
今回は、八王子市大谷町に所在する「北大谷古墳」の探訪の記録です。
北大谷古墳は、八王子市域北部を東西に流れる谷地川右岸に立地しています。
『東京都遺跡地図』には、八王子市の遺跡番号104番に登録されています。
市内では最も知られた古墳で、昭和11年(1936)3月には東京都の旧跡に指定されています。
画像は、北大谷古墳を南西からみたところです。

北大谷古墳が所在する丘陵の南側に、丘の上に登ることができる道があります。
丘陵上は農園となっているので、おそらくは農道なのでしょう。
ここから2〜300mほど進めば、北大谷古墳が見えてくるはずです。
早速、古墳に向かいましょう。

農道はこ~んな感じ。
一応舗装はされているようなのですが、ちょうど車の車輪の部分がぬかるんでいて、あまり役に立っていないかも。笑。
雨上がりの日に訪れると大変なことになるかもしれません。。。

丘の上に出ると、一気に視界がひらけます。
農園というよりはまるで牧場のような雰囲気です。
右奥の木立のあたりが北大谷古墳の所在地です。

見えた~.゚+.(・∀・)゚+.
草原の向こうにぽっかりと浮かぶ「北大谷古墳」です。
この古墳は、かつては墳丘上に子の権現が祀られており、除地50坪の境内であったようですが、その祠が小宮村鎮守の境内に移されてからは単に「塚」と呼ばれていたようです。
「塚」には祟りの言 い伝えがあり、発掘を企てた者は悉く村の古老に制止されたといわれています。
その後、明治32年(1899)に小宮村の木下某氏と有志数人が発掘を企画して数人の作業員と塚を掘り進めたところ、埋葬施設の天井石を発見。警察署と役場に届け出た後に、増員した作業員とさらに塚を掘り進めて、横穴式石室を完堀しています。このようすは当時の『時事新報』に「土中の一大石室」のタイトルで詳細に報じられ、2年後の明治34年(1901)には八木奘三郎氏により『人類学雑誌』第189号に「武蔵國八王子在の古墳」の タイトルで報告されています。

その後、昭和8年6月に東京府史跡名勝天然記念物の調査が行われ、後藤守一氏により再発掘が行われます。この調査により墳丘の測量や横穴式石室の実測調査も行われ、詳細な報告がされています。古墳に伴う埴輪や葺石はなく、これは取り去られたというより初めからなかったものとされました。
横穴式石室は、奥壁幅1.3m、高さ1.9m、玄室は長軸3.5m、短軸3mの規模であることが報告されており、古墳の築造は「古墳時代後期」のものであるとされています。
画像は、南から見た「北大谷古墳」です。
かつては発掘された石室に屋根がかけられて見学することができたようなのですが、石材などの損傷が激しいことから現在は埋め戻されており、残念ながら見学することはできません。
ただし、墳丘がえぐられたように石室の形状に沿う形で窪みが出来ていて、うっすらとその位置を確認することができるようです。

平成5年9月末から10月末にかけては、3度目の発掘調査が行われています。
多摩地区所在古墳調査の一環として石室の再確認と周溝の確認を目的として行われ、地下レーダー探査も行われています。
周溝はもっとも広い場所で幅4.2m、深さ9.5mの規模で、古墳は直径39m、現況の高さは2.1mと報告されています。
横穴式石室は、「胴張り型」と呼ばれる側壁が弧を描く特徴を持つ形状であることがわかっています。
多摩地区の古墳の石室には、楕円形の河原石を小口に積んだ「河原石積横穴式石室」と軟質の砂岩を用いた「切石積横穴式石室」の2種類が確認されており、この2種類は被葬者の階級差が反映すると指摘されています。北大谷古墳は規模と石室の構造から、7世紀初頭の多摩地区の首長墓と考えられています。

