
画像は、多摩市貝取1丁目に所在する「麦花塚」です。
古墳や墳墓とは全く無関係の現代の「塚」で、元々この場所に塚状の高まりが存在したのかどうは不明ですが、区画整理により整備されており、北側から見ると塚の高まりのように見えます。
多摩市教育委員会による説明板が設置されており、塚の由来について次のように書かれています。
多摩市指定有形民俗文化財 麦 花 塚
高さ百二十五センチメートルの石碑で、表に貝取出身の麦花という歌人の
和歌などが、裏には漢詩二編と、多摩・町田市域の歌人三十名の和歌が刻ま
れている。明治十四(一八八一)年に麦花自身が彫刻し、建てたものである。
麦花は、本名を浜田助左衛門といい、貝取村で「乞田鍛治」の屋号を持ち刀
鍛治を職業とするかたわら、和歌・俳句を好んでいたという。明治初期にお
ける村内の文芸活動を知ることのできる貴重な資料である。
多摩市指定有形民俗文化財
地蔵菩薩像・阿弥陀如来像・庚申塔
地蔵菩薩像は寛文八(一六六八)年のもので、高さ百三十センチメートル
年号の他に、「武蔵柚木領郡宇龍村同行十七人」の銘文が刻まれている。市内
では、二番目に古い地蔵石仏である。
阿弥陀如来像は寛文十三(一六七三)年のもので、高さ八十センチメート
ル。年号の他に「武州多摩郡乞田内宇龍村 奉造立寒念併同行八人 願主安
西」の銘文が刻まれている。市内で最古の阿弥陀石仏である。
庚申塔は宝永二(一七〇五)年のもので、高さ五十二センチメートル。三
猿の上に正面金剛が彫られている。年号の他に「武州柚木領瓜生村同行」の
銘文が刻まれている。
いずれも、江戸時代前期頃の民間信仰を示す貴重な資料である。麦花塚と
庚申塔は、元は、ここから三百メートルほど南の鎌倉街道沿いにあったもの
であるが、土地区画整理事業にともない平成元年十月に現在地に移転した。
昭和六十一年三月十五日指定
多摩市教育委員会

お堂の中には地蔵菩薩像と阿弥陀如来像が祀られています。
きちんとお花が生けられて、大切にされているようです。

地蔵菩薩像と阿弥陀如来像。
「厄除け地蔵尊」と刻まれていますね。。。

一番大きな石碑が「麦花塚」の碑で、右端が庚申塔です。どちらも多摩市の指定有形民俗文化財です。
元々の所在地である「ここから三百メートルほど南の鎌倉街道沿い」は、「瓜生一里塚」の跡地とかなり近接しているように思いますが、関係があるのでしょうか。

麦花塚の150mほど北側の住宅街の一角には、「念仏供養板碑」が祀られています。
多摩市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
多摩市文化財
念仏供養板碑
高さ一五〇センチ
幅 三八センチ
板碑は、鎌倉〜室町時代に死者の冥福や造立者のこの世での平
安や極楽往生を祈るために造立された供養塔です。
通常板碑の携帯は三角形の頭部の下に二条の線があり、阿弥陀
如来などをあらわす種子(梵字)と造立の日付や供養者の名前な
度を彫りつけます。
この板碑は種子の代わりに天蓋の下に阿弥陀如来・観音・勢至
菩薩を招き、香炉・燭台・華瓶を置いた前机を配しています。図
柄は後期画像板碑の代表的な形を示しており、市内最大の板碑です。
この板碑は平三郎・孫二郎・彦六など十名が結集して念仏講を
作り、文明二年(西暦一四七〇年)十一月中旬に造立したものです。
指定 昭和四十九年十二月二十日
多摩市教育委員会

お堂の中を覗いてみると、すごい数の板碑が!
ニュータウンとして開発された地域は地形が大きく変わってしまって、古いものが残されていないイメージがあるのですが、この場所に集められているんでしょうね、きっと。

