
画像は、大田区本羽田3丁目にある「羽田神社」です。
御祭神は須佐之男命、稲田姫命で、羽田の氏神様として羽田全域から現羽田空港まで広く氏子を有している羽田総鎮守です。
この神社の境内には「羽田富士」と呼ばれる富士塚が所在します。

羽田神社の社殿と境内のようすです。
私はまだ参加したことがないのですが、この神社の例大祭はなかなか凄そうで、神輿の担ぎ手だけで三千人、三万人もの見物人が訪れて賑わうそうです。通称「ヨコタ」という担ぎ方で、神輿を左右90度に倒して大きくローリングしながら進むという独特な担ぎ方をするそうなのです。活気のあるお祭りはエネルギーをもらえるし、一度見に行きたいですよね。。。

社殿の左奥、画像の鳥居をくぐると羽田富士塚です。
大田区教育委員会により説明板が設置されており、次のように書かれています。
大田区文化財 富 士 塚
富士塚は、富士山の信仰団体である富士講の講員たちが、実際の富士山に登れない者のために、富士山を模して築いた人工の小山である。この塚は、大田区で唯一の存在で、俗に「羽田富士」と呼ばれ、明治初年に築造されたと伝えられる。
富士講の人々が富士山に見立てた富士塚を登詣する習俗は、江戸中期の安永(1772~1780)の頃から、関東を中心として各地に起こったといわれる。羽田ではこの習俗が昭和50年代頃まで、毎年七月一日の山開きに行われていた。
昭和四十九年二月二日 指定 大田区教育委員会
この富士塚は、昨年の東京都文化財ウィークの「よみがえる羽田富士~羽田神社富士塚の謎にせまる」に参加して、見学しました。ただし、この時期はちょうど富士塚を解体して整備を進めている真っ最中で、富士塚は画像のような感じ。しかも、結構な強い雨が降る中で、傘を差しての見学という状況でしたが。。。

画像は、2020年2月の富士塚。すでに綺麗に整備されているようです。
残念ながらまだ登拝はかなわない状況でした。
ちょっと気が早すぎたな。。。笑。

御朱印をいただきました。
羽田神社のと羽田富士塚のもの、2種類あります。
最初のが羽田神社の御朱印です。.゚+.(・∀・)゚+.

2枚目が羽田富士塚の御朱印です。.゚+.(・∀・)゚+.
<参考文献>
現地説明板
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- 2020/03/07(土) 21:48:52|
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画像は、大田区北嶺町に鎮座する「御嶽神社」です。
通称「嶺の御嶽山」とも呼ばれるこの神社は、天文4年(1535)の創始といわれています。
木曽御嶽山などで修行を積んだと伝えられる一山行者(いっさんぎょうじゃ)が神の示現の地として、天保2年(1831)に社殿を建立したと伝えられており、その後、この御嶽神社は木曽御嶽山の関東第一分社とも呼ばれるようになり、関東一円から人々を集めるほどになったそうです。

画像が御嶽神社本社殿のようす。大田区の指定文化財となっています。
私、三回お参りしましたが、いつも参拝客の絶えない活気のある神社で、きっと地元で暮らす人たちと繋がっている!(気がします!パワースポットというか、絶対神様、います!)
創建は天文4年(1535)とされているものの詳細はわからないようですが、手水石に明和8年(1771)と刻まれていることから、遅くともこの時期に神社が存在していたことは間違いないようです。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「御嶽社 見捨地四畝、これも村の北にあり、小祠なり」と記されています。

注目すべきはこの狛犬。御嶽神社の狛犬は山犬(狼)なのです。
見分け方として、脇腹にアバラを表した線が掘られていますよね。そして、狐と違ってキバがありますし、耳も寝ています。
このことにより、この神社は元々は木曽御嶽ではなく、武州御嶽神社だったのではないかと推測されており、つまりは武州御嶽山(みたけさん)の信仰があったところに木曽御嶽山(おんたけさん)の信仰が重なったものではないかと考えられているようです。

