
画像は、町田市三輪町の「町田市№447遺跡」が所在したとされる周辺の様子です。
前回同様に、『東京都遺跡地図』には登録されているものの、すでに消滅して墳丘の存在しない古墳です。
現地を散策しましたが、開発により宅地化が進んでおり、古墳らしき痕跡は全く見られません。
平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』によると、墳丘、主体部はともに「消滅」とされており、規模について「径10mの円墳であったと言われている、」と書かれているのみで、これ以上の詳細はわかりませんでした。。。

『東京都遺跡地図』には、この「№447遺跡」から南に400メートルほどの地点に塚が登録されています。
「三輪南地区遺跡群」という名称で中世から近世の塚が2基存在したようですが、念のためこの周辺を散策してみたものの残念ながら塚らしき痕跡はなし。すでに消滅してしまったようです。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2020/05/10(日) 19:35:05|
- 町田市の古墳・塚
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前回は、『東京都遺跡地図』には未登録ながらも、かつて町田市内に存在したと想定される古墳を取り上げました。
今回は、『東京都遺跡地図』に登録されている、町田市つくし野4丁目周辺に所在したとされる「№690遺跡」と「№691遺跡」という2基の古墳を取り上げておこうと思います。

画像は、「町田市№690遺跡」の跡地周辺の様子です。
平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では、墳丘、主体部ともに「消滅」とされているのですが、現地は開発が進んで宅地化されており、古墳らしき痕跡は全く見られません。
直刀が出土したという伝承が残されているようですし、この地域の古墳の存在の可能性は高そうです。

画像は、「町田市№691遺跡」の跡地周辺の様子です。
どちらの古墳も、町田市と横浜市の境の丘陵斜面に存在したようです。
『多摩地区所在古墳確認調査報告書』ではやはり、墳丘、主体部ともに「消滅」とされており、古墳らしき痕跡は全く見られません。
首都圏の古墳を散策する場合は、Googleマップのストリートビューで確認すればおおよそのことはわかるのですが、とにかく私は自分の目で確認しないと気がすまなくなっていたので、消滅古墳であると理解はしつつも、この閑静な住宅街を訪れました。
この後、横浜市内の「北門古墳群」や「餅塚」の見学に向かい、当時の愛車「ブロンプトン」で急坂を上ったり下がったりする羽目になるわけですが、その話はまたいずれ。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2020/05/09(土) 19:04:27|
- 町田市の古墳・塚
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町田市内には、高塚古墳はほとんど現存しないようです。
墳丘が残されている古墳で、私が市内を散策して実際に見学できたのは「能ケ谷香山1号墳」の1基のみで、古墳ではないかと考えられていた「小野路の富士塚」は、最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』では「時代不明の塚」と記載されていますし、「馬駈古墳」は残存するのか否かよくわかりません。
ただし、古い調査報告書や郷土史本を調べてみると、町田市内にもかつては高塚古墳が存在したのではないか?と思える記述も見られます。
昭和36年(1961)に東京都教育委員会より発行された『南多摩文化財総合調査報告』の122ページには、「三玉塚古墳」と「西之久保見通塚古墳」と呼ばれる古墳についての詳細が記されています。
三玉塚古墳については
「西乃久保の南側に延びる丘陵の突端部に近く位置する。以前この丘陵上には他に3基の古墳があったというが確認することはできなかった。現存する本墳は径約7m、高さ1.5mである。主体部は横穴式石室の簡単なものであったらしく、直刀1振を出土したという。後期終末期の古墳であろう。」 とあり、西之久保見通塚古墳については
「4の古墳(三玉塚古墳)の存在する丘陵に相対して、その南側に連なる丘陵の頂部、横浜市長津田にいたる道路の東側に位置する。円墳と思われるが、その規模はほとんどわからない。主体部は粘土構造の長さ約2.0m、幅60~90cmが地下約90cmに位置していたという。出土品には直刀1振がある。」 と書かれています。
画像は、町田市成瀬駅周辺の様子で、奥に見える丘陵部は横浜市青葉区のあかね台地区です。
このどこかに、西之久保見通塚古墳や、三玉塚古墳と呼ばれる3基の古墳が存在したものと思われますが、残念ながらこれらの古墳の正確な跡地はわかりません。
ただし、丘陵部の奥の、町田市と横浜市の市境にあたる横浜市奈良4丁目には「成瀬奈良谷戸古墳」などが残されており、この存在を考えるとこの地域に多くの古墳が存在した可能性は高いようにも思います。。。