お堂の西側には多くの墓石が残されています。
<参考文献>
現地説明板
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- 2019/11/03(日) 23:22:25|
- 多摩市/その他の古墳・塚
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前回紹介した「六部塚」から多摩よこやまの道を歩いて5分ほど。多摩市の西端にあたる、多摩市唐木田3丁目に所在したといわれる塚が「山王塚」です。『東京都遺跡地図』には「多摩ニュータウン№275遺跡」の名称で、多摩市の遺跡番号152番の「近世の塚」として登録されています。
塚の場所は、町田市と八王子市、多摩市が接するところで、明治初年までは落合村領出会ったが忠生村小山田分隣、ニュータウンの行政界変更により再び多摩市分となっています。江戸時代の地誌類にも記述がみられ、『落合旧記』や『武蔵風土記』には「唐木田山王塚は由来知れず。隣村小山田村の界の山上にあり、鎮守山王の古祠なり」と書かれています。
町田市の標高では最も高いところにあったことから戦時中は高射砲陣地となり、B29を迎え撃ったそうです。その後、周囲の森林が伐採され、昭和40年にニュータウン用地となった後は、塚と椎の木の大樹が2本残された荒れ地となっていたようです。
画像が山王塚跡地の現在のようすです。
ちょっとした休憩所のようになっていて、ベンチが設置されています。

ベンチの向かい側には『鶴見川流域 最高度三角点「山王塚」』という案内板が設置されており、「この山王塚跡には、鶴見川流域最高度三角点「山王塚」(168m)があります。鶴見川は、流域面積235平方kmで、多摩丘陵から下末吉台地を刻み、横浜市鶴見区から東京湾に注ぎます。鶴見川の源流は、ここから南に0.5km下った町田市上小山田の「鶴見川源流の泉」です。」と書かれています。

ベンチの奥に、盛り上がった塚状のマウンドが造成されており、塚の頂部には三角点が設置されています。

北側から見た、現在の山王塚です。こちらから見ると、かなり大きな塚に見えます。案内板にも「山王塚跡」と書かれていますので、やはり元々存在した塚はすでに消滅してしまったようですが、モニュメントとして往時の山王塚を偲ぶことはできるようです。ちなみにこの塚の北側は南多摩尾根幹線道路が開通しており、丘陵は切り開かれています。
<参考文献>
町田市教育委員会『町田の民話と伝承第一集』
多摩書店『落合 名所図絵』
現地説明板
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- 2018/11/04(日) 02:20:26|
- 多摩市/その他の古墳・塚
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「六部塚」は、多摩市唐木田3丁目の丘陵上に所在したといわれる塚です。画像は、塚の所在地周辺を南から見たところです。
六部塚は、東京都教育委員会より発刊された『東京都遺跡地図』には未登録で、インターネットで公開されている、最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』にも掲載されていないようです。ただし、多くの伝承が現代まで伝えられており、塚の跡地周辺に設置された説明板のほか、この地域の郷土誌類にも記述を見ることができます。かなり知られた塚であるようです。
というわけで、早速、六部塚へ向かって歩いてみます。『巡礼古道の代官坂と奥州古道の辻』の説明板から100メートルほど西に歩き、多摩よこやまの道と呼ばれる古道を北西に登った、道の途中のあたりが六部塚の跡地です。

画像が、六部塚の跡地といわれるあたりです。この道の先に案内板が設置されており、この解説には「案内板から南へ80m下った所で見つかり、小山田の田中谷戸集会場では石塔が発見され、民話が本当だったことがわかりました。」と書かれています。だいたいこのあたりが80m下かなと思われる場所がこの画像ですが、正確な所在地は不明です。
実はこの道は町田市と多摩市の境界となっており、画像の右側が多摩市唐木田町、左側が町田市上小山田町です。『東京都遺跡地図』で確認しても、近隣にある「山王塚」や「勝負塚」がちゃんと登録されているのに対して、この六部塚はなぜか未登録となっており、正確な所在地がわかりません。(『東京都遺跡地図』に登録されていれば、おおよその住所が書かれているので、どちら側かくらいはわかるのですが)
先の案内板には「二つの塚を築いた村人は農作業の合間に通っては手を合わせていた」と、塚が2基あったことが書かれています。空中写真をよーく眺めてみたのですが、画像のあたりが所在地であるとすれば多摩市側にあったようにも思えるし、この丘の最も高い、案内板のあたりにあったようにも思えるし。ひょっとして両側にあったのかな。笑。

