
画像は、昭島市拝島町1丁目の「日吉神社」を南から見たところです。
『東京都神社名鑑』によると、この神社の創建は村上天皇の天暦年間(947~957)といわれており、祭神は大山咋命、香山戸命、羽山戸命です。江戸時代の享保17年(1732)に大日堂が改修されており、寛保元年(1741)に山王社宗源の宣旨を賜い「山王大権現」の社号が許され、ついで嘉永4年(1851)9月1日に社殿再建の工事が行われています。延1732人の大工が動員され、470余両の総経費を支出して、翌年(1852)9月9日に現在の社殿が完成しています。
赤坂の日枝神社と同様に、この日吉神社も「拝島の山王さん」と呼ばれて親しまれているそうです。
赤坂の日枝神社には、一説には古墳が存在すると言われているようですが、この神社の境内には富士塚が所在します。
「浄土古墳」、「大神古墳」、「経塚下古墳」といった昭島市内に所在する古墳と同様に、多摩川中流域左岸の拝島段丘縁辺部に所在するこの富士塚が、元々存在した古墳を流用して造られた塚である可能性はないのでしょうか。。。

この日吉神社とその周辺は文化財が盛りだくさんという状況で、いたるところに説明板が設置されています。画像は、東京都の天然記念物に指定されている「拝島のフジ」です。
伝承によると、室町時代末頃にこの地に建っていた明王院の境内に自生していたといわれ、江戸時代初期に明王院が廃寺となった後はフジだけが残り、現在に至ったと伝えられています。

フジは推定樹齢800年ともいわれる巨木で、昭和31年の指定当時には根元の周囲が2.9メートルもあったそうです。

春になると、フジは紫色の蝶形の花が咲き誇ります。
古来より自然暦として農作業や猟期の目安とされ、ホトトギスが来て鳴く木でもありました。
画像は6年前の4月の終わりころに撮影した拝島のフジです。
5月の半ばころなら満開だったかな。。。

東京都の史跡として指定されている「拝島山大日堂」です。
天歴六年(952)、玉川花井の島より大日如来の尊像が出現し、村人が拝んだことから「拝島」の地名が付いたと伝えられており、大日堂の創建も同年であるといわれています。

画像は、拝島山大日堂境内にある「おねいの井戸」です。
昭島市の旧跡に指定されているこのおねいの井戸、は拝島町にある有名な三つの井戸のひとつで、別名「お鉢の井戸 」、「お玉の井戸」とも呼ばれています。室町時代の末期、滝山城主北条氏照の重臣である石田土佐守 が大日堂に娘おねいの眼病の治癒を祈り、この井戸の水で眼を洗ったところ、治ったことが伝えられています。
『新編武蔵風土記稿』には「拝島山大日堂は開基北条氏直の臣、石川土佐守なり、この人の娘七歳の時、眼病を患いて医療すれども効なし、因て此村なる辻堂の大日に祈誓して、扁眼をぞ助かりけるより、信心いよいよ厚く今の堂を創建せりと云」と記されています。

井戸の内部のようすです。
河原石を積み上げた感じがたまらないですね。笑。

日吉神社の二の鳥居です。

富士塚の麓のあたりに、横穴式石室と見間違うような石積みが存在します。
胎内洞窟かなとも思いましたが、よくわからず。これだけ多くの文化財に関する説明板が立ちながら、富士塚に関する説明板は残念ながら存在せず詳細のわからない富士塚です。。。

日吉神社社殿です。
私はこの神社を三回ほど訪れましたが、いつも人が多い印象ですね。
写真を撮るときは、人がいなくなるまで待ってます。笑。

さて、いよいよ富士塚の登場です。
画像は北東から見た富士塚のようすです。
拝島段丘縁辺部に造られており、段丘下から見上げるとかなり大きく見えます。立地的に、元々存在した古墳を流用して築造したのではないかという気がしてならないのですが、発掘調査行われていないことから真相はわかりません。
塚の裾部に大量の河原石が見られるのですが、どんな用途に使われたものか興味深いです。
やはりこの富士塚は古墳で、まさか石室の石材なのでは。。。

北西から見た富士塚。
こちら側は、道路により少々削られているように感じます。

南西から見た富士塚。
特に祠や石碑のような存在は見当たらなかったのですが、塚はフェンスで覆われていて内部に立ち入ることはできないので、このあたりもよくわかりませんでした。富士講によって造られた富士塚ではないのかな?

