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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「勝負塚」

町田市「勝負塚」

 今回は、ついに見学がかなわなかった塚、ということで、町田市下小山田町に所在する「勝負塚」です。
 『東京都遺跡地図』には、町田市の遺跡番号200番に登録されています。

 現在は、東京国際ゴルフ倶楽部の敷地内に取り込まれているようですが、戦前までは押沼という窪地に桑畑に囲まれて、直径約15メートル、高さ4メートルほどの大きな円墳状の塚が存在しました。戦後の農地改革の際には、塚を取り壊して畑にしようという話が持ち上がったようですが、「白い蛇と刀剣が出土する」という伝承により、塚は残されたそうです。
 その後、昭和35年(1960)に塚を含めた一帯がゴルフ場用地隣、塚の周辺が掘り起こされた際に鎌倉時代の人骨が出土しました。この付近一帯には古戦場の伝説や古道があることから、この人骨は元弘三年(1333)の新田義貞軍による鎌倉攻めの際のどちらかの犠牲者であり、勝負塚は戦死した兵を供養するために造られた塚であるというのが定説となっているようです。

 東京国際ゴルフ場は、この由緒ある塚を残すためにコースの造成計画を変更、コース脇の松林の中に残された勝負塚の塚上には「勝負塚」と刻まれた石碑が建てられているそうです。

 場所がゴルフ場ということで、塚を見学させていただくことはかないませんでしたが(飛んできたゴルフボールが当たったら怖いですしね。笑。)、勝負塚は、画像のどこかに残されているはずです。。。


町田市「勝負塚」

 東京国際ゴルフ倶楽部前の小公園には、「古戦場伝説と勝負塚」と書かれた説明板が設置されており、次のように書かれていました。

 古戦場伝説と勝負塚

伝説豊かな山里
 昭和30年代、この付近で刀傷を負った鎌倉時代の人間の頭蓋骨が
発見され、話題を呼びました。骨は付近一帯に昔から古戦場の伝説や
古道があることから、元弘三年(1333)の新田義貞軍による鎌倉攻
めの際のどちらかの犠牲者(比較的身分の高い武将)ではないかと言
われています。近くにはこのほか、供養塚、勝負塚、大将塚など幾つ
かの塚や、小山田小太郎隠れ穴、ひうち池などの伝説地が伝えられて
います。

新田義貞激戦の地
 鎌倉幕府滅亡時の戦いを記した軍記物語の太平記や梅松論には、新
田義貞軍は苦戦を強いられた分倍河原、関戸の合戦に相次いで勝利し
たあと、「関戸にて一日逗留ありて軍勢の着到つけられるに六十万
七千余騎とぞ記されけり。…ここにて軍勢を三手に別け…云々」と
あり、現在の多摩市役所付近(鐘掛け松の伝承地)で休憩して一夜を
明かし、ここで初めて大軍勢に膨れあがったこと、軍議を開いて翌早
朝からの進攻を三手に分けたことがわかります。そのうちの右翼隊(西
ルート)が小山田の現在地付近に進み、尾根の高台で、それを迎えた
幕府軍と激戦となったことが想像されます。

<参考文献>
町田市教育委員会『町田の民話と伝承 第一集』
現地説明板


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  1. 2019/11/26(火) 23:25:55|
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「町田市№259遺跡」

「町田市№259遺跡」

 「町田市№259遺跡」は、町田市小野路町に所在する遺跡です。

 この遺跡については、昭和63年(1988)発行の『東京都遺跡地図』、平成8年(1996)発行の『東京都遺跡地図』、またネットで公開されている最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』ともに、「遺跡の概要」の欄に「丘陵斜面 包蔵地・古墳?」と書かれています。
 ただし、平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では、「多摩地区所在の塚」の項で取り上げられており、墳丘は「消滅」と記されています。

 画像の坂道を上がった丘陵頂部の周辺が、№259遺跡です。
 古墳らしき塚の所在地は不明で消滅に至った経緯も不明と、まったく詳細がわからないのですが、何か痕跡は残されていないものでしょうか。。。


「町田市№259遺跡」

 道路を登りきったあたりに、さらに丘陵頂部へ登る小道があったので、登ってみました。
 古墳、あるかな?