よこやまの道を登り切った、道が左に折れた角に「奥州古道と六部塚~民話の塚と石塔」という案内板が立てられており、六部塚の伝承についてもふれられています。塚は、立地的にその一帯の一番高いところに造りそうな気もするのですが、この場所じゃないのですね。。。

出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1)
さて、画像は、昭和31年(1956)4月6日に米軍により撮影された、六部塚周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。画像の中央に、2基の塚らしき影が写されています。これが六部塚であればやはり画像が塚の所在地で、道の右側(多摩市側)に所在したということになるわけですが、真相やいかに、という感じです。。。

この日はこの後に山王塚を見学。その後、多摩よこやまの道を戻り、代官坂と呼ばれる古道を下って、移設された六部塚の石碑を見学するために小山田方面に向かう計画だったのですが、山王塚に向かう途中で視界に入った、ほとんどけもの道のごとき山道がなぜか気になって仕方がありません。
立て札にも「小山田バス停→」と書いてあるし、こりゃ行けるんじゃないか!ということで、一人ザクザク、山道に突入してみました。
以下、意味なく山道のようす。。。

人ひとり分ほどが踏み固められた細い道が、山の麓に向かって延々と続きます。
時折、藪の中で、ガサガサっと何か生き物が動く音が聞こえてびっくりしますが、姿は見えず。
狸とかイノシシなんかが出てきたらどうしよう。。。

私は少年時代は横浜で暮らしたんですけどね。
あの頃はまだ、こんな感じの山道が結構残っていて、カブト虫とかクワガタを探して歩いたもんですが。
ちょっと懐かしいな。

自然のままの小川に木製の小さな橋が架けられています。
なんかイイ感じ。

まだまだ、ユルユルと下ります。
それにしても、誰ともすれ違わないんですよね、この道は。
いや、でも追い剥ぎとか出てきたら怖いしな。(そんなの出ないって。笑)

Googleマップをみてもこの道は載っていないようです。
合っていると信じてこのまま進みます。

またしても小川に小さな木製の橋が。
踏み抜かないように、跨いで進みます。

ようやく視界が開けてきました。
それにしても、人家はおろか、電線や鉄塔といった人工物が全く見えません。
きっと、江戸時代とほとんど変わらない光景ですよね。
携帯の電波は果たして届いていたのか、見ておけば良かったな。。。

この辺りからようやく舗装された道路になりました。
歩き慣れたアスファルト。笑。

お地蔵様が祀られた塚、発見。
もはや、ここが東京であることを忘れてしまうぜ、と。

町田市内の丘陵上を歩いていて、こういう正体不明の穴を何度か見かけました。この場所はトタンで蓋がしてあって中を見ることはできないようだったのですが、まさか横穴墓の残骸ということはないですよね。。。

