fc2ブログ

古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「原小宮古墳群 5号墳」

IMGP4817 のコピー

 平井川の崖上に沿う秋留台地の北縁に、5基の古墳で形成される古墳群であるとされていたのが「原小宮古墳群」です。昭和58年(1983)に発行された『秋川市史』にはこの5基の古墳についての詳しい記述がみられ、また、平成4年(1992)に多摩地区所在古墳確認調査により行われた多摩地区の古墳の分布調査、確認調査においてもこの5基の古墳は確認されています。
 『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にはこの5基の古墳について次のように書かれていました。


原小宮古墳群 1号墳
墳 丘:梅林の中にあり、北側が若干削られている様だが、残存状況は概ね良好。に残存。墳丘の
    土には3~5cm大の小礫が混ざっている。径約9.7m、高さ約1.2m。
主体部:内容不明

原小宮古墳群 2号墳
墳 丘:円墳。南側が耕作によって若干削られているが、残存状況は概ね良好。墳丘の土には10~
    15cm大の礫が混ざっている。径約6.1m、高さ約1.5m。
主体部:内容不明

原小宮古墳群 3号墳
墳 丘:円墳。栗林の中にあり残存状況は概ね良好である。墳丘の土には3~5cm大の礫が混ざって
    いるが、土もあまり流失せずに良く残っている。径約8m、高さ約1.6m。
主体部:内容不明

原小宮古墳群 4号墳
墳 丘:畑の畦道を作った際に削られしまったようで、小礫が混じる僅かな高まりが確認出来るだけ
    で明確な墳丘は残存していない。
主体部:内容不明

原小宮古墳群 5号墳
墳 丘:消滅
主体部:現在は駐車場になっているが、道路の脇に長さ約1m、幅約50cmの石が数個寄せ集められている。
備 考:昭和12年頃に地元青年団によって掘られたといわれている。


 このように、古墳であると考えられた5基のうち4基は地表面にマウンドが存在するという状況で、平成6年(1994)より区画整理事業のための試掘調査が行われます。この調査の結果は次のようなものでした。


原小宮古墳群 1号墳
中世の盛土であることが判明した。
原小宮古墳群 2号墳
須恵器等が数多く出土したものの古墳を示す遺構はなく、時期・性格が不明な遺構であった。
原小宮古墳群 3号墳
3号墳は約1mの高さをもっていたが、盛土の最下層まで現代の缶や瓶のかけらなどを数多く含んでいたため、遺構ではないことが判明した。
原小宮古墳群 4号墳
遺物は皆無で、径5〜10m程の自然礫を含む締まりの弱い土が存在するだけであり、遺構ではなかった。
原小宮古墳群 5号墳
調査を行った範囲の中から古墳の存在を示す遺構や遺物は発見されず、5号墳の位置を含めてその詳細を明かにするまでには至らなかった。


 古墳時代終末期の築造と考えられていた「原小宮古墳群」ですが、マウンドが存在した4基はすべて古墳ではない事が判明しています。驚きの結果ですが、こんなこともあるのですね。

 さて、唯一位置が不明とされている5号墳ですが、『東京都遺蹟地図』では、画像の周辺が跡地として登録されています。『秋川市史』の364ページには「石神の東京電力秋貿変電所南には、遺物の散布状態が密である。さらにこの地点には、昭和12年ごろ、原小宮の青年の人たちが発掘した、古墳の残形があり、大きな石が散在し、祠などが立っていたが、現在は駐車場になっている。しかし往時はこの大きな石の下は、くぐり抜けることができたという。」と、少なくとも1基は古墳が存在したことが書かれています。
 この地点にはかつて石塔や礫が数点存在したようですが既に移動され、マウンドも存在せず、平坦な土地となっているようです。


「原小宮古墳群 5号墳」

 近隣からは、縄文時代の集石土坑や弥生時代終末から古墳時代初頭の住居跡、周溝墓、古墳時代後期の住居跡等、多くの遺跡や遺物が発見され、地名をとって「石神遺跡」と呼ばれています。この遺蹟は「石神公園」として整備、保存されており、公園内にはあきる野市教育委員会による説明板が設置されています。
 画像に見える公園内のマウンドは古墳ではなく、遺跡を保存するための盛土であるようです。


「原小宮古墳群 5号墳」

 画像は、説明板に掲載されている円形周溝墓の写真です。かなり大きなものであることがわかりますね。

<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
原小宮地区遺跡調査会『原小宮地区遺跡群』
現地説明版

  1. 2015/04/05(日) 01:19:25|
  2. あきる野市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

