
「西岡54号墳」は、大田区西嶺町に存在するとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号55番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳も、前回紹介した「西岡53号墳」と同様に、『考古学雑誌』 第26巻第5号の「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」では取り上げられていません。昭和26年(1951)発行の『大田区史』の「大田区田園調布附近封土式古墳一覧表」にのみ記述が見られ、「型式」は「円型墳」、「備考」に「封土大半崩壊され詳細不明」とのみ書かれており、これ以上の詳細はわかりません。
画像は、大田区西嶺町にある西嶺高砂公園内です。
昭和60年(1985)に東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』の古墳分布図には、この公園の敷地内に跡地としてのマークが記されています。同書の古墳分布図は比較的正確に古墳の跡地が記されている印象があるのですが、この公園の住所は”西嶺町30番地”であるのに対して、同書に古墳の所在地として記載されている住所は”西嶺町31番地”となっており、正確な所在地を特定するのはなかなか難しい状況です。

『都心部の遺跡』に記されているのはこのあたりです。
公園内の最も高い位置で、立ち入り禁止の柵が設けてある中には微妙な高まりが見られます
ひょっとしたら、公園の造成時に古墳の残骸を保護したようなことなのかもしれませんし、もちろん古墳とは全く関係のない単なる築山なのかもしれませんが、真相はわかりません。。。

『東京都遺跡地図』を参考にした54号墳の所在地は、なんとなくこのあたり。
宅地となっているようです。。。
何か痕跡が残されているのかどうか、全くわかりませんでした。
<参考文献>
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2020/03/13(金) 23:24:09|
- 大田区/田園調布古墳群
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「西岡53号墳」は、大田区田園調布南に存在したとされる古墳です。
『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号54番の古墳(円墳)として登録されています。
荏原台古墳群と総称される、大田区の田園調布古墳群から世田谷区の野毛古墳群にかけての多くの古墳は、1930年代に、後に大田区立郷土博物館の館長を努める西岡秀雄氏により分布調査が行われています。この記録は『考古学雑誌』 第26巻第5号の「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」の中で紹介されており、高塚古墳については番号が付けられて「西岡××号墳」という名称で紹介されています。
ほとんどの古墳が破壊されて消滅してしまった現在となっては、この西岡氏の記録は往時の古墳群の様子を知る貴重な手がかりです。ただし、同書に記載されているのは1号墳から52号墳までで、今回のこの「西岡53号墳」についてはなぜか記載がありません。
唯一、昭和26年(1951)発行の『大田区史』の「大田区田園調布附近封土式古墳一覧表」に記述が見られ、「型式」は「円型墳?」、「備考」に「原形消滅し、詳細不明」とのみ書かれています。
というわけで、画像が「西岡53号墳」の跡地とされる周辺のようすです。
『東京都遺跡地図』や各種発掘調査報告書等に掲載されている古墳分布図に記されている53号墳の位置はまちまちで、正確な跡地を特定することは難しいのですが、比較的正確に古墳の跡地を記していると思われる『都心部の遺跡』の分布図では、画像の集合住宅の位置あたりが跡地として記されています。
残念ながら、古墳の痕跡は何も残されていないようです。。。
<参考文献>
東京都大田区役所『大田区史』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
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- 2020/03/12(木) 23:03:35|
- 大田区/田園調布古墳群
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「西岡52号墳」は、大田区田園調布本町に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号53番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳も、田園調布古墳群中の多くの古墳と同様に、すでに開発により消滅しています。
1930年代当時、大田区立郷土博物館の館長を努める西岡秀雄氏により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されており、この調査報告が掲載されている「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』には次のように紹介されています。
第五十二號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字下沼部
新地名 東京市大森區田園調布二丁目一〇一〇細川氏所有地
(型式)圓型墳
(現況其の他)以前畑中にあつたが、現在は全く附近に石室壁の相當大きな破片を残すのみで、全く原形を留めない。詳細不明。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』57ページ) 『東京都遺跡地図』の分布図を参考にすると、画像の右側あたりが跡地ではないかと思われるのですが、すでに古墳の痕跡はなく、正確な所在地はわかりません。前回取り上げた51号墳と、今回の52号墳には同じ住所が書かれていますので、かなり近い位置に存在していたようです。。。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
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- 2020/03/11(水) 22:02:15|
- 大田区/田園調布古墳群
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「西岡49号墳」、「西岡51号墳」は、大田区田園調布本町に所在したとされる古墳です。
『東京都遺跡地図』には西岡49号墳が大田区の遺跡番号50番、西岡51号墳が52番の古墳(円墳)として登録されています。
この2基の古墳は既に消滅しており、現在は見ることが出来ません。1930年代当時、大田区立郷土博物館の館長を努める西岡秀雄氏により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されています。この調査報告が掲載されている「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』には次のように紹介されています。
第四十九號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字下沼部
新地名 東京市大森區田園調布二丁目
(型式)圓型墳
(現況其の他)封土の一部は破壊されたが未だに其の原形を失はず、墳上には稲荷神社がある。高さ二•五米。土器片を採集したことがあるが未發のものである。
第五十一號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字下沼部
新地名 東京市大森區田園調布二丁目一〇一〇細川氏所有地
(型式)圓型墳
(現況其の他)以前畑中にあつたが、現在は全く原形を留めない。土人の話によれば大正十年頃切り崩しの時、石棺及び直刀を出土したと云ふが詳細不明である。高さ約二米。(『考古学雑誌 第26巻 第5号』56~57ページ)
その後の昭和11年に東京府により発行された『東京府史跡名勝天然記念物調査報告所 第十三冊』には、51号墳についてのその後の記述が見られます。
圓墳卽ち西岡第五一號墳は、寫眞の示すが如く極めて小規模のもので、現在多少表面が削平せられて、最初の形を失つてゐるとしても、其の高さは二米を過ぎることはなからうし、徑は十五米内外、古墳としては問題にならないものであらうが、前述した地下横穴式石室古墳のあつたところと接して居るし、かつその古墳の規模と似てゐるので、或はこれにも地下横穴式石室が築營されてゐるかも知れない。(『東京府史跡名勝天然記念物調査報告所 第十三冊』14ページ) おそらく、昭和初期には台地縁辺部に49号墳と51号墳という2基の小円墳があり、そこから一段高い場所に盟主墳である50号墳が所在する、という状況だったのでしょうか?
田園調布古墳群は、かなり多くの古墳が密集して存在した第古墳群であったと思われるのですが、発掘調査はあまり進んでいない状況で、詳細がわからないのは残念なところです。それだけに、西岡秀雄氏の調査の記録はとても貴重な存在です。。。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京府「東京府下の古墳」『東京府史跡名勝天然記念物調査報告所 第十三冊』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
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- 2020/03/10(火) 23:23:48|
- 大田区/田園調布古墳群
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画像は、大田区田園調布本町に所在する「西岡50号墳」を南西から見たところです。
『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号51番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳は、昭和58年度の東京都心部遺跡分布調査の際に実測調査が行われており、その結果が東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』に掲載されています。同書によると、この古墳の周囲はコンクリート壁に囲まれて墳袖は明瞭でないものの、現状の規模は全長28.4m、後円部東西径24m、南北径23.0mで、前方造り出し部端の幅は約5mを測ります。墳頂部は平らに削平されていて現状の高さはコンクリート壁の上から2mあり、墳頂部にある大木の根につく土盛から元は4m以上の墳丘を有していたと考えられています。
同書には、「造り出し部が未発達なことから、帆立貝式古墳とみるよりも、むしろ造り出し付き円墳と考えた方がよさそうである」とされており、最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』でもこの古墳は”円墳”と記載されています。

