
JR五日市線を東秋留駅から秋川駅に向かう車窓から、方形の大きな塚を見ることが出来ます。この塚が、あきる野市雨間に所在する「大塚古墳」です。『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号79番として登録されており、大正15年(1926)には都旧跡の指定を受けています。この古墳はあきる野市役所の南西、市役所とJR五日市線の間にある「大塚公園」に所在しており、昭和57年(1982)に行われた測量調査により、一辺約33m、高さ約8mの方形の塚であることがわかっています。
この古墳は、江戸時代にはすでに存在していたと考えられ、地誌類に多くの記述を見ることができます。『新編武蔵風土記稿』には「塚 村の北陸田の中にあり、高さ二丈五六尺、土人呼て平井の大塚と云、塚上に稲荷の小祠二宇を建つ、由来つまびらかならず」とあり、また『武蔵名勝図会』には「雨間大塚 雨間の大塚と号して近郷にその名を云う。村居より北の方、陸田の中に高く突出すること凡そ二丈四、五尺。この塚の上、又は廻りに狐の穴多くありける故、土人稲荷の小社を祀れり。この辺は渺々たる畑地にて、西は平井。大久野辺りより東は二の宮、野辺あたりまで一里余、南北は雨間、菅生の間、半里もあるべき田圃の間にある塚なるゆえ四方より見えけり。年々塚の際を切り崩しければ、昔はいまより大なりしことならん、麓より陶器などを掘りだせることあり。或云この塚に石函ありと言い伝う。この近辺の畑畔よりも古瓦の出ることありと云。塚の由来は知るものなけれど、近き辺より瓦など出れば、昔は郡司、若くは庄園の司なる人が任せし地にて、この塚は塋域なるべし、されば、 次に出す雨武主明神もその家の祖神を祀りしならんといえり。又云この塚より十四、五町も西よりにて、同じくこの原の内にて、これも四面みな畑の中に芝地六、七間四方もあるべき中に、わずかに高さ三、四尺許の塚あり。その上にモミの古木一樹生茂せり。これも星霜四、五百年余の樹なり。この地は広き畑中にて、前に云う大塚とこのモミの木ある小塚ばかりなり。その謂われ不知といえども、前にいうが如き謂われなるべし。」と書かれています。
この『武蔵名勝図会』の記述からすると、盛土の周囲が削られて小さくなっていることがうかがえますので、築造当時はもっと大きな墳丘だったのかもしれません。同書の「この塚に石函ありと言い伝う」という記述により、この「石函」がいわゆる古墳に安置されている「石棺」ではないかとも考えられることから、この大塚が古墳ではないかと想定されてきたようで、また、本来は東西に長い亀のような形をしていたという地元の人の言い伝えもあることから、例えば狛江古墳群にある「亀塚古墳」や、田園調布古墳群にある「亀甲山古墳」のように前方後円墳であった可能性も考えらてきたようです。ただし、周溝や埴輪、葺石といった古墳特有の施設がまったくみられないことから、例えば『日本霊異記』に登場する奈良時代の大山真継の墓とする説や、冨士講に関連する富士塚であるとする説などもあり、実態は不明なままです。

この大塚には古墳説以外にも様々な伝承が残されており、デーダラボッチの下駄糞だという伝説や、鍛治屋が大塚のそばに住み、毎日金糞(金属を製錬する際に、溶融した金属から分離して出てきたカス)を拾っていたのが積もり積もってできたのが大塚であるという説、また近くに長者が住み、モミガラを捨てていたのがいつの間にか大きな塚になっていたという説、平安朝の頃、日野に置かれていた軍団の将が変時を知るために各地に設けたノロシ台の一つである説、大直山継の墓ではないかとする説、富士浅間講の信者が富士山を拝むために築いた塚であるという説等々、枚挙に遑がないほどです。これだけの大きな塚が一体何のために造られたのか、とても興味深いところです。。。

画像は、大塚古墳を東から見たところです。この大塚古墳は、平成5年には多摩地区所在古墳確認調査団によって調査されており、盛り土が黒色か黒褐色の締まりのない腐植土であることがわかっています。また周溝がなく、墳丘の傾斜が急であることや方形であることから、塚である可能性が高井野ではないかと考えられています。(これは、世田谷区の「砧大塚」や武蔵野市の「こんこん塚」、東村山市の「浅間塚」といった塚に共通する特徴であるようです。)
ただし、同時期に行われた地下レーダー探査では盛土内に「何らかの孤立的な物体」が埋まっていることがわかっており、このあたりの真相は今後の発掘調査を待たなければなりません。

塚には石段が設けられており、いつでも登ることが出来ます。階段の登り口には、東京都教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。
東京都指定旧跡
大塚古墳
所在地 あきる野市雨間二三二
大正十五年五月
指 定 昭和三〇年三月二八日
秋留台地のほぼ中央に立地する本古墳
は、昭和五七年に行われた測量調査によ
って、一辺約三三m、高さ約八mの規模
を持つことが判明し、その形状から方墳
の可能性が高いとされました。その後、
平成五年の部分的な発掘調査では、周溝
が確認されず、墳丘の森土の特徴が古墳
に通常認められるものとは異なることが
判明しました。この遺跡については、古
墳とともに塚の可能性も考える必要があ
ります。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会
墳頂部のようす。鳥居と祠が祀られています。。。


