「瀬戸岡古墳群」は、あきる野市瀬戸岡にある古墳群です。『東京都遺跡地図』には、あきる野市の遺跡番号67番として登録されている古墳群で、多摩川の支流にあたる平井川の右岸、秋留台地上に約50基の古墳が分布する群集墳です。この古墳群の最初の発掘調査は、大正15年1月5日に瀬戸岡青年団により行われ、河原石で築かれた”横穴式石室的な竪穴式石室”が発見されて注目されました。これがきっかけになり、大正15年5月に当時の東京府の「旧跡」に指定されています。その後、昭和2年および昭和25年には鳥居龍蔵氏や後藤守一氏によって発掘調査が行われ、直刀、刀子、鉄鏃、須恵器、土師器等が発見されています。また、火葬骨を納めた須恵器の蔵骨器も発見されていて、古墳本来の築造は7世紀台と推定されているものの、後世になってから火葬墳墓として再利用されたものと考えられているそうです。平成18年3月16日には「旧跡」から「史跡」に種別変更されています。
古墳は開発によって失われつつあるものの、一部が「瀬戸岡歴史環境保全地域」として保存されていて、特に岸野修一氏所有地区において広く残されています。敷地内は従来よりクリ林として経営管理されてきたそうで、所有者により石が置かれたり棒が立てられていて、古墳の位置がわかるようになっています。
さて、今回はいよいよ「瀬戸岡古墳群」の最終回、E群を紹介します。

画像は「瀬戸岡古墳群12号墳」の所在地周辺を西から見たところです。土地所有者の岸野氏に敷地内を案内していただいた時にはこの古墳は素通りしてしまったので、遠方からの撮影です。12号墳は分布図によると崖際に位置しており、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「一部流出」と書かれています。岸野氏にお聞きしたところでは、この古墳群のある台地は以前はもう少し奥まで続いていたそうですが、平井川の氾濫によって崖が崩れてしまったことがあるのだそうです。この崖崩れによって失われてしまった古墳も存在するそうですが、石室の一部が流失して崖際に半壊した石室の石材が露出している場所も見られます。この12号墳もそんな1基であるようです。

画像は「瀬戸岡古墳群13号墳」の所在地周辺を南東から見たところです。土地所有者の岸野氏にお聞きしたところでは、画像中央の石積みのあたりにも古墳がある、ということでしたが、分布図を参考にするとこの13号墳は崖際に位置しており、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「一部流出」と書かれていますので、実際には石積みのもう少し奥の崖際に残されているのかもしれません。石積みの奥には敷地内の古墳所在地に見られる鉄棒が立てられているようですので、この場所が13号墳の所在地かもしれません。12号墳と同様に半壊の状態で残存するようです。

画像は「瀬戸岡古墳群14号墳」の所在地です。画像の大きな石が置かれている場所が14号墳の所在地で、地中に石室が残されているようですが、地上からは見ることが出来ません。瀬戸岡古墳群は、昭和25年(1950)5月20~24日にかけて、武蔵野文化協会の事業として後藤守一氏らにより5基の古墳の発掘調査が行われており、さらに5月25日に塩野半十郎氏の指導で1基が発掘されておます。この塩野半十郎氏により掘られた古墳がこの14号墳であるようです。

画像は「瀬戸岡古墳群15号墳」の所在地です。画像右奥の大きな石と左手前の鉄の棒が立てられている間に石室が残存するようですが、やはり地上からは見ることが出来ません。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』でも「残存」とされれています。

画像は「瀬戸岡古墳群16号墳」です。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「一部流出」とされている古墳で、岸野氏によると、平井川の氾濫によって崖が崩れた際に石室の一部が流失して半壊しており、現在は石室の断面が露出して僅かに観察することが出来る古墳です。昭和25年(1950)5月20~24日にかけて後藤守一氏らにより発掘調査された5基の古墳のうちの1基です。

画像は「瀬戸岡古墳群17号墳」の所在地です。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされている古墳で、この古墳も、昭和25年(1950)5月20~24日にかけて後藤守一氏らにより発掘調査された5基の古墳のうちの1基です。現在は埋め戻されており、画像の石積みの下に石室が残されているようです。

画像は「瀬戸岡古墳群46号墳」の所在地周辺のようすです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされている古墳ですが、土地所有者の岸野氏に敷地内を案内していただいた時にはこの古墳の近くには行きませんでした。遠方からの撮影です。

画像は「瀬戸岡古墳群47号墳」の所在地周辺のようすです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされている古墳です。土地所有者の岸野氏に敷地内を案内していただいた時にはこの古墳の近くには行かなかったのですが、後に分布図で確認したところでは画像のあたりが47号墳の所在地となるようです。微妙な地形が気になるところです。。。