北から見た北大谷古墳です。
古墳はすでに盗掘されていたことが最初の発掘の際にわかっており、石室内からは一点の副葬品も発見されなかったそうです。

北西から見た北大谷古墳。
今後も良い形で保存されることを祈りたいですね。。。
<参考文献>
八王子市史編さん委員会『八王子市史 下巻』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
八王子市教育委員会『八王子市遺跡地図』
八王子市郷土資料館『多摩の古墳』
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- 2020/06/05(金) 21:46:56|
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「狐塚古墳」は、八王子市宇津木向原に所在したとされる古墳です。
八王子市内で最も知られた古墳である「北大谷古墳」と同じ丘陵上の北東300メートルほどの地点が所在地であり、『東京都遺跡地図』には、八王子市の遺跡番号462番の「円墳」として登録されています。
狐塚古墳は、この地域では古くから古墳であろうといわれていた塚です。
古くは、この付近から直刀二口と鉄鏃七本が発見されており、これは狐塚古墳から出土したものであると考えられています。
昭和39年(1964)に調査が行われていますが、すでに主体部、周溝ともに破壊されており、規模等は明らかではありません。河原石が多量に出土していることから、河原石積みの横穴式石室を持つ古墳であった可能性が指摘されています。
その後、古墳は中央高速自動車道路の敷設工事のため消滅しています。
ちなみにこの狐塚古墳が所在する「宇津木向原遺跡」は、学術用語である「方形周溝墓」が大場磐雄宇治により命名された遺跡です。
この場所が方形周溝墓誕生の地だったわけなのですね。。。
<参考文献>
八王子市史編さん委員会『八王子市史 下巻』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
八王子市教育委員会『八王子市遺跡地図』
八王子市郷土資料館『多摩の古墳』
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- 2020/06/04(木) 20:30:19|
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「鵯山古墳」は、八王子市暁町に所在したとされる古墳です。
八王子盆地北部の、川口川に面する丘陵上に存在した古墳で、『東京都遺跡地図』には八王子市の遺跡番号89番の古墳として登録されています。
この古墳は、昭和32年(1957)に発掘調査が行われており、河原石積の横穴式石室が確認されています。依存状態はあまり良くないことから明瞭でない部分が多いものの、南西側に開口する石室は、奥壁幅1.07m、羨道幅0.8m、全長3.7mの無袖型式の横穴式石室であることがわかっています。遺物は出土しなかったようですが、石室構造から7世紀初頭の築造と推定されているようです。
画像は、鵯山古墳の所在地とされる周辺を南西より見上げたところです。
東京都教育委員会より発行された『東京都遺跡地図』や、多摩地区所在古墳確認調査団より発行の『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の付図を参考にすると、古墳の所在地はこのあたりとなるようですが、すでに開発が進み、古墳の痕跡はまったく見られないようです。

実は、鵯山古墳の推定地がもう一ヶ所。
八王子市教育委員会より平成元年(1989)に発行された『八王子市遺跡地図』の分布図には、画像に見える個人の民家の敷地の奥の丘陵斜面あたりが鵯山古墳の所在地として登録されています。これは、『東京都遺跡地図』や『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の付図と比べると、200メートルほど西にずれています。
こちらが正しい鵯山古墳の所在地であれば、まだ古墳が残存する可能性もあるのではないかと考えていたのですが、昨年、かつて八王子の郷土資料館に勤務していたという学芸員の方にお伺いするチャンスがあってお聞きしたところ、『八王子市遺跡地図』の分布図の位置のほうがずれている!ということがわかりました。
いや、ホントにわからないことがあったらまずプロに聞いてみるべきで、再訪してピンポンしなくて良かったです。。。笑。
<参考文献>
八王子市史編さん委員会『八王子市史 下巻』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
八王子市教育委員会『八王子市遺跡地図』
八王子市郷土資料館『多摩の古墳』
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- 2020/06/03(水) 20:08:36|
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「小宮古墳」は、八王子市宇津木台から小宮町にかけて存在する「宇津木台遺跡群K地区」で発見された古墳です。『東京都遺跡地図』には八王子市の遺跡番号73-11番に登録されています。
内径19.8m、外形24.4mの周溝の円墳で、横穴式石室が検出されています。
河原石を小口に積んだ石室の南側には「ハ」の字型に開く墓前域が付設する可能性が指摘されています。また、玄室内からは多くの鉄釘が出土しており、木棺を納めたと推測されているそうです。
画像は、小宮古墳の所在地周辺の様子です。
開発が進んだこの地域に古墳の痕跡はなく、正確な跡地もまったくわかりませんでした。。。
<参考文献>
八王子市郷土資料館『多摩の古墳』
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- 2020/06/02(火) 23:57:02|
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今回は、八王子市大和田町に所在する「大和田横穴墓群」の探訪の記録です。
もはやかれこれ4〜5年近く前になりますが、八王子市内の古墳を散策しようということでJR八王子市駅へ。
当時所有していたブロンプトン(折り畳み自転車)を組み立てて八王子駅を出発。大久保塚跡→鵯山古墳跡→狐塚古墳跡と巡って最後に北大谷古墳を再訪したあと、同じ地域にある大和田横穴墓群の存在を思い出しました。
この横穴墓についてはあまり深く調べてはいない状況で、開口する横穴は存在しないのかな?くらいの認識しかなかったのですが、スマホで『東京都遺跡地図』を確認すると、この横穴墓群はかなりの広範囲に及んでいるようです。よく探せば残存する横穴の痕跡と出会えるかもしれません。
まだ暗くなるまでには時間もあるしということで、大和田横穴墓群の指定範囲を端から端まで歩いてみることにしました。
大和田町7丁目あたりからスタートして、崖の斜面に沿ってゆっくりと6丁目、5丁目、4丁目と東に向かって進みます。国道16号を渡って大和田町4丁目の日枝神社で参拝。
最初の画像はこの日吉神社の社殿です。。。