町田街道から成瀬街道への分かれ道となっているあたりは古くから「三塚」という地名で呼ばれ、また「まま」と呼ばれる場所でもあったそうです。現在の住居表示は原町田2丁目となっていますが、「三塚」の名称は交差点や公園名として残されており、画像はその三塚交差点の様子です。
「まま」とは崖を意味した方言だそうですが、町田街道の北側はかつては切り立った崖で、真下には深い泉が湧いていたそうです。
原町田と金森、高ヶ坂の三部落の三角点に塚があったことから三塚の地名となったといわれており、この地で身を投げて自害してしまった手児奈娘の供養塚が三塚であるという説もあるようです。
また、塚が3基あったことから三塚となったという説もあり、これは古墳との関連を想像させる興味深い説です。
小田急線町田駅とJR町田駅の間あたり、現在の原町田6丁目には「太刀山古墳」と呼ばれる前方後円墳が存在したという伝承も残されているようですし、同じ境川左岸の台地縁辺部にあたるこの「三塚」周辺に、古墳が存在した可能性も妄想してしまいます。
今後の調査の進展が楽しみな地域ですね。。。
<参考文献>
東京都教育委員会「多摩丘陵地域における古墳及び横穴の調査」『南多摩文化財総合調査報告』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2020/05/08(金) 20:31:57|
- 町田市の古墳・塚
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画像は、町田市鶴間5丁目所在の「庚申塚」です。
国道246号線と戸塚道が交差する、大ヶ谷戸バス停のところに小さな塚が残されていて、庚申塔が祀られています。

この塚、昭和の時代までは今の面積の4倍ほどの敷地があり、国道246号線から塔の正面に向かって幅1mほどの参道があったそうです。そして、この後ろに1mくらいの土盛りがあり、その上に石塔が地震で崩れたのか石塊が十個位あり、この塚は地元の旧家では「供養塚」と呼ばれていました。
天明の大飢饉の時に江戸から逃げ出してきた行路病者の行き倒れをここに埋めて碑を建てたという伝承が残されています。また、村内にあった庚申講が、庚申の日にお祭りをしたとも伝えられており、「庚申塚」とも呼ばれています。

分かれ道となっているY字路の間の三角地にある庚申塚が、どういうわけか私はとても好きで、さらにそのY字路に塚があって、塚の上に庚申塔が祀られていると、これはもう景観としてたまらないのです。
真剣に景観の良い庚申塚を追い求めた時期もあって、いっそ『庚申塚なう』とか立ち上げちゃおうかなとも思いましたが、今のところ実現していません。笑。
画像は、高さ92cm、幅39cmの角型の庚申塔です。

おまけ。
町田南つくし野郵便局隣の駐車場にある道祖神の石碑です。
車の駐車場ですので当然舗装されているわけですが、石碑の場所だけ未舗装で、塚状に盛り上がっています。これもまたたまらない景観なのです。。。

道祖神を南西から。
<参考文献>
井上茂留『鶴間郷土誌』
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- 2020/03/28(土) 23:52:03|
- 町田市の古墳・塚
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画像は、町田市鶴間3丁目に所在の「鶴間の大塚」を西からみたところです。
『東京都遺跡地図』には、町田市の遺跡番号697番に登録されています。
この鶴間の大塚は、学校道という道に面した、広さが百八十平方メートルほどの大きな塚です。高さは5メートルほどもあり、塚の上には雑木や2、3本の若木の松があります。昭和の時代までは山桜の古木が一本あり、かなり遠くからでも目立つ存在であったようです。
この塚について書かれた古文書などもなく、また由来を知る人もいないことから、塚がどうして造られたかについてはわからないようです。
果たして、何を目的に造られた塚なのでしょうか。。。