北西からみたところ。
左端の草が枯れて茶色く変色したあたりが前方部(造り出し部?)です。
『東京都遺跡地図』のインターネット公開版は、地図上に記されている古墳の位置がずれている場合があるので、現存している古墳の場合でもなかなか見つからず、現地で道に迷う事がよくあります。特に、西岡49号墳から52号墳までの4基の位置はなぜかかなりずれているので、最初に訪れた日はかなり長時間迷って歩き回りました。
正確に記されているのは、昭和60年(1985)の『都心部の遺跡』か、大田区の郷土博物館や多摩川台公園古墳展示室で販売されている『大田区古墳ガイドブック ー多摩川に流れる古代のロマンー』という小冊子の付録の「古墳散策マップ」だけで、それ以外は『東京都遺跡地図』も含めてなぜかずれた位置に記されています。。。

墳丘上の様子。
平坦な部分が広い印象です。
1960年代に後円部頂は削平されているようですが、どうして削られてしまったんだろう。。。

墳頂部の大木の根の部分。
なるほど確かに、露出している根っこの部分は、かつては地中に埋まっていたらしく見えます。
築造時は、今よりもずっと高さがあったようですね。。。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京府「東京府下の古墳」『東京府史跡名勝天然記念物調査報告所 第十三冊』
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
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- 2020/03/09(月) 23:08:43|
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画像は、大田区雪谷大塚町にある「大塚稲荷大明神」を南東から見たところです。
この大塚稲荷の土台となっている塚が「鵜木大塚古墳」です。
『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号56番の古墳(円墳)として登録されており、昭和5年6月5日に東京都の旧跡として指定されています。

