
今回は、八王子市大谷町に所在する「北大谷古墳」の探訪の記録です。
北大谷古墳は、八王子市域北部を東西に流れる谷地川右岸に立地しています。
『東京都遺跡地図』には、八王子市の遺跡番号104番に登録されています。
市内では最も知られた古墳で、昭和11年(1936)3月には東京都の旧跡に指定されています。
画像は、北大谷古墳を南西からみたところです。

北大谷古墳が所在する丘陵の南側に、丘の上に登ることができる道があります。
丘陵上は農園となっているので、おそらくは農道なのでしょう。
ここから2〜300mほど進めば、北大谷古墳が見えてくるはずです。
早速、古墳に向かいましょう。

農道はこ~んな感じ。
一応舗装はされているようなのですが、ちょうど車の車輪の部分がぬかるんでいて、あまり役に立っていないかも。笑。
雨上がりの日に訪れると大変なことになるかもしれません。。。

丘の上に出ると、一気に視界がひらけます。
農園というよりはまるで牧場のような雰囲気です。
右奥の木立のあたりが北大谷古墳の所在地です。

見えた~.゚+.(・∀・)゚+.
草原の向こうにぽっかりと浮かぶ「北大谷古墳」です。
この古墳は、かつては墳丘上に子の権現が祀られており、除地50坪の境内であったようですが、その祠が小宮村鎮守の境内に移されてからは単に「塚」と呼ばれていたようです。
「塚」には祟りの言 い伝えがあり、発掘を企てた者は悉く村の古老に制止されたといわれています。
その後、明治32年(1899)に小宮村の木下某氏と有志数人が発掘を企画して数人の作業員と塚を掘り進めたところ、埋葬施設の天井石を発見。警察署と役場に届け出た後に、増員した作業員とさらに塚を掘り進めて、横穴式石室を完堀しています。このようすは当時の『時事新報』に「土中の一大石室」のタイトルで詳細に報じられ、2年後の明治34年(1901)には八木奘三郎氏により『人類学雑誌』第189号に「武蔵國八王子在の古墳」の タイトルで報告されています。

その後、昭和8年6月に東京府史跡名勝天然記念物の調査が行われ、後藤守一氏により再発掘が行われます。この調査により墳丘の測量や横穴式石室の実測調査も行われ、詳細な報告がされています。古墳に伴う埴輪や葺石はなく、これは取り去られたというより初めからなかったものとされました。
横穴式石室は、奥壁幅1.3m、高さ1.9m、玄室は長軸3.5m、短軸3mの規模であることが報告されており、古墳の築造は「古墳時代後期」のものであるとされています。
画像は、南から見た「北大谷古墳」です。
かつては発掘された石室に屋根がかけられて見学することができたようなのですが、石材などの損傷が激しいことから現在は埋め戻されており、残念ながら見学することはできません。
ただし、墳丘がえぐられたように石室の形状に沿う形で窪みが出来ていて、うっすらとその位置を確認することができるようです。

平成5年9月末から10月末にかけては、3度目の発掘調査が行われています。
多摩地区所在古墳調査の一環として石室の再確認と周溝の確認を目的として行われ、地下レーダー探査も行われています。
周溝はもっとも広い場所で幅4.2m、深さ9.5mの規模で、古墳は直径39m、現況の高さは2.1mと報告されています。
横穴式石室は、「胴張り型」と呼ばれる側壁が弧を描く特徴を持つ形状であることがわかっています。
多摩地区の古墳の石室には、楕円形の河原石を小口に積んだ「河原石積横穴式石室」と軟質の砂岩を用いた「切石積横穴式石室」の2種類が確認されており、この2種類は被葬者の階級差が反映すると指摘されています。北大谷古墳は規模と石室の構造から、7世紀初頭の多摩地区の首長墓と考えられています。