「御判塚」

「御判塚」

 「御判塚(ゴハンヅカ)」は、あきる野市菅生に所在したといわれる塚です。画像は現在の御判塚を西から見たところです。

 「御判形(ゴハンギョウ)とも呼ばれるこの塚は、昔は鎌倉街道へ通じる一里塚であったといわれており、塚の上には榎の大樹があったそうです。『秋川市地名考』によると、江戸時代にはこの場所に高札場が置かれており、この高札場に掲示される御触書などに役所の印がおされていたため、「ゴハンヅカ」と呼ばれるようになったのだそうです。また、御判塚は処刑場であるという説もあり、明治の中頃の道路改修により塚を取り崩した際には人骨が出土したそうです。

 この御判塚は、前々回に紹介した「すってくりょう塚」から徒歩数分の場所に所在します。なかなか怖い伝説が多い地域かも知れませんね。。。

<参考文献>
秋川市教育委員会『秋川市・多西郷土精史(原著題名 多西村に於ける沿革と史跡)』
秋川市史編纂委員会『秋川市史 附編』
秋川市教育委員会『秋川市地名考』

  1. 2015/04/04(土) 03:45:56|
  2. あきる野市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「日室塚」

「日室塚」

 「日室塚」は、あきる野市野辺に所在したといわれている『東京都遺跡地図』には未登録の塚です。

 昭和58年に秋川市教育委員会より発行された『秋川市地名考』にこの日室塚についての詳しい記述が見られ、次のように書かれていました。


(8) 日室塚(ヒムロヅカ)  一〇〇九番地〜一〇八一番地
 「大六天の西に隣していて、雨間の一丁目に続いている。 バス停に日室塚がある。 野辺の西隅である。
 日室塚の地名は、この地域の南隅に日室塚があったことによる。 日室塚は五日市街道を南に入った野辺一〇五〇番地付近にあった。 大六天社のすぐそばにあたる。
 聞書では日室塚は五尺ぐらい(約一・五メートル)の塚であって、その上に太い白檀の木(おにしばのような葉で、長生するが育ちの悪い木)が二本あり、大岳山の一の鳥居となっていた。 私有地の中にあったので、塚をじゃまにして平らにしてしまった。塚をこわしたのは、戦後昭和二十五年(一九五〇)頃であったが、塚の中からは何も出て来なかったという。
 塚の上にあった二本の白檀の木は、神とかかわりのある木であった。 それはヒモロギとよばれ、塚はヒモロギヅカであったのであろう。ヒモロギは、古くは神を祭る時、清浄の地をえらんで、周囲に常磐木を植えて神座としたもの、後世になると、室内や庭上に常磐木を立てて、これを神の宿る所として、ヒモロギとよんだ。ヒモロギは古くはヒモロキといった。ヒモロギのギが脱落してヒモロとなり、それがヒムロになったものと思われる。
 二本の白檀が大岳神社の一の鳥居といわれたということは、ここから大岳山の神域になることを意味している。ちょうど西北に大岳山が大きくみえる。二本の白檀は光明山とか、御岳山の鳥居ともいわれているが、山容からみると大岳山が一番妥当のようである。
 ただ植えられていた木はビャクダンだということがすこし気になる。ビャクダンはビャクダン科の植物で、日本では二種しか自生していない。「つくばね」と「かなびきそう」で、『牧野新日本植物図鑑』には、この二種類しか掲げていない。ビャクダンは載っていない。『万有百科大事典』(植物)には、ビャクダンの写真と説明があるが、東南アジアに自生する 半寄生的な植物とある。こうした特殊な樹木が果して日室塚に植えられていただろうかということである。(『秋川市地名考』161〜162ページ)


 画像の台地の上が、かつて塚が存在したといわれている場所です。所在地は野辺1050番地付近ということですから、画像中央の送電線の鉄塔が建てられているあたりが塚の跡地と思われます。立地的には古墳である可能性も感じますが、遺物は何も出土しなかったようですから古墳ではなく塚だったのかもしれませんが、ちなみに『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』といった江戸時代の地誌にはこの日室塚は記載されていないので、当時はそれほど有名な塚ではなかったのかもしれません。

「日室塚」

 かつてはこの周辺の地名として使われていた「日室塚」の名称は、現在では西東京バスのバス停に残るのみです。。。

<参考文献>
秋川市教育委員会『秋川市地名考』

  1. 2015/03/31(火) 01:08:36|
  2. あきる野市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「すってくりょう塚」

「すってくりょう塚」

 画像は、あきる野市菅生‎に所在する「すってくりょう塚」を南東から見たところです。東京都遺跡地図』には未登録の塚です。

 ここは賀治沢といわれる場所で、2つの塚が並んで残されています。別名「ホトトギス塚」とも呼ばれるこの塚は伝説が残されています。現地に立てられた説明板には次のように書かれています。


