
画像は、昭島市田中町2丁目と昭島市田中町2丁目の境となる、通称「浄土坂」と呼ばれる道です。多摩川の沖積面から、比高差約5メートルほどの拝島段丘の台地上へと通じる切り通しとなっている道路です。
この周辺からは、計5基の古墳が発掘調査により確認されており、「浄土古墳群」と呼称されています。
最初に発見された1号墳は、昭和50年10月の開発に伴う事前調査により確認されたものです。この古墳は、石室の遺存状況が極めて良かったことから昭島市により周辺294㎡が買収され、遺跡公園として整備されて、石室は原位置に保存されています。
その後、昭和56年(1981)12月に行われた第二次調査により2号墳が、翌57年(1982)に行われた第三次調査により3号墳から5号墳の3基が確認されています。
画像の「浄土坂」を登り切った西側に、「浄土古墳群1号墳」が保存されている史跡公園の所在地です。

この地は古くから「浄土」という字名で呼ばれており、浄土寺という寺院の跡地であると推定されていました。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の項には
浄土 田中村と犬牙せし地にあり、この所に古碑数十基あり、大抵断折して全形のもの少し、文字も??してさだかならず、其中永和四年・貞治元年、或は永享・延文等の文字みゆるものあり、土人の話に古こゝに浄土寺といへる台宗の古刹在しが、其廃跡ゆへに此名ありと云
と書かれています。
昭和50年に行われた最初の調査は、その浄土寺があったと推定される一角の宅地化に伴う寺院址存否の確認調査であ理、古墳は、すでに墳丘が削平されて平坦であったことから存在が予測されず、その試掘の際に予期せぬ古墳の発見となったようです。
画像が、1号墳が保存されている遺跡公園です。

この古墳の主体部は、地表面下に玉石を積んでつくった、「竪穴式石室的横穴式石室」と呼ばれるこの地域特有の終末期古墳です。主体部は、全長約6メートル、幅2メートルの長方形で、奥壁は凝灰岩砂岩の一枚岩です。
石室の天井石の存在が疑問視されており、石材以外のものを使用した可能性があるようで、八王子市の船田古墳などに同様の可能性が指摘されていますが、あきる野市の瀬戸岡古墳群の中には蓋石をのせたものも存在しています。墳丘は低い封土の存在が考えられているものの、周溝等は確認されていないようです。築造は7世紀後半と推定されています。
細長い河原石が積み上げられた側壁は5〜7段が残存していたそうです。
石室は、石積みの上部が露出するような形で保存されたそうですが、現状は形状もよくわからない状況で、石材が散乱しています。これは、公園内の清掃が行われる際に、石材が公園の隅に打ち捨てられてしまったのだそうです。状況を知らない人が良かれと思ってしたこととは思いますが、なんとか復元して良い公開の方法がないものかと思います。。。

これが取り除かれてしまった石材ですね。多分。。。

公園内には「郷土古墳発掘時のようす」という説明板が設置されており、1号墳、4号墳、5号墳の主体部の形状を見ることができます。

昭島市指定史跡 浄土古墳(1号墳)
浄土1号墳は、「浄土寺址」と伝承されるこの地から、昭和50年(一九五七)に発見され、市史跡として埋蔵保存されている。石室は地表下につくられた、横穴式石室。
規模は、長さ5m、床面の幅65〜100cm、胴張する平面形。奥壁は一枚石を用い、側壁は河原石が5〜6段、せりだし状に小口積され、入口も石でふさがれている。
天井や周溝は不明であるが、低い盛り土があったと思われる。内部からは金銅製耳飾り一対が発見された。
また、昭和56年(一九八一)には、周辺から4基の小石室が発見され、浄土古墳群と呼ばれている。この古墳群は、7世紀後半の築造とされ、類例はあきる野市瀬戸岡古墳群などにみられ、多摩地域の特徴的な終末期古墳である。
平成18年3月 昭島市教育委員会
石室の全長は、報告書では6メートル、説明板では5メートルになっているのですが、どちらかが間違いなのでしょうか。。。

