古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「稚児塚」

「稚児塚」

 「稚児塚」は、八王子市緑町の、現在の多摩少年院付近に所在したといわれる塚です。すでに塚は消滅しており、『東京都遺跡地図』にも登録されていない言い伝えにのみ残る塚ですが、塚に建立されていたという五輪塔が「萬福寺」に移されて残されており、かつての面影を偲ぶことが出来ます。
 画像は、萬福寺を南から見たところです。中央の石段を登った本堂手前の右側あたりに、稚児塚の五輪塔が所在します。


「稚児塚」

 画像左が「稚児塚」の五輪塔です。右に並んで建っているのは如意輪観音と庚申塔です。
 八王子市の郷土史研究家である村下要助氏の著作『生きている八王子地方の歴史』にはこの塚について、「戦争中まで昔の月見橋を渡った先の、多摩少年院の敷地の中に稚子塚というのがあって、古道わきの小高くなったところに、小さいが立派な中世作りの五輪石の墓石が立っていた。戦中であるし食糧増産ということで取り払われるときに、目の前の万福寺さんが、元寺領の中の塚ということで寺へ引き取ってくれた。今本堂の前の菩提樹の根元にひっそりと置かれている。口伝えによると、尊氏はこの街道をよく通ったらしい。ある寒い夕暮れ、尊氏の小さな娘は、腹を煩って亡くなったそうである。またこの稚子塚を、万福寺さんは、この辺に伝わっている幾つかある護永親王の落し子の塚だときいているという。」と書かれています。
 実際に稚児塚がどんな性格の塚であったかは、学術的な調査が行われないまま消滅してしまった今となっては知る術もありませんが、中世のスーパースターである足利尊氏がこのあたりをよく通っていたとは、意味なくドキドキしてしまいますね。
 現在の多摩少年院付近に存在したという稚児塚は、ひょっとして敷地内に痕跡が残されているのではないかとも考えたのですが、当然ながら敷地内に立ち入ることは出来ず、真相はわかりません。。。

<参考文献>
村下要助『生きている八王子地方の歴史』
現地説明版


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  1. 2017/12/14(木) 23:38:21|
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「散田の富士塚」

「散田の富士塚」

 八王子市並木町の横山事務所内には、オオツクバネガシの巨木が植えられた塚が1基、保存されています。実はこの塚は、以前に武蔵陵墓地を参拝した帰り道、自転車で甲州街道をぶらぶらと走っていた時に初めて出会いました。素人目にも、自然地形などではなく人工的に盛られたマウンドであるように見えるのですが、『東京都遺跡地図』にも登録されていないこの塚は、私に取っては正体不明の塚でした。
 現地に設置されている説明板には、塚の性格や由来等については全くふれることはなく、なぜか塚上に植えられている大衝羽根樫(オオツクバネガシ)についてのみ書かれています。

市指定天然記念物
横山出張所のオオツクバネガシ
所 在 地 八王子市並木町四二〇番地
指定年月日 昭和五十年二月二十七日

 オオツクバネガシは、アカガシとツクバネガシとの間種で高尾山中のものが標識樹(原産地)として発表されたものです。
 この木は、どちらかといえばアカガシの方に近い性質をもっているオオツクバネガシの一型であり種類の研究上から標本的に保存すべきだとして研究者等から指摘を受けている巨木です。
 目通りは三・一〇m、樹高は十八m以上です。

○カシ
 カシは、カタギのことで堅木を合わせて和字の「樫」を作りカシと読ませています。ブナ科の双子葉植物で、アカガシ、シロカシ、アラカシ等数種があります。果実は卵形で「カシの実」とか「どんぐり」と呼ばれます。
○アカガシ
 「赤樫」は材の色に基ずいた名で、別名にオオガシ、オオバガシがあります。樹形が粗大なこと、葉が大形であることから名ずけられたと思われます。
○ツクバネガシ
 「衝羽根樫」は、正月遊戯の「追羽根」に使用する羽根(つくばね)に似て、葉が小枝の先に四枚出ていることから名ずけられたといわれます。