<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
あきる野市教育委員会『秋川遺跡散歩』
現地説明版
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- 2017/05/26(金) 02:20:07|
- あきる野市/その他の古墳・塚
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画像は、あきる野市二宮にある「二宮神社」を東から見たところです。「二宮神社並びに城跡」として、大正15年(1926)には東京都旧跡に指定されているこの神社は、『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号105番の「古墳」として登録されており、主な出土品として須恵器や鉄製品、鍔などが記されています。
二宮考古館で配られていた東京都教育庁によるポストカードにはこの神社について次のように書かれています。
~都指定旧跡~ 二宮神社並びに城跡(指定:大15.5)
二宮神社は武蔵六社宮の一つとして、国常立尊(くにとこたちのみこと)を祭神としています。古代にはこの地が多摩郡小川郷に属していたことから、小川大明神と呼ばれていました。
建立年代は不明ですが、社伝によれば藤原秀郷(ひでさと)が天慶(てんぎょう)の乱に際して戦勝を祈願したとされ、その後、源頼朝、北条氏政の崇敬を受け、天正19年(1591)、徳川家康の時代から代々15石の朱印状を与えられていました。現在の本殿は、江戸時代初期の形態をつたえており、宮殿は、少なくとも室町時代後期以前の建築と考えられ、共に市の有形文化財に指定されています。
一方、鎌倉時代には当地付近に大石氏中興の祖とされる信重が城館を構え、5代にわたって居城としたとの記録があります。この二宮城の所在を探るため、昭和47年(1972)に二宮神社境内の一角が発掘調査されましたが、関係する資料を得ることができませんでした。この発掘調査では、小型懸仏の金銅製薬師如来像や中世の瓦が発見され、新たな謎を呼んでいます。
画像は二宮神社境内を南東から見たところです。一見すると、敷地内に古墳らしきマウンドは見られないようですが、1995年に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の81~82ページには、この神社の古墳について次のような記述が見られます。
占地状況:台地縁辺
墳 丘:消滅
主体部 :消滅。二宮神社本殿南側の玉垣に沿って発掘したところ、河原石が多数出土した。
出土遺物:河原石の直上から多数の須恵器瓶類のほか、杯、蓋、甕、広口壷、鉄製の鍔、柄頭、
鞘尻等が出土した。また河原石の直上ではないが土師器の坩、杯が出土している。
備 考:昭和45年1~8月塩野半十郎氏他により調査。出土した石室床面の敷石と推定される
河原石と須恵器、鉄製品から古墳の存在が判明した。文献84では昭和42年にやはり
境内を発掘したところ4基の古墳が発見されたと記録されているが、この4基に関し
ては詳細が不明となっている。
(『多摩地区所在古墳確認調査報告書』81~82ページ)
画像は、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にある、二宮神社本殿南側の玉垣に沿ったあたりのようすです。現在も多数の河原石を見ることができるようです。4基の古墳が存在するというのは驚きですが、この河原石が古墳の石室を構築した石材の残骸なのでしょうか。
『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の備考欄にある「文献84」とは、昭和50年(1975)に秋川市教育委員会社会教育課より発行された『秋川市二宮神社境内周辺の遺跡』を指しているようです。同書は、昭和45年(1970)1月から8月にかけて行われた第二次発掘調査の報告書ですが、昭和42年に行われたという発掘調査に関する興味深い記述が見られます。3ページの「序文」の項には次のように書かれていました。
1966年9月24日、台風26号によって神社の大木がことごとくたおれた。その木の根に縄文の遺物が各所に発見され、これを契機に、埋没した文化財を調査しようという事が神社の氏子有志町内会できまった。そして翌年昭和42年5月20日より塩野半十郎先生指導のもとに調査がはじめられ、郷土史研究会も発足し、精力的な調査が翌年8月30日まで実施された。そして縄文時代の住居跡が11ヶ所、古墳4、経塚2を発見、調査し、数多くの貴重な遺物を発掘した。その折(42年10月15日)ロームでたたきかためた円墳の中心(表土より1m60cmばかりの下)に不思議な異物を発見した。遺物はこぶし大の石を上下にはさんで、あたかも目印の如く埋められていた。。又これが不思議なことに、偶然神官が大正期に表面より発見して倉庫に保管していたものと合致した。又その用途も種別も年代とともに不明であったために国立博物館に鑑定を依頼したが不明であった。その事によって第2次発掘調査の許可を申請ここに又調査が開始された。まず新編武蔵風土記による整地の折とある、整地されたる遺物埋没個所南面の位置より調査を始めた所 神社の伝説記録等に見合う遺物が次々と発見され又郷土史研究会を中心に氏子会等も協力し発掘も信仰下が、発掘期日終了のため 昭和45年8月30日をもって発掘を終了した。尚この南面の位置には驚くほどの神社の資料となる遺物が埋没しており、再度の発掘調査を待たなければ完全な結果が得られない。」(『秋川市二宮神社境内周辺の遺跡』3ページ) 「たたきかためた円墳」という記述からすると、墳丘が構築されている版築のようすが確認されていると推測されます。おそらく古墳は間違いなく存在したのではないかと考えられますが、第二次発掘調査の報告書には古墳の位置に関する記述は無く、残念ながら古墳の正確な位置はわからなくなっているようです。

この画像のあたりには2基の経塚も存在したようなのですが、痕跡は残されていないようです。この経塚が、古墳を流用して築造された可能性もあるのではないかとも考えましたが、これも真相はわかりません。。。
その昔、この二宮神社の境内の裏側に大きな穴が開いていて、この穴は八王子の高月まで続いていると云われていたそうです。『二宮神社明細帳』には「境外地なる新開墾畑中に、突然陥落したる古墳らしき穴あり。未だ何たるを知り得ず。」と記されています。これは「地下式横穴」と呼ばれている穴で、この周辺からは四ヶ所に横穴が発見されているそうです。この横穴の用途については、墳墓説、貯蔵庫説などがあり、また築造時期についても古墳時代から中世までと意見はわかれていて、詳細はわからないようです。

