
この古墳は多摩川左岸の拝島段丘上に位置しており、段丘崖から北に約40mの地点に所在しています。昭島市田中町にある、昭島市の遺跡番号43番の古墳です。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、この周辺は浄土寺があったところと伝えられており、昭和50年の最初の調査は、その浄土寺があったと推定される一角が宅地化されるための寺院址存否の確認調査であったそうです。すでに墳丘は削平されて平坦であったため古墳の存在は予測されず、その試掘の際に偶然発見されたのがこの「浄土古墳」です。
石室の遺存状況が極めて良かったため昭島市が周辺294㎡を買収し、昭和53年7月15日に昭島市の史跡に指定するとともに遺跡公園として整備されて保存されています。画像はその遺跡公園を東から見たところです。

この古墳の主体部は地表面下にあり、長さ7m、幅2mの「竪穴式石室的横穴式石室」と呼ばれる、この地域特有の終末期古墳です。石室の天井石の存在が疑問視されており、石材以外のものを使用した可能性があるようで、八王子市の船田古墳などに同様の可能性が指摘されていますが、あきる野市の瀬戸岡古墳群の中には蓋石をのせたものも存在しています。墳丘は低い封土の存在が考えられているものの、周溝等は確認されていないようです。築造は7世紀後半と推定されています。

その後の昭和56年から57年にかけての調査により新たに浄土2号墳〜5号墳の4基の古墳が発見されており、この古墳群は「浄土古墳群」と呼ばれています。
ちなみに、1995年に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の「浄土古墳群 浄土4号墳」の項に、”公園に移築して保存”という記述があり、『昭島市浄土古墳群 1983.3』では”4号墳を1号墳の東の空き地に移築した”とあるのですが、この「空き地」がどこにあるのかは残念ながら謎でした。。。
<参考文献>
昭島市教育委員会『東京都昭島市田中町浄土古墳 1979.3』
昭島市教育委員会『昭島市浄土古墳群 1983.3』
昭島市史編さん委員会『昭島市史』
昭島市教育委員会『考古学からみた昭島市』
現地説明板
- 2013/06/11(火) 02:18:52|
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画像は、昭島市昭和町にある「富士塚」を南西から見たところです。
この塚の頂部にはふたつの祠が祀られています。ひとつは、この富士塚の名前の由来となっている「富士浅間社」の祠で、もうひとつが「惣十稲荷(天珠惣十稲荷大明神)」の祠です。この富士塚は古墳ではありませんが、惣十稲荷の名前の由来がとても興味深かったので、紹介してみたいと思います。
時に江戸時代後期の天保5年(1834年)、上川原村の百姓である「権八」の女房「しま」が大病にかかり、治療に手を尽くしたものの病は悪くなるばかりだったそうです。年が明けて天保6年(1835年)正月4日に突然この「しま」に稲荷が乗り移り、「名主七郎右衛門に頼みたいことがあるからぜひ呼び寄せてほしい」と口走り始めました。早速名主の家に使いを出したものの、正月だったこともあり名主の家には年始客があり、断られてしまいます。しかし、しまに乗り移った稲荷は次第に騒ぎ始めて手に負えなくなり、名主七郎右衛門は権八宅を訪れて事情を聞いたそうです。
しまに乗り移った稲荷曰く、―私は肥後国(熊本県)の生まれだが、訳あって今は仙元山(富士塚)に住んでいる。しかし、まだ誰にも知られずお宮もないままである。もし仙元山にお宮を建ててくれれば、しまの病気は全快させたうえに、村中の安全を保とう。お宮の名前は「惣十稲荷」にして欲しい。―と七郎右衛門に告げたそうです。早速、七郎右衛門は村の役人と相談して富士塚に祠を建てて祀ったところ、しまの病気はたちどころに全快したのだそうです。

面白いのは、この話は伝説や作り話ではなく事実なのだそうで、事のてん末を明記した代官所へ報じた届書が今でも現存するそうです。知られざる東京のパワースポットといえるかもしれませんね。
ちなみにその後の惣十稲荷は噂が広まり、多くの参拝客が押し寄せるなど大流行となりますが、この盛況も長くは続かず半年後には平穏を取り戻したそうです。
今でも稲荷は祠の中から人々を見守っているのでしょうか。。。


同じ昭島市の拝島町にも富士塚といわれる塚があります。
<参考文献>
昭島市教育委員会『路傍の文化財 増補第二版』
昭島市民図書館『広報あきしま ふるさと散歩道』
- 2013/06/02(日) 02:05:45|
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