
「落川・一の宮遺跡」は、日野市落川に所在する遺跡です。
『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』によると、この遺跡は日野市の遺跡番号38番に登録されており、「時代」は「縄文時代(晩期)」、「弥生時代(中期)」、「古墳時代」、「奈良時代」、「平安時代」、「中世」、「近世」という複合遺跡です。この遺跡からは、「1号古墳」と命名されている古墳が1基、検出されています。
古墳は、北西から南東に延びる通称「田中島」と呼ばれる自然堤防の東側、多摩川に極めて近い低地から発見されています。発掘調査当時すでに墳丘は削平され、古墳の存在は想定されていなかったようですが、古墳の周溝が確認されたことにより存在が明らかとなっています。
規模は周溝内径14m、外径18mを計り、全体の平面形は、陸橋部を西に持つ六角形、つまり「六角形墳」であると想定されています。
これまでこの『古墳なう』で東京都内の古墳を中心に追いかけてきましたが、八角形墳は多摩市百草の「稲荷塚古墳」が確認されているものの、六角形墳は今のところ、この「落川・一の宮遺跡1号古墳」が唯一のものではないかと思われます。
主体部については、墳丘のほとんどが削平されていたことから不明ですが、周溝北側底部の土坑状の掘り込みなどは遺体埋葬部ではないかと想定されているようです。

落川・一の宮遺跡は、隣接する多摩市まで広がる、750.000m2以上の面積を持つと考えられる遺跡です。古墳の周溝は、野猿街道を多摩市、日野市から国立に抜ける日野3・2・7号線の道路により消滅しているようですが、遺跡の一部は落川遺跡公園として整備されています。この地下には各時代の竪穴建物と掘立柱建物が32軒埋もれているそうです。

舗装された地面には、地下の遺跡の様子がわかるように色分けされていますが、経年劣化により色あせてきていて、ちょっとわかりにくいですね。。。

公園内には、東京都教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
東京都指定史跡
落 川 遺 跡
所在地 日野市落川八一九
指 定 昭和六十二年二月二十四日
本遺跡は多摩地区に多く存在する台地、丘陵
上の遺跡と異なり沖積微高地上に立地する稀有
な遺跡である。その沖積微高地上に四世紀末~
五世紀初頭に集落形成が開始され、以降、十四
世紀初頭にいたるまで連続的に集落が営まれて
いる。
東方約三〇〇メートルに鎮座する武蔵一の宮、
小野神社を中心とする小野郷に比定される地域
に該当すると考えられる。また、『日本紀略』、
延喜十七年に見える「小野牧」と関係する遺跡
と推定されている。
発掘された遺構は竪穴建物跡、掘立柱建物跡、
井戸跡、鍛冶炉、祭祀跡等である。
遺物では鎌、鍬、鋤などの農耕具、鉄鏃、刀
装具、短刀などの武器類、馬具などが多量に出
土しており、これらの遺構、遺物は武士集団の
住居関係を解明する上で貴重な手がかりになる
ものと考えられる。
平成十八年三月一日
東京都教育委員会 
私は、残存する六角形墳を実際に見たことはありませんが、八角形墳は関東地方に残存するものに限り、何度か見学する機会に恵まれました。
画像は、東京都多摩市百草に所在の「稲荷塚古墳」です。
言わずと知れた、都内唯一の八角形墳ですね。
八角形の形状をはっきりと認識できる状況ではありませんが、発掘調査により八角形墳であることが確認されています。こうして保存して残されているだけでも、とても貴重な古墳です。

現地の説明板に掲載されている、横穴式石室の様子です。
かつては、墳丘に木造の覆屋が建てられて石室が公開されていたそうですが、平成9年度に保存措置を講じたうえで埋め戻されていて、残念ながら現在は見ることはできません。。。

画像は、群馬県北群馬郡吉岡町所在の「三津谷古墳」です。
群馬県の史跡として指定されている古墳で、発掘調査により正八角形墳であることが確認されています。八角形の一辺の長さは、下段で約9.0m、上段で約6.0mを有しており、墳丘の企画設計には唐尺が使用されたと推測されています。
古墳は、調査時の葺石、列石、盛土を一部修復し、欠失部分は復元されているそうです。
八角形の形状がはっきりと認識できます!

古墳の内部は見学施設となっており、石室の根石状況や土葬断面が発掘調査時のまま展示されています。
この古墳は、住宅地にひっそりと存在するのですが、なかなか見応えがあってお勧めです!