「日枝神社」は慶安2年(1649)10月、徳川家光公より高五石御寄進の御朱印を賜うと伝えられています。八王子市街を一望にする高台に鎮座し、江戸の昔より甲州往還の人びとの参詣が多かったといわれています。。。
画像は、日枝神社の境内から「女坂」という階段を見下ろしたところです。
かなり高低差があることがわかりますが、この周辺にもたくさんの横穴墓が造られたのでしょうか。。。

日枝神社を後にして、さらにハケ添いを南に向かって進みました。
ここまで、横穴墓の痕跡を見落とさないようにと斜面を見上げるような状況で崖下を進んできたのですが、甲州街道を渡って以降は崖の中腹を進むような状況になってしまっていて、もう一本崖下の道路に降りたいなあと考えながら歩いていました。
そんな時に見つけたのが、画像の崖下に降りられそうな細い小道です。
藪の中を人ひとりが通るのがやっとという、注意深く見ていないと見落としてしまいそうな道ですが、どうやら進めそうです。

生い茂った篠竹のトンネルとはすごいなと感動しましたが、これも東京都内の光景です。
こういう道、田舎よりもむしろ開発の進んだ住宅地に残されているパターンが多いですよね。
子供の頃にはよく見た風景でしたが、いつの間にか見なくなった気がします。
折り畳み自転車を押していましたが、ここは自転車にまたがってスルーっと進みました。
たまらないなあ。こういう道。。。

ハケの一本下の道に降りたところ。細い道に出ました。
ここで、不思議な形状の神社を見つけることになります。

崖の斜面に掘られた洞窟のような神社。。。
『東京都遺跡地図』で確認すると、「大和田横穴墓群」の遺跡の範囲は、ギリギリこのあたりまでにかかっているようです。まさか、「横穴墓を流用した神社なのでは?」という疑念が頭をよぎります。。。
興味深いのは、洞窟の手前の部分も、まるで前庭部を連想させるような形状です。
ちなみに、散策した当時にGoogleマップでこの場所を検索しても何もヒットしなかった気がするのですが、最近になって検索すると「お穴さま」と出てきます。
説明板等が設置されていないので詳細はわかりませんが、恐らくはこの地域の人の通称であり、地元では知られた存在であると思われます。
むむむ。絶対に怪しい。。。。。

その後、詳しく調べてみようと思いつつもすっかり後回しになってしまっていたのですが、最近になってネットで検索したところ、稲用章さんの『日本史大戦略 Side-B』というホームページにこの神社の詳細が書かれていることを発見しました!
洞窟のようになっているこの社は、戦国時代の末期に甲斐武田家が滅びた際に、武田四郎勝頼に近しい親族もしくは家臣がここまで逃れてきて切腹した場所と伝えられているそうです。
また、この周囲には昔から洞窟がたくさんあったといわれており、これは横穴墓の可能性が高そうです。つまり、横穴墓の中で武田四郎勝頼所縁の武士たちが切腹したということになるようです。
それを地元の人がずっと祀っていたそうですが、大正14年に東京都により現在の形に整備された、ということです。
ちなみにそのとき、「税金を使ってそんなことをする必要はない」と言っていた都の偉い人が病気になってしまったそうで、これは”祟り”であるといわれているようです。。。

内部の様子です。
これが横穴墓であるとすれば、その景観はすでに失われているようです。
戦時中には防空壕としても使われたそうですので、かなり改変されてしまったのかもしれません。
ちなみに内部の様子も、稲用章さんのHP『日本史大戦略 Side-B』で見ることができます。

横穴の向かいにある、画像の建物が社殿であったようです。
私はボヤボヤしていて、こちらにお参りをしませんでした。
神様、ゴメンなさい。。。

私が所有している大和田横穴墓群に関する記述のある書籍は、八王子市郷土資料館で購入した『多摩の古墳』一冊のみですが、同書によると「大和田山根遺跡」内から鎌倉時代末期の板碑を伴う中世の遺構とともに横穴墓2基が発見されているようです。また、銅鋺が出土したと伝えられる「饅頭屋穴横穴墓」もこの大和田横穴墓群の1基であるようですが、これらは現在の大和田5丁目周辺にあたり、この社とは少々離れています。
この社の周辺で学術的な調査が行われたかどうかは今のところまだわかりませんが、少なくともこの大和田横穴墓群は、かなり広範囲にわたって造られた大規模な横穴墓群だったようです。
画像は、八王子市の郷土資料館で展示されている出土品です。
赤い布の上に置かれているのが「饅頭屋穴横穴墓」から出土したという銅鋺です。