画像は、日吉神社と並んでひときわ目立つ、同じ奥多摩街道沿いにある「拝島大師南大門」です。拝島大師は、天正6年(1578)創建といわれる天台宗の仏教寺院で、毎年正月の2日、3日に行われるだるま市でも知られる寺院です。

南から見た拝島大師の様子。
ピカピカの五重塔が建っています。
最初に来た時もこんな風景だったかな?と思って調べてみたら、なんと今年、令和元年の建立であるようです。

路傍の御地蔵尊。
上宿の大曲がりに鎮座するお地蔵様と向き合い一対となって拝島宿の東と西の両端から宿場内を見守るために建立されたと伝えられ、この地蔵尊は西を向いています。
明治17年の坂下大火と大正6年の下宿大火の際に、このお地蔵様は街や人々を守るために、火消しに空を飛び回ったという言い伝えが残されています。
昭和30年代の道路整備により現在地に移動したそうです。

参道の二股に分かれた道の間に塚がありました。
私はなぜか、こうしたY字路の間の塚がツボなのです。。。

塚上には多くの石碑が建てられているようです。。。

画像は、塚上に建てられている慶応元年の馬頭尊です。自然石の表面に「馬頭観世音」と、また「慶応紀元歳次乙丑中春吉日」と造立年月日が刻まれているようです。何かの生き物の頭部にしか見えませんね。。。
<参考文献>
昭島市史編さん委員会『昭島市史』
昭島市教育委員会『昭島市の文化財』
東京都神社庁『東京都神社名鑑 下巻』
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- 2019/12/03(火) 23:04:53|
- 昭島市の古墳・塚
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画像は、昭島市田中町1丁目に所在する「庚申塚」です。
きちんと土で盛られた塚が残されているという、貴重な庚申塚です。
実は、この塚の100メートルほど西側に「田中の庚申塔と馬頭尊」が祀られているお堂があり、当初はここが庚申塚かと勘違いして向かっていました。到着直前、自転車でこの塚の横を通り過ぎたところで、「あーっ、塚がある!」と全力で急ブレーキをかけてしまいました。笑。
盛り土が好きなんです。。。

塚上に、地蔵尊や馬頭観世音の像と並んで庚申塔が建てられています。
この笠付きの像塔は、元禄十四年(1701)辛巳一一月朔日と刻まれており、青面金剛、日月、三猿を配しています。青面金剛は六臂の合掌形で四手には剣、宝輪、弓、矢を持っています。

庚申塚と同じ田中町1丁目に所在する「田中の庚申塔と馬頭尊」です。
こちらには塚は存在しませんが、お堂の中に庚申塔と馬頭尊が安置されています。
昭島市教育委員会により設置された説明板には次のように書かれています。
田中の庚申塔と馬頭尊
一面六臂の青面金剛童子を陽刻した庚申塔は、天明
元年(一七八一)に惣村中によつて造立された。二手
は合掌、二手で日、月を支え、二手で弓、矢を持つ。
足下には三猿が刻まれている。市内で九番目に古い。
馬頭観世音の文字を陰刻した馬頭尊は、天保十二年
(一八四一)に田中村の人々によつて造立され、交通
安全の守護神として信仰された。市内では、三番目に
古い。
この二つの塔は通称ぼたもち街道と呼ばれる古道に
あつたが、市道の格巾に伴い現在地に移された。
昭島市教育委員会
<参考文献>
昭島市教育委員会『昭島市の社寺と石造遺物』
現地説明板
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- 2019/12/02(月) 23:58:52|
- 昭島市の古墳・塚
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画像は、昭島市中神町1丁目に所在する「石経塚」です。
『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、塚は今も福厳寺の墓地の裏手の道路沿いに残されています。
「石経塚」という名称からすると、石に経文を記して供養のために築いた江戸時代ころの塚かな?というイメージですが、この中神町の石経塚については、詳細はわかりませんでした。。。

塚上には「石経塚」と刻まれた石碑が建てられています。
<参考文献>
昭島市教育委員会『昭島市の社寺と石造遺物』
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- 2019/11/30(土) 01:44:14|
- 昭島市の古墳・塚
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東京都教育委員会によりネットで公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』には、昭島市拝島町5丁目に「昭島市№32遺跡」という名称の塚が登録されています。
画像は、この「昭島市№32遺跡」ではないかと思われる塚なのですが、あまり確信はありません。以前に職員らしき方に許可を得て見学させていただいたもので、『東京都遺跡地図』、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』ともに残存とされているものの、実際に現地で見学したところでは、直径2mにも満たない、「これが残存?」と思うような小さな塚でした。
奈良時代か平安時代に築造されたと推定されており、土器が出土しているということ以外には情報がなく、ひょっとしたらかつては大きな塚が存在したのかもしれませんが、詳細はわかりません。塚上には小さな2基の石碑が建てられています。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2019/11/28(木) 22:49:46|
- 昭島市の古墳・塚
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東京都教育委員会によりネットで公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』によると、昭島市宮沢町には「昭島市№37遺跡」という名称の塚が登録されています。画像はこの「昭島市№37遺跡」の所在地と推定される地点です。
『東京都遺跡地図』では「消滅」とされており、実際に現地を訪れてみてもすでに塚を見ることはできませんが、跡地とされる地点にはわずかな地膨れがみらるのですが、これが塚の痕跡であるのかどうか、詳細は不明です。
『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の「多摩地区所在の塚一覧」の備考欄には「経塚という云い伝えあり。」と書かれているのですが、かつてはこの地域の北側が「経塚上」、南側が「経塚下」という小字名で呼ばれていたことを考えると、この場所に存在したという「経塚」が地名の由来である可能性も考えられます。
南に270メートルほどの地点には「経塚下古墳」という7世紀後半の古墳の石室が確認されています。この場所に存在したという経塚が古墳であったという可能性も考えられるところなのですが、詳細はわかりませんでした。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2019/11/27(水) 23:07:20|
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