 昭和五十六年三月三十一日  八王子市教育委員会


 ちなみに、この一帯は第二次世界大戦の空襲の際に全焼したとされる区域で、樹齢は200年以上とされるこのオオツクバネガシは奇跡的にも戦災をも生き抜いた御神木であるといわれています。
 そして、この説明板の下に取り付けられた周辺地域の地図の中では、「浅間様と呼ばれた小さなお宮の御神木であったが、お宮は甲州街道の拡張、横山事務所(当時)改築のため、南浅川ぞいの稲荷神社(稲荷森神社)に移され、この木だけが残された。」とのみ、小さく書かれています。まさか、この塚は富士塚なのでしょうか?


「散田の富士塚」

 この地域には、かつて一里塚が存在したという記録もあるようです。『八王子市郷土資料館だより』に掲載されている中村明美著「八王子の一里塚」には次のように書かれています。
 八王子を通る甲州道中は江戸から下諏訪まで道程53里(208.5km)で、市内に4箇所の一里塚が築かれました。日野宿から多摩川を渡り西に進むと横山(八王子)宿の東側の入り口に江戸から12里にあたる新町の一里塚がありました。『甲州道中分間延絵図』(文化3年完成の街道図)には「稲荷」として描かれており一里塚の記載はありませんが、以前は塚の上に稲荷祠を祀っていました。一里塚の榎があった場所を市指定文化財(史跡)としており、現在は新町の竹の鼻児童公園内に石碑(写真)が建てられています。
 残り3つの一里塚については、『甲州道中分間延絵図』に場所が描かれています。2つ目は散田村に入り長安寺(現・並木町)を通過し、地蔵堂と閻魔堂が並ぶ手前に散田村新地の一里塚が道の両側に2つ向かい合っており、現在の横山事務所のあたりになると思われます。3つ目は駒木野の関所を越え、念珠坂を下った荒井(現・裏高尾町)のものです。昭和 59 年に区画整理が行なわれるまでは小仏川と 街道の間の竹やぶの脇に小さな塚があったそうですが、現在は住宅となっています。最後の一つは保蔦土橋の一里塚で、宝珠寺を越えて小仏峠に登る手前、小仏川とヤゴ沢(北側から小仏川に合流する沢)の合流付近(裏高尾町小仏)がこの場所と思われ、これが市内最後の一里塚となり小仏峠を越え小原宿(神奈川県相模原市)へと続きます。(『八王子市郷土資料館だより vol.92』8ページ)

 この記事からすると、一里塚が存在したのはあくまで「現在の横山事務所のあたり」であり、横山事務所内に残存するマウンドが一里塚であるとは断定せず、やはり塚の存在については何も記述が見当りません。


「散田の富士塚」

 その後、今年に入ってようやく見つけたのが、竹谷靱負著作『富士塚考』です。同書では
 この古塚が富士浅間社を祀っていた富士塚と言われても俄かに信じがたく、古は散田の富士塚と呼ばれていたものの、今では一里塚と誤認されることが多い。この古塚は過去に全く知られていない富士塚であり、当然言及している書物も極めて少ない。
 と、この塚が富士塚であることをはっきりと記しています。
 確かに、日本常民文化研究所より発行された『富士講と富士塚』にもこの散田の富士塚については記されていなかったように思うし(多分。図書館で部分的にコピーしたものしか自宅にないので)、少なくともこれまで購入した富士塚の本には、散田の富士塚については何も書かれていませんでした。ボク石や石碑など、なにか富士塚の痕跡が残っていればともかく、現在の整備された塚の状況を考えると仕方がないかもしれませんね。

