように気をつけていますが、それにしてもひでえ目にあった。。。
<参考文献>
塩澤栄八郎『東京府北多摩郡狛江村土地宝典』
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
狛江市『新狛江市史民俗調査報告書1 猪方の民俗』
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- 2020/12/17(木) 23:24:39|
- 狛江市/その他の古墳・塚
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狛江百塚コンプリート2020、その15。
前回までは和泉支群に属する古墳を取り上げてきましたが、今回からは猪方支群へと移ります。
最初の古墳は、「狛江古墳群地名表」の86番に記載されている「供養塚古墳」です。所在地は旧番地で「猪方149番地」とされており、『狛江村土地宝典』で確認すると、画像の道路の左側あたりが古墳の跡地となるようです。
「供養塚」という名称からして古墳ではなく塚なのではないかとも考えられますが、学術的な調査が行われていないことから塚の性格はわかりません。また、道路が弧を描くように折れ曲がっているあたりは古墳の痕跡なのではないかとも考えましたが、真相は不明です。。。

画像は、狛江市駒井3丁目の「供養塚公園」です。
以前にこの供養塚を取り上げた時は塚の所在地がわからず、名称が残るこの公園を掲載しました。
なにか謂れが残されているのではないかと考えて文献を探しましたが、これもうまく見つかりませんでした。

画像は、「狛江古墳群地名表」の87番に記載されている名称のない古墳の跡地周辺の様子です。
所在地は旧番地で「猪方215番地」で、『狛江村土地宝典』で照らし合わせると、道路の突き当たりのさらに奥のあたりが古墳の跡地となるようです。

87番の無名古墳の所在地とあたりをつけて行った場所に、個人の民家の敷地の塀がポコッと出っ張っていて「怪しい!笑」と感じましたが、これが古墳の痕跡であるかどうかは未確認です。。。

87番無名古墳の西側に稲荷神社を発見。
猪方2丁目11番に所在する「玉本稲荷」で、住宅地として開発が進んだ中に道路と道路に挟まれるように極端に細長くなった境内に祠が祀られています。周辺の講中稲荷と比べて多くの家々構成されていることから「五目稲荷」とも呼ばれているそうです。

近くで見るとこんな感じ。
なんだか水に浮く船のようにも見えますね。

南西から見たところ。かなり細長いですよね。
周囲よりも一段小高くなっていることから古墳と関係はないだろうかと妄想しましたが、真相はわからず。単なる妄想だと思います。。。

祠の様子です。
近世期に京都の伏見稲荷大社から分霊を分けてもらい、当地に勧請された稲荷祠で、天保四年(1833)の神璽授与症が残されているそうです。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=193508&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年3月29日に米軍により撮影された玉本稲荷周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
驚いたことに、画像の中央に前方後円墳を思わせるような不思議な形状の地形がみられます。
これを現代のGoogleマップと見比べると、前方部にあたる場所が現在の玉本稲荷と重なります。
まさか、玉本稲荷は前方後円墳の残存する前方部???昭和23年当時は今ほど細長くなかったようですが、両側に道路が建設された結果、かなり細長くなってしまっているようです。
これが前方後円墳の残骸なのか、それともなんらかの事情でたまたまこういう地形が出来上がったのか、正体のまったくわからない地形ですが、今回は、わからないものもわからないまま公開しようというコンセプトですので、バンバン公開しています。何かわかった時にはあらためて追記するつもりです。。。

画像は、「狛江古墳群地名表」の88番に記載されている名称のない古墳の跡地周辺の様子です。
所在地は旧番地で「猪方306番地」で、『狛江村土地宝典』で照らし合わせると、道路の左側あたりが跡地となるようです。
道路左の塀がうっすらと膨らんで見えるあたりは、ひょっとしたらかつての古墳の痕跡ではないかと妄想しましたが、真相はわからりません。。。

画像は、「狛江古墳群地名表」の89番に記載されている名称のない古墳の跡地周辺の様子です。
所在地「猪方456番地」を『狛江村土地宝典』と照らし合わせると、道路の右側あたりが跡地となるようですが、古墳の痕跡は見られません。

