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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「立川市№13遺跡(沢稲荷)」

「立川市№13遺跡(沢稲荷)」

 画像は、立川市柴崎町4丁目にある「沢稲荷」を西から見たところです。普濟寺東側からこの沢稲荷を中心とした付近は「沢」と呼ばれる古い地名で、この「沢の稲荷」は、長い間水田の神様として付近の人びとの信仰を集めてきました。この稲荷社の土台となっているマウンドは古墳ではないかと考えられている塚で、『東京都遺跡地図』には立川市の遺跡番号13番の古墳として登録されています。立川市内で唯一、墳丘の残存する古墳です。


「立川市№13遺跡(沢稲荷)」

 画像は、№13遺跡を東から見たところです。学術的な調査が行われていないことから詳細のわからない古墳ですが、ボーリング調査の結果、石室の存在が確認されており、「相当の規模を有する古墳である」ことが、立川市教育委員会より発刊された『立川市教育資料Ⅰ』に記されています。


「立川市№13遺跡(沢稲荷)」

 平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「直径15m、墳丘上部は削平されて稲荷社が祀られ、周囲には樹木が茂っている。墳丘の南側は袖が半円状に残されているが他の部分は直線状に整地され、北側には階段がある。墳丘上には中小の礫が見うけられる。」と書かれています。画像は、南東から見た墳丘のようすですが、確かに削られた墳丘は方墳の如く見うけられますが、古墳は円墳ではないかと考えられているようです。


「立川市№13遺跡(沢稲荷)」

 墳丘上のようすです。鳥居をくぐって石段を登ったところに稲荷社が祀られています。
 この沢稲荷の古墳の西に数十メートルの地点には、前回紹介した遺跡番号16番の古墳が所在したといわれており、さらにこの古墳のすぐ南側には、明治末年まで2基の古墳が存在していたという古老の証言もあるようですので、想定するよりも多くの古墳が存在する古墳群が形成されていたのかもしれません。


「立川市№13遺跡(沢稲荷)」

 『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には、墳丘上に中小の礫が見られることが書かれていますが、凝灰岩風の石材らしき石が露出しています。ひょっとしたら埋葬施設は河原石積みではなく、切石積横穴式石室ではないかと期待してしまいますが、発掘調査が行われてみないと何ともいえませんね。。。


「立川市№13遺跡(沢稲荷)」

 墳丘上から北東側を見下ろしてみたところです。この角度から見ると墳形は円墳であるように見えます。
 立川市に唯一残されているこの古墳が今後良い形で残されることを祈ります。。。

<参考文献>
立川市史編纂委員会『立川市史 上巻 』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
立川市教育委員会『立川の歴史散歩』


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  1. 2017/07/10(月) 00:59:55|
  2. 立川市の古墳・塚
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「立川市№16遺跡」

「立川市№16遺跡」

 『東京都遺跡地図』によると、多摩川中流域左岸の立川市柴崎町4丁目には2基の古墳が登録されています。1基は、現存する墳丘上に沢稲荷が鎮座する「立川市№13遺跡」、そしてもう1基が、立川市の遺跡番号16番に登録されている「立川市№16遺跡」です。

 この№16遺跡は昭和30年(1955)5月11日、土地所有者による樹木の移植の際に石室が偶然に発見されたという古墳で、学術的な調査が行われなかったことから詳細は不明で、古墳の正確な場所もわからなくなっていたようです。
 『立川市史 上巻』には、古墳が発見された当時のようすが記されており、同書には「発見された状態は、大形(四十センチ以上)の石四二個、中形(二十センチ以上)四五個が南側を入口にし、幅二メートル、長さ六メートルの長方形の形状で、南北に四段に石が積み重ねられていて、その間口には無数の小石がはさみこまれていた。東側の壁はすでに相当破壊されており、原型は推定に留まるものであるが、この種のものは多摩川沿岸の古墳に多く見られるもので、調布市の狐塚や、国立市谷保天神社東側に発見されている古墳と同様の形式で、一応古墳時代の後期に属すると推定されるものである。なお発掘に際し発見されたものは、当時の土師器片3個である。」と書かれています。

 古墳の石室は埋め戻されて地中に残存しているのか、それとも完全に破壊されて消滅してしまったのか詳細はわからないのですが、その後の平成18年(2006)には住宅建設に伴う発掘調査が行われ、古墳の周溝の可能性も考えられる溝が検出されています。この溝は、緩やかな円弧を描いているものの確認された範囲が限られており、古墳の周溝であると断定はされていないようですが、昭和30年に石室が発見されたとされる推定地と隣接している(石室が発見された詳細な地点は不明とされている)ことから、この溝が古墳の周溝である可能性も十分に考えられるようです。