画像は、群馬県藤岡市上落合所在の「伊勢塚古墳」です。
石積みの角の部分をはっきりと見ることができます。。。
この古墳も群馬県の史跡として指定されている古墳で、当初は円墳ではないかと考えられていたようですが、昭和62年度の範囲確認調査により直径27.2m、高さ6mの二段に築かれた不正八角形墳であると考えられています。

石室内部の様子です。この古墳の石室は石積みに特徴があり、「模様積み」と呼ばれる独特な技法でドーム状の構造になっています。
石室内は、薄暗かったことから見学時にはあまり感じませんでしたが、帰宅してからあらためて画像を見ると、むしろ天井石がスゲエなあと。石室内で大地震に遭遇したらと想像すると、ゾッとしますね。。。
実は、この古墳の2度目の見学の際、ちょうど群馬県のスタッフの方々が調査を行なっており(昨年行われた七輿山古墳の非破壊調査と同時期です…)、わざわざ調査の手を休めてくださって石室の内部を見学させていただきました。また、群馬県立歴史博物館の館長様にお話をお聞かせいただき、記念撮影までしていただきました。大変感謝しております!ありがとうございました!
<参考文献>
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳時代 ー国分以前の様相ー』
落川・一の宮遺跡(日野3・2・7号線)調査会『落川・一の宮遺跡 Ⅱ 古代編』
現地説明板
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- 2019/08/13(火) 23:42:12|
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「日野市№19遺跡」は、日野市 東豊田2丁目に所在する、『東京都遺跡地図』には日野市の遺跡番号19番に登録されている古墳です。
この古墳の存在する「豊田寺坂遺跡」は昭和51年(1976)1月から2月にかけて発掘調査が行われています。古墳は調査区のほぼ中央から発見されており、墳丘は完全に削平されて遺存していなかったものの、周溝が検出されたことにより存在が確認されています。規模は、内径12m、外径18mを測る円墳で、主体部は攪乱による破壊で痕跡がなく、詳細不明とされていますが、周溝内からは坏が2点出土しています。
画像は、豊田寺坂遺跡の所在地を南東から見たところです。中央の切り通しとなった道路を上がった、右上に見える台地上が豊田寺坂遺跡で、古墳が検出された場所となるようです。現在は集合住宅となり、残念ながら古墳の痕跡を見ることはできませんでした。。。
<参考文献>
日野市遺跡調査会・日野市教育委員会『豊田寺坂遺跡』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2016/04/21(木) 09:35:26|
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「平山古墳群」は浅川沿岸に分布する古墳群で、多摩川との合流点より約5kmほど上流の平山橋北岸周辺の段丘上に位置しています。平山遺跡第2・4・9次調査により平山橋北西側の調査が行われ、これまでに6基の古墳が検出されています。
昭和29年(1954)に西郊文化研究会より発行された『西郊文化 第10号』には、この平山古墳群の1基と見られる古墳の発掘時のようすについて書かれています。
中央線豊田駅、又は京王線平山駅を下車し多摩川に至ると、千鳥ケ淵と呼ばれる地点がある。ここには積石塚が数基あるが殆ど知られていない。数年前この一基が発掘され、遺物は直刀十七本、鉄鏃約三〇〇本、刀子若干、馬具、装飾品として勾玉が発見された。石は多摩川の直径二十?位の河原石を用いたもので、内部構造は竪穴式石室が南北に軸をとっている。当地方では数少ない特殊な部類に属する。この例は、近くには神奈川、埼玉両県に存在しわが国からは、十数ケ所より発見されているが、一方大陸に多く存在しており、この影響を受けたものと思われる。 当時、地名から「平山古墳」と仮称されたこの古墳は八王子在住の某氏と有志により昭和24年(1949)に発掘が行なわれたとされていますが、報告書が未発表であるために正確な所在地は不明で、『西郊文化 第10号』に書かれている以外の詳細はわかりません。平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団より発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では、日野市東平山3丁目に残存する遺跡番号45番の古墳をこの「平山古墳」としながらも「平山古墳群のいずれかは不明」であると記しています。
画像はその「日野市№45遺跡(仮称平山古墳)」を北から見たところです。

その後の発掘調査により確認された6基の円墳により形成される「平山古墳群」の中で、墳丘が残されていたのは2号墳1基のみであったとされていますが、この2号墳からは多くの遺物が出土していることから、平山古墳が2号墳である可能性は低いように思われます。やはり、画像の「№45遺跡」が平山古墳であったのか、それとも当時、2号墳以外の5基の古墳の中に墳丘の残されていた古墳が存在したのか、まったく未知なる古墳が存在したのか真相はわかりませんが、№45遺跡が平山古墳であった可能性は十分に考えられるところかもしれません。

