
「草花古墳群」は、東京都あきる野市草花地内に所在する古墳群です。昭和13年に東京都旧跡に指定された「草花石器時代住居跡」と含む「あきる野市No.63遺跡(草花遺跡)」と重複する重複する状態で存在する古墳群で、『東京都遺跡地図』には現在11基の古墳が登録されています。平成15年から18年にかけて行われた都道秋多3・4・6号線の拡張整備工事ではさらに新たな2基の古墳が検出されています。
画像は、「2号墳」の所在地を西から見たところです。この歩道から道路にかけてが古墳の所在地となるようです。この古墳からは墳丘や主体部は検出されず、周溝のみが調査されており、外径20m、内径12m前後の規模であると推定されています。東北方向に7mの地点にもう1基の古墳が位置しています。集溝内からは杯が出土しており、形状から1号墳に比べてやや後出の遺物であるようです。
この古墳の周溝内の土坑からは馬歯が出土しており、馬と関わりのある被葬者であったのではないかと考えられているようです。。。
<参考文献>
秋多3・4・6号線草花地区調査団『草花遺跡』
- 2015/05/24(日) 22:01:45|
- あきる野市/草花古墳群
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「草花古墳群」は、東京都あきる野市草花地内に所在する古墳群です。昭和13年に東京都旧跡に指定された「草花石器時代住居跡」と含む「あきる野市No.63遺跡(草花遺跡)」と重複する重複する状態で存在する古墳群で、『東京都遺跡地図』には現在11基の古墳が登録されています。平成15年から18年にかけて行われた都道秋多3・4・6号線の拡張整備工事ではさらに新たな2基の古墳が検出されています。
画像は、「1号墳」の所在地を西から見たところです。この歩道から道路にかけてが古墳の所在地となるようです。この古墳からは墳丘や主体部は検出されず、周溝のみが調査されており、外径20m、内径12m前後の規模であると推定されています。周溝内からは土師器や須恵器が出土しており、この出土遺物から6世紀末から7世紀初頭の地区層と考えられているようです。。。
<参考文献>
秋多3・4・6号線草花地区調査団『草花遺跡』
- 2015/05/23(土) 01:37:40|
- あきる野市/草花古墳群
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「草花古墳群」は、秋留台地の北面に流れる平井川の北岸、草花丘陵を北面にした草花台地に所在します。『秋川市史』によると、草花には48塚があったという古老の言い伝えが残されており、明治の初年頃までは多くの古墳が残されていたことは確かなようですが、そのほとんどは開墾等や後の宅地造成により消滅しています。現在『東京都遺跡地図』に登録されている古墳は11基のみですが、近年には新たに2基の古墳の周溝が検出されており、この一帯にはかなり多くの古墳が存在したと推測されています。
画像は、「草花古墳群1号墳」が所在したとされる周辺を南から見たところです。『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号59-1番の古墳として登録されています。
『多摩地区所在古墳確認調査報告書』によると、この周辺が宅地化される以前に畑の中に1mあまりの石が7個ほど地表面に遺存しており、地元の人たちには古墳であると語られていたそうですが、宅地造成工事により破壊されて消滅したといわれています。画像中央の道路の左側あたりがかつての古墳の所在地となるようですが残念ながら古墳の痕跡は見当たらないようです。
同書には「未調査だが地中に残っている可能性がある。」とも書かれていますので、今後の調査により周溝等が発見される可能性は残されているのかもしれません。。。
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
- 2015/05/22(金) 02:43:29|
- あきる野市/草花古墳群
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「草花古墳群2号墳」は、あきる野市草花1492番地附近に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号59-2番の古墳として登録されています。
この古墳について『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には次のように書かれています。
3-2.(草花古墳群)
遺跡地図番号…秋川・五日市(あきる野)59-2
所在地…………秋川市草花1492付近
占地状況………台地
墳丘……………消滅。
主体部…………石室?
出土遺物………蔵骨器?
周溝……………未調査だが地中に残っている可能性がある。
(『多摩地区所在古墳確認調査報告書』50~51ページ)
この2号墳もすでに正確な跡地はわからなくなっているようです。
近年発行されている「草花遺跡・草花古墳群」等の調査報告書に掲載されている遺跡分布図を参考にすると(東京都遺跡地図のインターネット公開版では地図に記されている位置はおよその目安にしかならないが、近年のあきる野市の報告書に掲載されている古墳の位置はかなり正確に記されているようです)おそらく画像の畑地の中か、この画像を撮影する為に私が立っている駐車場となっている辺りが古墳の推定地となるようですが、残念ながら古墳の痕跡は残されていません。
訪れた日にこの畑で作業をしている方にお話を伺えました。
実はこの場所で立ち話にお付き合いいただいた方がなんとあの「土の巨人」と呼ばれた塩野半十郎氏の親戚の方で、私は塩野氏の本や記録を色々読んでいましたのでとにかくびっくり!という感じで、色々と面白いお話も聞かせていただきました。
あれだけの偉業を成し遂げている方ですがかなり変わった人でもあったそうで、草花周辺の畑地は記録に残っている以上にかなり掘り尽くしているそうです。この畑も殆ど塩野氏が発掘したとのことで、「30年以上も前からこの畑を所有しているが、古墳の痕跡らしきものは見当たらなかった」と話していましたので、やはりこの場所ではなく駐車場のあたりが古墳の跡地なのかもしれませんね。
大きな土器が出土することはないものの、畑仕事をしていると小さな土器片はいまでも毎日のように見かけるそうです。