 江戸時代後期の散田村は灌漑用水がなかったことから雨水に頼って耕作しており、田よりも畑が多かったようです。田所には桑が植えられ、機を織る家並みが多かったという散田村の一角にこの富士塚が所在したようです。
 『八王子名勝志』によると、甲州街道筋の散田新地の左側に富士塚と浅間明神祠があり、祠の前の鳥居に掲げられた額には「富嶽廊」と刻されており、その頂上に富士浅間の宮が建てられていました。また、新義真言宗大幡宝性寺末の富士山正覚院という草庵があり、祭事を行っていたようです。江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』多摩郡之部巻八「由井領横山庄之下」の「小比企村」の項に「いまも(散田村の新地の)富士塚に浅間の社ありけり」とあり、文政3年頃には富士塚が存在していたと考えられます。


「散田の富士塚」

 その後の昭和3年(1928)、浅間社は甲州街道の拡張工事の際に近くの稲荷神社(稲荷森神社、現在の八王子市並木町)に移転されています。画像が現在の稲荷森神社のようすです。
 応永5年(1398)法印弘山により出羽三山の羽黒山の稲荷社を奉祀したという伝承があり、明治9年(1876)火災により焼失、翌年一月に社殿が再建され、昭和42年(1967)に富士浅間社が及び長安寺境内の稲荷社を合祀した後、昭和52年(1977)に鉄筋コンクリート造りの社殿となっています。周辺は、現在こそ住宅地となっているものの、かつては鬱蒼とした森林で「稲荷森」と呼ばれたといわれています。


「散田の富士塚」

 この塚の北西を流れる南浅川左岸には「長房町中郷古墳」や「船田古墳」といった円墳が確認されているようです。南浅川右岸に古墳は存在しなかったのだろうかと考えていましたが、この塚は古墳ではなかったようです。。。

<参考文献>
中村明美「八王子の一里塚」『八王子市郷土資料館だより vol.92』
竹谷靱負『富士塚考 江戸高田富士築造の謎を解く』
現地説明版


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  1. 2017/12/12(火) 00:32:49|
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「富士森の富士塚」

「富士森の富士塚」

 八王子市台町の富士森公園南にあるのが「浅間神社」です。駿河の本宮浅間神社を分社したもので、一の鳥居をくぐり、参道を進んだ拝殿の後方に富士塚が所在します。この拝殿は、昭和2年の大正天皇葬儀に使用された斎場殿を移築したもので、戦前は大正殿と呼ばれていたものの戦後の浅間神社が荒廃したことから拝殿として移築されたものであるそうです。そして、富士塚は八王子総代官大久保長安の代に築いたと伝わるもので、この頂上に神社を勧請したのが起源であると伝えられています。
 元々この場所に存在した古墳を転用して築かれた富士塚であるとする説もあることから、見学に訪れてみました。


「富士森の富士塚」

 画像は、南から見た富士塚です。文政3年刊行の江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』には「富士塚 御所水村の民家より南の方にて、小山の上にあり。塚の四辺、広さ凡そ四段歩程、除地にて、その中に塚あり。高さ二丈程。廻り百八十歩余。塚上の広さ四間四方。石の小祠あり。この塚は往古大久保石見守が築建して、浅間の社を勧請したる由なり。小高き丘地の上に高さ二丈の塚を築きたれば、富嶽を望む勝地なるが、近来は塚の四辺の杉その他雑木成木せしゆえ、いまは土人富士森と唱う。小比企村万福寺持なり。万治年中万福寺住僧建立の本社四尺四方、上屋二間に二間半の社を造営せしが、人家離れのところゆえ悪党が社の内を住まいとして或は人を殺害しけることなどありしゆえ、取払いて延享元年いまの石祠を建てける。」と書かれています。