「町田市№259遺跡」

 丘陵頂部の様子。
 ものすごい藪になっていたので、突入はしませんでした。

 所在地は「丘陵斜面」ということですので、この藪の中ではないのかな、と思いますが、東側の切り通しとなっている道路により削られていたとしたら、もはや跡形もないかもしれませんね。


「町田市№259遺跡」

 さらに西側には怪しげな高まりが!
 人工的に築造された塚ではなく、大木の存在による高まりなのかもしれませんが、古墳の残骸であるようにも思えます。むむむ。わからない。。。


「町田市№259遺跡」

 塚の横には祠が置かれていました。
 かつて塚上に祀られていたものが、地震か何かで倒れちゃったのかな?
 結局、この塚以外に、古墳ではないかと疑いたくなる地形は確認できず、東京都遺跡地図で「古墳?」とされている塚の痕跡は確認できませんでした。
 それにしてもこの地域は急な坂ばっかりで、この頃は小さな折り畳み自転車で走っていたので足はパンパン、気持ちは折れまくって、もうグダグダです。

<参考文献>
多摩考古学研究会「東京都町田市けぞう谷遺跡出土遺物について」『多摩考古15』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2019/10/27(日) 23:42:32|
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「木曽一里塚」

「木曽一里塚」

 画像は、町田市木曽西4丁目に所在する「木曽一里塚」を南東からみたところです。
 野津田町所在の「小野路の一里塚」とともに、町田市内に残る2基のうちの1基で、昭和44年(1969)には町田市の史跡として指定されています。

 現地には町田市教育委員会により説明板が設置されており、次のように書かれています。

町田市指定史跡
 木曽一里塚
所在地 町田市木曽西四丁目一四番
指 定 一九六九年(昭和四十四年)九月二日
 徳川家康は秀忠に命じて慶長九年(一六〇四)に、
日本橋を基点に東海道、東山道、北陸道に一里塚
を築かせ全国に普及させた。その後、付属の街道
である脇往還なども整備された。一里塚は旅行者
の目印として一里(約四キロメートル)の間隔で
道の両側に築かれた塚で、木陰で休憩がとれるよ
うに、榎や松が植えられた。
 町田市内には、木曽町、小野路町に一里塚が残
っている。元和三年(一六一七)に徳川家康の遺櫃
が駿河の久能山から日光東照宮へ移されたとき、
東海道の平塚から、厚木、座間、木曽、小野路、
府中と通過した。この道は、後に御尊櫃御成道
(ごそんびつおなりみち)と呼ばれた。一八世紀に
なると関東各地から相模国大山阿夫利神社へ参詣
する大山講が盛んになり、この道も大山道として
利用され、木曽と小野路は宿場町として栄えた。
木曽の一里塚も小野路と同じく道の両側にあった
が、現在は西側のものだけが残り、塚の上には武
蔵御嶽山の大口真神の小祠がある。
           二〇一一年二月設置
              町田市教育委員会




「木曽一里塚」

 塚上には「一里塚」の石碑が建てられています。。。


「木曽一里塚」

 塚の上には御岳の小祠があり、毎年四月には代参の二人が御岳講に出かけているそうです。以前は東側にも塚があったといわれていますので、一里塚であることは間違いないものと思われますが、御岳塚も兼ねているという、実はなかなか変わり種の塚なのかもしれません。

<参考文献>
忠生村村誌編さん委員会『忠生村誌』
現地説明板


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  1. 2019/10/24(木) 01:38:59|
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「野盗塚(経塚・武藤塚)」

「野盗塚(経塚・武藤塚)」

 「野盗塚」は、町田市中町1丁目に所在したといわれる塚です。
 残念ながら、塚は開発により削平されて消滅しており、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようですが、塚にまつわる多くの伝承が残されているようです。

 画像は、この野盗塚の跡地周辺を西からみたところです。


「野盗塚(経塚・武藤塚)」

 野盗塚は、少なくとも昭和40年代までは痕跡が残されていたようです。
 町田市原町田6丁目の「日蓮宗浄運寺」の境内には、この塚のものであるという「武藤塚」と刻まれた石碑が移されており、町田市教育委員会による説明板が設置されています。この説明板には、在りし日の野盗塚の姿を見ることができます。
 この写真は昭和43年(1968)のものとされているようですが、この時点でかなり小さくなっているようにも見えます。