兄弟塚の伝説

今から凡そ六百八十年前鎌倉に幕府がおかれたその頃この地方に武蔵七党があり、その中の一党横山に菅生太郎経孝と云ふ武士がおり三人の子供「有孝」「経久」「有孝」と云った。長男有孝は父の後を継いで菅生太郎有孝と名乗り経久は分家として五日市宿の小倉に住み小倉次郎経久と云い参男も分家して大貫馬之亮有経と云った。
或る時有孝は北条氏に召され鎌倉に行って不在となった留守に福泉寺より田耕の為に乗馬を借りに来たが主人が不在の為断ったが遇々弟経久が来たので家来が話すと経久は軽く引受けてしまった。
数日後帰ってきた有孝は馬の様子がおかしいので家来に尋ねると田耕に貸した事がわかり愛馬を農耕馬に使用したと経久と口論となり兄弟喧嘩となり家来達がとめても双方ともきき込れず有孝は「経久お前は俺を侮辱したな」と大刀を抜き放ってしまった。弟も負けてはいません二人は激しく戦い乍ら鯉川淵の不動尊から「すめり坂」にかかったその時弟の打下した大刀の先が兄有孝の左耳から首筋深く切り込まれ其の場に倒れ息絶えた。兄思いの弟経久は「兄を殺してしまっては生甲斐なし」とこの大刀で自分の喉を突いて兄の後を追ったのである。
報を受けた菅生家では寺僧と相談の上、兄弟の倒れた「すめり坂」の上の道ばたにある福泉寺の山林に剃髪せず枕を並べ葬ったのがこの兄弟塚であります。
当時は昼間でも暗い森林でここを通ると剃ってくれ剃ってくれと云ふ悲壮声が聞こえたと云う。
又一説にはこの所を南刀地ホトトギスの墓と云ってホトトギスが「おとのどつつきつちよ」と鳴いたとも云はれている。
 平成二十四年六月吉日      福泉寺


「すってくりょう塚」
                                     
 「すってくりょう」というのは「剃ってくれよ」という意味であるようですが、その後この場所は兄弟2人の怨霊が出るという噂が広まったそうで、幽霊の声は時鳥が啼く声に似ているといわれています。私は昼間に訪れましたが、夜に訪れるとかなり怖い場所かもしれません。地元では有名な心霊スポットにもなっているようです。
 画像は左側の塚です。こちらには「すってくりょう」の石標と説明板が立てられています。

「すってくりょう塚」
 
 画像は右側の塚で、「兄弟塚」の石標が立てられています。
 この2つの塚は兄が弟を殺したことから「不如帰の塚」とも呼ばれており、『秋川市・多西郷土精史』には「二つの塚は確実に墳墓であり、この附近には多くの古墳があります」と書かれています。果たしてこの塚は兄弟の墳墓なのでしょうか。それとも古墳なのでしょうか。。。

<参考文献>
秋川市教育委員会『秋川市・多西郷土精史(原著題名 多西村に於ける沿革と史跡)』
秋川市教育委員会『秋川市地名考』
現地説明版

  1. 2015/03/30(月) 03:07:44|
  2. あきる野市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「あきる野市№71遺跡(宝塚)」

「あきる野市遺跡番号71番 無名古墳」

 画像は、あきる野市平沢にある「無名古墳」を南東から見たところです。あきる野市の遺跡番号71番の古墳です。

 この古墳には、古くから金の延べ棒が埋まっているという言い伝えがあったそうです。ただし、この延べ棒は「塚の東側に埋まっている」と伝えられているだけで、他には何もわからなかったのだそうです。やがてこの言い伝えも忘れらかけられた頃、道普請で塚を削ることになりました。人々の間では再び延べ棒の話題が持ち上がり、まるで宝探しでもするかのように塚を掘り崩したのだそうです。
 そして掘り始めてからしばらくして、誰かが墳丘の裾から壷を掘り出しました。人々の注目が集まる中、壷のふたを開けてみるとそこには金の延べ棒ではなく、一振りの刀が入っていました。その後、掘っても良いとされている場所を掘り進めましたが、ついに延べ棒は出てこなかったのだそうです。今でも残されたどこかに金の延べ棒が埋められているのではないかといわれています。