「富士森の富士塚」

 画像は、北東から見た富士塚です。敷地内に設置された『浅間神社縁起』には次のように書かれていました。

浅間神社縁起
 浅間神社は木花咲耶姫を祭神とし、一つに富士浅間様とも言い、駿河国の本宮浅間神社を分社したものです。
 慶長年間(1596~1613)、大久保石見守長安が高さ約二丈(約6m)周囲六十間(約109m)余りの塚を築き、頂上に浅間神社を勧請したのが当社の起源です。
 この場所は、往古より樹木生い茂れる森にて、藤森と言い、塚も藤塚と書かれていましたが、慶長年間、富士浅間神社創立後は富士森又は富士塚と書くようになりました。
 宝永年間(1705頃)、社殿破壊に及び、延享二年(1755)改めて石造りの社を再建したのが本殿で、現在の奥の院石造りの社です。又、天明六年(1787)には石の階段が造られました。当社は元々拝殿がなく、祭典は毎年山上で行ってきました。例祭は八月一日で七月三十一日の宵宮より参拝者で雑踏し、境内には団子を売る商人が軒を並べ、この団子を食べる者は暑気にあたらぬとの言い伝えに、別名『団子祭り』とも呼ばれる様になりました。
 この団子祭りの起こりは、明治の中頃社頭に住居して宮守をして居た者が、当社に献じた洗米で団子を作り、希望者へ分与したのが始まりです。
 当社の例祭に行う、湯の花の神事は、心身の汚れを祓い清め、すがすがしい精神で氏子一同神へ奉仕する意味です。
 当社は子授かり、安産の神として信仰されていますが、この由来は、天照大神の御孫瓊々杵命の皇后である当社の祭神木花咲耶姫命が、一夜にして身ごもったため夫の命より疑いを受けた際、身の潔白を立証するため、□屋に火を放ち、火中で皇子を安□されたと言う古事に起因するものです。
 現在の拝殿は昭和二十八年に大正殿(大正天皇のご大葬の時多摩御陵に造られた式典用の建物)を移築し建て直したものです。
 昔より古い歴史を持つこの浅間神社は今、台町一丁目、台町二丁目、台町三丁目、台町四丁目及び万町二丁目によりお護りされています。



「富士森の富士塚」

 訪れた当日は、富士塚山頂へは立ち入り禁止となっており、登拝する事は出来ませんでした。石段を登った頂上には浅間神社本殿があり、その中の石祠には浅間大菩薩(木花開耶姫命)が安置されているそうです。また、富士山形の天然石が祀られているそうですが、これも見学することは出来ず、残念でした。

<参考文献>
竹谷靱負『富士塚考 江戸高田富士築造の謎を解く』
中島善弥『八王子発見―路地散策案内』


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  1. 2017/12/06(水) 01:35:45|
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「虫塚・すくも塚・塵芥塚」

「虫塚・すくも塚・塵芥塚」

 前回に続き、今回も八王子市山田の広園寺に関係する塚の話題です。

 広園寺の周辺にはかつて虫塚やすくも塚、塵芥塚、蛇塚といった多くの塚が所在したといわれ、江戸時代の地誌類に記述を見ることが出来ます。そして、広園寺境内には今も「虫塚」の石碑が残されています。画像はその虫塚の石碑です。
 虫塚とは供養塚の一つで、駆除された農作物の外注を供養して、これから発生しないように祈るためのものが典型的であるようです。現在、塚は既に存在せず、金属製の柵に囲まれた中に石碑のみが建てられています。碑は途中から細くなった円柱状の石棒で、高さ90cm、上部の直径は13cm、基部の直径は17cmほどで、碑文はまったく判読することが出来ないようです。以前は周辺に案内板があり、そこには「往古相模国に虫多く出、耕作の害をなせしゆへ、廣園寺開山に願ひ、虫を此所にあつめて塚とせしゆへ、この名ありと云は、由て来ることも旧きことなるべし」と新編武蔵風土記稿の文の一部を変えて記されていたようですが、現在は「虫塚」と書かれた木製の立て札のみで、案内板は存在しないようです。
 ちなみに、この虫塚の碑は立ち入り禁止とされている区域にあり、立ち入りが許されている少々離れた位置からの撮影となってしまいましたが、4月6日の開山忌や、東京都文化財ウィーク期間中の公開日には境域を見学することができます。私は、今年の10月29日の東京都文化財ウィークの公開日に訪れて、この虫塚碑と古明神塚を近くで見学しようと考えていたのですが、当日はあいにく土砂降りの大雨のためあきらめてしまいました。。。