おそらく左奥の駐車場あたりが古墳の推定地。

画像は2号墳の推定地とされる箇所からかなり近距離に存在するマウンドです。2年前に訪れた際には3号墳のときと同様に「あれ?ある?」という感じで、おかしいなとは思いつつもこれが古墳だと決め込んで写真を撮りまくりました。笑。
帰宅してからやはり変だなと思い調べてみたのですが、少なくとも2号墳ではないようなのですが、なんの塚なのかはわからない正体不明のマウンドです。。。

塚上には「戦役記念碑」なる石碑が立てられています。
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
追記(2020年12月12日)
その後、地元の心ある方から情報をいただきました。
石碑は、太平洋戦争以前の日清日ロ戦争などの戦役顕彰碑であるそうです。
現在の消防団の建物とこの顕彰碑、杉の木の場所は、明治初期の廃仏毀釈以前は神社であり、現在は公用地となり消防団として使われているそうです。
神社の境内であったということは、やはり戦役顕彰碑の土台となっている塚は古墳を流用したものではないかと妄想したくなってしまいますが、このあたりはまだ真相不明です。
- 2015/05/20(水) 03:34:22|
- あきる野市/草花古墳群
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「草花古墳群3号墳」は、あきる野市草花717番地附近に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号59-3番の古墳として登録されています。
「草花古墳群」は、秋留台地の北面に流れる平井川の北岸、草花丘陵を北面にした草花台地に所在します。草花古墳群3号墳はこの台地の縁辺にあり、かつてこの古墳の残形が塩野半十郎氏によって発見されています。『秋川市史』にはこの古墳について、「遺構はその大半を破壊され、消滅していたが、長さ約2メートル、深さ約1メートルの石室の部分が遺存していて、横甕が出土したが、その全容を知る資料は得られなかった。恐らく、この地帯を開墾の折に破壊されたものと思われる。」と書かれています。
その後、平成4年には多摩地区所在古墳確認調査団により確認調査が行われていますが、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にはこの古墳について次のように書かれています。
3-3.(草花古墳群)
遺跡地図番号…秋川・五日市(あきる野)59-3
所在地…………秋川市草花717付近
占地状況………台地縁辺
墳丘……………消滅。
主体部…………以前、長さ2m、深さ1mの石室の一部が発見された。都道165号線沿いの栗林の中に存在していたと思われるが、今回の分布調査ではその痕跡を確認することはできなかった。
出土遺物………石室が発見された際に横瓶?が出土した
(『多摩地区所在古墳確認調査報告書』51ページ)
多摩地区所在古墳確認調査報告書の記述からするとこの古墳の所在地はわからなくなっているようなのですが、『秋川市史』の記述からおおよその所在地を推定することが出来ると考えました。前回紹介した「草花前の古墳」が存在したとされる祠はこの3号墳から50メートル南西に所在するということですので、逆に祠から北東に50メートルのあたりが3号墳の所在地であると推定したわけです。
画像は、3号墳の跡地と推定した場所を2年前に訪れたときのもので、祠から北東に50メートルの地点でみられた積石です。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には、平成4年の調査で痕跡を確認できなかったと記載されていますので、訪れた時の印象は「あれ?ある?」という感じでびっくりしましたが、考えてみるとこんなに目立つ積石を調査団が見落とすようにも思えませんし、本当にこれが古墳かなあと半信半疑でした。形状は、日野市に所在する「西平山古墳群」に残存する古墳や、同じ草花古墳群の中では8号墳にもよく似ています。
画像は、3号墳の跡地と推定した場所を2年前に訪れたときのもので、祠から北東に50メートルの地点でみられた積石です。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には、平成4年の調査で痕跡を確認できなかったと記載されていますので、訪れた時の印象は「あれ?ある?」という感じでびっくりしましたが、考えてみるとこんなに目立つ積石を調査団が見落とすようにも思えませんし、本当にこれが古墳かなあと半信半疑でした。形状は、日野市に所在する「西平山古墳群」に残存する古墳や、同じ草花古墳群の中では8号墳にもよく似ています。