北から見た北大谷古墳です。
古墳はすでに盗掘されていたことが最初の発掘の際にわかっており、石室内からは一点の副葬品も発見されなかったそうです。

北西から見た北大谷古墳。
今後も良い形で保存されることを祈りたいですね。。。
<参考文献>
八王子市史編さん委員会『八王子市史 下巻』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
八王子市教育委員会『八王子市遺跡地図』
八王子市郷土資料館『多摩の古墳』
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- 2020/06/05(金) 21:46:56|
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「狐塚古墳」は、八王子市宇津木向原に所在したとされる古墳です。
八王子市内で最も知られた古墳である「北大谷古墳」と同じ丘陵上の北東300メートルほどの地点が所在地であり、『東京都遺跡地図』には、八王子市の遺跡番号462番の「円墳」として登録されています。
狐塚古墳は、この地域では古くから古墳であろうといわれていた塚です。
古くは、この付近から直刀二口と鉄鏃七本が発見されており、これは狐塚古墳から出土したものであると考えられています。
昭和39年(1964)に調査が行われていますが、すでに主体部、周溝ともに破壊されており、規模等は明らかではありません。河原石が多量に出土していることから、河原石積みの横穴式石室を持つ古墳であった可能性が指摘されています。
その後、古墳は中央高速自動車道路の敷設工事のため消滅しています。
ちなみにこの狐塚古墳が所在する「宇津木向原遺跡」は、学術用語である「方形周溝墓」が大場磐雄宇治により命名された遺跡です。
この場所が方形周溝墓誕生の地だったわけなのですね。。。
<参考文献>
八王子市史編さん委員会『八王子市史 下巻』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
八王子市教育委員会『八王子市遺跡地図』
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- 2020/06/04(木) 20:30:19|
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「鵯山古墳」は、八王子市暁町に所在したとされる古墳です。
八王子盆地北部の、川口川に面する丘陵上に存在した古墳で、『東京都遺跡地図』には八王子市の遺跡番号89番の古墳として登録されています。
この古墳は、昭和32年(1957)に発掘調査が行われており、河原石積の横穴式石室が確認されています。依存状態はあまり良くないことから明瞭でない部分が多いものの、南西側に開口する石室は、奥壁幅1.07m、羨道幅0.8m、全長3.7mの無袖型式の横穴式石室であることがわかっています。遺物は出土しなかったようですが、石室構造から7世紀初頭の築造と推定されているようです。
画像は、鵯山古墳の所在地とされる周辺を南西より見上げたところです。
東京都教育委員会より発行された『東京都遺跡地図』や、多摩地区所在古墳確認調査団より発行の『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の付図を参考にすると、古墳の所在地はこのあたりとなるようですが、すでに開発が進み、古墳の痕跡はまったく見られないようです。

実は、鵯山古墳の推定地がもう一ヶ所。
八王子市教育委員会より平成元年(1989)に発行された『八王子市遺跡地図』の分布図には、画像に見える個人の民家の敷地の奥の丘陵斜面あたりが鵯山古墳の所在地として登録されています。これは、『東京都遺跡地図』や『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の付図と比べると、200メートルほど西にずれています。
こちらが正しい鵯山古墳の所在地であれば、まだ古墳が残存する可能性もあるのではないかと考えていたのですが、昨年、かつて八王子の郷土資料館に勤務していたという学芸員の方にお伺いするチャンスがあってお聞きしたところ、『八王子市遺跡地図』の分布図の位置のほうがずれている!ということがわかりました。
いや、ホントにわからないことがあったらまずプロに聞いてみるべきで、再訪してピンポンしなくて良かったです。。。笑。
<参考文献>
八王子市史編さん委員会『八王子市史 下巻』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
八王子市教育委員会『八王子市遺跡地図』
八王子市郷土資料館『多摩の古墳』
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- 2020/06/03(水) 20:08:36|
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「小宮古墳」は、八王子市宇津木台から小宮町にかけて存在する「宇津木台遺跡群K地区」で発見された古墳です。『東京都遺跡地図』には八王子市の遺跡番号73-11番に登録されています。
内径19.8m、外形24.4mの周溝の円墳で、横穴式石室が検出されています。
河原石を小口に積んだ石室の南側には「ハ」の字型に開く墓前域が付設する可能性が指摘されています。また、玄室内からは多くの鉄釘が出土しており、木棺を納めたと推測されているそうです。
画像は、小宮古墳の所在地周辺の様子です。
開発が進んだこの地域に古墳の痕跡はなく、正確な跡地もまったくわかりませんでした。。。
<参考文献>
八王子市郷土資料館『多摩の古墳』
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- 2020/06/02(火) 23:57:02|
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今回は、八王子市大和田町に所在する「大和田横穴墓群」の探訪の記録です。
もはやかれこれ4〜5年近く前になりますが、八王子市内の古墳を散策しようということでJR八王子市駅へ。
当時所有していたブロンプトン(折り畳み自転車)を組み立てて八王子駅を出発。大久保塚跡→鵯山古墳跡→狐塚古墳跡と巡って最後に北大谷古墳を再訪したあと、同じ地域にある大和田横穴墓群の存在を思い出しました。
この横穴墓についてはあまり深く調べてはいない状況で、開口する横穴は存在しないのかな?くらいの認識しかなかったのですが、スマホで『東京都遺跡地図』を確認すると、この横穴墓群はかなりの広範囲に及んでいるようです。よく探せば残存する横穴の痕跡と出会えるかもしれません。
まだ暗くなるまでには時間もあるしということで、大和田横穴墓群の指定範囲を端から端まで歩いてみることにしました。
大和田町7丁目あたりからスタートして、崖の斜面に沿ってゆっくりと6丁目、5丁目、4丁目と東に向かって進みます。国道16号を渡って大和田町4丁目の日枝神社で参拝。
最初の画像はこの日吉神社の社殿です。。。