 この虫塚は、かつては塚が存在したと考えられ、『新編武蔵風土記稿』には「往古相模の国中に虫多く出耕作の害をなせしゆへ広円寺開山に願ひ虫をここに集めて塚とせしゆへ。」とあり、また『武蔵名勝図会』には「ここは開山のとき相州にて田畑の穂茎出るを虫多く附きて生熟することを得ず、民庶これを患う。依って開山に願い祈念し給いければ、その虫悉く死すゆえ、これを集めて塚とせしなり。」と書かれています。また、虫塚のほかに、『新編武蔵風土記稿』には「すくも塚」について「元禄年中広円寺焼失の時灰を集めし故とせり」とあり、また『武蔵名勝図会』には「塵芥塚」について「広園寺大門先の傍にあり。先年当山焼亡せしとき、灰燼を埋めて塚となす。」とも書かれています。


「虫塚・すくも塚・塵芥塚」

 虫塚、すくも塚、塵芥塚ともに、正確な塚の所在地はわからなくなっているようですが、村下要助氏により昭和59年(1984)に発行された『生きている八王子地方の歴史』にはなんと、虫塚、すくも塚の所在地についての記述が見られ、
 二つの中の北の一つはだいぶ先に高圧線の鉄塔工事で消滅してしまい、かんならした所に先に書いたように幅四十五センチ位の細長い薄べったい石がごろごろしていまでも残っている。上小比企の大沢勇さんの畑であって、あまり入らないほうがいい。また経文石であるから持ち去らないこと。いま一つの南方の百十メートルくらいはなれた所にあったのは、これはだいぶ大きな塚であった。いまは都道新設工事で完全にアスファルトの下になって消滅して終った。同じく上小比企の石井実さんの畑であった。ここにはおびただしい経文石があった。この塚に盗掘の跡があり、ちょうど古代の小円墳をあばかれた格好でもあった。
 と書かれています。
 この記事からは、どちらが虫塚でどちらがすくも塚かはわからないのですが、1基は「高圧線の鉄塔工事で消滅した塚」であり、もう1基はその110m南側の「都道新設工事で消滅した大きな塚」ということになるようです。
 塚を消滅させたという高圧線の鉄塔はここじゃないかなーという場所が画像です。


「虫塚・すくも塚・塵芥塚」

 昭和の終わり頃には「かんならした所に幅四十五センチ位の細長い薄べったい石がごろごろして」いたようですが、この経文石らしき石は周囲の宅地化によるためか、すでに存在しないようです。(いや、塚の所在地がここではない可能性もありますし、何ともいえませんが)


「虫塚・すくも塚・塵芥塚」

 さらに、「都道新設工事で完全にアスファルトの下になって消滅して終った」という、鉄塔から110m南方の塚の跡地はこのあたりではないか?というのがこの場所です。「広園寺大門先の傍にあり」と書かれている「塵芥塚」の跡地がこのあたりかなとも思いましたが、、真相はわかりません。また、「すくも塚」と「塵芥塚」が同一の塚なのか、それとも別々の塚なのかも真相不明ですね。。。
 塚の痕跡はまったく見られませんでした。。。

<参考文献>
村下要助『生きている八王子地方の歴史』
八王子市史編さん委員会『八王子市史 下巻』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
柏田雄三『虫塚紀行』


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  1. 2017/12/03(日) 00:09:56|
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「古明神塚(?)」

「古明神塚(?)」

 画像は、八王子市山田の広園寺(兜率山伝法院廣園寺)を南から見たところです。この広園寺は、康応2年(1390)に創建されたとされる臨済宗南禅寺派の寺院で、「広園寺境域」が東京都の史跡に、また「広園寺総門・山門・仏殿・鐘楼」が東京都の有形文化財(建造物)に指定されています。

 このお寺の境内には、古墳ではないかとも考えられる塚が現存します。『東京都遺跡地図』には、この一帯が「平塚遺跡」として登録されているようですが、この塚の記載はなく、無名の塚であるようです。この塚から北東に数十メートルと近接する地点には、前回紹介した「平塚遺跡」の、弥生時代から古墳時代初頭のものと考えられる円形の周溝が5基、検出されています。この塚は果たして古墳ではないのでしょうか。