画像は、同じ公園内に移築された「経塚下古墳」が保存されている地点です。これは、昭島市教育委員会発行の『東京都昭島市田中町浄土古墳』という報告書の5ページに掲載の「遺跡測量図」に「経塚下古墳移築地」とはっきり書かれていますので、この場所で間違いないと思われます。
ちなみにこの日は草ボウボウで、よくわかりませんでした。
そしてもう1基、浄土古墳群4号墳もこの公園内のどこかに移築されているはずで、『昭島市浄土古墳群』には「4号墳を1号墳の東の空き地に移築した」とあり、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にも「公園に移築して保存」という記述が見られます。
実は今年、東京都文化財ウィークの文化財講演会、「考古学からみた多摩川 中流域と昭島の歴史」に参加して、和田哲先生のお話を聞くことができました。和田先生もやはり、1号墳ともう1基、小石室を移築した、とおっしゃっておられました。それで、講演会終了後にこの場所を再訪してみたわけなのですが、やはりこの小石室の保存場所はよくわかりませんでした。。。
<参考文献>
昭島市教育委員会『東京都昭島市田中町浄土古墳』
昭島市教育委員会『昭島市浄土古墳群』
昭島市史編さん委員会『昭島市史』
昭島市教育委員会『考古学からみた昭島市』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
現地説明板
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- 2019/12/09(月) 23:46:12|
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昭島市内には、前回の直刀出土地点とは別にもう1ヶ所、直刀の出土が伝えられる地点が存在します。『東京都遺跡地図』には昭島市の遺跡番号21番に登録されている古墳で、昭和53年に発行された『昭島市史』には「広福寺台古墳」の名称で紹介されています。
『昭島市史』によると、ゴボウの収穫中に地下1.2~1.3mの位置に河原石を敷いた穴4個が発見され、その穴の一つに大石の置かれたものがあり、その大石の下に直刀一口を素焼きの茶碗2~3個があったそうです。茶碗は残念ながら捨てられてしまったそうですが、直刀は今も広福寺に保管されているそうです。出土地点は多摩川低地に突出する広福寺台のほぼ中央で、付近には縄文式土器、土師器、須恵器が散乱していたようです。
『昭島市史』では、古墳であるという決め手には欠けるものの、経塚下古墳と比較したときに河原石積の小規模石室が想定できることから、墳丘の存在しない石室のみの古墳だったのではないかと推定しています。

古墳が存在する広福寺台を低地から見上げたところです。かなり段差があることがわかります。
見学の際の表面観察では、古墳らしき高まりはやはり存在しないようでしたが、石室が発見された位置が地下1.2~1.3mという報告からすると、現在も地中に石室が残されている可能性は高そうです。また、古墳は1基のみでなく複数基存在する可能性も想定されますし、今後の調査の進展が楽しみな地域ですね。

広福寺台古墳所在地の南東、昭島市福島町2丁目に所在する廣福寺です。
最初にこの地域を散策した際に、このお寺に富士講碑が存在するということで、見学しました。

富士講碑です。
何かの本を読んで存在を知って、見学に立ち寄ったように記憶していますが、何の本だったか忘れてしまいました。。。
<参考文献>
昭島市史編さん委員会『昭島市史』
昭島図書館「ふるさと散歩道」『広報あきしま 48年7月号』
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- 2019/12/07(土) 21:51:02|
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「経塚下古墳」は、昭島市宮沢町の拝島段丘上縁辺部に位置する古墳で、昭和51年(1976)7月~8月にかけて行われた「経塚下遺跡」の調査により発見された古墳です。『東京都遺跡地図』には、昭島市の遺跡番号46番に登録されている古墳です。
この古墳は、墳丘はすでに削平されていたものの、築造当時には封土があったのではないかと考えられているようです。周溝が検出されなかったことから、規模については不明とされています。
長径2.1m、幅40~60cmとかなり小形の竪穴式石室が検出されており、河原石積みで胴張りの形状は周辺の浄土古墳などと同様の終末期古墳でされています。側壁近くからは鉄鏃や刀子などが発見されており、この出土した五角形の鉄鏃から、古墳は7世紀後半に築造されたと推定されているようです。
画像は、経塚下古墳の跡地周辺の様子です。残念ながら古墳の痕跡は何も見当たらないようです。