段丘の一段下には、画像のように所々に河原石が積み上げられている箇所があるのですが、土地所有者の岸野氏にお聞きしたところではこれは古墳ではないそうで、耕作に邪魔な、散らばっていた河原石を集めて積み上げたものだそうです。平井川の氾濫によって崖が崩れた際には何基かの古墳が消失しているようなので、石室の石材が混ざっている可能性はあるかもしれませんね。。。
51基が確認されている「瀬戸岡古墳群」においてこの区域に残された古墳の密度が高いのは、土地所有者の古墳保存の熱意によるものなのだそうです。行政の力だけでなくこうした個人の尽力によっても遺跡が守られているというのは、とても素敵なことだと思います。ちなみに当日は、時間を割いて区域内を案内していただき、解説までしていただいたうえに資料までいただきました。とても貴重で楽しい時間でした。ありがとうございました。
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
瀬戸岡古墳群市道地区調査会『瀬戸岡古墳群』
東京都埋蔵文化財センター『天神前遺跡 瀬戸岡古墳群 上賀多遺跡 新道通遺跡 南小宮遺跡』
池上 悟 広瀬 和雄『武蔵と相模の古墳 (季刊考古学別冊 15)』
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- 2017/02/25(土) 18:42:29|
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さて、前回に続いて今回も「瀬戸岡古墳群」D群を取り上げようと思います。今回紹介する古墳は、東京都の「歴史環境保全区域」に指定されている岸野氏の宅地内に保存されている古墳です。
画像は「瀬戸岡古墳群18号墳」と思われる地点です。敷地内を案内していただいた岸野氏曰く、あの場所は古墳ではないのではないか、としていましたが、帰宅してから分布図を見比べてみたところではこのあたりが18号墳ではないかと考えられる場所です。祠らしき何か?が祀られていたように思うのですが、ちょっと記憶が薄れてきました。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされている古墳です。

画像は「瀬戸岡古墳群19号墳」と思われる地点です。敷地内を案内していただいた岸野氏曰く、この場所も古墳ではないのではないか、と語っていましたが、帰宅してから分布図を見比べてみたところではこのあたりが18号墳ではないかと考えられる場所です。祠が祀られていて、周囲に石室の石材らしき河原石が使われています。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされている古墳です。

画像は「瀬戸岡古墳群25号墳」と思われる周辺です。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされている古墳で、「歴史環境保全区域」に指定されている区域内に所在するので恐らく地中に石室が残存するものと思われますが、地上に古墳の痕跡は残されていないようです。

続いて「瀬戸岡古墳群49号墳」と思われる周辺です。この古墳も『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされており、「歴史環境保全区域」に指定されている区域内に所在するので恐らく地中に石室が残存するものと思われます。現在畑地となっているようですが、地上に痕跡は見ることは出来ないようです。


「瀬戸岡古墳群48号墳」も『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされており、「歴史環境保全区域」に指定されている区域内に所在するので恐らく地中に石室が残存するものと思われますが、残念ながら画像がありません。
画像は、岸野氏に拝見させていただいた、遺物の数々です。瀬戸岡古墳群に関係するものばかりでなく、周辺地域で出土した遺物が敷地内の納屋に保存されています。

画像は、「瀬戸岡古墳群50号墳」の所在地とされていた地点です。この場所は未発掘墳である50号墳の所在が推定されており、市道整備事業に伴う発掘調査が行われたものの古墳は発見されなかったという場所です。従って、最新の瀬戸岡古墳群の分布図からは削除されているようです。

続いて「瀬戸岡古墳群26号墳」の所在地とされていた地点です。この場所も未発掘墳の所在が推定されており、市道整備事業に伴う発掘調査が行われたものの古墳は発見されなかったという場所です。50号墳と同じく、最新の瀬戸岡古墳群の分布図からは削除されているようです。

画像は「瀬戸岡古墳群41号墳」を南東から見たところです。この古墳は、D群に属する古墳の中では歴史環境保全区域に指定されている区域から外れた、民家の敷地内に所在します。周囲より僅かに高く盛り上がった場所で、祠が祀られています。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされているようですが、表面観察したところでは古墳らしき痕跡は見ることは出来ないようです。
次回、瀬戸岡古墳群その7(E群)に続く…
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
瀬戸岡古墳群市道地区調査会『瀬戸岡古墳群』
東京都埋蔵文化財センター『天神前遺跡 瀬戸岡古墳群 上賀多遺跡 新道通遺跡 南小宮遺跡』
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- 2017/02/24(金) 00:16:02|
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さて、前回に続いて、今回も「瀬戸岡古墳群」D群を取り上げようと思います。今回紹介する古墳は、東京都の「歴史環境保全区域」に指定されている岸野氏の宅地内に保存されている古墳です。