この高まりが鵜木大塚古墳です。
この古墳は、多摩川下流域左岸の台地上に分布する荏原台古墳群中、最も東側に位置しています。
古墳群から離れた位置に存在することから、中近世の塚ではないかとも考えられていました。しかし近年、同じ多摩川の中流域左岸の府中崖線上に沿う「御嶽塚古墳群」から200m離れた北端に単独墳として所在する「武蔵府中熊野神社古墳」が確認されたことから、同じような立地景観を示すこの鵜木大塚古墳も古墳ではないかとする説が有力視されているようです。

石段の途中で大塚稲荷を見上げたところ。
墳丘は比較的原形を保っていますが、発掘調査が行われていないことから周溝や主体部等は未確認となっており、埴輪や葺石なども今のところ確認されていないようです。
規模は、直径約27m、高さ約6mの円墳で、南隅を封土を書き落として稲荷社が建てられています。

墳丘上のようす。
古墳は旧鵜ノ木村の飛地にあったことからこの名称がつけられていますが、古くは単に「大塚」と呼ばれており、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「大塚 北の方にあり、八町四方、」と書かれています。
現在の雪谷大塚町の地名の起こりにもなっており、東急池上線の「雪が谷大塚」の駅名や、「調布大塚小学校」などの学校名にもなっているようです。

神社は墳丘の中腹を削ったところにあり、お堂の背後にさらに高まりが残されています。

お堂の西側から、背後のさらなる高まりを見上げたところ。
周囲は開発が進んで住宅に囲まれてしまっていますが、古墳が残されてよかったですね。。。

南から見た鵜木大塚古墳です。

北西から見た鵜木大塚古墳。
私は個人的には、この鵜木大塚は立地や形状からして、古墳ではなく塚なのではないだろうかと思っています。
あくまで素人考えですけどね。。。

北東から見た鵜木大塚古墳。
この『古墳なう』を始めた当時は記事も写真もしょぼかったので、その後再訪した古墳についてはコソコソと画像を差し替えてたりしていました。この鵜木大塚古墳も以前に一度取り上げていましたが、今回は、再訪した際の新しい画像です。ちなみに大田区内で残るは50号墳かなー?
そもそも東京(とその周辺)の街を探検するペースの方が早くて記事の更新がずっと追いついていませんでしたので、訪れて見学しておきながらも公開しないで放置!という古墳や塚がたくさんあるのです、が!あまり時間が経ってしまうと、更新しようにも現地で聞いた貴重なお話やエピソードを忘れてしまうんですよね。やっぱり。
幸いにして今はそれほど古墳を見て回っていないので、どんどん更新します!
<参考文献>
学生社『大田区史跡散歩』
東京都大田区『大田区史 資料編 地誌類抄録』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2020/03/08(日) 22:42:31|
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「丸山1号墳」と「同2号墳」は、平成15年3月の試掘調査を経て行われた同年4月から5月にかけての丸山遺跡B地点の発掘調査により検出された古墳です。
1号墳は墳丘はすでに削平されており、また主体部も遺存しないものの周溝の約1/4が検出されており、内径は推定約20~21mほどで、周溝を含めると30mほどの円墳であると推定されています。この周溝の覆土中からは土師器坏や甕、須恵器が出土しており、古墳の築造は5世紀後半から末葉と考えられているようです。出土遺物が出現期の特徴を示していることから、この丸山古墳は首長墓域が田園調布地域に移動してくる直前時期に該当する古墳であるようです。
2号墳は遺構のほとんどが調査区外に及ぶことから墳形や規模不明であるものの、1号墳の調査により古墳の周溝であると考えられているようです。
画像の中央あたりが1号墳、その右側が2号墳の跡地となるようですが、当然ながら古墳の痕跡は何も見ることは出来ません。
<参考文献>
玉川文化財研究所『丸山遺跡B地点発掘調査報告書』
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- 2017/08/09(水) 09:13:14|
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「扇塚古墳」は、多摩川下流域左岸の武蔵野台地縁辺部にあたる、大田区田園調布1丁目に所在した古墳です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号145番に登録されています。
この古墳の「扇塚」の名称は、かつて墳丘上に建てられていた稲荷祠に扇を収めたことに由来するといわれ、扇の供養塚ではないかとも考えられていたようです。西岡秀雄氏により1930年代に行われた荏原台古墳群の分布調査の際には、確認された54基の中に扇塚の名は入っていないようです。その後の、後藤守一氏による「東京府下の古墳」『東京府史蹟名勝天然記念物調査報告書 第十三冊』の15ページには「本古墳は、現在著しく形が頽されて居り、其れに接して稲荷祠があるので、古墳としての概念には遠いものとなつてゐる。」と書かれていることから、西岡秀雄氏は古墳であると認識しなかったのかもしれません。同書には、当時まだ農地の一角に残されていた扇塚と稲荷祠の写真が掲載されています。
その後、平成8年(1996)に共同住宅建設に伴う発掘調査が行われますが、調査区が限定されていたことや、後世の地形改変や社殿建築による撹乱により、墳形を確定するまでには至らなかったようです。測量調査により辛うじて確認された円丘部分の規模は、直径約20m、墳頂部直径約8mで、3基の埋葬施設が確認されています。このうち1号主体部からは鉄剣2鉄鉋1、鉄鏃4、ガラス小玉10、内行花文鏡1が出土しています。2号、3号主体部からは副葬品はなく、3基ともに木棺が納められていたようです。この木棺の腐朽による墳丘の陥没が50cmと想定して、古墳の築造当時の高さは約3mほどであると想定されています。
墳形については、円丘をそのまま円墳と解釈する説もあり、また円丘を後円部と想定すると、全長40mほどの規模が想定されているようです。ただし、確認された周溝残存部分が直線的であることから、主丘を後方部とする前方後方墳または方墳の可能性も想定されているようです。
このように、扇塚古墳は墳形が確定されないものの低墳丘の出現期古墳で、埋葬施設や副葬品、出土した土器などにより、大型前方後円墳である「宝莱山古墳」に先行する4世紀前半の築造と考えられています。