というわけで、最後にこの大和田横穴墓群の散策へと舵を切ったことで、この日は充実した1日となりました。
この地域の今後の調査の進展によりまた新たな発見もあるかもしれませんし、その日を楽しみに待ちたいです。。。
<参考文献>
八王子市郷土資料館『多摩の古墳』
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- 2020/06/01(月) 20:40:52|
- 八王子市の古墳・塚
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「下根古墳」は、八王子市堀之内に所在したとされる古墳です。
『東京都遺跡地図』には八王子市の遺跡番号414番の古墳として登録されています。
すでに消滅して正確な位置もわからなくなっている古墳ですが、戦後の頃までは何らかの痕跡は残されていたと考えられ、『八王子市史 下巻』では「由木堀之内根下古墳」の名称でこの古墳について取り上げられています。
本古墳は、すでに破壊してほとんどその形を認めることはできない。立地していた位置は、西方より延びる南多摩丘陵の南向斜面寄りの末端部に近く位置している。この古墳から出土したと伝えられる円筒埴輪の破片があるので、古墳の性格がわずかに知られる。古墳の形式は立地する地形から円墳と思われるが、つまびらかではない。大栗川流域における古墳の内で円筒埴輪を伴なう唯一のものである。 この場所を最初に訪れた時は、すでに夕方かなり薄暗くなってしまっていたのですが、所在地だけでも突き止めてから後日あらためて出直そう、と考えてかなりウロウロしました。が!全く突き止めることができず、写真も撮らずに帰宅しました。
その後すぐに再訪すればよかったのですが、昨年の冬に訪れてみて呆然!区画整理はほぼ終わり、旧地形は全く残されていませんでした。。。
平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には残存する古墳として記載されていますし、よく探せば見つかったかもしれなかったのですけどね。
不覚です。。。
<参考文献>
八王子市史編さん委員会『八王子市史 下巻』
八王子市教育委員会『八王子市遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2019/08/12(月) 03:09:28|
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前回、八王子市大塚に所在する「日向古墳」と、その所在地である「大塚(丘陵自体が古墳ではないかという言い伝えの残る塚)」について取り上げましたが、昭和59年(1984)に発刊された村下要助著作『生きている八王子地方の歴史』にはなんと!この大塚周辺に存在したという上円下方墳や、「由木大塚西古墳」と呼ばれる前方後円墳についても記されています。
村下要助氏は地元在住の郷土史家で、同書には、今となっては消滅して見ることのできない、当時残存していたこの地域の古墳や塚について数多く記されています。まだ発掘調査があまり進んでいなかった時代であり、後世に築造された塚や、自然地形を古墳であると誤認されている事例も見られるようなのですが、少なくともこの地域の古墳や塚の存在を詳しく知ることが出来るという点では、大変貴重な書籍です。
第1章である「古代編」の「由木大塚は、わが国最大の底部幅を持つ円墳」の項では、大塚の丘陵の北側に存在したという上円下方墳について、次のように記されています。
(前略)北側の下方上円墳も底部幅三、四十メートルに見えるが、惜しいことに昭和六十年頃、道路となって消えるという。西南武蔵特有の葺石はなく、ハニワもないような古墳であり、考古学者の馬鹿にするところであろうが、掘り出して調べなくとも何か調査の方法もあろう。(『生きている八王子地方の歴史』26ページ)
埋葬施設や周溝等の記述は見られないようですが、底部幅三、四十メートルの上円下方墳が本当に存在したとすれば驚きです。
古墳の所在地については、巻頭の「由木地区要図」に位置が記されており、戦後の空中写真と照らし合わせることで、おおよその所在地は特定できます。おそらくは、画像の周辺が、上円下方墳の所在地周辺であると思われます。
この場所は、野猿街道の新道によりなだらかに整地されており、古墳らしき痕跡は全く見ることはできませんが、奥に見える宅地となっている場所は、両隣の敷地よりも高くなっているようです。
旧地形の痕跡なのかもしれませんが、古墳と関係があるかのどうかは不明です。
画像は、上円下方墳跡地(?)の北西側、野猿街道の旧道沿いに所在する塚です。
わずかな高まりの上に石造物が建てられています。
むしろこちらの方が気になってしまったのですが、古墳じゃないかな?

反対側の、北側から見た塚の様子です。
塚の名称や由緒などはよくわからなかったのですが、こちらから見ると、いかにも人工的に盛られた塚のように見えます。

塚上の様子です。
お堂の中にお地蔵様が2体と「堅牢地神塔」の石碑が祀られています。

上円下方墳跡地(?)から、野猿街道を西に100メートルほどの地点にも、気になる小山がありました。画像ではちょっとわかりにくいのですが、目を凝らしてみると、木々の合間の一番高くなったあたりに祠が祀られているのが見えます。自然地形のようにも見受けられますが、丘陵上に築造された古墳の上に祠が建てられている、なんてことはないのでしょうか。。。