社殿の背後(西側)の林の中にはロープが張られていて、保護されているかのような場所が数ヶ所見られます。報告書によると、古墳が検出されたのは表土より1m60cmばかりの下ということですから、発掘が行われた場所を推測するとこの林の中のどこかではないかと考えたいところですが、古墳はおろか経塚や地下式横穴等、地上には痕跡は何も残されていないようです。
ちなみに、江戸時代の地誌類も調べてみたのですが、『新編武蔵風土記稿』の二宮神社の項には「古ハ社モ荘厳ナリシニヤ 社地ヨリ布目ノ紋アル古瓦ヲ掘出ス事マゝアリト云リ先年社再興ノ時 土中ヨリ甕一ツヲ掘出セリ 甕中ニ銅ノ筒二ツアリテ其中ニ綿ノ如クナル紙アリ 縁起ナド書タル者ニヤ甕ハ今モ神主所持スレド銅筒ハ紛失シタリト云」と、経塚についてらしき記述は見られるものの、古墳についての記述は存在しないようです。。。

画像の、境内社の鳥居の左側あたりに地下式横穴が存在するはずなのですが、これも埋め戻されており、痕跡は見られません。

画像の階段のあたりにも、未調査の穴が存在するはずなのですが、これも埋め戻されているようです。。。

二宮神社に隣接して、あきる野市の郷土資料館である「二宮考古館」があり、市内で発掘された縄文時代の土器、石器のほか、経塚から出土した経文石なども展示されています。あきる野市内にはかなり多くの古墳が確認されているのですが、古墳に関する展示品はあまり多くはないようです。
東京都埋蔵文化財センターの倉庫に眠っているものと思われる「瀬戸岡30号墳」の石室のレプリカなどは、この二宮考古館に展示して見学できれば良いのになあと思うのですが、管轄が違うと無理なのでしょうね。金銭トレードが無理でもレンタル移籍とかあればいいのに。。。
<参考文献>
秋川市教育委員会社会教育課『秋川市二宮神社境内周辺の遺跡』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
秋川市教育委員会『秋川昔物語 秋川市ところどころ』
秋川市教育委員会『秋川市遺跡散歩 秋川市ところどころ(二)』
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- 2017/05/25(木) 02:43:39|
- あきる野市/その他の古墳・塚
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「あきる野市№106遺跡」は、あきる野市引田に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号106番の古墳として登録されています。この古墳は、多摩川の支流である秋川左岸の段丘縁辺部に位置しており、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「目の前が水田で、水田との比高差は約1.5m。」と記されています。
この「あきる野市№106遺跡」は、昭和45年(1970)の宅地造成中に遺物が検出されたことにより行われた緊急調査により確認された古墳です。発掘調査により土師器甕や板碑、宝塔印塔、古銭、腐敗した人骨などが出土しており、平安時代から江戸時代中期にわたって墳墓として再利用されたことがわかっているという古墳です。『多摩のあゆみ』第36号には、この古墳の調査を行った山上茂樹氏のコラムが掲載されており、同書71ページの「山上茂樹翁ききがきノート」には次のように書かれています。
(前略)秋留台地一帯には古墳が各地に散在する。昭和45年に引田で発見されたものもそのひとつ。真照寺南の田のふちにあり、もとは大宮神社の地所だったが、ひさしく宮地となっていた。宅地造成中に「どうも異様なにおいがするから来てくれ」といわれ、私もたち合うことになった。請け負った人たちも考古に興味があったらしく一日中手伝ってくれた。掘ってゆくと、板碑は出る、骨は出るの大騒ぎ。たしかににおいもする。寛永通宝が十数枚も出て、江戸中期以降の新しい墓と判断した。約二メートル下が水田という低湿地なので、水が腐っていたらしかった。ところがさらに掘りおこすと、石積みにあたった。瀬戸岡と同形式の古墳だった。奈良時代の古墳の上に、さらに江戸の墓地が重なった という面白い遺跡だった。(「山上茂樹翁ききがきノート」『多摩のあゆみ』第36号 71ページ)
画像は「あきる野市№106遺跡」跡地周辺を南から見たところです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にあるように、古墳の跡地の南側には現在も水田が広がっており、比高差も約1.5mあまりと地形は古墳の発掘当時とそれほど変わっていないように見えます。

古墳の所在地周辺は宅地化が進んでいます。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』でも、墳丘、主体部ともに「消滅」とされているこの古墳を見ることは残念ながらできないようです。