南から見た鶴間の大塚です。
とても大きな塚が良好に残されています。
地元の人には、丸山台地の下を通っている鎌倉古道は軍用路であることから、この広い原に物見台を造っ他のだという説、また室町時代、禅秀の乱で瀬谷原が戦場となり、その戦死者を葬った塚であるという説もあるようですが、真相はわかりません。近くに土を掘った場所がないことから、塚を掘ると何百の白骨が出てくるという話もあるようです。

塚の頂部には御嶽信仰の石祠が建っていますが、これは明治の中頃に村の人が火難盗難除を祈るために奥多摩の御嶽神社に頼って御嶽講を作り、そのお札の鎮座場所として作ったものであるといわれ、この塚の造成とは無関係であるとされています。

塚には「一里塚 鶴間」と刻まれた石碑が建てられています。
井上茂留著『鶴間郷土誌』には「瀬谷、相沢にあり、町田市の木曽に今日残っている塚を正しく一里塚と認めた場合、この説を採るのが一番信憑性があるのではないだろうか」と、この鶴間の大塚は一里塚である可能性が一番高いのではないかとしているようです。。。
一里塚か~。。。
一里塚であれば、道の反対側にも対になって塚があったのではないかと思われますが、明治から昭和初期の古地図を見てもそれらしき痕跡は見当たりませんし、戦後の空中写真を見ても、広大な農地にポツリと1基、この鶴間の大塚が存在するのみです。
本当にこの塚が一里塚なのかどうかはまだよくわかりませんが、今後の調査の進展をも守りたいところですね。。。
<参考文献>
井上茂留『鶴間郷土誌』
町田市文化財保護審議会編『町田の民話と伝承 第一集』
現地説明板
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- 2020/03/27(金) 19:52:10|
- 町田市の古墳・塚
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今回は、町田市忠生にある「簗田寺」の探訪の記録です。
簗田半兵衛正勝が開基となり寛永6年(1629)に創建、鐡春(万治2年1659年寂)が開山したと伝わる、由緒あるお寺です。

さてこのお寺、町田市内を散策した一日の終わりの夕暮れ近くに訪れました。
特にお目当の古墳や塚があったわけではなく、通りすがりにふらりと立ち寄ったのですが、境内に正体不明の塚状の高まりを見つけてびっくり。
画像が、その塚です。
たくさんの板碑が建てられているようですが、何らかの供養塚でしょうか?
立地的に古墳ではないと思うのですが。。。

