
画像は、日野市大坂上にある「坂西横穴墓群」を南から見たところです。日野市の遺跡番号8番の古墳です。
この横穴墓は、JR中央線日野駅の南南西約350m、線路敷設工事によって二分された丘陵の北側に位置します。昭和49年11月、道路のとりつけ工事現場において第1号墓の羨門部の封石が発見され、その後、相次いで6基が検出されたことにより、12月から翌50年2月にかけて緊急調査が行われました。現在では第1号、3号、4号墓の3基が保存されていて、昭和53年3月16日に東京都指定史跡となっています。

この「坂西横穴墓群」中で最も注目されたのは第1号墓で、羨道の一部より前、後室の側壁、天井部のすべてにわたって厚さ2~3mmの白色粘土が塗布されていました。しかもこれはハケ状の用具で丁寧に塗られていて、ハケ目も明瞭に残っていました。横穴墓においてこの事例はたいへんめずらしいのだそうです。
また、この第1号墓は副葬品がまったく出土せず、前室と後室の界石の大部分が抜き取られて奥壁の右方にそって積まれていたそうで、後世に盗掘にあっていると考えられます。白色塗布面には戯画や文字が沈刻されていて、戯画には馬や鳥らしきもの、文字は「永仁二年」「永仁?年」「永仁六年三月十二日」と刻まれていたそうです。これは第4号墓も同様に、同じような方法で盗掘されており副葬品も残存せず、奥壁には「永仁」銘が見出されたそうです。
第1・4号墓が比較的古い形態の横穴墓であり、第1・4号墓の墓前域を切断するように第3・5・6・7号墓が造営されていることから、早い時期に造営されたと思われる第1・4号墓が、同手法により盗掘されて同様の「永仁」銘が見られることは、なかなか面白い事例であると思います。

この「坂西横穴墓群」の保存については特に1号墓の保存を重視して、工事の方法を変更して保存したそうで、1号墓にかかる箇所は高架になっており、他の6基は直接道路にかからないことから埋め戻して保存されています。上記の画像の高架の下に1号墓が保存されているようです。

1号墓にかかる橋は「横穴橋」と名付けられていました(そのまんまだ)。
発見されたこの横穴墓は発見当初は「矢の上横穴墓」と呼ばれていましたが、後に小字名をとって「坂西横穴墓」と命名されたそうです。
現地には東京都教育委員会による説明図と説明板が立てられています。
<参考文献>
雄山閣出版株式会社『武蔵坂西横穴墓群』
現地説明版
- 2013/02/22(金) 01:26:34|
- 日野市/その他の古墳・塚
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