古墳の所在地周辺の民家の敷地内で見かけた石積みです。もしや、古墳の石材として使用された河原石の残骸では?とも考えましたが、真相はわかりません。。。
<参考文献>
山上茂樹「山上茂樹翁ききがきノート」『多摩のあゆみ 第36号』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/03/14(火) 10:46:10|
- あきる野市/その他の古墳・塚
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「山田古墳」は、あきる野市山田に所在する古墳で、『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号36番の古墳として登録されています。この古墳は、昭和47年(1972)に宅地造成の際に発見された古墳で、当時都立五日市高等学校の生徒と多摩考古学研究会の佐々木蔵之助氏らによって発掘調査が行われています。昭和51年(1976)に発行された『五日市町史』に、この調査の詳しい経緯が記されています。
(前略)この古墳は前方の地所を削って宅地化する際、ブルドーザーにより不用意に破壊され、廃土は即刻道路工事の埋め土にリレー式で捨てられてしまったため、これが古墳であったことの発見は、ずっと後のことであった。古墳は北側最奧の奥壁の部分が辛うじて残り、これが露呈していたために確認されたもので、遺物はなにもなく、調査は残された奥壁の部分と、北側外周に周溝の存在有無を確かめることで終わった。
石室の側壁となる積石は左右とも内側にせり出しの方法がとられ、一〇度前後の傾斜のアーチ型となっている。この積石は二重に組まれ、間隙は小石により補強されている。石室は半地下で、奥壁(鏡石)は巨大な一枚岩、幅一メートル余、高さ一・七メートル、断面は長方形と考えられる人為的な形成がなされたもので、材質は五日市近辺産出の、小仏層中にみられる粘板岩を用いてあった。石室を作るためには幅四メートルの堀下げを行い、中に二重の石垣を含めて幅二メートル、胴張りの内法約一メートル、高さ一・七メートルの石室を構成していて、奥壁の面は西南面より一六度西にふれていた。この地は秋川河岸段丘の縁に近く、礫層の堆積土のため、周溝についてはその存在は不確かで、恐らく水 はけのよい場所なので、設けられなかったのかもしれない。
これらを総合するに、石室の大きさからして、当地方の積石塚古墳のうちでは大きく立派な古墳の一つであったことを想像してよいであろう。(『五日市町史』54~55ページ)
画像が「山田古墳」の所在地周辺のようすです。道路右側の区画のどこかに古墳が存在したものと思われますが、周辺は宅地化が進み、古墳の痕跡を見つけることはできません。思えば、民家の敷地内に残されている可能性は考えられるのでピンポンしてみればよかったかもしれないのですが、この古墳に関してはなぜかあまり深追いをしませんでした。。。
<参考文献>
五日市町編さん委員会『五日市町史』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/03/13(月) 00:06:53|
- あきる野市/その他の古墳・塚
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画像は、あきる野市館谷みとうがいどにある「八幡神社」を東からみたところです。祭神は応神天皇であるこの八幡神社は、寛文2年(1663)の検地帳に「御除地畑五畝六歩八幡免正光寺持」とあるのみで、起源や由来は不詳とされています。この神社の周辺にはかつて古墳が存在したといわれており、『東京都遺跡地図』には「舘谷古墳群」の名称であきる野市の遺跡番号22番の古墳として登録されています。

『多摩地区所在古墳確認調査報告書』によると、この周辺には3基の古墳が存在したとされており、このうちの1基について昭和37年(1962)に行われた発掘調査の詳しい経緯が、昭和51年(1976)に発行された『五日市町史』に記されています。
五日市の古墳に関してはあまり世間に知られていないが、この古墳は八幡神社脇にあったもので、昭和三十七年頃、当時考古学に関心の深かった来住野重康(故人)が、国立音楽大学教授甲野勇氏(故人)に連絡、学習院大学生の手によって発掘調査が行われた。現場は八幡神社前庭境内に隣接、一段下がった雑木林の中で、おびただしい積石を排除すると、南北に構成された積石石槨の一部が「コ」の字型に残っていることがはっきりした。途中大きな石が順序不動に出てきたが、これらは秋川から運ばれてきたもので、付近に存在するものではなく、羨道部分や蓋石に使われたものであろうとされ、ほとんど破壊された遺跡で、出土品は既になかった。指導に立合われた甲野教授や玉川大学の大谷勀氏の 言 では、「中世、八幡神社の創建当時破壊され、これらの大石が、神社の石段などに利用されたのではないか」とのことであった。ただし、この古墳も瀬戸岡古墳に類する、積石塚古墳出会ったことは残された部分で明瞭であった。(『五日市町史』54ページ)
『五日市町史』にある、古墳の所在地とされる「八幡神社前庭境内に隣接、一段下がった雑木林」を当時の空中写真等で確認すると、おそらくは神社境内の南側あたりではないかと考えられます。
画像は、八幡神社の境内南側の一段下がった一帯のようです。すでに周辺地域は開発が進み、住宅地となっています。画像の左側はすぐに崖になっていて、多摩川の支流である秋川が西に向かって流れています。

画像は、先ほどの八幡神社南側の住宅地周辺を段丘下から見上げてみたところです。おそらくはこの台地縁辺部周辺に古墳は存在したのではないかと思われます。

周辺地域で唯一宅地化されていない空地が存在します。八幡神社南側の台地縁辺部にあたり、古墳の所在地として一番怪しい場所なのですが、地中に痕跡が残されている可能性は高そうです。

空地には微妙なマウンドが存在するようです。地膨れ程度の僅かな盛土ですが、発掘調査後に埋め戻された埋葬施設が残されている可能性はないのでしょうか。。。

空地のすぐ横のカフェに、とても思わせぶりな置き物が2体、置かれています。なにか古墳と関係があるのでしょうか。。。

画像が「秋川」です。画像左側の段丘上が舘谷古墳群の所在地となります。
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『五日市町史』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/03/12(日) 10:02:49|
- あきる野市/その他の古墳・塚
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前回に続き、今回も「あきる野市内の消滅した塚 」を書き留めておこうという企画です。前回は正確な所在地がわからなくなっている塚を中心に取り上げましたが、今回は、やはり塚は消滅しているもののおおよその跡地は判明している塚を取り上げておこうと思います。
画像は、あきる野市伊奈に所在する「塩地蔵尊」です。この場所は千日堂跡であるといわれ、「堂塚」と呼ばれる塚の跡であるといわれています。

