
今回は、多摩市和田に現存する「庚申塚古墳」です。以前取り上げたことのある古墳ですが、写真を新しいものに差し替えたかったので、あらためて紹介しようと思います。『東京都遺跡地図』には、多摩市の遺跡番号6番の遺跡として登録されている古墳で、画像はこの庚申塚古墳を西から見たところです。

わずかに残る高まりが古墳であると考えられており、周囲を道路や集合住宅などにより削られているものの、径約10mほどの墳丘が残されています。墳丘上には、多摩市教育委員会による標柱が建てられており、「和田の台地には6~7世紀頃の豪族の墓(古墳)が多数造られたが、現在その大部分が地上から姿を消している。この古墳は当時の姿を残す貴重な遺跡である。」とのみ記されています。

墳丘上のようすです。この場所は、地元の人には「庚申塚」と呼ばれている庚申さまで、庚申塔が地蔵尊とともに祀られています。氏子組織は山王社と重なっていて、山王社が男衆が中心の祭りであるのに対して、この庚申さまは女の人が主体の祭りです。10月の初申の日が祭日で、各戸順にヤドを定め、そこで念仏を唱和します。この祭りは今日でも行われているそうです。

古墳の北から東にかけての墳丘裾部が弧を描いており、円墳の面影が残っているようにも見受けられます。墳丘上には、画像に見られるように多くの河原石が見られます。かつて石室を構築した石材なのか、それとも葺石なのか真相は不明です。
『多摩地区所在古墳確認調査報告書』によると、この古墳の埋葬施設は、北東250mほどにある「塚原(つかっぱら)古墳群」と同様の、河原石による横穴式石室を持つものと推定されているようですが、学術的な調査が行われていないことから詳細はわからないようです。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩市史編集委員会『多摩市史 通史編 一』
人気ブログランキングへ
- 2018/10/14(日) 21:31:15|
- 多摩市/和田古墳群
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

画像は、多摩市和田の山王神社を南東から見たところです。
この神社は、関戸並木の講中11軒によって祀られており、社地が売却されたために現在は30坪ほどであるものの、かつては200坪ほどあったそうです。祭神は山の神であろうと言われています。南方100メートルほどにある庚申様(庚申塚古墳)の祭が「オンナシュウの祭り」であるのに対して、この山王神社の祭は「オトコシュウの祭り」であり、7月15日が祭日です。

記録が残されている昭和26年時点での塚原古墳群の分布図には、この神社の場所は「山王塚」の名称で古墳として掲載されています。庚申塚古墳が「全存」とされているのに対してこの山王塚は「全壊」とされており、この当時すでに墳丘は大きく破壊されていたものと思われますが、戦後の空中写真でこの場所を確認すると、庚申塚古墳とともに、畑の中にぽっかりと浮かぶこの山王塚もはっきりと確認することができます。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=219210&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)11月14日に米軍により撮影されたこの地域の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。画像の中央上が山王塚、中央下が庚申塚古墳です。

周囲よりも一段高くなっている境内が古墳の残存部分であるのかどうかは不明ですが、『東京都遺跡地図』には、庚申塚古墳が多摩市の遺跡番号6番に登録されているのに対して、この山王塚は未登録となっています。なんとも言えないところですね。。。

神社の境内の様子。特に、埴輪片や河原石等は見られません。
神社の周囲は近年急速に宅地化が進み、畑地は消滅してしまったようです。このマウンドも古墳の残存部分ではなく、整地されているのかもしれません。
この一帯は「和田・百草遺跡」として登録されているようですので、ひょっとしたら周囲の宅地造成の際に発掘調査が行われているかもしれません。このあたりは今後の宿題ですね。。。

<参考文献>
多摩市『多摩市の民俗(信仰・年中行事)』
多摩市計画道路事業1・3・1号線関連遺跡調査会『和田・百草遺跡群』
人気ブログランキングへ
- 2018/10/11(木) 00:30:54|
- 多摩市/和田古墳群
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

さて、ここまで塚原古墳群を形成する10基の古墳を紹介してきました。
かつては40~50基以上の古墳が存在したといわれている塚原古墳群ですが、記録が残されている昭和26年時点での分布図をみると、発掘調査により確認された古墳以外にも何基かの古墳が知られていたようです。画像は、現在の多摩市立多摩第二小学校ですが、この敷地内にも古墳が1基、存在したようです。
この場所は、平成25年に行われた校舎建替替工事に伴う発掘調査が行われており、調査区南側から溝状の不整形を呈する性格不明遺構2基が検出されています。この溝からは金銅製耳管が1点出土しており、古墳の周溝など施設の一部であった可能性が推測されています。
これまで行われた発掘調査では、塚原古墳群を形成する11基の古墳は全て野猿街道の南側に集中していたようですが、北側も含めて広く分布していたのかもしれません。。。