「日枝神社」は慶安2年(1649)10月、徳川家光公より高五石御寄進の御朱印を賜うと伝えられています。八王子市街を一望にする高台に鎮座し、江戸の昔より甲州往還の人びとの参詣が多かったといわれています。。。
画像は、日枝神社の境内から「女坂」という階段を見下ろしたところです。
かなり高低差があることがわかりますが、この周辺にもたくさんの横穴墓が造られたのでしょうか。。。

日枝神社を後にして、さらにハケ添いを南に向かって進みました。
ここまで、横穴墓の痕跡を見落とさないようにと斜面を見上げるような状況で崖下を進んできたのですが、甲州街道を渡って以降は崖の中腹を進むような状況になってしまっていて、もう一本崖下の道路に降りたいなあと考えながら歩いていました。
そんな時に見つけたのが、画像の崖下に降りられそうな細い小道です。
藪の中を人ひとりが通るのがやっとという、注意深く見ていないと見落としてしまいそうな道ですが、どうやら進めそうです。

生い茂った篠竹のトンネルとはすごいなと感動しましたが、これも東京都内の光景です。
こういう道、田舎よりもむしろ開発の進んだ住宅地に残されているパターンが多いですよね。
子供の頃にはよく見た風景でしたが、いつの間にか見なくなった気がします。
折り畳み自転車を押していましたが、ここは自転車にまたがってスルーっと進みました。
たまらないなあ。こういう道。。。

ハケの一本下の道に降りたところ。細い道に出ました。
ここで、不思議な形状の神社を見つけることになります。

崖の斜面に掘られた洞窟のような神社。。。
『東京都遺跡地図』で確認すると、「大和田横穴墓群」の遺跡の範囲は、ギリギリこのあたりまでにかかっているようです。まさか、「横穴墓を流用した神社なのでは?」という疑念が頭をよぎります。。。
興味深いのは、洞窟の手前の部分も、まるで前庭部を連想させるような形状です。
ちなみに、散策した当時にGoogleマップでこの場所を検索しても何もヒットしなかった気がするのですが、最近になって検索すると「お穴さま」と出てきます。
説明板等が設置されていないので詳細はわかりませんが、恐らくはこの地域の人の通称であり、地元では知られた存在であると思われます。
むむむ。絶対に怪しい。。。。。

その後、詳しく調べてみようと思いつつもすっかり後回しになってしまっていたのですが、最近になってネットで検索したところ、稲用章さんの『日本史大戦略 Side-B』というホームページにこの神社の詳細が書かれていることを発見しました!
洞窟のようになっているこの社は、戦国時代の末期に甲斐武田家が滅びた際に、武田四郎勝頼に近しい親族もしくは家臣がここまで逃れてきて切腹した場所と伝えられているそうです。
また、この周囲には昔から洞窟がたくさんあったといわれており、これは横穴墓の可能性が高そうです。つまり、横穴墓の中で武田四郎勝頼所縁の武士たちが切腹したということになるようです。
それを地元の人がずっと祀っていたそうですが、大正14年に東京都により現在の形に整備された、ということです。
ちなみにそのとき、「税金を使ってそんなことをする必要はない」と言っていた都の偉い人が病気になってしまったそうで、これは”祟り”であるといわれているようです。。。

内部の様子です。
これが横穴墓であるとすれば、その景観はすでに失われているようです。
戦時中には防空壕としても使われたそうですので、かなり改変されてしまったのかもしれません。
ちなみに内部の様子も、稲用章さんのHP『日本史大戦略 Side-B』で見ることができます。

横穴の向かいにある、画像の建物が社殿であったようです。
私はボヤボヤしていて、こちらにお参りをしませんでした。
神様、ゴメンなさい。。。

私が所有している大和田横穴墓群に関する記述のある書籍は、八王子市郷土資料館で購入した『多摩の古墳』一冊のみですが、同書によると「大和田山根遺跡」内から鎌倉時代末期の板碑を伴う中世の遺構とともに横穴墓2基が発見されているようです。また、銅鋺が出土したと伝えられる「饅頭屋穴横穴墓」もこの大和田横穴墓群の1基であるようですが、これらは現在の大和田5丁目周辺にあたり、この社とは少々離れています。
この社の周辺で学術的な調査が行われたかどうかは今のところまだわかりませんが、少なくともこの大和田横穴墓群は、かなり広範囲にわたって造られた大規模な横穴墓群だったようです。
画像は、八王子市の郷土資料館で展示されている出土品です。
赤い布の上に置かれているのが「饅頭屋穴横穴墓」から出土したという銅鋺です。

というわけで、最後にこの大和田横穴墓群の散策へと舵を切ったことで、この日は充実した1日となりました。
この地域の今後の調査の進展によりまた新たな発見もあるかもしれませんし、その日を楽しみに待ちたいです。。。
<参考文献>
八王子市郷土資料館『多摩の古墳』
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- 2020/06/01(月) 20:40:52|
- 八王子市の古墳・塚
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