新道の方から見ると、かなり高さがあるように見えます。
うーん。やっぱり自然地形でしょうか。。。

さて、先ほどの上円下方墳に引き続き、『生きている八王子地方の歴史』では「由木大塚西古墳」という名称の、前方後円墳であると想定する古墳について記載されています。
同署に27ページには上円下方墳の記事に続き、
その西に、この辺りでいちばん古い形式を取る前方後円墳がある。前方部は戦国初期に人の入るとことろなって、大きく削り取られてはいるが、由緒あるものとみえるので、昔から姿だけは特に残しておくと、今に住む人が言っている。長さ百五、六メートルに計られる四世紀末か五世紀半くらいの出来である。後円部には小祠が祀られており、盗掘にあった様子がない。(『生きている八王子地方の歴史』27ページ) そしてさらに、『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』といった江戸時代の地誌類が、主墳である「大塚」について取り上げていながらも、この前方後円墳を見落としているのは残念である、とも述べています。果たしてこの場所に、前方後円墳が存在したのでしょうか。
画像は、同書に掲載されている「由木大塚西古墳」の唯一の写真です。
モノクロの小さな写真ですので、全体像を把握するには少々厳しいところですが、少なくとも古墳の可能性を感じさせる高まりが存在したことは間違いないようです。自然地形であったとしても、確かに前方後円墳と誤認しかねない地形かもしれません。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=188949&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)6月9日に米軍により撮影された由木大塚西古墳の所在地と考えられる地点の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
『生きている八王子地方の歴史』にある、多摩市の稲荷塚古墳から1800メートルほど西側、という記述のみを頼りに、戦後の空中写真で見つけることができた形状です。画像の中央に前方後円墳らしき木立を見ることが出来ます。
この空中写真からすると、南側が前方部、北側が後円部である前方後円墳のようにも見受けられますが、後円部側の形状が崩れていてはっきりとしません。おそらくは、古墳の西側に、かつて曲がりくねっていた大栗川が流れていたものと思われますので、これが古墳であれば旧大栗川右岸に築造された前方後円墳、ということになります。

「由木大塚西古墳」の跡地周辺の様子です。
画像は前方部から後円部を見たところ、という状況です。
現在は宅地化が進み、古墳らしき痕跡は見られないようなのですが、この道路の左右両側はどちらも高低差があって、この場所だけ一段高く盛り上がっています。おそらくは、かつての地形は南から北に向かって半島状に突き出た舌状台地という状況で、その台地上に前方後円墳が存在したのか、それともこの盛り上がった地形そのものが古墳の痕跡なのか、はたまた単なる自然地形だったのか、とてもとても興味深い場所です。

この地区の北側、もしこの地形が前方後円墳であれば後円部の先端にあたる場所に、土手状に盛り上がった小道が存在します。宅地造成の際に削り残された旧地形の残存部分かな?とも思える、気になる形状です。

土手状の小道を30メートルほど進んで振り返ったところです。
南側から北を見た状況ですが、西側(画像の左側)と比べてかなり高低差があることがわかります。
ちなみに反対側の、舌状台地の東側にも同様の高低差が見られます。
う〜ん。古墳、あったんでしょうかね、ここに。。。

実は、一番楽しみにしていたのはこの地点です。
「由木大塚西古墳」から北北西に400メートルほどの、やはり丘陵斜面にあたる場所です。
画像は由木大塚西古墳の空中写真と同じ、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)6月9日に米軍により撮影されたものです。これもわかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
やはり、前方後円形の木立が見られ、さらにはその周囲が、周溝の痕跡か?とも思えるような地形となっています。。。

前方後円形の木立は、だいたいこの奥あたり。。
丘陵斜面の台地縁辺部、という形状でしょうか。
周辺は宅地化が進んでいて、やはり地形は大きく変わっているようです。

小さな石段があったので、登ってみました。

ここがおそらく、前方後円形の木立の場所と思われます。
周囲よりも一段高く盛り上がっていて、もしこの場所が古墳であれば、「残存」と呼んでも良いのではないかという印象ですが、埴輪片や葺石、石材といった古墳の痕跡らしきものも見見当たらないようです。。。