画像が、千日堂跡に残されている念仏供養塔です。享保14年(1729)銘の大型の宝篋印塔型で造られたもので、千日供養という千日間の念仏供養を行って満願を記念して建立されてものであるといわれています。どこかに「堂塚」と刻まれているようなのですが、これは見学に訪れて撮影した後に知ったことで確認をしませんでした。中世の塚ではないかと考えられているようですが、詳細はわかりません。

敷地内には忠魂碑が立てられており、この土台の部分が塚状に盛り上がっています。果たしてこの塚が「堂塚」の痕跡であるのか、それとも無関係の現代の塚であるのか、こちらも詳細はわかりません。。。

画像は、あきる野市引田の「神送り場」と呼ばれる地点です。この場所にもかつて塚が築かれていたといわれています。『秋川市の文化財 八』には、「五日市山田と上引田の境にある三角地に、小石を積み上げて作った塚で、悪病がはやると村内の者はここに集まり、悪病を村外に送り出したのでこの名がある。ここには三角地蔵と呼ばれる地蔵がまつられているが、実は道祖神であるといわれている。」と書かれており、この中で気になるのはやはり「小石を積み上げて作った塚」という記述です。あきる野市内で多く見られる積石塚である可能性はなかったのだろうかと、とても気になる塚ですが、すでに宅地化により塚の痕跡は全く残されていません。現在は「延命地蔵尊」が祀られているようです。

画像は、あきる野市引田に所在する「もみじ塚」を南西から見たところです。平成元年(1989)に行われた発掘調査により、古墳ではなく近世の塚であることがわかっている現存する塚です。かつて引田の神送り場に立てられていたという寒念仏供養碑は、このもみじ塚に移設されています。

あきる野市内には、渕上にも「神送り場」であったといわれる塚の跡地があります。画像の道路右側の三角地がかつての塚の所在地とされています。
秋川市教育委員会より発行された『秋川市地名考』にはこの塚について、「神送り場(カミオクリバ)渕上二五二番地の前。何の塚か不明であるが、ここは塚の跡といわれている。ここでは「塞の神」をやらずに、観音寺にお札やだるまを返すのに、ここへ集めたのであった。またここに榛名講のお札を飾ったという。今桑の大木が枯れて残ってたっている。榛名講は、群馬県榛名神社信仰の講である。榛名神社は農耕の神なので毎年農作祈願に代参した。この代参にあたった者は、雹などが降るといけないというので、鶏卵の食べてはいけないなどといわれたという。」と書かれています。
塚の跡地とされる三角地は現在も残されているようですが、塚の痕跡は残念ながら何も残されていないようです。。。

古墳探訪のために都内各地を訪れる中で、なかなか興味深い史跡に出会うこともあります。古墳とは全く関係がのない史跡ですが、かつては武蔵野台地の各地に見られたといわれるのが「まいまいず井戸」です。すり鉢状に掘った穴の底に井戸を掘るという特殊な構造の井戸で、あきる野市内では渕上の開戸センターの敷地内に残されています。
あきる野市教育委員会により立てられた説明板には次のように書かれていました。
あきる野市指定史跡
渕上の石積井戸
所 在 地 あきる野市渕上三三〇番地
所 有 者 あきる野市
指定年月日 平成四年七月九日
地面をすり鉢状に掘りくぼめ、らせん状の道を設けるなど、堅
井戸の普及する以前の井戸の特徴を良く示しています。
平成四年の発掘調査によって、東西五•五m、南北七•五m、深
さ三•二mの規模であることや、壁全体に石積が施されていること
などがわかりました。また、北と南に階段状の入り口が設けられ、
幅六十cm程の道が左回りで平坦な底まで続いています。底は水を
とおしにくい固い砂?層(五日市砂?層)まで掘り込まれていて、
きれいな地下水が周囲の石積の間から湧き出しています。
構築年代は中世に遡りうる可能性があり、また石積をともなう
点で大変稀少で保存状態も良く、地域における水と生活の歴史を
知る上で貴重です。
(本井戸の脇に設けられている井戸は、昭和二十年代までつるべ
井戸として使用されていたものを復元したものです。)
あきる野市教育委員会
あきる野市油平には、「太刀塚」と呼ばれる塚が所在したといわれています。画像の道路左側あたりが太刀塚の跡地といわれている場所で、宅地化が進んだこの周辺に塚の痕跡は何も残されていないようですが、遺物の出土の伝承が残されているようです。この地は「福徳寺」の旧地ともいわれているようですが、この福徳寺と太刀塚について『秋川市史』には次のように書かれています。
福徳寺 油平二四六番地
山号は延命山という。本尊は十一面観世音菩薩である。
当寺はもと福泉寺と言って、油平20~24番地付近にあった。草創は延文年間(1356~60)といわれているが、開基は不詳である。往昔、寺のあった付近は太刀塚とよばれていて、戦前には高さ2メートル、周囲約10メートルの円い塚があったという。
この塚には1つの伝説がある。延文の頃(14世紀半ばごろ)足利氏の臣某が、この地で戦って敗けて、戦死者や武器などを埋めた跡だといわれている。明治8年(1875)11月に、この付近から矢の根数十本が掘り出されたという。
開山は普門寺7世の徹堂薫禅師である。禅師の入寂は文禄元年(1592)5月9日である。草創を延文年間とすると、禅師の示寂した文禄とは230年近いへだたりがある。おそらく、延文に草創されたものが衰微していたものであろうか。『建長寺史 末寺編』によれば永正2年(1505)に太刀塚の所から、油平の現在地に移したという。(後略)』(『秋川市史』1604ページ)
画像は、あきる野市油平に所在する「福徳寺」の山門を西から見たところです。この福徳寺はかつては福泉寺と称しており、明治44年に牛沼にあった徳重院と合寺したのち、福徳寺と改称したそうです。この山門は徳重院所在のものを昭和5年にされたもので、あきる野市の有形文化財(建築物)として指定されています。