この古墳については、近隣の住民により碧と歴史を守ってほしいという運動がされていたそうです。また、発掘方法や調査後の処理をめぐっての文化財保存全国協議会による意義申し立てや、地元の人びとや関心を寄せる有志による抗議や交渉も行われたそうです。
残念ながら、東京最古の古墳かもしれない出現期の古墳とされる扇塚は、短期間の限られた調査が終了したのち、集合住宅建設により消滅しています。現在マンションとなった坂道の途中に「扇塚碑」と「拍子木塚碑」の2基の石碑が移設されており、1枚目の画像がこの石碑のようすです。
また、2枚目の画像は、この並びに移設されている、かつて扇塚の墳丘上に祀られていた稲荷社の石碑です。
わずかに残された古墳の痕跡ですね。。。

画像は、扇塚古墳の1号主体部から出土した「内行花文鏡」です。
大田区の郷土博物館で令和元年(2019)の秋に見学したものです。

同じく、扇塚古墳の1号主体部から出土したという「鉄鉇」と「鉄剣」。
<参考文献>
扇塚古墳発掘調査『扇塚古墳発掘調査報告書』
大田区立郷土博物館『博物館ノートNo.133』
大田区郷土の会『多摩川 44』
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- 2017/08/08(火) 00:22:39|
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『東京都遺跡地図』には、「下沼部狐塚1・2号墳」という名称の古墳が大田区の遺蹟番号28番の遺蹟として登録されており、”2基の円墳”として赤い色の残存マークが付けられています。多摩川左岸の段丘縁辺部からは少し離れた場所にあるこの古墳は、実はとても気になる存在なのですが、『東京都遺跡地図』以外に記述のある文献を見つけることが出来ず、発掘調査が行われたという記録もなく、また遺物などの伝承も残されていないようです。
実際に、所在地とされる(大田区遺跡地図』に掲載されている)大田区田園調布2丁目周辺を歩いてみたのですが、すでに開発が進んだこの地域はびっしりと民家が建ち並んでいて、古墳が残されるようなスペースは存在しないようにも思えます。大田区内の古墳や塚を調べていて一番詳細不明であったのがこの「下沼部狐塚1・2号墳」です。
遺蹟番号28番という若い番号であることから考えて遺蹟地図に登録された時期が古く、この古墳の記録が存在するとすればかなり古い文献ではないかと考えたのですが、調べてみると遺蹟地図に登録されたのは平成7年(1995)と比較的近年であることがわかりました。例えばこの地に古墳が存在したという古老の証言が得られたとか、この古墳の存在を証明する古い文献が発見されたとか、『東京都遺跡地図』に登録されるにはそれなりの理由があると思うのですが、この古墳に関しては詳細がまったくわかりませんでした。
画像は、下沼部狐塚の所在地とされる田園調布2丁目周辺のようすです。
この古墳に関しては、機会を見つけてまだ調べてみようと思っているので、詳細がわかり次第、書き加えようと思います。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/08/06(日) 23:56:50|
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「西岡第47号古墳」は、大田区田園調布3丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には、大田区の遺跡番号36番の古墳(円墳)として登録されています。
画像は、この西岡第47号古墳の跡地を南東から見たところです。古墳はすでに削平されて完全に消滅しており、跡地は修道院の駐車場として舗装されています。痕跡は全く残されていないようですが、この地点が47号墳の所在地となるようです。