さて、今年に入ってから現地を訪れてみると驚いたことに積石はすっかり撤去されて影も形もありません。上記の2枚の写真は、積み石があった2013年2月のものと2015年3月の同じ地点を同じ角度で西から見比べてみたものです。調べてみると北側を走っている都市計画道路秋多3・4・6号線は平成3年度から整備が進められており、2年前よりも拡幅されています。この際に歩道の部分の発掘調査が行われていますが、特に周溝等の古墳の遺構は検出されず、どうやら以前見られた積石は古墳ではなかったようです。
では、3号墳の所在地はどこになるのかということになりますが、『秋川市史』や『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には草花718番地とあり、近年発行されている調査報告書の遺跡分布図にもこの地点に3号墳が登録されていることから、西側の宅地となっているあたりが古墳の所在地ということになりそうです。
『秋川市史』には、4号墳から20メートル離れたところに3号墳、3号墳から50メートル離れたところに祠のある未登録古墳が所在すると書かれているのですが、結論としてはこの記述が間違いで、4号墳から50メートル離れて3号墳、そこから20メートル離れて未登録古墳、というのが正解であると思われます。私も私で早とちりをして、古墳でもない積石の写真を一生懸命撮っていたということになるようです。。。。。
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
追記(2020年12月12日)
その後、地元の心ある方からご指摘をいただきまして、真相が判明しました。
都道沿いに置かれていた石は、個人宅の庭石と、昭和34年頃に積んだ都道と個人宅の境界の石垣の残骸であるそうです。
都道拡張のために、昭和に作った石垣と、個人宅の庭石材がが仮に置かれていたものであるということで、古墳とはまったく無関係であることが判明しました。
ご指摘ありがとうございました!!!
- 2015/05/18(月) 02:56:28|
- あきる野市/草花古墳群
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「草花古墳群」は、秋留台地の北面に流れる平井川の北岸、草花丘陵を北面にした草花台地に所在します。かつては48塚があったという言い伝えも残されているこの草花古墳群には『東京都遺跡地図』に現在11基の古墳が登録されており、また近年には新たな2基の古墳の周溝も検出されていますが、『秋川市史』には他に東京都遺跡地図には未登録の古墳についての記述も見ることが出来ます。『秋川市史』の369ページには「この地点(草花古墳群3号墳)から、また僅か50メートル南西、草花718の所にも祠が祀ってあり、人頭大の石が数個残っている。ここにも古墳があったと語られ、明治~大正時代に、盗掘され、破壊消滅してしまったといわれている。」と、伝承として残る古墳について書かれています。
さて、この古墳が所在したとされる草花718番地を実際に訪れてみると、秋川市史にある、今もかわらず祀られている祠を見ることが出来ます。