野猿街道側から見ると、小学校の一角にもしや古墳では?と思える築山が見えてドキッとするのですが、これは古墳とは関係ないかもしれません。笑。記録が残されている昭和26年時点での分布図を参考にすると、この築山のちょうど正面の道路上あたりに1基存在したようですが、これは野猿街道の拡張工事が行われるはるか以前、街道が敷設されたころにすでに破壊されてしまったのかもしれません。

塚原古墳群の野猿街道を挟んだ北側は街道の整備により切り通しとなり、まるで舌状台地かのように南西側に突き出たような形状となっていますが、この先端あたりにも古墳が1基、存在したようです。すでに宅地化が進んでいるようですが、何か痕跡は残されていないのでしょうか。。。

この台地上のフェンスで覆われた一角が気になって覗いて見ましたが、やはり古墳の痕迹は全くなし。野猿街道北側の古墳は、昭和26年当時にすでに全壊していたようですので、痕跡を見つけるのは難しいかもしれません。。。
このほか、現在の1号墳と6号墳の間にも、昭和26年当時に半壊の状態の古墳が2、3基残存していたようですが、これも痕跡は全く残されていないようです。
<参考文献>
多摩市計画道路事業1・3・1号線関連遺跡調査会『和田・百草遺跡群』
人気ブログランキングへ
- 2018/10/08(月) 21:39:46|
- 多摩市/和田古墳群
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

「塚原古墳群10号墳」は、平成9年に行われた緊急調査により周溝の一部が検出され、存在が確認された古墳です。墳丘径約18mの円墳と推定されており、幅1.3~2.4m、深さ20~40cmの周溝には陸橋部の存在が、また主体部は横穴式石室が想定されているようです。築造年代は不明とされています。
画像は、10号墳の跡地としてだいたいこの辺り、という場所ですが、発掘調査ののちに宅地として開発が進められており、地上に古墳の痕跡は見ることができません。
塚原古墳群は、発掘調査により少なくとも11号墳までは確認されているようですが、私が実際に現地で場所を確認したのはこの10号墳までです。ちなみに現在公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』では9号墳までしか掲載されていないようです。

かつては「塚原(つかっぱら)」と呼ばれたこの一帯も、西側の一部を除いてかなり宅地化が進んでおり、残存する墳丘が見られるのは個人の邸宅内に残された1号墳1基のみとなっているようです。
画像は、宅地化を逃れた古墳群の西側一帯の、この画像のみはわりと最近の画像です。あえてバス移動をして、ぶらっと立ち寄ってみたのですが、特に大きな変化は見られないようです。4号墳、8号墳、9号墳は、残存部分が地中に残されているものと思われますが、やはり地上に痕跡を見ることはできません。
今後、発掘調査が行われれば多くの古墳の周溝が確認されるのではないかと思われますので、調査の進展が楽しみな地域です。。。
<参考文献>
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳時代 ー国府以前の様相ー』
人気ブログランキングへ
- 2018/10/05(金) 01:33:11|
- 多摩市/和田古墳群
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

画像は、多摩市和田の塚原古墳群9号墳の跡地周辺のようすです。
『東京都遺跡地図』には多摩市の遺跡番号208-9番として登録されている古墳です。
この古墳は、『東京都遺跡地図』には多摩市の遺跡番号208-9番として登録されており、平成元年12月から平成2年2月にかけて多摩市遺跡調査会により発掘調査が行われています。主体部は、河原石による袖無型の横穴式石室が確認されており、石室内からは刀子1点、鉄鏃3点などが出土しています。
この9号墳に関しては、畑地の地下にまだ主体部が残存しているようなのですが、残念ながら地上に古墳の痕跡は何も残されていないようです。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳時代 ー国府以前の様相ー』
人気ブログランキングへ
- 2018/10/02(火) 02:14:23|
- 多摩市/和田古墳群
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

画像は、多摩市和田の塚原古墳群8号墳の跡地周辺のようすです。
『東京都遺跡地図』には多摩市の遺跡番号208-8番として登録されている古墳です。
この古墳は、昭和60年に多摩市遺跡調査会により発掘調査が行われています。幅2.4m~2.8m、深さ80~140cmの陸橋部を有する周溝が検出されており、墳丘径約14mの円墳であることがわかっています。主体部は調査時にすでに消滅しており、内容は不明とされていますが、周溝内からは土師器が出土しており、古墳は6世紀第Ⅳ四半期に築造されたと考えられているようです。
墳丘は発掘調査時に一部残存していたようですが、現在は消滅。送電線の鉄塔の場所が8号墳の所在地で、古墳らしき痕跡は見られないようです。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳時代 ー国府以前の様相ー』
人気ブログランキングへ
- 2018/09/28(金) 02:40:54|
- 多摩市/和田古墳群
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