「狛江古墳群地名表」の90番の名称のない古墳の跡地周辺の様子です。
所在地「猪方449番地」を『狛江村土地宝典』と照らし合わせると、道路の左側あたりが跡地となるようですが、やはり古墳の痕跡は見られません。

「狛江古墳群地名表」の92番は「久保塚西方古墳」です。
昭和51年の地名表では「前原塚西方墳」の名称で掲載されている古墳です。
戦後の空中写真で確認すると、この久保塚西方古墳と考えられる影を見ることができます。
所在地である「猪方546番地」を『狛江村土地宝典』で確認、また空中写真とも照らし合わせると、画像のあたりが跡地となるのではないかと思われます。
発掘調査が行われれば周溝は地中に残されているのではないかと思われますし、埋葬施設の基底部が検出されるという可能性も考えられそうです。今後の調査の進展が楽しみな地域です。。。
この古墳は、2014年12月15日の回で一度取り上げていますので、詳しくはそちらを参照してくださいませ。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-268.html(「前原塚西古墳(久保塚西方墳)」2014/12/15)
今回はすべて跡地で、風景写真ばかりになってしまいました。
でも前回といい今回といい、戦後の空中写真で謎の前方後円形の地形がみつかったりと、狛江の古墳を追いかけていると面白い発見ばかりです。
次回は残存する古墳。「猪方小川塚古墳」を中心に取り上げます。
<参考文献>
塩澤栄八郎『東京府北多摩郡狛江村土地宝典』
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
狛江市『新狛江市史民俗調査報告書1 猪方の民俗』
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- 2020/12/15(火) 23:31:35|
- 狛江市/その他の古墳・塚
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出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=193395&isDetail=true) 今回も「狛江百塚コンプリート2020」、その14です。
昭和35年、当時の狛江町教育委員会により狛江古墳群の分布調査が行われ、この際に「狛江古墳群地名表」が作成されました。この地名表の84番には「兵庫塚」という名称の古墳が記載されています。
所在地は旧番地で「和泉3656番地」とあり、現状は「河床、平夷」、形状も不明で「規模・その他」の欄には「多摩川河床南岸寄り」と書かれています。
そもそもこの古墳は謎だらけで、『狛江村土地宝典』で和泉3656番地を探してもうまく見つけられず、正確な所在地がよくわかりません。また地名表にある「多摩川河床南岸寄り」も、つまりは多摩川土手の内側の川崎市寄りということか?という程度で、古墳の跡地としては理解不能です。
また、前方後円墳を思わせる「兵庫塚」の名称も、まさか?という印象しか持ちませんでした。
6年ほど前、実は兵庫塚を探してこの土手沿いを自転車で流してみたことがあります。
この時は兵庫塚の存在に半信半疑だったこともあり、土手上の沿道を走りながら多摩川周辺を観察したのみで、古墳らしき地形も見られなかったことからそのまま帰宅してしまいました。
しかし、その後何年か経ってからなんとなくこの周辺の空中写真を眺めていて、「う!この地形は?」という不思議な形状を発見することとなります。。。
というわけで、画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年に米軍により撮影された多摩川南岸の空中写真です。わかりやすいように周辺を切り取っています。
画像の左側を北西から南東に走っているのが、現在の多摩川土手の沿道で、多摩川と遠藤の間の、現在グラウンドとなっている土手沿いの一帯は、当時は畑地として使用されていたようです。
そして、画像の中央に不思議な形状の影が見えます。
最初に散策した時も空中写真で確認していたのですが、この時はまったく見落としていました。
「まさか、やはり兵庫塚古墳はやはり前方後円墳で、当時残存していた兵庫塚古墳の残骸では?」とも思える、かなり興味深い形状です。。。

というわけで、最近になってようやく、多摩川の河川敷を散策するチャンスが来ました。
目的ははっきりと、空中写真にある前方後円墳らしき地点と、一部狛江市の境界となっている2箇所の散策です。
当日は小田急小田原線登戸駅を降りて徒歩で現地に向かいました。
画像は、多摩沿道道路を渡って多摩川の河川敷に降りたところ。目の前の世田谷通りの橋をくぐったあたりがすぐに目的地となります。