画像は「瀬戸岡古墳群31号墳」の所在地を南西から見たところです。画像中央の民家と畑地を仕切る塀際の鉄の棒が立てられているあたりが31号墳の所在地です。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』によると、大正15年(1926)に瀬戸岡青年団有志により発掘が行われた多西村の「カスミノ古墳」はこの31号墳であるとしており、少なくとも大正時代末期から昭和2年の間に一度は発掘が行われている古墳であるようです。土師器甕や木炭、火葬骨片が出土しており、この古墳の天井石は瀬戸岡会館の前庭に保存されており、「亀の子石」と呼ばれています。

「瀬戸岡古墳群」は積石塚古墳といわれています。積石塚古墳は日本全国に分布しているようですが、特に長野県では、有名な「大室古墳群」を中心に多くの積石塚が発見されています。(2015年5月から6月にかけての『古墳なう』で「大室古墳群」や「八丁鎧塚古墳群」を取り上げました。大室古墳群と違って、瀬戸岡古墳群の石室には土盛りの墳丘があったと考えられているようです。)この墓制が朝鮮半島の一部で行われていたことや日本の古墳としては特殊な形式であることから、古代朝鮮からの渡来人により築造されたのではないかといわれています。
あきる野市の瀬戸岡地区周辺では、この積石塚の積石は「神籠石(かあごいし)」と呼ばれ、たたりがあると恐れられていました。「神籠石」とは、神域を囲む護石であるとか、神が降り立つ場所であると考えられたため、名付けられたのだそうです。あきる野市瀬戸岡488番地所在の瀬戸岡会館の前庭には「亀の子石」と呼ばれる大石が保存されています。この亀の子石は「瀬戸岡31号墳」の石室の天井として使われていたとされる石材で、明治時代の一時期に用水路の橋として使われていた後、昭和40年代にこの場所に移されたそうです。
画像は、この「亀の子石」を南東から見たところです。敷地内にはあきる野市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
あきる野市の文化財
亀 の 子 石
所在地 あきる野市瀬戸岡四八九番地
この場所の西方約四百メートルには、古墳時代終末期に築かれた
瀬戸岡古墳群(都指定文化財)があります。これまでに約五〇基が確
認されていますが、そのうちの数基は、大正末から昭和初めに地域
の青年たちによって発掘が行われ、石室の中から直刀や玉などが発
見されました。石室は、地下に掘った長方形の穴の壁面に五〇セン
チ前後の自然の川原石を積み上げ、その上に大きめの川原石をふい
て築かれていたものと考えられます。また、かつてはその上に石や
土を積み上げて小さな墳丘が築かれていたものと考えられますが、
いまは失われています。
この大きな石は、当初神明社の北約一五〇メートル(瀬戸岡七九
二番地五)にあったもので、古墳(三一号墳)の石室の天井として使
われていたと考えられます。
明治の一時期、菅瀬橋近くの用水路の橋として使用されていたこ
とがあり、形が亀に似ていることから「亀の子橋」と呼ばれていま
した。その後、昭和四〇年代にこの場所に移され、今は「亀の子
石」の名で親しまれています。
平成一七年一一月一五日設置
あきる野市教育委員会 この大石もかつては人々に祟りを恐れられていたのかもしれませんが、今はこうして地元の人々に大切に祀られています。時の流れとは面白いものかもしれませんね。。。

「瀬戸岡古墳群32号墳」の所在地は個人の宅地内にあたります。画像の塀の奥が32号墳の跡地となるようです。この古墳は昭和25年(1950)に「第1号墳」の名称で発掘調査が行われています。(この時期には後藤守一により5基、塩野半十朗氏により1基の計6基の発掘調査が行われており、この1~6号墳を現在の古墳番号に当てはめると、1号墳が32号墳、2号墳が22号墳、3号墳が16号墳、4号墳が17号墳、5号墳が23号墳、6号墳が14号墳ということになるようです。)発掘当時の記録によるとこの古墳は古墳群中最も高い位置にあり、直径は約二十尺余(6.1m)の円墳で、石室内からは人骨らしい僅かな粉末が検出されており、刀子の残片と太刀の残片、銅環が出土しています。