古墳が所在する拝島段丘から、多摩川の沖積低地を見下ろしたところ。
新奥多摩街道が切り通しとなっていて、かなり高低差があるのがわかります。
多摩川中流域左岸の、昭島から調布あたりにかけての古墳の分布は、まるで崖から何十メートル以内というふうに、取り決めでもあったかのように段丘縁辺部に集中しています。そして、狛江市内に入ると、このルールの適用外であるかのように広域に古墳が分布するわけですが、これはとても興味深いです。。。

昭島市郷土資料室で公開されていた、発掘当時の経塚下古墳の石室の様子です。

道路工事によって消滅する運命にあったこの古墳の石室は、「浄土古墳」の史跡公園内に移築・保存されています。画像が、経塚下古墳の石室が保存されている場所です。つまりは、この史跡公園内に「浄土1号墳」、「同4号墳」、「経塚下古墳」の3基の古墳の石室が保存されているということになります。

おそらくは、この経塚下古墳の説明板が設置されていたのではないかと推測されますが、残されているのは骨組みのみで、説明板自体は崩壊してしまったようです。
<参考文献>
東京都昭島市経塚下遺跡調査会『経塚下遺跡』
昭島市教育委員会『考古学からみた昭島市』
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- 2019/12/06(金) 23:14:41|
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昭島市は、立川段丘、青柳段丘、拝島段丘という、多摩川に面する3つの段丘によって構成されています。昭島市内の古墳のすべては、このうち最も低位の拝島段丘面で確認されています。
「大神古墳」は、昭島市大神町3丁目、拝島段丘の東端に位置する古墳で、平成7年(1995)7月のマンション建設における事前調査で発見されています。『東京都遺跡地図』には、昭島市の遺跡番号44番に登録されている古墳です。
この古墳名となっている「大神」は、『日本霊異記』に登場する「鴨の里」に否定されているという、古代との関連が想定される地域です。戦時中には、土地所有者により直刀2振が発見された地域であり、この場所も石室などが発見される可能性が想定されていたようです。
7月から本調査が行われると、やがて石室側壁が確認され、さらに内部の土が掘り下げられると直刀が発見されました。
墳丘の規模は直径14mの円墳で、周囲に幅175cmの周溝がめぐらされていました。埋葬施設は河原石乱積みの胴張構造の横穴式石室で、太刀や鉄鏃、砥石などが出土しています。また、周溝から出土した土師器等によって7世紀前半に築造されたと推定されています。
画像は、大神古墳の跡地周辺の様子です。古墳はマンション建設のため消滅しています。
実は2年ほど前、michikusa520さんの「滋味コフン」というサイトで、古墳の跡地であるマンションの横に怪しいマウンドがあることが書かれているのを拝見しました。「しまった。ぼんやりしていて全然気がつかなかった。。。」と後悔しても後の祭り。すっと気になりつつもなかなか見に行くチャンスがなかったのですが、昭島市の文化財講演会に参加したのをきっかけに、その足で確認に行ってみました。
「むーん、確かにある。」
図書館で調べてもネットで検索しても何も出てこないので、土地の所有者かと思われるお宅で聞いてみたのですが。。。
結論として、耕作に邪魔な石や残土を積み上げた山であるということでした。(がっくし。。。)

JR昭島駅から徒歩5分。
昭和町1丁目の昭島市郷土資料室では、大神古墳から出土した直刀が公開されています。

大神古墳出土の直刀です。
長さ2.35cmの玄室には扁平な河原石が敷き詰められており、その上から発見されたそうです。直刀の長さは92cmあります。
大神古墳は、35cmの基準尺で整然と設計されていることがわかっており、被葬者はこの地域の有力者であったと考えられています。