「あきる野市遺跡番号71番 無名古墳」

 古墳は、東側と南側を道路によって削平され、また北西側は畑地により削られており、コンクリートに囲まれながらも三角形になって残されています。墳丘上には秋川市の保存樹木である「松海道えのき」があり、また墳丘上には小さな祠が祀られています。「東京都遺跡地図」のインターネット公開版では”10×10m、高さ1mの古墳”とされています。
 ひょっとしたら、金の延べ棒は今でもこの榎の木の下に埋められているのかもしれませんね。。。


<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
秋川市教育委員会『秋川昔物語-秋川市ところどころ-』

  1. 2013/09/08(日) 03:03:30|
  2. あきる野市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

「もみじ塚」

「もみじ塚」

 画像は、あきる野市引田にある「もみじ塚」を南から見たところです。あきる野市の遺跡番号73番の塚です。

 この塚は、現在は周囲を大きく削られてしまっているものの、かつては塚の中央にもみじの大木があり多くの石像物が立てられていたそうです。平成元年に行われた発掘調査では、盛土の下にある2基の土坑のうちの1基が配石をもち、一部が焼けて覆土にも炭化物が認められたそうです。また盛土の下部にも炭化物が認められ、盛土を築く直前に火を用いた痕跡があり、更に盛土の土も特別なものを選んで塚を築造しているそうで、明らかに何らかの目的を持って築造された塚であるということです。「東京都遺跡地図」のインターネット公開版では、規模が15×15m、高さ1.5mの近世の塚であるとされています。


「もみじ塚」

 この「もみじ塚」はかつては塚が3つあったと云われていて、その一つを誰かが掘ったら青銅の鏡が出土したという言い伝えもあるそうです。ひょっとして周辺に古墳群が存在した可能性もあるのかもしれませんが、詳細はわかりません。


「正体不明の塚」

 周辺には、古墳か塚だったのではないかと妄想の膨らむ祠も見られました。もみじ塚からは300mほど離れていますので、3つあったと云われる塚との関連は定かではありませんが、なかなか思わせぶりな祠です。

 あきる野市は素朴で素敵なところでした。色々調べてみて再度訪れてみようと思っています。。。

<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
もみじ塚遺跡調査団『もみじ塚遺跡 1989.11』

  1. 2013/06/14(金) 11:01:19|
  2. あきる野市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「北小宮古墳」

「北小宮古墳」

 画像は、あきる野市草花にある「北小宮古墳」を北から見たところです。あきる野市の遺跡番号50番の古墳です。


「北小宮古墳」

 この古墳は平井川の右岸の台地状、小宮神社の西側の道路をへだてたところにあります。南側が宅地により削られているものの、比較的良好に残存しているようです。規模は東西径約15m、南北径約20m、高さ約1mの円墳状になっており、墳頂部には祠が祀られています。


「北小宮古墳」

 『秋川市史』によると、古老の語りとして、祠の下に一枚岩があるとの言い伝えを紹介しています。一枚岩は確認出来ませんでしたが、周辺には10cmから20cmくらいの河原石が散在していました。


「小宮神社」

「小宮神社の怖~いはなし」

 80年ほど前の話だそうです。ある娘が村の若者に片思いをしていました。しかしその恋は叶わず、若者は別の娘と良い仲になってしまいました。娘は若者をあきらめきれずに恋敵の娘に見立てた紙人形を作り、小宮神社の境内にあった大きな杉の木にその人形を大きな釘で打ち付けたそうです。丑三つ時に毎晩打ち付けられた釘は、全部で11本もあったそうです。その後、娘や若者がどうなったのかはわかりません。


 画像は、小宮神社を南から見たところです。。。


「小宮神社東10m」

 『秋川市史』によると、”小宮神社のまた東面の下段には、高さ約1m、東西径4m、南北径5mの円墳状のふくらみがあり、古墳ではないかといわれている”との記述があります。これは遺跡登録されていない古墳のようですが、北側下段がすでに宅地となっていてよく判りませんでした。ちなみに社殿の北側には祠が祀られています。


「小宮神社東30m」

 また、同じ『秋川市史』に、”この地点より東に約20mばかりはなれた斜面にも、小さな祠があり、稲荷が祀ってある。今ではまったく古墳の面影さえないが、この地点に遺存していた古墳は、昭和の初めごろに破壊され、そのおりに数十個の鉄鏃等が出土したといわれている。”とあります。この周辺も宅地化が進んでいるものの、台地の斜面にひっそりと祠が残されていました。唯一残された古墳の記憶、といったところでしょうか。。。

<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
秋川の昔の話『秋川市教育委員会』

  1. 2013/01/22(火) 03:32:37|
  2. あきる野市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
前のページ