この32号墳(旧1号墳)の石室は、現在の江戸東京たてもの園(東京都小金井市桜町)に移設保存されており、公開されています。現地の説明板では「瀬戸岡1号墳」として紹介されているので、注意が必要ですね。現地説明板には次のように書かれています。
瀬戸岡1号墳
Stone Chamber at Seto-oka no.1
あきる野市の秋留台地北縁に点在する瀬戸岡古墳群のなかのひとつ。
瀬戸岡古墳群の特徴は、墳丘がほとんどみられないことで、石室
は河原石を用いた地下式横穴である。1号墳からは、刀類や鉄族、
土師器の甕などが出土しているものの、副葬品は概して少ない。
蔵骨器として用いられた須恵器の壺も出土しているが、これは平
安時代になってから古墳が再利用されて納められたものとみられ
ている。
年代:奈良時代(7世紀後半)
旧所在地:あきる野市瀬戸岡
同じく、江戸東京たてもの園内に移設保存された「瀬戸岡古墳群32号墳」のようすです。ちなみにこの隣には、同じく野外展示している「多摩川台古墳群第8号墳(旧第9号墳」の石室のレプリカも見ることができます。

「瀬戸岡古墳群33号墳」は、画像の台地縁辺部に所在したと思われます。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされているようですが、所在地は個人の宅地内となっており、その存在はよくわかりません。

画像は「瀬戸岡古墳群20号墳」と思われる地点です。右側に立てられている鉄の棒と左側の石が置かれてやはり鉄の棒が立つ間に石室が保存されているそうです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』でも「残存」とされている古墳です。敷地内を案内していただいた岸野氏によると、この古墳を含めたほとんどの石室は南北に向いているとのことでした。。。

画像は「瀬戸岡古墳群23号墳」と思われる地点です。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされている古墳で、「歴史環境保全区域」に指定されている区域内に所在するので恐らく地中に石室が残存するものと思われますが、痕跡がなく正確な場所がよくわかりません。この古墳は昭和25年(1950)に「第5号墳」の名称で発掘調査が行われており、長さ5.4mの石室が調査されています。石室内からは長さ8cmほどの釘が多数出土しており、また北壁に立てかけられた完形の直刀が出土しています。

画像は「瀬戸岡古墳群22号墳」の所在地です。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされている古墳で、画像の円形に石が置かれている場所が古墳の所在地です。昭和25年(1950)に「第2号墳」の名称で発掘調査が行われており、長さ4.5m、幅58cm、深さ1.3mの石室が調査されています。刀身1振が出土しており、骨片や鉄鏃が採集されています。
当日、敷地内を案内していただいた岸野氏によると、大正時代頃までは墳丘らしき積石が残されていたらしいのですが、次第に大きな石が持ち去られて墳丘は消失してしまったのだそうです。秋川市教育委員会より発行された『秋川市・多西郷土精史』にはこの22号墳(旧2号墳)の形状について「地平線下の竪穴式石槨、その上部の封土は、初めのころ相当に多かったのだと思いますが、年月を経るに従い雨水のため土が流され石塊だけ残ったものと思われます。石塊が多数乱雑に露出しています。これは地表面から稍々高く見えるだけで、人目をひかない、特に小規模な古墳であります。」と書かれており、発掘が行われた昭和25年頃までは積石が残されているようすが記されています。

画像は「瀬戸岡古墳群45号墳」と思われる周辺です。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされている古墳で、「歴史環境保全区域」に指定されている区域内に所在するので恐らく地中に石室が残存するものと思われます。地上に痕跡がなく、正確な場所はよくわかりません。

画像は「瀬戸岡古墳群10号墳」と思われる周辺です。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされている古墳で、「歴史環境保全区域」に指定されている区域内に所在するので恐らく地中に石室が残存するものと思われますが、地上に痕跡がなく、正確な場所はよくわかりません。

画像は「瀬戸岡古墳群11号墳」と思われる周辺です。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされている古墳で、「歴史環境保全区域」に指定されている区域内に所在するので恐らく地中に石室が残存するものと思われます。画像中央に見える、鉄の棒が立てられているあたりが古墳の所在地と思われますが、地上に痕跡を見ることは出来ません。

画像は、案内していただいた岸野氏によると2本の鉄の棒の間に石室が埋蔵しているとのことで、おそらく「瀬戸岡古墳群44号墳」と思われる地点ですが、あまり自信はありません。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされており、「歴史環境保全区域」に指定されている区域内に所在するので高い確率で残存する古墳であると思われます。

「瀬戸岡古墳群24号墳」も歴史環境保全区域内に所在する古墳で、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされています。高い確率で地中に石室が残されていると思われます。残念ながら画像がないので、かわりに「瀬戸岡歴史環境保全地域案内図」の説明板です。。。