石室内から直刀が出土した状態の、発掘当時の写真が公開されていました。
<参考文献>
昭島市教育委員会・昭島市大神古墳発掘調査団『大神古墳』
昭島市教育委員会『考古学からみた昭島市』
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- 2019/12/05(木) 23:50:02|
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昭島市内では、浄土古墳群(1〜5号墳)、経塚下古墳、大神古墳といった古墳が知られています。いずれもこれまで行われた発掘調査により確認された古墳ですが、他に田中町、大神町周辺では小さな古墳が点在した形跡が見られるようです。
画像は、昭島市田中町2丁目の古墳推定地周辺のようすです。
戦前の昭和15年(1940)、都道改修工事の際に直刀が出土したとされる場所ですが、残念ながらこの直刀はかなり腐食していてボロボロに崩れてしまい、現存しないようです。
『東京都遺跡地図』の昭島市の遺跡番号21番に登録されている「広福寺台古墳」は、やはり直刀が出土したという古墳ですが、こちらは直刀が現存しています。『東京都遺跡地図』への登録は、この直刀が現存するか否かの違いによるものと考えられますが、田中町周辺に未発見の古墳が存在した可能性は高そうです。。。
<参考文献>
昭島図書館「ふるさと散歩道」『広報あきしま 48年7月号』
昭島市教育委員会『東京都昭島市田中町浄土古墳』
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- 2019/12/04(水) 23:27:34|
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画像は、昭島市拝島町1丁目の「日吉神社」を南から見たところです。
『東京都神社名鑑』によると、この神社の創建は村上天皇の天暦年間(947~957)といわれており、祭神は大山咋命、香山戸命、羽山戸命です。江戸時代の享保17年(1732)に大日堂が改修されており、寛保元年(1741)に山王社宗源の宣旨を賜い「山王大権現」の社号が許され、ついで嘉永4年(1851)9月1日に社殿再建の工事が行われています。延1732人の大工が動員され、470余両の総経費を支出して、翌年(1852)9月9日に現在の社殿が完成しています。
赤坂の日枝神社と同様に、この日吉神社も「拝島の山王さん」と呼ばれて親しまれているそうです。
赤坂の日枝神社には、一説には古墳が存在すると言われているようですが、この神社の境内には富士塚が所在します。
「浄土古墳」、「大神古墳」、「経塚下古墳」といった昭島市内に所在する古墳と同様に、多摩川中流域左岸の拝島段丘縁辺部に所在するこの富士塚が、元々存在した古墳を流用して造られた塚である可能性はないのでしょうか。。。

この日吉神社とその周辺は文化財が盛りだくさんという状況で、いたるところに説明板が設置されています。画像は、東京都の天然記念物に指定されている「拝島のフジ」です。
伝承によると、室町時代末頃にこの地に建っていた明王院の境内に自生していたといわれ、江戸時代初期に明王院が廃寺となった後はフジだけが残り、現在に至ったと伝えられています。

フジは推定樹齢800年ともいわれる巨木で、昭和31年の指定当時には根元の周囲が2.9メートルもあったそうです。

春になると、フジは紫色の蝶形の花が咲き誇ります。
古来より自然暦として農作業や猟期の目安とされ、ホトトギスが来て鳴く木でもありました。
画像は6年前の4月の終わりころに撮影した拝島のフジです。
5月の半ばころなら満開だったかな。。。

東京都の史跡として指定されている「拝島山大日堂」です。
天歴六年(952)、玉川花井の島より大日如来の尊像が出現し、村人が拝んだことから「拝島」の地名が付いたと伝えられており、大日堂の創建も同年であるといわれています。