農地の片隅に正体不明のマウンドが。気になる。。。

ようやく到着。町田市上小山田町の田中谷戸倶楽部です。
この敷地内に、六部塚から移された石碑が保存されています。

画像が「六部塚」の石碑で、町田市教育委員会により説明板が設置されています。
説明板には、次のように書かれています。
町田の民話と伝承
比丘尼の墓・「六部塚」
小山田川(鶴見川)の源流に近い谷戸の農家の庭に、旅の比丘尼が入ってきました。「お乳をめぐんでいただけませんか」農家の若妻はびっくりしました。尼さんの姿で、赤ちゃんをおんぶしていたからです。
若妻は、土器にお乳を満たしてあげました。
その夜、若妻の夢枕にあらわれたのが、昼間の比丘尼です。夜明けを待って、立ち去った道をたどっていくと、比丘尼は土手の上にゆきだおれていました。胸にしっかりと抱き締められていたのは、赤ちゃんではなくて、阿弥陀如来の像です。比丘尼は手厚く葬られ、小さな墓がつくられました。
それから二年が過ぎた、ある日、行脚姿の老僧が若妻の家を訪ね、しばらく逗留して比丘尼を供養したいと言いました。若妻が心よく応じると、老僧は土を運んで立派な土墳をつくります。そして、まわりに美しい草花を植えると、ふたたび旅立っていきました。そのあと若妻の家は、ことのほか繁栄をつづけます。若妻も老いて亡くなり、長い歳月が流れました。
丹沢の山々が雪におおわれた、ある日、比丘尼の墓の前にたたずむ六部の姿がありました。「わたしは信州伊那郡・阿武隅村の片桐勘四郎と申すもの。ここに眠る比丘尼は西順尼と申し、先祖の一人に間違ございません。このとおり六部の姿に身をやつし、諸国をたずね歩いてまいりましたが、ようやく念願がかないました」六部の物語を聞いた村人たちは、人の世のめぐり合わせの不思議さに心をうたれ、立ち去る六部に、たいせつに安置してきた
阿弥陀如来の像を手渡しました。
ところが、その夜、村人たちの夢枕に立ったのは、旅立ったはずの六部です。翌朝、比丘尼の墓に駆けつけますと、息絶えた六部の姿があり、阿弥陀如来の像が、両手でしっかりと握られていました。めぐる因縁の深さにおどろいた村人たちが、六部のなきがらも手厚く葬りましたので、比丘尼の土墳はより大きな塚になり、「六部塚」と名付けられました。
(町田の民話と伝承第一集・町田市文化財保護審議会編から)
一九九九年三月 町田市教育委員会
この石碑の碑面には
寛保二年
六十六部訳西順比丘尼
五月十四日 側面には
嘉永三年十二月再建
信州伊那郡阿武隅村
俗名片桐勘四郎 と刻まれているそうです。
<参考文献>
町田市教育委員会『町田の民話と伝承第一集』
現地説明板
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- 2018/10/31(水) 23:20:11|
- 多摩市/その他の古墳・塚
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「どうよう塚」は、多摩市和田に所在したといわれる塚です。
やはり、関戸合戦にまつわる言い伝えが残されていた塚で、この地域には、合戦の際に戦死した多数の雑兵を地域の人々が数カ所に分散して埋めたという伝承が残されており、このうちの1基であると考えられていたようです。初めは「雑兵塚」と呼ばれていたようですが、いつの間にか「どうよう塚」と呼ばれるようになったと伝えられています。
昭和初期頃までは、結婚式の行列はこの場所を通るのを避けたともいわれていますが、塚はその後、区画整理により削平されて消滅しています。
塚は、現在の野猿街道宝蔵橋の南側あたりに存在したようですが、残念ながら塚の痕跡は何も残されていないようです。『東京都遺跡地図』にも掲載されていない、伝承にのみ残る塚と言えそうです。。。