「瀬戸岡古墳群21号墳」も残念ながら画像がないので、かわりに「瀬戸岡古墳群」の説明板です。歴史環境保全区域内に所在する古墳で、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされています。高い確率で地中に石室が残されていると思われます。。。
次回、瀬戸岡古墳群その6(D群)に続く…
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
秋川市教育委員会『秋川市・多西郷土精史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
瀬戸岡古墳群市道地区調査会『瀬戸岡古墳群』
東京都埋蔵文化財センター『天神前遺跡 瀬戸岡古墳群 上賀多遺跡 新道通遺跡 南小宮遺跡』
池上 悟 広瀬 和雄『武蔵と相模の古墳 (季刊考古学別冊 15)』
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- 2017/02/21(火) 00:01:22|
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さて、今回は「瀬戸岡古墳群」D群を取り上げようと思います。
瀬戸岡古墳群を構成する古墳は、河原石や山石が墳丘を覆う小円墳で積石塚古墳とされています。この特殊な形態の古墳の被葬者の性格を巡っては、環境自生説と大陸墓制説とで議論のあるところだそうです。またこのこの古墳群が胴張りアーチ状石室の積石塚ということから、高句麗系渡来人との関連が想定されているそうです。D群は標高150m前後の中位段丘面に展開しており、23基で構成される最も古墳が密集している地域です。すでに発掘が行われた古墳が多く所在しており、最も実態が判明している地域です。
画像は「瀬戸岡古墳群30号墳」の跡地を西から見たところです。30号墳は、グループ分けされたD群中最も南端に所在しており、瀬戸岡古墳群全体の中ではほぼ中心部に位置する古墳です。古墳は都道の建設によりすでに消滅しているようですが、画像の歩道から車道にかけて石室が存在したと思われます。
この30号墳については、昭和12年(1937)に瀬戸岡青年会有志により発掘調査が行われた古墳がこの30号墳ではないかといわれており、昭和55年(1980)に実測調査が行われた後、埋め戻されて保存されていたようです。そして、平成10年(1998)から11年(1999)にかけて都道建設に伴う発掘調査が行われています。瀬戸岡古墳群を構成する古墳は主体部のほとんどが地表面下に構築され、石室の形態は横穴式石室の形状を有しながらも埋葬は天井部から行われ、棺の納置後に天井石が設置されるという大きな特徴が挙げられます。そして、墳丘は盛土のかわりに礫が積まれる「積石塚」の終末期的様相を呈しています。しかし、この30号墳の発掘調査の結果、石室は天井石さえも地表面下におさまるほどの地下式構造が確認されたものの、羨道部の延長部分に石室に向かって段々に斜行する墓道が確認され、埋葬はこれまで考えられていた天井部からではなく、羨道部側から行われたであろうことがわかっているそうです。

画像は「瀬戸岡古墳群30号墳」の発掘当時のようすです。歴史環境保全地域の地区を提供している岸野修一氏宅にて見せていただいた写真をカメラに収めたもので、おそらくは昭和55年(1980)に行われた実測調査の際の写真であると思われます。築造された場所に残存する、瀬戸岡30号墳の貴重なスナップです。この古墳は、瀬戸岡に在住する10名ほどの有識者の連署により、「瀬戸岡30号墳の保存に関する請願」が提出され、レプリカが保存されています。納戸か公開されているようなのですが、私は機会に恵まれず、まだお目にかかったことがありません。。。

画像は「瀬戸岡古墳群36号墳」の所在地のようすです。大正時代後半から昭和初年にかけて行われた調査では、当時把握されていた7基の古墳のうちのA~E号墳の5基の古墳の発掘が行われており、C号墳がこの36号墳であったとされています。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされていますが、その後に都道の建設工事が行われており、消滅しているのではないかと思われます。

画像は「瀬戸岡古墳群39号墳」の所在地のようすです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされていますので、画像中央の道路直下の地中に石室が残されているのかもしれません。残念ながら発掘調査が行われていないため詳細は不明です。

画像は「瀬戸岡古墳群27号墳」の所在地周辺のようすです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「消滅?」と書かれています。この古墳の場所はすでに宅地化されており、発掘調査が行われていないため詳細は不明です。

画像は「瀬戸岡古墳群38号墳」の所在地のようすです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされていますので、この古墳も画像中央の道路下の地中に石室が存在するのかもしれませんが、発掘調査が行われていないため詳細は不明です。

画像は「瀬戸岡古墳群28号墳」の跡地のようすです。自転車が置かれているあたりが古墳の跡地であると思われます。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「消滅?」とされているようですが、この古墳も発掘調査が行われていないため詳細は不明です。