画像は、拝島山大日堂境内にある「おねいの井戸」です。
昭島市の旧跡に指定されているこのおねいの井戸、は拝島町にある有名な三つの井戸のひとつで、別名「お鉢の井戸 」、「お玉の井戸」とも呼ばれています。室町時代の末期、滝山城主北条氏照の重臣である石田土佐守 が大日堂に娘おねいの眼病の治癒を祈り、この井戸の水で眼を洗ったところ、治ったことが伝えられています。
『新編武蔵風土記稿』には「拝島山大日堂は開基北条氏直の臣、石川土佐守なり、この人の娘七歳の時、眼病を患いて医療すれども効なし、因て此村なる辻堂の大日に祈誓して、扁眼をぞ助かりけるより、信心いよいよ厚く今の堂を創建せりと云」と記されています。

井戸の内部のようすです。
河原石を積み上げた感じがたまらないですね。笑。

日吉神社の二の鳥居です。

富士塚の麓のあたりに、横穴式石室と見間違うような石積みが存在します。
胎内洞窟かなとも思いましたが、よくわからず。これだけ多くの文化財に関する説明板が立ちながら、富士塚に関する説明板は残念ながら存在せず詳細のわからない富士塚です。。。

日吉神社社殿です。
私はこの神社を三回ほど訪れましたが、いつも人が多い印象ですね。
写真を撮るときは、人がいなくなるまで待ってます。笑。

さて、いよいよ富士塚の登場です。
画像は北東から見た富士塚のようすです。
拝島段丘縁辺部に造られており、段丘下から見上げるとかなり大きく見えます。立地的に、元々存在した古墳を流用して築造したのではないかという気がしてならないのですが、発掘調査行われていないことから真相はわかりません。
塚の裾部に大量の河原石が見られるのですが、どんな用途に使われたものか興味深いです。
やはりこの富士塚は古墳で、まさか石室の石材なのでは。。。

北西から見た富士塚。
こちら側は、道路により少々削られているように感じます。

南西から見た富士塚。
特に祠や石碑のような存在は見当たらなかったのですが、塚はフェンスで覆われていて内部に立ち入ることはできないので、このあたりもよくわかりませんでした。富士講によって造られた富士塚ではないのかな?

画像は、日吉神社と並んでひときわ目立つ、同じ奥多摩街道沿いにある「拝島大師南大門」です。拝島大師は、天正6年(1578)創建といわれる天台宗の仏教寺院で、毎年正月の2日、3日に行われるだるま市でも知られる寺院です。

南から見た拝島大師の様子。
ピカピカの五重塔が建っています。
最初に来た時もこんな風景だったかな?と思って調べてみたら、なんと今年、令和元年の建立であるようです。

路傍の御地蔵尊。
上宿の大曲がりに鎮座するお地蔵様と向き合い一対となって拝島宿の東と西の両端から宿場内を見守るために建立されたと伝えられ、この地蔵尊は西を向いています。
明治17年の坂下大火と大正6年の下宿大火の際に、このお地蔵様は街や人々を守るために、火消しに空を飛び回ったという言い伝えが残されています。
昭和30年代の道路整備により現在地に移動したそうです。

参道の二股に分かれた道の間に塚がありました。
私はなぜか、こうしたY字路の間の塚がツボなのです。。。

塚上には多くの石碑が建てられているようです。。。

画像は、塚上に建てられている慶応元年の馬頭尊です。自然石の表面に「馬頭観世音」と、また「慶応紀元歳次乙丑中春吉日」と造立年月日が刻まれているようです。何かの生き物の頭部にしか見えませんね。。。
<参考文献>
昭島市史編さん委員会『昭島市史』
昭島市教育委員会『昭島市の文化財』
東京都神社庁『東京都神社名鑑 下巻』
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- 2019/12/03(火) 23:04:53|
- 昭島市の古墳・塚
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画像は、昭島市田中町1丁目に所在する「庚申塚」です。
きちんと土で盛られた塚が残されているという、貴重な庚申塚です。
実は、この塚の100メートルほど西側に「田中の庚申塔と馬頭尊」が祀られているお堂があり、当初はここが庚申塚かと勘違いして向かっていました。到着直前、自転車でこの塚の横を通り過ぎたところで、「あーっ、塚がある!」と全力で急ブレーキをかけてしまいました。笑。
盛り土が好きなんです。。。