この古墳は平成5年度の多摩地区所在古墳確認調査により把握されており、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「大部分は削平されているが、4×2mの範囲で高さ0.5m程の高まりが残存しており、高まりの上には祠が祀られている。」と書かれています。この状況は、現在も大きな変化はないようです。画像は残存する現在の墳頂部のようすですが、小さな祠が祀られており、周囲には石室を構築したと思われる河原石を見ることができます。
小さな祠ですが、通りがかりのお婆さんが拝んでいく姿も見られました。地元の人々に大切にされているようです。
<参考文献>
今井隆敬「八王子近郊の考古学資料」『西郊文化 第10号』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2016/04/20(水) 00:25:25|
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画像は、日野市日野台3丁目にある「上人塚」を東から見たところです。
「上人塚」は、多摩川と浅川に挟まれた日野台地の中央に所在します。昭和36年(1961)に日野市の史跡に指定されており、日野自動車株式会社の構内に整備されて残されています。企業の敷地内にあるため無断で立ち入る事は出来ませんが、年に一度、東京文化財ウィークに合わせて行われる「塚つかウォーク」で一般に公開されており、見学することが出来ます。
塚は平成19年に発掘調査されており、4つの時期に築造された塚であることが判明しています。
最初の「古塚」は15×13m、高さ2.5mのやや方形をしており、黒色土で堅く叩き締められて構築されています。塚の表面から中世のカワラケが出土していることから、中世に構築された塚であると考えられています。次の「旧塚」は一辺20m、高さ2.8mの方形をしており、黒色土で構築された表面からは近世の陶磁器が出土しています。塚の裾部には溝が巡っていたそうです。次の「新塚」は直径27m、高さ3.5mの半球上をしており、黒色土で構築されています。東側に土坑、道が検出されており、近現代の出土遺物が検出されています。最も新しい「現塚」は中心がやや西側にずれた直径約35mのマウンド状をしており、ローム土で構築されています。調査前には樹齢約50年ほどの樹木が繁茂し、中心に榎の大木があったそうです。

敷地内には日野市教育委員会による説明板が立てられており、次のように書かれていました。
日野市指定史跡
しょうにんづか
上 人 塚
昭和三十六年十月一日指定
元禄年間の文書に「請人塚」という記述があることから、
江戸時代には存在していたと考えられる。
塚の由来については、美濃(現在の岐阜県)から移り住
み、日野用水を開削するなど日野発展の基礎を作った佐藤
隼人を称えるため、隼人の業績を記した書を埋納したもの
という説がある。また、かつてこの一帯が荒れ野であった
時に、狸や狐が上人に化けて甲州道中を行く人をたぶらか
したため、「上人塚」の名が付いたという説もある。
平成一八年(2006)から行われた発掘調査の結果、こ
の塚の基部には黒土を突き固めた一辺一五メートル余りの
方形の中世の塚があり、その上に江戸時代の円形の塚がか
ぶさっていることが明らかになった。塚の性格は不明だが、
祭祀を行った場所か、土地の境界を示す標識として築かれ
たものと推測される。
日野市教育委員会
<参考文献>
東京考古談話会『東京の遺跡 NO.93 日野台地の上人塚と富士塚~ランドマークとしての黒塚~』
日野史談会『日野の歴史と文化 第17号』
現地説明版
- 2013/12/14(土) 08:59:39|
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画像は、日野市日野台3丁目にある「首塚」を北西から見たところです。
この塚は、以前「七ツ塚古墳群」に向う途中で見かけて写真に収めていたものの詳細はわからず、東京文化財ウィークに合わせて行われる「塚つかウォーク」に参加した際に、「首塚」という名称を初めて知りました。
この周辺はかつては日野原(ひのっぱら)と呼ばれており、昭和10年頃までは広い原だったそうです。『日野の歴史と文化 第17号』にはこの地の言い伝えとして、次のように書かれていました。
昔一人の遊行僧が、旅から旅へ説教をしながら来たところ、日野原があまりにも荒れ果てていたので、これはこの地を治めている者の力が足りないのだといいふらした。これを聞いた役人が怒ってその坊さんの首を一刀のもとに切り落としてしまった。ところがその坊さんは首を切られてもなお代官所へ向って歩き出したがまもなく倒れて死んだという。役人や村人は坊さんのたたりをおそれて坊さんの遺骸を埋めて塚を作り、首塚としてねんごろに葬った。それが首塚であるという。(日野史談会『日野の歴史と文化 第17号』2ページ)