画像は、多摩市和田に所在する「塚原古墳群7号墳」の跡地周辺のようすです。正確な地点ではなく、だいたいこの辺り、という場所です。『東京都遺跡地図』には「塚原古墳群」が多摩市の遺跡番号208番の遺跡として、また3号墳が208-7番の古墳として登録されています。
この7号墳は、昭和59年に多摩市遺跡調査会・多摩市教育委員会により行われた調査により存在が確認された古墳です。発掘調査時に大形の礫が集中して検出されたことから古墳であるとされたようですが、これらの礫は原位置を保つものではなく、この礫が集中する場所から南西に約2mの地点から検出された小石室状の土坑がこの7号墳ではないかとも考えられているようです。 この古墳も、2号墳や3号墳と同様に野猿街道の整備工事により消滅、すでに地中にも痕跡は残されていないのかもしれません。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳時代 ー国府以前の様相ー』
人気ブログランキングへ
- 2018/09/25(火) 08:43:51|
- 多摩市/和田古墳群
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

画像は、多摩市和田所在の塚原古墳群6号墳の跡地周辺のようすです。
『東京都遺跡地図』には208-6番として登録されている古墳です。
この6号墳は、昭和初期あたりまでは半壊という状況ながらも墳丘が残されていたといわれ、昭和60年に行われた多摩市計画道路事業1・3・1号線関連遺跡調査会による発掘調査の際にも、南北12m、東西5m、高さ1mの高まりが残存していたようです。マウンドの周囲からは、幅1.6m、深さ35〜45cmの周溝が検出されていますが、確認された周溝が一部であったことから、陸橋部の存在は不明とされています。古墳は、径約18mの円墳であると推定されています。主体部は河原石による複室構造の胴張りの横穴式石室で、石室内からは大刀1点、刀子1点、金環2点などが出土しています。
現在は野猿街道の整備工事により地中の周溝も含めて消滅しており、古墳の痕跡は何も残されていないようです。。。残念。。。
<参考文献>
多摩市計画道路事業1・3・1号線関連遺跡調査会『和田・百草遺跡群』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
人気ブログランキングへ
- 2018/09/21(金) 08:03:27|
- 多摩市/和田古墳群
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

画像は、多摩市和田の塚原古墳群5号墳の跡地周辺のようすです。『東京都遺跡地図』には208-5番として登録されている古墳です。
この古墳は、昭和62年と同63年に多摩市遺跡調査会により発掘調査が行われています。幅1.75m〜2m、深さ55〜80cmの陸橋部を有する周溝が検出されており、墳丘径約14mの円墳であることがわかっています。主体部は河原石による袖無型の横穴式石室で、石室内からは大刀3点、短刀1点、刀子4点、鉄鏃70点等が出土しており、石室外からも土師器や須恵器など多くの遺物が出土しています。
古墳群の東側はすでに宅地化が進んでおり、古墳の痕跡は見ることができません。墳丘をみることができる古墳は、個人の邸宅内に残された1号墳1基のみということになるようです。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳時代 ー国府以前の様相ー』
人気ブログランキングへ
- 2018/09/16(日) 00:15:11|
- 多摩市/和田古墳群
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

画像は、多摩市和田の塚原古墳群4号墳の跡地周辺を北西からみたところです。
この古墳は、古くは昭和38年、大谷勉、佐々木蔵之助両氏により発掘調査が行われ、その後昭和63年から平成元年にかけて多摩市遺跡調査会により再度、発掘調査が行われています。
古墳は、陸橋部を有する周溝が検出されており、墳丘径約14mの円墳であることがわかっています。河原石による復室構造の横穴式石室が確認されており、石室内からは大刀、短刀、刀子、鉄鏃など多くの遺物が出土しています。
この古墳も、調査時には墳丘の一部が残存したようですが、残念ながら現在は消滅。ただし、埋葬施設は現在も畑地の地下に残されているようです。
宅地化されずに残されている場所なので、墳丘も残しておけばよかったのに…と多少悔しい気持ちになりましたが、しかたがないですね。笑。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳時代 ー国府以前の様相ー』
人気ブログランキングへ
- 2018/09/13(木) 22:47:40|
- 多摩市/和田古墳群
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
次のページ