塚上に、地蔵尊や馬頭観世音の像と並んで庚申塔が建てられています。
この笠付きの像塔は、元禄十四年(1701)辛巳一一月朔日と刻まれており、青面金剛、日月、三猿を配しています。青面金剛は六臂の合掌形で四手には剣、宝輪、弓、矢を持っています。

庚申塚と同じ田中町1丁目に所在する「田中の庚申塔と馬頭尊」です。
こちらには塚は存在しませんが、お堂の中に庚申塔と馬頭尊が安置されています。
昭島市教育委員会により設置された説明板には次のように書かれています。
田中の庚申塔と馬頭尊
一面六臂の青面金剛童子を陽刻した庚申塔は、天明
元年(一七八一)に惣村中によつて造立された。二手
は合掌、二手で日、月を支え、二手で弓、矢を持つ。
足下には三猿が刻まれている。市内で九番目に古い。
馬頭観世音の文字を陰刻した馬頭尊は、天保十二年
(一八四一)に田中村の人々によつて造立され、交通
安全の守護神として信仰された。市内では、三番目に
古い。
この二つの塔は通称ぼたもち街道と呼ばれる古道に
あつたが、市道の格巾に伴い現在地に移された。
昭島市教育委員会
<参考文献>
昭島市教育委員会『昭島市の社寺と石造遺物』
現地説明板
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- 2019/12/02(月) 23:58:52|
- 昭島市の古墳・塚
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画像は、昭島市中神町1丁目に所在する「石経塚」です。
『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、塚は今も福厳寺の墓地の裏手の道路沿いに残されています。
「石経塚」という名称からすると、石に経文を記して供養のために築いた江戸時代ころの塚かな?というイメージですが、この中神町の石経塚については、詳細はわかりませんでした。。。

塚上には「石経塚」と刻まれた石碑が建てられています。
<参考文献>
昭島市教育委員会『昭島市の社寺と石造遺物』
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- 2019/11/30(土) 01:44:14|
- 昭島市の古墳・塚
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東京都教育委員会によりネットで公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』には、昭島市拝島町5丁目に「昭島市№32遺跡」という名称の塚が登録されています。
画像は、この「昭島市№32遺跡」ではないかと思われる塚なのですが、あまり確信はありません。以前に職員らしき方に許可を得て見学させていただいたもので、『東京都遺跡地図』、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』ともに残存とされているものの、実際に現地で見学したところでは、直径2mにも満たない、「これが残存?」と思うような小さな塚でした。
奈良時代か平安時代に築造されたと推定されており、土器が出土しているということ以外には情報がなく、ひょっとしたらかつては大きな塚が存在したのかもしれませんが、詳細はわかりません。塚上には小さな2基の石碑が建てられています。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2019/11/28(木) 22:49:46|
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東京都教育委員会によりネットで公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』によると、昭島市宮沢町には「昭島市№37遺跡」という名称の塚が登録されています。画像はこの「昭島市№37遺跡」の所在地と推定される地点です。
『東京都遺跡地図』では「消滅」とされており、実際に現地を訪れてみてもすでに塚を見ることはできませんが、跡地とされる地点にはわずかな地膨れがみらるのですが、これが塚の痕跡であるのかどうか、詳細は不明です。
『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の「多摩地区所在の塚一覧」の備考欄には「経塚という云い伝えあり。」と書かれているのですが、かつてはこの地域の北側が「経塚上」、南側が「経塚下」という小字名で呼ばれていたことを考えると、この場所に存在したという「経塚」が地名の由来である可能性も考えられます。
南に270メートルほどの地点には「経塚下古墳」という7世紀後半の古墳の石室が確認されています。この場所に存在したという経塚が古墳であったという可能性も考えられるところなのですが、詳細はわかりませんでした。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2019/11/27(水) 23:07:20|
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