画像は、あきる野市下代継の「ばいせん屋敷跡」とされる周辺を北西から見たところです。この地には石の塚が存在したといわれており、積石塚が多く存在する秋留の市内において気になる存在です。このばいせん屋敷跡について、昭和58年に秋川市教育委員会より発行された『秋川市地名考』には「ばいせん屋敷跡 稲荷神社前は小公園になっている。その前の田んぼの畦道を東南に約百五十メートルほど進んだ付近の田を、「ばいせん」とよんでいる。今は屋敷跡らしいものは、何も残っていない。明治の中ごろまで小屋があって、変わった俳人がひとり住んでいたという。その跡には石の塚も最近まであったが、いまはそれもなくなってしまった。」と書かれています。
ここに小屋を建てて独りで暮らすというのはかなり孤独な事だと思うのですが、変わった俳人とはいったいどんな人だったのでしょうか。
ここから北東に300mほどの地点には、3基の積石塚からなる「牛沼古墳群」が所在します。この場所に残されていたという「石の塚」が古墳だった可能性も十分に感じますが、残念ながら現在は屋敷跡、石の塚ともに何も痕跡は残されていないようです。
あきる野市内に存在したといわれる塚において、実際に現地を訪れてみたのはこれですべてです。いずれも学術的な調査は行われないまま消滅しており、その性格はわからないものばかりですが、中には古代に築造された古墳であった塚も存在したかもしれません。あきる野市の歴史は今後の調査によりさらに解明されて行くものと思われます。その進展を楽しみに待ちたいところです。。。
<参考文献>
秋川市教育委員会社会教育科『秋川市の文化財 八』
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
秋川市教育委員会『秋川市地名考』
現地説明版
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- 2017/03/08(水) 23:03:49|
- あきる野市/その他の古墳・塚
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あきる野市内では秋川と平井川の下流域を中心に多くの遺跡が発掘されており、多くの古墳の存在が確認されています。平井川流域では、日の出町の「道場古墳群」から「瀬戸岡古墳群」、「御堂上古墳群」、「草花古墳群」、「森山古墳群」と、未確認のものも含めてかなり多くの古墳の存在が想定されているようですが、秋川流域では、円墳3基で形成される「舘谷古墳群」、同じく3基で形成される「牛沼古墳群(西龍ヶ崎古墳群?)」のほかは「山田古墳」、引田の「№106遺跡」等わずかに点在する小円墳が確認されているのみであるようです。ただし、あきる野市の郷土史を調べてみると、中には古墳であった可能性も考えられる塚の記録が多く残されているようです。これらの塚のほとんどは残念ながら消滅しており、正確な所在地がわからなくなっているものも少なくないようですが、今回はこの消滅した塚の探訪記録を書き留めておこうと思います。

画像は、あきる野市小川に所在する「林泉寺」を南から見たところです。この林泉寺持の土地に所在したといわれる塚が「八幡塚」です。塚上に八幡様が祀られていたことからこう呼ばれており、かつての地名の由来にもなっていたようです。林泉寺裏の「八幡堀」や「八幡道」などは、現在も残されています。また、この周辺地域では、ここで雹祭りをすると雹が降らないといわれており、また塚をいじると祟りがあるという言い伝えも存在したようなのですが、その後は開発により消滅してしまったようです。
周辺を散策しましたが、残念ながら塚の痕跡は見つかりませんでした。。。

林泉寺周辺には石造物が多く残されているようです。1枚目の画像は、林泉寺横の駐車場の西側に並んでいた石造物ですが、現在は移設されて存在しません。こうした石造物は、なるべく元あった場所に残されて欲しいと思っていますが、都市化が進むと神社や郷土資料館などにまとめて移されてしまうことが多いようで、古いものと新しいものの共存は難しいですね。

同じく、林泉寺周辺の石造物。こちらは今も健在に残されています。

画像は、あきる野市野辺の「八雲神社」です。長禄年間(1457~60)創立と伝わる神社で、御祭神は素盞嗚尊。あきる野市HPの「あきる野市神社一覧」によると、祇園牛頭天王を勧請して村内の新開院が別当となり、明治維新の折、八雲神社と改称されているようです。秋川市教育委員会社会教育科より発行された『秋川市の文化財 八』には、この八雲神社周辺に存在した塚について「谷頭 野辺の神社のうしろをいう。ここに塚があり、崩したらやじりが出てきたという。」と書かれています。
秋川流域左岸に存在したと考えられるこの塚から「やじりが出てきた」という記述からして、古墳であった可能性を想定したくなる塚ですが、塚は残念ながら開発により消滅しており、所在地はわからなくなっています。周辺を散策してみましたが、やはり塚の痕跡を見つけることはできません。。。