 大田区から世田谷区、狛江市から調布市、府中市、国立市と、多摩川左岸下流域からはかなり多くの古墳が確認されており、また立川市の上流にあたる昭島市からも古墳の周溝や埋葬施設が確認されているのですが、立川市内からは学術的な調査により確認された古墳はなぜか1基も存在しないという状況です。この№16遺跡周辺地域の調査の進展次第では、立川市の古墳時代の様相が明らかになってくるものと思われます。楽しみですね。。。

<参考文献>
立川市史編纂委員会『立川市史 上巻 』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
立川市教育委員会『立川市埋蔵文化財調査報告集 Ⅲ』


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  1. 2017/07/07(金) 01:56:37|
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「狐塚」

「狐塚」

 現在の立川市錦町5丁目には、古墳ではなかったかと考えられる「狐塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。『東京都遺跡地図』には未登録の古墳ですが、立川市史編纂委員会より昭和43年(1968)に発行された『立川市史研究』には、地元の古老の口伝として次のように紹介されています。

(三) 狐塚、この塚は、つむじ塚の稍々南に位置し、極めて近接しており、地番は錦町5丁目12番に存在したらしい。 
 小川氏の話によると、相当大規模であったらしく、想像をたくましくすれば、恐らく富士塚位あったであろうとの推定がつく。また円墳らしく思考できる性質のものであったらしい。現在は如何なる理由によるものか、空き地になっており、雑草の茂るにまかせているのはどうしたわけであろうか。
 尚、小川氏の父はこの塚の存在した当時、野良帰りに時々狐の子供が遊んでいるのを見かけたと、昔話しによく語ってくれたといっている。しかしながらすでに消滅してしまっているので、考古学的に証明する事は困難であるが、古墳が存在してもよい立地条件の箇所であることは、筆者も水野教授も意見の一致を見ている。(『立川市史研究 第九冊』58~59ページ)


 「狐塚」という名称からして、狐穴の存在と開口した埋葬施設の存在を連想してしまいますが、西方には『東京都遺跡地図』に登録されている「立川市№13遺跡」と「立川市№16遺跡」の2基の古墳があり、№13遺跡は墳丘が残存しています。この2基の古墳と同じ台地上の縁辺部という立地的な環境から考えてもこの塚は古墳ではなかったかとも考えられますが、残念ながら学術的な調査が行われることなく消滅しており、詳細はわかりません。画像の道路の左側あたりが塚の跡地とされている地点です。


「狐塚」

 画像は右側が立川公園で、左側の立川崖線上(府中崖線)に「狐塚」と「つむじ塚」の2基の塚が並ぶように存在していたと思われます。塚の跡地周辺地域は宅地化が進んでおり、痕跡は何も残されていないようです。。。

<参考文献>
八巻義昌「立川市内に於ける消滅古墳について」『立川市史研究 第九冊』
立川市『立川市史 上巻』


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  1. 2016/10/07(金) 02:02:24|
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「つむじ塚」

「つむじ塚」

 現在の立川市錦町5丁目には、古墳ではなかったかと考えられる「つむじ塚」と呼ばれる塚の伝承が残されています。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、立川市史編纂委員会より昭和43年(1968)に発行された『立川市史研究』には、地元の古老の口伝として次のように紹介されています。

(二)つむじ塚、現在の錦町五丁目六番地に存在していたらしい。
 小川氏の話によると、昔日秩父方面より非常に大規模のつむじ風が立川方面に向ってきたが、この地点より田無方面に方向を変えたということである(あるいは野火止方面であるともいっている)。
 立川附近のつむじ風は、今日では人家がたちこめ余りひどくなくなったが、私達の小学生時代には早春から初夏にかけて、桑畑つづきの台地に屢々見うけられ、そのための赤土が数百米の上空まで達して、万点紅に染められたすさまじさを日々体験していたので、このような自然の猛威に対して、それらを鎮めようがために祀られた祠のような気がする。そして、このつむじ風はむしろ秩父方面からではなく、国立方面より旧立川方面に向って来たように筆者は記憶しているし、塚の位置からすれば、国立方面から来るつむじ風を、この地点で田無方面に変えさせたとする方が自然であると考えられる。


 つむじ塚の北側のかなり近い位置には「狐塚」と呼ばれる塚が存在していたといわれており、この2基ともに古墳ではなったかとも考えられているようです。画像の道路の左側あたりが塚の跡地と思われますが、周辺は宅地化が進み、塚の痕跡は何も残されていないようです。。。