「古明神塚(?)」

 画像が、広園寺境内に所在する塚を北から見たところです。広園寺境内の一般の立ち入りが禁止とされている区域に存在するため、間近で見学することはできないようですが、敷地の外から塀越しに塚を見学することができます。
 古くは江戸時代の地誌類に記述が見られ、『武蔵名勝図会』には「高宰明神」の項に「散田村にあり。館村の隣邑にて、北に続けり。神体、衣冠の坐像。別当、村内真覚寺。例祭九月廿九日。散田村産土神とす。祭人不詳。土人伝云。往者ここへ殿上人の流落し来たりて浙去せしを、始めは杉山峠へ埋葬せしを如何なるゆえにや、山田広園寺開山、寺境内の鎮守八幡社地へ移し祀りて小蔵主の祠と号しける。その後年経て当所へ移し祀れるところをいま土人称して古明神塚と云。」と書かれています。
 この武蔵名勝図会の記述からすると、古明神塚とは現在の八王子市散田町5丁目に所在する「高宰神社」を指すのではないかとも考えられるのですが、八王子市の郷土史研究家である村下要助氏は著作『生きている八王子地方の歴史』の中で、「この古明神塚と想える塚は、広園寺鬼門裏手杉山の中に径十六メートルくらい、高さ二・七メートルくらいの陵墓形態に取った円墳がある。この塚がもとで、いつの頃からか小字平塚原とついたのではないだろうか。また、この塚は雲津院の廃寺跡西側に一段と盛上がっているところから、広園寺開基毛利師親室、雲津院殿の葬地とみて考えたのであるが、鎌倉時代はもとより、後世、寺など開基した者に陵墓形作った墓はない。雲津院墓は敷地西北端の立派な宝篋印塔にみるべきであろう。また 、この塚とするならば石塔なり立っていても不思議ではないのではないか。そこらを考えて、この円墳は雲津院の物ではないと決めたい。」と、広園寺所在のこの塚が古明神塚であり、さらにこの塚は長慶天皇の墓で天皇陵であるというかなり大胆な仮説を立てているようです。

 そしてその後、平成10年(1998)には、塚の築造時期や性格等の解明のための発掘調査が行われています。この調査によると、塚は旧地表面上に掘り上げた土をブロック状に突き固めながら構築されており、塚の中腹に平坦部が認められることから二段構造の塚であったことが推定されています。少なくとも人工的に造られた塚であることは間違いないようですが、調査範囲が限られていたことから塚の性格や築造時期は不明であるようです。


「古明神塚(?)」

 画像は、八王子市散田町5丁目の「高宰神社」です。
 私は、なんとなくお参りした後に、境内を見渡して古墳や塚らしき遺構が存在しないのを確認して、ぼんやりと帰って来てしまったのですが、撮影した写真を帰宅後に確認してみると、お隣の真覚寺に設置されている八王子市教育委員会による説明板にこの高宰神社について「元は広園寺境内にあって、室町時代南北朝に大納言信房卿が京都より亡命してきて亡くなり、神にまつられたといわれている。江戸時代のはじめに真覚寺境内の丘の上に移して高宰神社と改称し、寛政年間に現在地に移したとある。(後略)」と書かれていることに気がつきました。つまり、「古明神塚」が残存するならば真覚寺境内の丘の上!ということになるのかもしれないのですが、これはまったく見落としてしまいました。


「古明神塚(?)」

 真覚寺は、「蛙合戦の旧地」として八王子市の旧跡として指定されています。
 境内には、八王子市教育委員会による説明板が設置されていました。。。

<参考文献>
八王子市史編さん委員会『八王子市史 下巻』
村下要助『生きている八王子地方の歴史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
兜率山 廣園寺『東京都指定史跡 広園寺境域保存管理計画書』


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  1. 2017/11/27(月) 23:30:37|
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