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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「八幡石」

「普門寺」

 画像は、日野市日野本町7丁目にある「普門寺」を南から見たところです。

 この普門寺は土淵山観音院と号し、真言宗智山派に属する高幡山明王院金剛寺の末寺に属していたという寺院です。『新編武蔵風土記稿』には、応永五年(1398)に僧義雲が創建し、本尊の聖観音立像が客殿に安置してあったようです。かつては、現在地より西方の本宿と呼ばれる古宿の付近にあったようですが、元亀元年(1570)に現在地に移されているそうです。
 このお寺の境内にはなんと!あの「七ツ塚古墳群」出土の石室の天井石といわれる巨石が安置されています。


「普門寺観音堂」

 日野市の有形文化財に指定されている「普門寺観音堂」です。
 現地説明板には次のように書かれています。

 (前略)観音堂は、もともと普門寺の東方500mにあった西明寺の堂宇として普門寺に移動し、拡張が行われた。その後、幾度か改修がなされたが、本堂新築に伴い1987〜88年(昭和62〜63年)に解体移築工事が行われ、現在地に復元された。改心的な意匠を模索する化政期(1804〜30年)の工匠達の時代性をよく反映している建物で、中世禅宗様建築に特有の扇垂木の軒や八角柱にみられる特異性は特筆されるものである。




「普門寺」

 普門寺の本堂を南から見たところ。
 右手前あたりに「八幡石」が置かれています。
 チロっと見えているのが八幡石の説明板です。


「八幡石」

 「八幡石」です。
 この大石にはある伝説が残されています。
 平成28年(2016)に発刊された『新編日野百物語』には、この伝説について次のように書かれています。

 寛文(1661〜1673)のころ、普門寺のお坊さんがある夜不思議な夢を見ました。夢にのお告げに「昔北条氏照という大名が建てたお社が、今は荒れ果てている。それを探し出してお寺にまつり直しなさい」とありました。告げられたとおり、お坊さんは高倉の西北(今の日野台5丁目付近)にある小さな塚を掘ったところ、大きな石が出てきました。そこで石をのけると、中から鉄の鏃(やじり)や刀剣のようなものが出てきましたが、それらはくさってぼろぼろでした。お坊さんはこの大石を寺へ運ぼうと思い立ち、宿中の人々に頼んで、太い綱をつけて引いてきて貰いました。女衆たちもみんなのためににぎり飯の炊き出しを受け持ちました。運んできた大石は、寺の鎮守の八幡様として大切におまつりしましたが、それからというもの普門寺は大層繁栄したということです。(『新編日野百物語』6〜7ページ)




「八幡石」

 八幡石を接写!

 説明板には
 八幡石 高さ1.4m 幅1.6m 厚さ0.6m
 寛文四年(一六六四)時の住職法印良意が霊夢の告げにより高倉北の塚から普門寺に移し、八幡大菩薩として境内に祀ったものである。
 その大きさ形状等から見て、古墳の石室の天井石と考えられ、その運搬には日野宿中の人たちが賑やかに参加したと伝えられている。

 と書かれています。
 「高倉」という地名は府中市にもあり、高倉古墳群が知られていますが、この八幡石の出土地はやはり七ツ塚古墳群である可能性が高いと考えられているようです。


「八幡石」

 西から見たところ。
 かなり厚みがあるようです。
 車のない時代にこの大石を七ツ塚から運ぶのは、さぞかし大変な労力を必要としたのではないかと想像しますが、この八幡石運搬の遷座祭には、日野宿中の人々が飯の炊き出しをしたりして、大さわぎだったそうです。
 なんか。。。良い時代だったんでしょうね。多分。


「七ツ塚古墳群遠景」

 「七ツ塚古墳群」を見渡したところ。

<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 民俗編』
日野宿発見隊『新編日野百物語』
現地説明板


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  1. 2019/09/23(月) 02:41:51|
  2. 日野市/七ッ塚古墳群
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「七ツ塚古墳群 8号墳」