<参考文献>
八巻義昌「立川市内に於ける消滅古墳について」『立川市史研究 第九冊』
立川市『立川市史 上巻』


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  1. 2016/10/06(木) 00:39:26|
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「通称こうじや附近の塚」

「通称こうじや附近の塚」

 立川市柴崎町4丁目には現在、「立川市№13遺跡」と「立川市№16遺跡」の2基の古墳が『東京都遺跡地図』に登録されています。№16遺跡はすでに墳丘は消滅しており、昭和30年の樹木の移植の際に古墳の埋葬施設が偶然発見されたという伝承と、平成18年の発掘調査により周溝の可能性が考えられるという溝の一部が検出されたという記録が唯一の古墳の記録となっています。墳丘が残存する古墳は、沢稲荷の社殿が鎮座する№13遺跡の1基のみであるようですが、周辺には古墳ではなかったかと考えられている塚の伝承が残されているようです。

 昭和43年に発行された『立川市史研究 第九冊』に掲載されている「立川市内に於ける消滅古墳について」の中で、八巻義昌氏は柴崎町4丁目に存在したとする「通称こうじや附近の塚」について「この塚の番地は現在明らかでないが、普済寺の北側とも東側ともいわれていて、これもはっきりしないが、小川氏は柴崎町4丁目162番地あたりといっている」と記しています。

 多摩川中流域左岸の古墳群の分布は府中崖線状の台地縁辺部に集中しており、調布市下布田・上布田古墳群から飛田給古墳群、府中市白糸台古墳群から高倉古墳群、御嶽塚古墳群、国立市下谷保古墳群から青柳古墳群と続いています。立川市内のこの段丘上に古墳が存在した可能性も十分にあるのではないかと思います(勿論素人考えですが)。これまでに紹介した立川市内の塚の多くは台地縁辺部からは距離があり、古墳ではなかったのではないかと思われるのですが、この通称こうじや附近の塚は台地縁辺部に近く、また古墳であるとされる№13遺跡と№16遺跡ともかなりの近距離にあることから、古墳であった可能性も考えられると思われますが、削平の際の遺物の出土の伝承等もなく、学術的な調査も行われていないため、詳細はわかりません。

 画像の道路の右側あたりが旧番地の162番地となりますが、路上から確認したところでは古墳らしき痕跡は残されていないようです。。。

<参考文献>
八巻義昌「立川市内に於ける消滅古墳について」『立川市史研究 第九冊』


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  1. 2016/10/05(水) 01:17:24|
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「立川市№12遺跡(正一位原市場稲荷大明神)」その2

「立川市№12遺跡(正一位原市場稲荷大明神)」その2

 画像は、立川市柴崎町にある「正一位原市場稲荷大明神」を西から見たところです。画像の鳥居をくぐって住宅地の間の細い道を進んだ左側に、原市場稲荷があります。この稲荷神社周辺は埋蔵文化財包蔵地とされており、境内には「№12遺跡」の名称で立川市の遺跡番号12番の「古墳」が登録されています。以前に一度取り上げた古墳ですが、神社の境内が整備されてかなり状況が変わったことと発掘調査の記録を見つけることが出来たので、あらためて紹介したいと思います。

 まずは前回のおさらいという感じですが、この神社が古墳の跡地であるとする根拠とされる、『立川市史 上巻 』(昭和43年発行)に掲載されている、昭和30年代に八巻義昌氏により書かれた記事を紹介したいと思います。

 立川市柴崎町2丁目73番地に所在する、原市場稲荷社(正一位原市場稲荷大明神)境内について、かねて古墳(円墳)の跡ではないかという疑問があった。
 しかしながら現在古墳らしき封土はなく、完全に破壊されており、僅かに隣接土地とのレベルと比較して、幾分境内全般が浮びあがっているように見受けられるが、古墳阯と推定し得る理由としては、左記の7項目をあげ得る。
 ⑴ 現在の祠が造営される以前、古墳(円墳、以下古墳と呼ぶ)らしい封土があった。
 ⑵ ⑴について調査の結果、封土のあった事実を裏付ける地元民ならびに古老の証言が得られた。
 ⑶ 調査に際し、入手した祠造営落成式の写真により、明らかに封土を削土したと思われる状態がみられる。
 ⑷ 封土があった当時より存在したと推定される境内周囲の樹木の根間に、古墳造営時に使用されたと思われる自然石が多数はさまっている。
 ⑸ ⑷の樹木については、祠造営時封土を削土した際、樹木の根元深く鍬をいれたため露出せし主要根が、樹幹同様に変化している様子がよくわかる。
 ⑹ 昭和18年頃まで、境内に扁平形の自然石(40cm×20cm程度)が点在していた。
 ⑺ 調査により、境内に小形の自然石(20cm×7~8cm程度)ならびに打撃による加工を認められる石の散布が注意される。
(『立川市史 上巻 』218~220ページ)