画像は「瀬戸岡古墳群40号墳」の跡地のようすです。あきる野市教育委員会による「瀬戸岡古墳群」の説明板が立てられているあたりが40号墳の所在地と思われますが、古墳らしき面影は何も見られないようです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされており、所在地は「歴史環境保全区域」に指定されている岸野氏宅地内に入っているようですので、地中には石室が残されているのかもしれません。設置された説明板には次のように書かれています。
東京都指定史蹟
瀬 戸 岡 古 墳 群
所在地 あきる野市瀬戸岡七九一番 他
指 定 大正十五年五月
瀬戸岡古墳群は、大正十五年(一九二六)に発見さ
れた、径約三〇〇mの範囲に五十基ほどの小規模な
古墳が分布する古墳群です。
古墳は、「竪穴式石室的横穴式石室」とよばれた
特異な石室構造と、焼骨が入った蔵骨器が発見され
たことから、すでに火葬が始まった奈良時代以降の
古墳とされ、当時の考古学会に波紋を呼びました。
現在では、古墳が造られた年代は七世紀代と考え
られ、後世に石室が再利用されて、蔵骨器(八世紀末
~九世紀初頭)が新たに埋納されたものと考えられ
ています。
瀬戸岡古墳群は、南武蔵地域の中で類例が少ない
横穴式石室を構築する高塚古墳で、後期古墳群とし
て最大級の群集をし、学史的にも貴重な古墳群です。
平成十八年三月十六日、旧跡から史跡へ変更しま
した。
平成二十年三月 設置
東京都教育委員会
「瀬戸岡古墳群29号墳」は、画像右側の民家の敷地内が所在地となるようです。あたりが古墳の跡地であると思われます。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「消滅?」と書かれているようですが、この古墳も発掘調査が行われていないため詳細は不明です。

画像は「瀬戸岡古墳群37号墳」の所在地のようすです。画像中央の道路の真下が所在地で、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされているようですので、この古墳も地中に石室が残されているのでしょうか。残念ながら発掘調査が行われていないため詳細は不明です。
次回、瀬戸岡古墳群その5(D群)に続く…
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/02/19(日) 23:38:15|
- あきる野市/瀬戸岡古墳群
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今回紹介するのは「瀬戸岡古墳群 C群」です。C群は構成する古墳が2基と少なく、標高153mの段丘面に東西に並んでいます。画像は、このうちの1基である「瀬戸岡古墳群34号墳」を東から見たところです。あきる野市遺跡番号67-34番にあたる古墳です。
この古墳は、昭和55年(1980)に、当時地表に露出していたとされる「7号墳」と「30号墳」とともに石室の実測調査が行われており、玄室に胴張りを有する全長3.8mの河原石による横穴式石室的竪穴式石室であることがわかっています。調査後には7号墳と同様に露出した石室が公開されていたようなのですが、当時、車のタイヤが石室に脱輪するなどの事故もあり、10年数年ほど前?に埋め戻されてしまったそうです。