祠の左手(北側)には画像のようにわずかに盛り上がった塚状の地形が見られます。祠の後ろ側は駐車場として整地されているため、この駐車場の周辺が古墳の所在地である場合、古墳は消滅している可能性が高いように思いますが、このマウンドは気になる存在です。。。
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
- 2015/05/17(日) 00:40:53|
- あきる野市/草花古墳群
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「草花古墳群5号墳」は、あきる野市草花に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号59-4番の古墳として登録されています。
『東京都遺跡地図』や、草花遺跡における埋蔵文化財の調査報告書等に掲載されている遺跡地図を参考にすると、この坂道を登りきったあたりの、草花台地縁辺が古墳の跡地であると思われます。この4号墳は平成4年に行われた確認調査の際には把握されており、平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には次のように書かれています。
3-4.(草花古墳群)
遺跡地図番号…秋川・五日市(あきる野)59-4
所在地…………秋川市草花728付近
占地状況………台地縁辺。
墳丘……………消滅。
主体部…………石室の構築材と思われる1m程の石が畑の中に露出していたとされているが、詳細は不明。
(『多摩地区所在古墳確認調査報告書』51ページ)
この調査報告書によると、「石室の構築材と思われる1m程の石が畑の中に露出していた」というのはこの時点ですでに伝承であり、正確な地点はわからなくなっているようです。実際にこの場所を訪れてみても周辺は宅地化されており、露出した石材を見ることは出来ません。

画像は「草花古墳群9号墳」の回にも紹介した、畑地の隅に大きな石がいくつか置かれている場所です。この地点は4号墳の跡地からもかなり近い距離にあり、ひょっとして畑の中に露出していたといわれる「石室の構築材と思われる1m程の石」と何か関係があるのではないかとも考えたのですが、これも残念ながら詳細はわかりませんでした。。。
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
- 2015/05/16(土) 11:46:18|
- あきる野市/草花古墳群
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画像は、「草花古墳群5号墳」の跡地周辺を南から見たところです。『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号59-5番の古墳として登録されています。
『東京都遺跡地図』や、草花遺跡における埋蔵文化財の調査報告書等に掲載されている遺跡地図を参考にすると、この道路の左側あたりが古墳の所在地にあたるようですが、痕跡を見つける事は出来ません。この古墳は平成4年に行われた確認調査の際には把握されており、平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には次のように書かれています。
3-5.(草花古墳群)
遺跡地図番号…秋川・五日市(あきる野)59-5
所在地…………秋川市草花1351
占地状況………台地縁辺。
墳丘……………消滅。
主体部…………畑の中に径1m程の範囲で河原石が寄せ集められている。石室自体の残存状態等は不明であるが、もともと地表面に露出していた石室の石を耕作の邪魔にならないように寄せ集めた感じである。これらの石の中には30×50cm大の石も含まれている。
出土遺物………寄せ集められた石の中から須恵器長頸壷の口縁部破片を採集。
(『多摩地区所在古墳確認調査報告書』51ページ)