御嶽神社末社、一山神社祖霊社です。
国登録有形文化財となっている建築物で、御嶽神社創建における最大の功労者である一山行者を祀った祖霊堂として、社殿に並行するように建立されています。
設置された説明板には次のように書かれています。
一山霊神事績
この一山神社の御祭神は一山(イッサン)霊神。俗名は治兵衛。
神奈川県津久井村の出身で、埼玉県与野に移り井原家に婿入
りしたが『下化衆生』の本願を叶えようと井原家を離れて同
地の円乗院で僧となる。仏門修行の後諸国を行脚し三峰の修
験道の道場を訪れ、また覚円峯に行き仙峨の滝で心身を清め、
木曽駒ケ岳を経て木曽の御嶽に入った。一山行者は大滝口よ
り清滝に至り、柴の庵を結び不動滝で寒三十日の水行などを
した。ある夜ふと夢を見た。御嶽三社の大神達が現れて「早々
下山し世間大衆の苦悩を救え、幸い汝に因縁の地あり、都を
去る三里。」と述べた。一山行者は山を降り江戸へ向かう。そ
して御嶽の神々の教えを広めながら近郷近在を歩いているう
ちに、武州荏原郡嶺村に来て、御嶽の小社を発見「これぞ木
曽御嶽の大神に示現したところ…」とこの地に庵を結ぶ。付
近の人は一山行者を「偉い行者」と崇め信者も増え、進徳講
話、参詣聴聞などを行い確固たる地盤を築くに至った。天保
二年(一八三一)社殿を新築し、布教怠を続けたが、嘉永四年
(一八五一)十二月二十日、神田見富家の隠宅で没す。
行年は定かではない。
〈一山御歌〉
無の上に 浮きて楽しむ心こそ 誠の道の宝なりけり
宗教法人 御嶽神社
東京嶺一山講
水行堂です。
御嶽信仰は、水行を重要な求道と潔斎の行事としており、御嶽神社の信徒が心身を清めるためにここで水垢離を行なったといわれています。
この水行堂も国登録有形文化財となっている建築物です。

大きな木が立っている場所が「霊神塚」です。
かつてはここに大きな塚があり、その周囲には「霊神碑」と呼ばれるたくさんの石碑が建てられていました。
霊神碑は今は「霊神の杜」と呼ばれる社殿の背後の一角に移されていますが、この場所には今も塚の名残が残されています。

画像が、現在の霊神塚を北から見たところ。
周囲は削られているようですが、塚の中央から東側が残されていて、古木が立っています。
実は、昨年の東京都文化財ウィークの「嶺の御嶽山と一山行者」の関連イベントに参加して、特別展の舞台でもあるこの御嶽神社と北嶺町周辺を散策しました。そこで、学芸員の先生にこの霊神塚についてお尋ねしましたが、近世に造られた塚であることがわかっていて、古墳とは無関係であるということです。
したがって、『東京都遺跡地図』にも登録されていないようです。

霊神の杜。
すごい数の霊神碑が建てられています。
かつては霊神塚とその周囲にあったものです。

さて、旧嶺村の古くからある集落の周囲には「嶺の四庚申」と呼ばれる4基の庚申塔があり、これは四方除けのために配置されたものであるといわれています。この4基の庚申塔はいずれも駒形で正面金剛の立像が刻まれており、いずれも覆屋内に置かれていることが共通しています。
昨年の東京都文化財ウィークの「嶺を歩く」では、御嶽神社に関連するこの「嶺の四庚申」についても、学芸員の先生の解説を聞くことができました。記憶が確かなうちに、この嶺の四庚申も取り上げようと思います。

最初の画像は、東嶺町42番地1の庚申塔です。
道路が交差する角、マンションの敷地の一角の覆屋内に建てられています。
元禄13年(1700)の建立で、嶺地区では最も古い庚申塔です。