塚上に立つ板碑群。

塚があるのは「龍王ケ池」と呼ばれる池の南西側です。
簗田寺のHPを見ても、この塚については特に何もふれていないようです。
塚の東側には町田市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
町田の民話と伝承
地頭旗本・簗田氏の墓
木曽村・山崎村の地頭だった簗田氏の祖は、代々織田氏につかえ、特に桶狭間の戦いの第一の功労者として名高い家柄である。織田氏が滅びたあと、文禄四(一五九五)年に簗田半兵衛正勝は、徳川氏の家臣になった。二代将軍秀忠、三代将軍家光につかえ、武蔵国多摩郡木曾村・山崎村に知行地四〇〇石を賜り地頭になった。没年承応元(一六五二)年。
家督は長女の婿半兵衛直次が継いだ。直次は幕府の御納戸番の頭、女院付などの要職を歴任し、寛文六(一六六六)年には従五位下隠岐守に任ぜられ、簗田隠岐守直次を名乗る。知行地もしばしば加増されて一五〇〇石、他に廩米(幕府の蔵に貯えられていた米)二〇〇俵余の待遇を得た。没年天和三(一六八三)年。
以後、直次のあと、淡路守直秀、主殿直治と二代つづくが、元禄九(一六九六)年に主殿の死を最後に簗田氏は断絶した。主殿に継子がいなかったためである。
東向山簗田寺の山寺号は、梁田家の菩提所という意味と、かつて「東香堂」及び「東岳寺」という寺がありその寺史をふまえて、真東を向く谷戸の地形により寛永六(一六二九)年に名付けられたものである。本堂の裏には開基簗田半兵衛正勝夫婦を供養する大五輪塔と大宝篋印塔の墓碑があり、旗本家の墓塔としては異例の大きさ、建立した隠岐守の隆盛がしのばれる。
龍王池の伝説
むかし、東向山簗田寺の本堂裏には大きな淵があり、龍王池と呼ばれた。池の主は大蛇で、暴風雨や雷鳴が轟くときには姿を現し、柚子村別所(現・八王子市)の長池との間を行き来した。ある日、大蛇は片目の老女に身を変じ、「当山にはそのうち、”大徳”が出現し、きっと衆生を救済するであろう」と里人に告げ、ふらりふらりと東の方へ立ち去った。それからの龍王池は、次第に小さくなってしまったという。
(町田の民話と伝承第二集・町田市文化財保護審議会編から)
二〇〇〇年三月 町田市教育委員会 説明板にも、特に塚については何も書かれていないようです。
開創にまつわる伝説のある龍王ヶ池の淵にある塚ですから、何かしらの言い伝えが残されているのではないかと思うのですが、とりあえず今のところは塚の性格については何もわかりません。
いつもであればお寺の方にお伺いしてみるところなのですが、日も暮れかけていたし、疲れ切って足もつりかけていたし、そのまま帰ってきてしまったんですよね。(まったくしくったぜ。。。)
<参考文献>
町田市文化財保護審議会編『町田の民話と伝承 第二集』
現地説明板
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- 2020/03/26(木) 23:55:36|
- 町田市の古墳・塚
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今回は、ついに見学がかなわなかった塚、ということで、町田市下小山田町に所在する「勝負塚」です。
『東京都遺跡地図』には、町田市の遺跡番号200番に登録されています。
現在は、東京国際ゴルフ倶楽部の敷地内に取り込まれているようですが、戦前までは押沼という窪地に桑畑に囲まれて、直径約15メートル、高さ4メートルほどの大きな円墳状の塚が存在しました。戦後の農地改革の際には、塚を取り壊して畑にしようという話が持ち上がったようですが、「白い蛇と刀剣が出土する」という伝承により、塚は残されたそうです。
その後、昭和35年(1960)に塚を含めた一帯がゴルフ場用地隣、塚の周辺が掘り起こされた際に鎌倉時代の人骨が出土しました。この付近一帯には古戦場の伝説や古道があることから、この人骨は元弘三年(1333)の新田義貞軍による鎌倉攻めの際のどちらかの犠牲者であり、勝負塚は戦死した兵を供養するために造られた塚であるというのが定説となっているようです。
東京国際ゴルフ場は、この由緒ある塚を残すためにコースの造成計画を変更、コース脇の松林の中に残された勝負塚の塚上には「勝負塚」と刻まれた石碑が建てられているそうです。
場所がゴルフ場ということで、塚を見学させていただくことはかないませんでしたが(飛んできたゴルフボールが当たったら怖いですしね。笑。)、勝負塚は、画像のどこかに残されているはずです。。。