近隣で見かけた茅葺屋根の民家です。民家園のような古民家の保存を目的に移築された以外で、街を歩いていて茅葺屋根の古民家を見かけたのはかなり久しぶりで、しかも東京都内ということもあってちょっと感動しました。あきる野市内をぶらぶら歩いていると、かなり多くの、豪農や名主と考えられるお屋敷や古民家、土蔵などを見ることができます。むしろ古墳よりもこちらの方が見応えがあるかもしれません。

「おえい塚」は、あきる野市小川に所在したとされる塚です。画像の左奥あたりがおえい塚の跡地であると思われます。秋川市教育委員会より発刊された『秋川市地名考』にはこの塚について、「おえい塚 前田小学校の東側に三角の田があって、その真中に塚がある。言い伝えによると、「おえい」という女性が、田んぼの水争いにまきこまれ。夜、不意打にあって殺されたという。いつのことか不明であるが、その「おえい」とよばれた女性を葬ったのが、この「おえい塚」だという。」と書かれています。この記述からして、『秋川市地名考』が発行された昭和58年(1983)当時にはまだ塚は残されていたようですが、現在は宅地化が進み、塚の痕跡を見つけることは出来ませんでした。
この伝説が史実であるようならば、塚は古墳ではなく供養塚の類いではないかと考えられますが、どんな性格の塚だったのでしょうか。。。

おえい塚の北側、あきる野市野辺の「前田公園」として保存されているのが「前田耕地遺跡」です。この遺跡は、多摩川支流である秋川と平井川に挟まれた段丘上に位置しており、昭和51年(1976)から同59年(1984)にかけて発掘調査が行われ、縄文時代から古墳時代にかけての集落跡が検出されています。多摩地域を代表する縄文時代の遺跡であるようです。
画像は、北西130mほどの地点から移築、復元された縄文時代の敷石住居跡で、公園内には縄文時代と弥生時代の住居跡が保存されています。

画像は同じく前田公園内に復元された、弥生時代の竪穴住居跡です。この直下の地中に、同じ形状の住居跡がそのまま残されているようです。古墳巡りをするようになって、こうした史跡公園の存在が気になるようになったのですが、以前であれば興味がなかった、というより気がつかなかったかもしれません。。。

「蟻塚」は、あきる野市野辺に所在したとされる塚です。『秋川市の文化財 八』にはこの蟻塚について、「野辺の秋川沿いのハケ上にあった。昔、ここに行き倒れ人があり、死がいに蟻が一ぱいたかっていたので、村の人が可哀想がり、塚を築いて霊をともらってやった。誰言うとなく、この塚を蟻塚と呼ぶようになったという。」と書かれています。「秋川沿いのハケ上」という立地的に古墳の可能性を感じさせるところなのですが、正確な所在地については全くわからなくなっているようです。画像は、野辺の秋川沿いのハケを南から見たところで、この周辺の段丘上に蟻塚は存在したものと思われますが、痕跡を見ることは出来ません。。。
他に、二宮の東方の多摩川よりには「馬塚」という塚が存在したといわれています。馬の墓場ともいわれたこの馬塚は小石を積み上げた塚であったといわれており、これはあきる野市内に多く見られる積石塚を連想させる塚ですが、所在地については皆目見当がつかず、従って画像も無しというていたらくです。。。
以下、次回の「あきる野市内の消滅した塚 その2」へ続く。。。
<参考文献>
秋川市教育委員会社会教育科『秋川市の文化財 八』
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
秋川市教育委員会『秋川市地名考』
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- 2017/03/06(月) 23:53:52|
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画像は、あきる野市瀬戸岡に所在する「猿田彦碑」を南から見たところです。
五差路の北角の三角地にあたるこの場所は元は庚申塚であったといわれており、この地域では珍しいとされる猿田彦の石神が建てられています。地元の人の話では、この石碑は明治初年に建立されたもので、昭和40年頃までは「天保四年癸巳十一月 武蔵国多摩郡瀬戸岡村建立」と刻まれた庚申塔が塚の脇に倒されていたそうです。猿田彦命とは『古事記』によると、天孫降臨の際に道案内として迎えに出た神様で、『日本書紀』によると、鼻の長さ七咫、身長七尺、口は輝き目は鏡のように大きく真っ赤であったといわれ、道祖神ともされたそうです。
50基ほどが密集する瀬戸岡古墳群から南東にわずか二百~三百メートルほどの平井川右岸に所在するこの庚申塚が、古墳を流用したものである可能性はないものだろうかと考えて訪れてみました。学術的な調査は行われていないようですが、この周辺の古墳の多くが積石塚であることを考えると、やはり古墳ではなく塚だったのではないかという印象ですが、真相はわかりません。。。
<参考文献>
秋川市教育委員会『秋川市ふるさとの道 ―秋川市ガイドブック―』
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- 2017/02/28(火) 08:37:30|
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「慈勝寺」は、あきる野市草花1811番地、草花丘陵の東端部に位置しています。この慈勝寺の敷地内にもかつて古墳が存在したといわれています。『東京都遺蹟地図』にはあきる野市の遺蹟番号60番に登録されている古墳です。
このお寺の東側には、かつて「弘法山」がありました。径約200メートル、慈勝寺との比高差約20メートルほどのこの弘法山の南側が、かつての古墳の所在です。この古墳の発見から発掘までのいきさつについて、『多摩のあゆみ 第20号』には故塩野半十郎氏により次のように書かれています。
弘法山(権現堂山)は、瑞穂町長岡新田の原富蔵(筆者の叔父)が、四国八十八ヶ所に做い奥多摩八十八ヶ所の霊場の三十七番を安置してから人々が弘法山と呼ぶ様になったものであるが、戦後、都知事の安井さんの主催で多西村の有志が植樹祭を行った事もある。
その南面の麓を慈勝寺で開発する時、偶然鉄刀が発見された。私が、八王子の船田遺跡の発掘が終って帰宅したところその事を塩野忠治さんから聞いて、翌朝行って見ると、既に塩野重雄さんが掘っていた。
「これは古墳だから」と、発掘を中止して貰い、岸野権十郎さんを頼んで復元した。(中略)山裾から北に向って羨道を掘り、その奥に玄室を造ったと思われ、中央に多摩川石を積み上げた石槨があり、その中に少量の骨片と直刀、刀子及び須恵器の破片が発見された。周りに長さ十メートル位の周溝と考えられる跡が残っていた。平安期の古墳と考えられている。(後略)(『多摩のあゆみ 第20号』51〜52ページ)