現在石室はフェンスで覆われて保護されて現状保存されています。近くで観察すると地表に露出した石室の一部と思われる石材を見ることができます。あきる野市教育委員会により説明板が立てられていますが、これは34号墳についての説明ではなく、「瀬戸岡古墳群」を総括するかたちで解説されています。
東京都指定史蹟
瀬 戸 岡 古 墳 群
所在地 あきる野市瀬戸岡七九一番 他
指 定 大正十五年五月
瀬戸岡古墳群は、大正十五年(一九二六)に発見さ
れた、径約三〇〇mの範囲に五十基ほどの小規模な
古墳が分布する古墳群です。
古墳は、「竪穴式石室的横穴式石室」とよばれた
特異な石室構造と、焼骨が入った蔵骨器が発見され
たことから、すでに火葬が始まった奈良時代以降の
古墳とされ、当時の考古学会に波紋を呼びました。
現在では、古墳が造られた年代は七世紀代と考え
られ、後世に石室が再利用されて、蔵骨器(八世紀末
~九世紀初頭)が新たに埋納されたものと考えられ
ています。
瀬戸岡古墳群は、南武蔵地域の中で類例が少ない
横穴式石室を構築する高塚古墳で、後期古墳群とし
て最大級の群集をし、学史的にも貴重な古墳群です。
平成十八年三月十六日、旧跡から史跡へ変更しま
した。
平成二十年三月 設置
東京都教育委員会
C群を構成するもう1基の古墳が「瀬戸岡古墳群35号墳」です。34号墳の南東方向に並ぶように存在するとされる35号墳は、酒屋さんの西側の駐車場の出入り口あたりが所在地となるはずなのですが、痕跡は全くなし。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされていますので地中に埋蔵する形で残されているのかもしれませんが、この古墳に関しては詳細は不明です。
次回、瀬戸岡古墳群その4(D群)に続く…
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
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瀬戸岡古墳群市道地区調査会『瀬戸岡古墳群』
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- 2017/02/17(金) 02:53:09|
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今回紹介するのは「瀬戸岡古墳群」B群です。B群は、多摩川の支流にあたる平井川の右岸の標高155mの地点に平井川に沿う形で東西に「1号墳」~「3号墳」の3基が分布します。古墳は、画像の小高くなった秋留台地縁辺部に3基が並ぶように存在したようですが、発掘調査は行われることなく宅地化が行われており、古墳の痕跡は全く見ることはできません。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では3基ともに「消滅」とされており、実態の不明な古墳です。
ちなみに「瀬戸岡」は、「せとおか」と「せどおか」と二通りに読まれてきたそうですが、こんにちの読みは「せどおか」が通用しているそうで、この遺跡の名称も「せどおかこふんぐん」となるようです。。。
次回、瀬戸岡古墳群その3(C群)に続く…
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
瀬戸岡古墳群市道地区調査会『瀬戸岡古墳群』
東京都埋蔵文化財センター『天神前遺跡 瀬戸岡古墳群 上賀多遺跡 新道通遺跡 南小宮遺跡』
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- 2017/02/16(木) 00:59:41|
- あきる野市/瀬戸岡古墳群
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「瀬戸岡古墳群」は、多摩川の支流にあたる平井川の右岸、秋留台地上に所在する群集墳で、径約300mほどの範囲に約50基の古墳が分布しています。大正時代後半から昭和初年にかけて最初の発掘調査が行われており、7世紀後半に築造されたと考えられる古墳は「竪穴式石室的横穴式石室」と呼ばれる特異な石室構造が採用されており、また、石室内からは焼骨が入った蔵骨器が発見されたことから、後世に石室が再利用されて蔵骨器が新たに埋納されたと考えられているようです。この古墳群は大正15年に東京都の旧跡に指定され、平成18年には史跡へと変更されています。古墳群の大部分にあたる岸野氏の宅地内は東京都の「歴史環境保全区域」に指定されており、古墳が保存されています。
この瀬戸岡古墳群は以前に一度、この「古墳なう」にて探訪記録を掲載したことがあるのですが、その後に調べてわかってきたこともあり、また再訪して写真が増えたこともあったので、もう一度整理したいと考えていました。今回はあらためて瀬戸岡古墳群の全貌を書き留めておこうと思います。

さて、平成13年(2001)に東京都埋蔵文化財センターより発行された『天神前遺跡 瀬戸岡古墳群 上賀多遺跡 新道通遺跡 南小宮遺跡』の「瀬戸岡古墳群の再検討」において、この古墳群を平面分布図上5つの支群に区分できるとしてA~E群と仮称しています。このうち、今回取り上げるのはA群です。A群は標高158m前後の段丘面に位置しており、9基で構成されています。
瀬戸岡古墳群中の記録に残されている最初の発掘は大正15年(1926)、土地の耕作中に1基の古墳が発見されたことにより瀬戸岡青年団有志により1月5日に発掘が行われ、この報告を受けた稲村担元氏と後藤守一氏により1月13日に実地踏査が行われています。この「カスミノ古墳」の所在地については、『東京府史蹟保存物調査報告』第四冊にある「多西村大字瀬戸岡より、西隣平井村に通ずる府道に沿ふ小高き畠地にありしもの」という記述のみで、正確な所在地はわからなくなっているようですが、同書の掲載写真の位置関係の検討等により瀬戸岡神明社の西方150~160m程の畑地内と推定されているようです。つまりは、カスミノ古墳はA群の範囲内に含まれる古墳ということになるようですが、現在把握されている9基のうちの1基であるのか、それとも未確認の場所にこの古墳が存在するのかは不明であるようです。
画像は、「瀬戸岡古墳群9号墳」の跡地周辺のようすです。数ある瀬戸岡古墳群の分布図を参考にすると、画像の駐車場のあたりが所在地ではないかと思われ、瀬戸岡神明社の西方100m程の地点にあたることから「カスミノ古墳」がこの9号墳である可能性も考えられるかもしれません。古墳の痕跡は何も残されていないようですが『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」としており、地中に埋葬施設が残存する可能性は残されているのかもしれません。

続いて「瀬戸岡古墳群8号墳」の跡地周辺のようすです。道路が交差するあたりが古墳の所在地であるようですが、周囲は宅地化が進み、また道路の部分は削られていることから、恐らく消滅していると思われる古墳です。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』でも「消滅」とされているようです。