この古墳は、西岡秀雄氏により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されており、この調査報告が掲載されている「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』には次のように紹介されています。
第四十七號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字下沼部字潮見臺
新地名 東京市大森區田園調布三丁目143
(型式)圓型墳
(現況其の他)雑木林中にある。未發掘。高さ約二•五米。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』310ページ)
この調査当時はまだこの敷地が雑木林で、この林の中に古墳が残されていたことがわかります。さらに、昭和11年に発行された『東京府史蹟名勝天然記念物調査報告所 第13冊』にもこの古墳の記述が見られ、次のように書かれています。
六 修道院構内古墳
前に述べた龜甲山北に連なる小圓墳群と谷を隔てて、其の東にある丘陵上にも、若干の古墳があつたのであらうが、今はその一つが、舊稱下沼部汐見臺上の修道院構内に殘つてゐる。比較的よく原形を遺存し、平面形が圓形に近い。(北側が道路で切られてはゐるが)高さは現在三米に過ぎないが、原形に於いては更に五十糎を增して三米五十糎位を數へ得られるであらうし、直徑は三十米もあつたであらうか。
墳丘面に礫石の多く散布してゐるのは葺石とも見るべく、土器片も多少散在してゐる。
(「東京府下の古墳」『東京府史蹟名勝天然記念物調査報告書 第13冊』17ページ) そしてその後、昭和60年(1985)に東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』には次のように書かれています。
65 西岡47号墳
大田区 36 大田区田園調布3-43
①台地上
②聖フランシスコ修道院
③一部残存
④円墳(復元径30m)
⑥土器片
⑦65・121
⑧墳丘は広場整地のため昭和31年頃に削平された。
現在は墳丘の一部がわずかに残る。修道院に古墳
を背景とした記念写真(昭和12年)がある。(後略)
(『都心部の遺跡』133ページ)
『東京府史蹟名勝天然記念物調査報告書』には昭和初期の古墳の写真とともに測量図が掲載されており、また『都心部の遺跡』にも、昭和12年(1937)に撮影されたという聖フランシスコ修道院所蔵とされる古墳の写真が掲載されています。昭和初期まではこの47号古墳は間違いなく存在していたようですが、その後、聖フランシスコ修道院の広場整地のため削平されて消滅しています。

画像は、聖フランシスコ修道院内のルルドの中庭に立てられているマリア像です。実は、以前にこの西岡第47号古墳を掲載した際には、このマウンドが古墳であると勘違いして紹介してしまいました。『都心部の遺跡』には、「墳丘は広場整地のため昭和31年に削平された」としながらも「現在は墳丘の一部がわずかに残る」とも書かれていたことから、このマリア像のマウンドが古墳の残存部分であると思い込んでしまったのですが、その後も何か変だなと納得いかない部分があって、ずっと調べていました。
『東京府史蹟名勝天然記念物調査報告書』の「北側が道路で切られている」という記述や、掲載されている測量図の古墳の形状からしても、現在の修道院駐車場の周囲の地形と照らし合わせてつじつまが合います。また、あらためて訪れた際に、修道院内で当時を知る古老の男性からお話をお聞きできたのですが、やはり古墳は現在の駐車場のあたりに所在したようです。万が一、私の記事を信じて古墳を見学に訪れた人がいたとしたら、大変申し訳ないです。。。
ということで、マリア像のマウンドは47号墳とは無関係ということになりますが、このマウンドが47号墳とは別の、元々存在した古墳を流用したという可能性も有り得るのではないかと考えましたが、これは全く情報が見つからず、真相は不明です。。。
当日は修道院の受付の方に声をかけて写真を撮らせていただきました。ありがとうございました。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京府「東京府下の古墳」『東京府史蹟名勝天然記念物調査報告書 第13冊』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
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- 2017/08/05(土) 01:03:43|
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