「野盗塚(経塚・武藤塚)」

 浄運寺境内の、「武藤塚」の石碑です。
 説明板には次のように書かれています。

野 盗 塚 物 語
 これは武藤家が名主の時のはなしである。
 ある日、武士の一隊が武藤家を訪ね、御用長持ちを預かってくれるよう申し入れ、家の中に置いて立ち去った。その夜半頃、下女が勝手にいた時、長持ちの蓋がギギーッと持ち上がった。下女が主人にこのことをはなすと、大石を運ばせ、長持ちの上に置かせたので、隠れていた武士はなすこともなく、翌日、空しく長持ちは運び出された。しかし武藤家では、いつか必ず復讐に来ると思い、警備を厳重にしていた。
 はたして数日の後に、五、六名の武士がのりこんできて主人に面会を求め、いかめしい様子で金子の借用を申し入れた・・・・ものかげで待ちかまえていた家人や村役人、剣術指南の侍が、槍、刀を振るって突き入った。
 野盗達もおおいに防ぎ戦ったが、逃げ出した。ところが路地や家の角は、大石をゆわえつけた梯子でふさがれていた。そこへ竹槍を持った村人達も駆けつけ、戦いに加わった。
 戦いはしばらく続いたが、野盗達は枕を並べて倒されてしまった。野盗塚(武藤塚ともいう)は、この武士達の亡骸を葬い、塚を築いて供養したものであるという。この塚は以前は中町一丁目(旧町田警察署のあったところ)にあった。
 (町田の民話と伝承 第一集・町田市文化財保護審議会編から)
一九九八年三月 町田市教育委員会



 前回紹介した「太刀山古墳」から北方300mほどに位置するこの野盗塚は、古墳ではなかったか?と妄想したくなるところですが、学術的な調査が行われることなく開発により消滅。残念ながら塚の性格等の真相はわかりません。。。

<参考文献> 
町田市文化財保護審議会編『町田の民話と伝承 第一集』
現地説明板


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  1. 2019/08/21(水) 01:33:38|
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「太刀山古墳」

「太刀山古墳」

 JR横浜線と小田急小田原線が交差する、町田市原町田6丁目には、なんと!前方後円墳が存在したという伝承が残されているようです。『東京都遺跡地図』にも登録されていない、言い伝えにのみ残る古墳です。

 立地的には境川左岸の台地上縁辺部にあたり、確かに古墳が築造されてもおかしくないようにも感じられますが、今では駅前の繁華街として大勢の人で賑わっており、古墳の痕跡は全く残されていません。

 平成19年(2007)に町田法人会より発行された『町田法人会報』には、この古墳について次のように書かれています。

「小田急線町田駅の東側交叉路「太刀山古墳跡」切通し風景」
三橋園民
解 説/町田駅東側に隣接している交叉路(マクドナルド・マルカワジーンズ・銀行)上にあるマンホールの鉄蓋は、この稽の手前、犬のいるところに当たる。
ほんの八十年前には、赤土の切通しがある雑木林だった 。昔から「太刀山(たちやま)と呼ばれ、子供達には兵隊ごっこをする格好の丘でもあった。戦後(昭和30年頃)開発 で切通しが崩されたとき、交叉路に大穴が聞いたと、文化財委員会に知らせがあった。駆けつけたが既に大穴はブルドーザーで跡形も無く壊され、出土したらしい金環も持ち去られていた。この時点で「太刀山」1500年のロマンは、あえなく潰えた。



「太刀山古墳」
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1183432&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年に米軍により撮影された太刀山古墳周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。画像の中央に前方後円墳らしき形状を見ることが出来ます。
 ざっと、40m前後の小形の前方後円墳というところでしょうか。前方後方墳のようにも感じられますが、この画像だけではなんとも判断できません。
 『町田法人会報』の、「大穴が開いた」という表現からして、やはり横穴式石室の存在を想像してしまいますし、金環が出土したということですので、どうやら「太刀山」が古墳であった可能性は高そうですが、ブルドーザーで跡形も無く壊されたということで、当然ながら報告書の類は存在せず、詳細はわかりませんでした。

 町田駅周辺の繁華街に前方後円墳が存在したとは、もはや誰も想像ができませんね。。。

<参考文献> 
社団法人 町田法人会『町田法人会報 91』


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  1. 2019/08/17(土) 22:22:12|
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