画像は東嶺町の白山神社。
この神社の境内に、「嶺東向庚申様」とも呼ばれる庚申塔が祀られています。

画像が嶺東向庚申様です。
古くは、神社向かいの、現在のLAWSON大田西嶺町店のあたりにあったそうですが、昭和40年代に行われた環状八号線の工事により白山神社境内に移されています。

正徳3年(1713)建立の庚申塔。
環八の向かいから境内に移された後、境内の中でも場所を変えたそうですが、平成26年(2014)5月に現在地に落ち着きました。今はすごく綺麗に整備されています。。。

白山神社境内の御神木。
樹齢六百年といわれる椨です。
うわー!春頃来ればよかったかなあと思わせる、素晴らしきお姿。
大田区の保存樹に指定されています。

鵜の木1丁目2番地の庚申塔。「嶺北向庚申様」とも呼ばれています。
どこの庚申様も、花が生けてあったりお供え物があったりと、地元の人に大切にされているようですね。。。

享保7年(1722)建立の庚申塔です。
飯島姓3名、長久保姓1名、羽田姓1名、蔵方姓1名、天明姓1名、鈴木姓1名の名前が刻まれているそうです。。。

西嶺町34番地の庚申塔。
旧嶺町の小字である高砂の人々が庚申講を作り、庚申塔を建てたといわれています。「庚申塔の由来」の石碑には「庚申信仰は、江戸時代に民間信仰として栄え、庚申供養塔はその象徴として村の厄災を防ぐため、建てられたという。当地(旧嶺村の高砂)の住民は講をつくり、この庚申塔を建立した。庚申の日に宿(当番)の家に集って談笑し、地域の人々のくらしの無事を祈る風習庚申待は、現在の続いている。」と刻まれています。

この庚申塔のみ、建立年は不明であるようです。

さて、旧嶺村周辺を巡り終わったら、帰りももちろん東急池上線御嶽山駅に戻ります。
画像は「御嶽橋」。
東嶺町42番地1の庚申塔の北側数十メートルのところです。

ここは東海道新幹線が走っているんですよね。
と、言ってるそばから下り線が走ってきました。
まだ本気を出していないかもしれませんが、それでも十分早いです。

「御嶽の霊水」です。
御嶽山駅前のイオンの入り口付近にあり、買い物客の自転車に囲まれてしまって一見目立たないのですが、この地域では見逃してはいけない大事な史跡です!
天保2年(1831)、当時この場所にあった田原屋の主人が、御嶽神社参拝の信者のためにここに禊の井戸を築いたそうです。この井戸水で禊ぎをした信者には霊験極めてあらたかであったため、その噂は近郷近在に伝わり、もらい水をする人も多く、いつしかこの水は御嶽の霊水と呼ばれるようになりました。
二百年近く前に作られた井戸の湧き水ですが、なんと!今も枯れることなく汲み続けられています。

御朱印をいただきました。.゚+.(・∀・)゚+.
大田区の昨年の特別展、「嶺の御嶽山と一山行者」は、展示の内容が質、量ともに素晴らしく、学芸員の先生の調査力は(情熱も含めて)すごいなと感動しました。図録もかなり内容の濃いものでしたし。。。
もっと地域の郷土資料館に多くの人が足を運ぶようになるといいなと思っています。。。
<参考文献>
大田区立郷土博物館『嶺の御嶽山と一山行者』
現地説明板
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- 2020/03/06(金) 22:09:49|
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画像は、大田区南久が原2丁目に所在する「おしゃもじさま」を南西から見たところです。『大田区ホームページ』によると、道祖神とは道路の悪魔を防いで道行く人をお守りする神様であり、「おしゃもじさま(別名ドウロク様)」とも呼ばれるこの道祖神は咳と風邪の神様で、これが祀られているために鵜の木ではチフスが流行しても風邪にかからないともいわれているそうです。この道祖神の背後に現在も残存するのが「大桜大塚」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号165番の”中世の塚”として登録されています。
「大桜大塚」は、新田義興の入定穴であったという伝説が残されており、また義興手植えとされる八重山桜の巨木があったようですが、昭和初期に枯れてしまったそうで今はその姿を見ることが出来ません。古くは「大桜古墳」という名称で、古墳ではないかとも考えられていたようですが、平成4~5年にかけて古代・中世遺跡調査団により調査が行われており、中世の出土品である板碑の存在からこの塚は古代の高塚古墳ではなく中世の塚であると判断されています。またこの調査により、名称が「大桜古墳」から「大桜大塚」へと変更されています。