どうよう塚の跡地と思われる周辺を北西側から見たところです。
この一帯は、大栗川の流路も含めてかなり地形が変わってしまっていて、塚の正確な所在地を特定することは難しそうなのですが、塚の跡地と思われる区画は、大栗川流域の低地よりも一段高くなっているようです。この南西方面の多摩市内には「塚原古墳群」が、日野市側には「万蔵院台古墳群」の存在が確認されており、関戸合戦に関係する塚の中では、唯一、古墳であった可能性を妄想してしまうのですが、つかが消滅してしまった今となっては、真相を知ることはできないようです。。。
<参考文献>
パルテノン多摩『関戸合戦 多摩市関戸に残る中世の伝承とその背景』
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- 2018/08/30(木) 00:19:23|
- 多摩市/その他の古墳・塚
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画像は、「旗巻塚」が所在したとされる、現在の多摩市一ノ宮3丁目周辺のようすです。
この塚は残念ながらすでに開発により消滅しており、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようですが、戦後までは田んぼの中に残されており、塚の周囲は「旗巻」という地名で呼ばれるなど、かなり知られた存在であったようです。
やはりこの塚も、「関戸合戦」において布陣していた北条泰家率いる鎌倉幕府軍が旗を巻いて後方に退却したところという伝承が残されています。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=219133&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年11月14日に米軍により撮影された、旗巻塚の所在地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。画像の中央に、農地にぽっかりと浮かぶ旗巻塚らしき影を見ることが出来ます。
この塚は、かなりピンポイントに所在地を特定してから訪れました。現在の多摩信用金庫桜ヶ丘支店の裏側あたりで、駅近の住宅街ですので塚が残されるにはなかなか厳しい状況ですが、思えばこの日は疲れ果てていて、また塚らしきマウンドも見られなかったことから「ピンポン」せずに帰ってきてしまいました。が、後から思い返すとひょっとしたら何か痕跡が残されていたかもしれないと悔いが残る塚です。機会があったらもう一度見に行ってみようと思っています。。。
<参考文献>
パルテノン多摩『関戸合戦 多摩市関戸に残る中世の伝承とその背景』
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- 2018/08/27(月) 02:30:24|
- 多摩市/その他の古墳・塚
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多摩市関戸5丁目の個人宅の庭先に径5~6メートルほどの墳丘が残されており、墳頂部に石造の祠が祀られています。この塚は、関戸合戦で討死した鎌倉武者の安保入道の墓であると伝えられています。画像はこの「安保入道の墓」を北から見たところです。
この塚については、平成9年に多摩市史編集委員会より発行された『多摩市史 通史編一』に詳しい記述を見ることができます。
伝承についての詳細は拙論(釈迦堂1992)を参照されたいが、『関戸之記艸稿』に「我等屋敷南の方に古墳あり、柏樹を植たり、是古の安保入道道堪父子三人の埋し塚ならん、」とあり、『関戸旧記』には「亦、予ガ屋敷内ニ一ノ古墳アリ、墳上に榧ノ一樹アリ、古木ニシテ半朽半活テ枝葉繁茂シアリシガ文政ノ初ノ頃枯タリ、是亦何ノ墳ト伝フ事ヲ不知、按ズルニ、当所ハ古戦場ニシテ討死数多アレバ、其古墳ナルベシ、既ニ横溝八郎討死ノ時、安保入道討死スレバ、恐クハ是等ノ墳ニテモアルベクヤ」と記し、相沢氏は邸内の塚の主を推定しているのである。斉藤幸孝は関戸村調査の際に相沢伴主から聞取りを行なったらしく、『郊遊漫録(郊外見聞録)』に「安保入道父子ノ墓 在所不知、関戸入口に一 ツノ名主相沢源左衛門なる者、坪ノ内にも青石の碑建てる古墳アリ、榧ノ木茂り立、姓氏不知、もしくハ安保入道の墳墓たる、是ならんとハ、相沢氏の証作せられし、」と記して、塚の比定が相沢伴主によるものであることを明記している。

画像はちょっと角度を変えて、北東から見た入道塚です。
この塚の敷地は通称「相沢屋敷」と呼ばれる関戸村名主の相沢氏の宅地だったところで、この相沢伴主は、文政2年(1819)から天保7年(1836)にかけて『関戸旧記』を書き上げました。『関戸旧記』は、この地域の歴史的事件、史跡や伝承について書かれており、この中で、自邸内にある塚が関戸合戦で戦士した人たちの墳墓であるという可能性を指摘したそうです。この説は、当時の江戸の文人からは疑問視されたようですが、関戸では次第に定着して、『皇国地誌』等の明治時代の郷土誌にも取り入れられているようです。
学術的な調査は行われていないことから、塚の性格は解き明かされてはいないようですが、塚の存在により、関戸の伝承が語り継がれていることが尊いことなのかもしれません。。。