「七ツ塚古墳群 8号墳」

 「七ツ塚古墳群 8号墳」は、平成14年(2002)6月から9月にかけて行われた発掘調査により確認された古墳です。調査当時、墳丘はすでに削平されて消滅していたものの、周溝の約2分の1が検出されており、内径約13.5mの周囲に幅1.5~1.5mの周溝が巡る円墳であると推定されています。主体部は完全に削平されていて詳細は不明で、遺物も出土しなかったようです。古墳は6世紀後半から7世紀代の築造と推定されています。
 周溝から落下した葺石や埴輪が出土していないことから外表施設は存在しなかったのではないかと考えられているようですが、周溝西側を切っている溝の覆土から円筒埴輪片が採集されており、また周溝覆土から他の古墳を築造した残土を投棄したと考えられる層が検出されたことから、この8号墳に極めて近い位置に未確認の古墳が存在する可能性が考えられているようです。

 画像は8号墳の跡地を南西から見たところです。当然ながら古墳の痕跡は何も残されていません。
 「七ツ塚」の地名は古くから知られていた7基の塚の存在が由来であるといわれていますが、この調査結果により少なくとも8基以上の古墳から成る古墳群である可能性が高くなっているようです。

<参考文献>
日野市遺跡調査会『七ツ塚遺跡13』


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  1. 2016/05/11(水) 09:19:32|
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「七ツ塚古墳群 7号墳」

「七ツ塚古墳群 7号墳」

 「七ツ塚古墳群 7号墳」は明治27年(1895)に発掘が行なわれたとされる古墳です。『西党事蹟考』の挿図等から旧谷戸北側の崖線上、現在の日野自動車総合運動場入口付近が跡地ではないかと推定されているようですが、古墳は消滅しており、正確な場所は判らなくなっているようです。画像の、空き地の周辺から、奥の宅地のあたりが古墳の跡地であると思われますが、古墳の痕跡を地上に見ることはできません。
 周辺地域は開発が進んでおり、この空き地も宅地化が予定されているようですので、いずれは風化して存在が忘れられてしまう古墳なのかもしれません。。。


「七ツ塚古墳群 7号墳」

 画像は現在の1号墳のようすです。発掘された7号墳の残土は、当時残存する1号墳に盛土したものであるといわれていましたが、この1号墳は調査により古墳ではなかったことがわかっています。この際に墳頂部に金刀比羅神社が祀られており、7号墳から出土した直刀5本がこの祠に収められたといわれていますが、この直刀の所在はわからなくなっているようです。

<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
日野市遺跡調査会『七ツ塚遺跡14』


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  1. 2016/05/10(火) 00:45:56|
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「七ツ塚古墳群 6号墳」(日野市指定史跡)

「七ツ塚古墳群 6号墳」

 画像は、「七ツ塚古墳群 6号墳」を南から見たところです。
 この6号墳は発掘調査が行われていないため、本来の規模や築造された時期については不明とされています。現状の規模は南北約6m、東西約3.5m、高さ約0.6mが残存しており、墳丘上には3cm~10cm大の小礫を中心に20~30cm大の小礫が混在しています。3~6号墳の4基の古墳の周辺からは、メノウの勾玉・水晶の切子玉・ヒスイの勾玉等が採集されているそうです。


「七ツ塚古墳群 6号墳」

 画像の中央に見えるのが6号墳、左奥に5号墳、右奥が4号墳です。。。

<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
日野市遺跡調査会『七ツ塚遺跡14』


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  1. 2016/05/09(月) 00:09:56|
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「七ツ塚古墳群 5号墳」(日野市指定史跡)

「七ツ塚古墳群 5号墳」

 画像は、「七ツ塚古墳群5号墳」を西から見たところです。現状規模は、南北約7m、東西約4m、高さ約1.2mの墳丘が残存しているようですが、発掘調査が行われていないため、築造当時の規模は不明です。実際に見学したところでは墳丘はかなり長細い印象で、東西の規模は4mもないように思いますが、時間の経過による風化でさらに小さくなっているのかもしれません。
 報告書には「表面には、30cm~50cm大の小礫を主に、5cm大の小礫が混在している」と書かれていますが、この状況には大きな変化はないようで、石室の石材を連想させる河原石を見ることが出来ます。


「七ツ塚古墳群 5号墳」

 江見水蔭は明治から大正にかけて活躍した小説家です。彼は執筆活動の傍ら、遺跡を訪ね歩いて収集した遺物を、自宅に設けた「太古遺物陳列所」で公開していたそうで、その数は28,000点以上にもなっていたそうです。日野市史編さん委員会より発行された『日野市史 別巻 市史余話』にはこの江見水蔭のコレクションについての記述を見ることが出来ます。