大桜大塚の周囲は宅地に囲まれており、全容を写真に収めることは出来ません。画像は隙間からわずかに見える塚のようすです。規模は径約10m、高さ2mほどの円形の塚で、頂部に祀られている祠の基壇部に出土した板碑がコンクリートで貼付けられているそうですが、残念ながら見学することは出来ませんでした。
新田義興の入定穴であるともいわれる大桜大塚ですが、出土した板碑の年代は1309年と1320年、1345年の3基で、新田義興が矢口の渡しで憤死した1331年以前の板碑が含まれていることから、塚は南北朝以前の築造であると考えられています。
発掘調査は行われていないようですが、光明寺境内に所在する「荒塚」のように古墳を流用して後世に築造した塚である可能性も残されているように思いますが、このあたりは何ともいえないところです。
<参考文献>
学生社『大田区史跡散歩』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2015/10/26(月) 00:38:50|
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画像は、大田区千鳥町3丁目に所在する「灰塚」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号33番の”中世の塚”として登録されています。
この塚は、久が原台地と鵜の木台地に挟まれた沖積低地に所在します。この周辺に数多く残される新田義興伝説のひとつである、義興を荼毘にふした灰で築いたとの伝承がある塚です。
平成4年の測量の結果、東西9m、南北7m、高さ1.5mと確認されています。翌年に行われた地中レーダー調査では石室や周溝の反応はなかったそうで、盛土内の集石とその下の小さな落ち込みがレーダーの反応として確認されたこととかつて板碑が出土していることから、この塚は古墳ではなく墳墓であると推定されています。
興味深いのは、塚から出土した板碑には義興が生まれたとされる1331年以前の板碑があり、また義興が矢口の渡しで憤死した1358年以前の1367年の板碑もあるのだそうです。つまりは、新田義興を荼毘にふした灰で築いたとの伝説はあまり関係がないのではないかとも考えられているようです。
地中には蔵骨器などが埋まっている可能性もあるそうなので、この辺りは今後の更なる調査を待ちたいところです。

画像は敷地の外側、北西から「灰塚」を見たところです。塚上には大田区の文化財であるシイの古木があり、ひときわ目立ちますます。元々は一本の大木だったそうですが、江戸時代後期に切り倒された後に、新しい8本の太い樹木となったのだそうです。また塚上には祠が祀られており、この中に板碑が納められているそうです。
この土地の方に許可を得て見学させていただきました。ありがとうございました。
<参考文献>
大田区史編さん委員会『大田区史 上巻』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
現地説明版
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- 2015/10/25(日) 00:00:51|
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画像は。大田区下丸子2丁目に所在する「妙蓮塚三躰地蔵」を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には「妙蓮塚」の名称で、大田区の遺跡番号187番の”中世の墳墓”として登録されています。
前々回紹介した「十騎明神塚(十寄神社)」には、新田義興とともに矢口の渡しで討死した従者たちが祀られているといわれていますが、もう一カ所、義興公とともに討死した従者たちが祀られているとされる場所があります。それが今回紹介する「妙蓮塚三体地蔵」です。
敵の謀略にのり、新田義興公が矢口の渡しで暗殺された折、義興公の家臣である土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市川五郎の三人は裸になって太刀を口にくわえ、水の底を潜って岸にかけ上がり、敵の中に切り込んで多くの敵を討ち取り手傷を負わせたものの、3人ともここで討死したといわれています。
その後、正平年間のある暑い夏の日、この地を訪れた尼僧妙蓮が旅の疲れをいやすために木陰で休んでいたところ、新田義興公の家臣の三体の霊が現れ、尼僧の夢枕に立って供養を懇願したそうです。これを哀れんだ尼僧は三体の霊を供養して、三勇士のために地蔵尊を建立して霊を弔ったそうで、後年里人が妙蓮の名をとって「妙蓮塚三体地蔵」と呼ばれるようになったといわれています。