この調査報告書からすると、河原石が寄せ集められた地点が古墳であるという判断は須恵器片が採集されたことによると思われます。周辺には畑地もかなり残されており、画像のように、周辺には石が積み上げられているような場所も見られるのですが、中には単に耕作に邪魔な石を積み上げただけで古墳とは無関係なものもあるでしょうし、遺跡地図に登録されている場所とは若干のズレもみられます。また、その後の開発により宅地となっている場所も多く、残念ながら跡地がどこにあたるのかはよくわかりませんでした。。。
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
- 2015/05/15(金) 01:35:17|
- あきる野市/草花古墳群
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画像は、あきる野市草花に所在したとされる「草花古墳群6号墳」跡地周辺を南東から見たところです。『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号59-6番の古墳として登録されています。
この古墳については故塩野半十郎氏による記述が残されており、『多摩のあゆみ』には次のように書かれています。
高瀬上の古墳は、渡辺儀平家の畑にあったのを、江戸時代に慈勝寺の境内の石垣にしたという事だが、その後畑中に一個、細長い石が立ててあったのを、耕作に不便なので渡辺儀平氏の祖父の代に取除いたところ、地下の粘土で固めた下から直刀が出土したことがあったが、戦時中、刀剣の取締りが厳しくなって、渡辺儀平氏が私の家に持って来たのをそのまま保管している。長さ約1メートル、広幅物で鍔には八個の穴が空いている。外に鉄鏃が数個ある。(『多摩のあゆみ 第20号』51ページ)
周辺は開発が進み、宅地化されている場所も多いのですが、この6号墳の推定地とされる箇所はまだ畑地として残されています。古墳は削平されているということで痕跡は何も見当たりませんでしたが、周溝が地下に残されている可能性は高そうです。
『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「畑の中に1個の細長い石が立っていたが耕作に邪魔なので取り除いたところ、粘土で固めた下から直刀が出てきたという伝承がある。古墳が存在していたといわれる場所は現在も畑であるが、石室等の痕跡は確認できなかった。」とあり、また出土遺物について「畑の石を取り除いた際に直刀と鉄鏃が出土。」と書かれています。いつの日か古墳が再発見される日も来るのかもしれませんね。。。

画像は「慈勝寺」の境内のようすです。『多摩のあゆみ』の記述にあるように境内には石垣を見ることが出来ます。いったいどの部分に石材が使用されているのでしょうか。。。
<参考文献>
塩野半十郎「秋川市の古墳覚書き」『多摩のあゆみ 第20号』
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
- 2015/05/13(水) 10:14:41|
- あきる野市/草花古墳群
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画像は、あきる野市草花にある「草花古墳群7号墳」を西から見たところです。あきる野市の遺跡番号59-7番の古墳です。
「草花古墳群7号墳」は、南に張り出した舌状台地の突端部西側に所在しています。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』(1995年発行)によるとこの古墳は平成4年に確認調査されており、下記のような記述が見られます。
3-7.(草花古墳群)
遺跡地図番号:秋川市・五日市(あきる野市)59-7
所在地:秋川市草花1334
占地状況:台地縁辺。南に張り出した舌状台地の突端部西側に位置する。
墳丘:現在は径約6m、高さ約0.5m程の墳丘が残っている。東側はブロック塀によって、南側はコンクリート擁壁によって裾が切られている。南側は梅林で、この為の整地やコンクリート擁壁の影響もあるだろうが、南側は墳丘の存在する場所より低くなっている。北側と西側は比較的旧状を留めていると思われるが、畑につながる北側に比べて西側は傾斜がやや急で、そのまま台地の傾斜に続いているようである。墳頂部には祠が祀られている。
主体部:内容不明
(『多摩地区所在古墳確認調査報告書』52ページ)

古墳の西側はすでに宅地化されて台地ごと削り取られており、また東側も宅地となっていますが、実際に現地を訪れてみると、わずかに盛り上がったマウンドの上に祠が建てられているようすを見ることが出来ます。この地点が古墳であれば、草花古墳群で唯一墳丘の残る古墳という事になると思うのですが、発掘調査は行われていないため詳細はわかりません。この古墳の東50m程の地点には「草花古墳群8号墳」も所在しています。
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
- 2015/05/11(月) 09:38:33|
- あきる野市/草花古墳群
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