かなり古い墓石が立ち並ぶ墓所が見られます。
むむむ。怪しい、という感じ。笑。
結論として、古墳であると断定できる場所を突き止めることはできませんでしたが、『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』等の江戸時代の地誌類を調べると、この大栗川流域にはかなりの数の塚について記されています。少なくとも現在知られているよりはずっと多くの古墳が存在したのかもしれませんが、それが解明されるのは、まだまだずっと先のことかもしれませんね。。。
<参考文献>
村下要助『生きている八王子地方の歴史』
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- 2019/08/10(土) 23:33:44|
- 八王子市の古墳・塚
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今回は、八王子市大塚所在の「日向古墳」の探訪の記録です。
八王子市の遺跡番号459番に登録されているこの日向古墳について、東京都教育委員会より発行された『東京都遺跡地図』には、「丘陵上に築造された古墳(円墳)」であり、規模について「径13m、高2.5m」と書かれています。また、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には、所在地は「丘陵(大栗川に向かって丘陵が突出した先端頂上部)」で、墳丘は「消滅」。主体部も「消滅?」とのみ書かれています。
実は、かれこれ8~9年ほど前に一度、日向古墳を見るためにこの場所を訪れました。調査報告書の記述からして、古墳はすでに削平されているようですが、所在地は神社やお寺ですし、なにか痕跡だけでも見つけることができればと考えていました。しかし、この最初の見学ではやはり古墳の痕跡を見つけることはなく、正確な所在地も不明で、夕闇の中、現地を後にしました。
しかしその後、とても興味深い面白い記事を見つけます。
昭和59年(1984)に発刊された、村下要助著『生きている八王子地方の歴史』の26ページには、
由木大塚は、わが国最大の円墳である。埼玉県行田市にある丸墓山古墳が底部幅百メートルで、わが国第一位などと書く本があるが、ろくに古墳を見て歩かない人が言うことと思う。由木大塚は、ざっとであるが調べてみた。底部幅百二、三メートルに計れる。高さは丸墓山十九に対し、半分強であるが、自然の山へ土を盛り上げた見事なものだ。
慶長十二年に頂上を少し削り取り、八幡宮を作られているほか、その前に、北側部分をかきならされて、寺が一つできたため、多少円墳の変形が見えるが、そんなことはこの大古墳を見たならば、腹の立つことではない。(後略) と書かれています。
確かに、この地域の地名の由来となっている「大塚」は日向古墳を指すものではなく、この丘陵自体を指すものであるようですが、それにしてもまさか、この丘陵そのものが大古墳?
にわかには信じられない記述ではあるのですが、同書にはなんと!周辺に存在したという前方後円墳や上円下方墳にまで言及しています。
これがずっと気になっていたのですが、昨年のよく晴れた冬、あらためて日向古墳とその周辺を散策してみました。

最初の画像は「大塚」を西から見たところ。
2枚目の画像は、近寄ってみたところです。
『新編武蔵風土記稿』の大塚村の項には、この丘陵上に祀られている八幡神社について「大塚の上にあり」と記されていますので、少なくとも江戸時代にはこの丘陵は大塚と呼ばれていたものと思われます。
『東京都神社名鑑』に記載されている八幡神社の「由緒」の項には
創立不詳であるが、明和元年(一七六四)現在地に祀られたと伝えられる。御社殿の中に刀身だけの劔が納められている。大塚は、いわゆる塚で、これは古墳の塚であると伝えられている。塚の規模はきわめて大きく、その塚の上に社殿が祀られている。この辺の地域を総合的に大塚という部落の固有名詞になっている。 と書かれています。
「刀が納められている」という記述が見られるものの、「大塚(日向古墳?」から出土したものなのかどうかはよくわかりませんでした。
この丘陵が古墳であるならば、奈良市の富雄丸山古墳(直径110m)や行田市の丸墓山古墳(直径105m)に迫る、巨大円墳ということになりますが、本当に古墳なのでしょうか?
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=195540&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)に米軍により撮影された大塚とその周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
当時、丘陵の周囲の土地のほとんどが畑地として利用されているようですが、周溝の痕跡も特に見られないようですし、やはりこの「大塚」自体は古墳ではなく、自然地形なのではないか?とも思えます。

この丘陵の北側には野猿街道が東西に走っており、この街道により削られたことにより独立丘のごとき形状となったもので、元々は北側の丘陵から半島状に突き出た舌状台地だったのではないかと想定できます。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にも、日向古墳の所在地について「丘陵(大栗川に向かって丘陵が突出した先端頂上部)」と書かれています。
画像の、大塚の南側から石段を登ったところが「大塚八幡神社」です。

神社の境内の様子です。
周囲より一段高くなった場所に社殿が建てられています。
昭和36年に東京都教育委員会により発行された『南多摩文化財総合調査報告』に、この日向古墳の記述が見られ、
由木村大字大塚日向古墳 多摩村古墳群の西方約1km離れた大栗川の西岸に近く、西方から延びる台地の末端に位置している。径約13m、高さ約2.5m内外の規模をもっていた円墳と思われるが、出土品その他は不明である。後期終末期に位置する古墳であろう。 と書かれています。(「多摩村古墳群」とは多摩市の「和田古墳群」のことで、東方には多摩市の「稲荷塚古墳」、「臼井塚古墳」や「庚申塚古墳」が、また北東には「塚原古墳群」や日野市の「万蔵院台古墳群」があり、大栗川流域にはかなり多くの古墳が存在していたようです。)
具体的に古墳の規模まで書かれているわけですし、やはり境内のどこかに小円墳が存在した、ということでしょうか。
ここでも出土品は不明とされているようですし、社殿に納められているという刀が日向古墳出土のものかどうかはわからないようですね。。。

西側の、「最照寺」側から見たところ。
この角度から見ると、二段築成の巨大円墳か?それとも丘陵上に築かれた大円墳の上部か?とも思える地形ですね。

大塚八幡神社の社殿西側にある境内社、「神明神社」です。
周囲が石垣で成形されているものの、この場所は周囲よりもさらに高くなっていて、古墳の痕跡を思わせます。
ここが日向古墳の跡地なのでしょうか?