この周辺の工場建設の際に敷地のあちこちから人間の頭骨が出てきたそうで、その後人夫たちにも怪我人や病人が出てきたので、それらの首を集めて埋葬して「首塚稲荷」として祀ったそうです。一説には、北條氏照落城の頃の古戦場であったのではないかとも考えられているそうです。今でもこの地域の工事関係者はこの塚に手をつけたがらないと聞きましたが、祟りの言い伝えは現代も生き残っているのかもしれませんね。
元々は塚の上に祠が建てられていたかと思いますが、先の大地震で倒壊してしまったのか、祠は塚から下ろされて置かれています。。。
<参考文献>
日野史談会『日野の歴史と文化 第17号』
- 2013/12/12(木) 01:51:32|
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画像は、日野市栄町にある「加賀塚(竹間加賀入道の墓)」を南西から見たところです。日野市の遺跡番号44番の塚です。
敷地内に設置された日野市教育委員会による説明板には次のように書かれていました。
市指定史跡
加賀塚(竹間加賀入道の墓)
竹間加賀入道は、小田原北条氏に仕え、日野本宿に住み、日野に知
行地を有した武士である。また鉢形城(埼玉県)の守備にあたったと
も伝えられ、その名は、佐藤家の古文書(北条氏照印判状)にもみ
られる。
豊臣秀吉が関東に兵を進め、北条氏と交戦状態に入った天正18年
(1590)2月8日鉢形城から帰り、この地で切腹したという。八王子
城が豊臣勢の攻撃で落城する4ヶ月前のことである。
昭和60年3月 日野市教育委員会
東京文化財ウィークに合わせて行われる「塚つかウォーク」にて見学しましたが、加賀塚は「加賀塚公園」として整備されて公園内に保存されているので、いつでも見学することが出来ます。
塚の規模は広さ3m四方、高さ50cmとされていますが、公園として整地されたためか平坦に見えます。塚には榎が自生しており、昭和15 年(1940 年)に加賀入道の子孫により立てられた供養墓碑と、古くからある高さ50cmほどの自然石の2基があります。昭和36年10月1日に日野市指定史跡に指定されています。
<参考文献>
日野市教育委員会『日野市の文化財 第1集』
現地説明版
- 2013/12/11(水) 01:46:10|
- 日野市/その他の古墳・塚
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画像は、日野市さくら町にある「富士塚」を南東から見たところです。塚はコニカミノルタ東京サイトの構内に整備されて残されています。企業の敷地内にあるため無断で立ち入る事は出来ませんが、年に一度、東京文化財ウィークに合わせて行われる「塚つかウォーク」で一般に公開されており、見学することが出来ます。
「富士塚」は、永禄10年(1567)の絵図『高幡高麗一族屋敷・下地等絵図』に「ひのさかの臺より富士つかのきわ迄前代あらいかたニ候」と記述されており、少なくとも16世紀中頃には構築されていたものと考えられています。ということは、少なくとも富士講徒によって築造された塚ではないということになるわけですが、一体誰が何の目的でこの塚を築造したのでしょうか。「富士塚」の名称が付きながら、近世の富士信仰の特徴であるクロボク(溶岩)や参道が存在しないのも特徴としてあげられるそうです。

平成20年には測量調査がされており、現状規模は25.5m×15.5m、高さ4mを測り、平面形は円形を基調としています。塚の西側の部分は建物により一部切られており、画像に見られるように断面を観察することが出来ますが、当方800mの地点に所在する「上人塚」と同じように赤褐色土粒を多く含む黒色土が積み上げられて叩き締められて構築されているため、「上人塚」との関係が注目されています。
この、黒色土を選んで構築されているところが古墳との違いといえる特徴であるようで、『東京の遺跡 NO.93』には類例として、青梅市の「富士塚」、立川市の「富士塚」、八王子市の「無名塚」、府中市の「横海道北1号塚」、国分寺市の「尼寺北方の塚」、町田市の「木曽の富士塚」、西東京市の「南入経塚」、世田谷区の「砧大塚」、北区の「平塚」、大田区の「御塚(新田義興塚)」などがあげられていました。