塚上には銀杏の大樹が立ち、夏の暑い日差しを遮るように木陰を作っています。尼僧妙蓮が旅の疲れを癒すために休んだ木陰とは、この塚の場所ではないのかと想像してしまいます。
お地蔵様には浴衣が着せられていて、お茶碗やお水が供えられています。敷地内はきれいに整備されていて、地元の人たちに大切にされているようすが伺えます。

塚上に立てられている「妙蓮塚忠魂碑」です。この塚の由来が刻まれています。
大田区内には、女塚神社(女塚古墳)の「女塚古墳の由緒」の碑、塚越横穴墓群の「無縁霊位」と「由緒」の石碑、金山神社の「古墳由来碑」、三輪厳島神社塚の「古墳各霊乃塚碑」等々、古墳や塚の由来が刻まれている石碑がかなり多く見られますが、それだけ多くの古墳や塚が存在した証であるといえるかもしれませんね。。。
<参考文献>
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
『矢口トーク96 第19号』
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- 2015/10/23(金) 01:12:48|
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画像は、大田区矢口1丁目に所在する「新田神社」を東から見たところです。この神社の敷地内には、新田義興の墳墓であるとされる「新田義興塚」が所在します。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号163番の”中世の墳墓・その他(塚)”として登録されています。
この新田神社は新田義興を祭神とする東京府時代の府社で、周辺地域ではこの新田義興公にまつわるとても有名な伝説が残されています。この伝説は様々な文献で目にすることが出来ますが、ここはひとつ新田神社の由緒に書かれている物語を紹介したいと思います。
由緒
昔、日本中で戦いが続いていた「室町時代」。新田義興公(にったよしおきこう)という、とても強くて勇敢な武将がいました。義興公は新田義貞公(にったよしさだこう)の次男として生まれ子供のころの名前を徳寿丸といいました。青年になった徳寿丸の勇敢な姿を見た後醍醐天皇が武士の位と義興という新しい名前を授けて下さいました。
その頃日本は国が南と北に別れ、争いを繰り返していました。義興公は天王を守るために戦いました。そして、勇気と知恵でどんな大軍にも打ち勝ったので、武将として有名になりました。大勢の敵が襲ってきても義興公が負けることはありませんでした。
敵の武士たちは、義興公のことが怖くてたまりませんでした。そこでいくさでは義興公に勝てないので卑怯な作戦を立てました。敵の竹沢と江戸という武士が見方の降りをして義興公に鎌倉で戦うことを進めました。それを信じた義興公は鎌倉へ行くために多摩川の矢口の渡というところから船に乗りました。ところが義興公の乗った船は敵に襲われて沈んでしまったのです。(1358年10月10日)
義興公が敵に騙されて死んでしまった矢口では、不思議なことが起こりはじめました。夜になると、ぽうっと怪しい光が現れるようになり雷がたびたび落ちるようになりました。それから、もっと不思議なことに、義興公を裏切った人は次々と義興公の怨霊に悩まされ狂死しました。それを見た村人たちは義興公の祟りを鎮めるために義興公の墳墓の前に神社を作ることにしました。
こうして村人たちは新田神社を作り、義興公を「新田大明神」としてあがめたのです。やがて義興公は、村人や旅人の「運を開き守り、幸せに導く霊験あらたかな神様」として人々から広く崇敬されるようになりました。
義興公の物語は江戸時代には平賀源内によって歌舞伎・浄瑠璃「神霊矢口渡」というお芝居にもなり、其の壮絶な生涯は今も語り継がれています。
義興公は、わずか13人の従者とともにこの地に至り、義興公が多摩川の矢口の渡で船に乗ったところを船頭が船底に穴をあけて船は水中に没し、対岸からは江戸氏の軍勢が矢を射かけ、義興公は自刃して果てたといわれています。
周辺地域に残る新田義興公にまつわる言い伝えの数からしても、この出来事は村人たちにとって衝撃的な事件であったのだと思いますが、神社は義興公の祟りを鎮めるために村人たちに築造されたといわれており、塚は義興公の墳墓であるとされています。
画像が「新田義興塚」です。古くは「荒山」、「迷い塚」などとも呼ばれていたそうですが、近年では塚は古墳ではないかとも考えられていたようで、1985年に発行された「都心部の遺跡」ではこの塚は「新田神社裏古墳」という名称で取り上げられており、「塚の可能性が高い」としながらも径22.5mの”円墳”とされています。
塚には他にも多くの言い伝えがあり、塚の真ん中にある「舟形」は、義興公の舟と鎧を埋めたものが杉になったものだといわれていますが、この杉は残念ながら落雷により消失しています。また、塚の後方に映えている竹は源氏の白旗を立てたものが根付いたもので、これは「旗竹」と呼ばれて雷が鳴るとビチビチと割れたといわれています。