画像は、瀬戸岡791番地に所在する「瀬戸岡古墳群7号墳」を南から見たところです。50基以上を数える瀬戸岡古墳群中唯一の石室が見学できる古墳で、フェンスで区切られた敷地内にはあきる野市教育委員会による説明板が設置されています。

画像が、フェンス内の石室のようすです。昭和55年(1980)、当時地表に露出していたとされる3基の積石塚古墳の石室の実測調査が行われており、この7号墳はそのうちの1基です。ほかに「30号墳」と「34号墳」の調査が行われているようですが、その後公開されていた34号墳は現在埋め戻されており、また30号墳は都道の建設に伴い消滅、築造された場所で保存、公開されている古墳は、この7号墳の1基のみとなっているようです。

南から見た石室のようすです。ご近所の人の話では、公開当初と比べると少し石材が崩れてきているようです。。。

あきる野市教育委員会により設置された説明板には次のように書かれています。
都史蹟
瀬戸岡古墳群
所在 東京都あきる野市
瀬戸岡七九一番地他
指定 大正十五年五月
大正末から昭和初頭にかけて、
鳥居龍蔵、後藤守一両氏らによ
る発掘調査の結果、古墳時代終
末期から奈良時代にかけての古
墳であることが判明した。
また、この地域一帯に同型の
古墳が散在し、考古学上極めて
貴重なものであり、大正十五年
五月、都旧跡に指定された。
出土品には玉、直刀、土師器
須恵器、刀子、鉄鏃等がある。
東京都あきる野市教育委員会
「瀬戸岡古墳群6号墳」の所在地周辺のようすです。
瀬戸岡古墳群は、平成4年(1992)に多摩地区所在古墳確認調査団による分布調査と地形図の作成が行われています。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「明確に確認できるのは6号墳の僅かな高まりのみ…」と、調査当時に6号墳の墳丘が残されていたことが記されているのですが、現在は整地されてしまったのか、それとも南側の集合住宅の建築の際に削平されたのか、墳丘らしきマウンドは消滅してしまったようです。

平成4年度の多摩地区所在古墳確認調査団による分布調査の際には6、7号墳の存在する地域の約30m×40mの範囲で地下レーダー探査が実施されており、2箇所から古墳の石室ではないかと思われる反応が認められているようです。画像は、このうちの1基である「瀬戸岡古墳群42号墳」の所在地周辺のようすです。この場所には現在、集合住宅が建てられています。図書館や郷土資料館で確認したかぎりでは発掘調査報告書等は刊行されていないようなのですが、調査が行われないまま消滅してしまったのでしょうか。古墳の痕跡は見ることが出来ないようです。

画像は、「瀬戸岡古墳群43号墳」の所在地周辺のようです。この古墳も、平成4年度の地下レーダー探査により反応が認められた古墳です。地下レーダー探査まで行われていながら、住宅建築の際に何の調査も行われないというのも不思議なことですが、この古墳についても発掘調査報告書等を見つけることは出来ませんでした。果たして石室が地中に残存しているのか、それとも消滅してしまったのか詳細はわかりません。

画像は、「瀬戸岡古墳群5号墳」の跡地周辺のようすです。画像中央の盛土のように見える場所は古墳とは特に関係がなく、古墳分布図から推定すると木立の中に存在するのではないかと思われます。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされているようですが、正確な所在地はわかりません。。。

画像は、「瀬戸岡古墳群4号墳」の跡地周辺のようすです。建物のあるあたりが古墳の所在地と思われ、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』でも「残存」とされている古墳ですが、正確な所在地はわかりません。4号墳と5号墳の跡地とされるこの場所は元は石材屋さんか何かが存在したのではないかと思われ、敷地内に大石がゴロゴロと置かれているので、古墳の石材なのか判別がつかない状況です。
A群最後の古墳は「天神前遺跡1号古墳」です。都道の建設に伴い平成9~10年にかけて行われた発掘調査により検出され、石室の全面調査が行われています。石室床面が検出されたものの石室内部の石材は抜き取られて遺存状況は極めて悪く、周溝等の外部施設も確認されなかったようです。石室は内法規模が0.35m×1.40mと小規模な石室で、横穴式石室の簡略形態の一つと考えられているようです。古墳は、都道秋多3・4・6号線用地となり、消滅しているようです。
次回、瀬戸岡古墳群その2(B群)に続く…
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
瀬戸岡古墳群市道地区調査会『瀬戸岡古墳群』
東京都埋蔵文化財センター『天神前遺跡 瀬戸岡古墳群 上賀多遺跡 新道通遺跡 南小宮遺跡』
池上 悟 広瀬 和雄『武蔵と相模の古墳 (季刊考古学別冊 15)』
現地説明版
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- 2017/02/14(火) 01:49:31|
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