日野市内にはこの「富士塚」の他にも「上人塚」、「まつり塚」など、行政だけでなく企業の理解と努力によって多くの塚が残されているようです。古墳や塚のほとんどが崩されてしまった東京都内において貴重な地域であると思います。。。
<参考文献>
東京考古談話会『東京の遺跡 NO.93 日野台地の上人塚と富士塚〜ランドマークとしての黒塚〜』
- 2013/12/09(月) 02:57:17|
- 日野市/その他の古墳・塚
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画像は、日野市富士町1丁目にある「まつり塚」を東から見たところです。塚は昭和36年(1961)に日野市の有形民俗文化財に指定されており、富士電機システムズ株式会社東京工場の構内に整備されて残されています。企業の敷地内にあるため無断で立ち入る事は出来ませんが、年に一度、東京文化財ウィークに合わせて行われる「塚つかウォーク」で一般に公開されており、見学することが出来ます。
敷地内には日野市教育委員会による説明板が立てられており、次のように書かれていました。
日野市指定有形民俗文化財
まつり塚
ここは古来、まつり塚と呼ばれ、旧平山村と旧豊田
村の村境にあたる。 道路の両側には松ノ木が植えら
れ、松の根元には土壇が築かれ、数基の石仏が安置さ
れていた。
古くからしばしば流行した疫病は村人に恐怖を与え
たが、なにも防疫手段を持たなかった人々は、それを
防ぐために、村をあげて祈るよりほかに頼るものはな
かった。
このまつり塚においても、その風習は明治のころま
で残っていたといわれている。いつしか土壇もとり払
われ、石仏も散逸し最後に残った黒松(幹囲三、四五
メートル)も昭和六十一年三月二十四日の大雪のため
倒れ枯死した。
平成元年(一九八九年)に二代目祀り松が元の黒松の
横に植えられ、周囲を石で囲み、整備が行われた。
昭和三十六年(一九六一)十月一日 指定
日野市教育委員会
このまつり塚がある台地から一段下がった台地上には「平山古墳群」や「西平山古墳群」などの古墳群が存在しますが、まつり塚と同じ台地上には古墳は1基も存在しないのだそうです。周辺には、多くがすでに消滅してしまった「境塚」のほか「上人塚」、「富士塚」、「首塚」といった塚が残されています。
<参考文献>
日野市教育委員会『日野市の文化財 第一集(指定文化財)』
現地説明版
- 2013/12/08(日) 02:31:44|
- 日野市/その他の古墳・塚
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画像は、日野市神明にある「谷ノ上(やのうえ)横穴墓群」を南から見たところです。日野市の遺跡番号10番の古墳です。
この「谷ノ上横穴墓群」は日野台地上の「神明上遺跡」の東側の傾斜地にあり、昭和47年に4基の横穴墓が調査されています。
『日野市埋蔵文化財発掘調査輯報 Ⅱ 1986』には下記のように書かれています。
第1号墓は墓前域に石積み施設を有し、横穴内部の平面形は逆台形を呈する。玄室と羨道は界石によって区別され、アーチ型の天井を有する。副葬品は刀子4点、鉄鏃11点である。第2号墓は横穴内部が全長210m程を測る小型のもので、横穴内部の平面形は逆台形を呈し、界石はなく玄室と羨道の区別はできない。アーチ型の天井を有する。副葬品は出土していない。第3号墓も第2号墓同様小型の玄室を有する。横穴内部の平面形は胴張りの不整楕円形を呈するもので、玄室は羨道から一段高くなっており明確に区別されている。ドーム型の天井を有する。副葬品は出土していない。第4号墓は横穴内部の平面形が逆台形を呈し、玄室と羨道は界石によって区別されている。天井はアーチ型を有する。副葬品は出土していない。第2~第4号墓は墓前域が工事により掘削されており、石積み施設の有無は不明である。
(『日野市埋蔵文化財発掘調査輯報 Ⅱ 1986』26ページ)



すぐ南側を走っている国道20号(日野バイパス)からでもはっきりと認識できる大きな看板が立てられていて、石積みによって埋め戻された横穴の位置がわかるようになっています。3基が保存されているようです。歩道からゆっくりと見学できます。

この「谷ノ上横穴墓群」の周辺には画像のような穴がぽっかりと開いています。予想外の開口する横穴墓か!と喜んだのもつかの間、お向かいに住むおばあさんとの立ち話によると戦争中に作られた防空壕なのだそうです。
こんな発見も散策の楽しみのひとつでもあります。。。
<参考文献>
日野市遺跡調査会・日野市教育委員会『日野市埋蔵文化財発掘調査輯報 Ⅱ 1986』
- 2013/03/15(金) 00:40:28|
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