空中写真にある前方後円形の影をGoogleマップと照らし合わせると、現在の大原学園のサッカー場の北の角のあたりが所在地となるようです。
画像中央の細い道の左側あたりが推定地です。
残念ながら現在はグラウンドとして整地されており、古墳らしき痕跡はまったく見られません。

対岸の、狛江市側から推定地周辺を見たところです。
こちら側から見ると怪しげな感じで、何か残っていそうに思えますよね。。。

さて、前方後円形の地形の場所は実は狛江市ではなく川崎市となるのですが、Googleマップで確認すると、この先の土手沿いに狛江市の境界となる場所が2箇所存在します。
おそらくは、かつての多摩川は今よりも蛇行しており、この蛇行していた時期に川崎市と狛江市の境界が決められたのではないかと思いますが、この狛江市となっている場所も念のため、見ておこうと思います。

以前は「多摩沿線道路」なる道路から観察したのみで、この道の存在には気が付きませんでした。
都会の真ん中で山の中を歩いているような不思議な感覚になる道で、地面は未舗装、周囲はものすごい藪です。。。

このあたりが狛江市となるはずなのですが、特に古墳らしき光景は見られません。。。

途中、藪の中にのびる獣道のごとき細い道があり、さらに左右に藪を分け入ったあたりに人の住む気配が感じられます。
揉め事は避けたいですし、足早に通り過ぎましたが、とても興味深い場所です。。。

途中、木の枝に不自然に枯れ草が引っ掛かっていました。
おそらく、昨年の多摩川の反乱の際、この枝のあたりまで水位が上がったわけですよね?
自然の猛威は恐ろしいです。。。

対岸に、狛江の五本松が見えます。
日活の撮影所から近く、時代劇のロケなどにも使われたことがある地元では有名な場所で、この風景は「多摩川50景」や「新東京百景」に選ばれています。。。

このあたりで再び狛江市に入るはず。
しかしやはり古墳らしき痕跡は見当たらず。
深い藪のみが広がっています。。。

途中、カラスが集中して集まっている場所が。
死体でもあったらたまらんとビビって、ここも足早に逃げました。。。

多少視界がひらけてきました。
このあたりから再び川崎市となるはず。

再び、対岸から見た狛江市となる周辺の様子。
見渡す限りの藪ですね。
ちなみに画像の上にちらりと見えているのが「五本松」の枝です。笑。

帰り道は、以前と同じ「多摩沿線道路」を歩きました。
画像は、多摩沿線道路から見た狛江市となる地域周辺です。
やはり、古墳らしき光景は見られませんね。。。

もう1箇所、多摩沿線道路から見た狛江市となる地域周辺です。
「かわしん総合グラウンド」の奥半分ほどか狛江市でしょうか。。。
というわけで、今回のこの「兵庫塚古墳」については、そもそも空中写真の古墳らしき位置と地名表にある所在地「和泉3656番地」が一致しているのかどうか確認もできていないまま現地を訪れてしまいましたし、空中写真の地形が古墳であるかどうかも不明。しかも現地でもなんの痕跡も見つけることができなかったので、収穫なしという状況ではあります。
ただし、空中写真で見つけた不思議な地形の場所をこの目で確認できましたし、何より知らない道を歩くのは楽しいですし、そういう意味で収穫ありとしようと思います。
それにしても、藪の中に住民がいるのは知らなかったな。。。
今回で和泉支群の古墳は終了。
次回から猪方支軍の古墳へと移ります。
引き続き、これまでに掲載した古墳も含めて、私が調べて散策したすべての古墳を公開していこうと思います。
乞うご期待!
<参考文献>
塩澤栄八郎『東京府北多摩郡狛江村土地宝典』
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
狛江市『新狛江市史民俗調査報告書6 和泉の民俗』
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- 2020/12/13(日) 20:34:44|
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