安保入道の墓は、現在でも現在の当主により大切に供養されているようです。
当日は土地の所有者に許可を得て見学させていただきました。ありがとうございました。

画像は、入道塚の北方数十メートルの地点にある「無名戦士の墓」と呼ばれる無縁仏の石塔です。この場所も、関戸合戦の戦死者の墓であると言われています。昭和30年頃の道路拡張工事により現在地に移動されていますが、かつては旧鎌倉街道の脇にあったようです。
冬でも草ぼうぼうで、うまく写真を撮ることができなかったのが残念です。。。
ひょっとしたらこの場所にも塚が存在したのかもしれません。。。

画像は「霞ノ関南木戸柵跡」です。
この周辺は、鎌倉時代の建歴3年(1213)に鎌倉街道に置かれた関所跡といわれています。建歴3年(1213)に鎌倉街道に造られた木柵の関で、街道沿いに設置された監視所の跡と考えられており、中世の関所跡としてすでに地名にも「関戸」と称されていたそうです。
柵跡地は、熊野神社境内参道に並行して地表下30〜45cmのところに約45cmの間隔に丸柱(直径25cm)の痕跡16があり、道路の東側人も6、7ヶ所、丸柱の跡が見られるようです。
歴史上貴重な史跡として、昭和36年には東京都の史跡に指定されています。

とにかくこの周辺は多くの史跡が残されていて、街道沿いを歩くだけでも数多くの石像物を見ることができます。その度、立ち止まってしまうので、ちっとも進まないんですよね。笑。この日は、関戸を一日中見学して終わってしまいました。。。
画像は、道すがら見かけた庚申塔です。

画像は馬頭観音です。ガードレールもない道路沿いに普通に残されていて、ちょっとびっくりします。
<参考文献>
多摩市史編集委員会『多摩市史 通史編一』
パルテノン多摩『関戸合戦 多摩市関戸に残る中世の伝承とその背景』
現地説明板
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- 2018/08/21(火) 01:31:21|
- 多摩市/その他の古墳・塚
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多摩市の関戸周辺は、元弘3年(1333)に新田義貞軍が北条泰家率いる鎌倉幕府軍を打ち破ったとされる合戦が行われた場所として知られています。分倍河原の合戦において敗走する鎌倉軍を関戸の地で追走した激しい戦いは「関戸合戦」とも呼ばれ、このようすは『太平記』という軍記物語に詳しく記されています。
同書によると、分倍河原の合戦で新田軍に打ち破られた幕府軍は鎌倉を目指して退却しますが、多くの人々が討死しました。大将である北条泰家も関戸付近で討たれそうになりますが、横溝八郎が奮闘して敵を次々と射落とし、討死します。安保入道父子ら多くの家臣が討死を遂げる中、北条泰家は無事に鎌倉に逃れることができたと言われています。
『太平記』は物語であることから脚色もあり、全てが史実とは言えないようですが、関戸合戦で討死したという横溝八郎は『御的日記』という現実の幕府の記録に登場しており、実在した人物であるようです。
画像は、多摩市関戸5丁目に現存する、横溝八郎の墓であるとされる古塚、「八郎塚」です。

塚は、個人の邸宅内に今も残されています。塚の裾には、「武将塚 横溝八郎之墓」と刻まれた石碑が建てられています。
『関戸旧記』や『郊遊漫録』には、大小ある塚の1基が横溝八郎の墓であるとあり、関戸旧記では大きな塚を「山伏塚」と呼び、小さな塚を横溝八郎の墓であるとしているものの、郊遊漫録では逆であると記されています。この八郎塚が果たして大きなほうの塚なのか、それとも小さなほうの塚なのか、片方の塚が失われてしまった今となっては真相を知ることはできません。発掘調査も行われていないようです。

塚の上にはお堂が建てられており、今も供養が行われているようです。

通り沿いにある、「下の地蔵」と呼ばれる地蔵堂です。この地蔵堂の裏手が横溝八郎の墓です。地蔵は、寛文3年(1663)に建てられた盟約地蔵で、敷地の角に「関戸古戦場跡」の標柱が立てられています。
当日は、土地の所有者に声をかけて見学させていただきました。ありがとうございました。
<参考文献>
パルテノン多摩『関戸合戦 多摩市関戸に残る中世の伝承とその背景』
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- 2018/08/18(土) 01:22:06|
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