画像が、「慈勝寺前古墳」の跡地を南から見たところです。弘法山の南側はざっくりと切り取られて現在は墓地となっていて、古墳の痕跡は全く残されていないようです。
<参考文献>
塩野半十郎「秋川市の古墳覚書き」『多摩のあゆみ 第20号』
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
- 2015/04/06(月) 01:02:37|
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平井川の崖上に沿う秋留台地の北縁に、5基の古墳で形成される古墳群であるとされていたのが「原小宮古墳群」です。昭和58年(1983)に発行された『秋川市史』にはこの5基の古墳についての詳しい記述がみられ、また、平成4年(1992)に多摩地区所在古墳確認調査により行われた多摩地区の古墳の分布調査、確認調査においてもこの5基の古墳は確認されています。
『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にはこの5基の古墳について次のように書かれていました。
原小宮古墳群 1号墳
墳 丘:梅林の中にあり、北側が若干削られている様だが、残存状況は概ね良好。に残存。墳丘の
土には3~5cm大の小礫が混ざっている。径約9.7m、高さ約1.2m。
主体部:内容不明
原小宮古墳群 2号墳
墳 丘:円墳。南側が耕作によって若干削られているが、残存状況は概ね良好。墳丘の土には10~
15cm大の礫が混ざっている。径約6.1m、高さ約1.5m。
主体部:内容不明
原小宮古墳群 3号墳
墳 丘:円墳。栗林の中にあり残存状況は概ね良好である。墳丘の土には3~5cm大の礫が混ざって
いるが、土もあまり流失せずに良く残っている。径約8m、高さ約1.6m。
主体部:内容不明
原小宮古墳群 4号墳
墳 丘:畑の畦道を作った際に削られしまったようで、小礫が混じる僅かな高まりが確認出来るだけ
で明確な墳丘は残存していない。
主体部:内容不明
原小宮古墳群 5号墳
墳 丘:消滅
主体部:現在は駐車場になっているが、道路の脇に長さ約1m、幅約50cmの石が数個寄せ集められている。
備 考:昭和12年頃に地元青年団によって掘られたといわれている。
このように、古墳であると考えられた5基のうち4基は地表面にマウンドが存在するという状況で、平成6年(1994)より区画整理事業のための試掘調査が行われます。この調査の結果は次のようなものでした。
原小宮古墳群 1号墳
中世の盛土であることが判明した。
原小宮古墳群 2号墳
須恵器等が数多く出土したものの古墳を示す遺構はなく、時期・性格が不明な遺構であった。
原小宮古墳群 3号墳
3号墳は約1mの高さをもっていたが、盛土の最下層まで現代の缶や瓶のかけらなどを数多く含んでいたため、遺構ではないことが判明した。
原小宮古墳群 4号墳
遺物は皆無で、径5〜10m程の自然礫を含む締まりの弱い土が存在するだけであり、遺構ではなかった。
原小宮古墳群 5号墳
調査を行った範囲の中から古墳の存在を示す遺構や遺物は発見されず、5号墳の位置を含めてその詳細を明かにするまでには至らなかった。
古墳時代終末期の築造と考えられていた「原小宮古墳群」ですが、マウンドが存在した4基はすべて古墳ではない事が判明しています。驚きの結果ですが、こんなこともあるのですね。
さて、唯一位置が不明とされている5号墳ですが、『東京都遺蹟地図』では、画像の周辺が跡地として登録されています。『秋川市史』の364ページには「石神の東京電力秋貿変電所南には、遺物の散布状態が密である。さらにこの地点には、昭和12年ごろ、原小宮の青年の人たちが発掘した、古墳の残形があり、大きな石が散在し、祠などが立っていたが、現在は駐車場になっている。しかし往時はこの大きな石の下は、くぐり抜けることができたという。」と、少なくとも1基は古墳が存在したことが書かれています。
この地点にはかつて石塔や礫が数点存在したようですが既に移動され、マウンドも存在せず、平坦な土地となっているようです。

近隣からは、縄文時代の集石土坑や弥生時代終末から古墳時代初頭の住居跡、周溝墓、古墳時代後期の住居跡等、多くの遺跡や遺物が発見され、地名をとって「石神遺跡」と呼ばれています。この遺蹟は「石神公園」として整備、保存されており、公園内にはあきる野市教育委員会による説明板が設置されています。
画像に見える公園内のマウンドは古墳ではなく、遺跡を保存するための盛土であるようです。

画像は、説明板に掲載されている円形周溝墓の写真です。かなり大きなものであることがわかりますね。
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
原小宮地区遺跡調査会『原小宮地区遺跡群』
現地説明版
- 2015/04/05(日) 01:19:25|
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