七ツ塚古墳の鏃 これらの水蔭のコレクションの中に、市内の七ツ塚古墳(新町5丁目)から採集したと思われる2つの鏃も含まれていた。
 1906年水蔭は、秩父の汲古館(現長瀞総合博物館)へ胴鏃を、さらに1916年には京都大学へ「武蔵国日野在クヨウ出土」とされる石鏃を寄贈している。いずれも七ツ塚古墳から採集した可能性の強いもので、現在も両所に保存されている。
 東光寺の郷土史家立川民蔵が著した『西党事蹟考』(1927年)には1927年6月8日、稲村坦元(東京府史蹟係)・後藤守一(帝国博物館鑑査官)の2人が七ツ塚古墳の調査に訪れた時、「江見水蔭氏が日野七ツ塚より出た胴鏃を持っているが、どのあたりから出たものか」との質問を受けた事が記載されているので、これらが一時水蔭の手元にあったことは確かであろう。
(『日野市史 別巻 市史余話』21ページ)


 現在では文化財保護法などの法律も整備され、遺跡から出土した遺物は教育委員会や遺蹟調査会などによって管理、保存されて研究の為に役立っていますが、当時は発見者や土地所有者などの手元に置かれた後、所在がわからなくなってしまった遺物も多かったようですし、こうした一部の収集家の功績も大きかったのではないかと思います。

<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
日野市史編さん委員会『日野市史 別巻 市史余話』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
日野市遺跡調査会『七ツ塚遺跡14』


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  1. 2016/05/08(日) 09:22:26|
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「七ツ塚古墳群 4号墳」(日野市指定史跡)

「七ツ塚古墳群 4号墳」

 画像は、日野市新町5丁目に所在する「七ツ塚古墳群 4号墳」を南西から見たところです。
 「七ツ塚古墳群」からはかつて女性埴輪が出土しており、この埴輪について、鳥居龍蔵氏により明治27年(1894)に「島田髷に似たる古代の結髪」として報告され、これによって「七ツ塚古墳群」の名が知られるようになったといわれています。その後、昭和2年(1927)発行の『武蔵野』に掲載された鳥居龍蔵著「日野台発見島田髷の埴輪」では、八丈島で明治20年前後まで行われていた女性の結髪との比較により、この埴輪の結髪は島田髷であり、上代(原始時代)に島田髷が既に行なわれていたとの結論を報告しています。この女性埴輪が出土したとされているのが、画像の七ツ塚古墳群4号墳です。

 この4号墳は2003年度の確認調査で周溝の一部が検出されているようなので、古墳本来の規模が判明しているのかもしれませんが、地元の図書館では発掘調査報告書が見当たらず、詳細はわかりませんでした。
 画像の4号墳の奥に小さく見えるのが5号墳、左端に見えるのが6号墳です。狭い範囲に、群集する複数の古墳が残存する古墳群は、少なくとも東京都内ではかなり稀少名存在ですので、なんとかこのまま保存されることを期待したいところですが、いずれは宅地化により消滅してしまうのでしょうか。


「七ツ塚古墳群 4号墳」

 残存規模は、南北約11m、東西約5m、高さ約1.4mで、形状は4半球状となっています。


「七ツ塚古墳群 4号墳」

 画像は墳丘上のようすです。表面には約50cm大の礫が露出しています。恐らくは石室を構築する石材の一部ではないかと思われますが、この古墳はすでに発掘されている可能性が大きいとされているものの調査記録はなく、詳細はわかりません。

<参考文献>
鳥居龍蔵「日野台発見島田髷の埴輪」『武蔵野』第十巻 第五号
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
日野市遺跡調査会『七ツ塚遺跡14』


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  1. 2016/05/07(土) 00:25:08|
  2. 日野市/七ッ塚古墳群
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「七ツ塚古墳群 3号墳」(日野市指定史跡)

「七ツ塚古墳群 3号墳」(日野市指定史跡)

 「七ツ塚古墳群」は、日野台地の北端、北の多摩川と北西の谷地川に区切られた舌状台地に所在します。明治27年(1895)の時点で7基の古墳が存在しており、これが「七ツ塚」の地名の由来となっています。平成14年度(2002)の調査では8番目の古墳が検出されており、9基以上の古墳が包蔵されている可能性が高いと考えられています。この七ツ塚古墳群は日野市の遺跡番号2番の古墳として登録されており、昭和36年(1961)10月1日に日野市の史跡に指定されています。