神明神社の高まりを東側から見たところ。
明らかに一段高くなっています。

神明神社の西側に隣接する、境内社の「秋葉神社」です。
この角度から見ると、残存する円墳の一部か?とも思える形状です。

先ほどの南側から見た画像は、残存する小円墳かのようにも見えるのですが、神明神社と秋葉神社の背後は平坦地となっており、この場所が古墳の跡地かどうか、確信が持てません。
最照寺を訪ねて聞いてみればよかったんですけどね。。。

同じ場所の、最初に訪れた時の画像です。
以前は神社とお寺が塀で仕切られていて、そこに多くの石造物が安置されていました。
現在は塀が撤去されており、地形を確認することができます。

神明神社と秋葉神社の背後は最照寺の墓所となっているのですが、その中に周辺よりも高くなった場所が存在します。『八王子市遺跡地図』の分布図に記されている位置からすると、この高まりが古墳の跡地なのではないか、とも考えられます。(もちろん、分布図の位置が単なる推定地である可能性も考えられますし、真相はわかりません。)

八幡神社の社殿背後あたりも怪しいのではないか、と考えていましたが、ここも最照寺の墓所となっていました。
結論として、「大塚」の丘陵自体が古墳であるかは不明(個人的には自然地形ではないかと考えていますが)。日向古墳の所在地もわかりません。
神様がおられる場所ですのでね。なかなか発掘調査も難しいかと思いますが、でも大塚が巨大古墳だったらと妄想すると夢がありますよね。

記事を書き上げて、最後にグーグルマップで日向古墳周辺を眺めていたら、大塚が巨大前方後円墳としか思えなくなってきた。
まずいな。疲れているのかな。。。。。
<参考文献>
村下要助『生きている八王子地方の歴史』
八王子市史編さん委員会『八王子市史 下巻』
八王子市教育委員会『八王子市遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2019/08/05(月) 02:46:26|
- 八王子市の古墳・塚
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『東京都遺跡地図』には、八王子市中野上町5丁目に「八王子市№86遺跡」と「八王子市№87遺跡」という2基の塚が登録されています。
この2基の塚は、古くは古墳ではないかとも考えられていたようです。八王子市史編さん委員会により昭和42年(1967)に発行された『八王子市史 下巻』掲載の「八王子市内古墳分布一覧表」には「西中野古墳」という名称で記載されており、「現存2基」と書かれているこの西中野古墳が、現在の『東京都遺跡地図』に記載の「№86遺跡」と「№87遺跡」であると思われます。ただし、八王子市史には埋葬施設や出土遺物等についての記録はなく、「円墳」とのみ書かれているようです。
その後、平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の「多摩地区所在の塚」の項には、多摩地区に所在する「古墳か塚かの区別が不明瞭な」塚について取り上げられており、この№86遺跡と№87遺跡の2基の塚が記載されています。同書によると、2基の塚の所在地は「中野上町5丁目3307番地」と、2基ともに同じ番地内に所在とされ、昭和36年に行われた調査により「富士塚かあるいは境塚」ではないかと推定されています。また、規模について、№86遺跡は径40m、高さ1.5m。また№87遺跡は径10m、高さ1.5mとされています。
画像はこのうちの1基、「№87遺跡」の跡地と思われる地点を西から見たところです。この塚は、戦後の空中写真等でもはっきりとその姿を確認することが出来ますので、この場所が跡地である可能性は高そうです。塚は完全に削平されて消滅しているようですが、道路が二股にわかれているあたりは塚の痕跡といえるのかもしれません。

画像は、「八王子市№86遺跡」の跡地周辺のようすです。『東京都遺跡地図』に記されている位置からすると、画像の周辺に№86遺跡が存在したのではないかと思われますが、こちらの塚は戦後の空中写真等でも塚の影がはっきりと確認できず、正確な所在地がわかりません。
2基の塚の発掘の記録であるとされる、昭和40年(1965)発行の『武蔵野』や翌年発行の『日本考古学年報』を確認してみました。同書によると、塚は東京都教育委員会により浅川流域文化財総合調査の一環として、昭和40年8月10日から13日にかけて発掘調査が行われており、所在地は「3126番地」とされています。また、塚の規模についても、直径約15m×17m、高さは南側裾部より1.5mとされ、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』に記載されている地番や規模とは若干の違いが見られるようです。
塚は截頭円錐形に近い墳形を示していたとされ、土質は黒褐色有機土を主としていたようです。墳丘中央部の墳頂下65cmの位置に、径1m範囲に不整形に河原石が敷き詰められていたようですが、配石の状態は埋葬施設とするには雑な小形の遺構であり、また副葬品に類するものも何も出土しなかったことから、このマウンドは古墳ではなく、近世に築造された塚であると考えられているようです。
この記述からすると、発掘された塚が「№86遺跡」と「№87遺跡」のどちらかにあたるのか、または全く別の3基目の塚が存在したのかよくわからなかったのですが、少なくとも複数の塚がこの周辺に存在したことは間違いないようです。