「立川市№12遺跡(正一位原市場稲荷大明神)」その2

 画像は、現在の原市場稲荷の境内のようすです。敷地内は整備が行われており、かつて存在したとされる封土はもちろん、樹幹同様に変化しているという主要根や古墳造営時に使用されたと思われる石材らしき自然石も消滅しており、残念ながら見ることはできません。
 この場所は、平成14年と17年に立ち合い調査が行われているようですが調査成果は特になく、平成20年(2008)に初めて境内の北側における発掘調査が行われていますが、やはり古墳に関係する遺構や遺物は検出されなかったようです。
 社殿が改築された当時の古写真を参考にすると、古墳に関係する遺構が検出されるとすれば神社の東側から南側にかけてあたりではないかとも思うのですが、こちら側はまだ調査が行われていないようなので、この辺りは今後の調査の結果を待たなければなりません。


「立川市№12遺跡(正一位原市場稲荷大明神)」その2

 実は、以前の原市場稲荷の社殿は少し傾いており、地中に空洞でも存在するのではないかと考えていた!というお話を、最近になって立川市の歴史民俗資料館でお聞きしました(あくまで雑談のなかでです)。古墳の存在が想定されている場所で地中に空洞が存在するとなると、がぜん残存する石室の存在を想像してしまいますが、ここであらためて社殿のようすを見比べてみたいと思います。
 画像は現在の整備後の社殿を南から見たところです。社殿も建て直されているようですので、さすがに傾きは見られないようです。


「立川市№12遺跡(正一位原市場稲荷大明神)」その2

 画像が、整備される以前の原市場稲荷社殿のようすです。確かに、基礎の部分の西側が沈下して、西に傾いているように感じます。このあたりの地中に何か存在するのでしょうか。
 多摩川中流域左岸に存在する調布市から府中市、国立市にかけての古墳は、単独墳である武蔵府中熊野神社古墳や天文台構内古墳を除くとまるで測ったかのように府中崖線縁辺部から一定の距離の中に築造されています。この立川市№12遺跡は崖線からかなり離れた場所に存在していることから、古墳ではなく塚であった可能性も考えていましたが(あくまで素人考えですが)、万が一地中から埋葬施設が発見されて古墳の存在が確認されれば大発見かもしれません。神聖な場所の調査はなかなか現実的ではないかもしれませんが、調査の進展が楽しみな場所ではないでしょうか。。。

<参考文献>
立川市史編纂委員会『立川市史 上巻 』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
立川市教育委員会『立川市埋蔵文化財調査報告書集』


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  1. 2016/08/23(火) 00:38:03|
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「ひめぎ塚(姫木塚?)」

「ひめぎ塚」

 現在の立川市柴崎町2丁目付近には「ひめぎ塚」と呼ばれる塚があったといわれています。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが古墳であった可能性も考えられており、立川市史編纂委員会より昭和43年(1968)に発行された『立川市史研究』にはこの塚について次のように紹介されています。

 現在柴崎町二丁目一六二番地先にあたり、都立蚕糸指導所の桑園内に在る。桜の古木とけやきの古木(すでに両木とも枯損している)があり、かすかに古墳らしい形迹を残しているのにすぎないが、調査の際、打製石斧一枚が、桜の古木の根の間にはさまっているのが発見された。(石斧は所謂打製式の縄文式中期士器
文化に伴う型式のものであり、石質は硬質粘板岩である)桜の古木は、筆者の小学生時代にはまだ枯れずに、毎年わずかながら花を咲かせていたと記憶している。(『立川市史研究 第九冊』59~60ページ)

 この『立川市史研究』が発行されたのは昭和43年ですから、少なくとも昭和42年頃まではなんらかの古墳の痕跡が残されていたようですが、その後の開発により塚は完全に消滅しています。
 この場所から北西に約200m程の地点に所在する「正一位原市場稲荷大明神」の境内にはかつて古墳が存在したのではないかとも考えられており、『東京都遺跡地図』には「立川市№12遺跡」の名称で古墳として登録されています。この「ひめぎ塚」が古墳であった可能性も多いに考えられると思われますが、残念ながら真相を知ることは出来ませんでした。。。