 画像は、日野市日野に所在する「七ツ塚古墳群3号墳」を北西から見たところです。この古墳は、平成15年(2003)6月から11月にかけて行なわれた区画整理事業に伴う調査により確認されています。古墳の約3分の1が調査されており、外径約16m、内径約14mの円墳であることがわかっています。周溝と石室の閉塞部が検出されていますが、石室は調査することなく埋め戻されており、内部の調査は行なわれていないようです。ただし、残存する墳丘周囲のボーリング調査が行われていて、長軸5.6m、短軸2.6mの石室を構築する礫が残存すると考えられています。墳丘の大部分は耕作により削平されており、残存規模は東西5.2m、南北1.9m、高さ0.6mとなっているようです。


「七ツ塚古墳群 3号墳」(日野市指定史跡)

 以前訪れた時と比べてマウンドが大きくなった(高さではなく範囲が広がった)ような気がするのですが、草が生えたせいでしょうか。。。


「七ツ塚古墳群 3号墳」(日野市指定史跡)

 3号墳の周囲には、4・5・6号墳が存在します。この4基の古墳に囲まれた地点からかつて円筒埴輪が採集されているそうですが、3号墳の周溝からは埴輪や礫などの遺物が出土していないことから、埴輪が設置されていた古墳は4・5・6号墳のいずれかに絞られてきているようです。
 画像は「七ツ塚古墳群」を南から見たところです。画像のさらに左側の雑木林の中に2号墳が残存します。。。

<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
日野市遺跡調査会『七ツ塚遺跡14』


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  1. 2016/05/06(金) 00:25:00|
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「七ツ塚古墳群 2号墳」(日野市指定史跡)

「七ツ塚古墳群 2号墳」

 「七ツ塚古墳群 2号墳」は、昭和29年(1954)に明治大学考古学研究室と日野史談会により発掘調査が行なわれています。昭和33年に発行された『日本考古学年報7』に掲載されている当時の記録によると、雑木林の中に存在したとされる「わずかな地膨れ程度」の墳丘からは調査の結果、砂岩による切り石積の横穴式石室が検出されており、玄室内より短刀身が、羨道部寄りから直刀一振が出土しています。石室は、側壁から奥壁にかけて緩いカーブを描くわずかな胴張りが認められ、石室の全長は4.8m、玄室の最大幅は1mであり、床には10cm大の河原石が敷かれていたそうです。周溝が未確認であるため古墳の規模については不明とされています。
 調査後の古墳の場所には日野市教育委員会による木製の立て札が立てられていたそうですが、この立て札は時間の経過とともに朽ち果て、また報告書に古墳の位置が記載されていなかったために古墳の正確な所在地はわからなくなっていました。
 その後、2号墳の所在地を再確認するため、ボーリング調査が行われています。この調査は、1995年発行の『多摩地区所在古墳確認調査報告書』に記載されている分布図と「現在は小さな窪地になっている」という情報を頼りに行われたようですが、石室は確認されませんでした。日野市遺跡調査会より発行された『七ツ塚遺跡14』ではこの調査の結果について、「石室の位置をはずしてしまった可能性もあるが、むしろ『多摩地区所在古墳確認調査報告書』などに記載されてきた2号墳石室の位置が異なっている、あるいは2号墳石室の上部もしくはすべてがすでに除去されている、の可能性が高い」としており、現在も2号墳の位置は不明のままです。

 さて、画像は日野市日野の「七ツ塚古墳群2号墳」の所在地を南東から見たところです。この古墳の位置については『単立鶴川キリスト教会』のHPに掲載されている「日野市七ツ塚古墳群と日奉氏の七星信仰」という記事を参考にしています。興味のある方はぜひ読んでいただきたいところですが、不明とされている2号墳の所在地を、朽ち果てかけた木製の立て札の写真と共に紹介しており、また七ツ塚古墳群の未確認古墳についても地元の人の証言と共に紹介しています。

『単立鶴川キリスト教会』HP
http://www.geocities.jp/kyokai_tsurukawa/

 この七ツ塚古墳群については、七ツ塚絵図(立川民蔵『西党事蹟考』)等、何点かの古いスケッチが残されています。もちろんこれらはすべて手書きの絵図ですので正確な古墳の跡地を特定することは出来ないのですが、おおよその位置関係を推測することは出来ます。これらの絵図を参考に3~6号墳と2号墳の位置関係を考えると、実は2号墳の所在地は、ボーリング調査が行われたとされる地点よりももっと北西側の雑木林の中なのではないかと考えていました。うまくすれば、日野市教育委員会により立てられていたという木製の立て札の残骸くらいは発見できるかも知れないとの期待もあり、今年に入ってからあらためて訪れてみたのですが、この場所は以前と同様に草ボウボウの薮で、更には朽ち果てた木々が倒れていたりとかなり危険で、突入するのはあきらめていたところでした。。。