戦後の空中写真を参考に、画像の道路の突き当たりあたりが「№86遺跡」の所在地ではないかとも推測しました。
まっすぐに道路が延びて突き当たるという形状や、突き当たりの場所が一段高い台地の縁辺部にあたるあたりも塚の跡地を思わせるのですが、痕跡は何もなく、真相はわかりません。
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=412518&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和36年に国土地理院により撮影された空中写真で、中野上町5丁目周辺を見たところです。あくまで空中写真ですので、地上の立体的な地形まではわかりませんが、2基の塚の他にも、古墳か塚なのかな?とも思えるような円形の木立が見られます。画像の右側あたりに、南側からまっすぐに伸びた道が木立に突き当たって止まっているようすを複数箇所、見ることができます。
これらの木立の存在が気になってしまって、2基の塚跡の見学のついでにぶらりと廻ってみました。

1ヶ所目は、おそらくは個人の墓地であると思われます。この一角だけは宅地化されずに残されており、かなり古い石造物も見られるようですが、特に塚状に高くなっているような状況は見られないようです。

墓地の敷地の内部のようすです。かなり古い石造物が残されているようですが特に塚状に盛り上がったようすは見られないようです。

2ヶ所目も、同じように個人の墓地であるようです。特に塚状のマウンドは見られませんが、背後に鳥居が立てられており、祠が祀られているあたりは気になるところです。。。

2ヶ所目の墓地の背後に祀られている祠です。このあたりは多少の段差があり、墓地と祠の地点が高くなっているのは気になります。。。

3ヶ所目は画像の道路の突き当たりの場所です。やはり墓地となっているようですが。。。

3ヶ所目の敷地内のようすです。
墓石が並ぶ背後がマウンド状に小高くなっており、塚跡かな?とも考えられますが、詳細はわかりません。。。

最後の場所は一番西側の木立ですが、開発により集合住宅の建設が行われ、すでに整地されてしまっていました。が、木立のあった場所が小公園となっており、敷地内に円形の塚状のマウンドが!どういう意味があるのか(ないのか)、この一帯は長らく発掘調査が行われていたようですが、現地には特に説明板等もなく、図書館で調べたところでも、調査報告書の類も見つけることができず、やはり詳細は不明です。

探訪の最後に、喉を潤すために立ち寄った駄菓子屋さんです。懐かしのラムネをいただきました。
私の少年時代には、こういった駄菓子屋さんがたくさんあったんですけどね。

駄菓子屋さんの中には驚きの事実が!なんと、駄菓子屋さんなのに、あ店の中には、憧れの「ヘラクレス大カブト」や「アトラス大カブト」の実物が売られているではありませんか!(もちろん生きている)
お店の奥様にお聞きしたところでは、周辺地域の少年少女や、その親御さんに売れていて、商売としてバッチリ成り立っているそうです。時代は大きく変わっているなぁと、ぶっ飛んでしまいました。笑。
私の少年時代にこれを見たら、やっぱり買ってしまうんじゃないかなぁ。
うん、いい時代かもしれないです。このお店、お薦め!!!
<参考文献>
梅沢重昭「八王子市中野町所在の円墳形態を示す遺構について」『武蔵野 第44巻 第1号』
日本考古学協会『日本考古学年報14』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2018/04/05(木) 00:12:20|
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画像は、八王子市楢原町にある「神明神社」を南から見たところです。楢原町の最も東にある神社で、創建年代は不明であるようですが、延宝丙辰年当村中村七左衞門が再建、其の後明治9年2月橋本義篤起元となりて改築す、と記録されています。
この神明神社の背後の台地上には、「五輪塚」と呼ばれる、古墳ではないかとも考えられる塚があったといわれています。

五輪塚は、合戦で死んだ武士を埋葬したところであるとの言い伝えが残されており、また、刀が出土したことがあることから「刀塚」であるともいわれているようですが、学術的な調査が行われていないことから塚の性格まではわかりません。地元の人の話では、往時には大きな土盛りの塚の上に五輪塔が祀られており、この塔は「五輪様」と呼ばれ、塚は「五輪塚」と呼ばれていたようです。
『川口の郷土史』によると、この五輪塔は、かつて塚のあった場所からは少し移されて、楢原町223番地の畑の一角に祀られていると記されています。同書が刊行された昭和63年からは周囲の状況は変わり、宅地化が進んでいるようですが、223番地の一角には塚跡らしき墓地が残されています。「五輪様」と思われる古い五輪塔は見られないようですが、ここが五輪様の場所なのでしょうか。。。

角度を変えて、墓地を東から見てみました。こちらから見ると、塚跡らしき形状にも見えます。
残念ながら、かつて存在したという五輪塚の所在地も、現在の五輪塔の所在も突き止めることはできなかったのですが、この地域の、古墳かもしれない塚の貴重な伝承ということで、取り上げてみました。
楢原の古墳群の全貌が解明される日が楽しみですね。。。
<参考文献>
川口地区社教郷土史研究会十周年記念誌編集委員会『川口の郷土史』
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- 2018/04/03(火) 00:49:58|
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