<参考文献>
立川市史編纂委員会「立川市内に於ける消滅古墳について」『立川市史研究 第九冊』
立川市『立川市史 上巻』

  1. 2015/07/02(木) 08:38:53|
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「神明様」

「神明様」

 現在の立川市柴崎町2丁目付近には「神明木」と呼ばれる場所がありました。寛文7年(1667)、弘化5年(1848)、慶応3年(1867)の『検地帳』に記されており、寛文7年の『検地帳』には「神明木原」と「神明木」とあります。立川市教育委員会より発行された『立川の地名-立川編-』によると、もともと「神明木原」とよばれた原野があって、次第に耕地化してきて、「神明木」という畑地が生まれたものと考えられているようです。旧番地で2682、2683番地には「神明様」と呼ばれる塚があり、塚の上には小祠が祀られていたといわれており、この「神明様」と地名の「神明木」は関連があったと考えられているそうです。

 画像は「神明様」の推定地を北から見たところです。周辺は開発が進んでビルが立ち並び、すでに塚の痕跡はなく、神明様の祠も残されていないようです。
 立川市内には残存する古墳は皆無に近い状況ですが、古墳である可能性が考えられる塚の言い伝えは数多く残されています。この「神明様」がどういう性格の塚であったのか詳細はわからなかったのですが、周辺には多くの塚が所在したともいわれており、この塚が古墳である可能性も考えて紹介してみました。

<参考文献>
立川市教育委員会『立川の地名-立川編-』

  1. 2015/06/30(火) 10:34:41|
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「こうべ塚」

「こうべ塚」

 現在の立川市錦町1丁目付近には「こうべ塚」と呼ばれる塚があったといわれています。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが古墳であった可能性も考えられており、立川市史編纂委員会より昭和43年(1968)に発行された『立川市史研究』にはこの塚について次のように紹介されています。

(五) こうべ塚、現在の錦町一丁目三十九番地の付近にあったらしい。
 小川氏の話によると、白骨化した人骨、特に頭部の白骨が多数散乱していたそうである。恐らく、昭和の初期までこの塚は存在していたらしいが、現在は家屋が密集しており、正確な存在場所は不明である。
 塚の頂きには、男松があったといっている。(管見では、立川氏の居館の跡の普済寺よりは鬼門にあたる位置に当り、永正元年の扇谷上杉の立川河原の合戦に関係のあるものか?そうすればこれは首塚で、古墳とは言えないかも知れない。)(『立川市史研究 第九冊』60ページ)

 旧番地の錦町1丁目39番地は画像の東京都下水道局の建物の周辺であると思われますが、塚の痕跡は何も残されていないようです。『立川市史研究』の記事を信用するならば古墳ではなく塚だったのではないかとも考えられますが、真相を知ることはできません。JR立川駅から10分程のこの場所に人骨が散乱する塚が存在したとは、開発の進んだ現在では想像もつきませんが、昭和初期から現代まで100年も経っていないことを考えると、戦後いかに急速に開発が進んだかを物語るエピソードではないかと思います。
 果たして「こうべ塚」は古墳だったののでしょうか。それとも後世の首塚だったのでしょうか。。。

<参考文献>
立川市史編纂委員会「立川市内に於ける消滅古墳について」『立川市史研究 第九冊』
立川市『立川市史 上巻』

  1. 2015/06/28(日) 08:47:26|
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「正身塚」

「正身塚」

 現在の立川市富士見町1丁目付近には「正身塚」と呼ばれる塚があったといわれています。『東京都遺跡地図』には未登録の塚で、古老の言い伝えにのみ残されている伝説の塚です。

 立川市教育委員会より発行された『立川の地名-立川編-』によると、元禄12年(1700)の『名寄帳』には「正身」と「正身塚」とあることから、正身という地域があり、そこに正身塚があったと考えられています。古老の言い伝えによると、塚は高さ約1メートル、広さ7平方メートル程の規模で、戦前までは残されていたようですが終戦後に崩されてしまったといわれています。塚の所在地については旧番地で2254番地付近に所在したとされているようですが、それよりさらに北側の、青梅線と五日市線の中間あたりに所在したとする説もあるようで、正確な跡地はわからなくなっているようです。

 画像は、旧2254番地付近を南東から見たところです。跡地と推定した一角の空き地となっている場所を撮影したものですが、開発が進んで宅地化が進んだ周辺地域も含めて塚の痕跡は何も残されていないようです。。。

<参考文献>
立川市教育委員会『立川の地名-立川編-』

  1. 2015/06/26(金) 02:43:34|
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