カテゴリ

足立区/伊興古墳群 (10)
足立区/その他の古墳・塚 (19)
葛飾区/立石古墳群 (3)
葛飾区/その他の古墳・塚 (9)
江戸川区の古墳・塚 (0)
板橋区/志村古墳群 (10)
板橋区/その他の古墳・塚 (36)
北区/赤羽台古墳群 (2)
北区/十条台古墳群 (11)
北区/飛鳥山古墳群 (9)
北区/田端西台通古墳群 (1)
北区/その他の古墳・塚 (28)
荒川区/尾久 微高地 (4)
荒川区/町屋-三河島 微高地 (19)
荒川区/南千住 微高地 (3)
荒川区/日暮里 台地上 (2)
台東区/上野台古墳群 (6)
台東区/その他の古墳・塚 (7)
墨田区の古墳・塚 (4)
練馬区の古墳・塚 (21)
豊島区の古墳・塚 (4)
文京区の古墳・塚 (10)
杉並区の古墳・塚 (17)
中野区の古墳・塚 (20)
新宿区の古墳・塚 (18)
千代田区の古墳・塚 (8)
目黒区の古墳・塚 (11)
渋谷区の古墳・塚 (22)
港区の古墳・塚 (10)
品川区/品川大井古墳群 (7)
品川区/その他の塚 (17)
大田区/田園調布古墳群 (40)
大田区/鵜の木久が原古墳群 (13)
大田区/その他の古墳・塚 (54)
世田谷区/野毛古墳群 (24)
世田谷区/殿山古墳群 (10)
世田谷区/大蔵古墳群 (1)
世田谷区/砧中学校古墳群 (3)
世田谷区/喜多見古墳群 (16)
世田谷区/砧古墳群その他 (8)
世田谷区/その他の古墳・塚 (17)
武蔵野市の古墳・塚 (3)
三鷹市の古墳・塚 (8)
狛江市/狛江古墳群(和泉) (37)
狛江市/狛江古墳群(岩戸) (14)
狛江市/狛江古墳群(猪方) (34)
狛江市/その他の古墳・塚 (24)
調布市/国領南古墳群 (2)
調布市/下布田古墳群 (16)
調布市/上布田古墳群 (7)
調布市/下石原古墳群 (2)
調布市/飛田給古墳群 (17)
調布市/その他の古墳・塚 (13)
府中市/武蔵府中熊野神社古墳 (2)
府中市/白糸台古墳群 (15)
府中市/高倉古墳群 (33)
府中市/御嶽塚古墳群 (19)
府中市/その他の古墳・塚 (17)
国立市/下谷保古墳群 (12)
国立市/青柳古墳群 (3)
国立市/その他の古墳・塚 (10)
立川市の古墳・塚 (14)
稲城市の古墳・塚 (12)
多摩市/和田古墳群 (15)
多摩市/その他の古墳・塚 (7)
日野市/平山古墳群 (7)
日野市/西平山古墳群 (5)
日野市/七ッ塚古墳群 (9)
日野市/万蔵院台古墳群 (4)
日野市/その他の古墳・塚 (11)
町田市の古墳・塚 (25)
八王子市の古墳・塚 (37)
昭島市の古墳・塚 (12)
あきる野市/森山古墳群 (6)
あきる野市/草花古墳群 (14)
あきる野市/御堂上古墳群 (4)
あきる野市/瀬戸岡古墳群 (7)
あきる野市/牛沼古墳群 (3)
あきる野市/その他の古墳・塚 (17)
日の出町の古墳・塚 (2)
青梅市の古墳・塚 (16)
西東京市•東久留米市の塚 (9)
小金井市•国分寺市の塚 (7)
東村山市•東大和市の塚 (10)
武蔵村山市•瑞穂町の塚 (17)
川崎市 (52)
横浜市 (11)
相模原市 (15)
日光市 (8)
那須町・大田原市 (22)
那珂川町・那須烏山市 (22)
塩谷町・矢板市 (9)
芳賀町・市貝町・茂木町 (33)
宇都宮市 (117)
鹿沼市 (15)
壬生町・上三川町 (22)
下野市 (24)
真岡市・益子町 (62)
小山市・野木町 (33)
栃木市 (66)
佐野市・足利手の古墳・塚 (0)
埼玉県の古墳・塚 (108)
千葉県の古墳・塚 (1)
群馬県の古墳・塚 (26)
ぐんま古墳カード (12)
茨城県の古墳・塚 (8)
長野県の古墳・塚 (30)
山梨県の古墳・塚 (1)
福島県の古墳・塚 (3)
愛知県の古墳 (11)
岐阜県の古墳 (3)
一里塚 (23)
神社巡りと蕎麦屋探訪 (17)
未分類 (19)

最新記事

最新コメント

検索フォーム

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QR