「七ツ塚古墳群 2号墳」

 画像は、ボーリング調査が行われたとされる地点を南東から見たところです。
 結果的にこの場所は2号墳の跡地ではなかったようですが、これだけ古墳が密集している場所ですので、発掘調査を行えば未発見の古墳が検出される可能性もあるように思います。ちなみにこの南側からは近年の調査で8号墳の周溝が検出されています。

<参考文献>
日本考古学協会『日本考古学年報7』
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
日野市遺跡調査会『七ツ塚遺跡14』
井上誠「日野市七ツ塚古墳群と日奉氏の七星信仰」『単立鶴川キリスト教会』HP


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  1. 2016/05/05(木) 01:22:27|
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「七ツ塚古墳群 1号墳」(日野市指定史跡)

「七ツ塚古墳群 1号墳」

 「七ツ塚古墳群」は、日野台地の北端、北の多摩川と北西の谷地川に区切られた舌状台地に所在します。明治27年(1895)の時点で7基の古墳が存在しており、これが「七ツ塚」の地名の由来となっています。平成14年度(2002)の調査では8番目の古墳が検出されており、9基以上の古墳が包蔵されている可能性が高いと考えられています。この七ツ塚古墳群は日野市の遺跡番号2番の古墳として登録されており、昭和36年(1961)10月1日に日野市の史跡に指定されています。

 画像は、日野市新町5丁目に所在する「七ツ塚古墳群 1号墳」を東から見たところです。この1号墳は、明治27年(1895)に発掘されたとされる7号墳の残土を残存する1号墳に盛土したものであるといわれており、その際に墳頂部に金刀比羅神社が祀られています。ただし、日野市の関係者にお聞きしたところによると、近年の調査によりこの1号墳は古墳ではなかったことがわかっているそうですが、私はまだ発掘調査報告書を確認していませんので詳細はわかりません。また、7号墳の発掘の際に出土した直刀5本がこの金刀比羅神社に収められたとされていますが、この直刀は所在がわからなくなっているようです。


「七ツ塚古墳群 1号墳」

 画像は、南東から見た1号墳です。最近行なわれていた七ツ塚公園の整備の際に盛土されており、大きく改変されています。今月初めに訪れたときはちょうど桜が満開で、また植えられたばかりの芝生も青々としており、きれいな写真が撮れました。
 日野市教育委員会により立てられた説明板には次のように書かれています。

日野市指定史跡
  七ツ塚古墳群
 古墳群は、日野台地の北西部、西に谷地川を望む
七ツ塚遺跡に所在する。現在、五基ほど墳丘が削ら
れて残っているが、当時は七基にとどまらなかった
と考えられる。
 昭和二九年(一九五四年)に行なわれた発掘調査
では、横穴式石室を主体部とした古墳が発見され、
直刀一口、刀子二本、鉄鏃四本の副葬品が出土した。
また、古墳の周辺からは、戦前に女性埴輪・円筒埴
輪・管玉・勾玉等が発見された。
 古墳群の造営年代は六~七世紀頃と推定されてい
る。
          昭和三六年(一九六一)十月一日指定
               日野市教育委員会


「七ツ塚古墳群 1号墳」(日野市指定史跡)

「七ツ塚古墳群 1号墳」(日野市指定史跡)

 画像は冬の七ツ塚古墳群1号墳です。以前は細長い形状のマウンドでしたが、かなり印象が変わったようです。


「七ツ塚古墳群 1号墳」(日野市指定史跡)

 画像は、最初に訪れた際に撮影した、秋の七ツ塚古墳群1号墳です。夕焼けに赤く染まった落ち葉が墳丘を覆っています。季節によって色々な表情を見せてくれるのも古墳探訪の醍醐味かもしれません。

「七ツ塚古墳群 1号墳」

 七ツ塚公園に立てられていた説明板です。公園が整備されたことにより撤去されてしまったのか、現在は見られなくなっているようです。

<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
日野市東光寺上第一土地区画整理組合整理組合『七ツ塚遺跡14』
現地説明版


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  1. 2016/04/27(水) 00:43:44|
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