東京国際ゴルフ倶楽部前の小公園には、「古戦場伝説と勝負塚」と書かれた説明板が設置されており、次のように書かれていました。
古戦場伝説と勝負塚
伝説豊かな山里
昭和30年代、この付近で刀傷を負った鎌倉時代の人間の頭蓋骨が
発見され、話題を呼びました。骨は付近一帯に昔から古戦場の伝説や
古道があることから、元弘三年(1333)の新田義貞軍による鎌倉攻
めの際のどちらかの犠牲者(比較的身分の高い武将)ではないかと言
われています。近くにはこのほか、供養塚、勝負塚、大将塚など幾つ
かの塚や、小山田小太郎隠れ穴、ひうち池などの伝説地が伝えられて
います。
新田義貞激戦の地
鎌倉幕府滅亡時の戦いを記した軍記物語の太平記や梅松論には、新
田義貞軍は苦戦を強いられた分倍河原、関戸の合戦に相次いで勝利し
たあと、「関戸にて一日逗留ありて軍勢の着到つけられるに六十万
七千余騎とぞ記されけり。…ここにて軍勢を三手に別け…云々」と
あり、現在の多摩市役所付近(鐘掛け松の伝承地)で休憩して一夜を
明かし、ここで初めて大軍勢に膨れあがったこと、軍議を開いて翌早
朝からの進攻を三手に分けたことがわかります。そのうちの右翼隊(西
ルート)が小山田の現在地付近に進み、尾根の高台で、それを迎えた
幕府軍と激戦となったことが想像されます。
<参考文献>
町田市教育委員会『町田の民話と伝承 第一集』
現地説明板
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- 2019/11/26(火) 23:25:55|
- 町田市の古墳・塚
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「町田市№259遺跡」は、町田市小野路町に所在する遺跡です。
この遺跡については、昭和63年(1988)発行の『東京都遺跡地図』、平成8年(1996)発行の『東京都遺跡地図』、またネットで公開されている最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』ともに、「遺跡の概要」の欄に「丘陵斜面 包蔵地・古墳?」と書かれています。
ただし、平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では、「多摩地区所在の塚」の項で取り上げられており、墳丘は「消滅」と記されています。
画像の坂道を上がった丘陵頂部の周辺が、№259遺跡です。
古墳らしき塚の所在地は不明で消滅に至った経緯も不明と、まったく詳細がわからないのですが、何か痕跡は残されていないものでしょうか。。。

道路を登りきったあたりに、さらに丘陵頂部へ登る小道があったので、登ってみました。
古墳、あるかな?

丘陵頂部の様子。
ものすごい藪になっていたので、突入はしませんでした。
所在地は「丘陵斜面」ということですので、この藪の中ではないのかな、と思いますが、東側の切り通しとなっている道路により削られていたとしたら、もはや跡形もないかもしれませんね。

さらに西側には怪しげな高まりが!
人工的に築造された塚ではなく、大木の存在による高まりなのかもしれませんが、古墳の残骸であるようにも思えます。むむむ。わからない。。。

塚の横には祠が置かれていました。
かつて塚上に祀られていたものが、地震か何かで倒れちゃったのかな?
結局、この塚以外に、古墳ではないかと疑いたくなる地形は確認できず、東京都遺跡地図で「古墳?」とされている塚の痕跡は確認できませんでした。
それにしてもこの地域は急な坂ばっかりで、この頃は小さな折り畳み自転車で走っていたので足はパンパン、気持ちは折れまくって、もうグダグダです。
<参考文献>
多摩考古学研究会「東京都町田市けぞう谷遺跡出土遺物について」『多摩考古15』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2019/10/27(日) 23:42:32|
- 町田市の古墳・塚
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「野盗塚」は、町田市中町1丁目に所在したといわれる塚です。
残念ながら、塚は開発により削平されて消滅しており、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようですが、塚にまつわる多くの伝承が残されているようです。
画像は、この野盗塚の跡地周辺を西からみたところです。

野盗塚は、少なくとも昭和40年代までは痕跡が残されていたようです。
町田市原町田6丁目の「日蓮宗浄運寺」の境内には、この塚のものであるという「武藤塚」と刻まれた石碑が移されており、町田市教育委員会による説明板が設置されています。この説明板には、在りし日の野盗塚の姿を見ることができます。
この写真は昭和43年(1968)のものとされているようですが、この時点でかなり小さくなっているようにも見えます。

浄運寺境内の、「武藤塚」の石碑です。
説明板には次のように書かれています。
野 盗 塚 物 語
これは武藤家が名主の時のはなしである。
ある日、武士の一隊が武藤家を訪ね、御用長持ちを預かってくれるよう申し入れ、家の中に置いて立ち去った。その夜半頃、下女が勝手にいた時、長持ちの蓋がギギーッと持ち上がった。下女が主人にこのことをはなすと、大石を運ばせ、長持ちの上に置かせたので、隠れていた武士はなすこともなく、翌日、空しく長持ちは運び出された。しかし武藤家では、いつか必ず復讐に来ると思い、警備を厳重にしていた。
はたして数日の後に、五、六名の武士がのりこんできて主人に面会を求め、いかめしい様子で金子の借用を申し入れた・・・・ものかげで待ちかまえていた家人や村役人、剣術指南の侍が、槍、刀を振るって突き入った。
野盗達もおおいに防ぎ戦ったが、逃げ出した。ところが路地や家の角は、大石をゆわえつけた梯子でふさがれていた。そこへ竹槍を持った村人達も駆けつけ、戦いに加わった。
戦いはしばらく続いたが、野盗達は枕を並べて倒されてしまった。野盗塚(武藤塚ともいう)は、この武士達の亡骸を葬い、塚を築いて供養したものであるという。この塚は以前は中町一丁目(旧町田警察署のあったところ)にあった。
(町田の民話と伝承 第一集・町田市文化財保護審議会編から)
一九九八年三月 町田市教育委員会 前回紹介した「太刀山古墳」から北方300mほどに位置するこの野盗塚は、古墳ではなかったか?と妄想したくなるところですが、学術的な調査が行われることなく開発により消滅。残念ながら塚の性格等の真相はわかりません。。。
<参考文献>
町田市文化財保護審議会編『町田の民話と伝承 第一集』
現地説明板
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- 2019/08/21(水) 01:33:38|
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JR横浜線と小田急小田原線が交差する、町田市原町田6丁目には、なんと!前方後円墳が存在したという伝承が残されているようです。『東京都遺跡地図』にも登録されていない、言い伝えにのみ残る古墳です。
立地的には境川左岸の台地上縁辺部にあたり、確かに古墳が築造されてもおかしくないようにも感じられますが、今では駅前の繁華街として大勢の人で賑わっており、古墳の痕跡は全く残されていません。
平成19年(2007)に町田法人会より発行された『町田法人会報』には、この古墳について次のように書かれています。
「小田急線町田駅の東側交叉路「太刀山古墳跡」切通し風景」
三橋園民
解 説/町田駅東側に隣接している交叉路(マクドナルド・マルカワジーンズ・銀行)上にあるマンホールの鉄蓋は、この稽の手前、犬のいるところに当たる。
ほんの八十年前には、赤土の切通しがある雑木林だった 。昔から「太刀山(たちやま)と呼ばれ、子供達には兵隊ごっこをする格好の丘でもあった。戦後(昭和30年頃)開発 で切通しが崩されたとき、交叉路に大穴が聞いたと、文化財委員会に知らせがあった。駆けつけたが既に大穴はブルドーザーで跡形も無く壊され、出土したらしい金環も持ち去られていた。この時点で「太刀山」1500年のロマンは、あえなく潰えた。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1183432&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年に米軍により撮影された太刀山古墳周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。画像の中央に前方後円墳らしき形状を見ることが出来ます。
ざっと、40m前後の小形の前方後円墳というところでしょうか。前方後方墳のようにも感じられますが、この画像だけではなんとも判断できません。
『町田法人会報』の、「大穴が開いた」という表現からして、やはり横穴式石室の存在を想像してしまいますし、金環が出土したということですので、どうやら「太刀山」が古墳であった可能性は高そうですが、ブルドーザーで跡形も無く壊されたということで、当然ながら報告書の類は存在せず、詳細はわかりませんでした。
町田駅周辺の繁華街に前方後円墳が存在したとは、もはや誰も想像ができませんね。。。
<参考文献>
社団法人 町田法人会『町田法人会報 91』
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- 2019/08/17(土) 22:22:12|
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