「新田義興塚」前に立てられているのは、昭和49年2月に大田区の文化財に指定されている「矢口新田神君之碑」です。延享3年(1746)に石城国(福島県)守山藩主、松平頼寛が造立した碑で、新田義興公の事績と神社創建の由来が記されています。

境内の御神木は、樹齢700年にも及ぶそうです。過去に落雷や戦災によって幹が大きく真二つに裂けてしまいましたが、毎年新緑の季節には青々とした葉を繁らせるそうです。古木上部には、とても珍しい「宿り木(植物の一種)」が生息しており、春には淡黄色の小花が咲くそうです。そして、この御神木に触れると「健康長寿」「病気平癒」「若返り」の霊験があるという古老の言い伝えがあるそうです。
僕もこの御神木にゆっくりと触れてみました。いかにも御利益のありそうな、パワーあふれる大木です。
<参考文献>
学生社『大田区史跡散歩』
東京都大田区『大田区史 資料編 地誌類抄録』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
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- 2015/10/22(木) 02:37:23|
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画像は大田区矢口2丁目に所在する「十寄神社」を西から見たところです。この神社の境内にかつて存在したとされているのが「十騎明神塚」です。
この神社は、新田義興とともに矢口の渡しで討死した従者十人が祀られており、社殿の背後にかつて存在した塚はこの十人の従者が葬られているといわれていました。古くは十騎明神、十騎社とも呼ばれていたそうです。この従者の言い伝えは古くから知られており、江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』には次のように書かれています。
十寄明神社 新田明神より三町ばかり西にあり、義興の具せし従者の霊を祀れり、故に十騎明神といふべきを、いつの頃よりか十寄に書来れりと、又云左にあらず、昔徒寄とかきしとぞ、義興の人徒をあつめて祀りしと云義なりと、いづれもたしかなることなし、ことに【太平記】によれば、従者十三人と云ふ、その人々は世良田右馬助、井弾正忠、大嶋周防守、土肥三郎左衛門、市川五郎、由良兵庫助、同新左門入道信阿、南瀬口六郎、その余り五人の姓名は伝はらずといふ、按に【太平記】異本に、井弾正を井伊弾正興種とあり、【井伊家譜】によれば、弾正左衛門直秀と記せり。又異本【太平記】に市川五郎を五郎右衛門とし、南瀬口六郎が氏を大瀬口とあり、此八人の他に松田与市、宍道孫七、堺壱岐権守、進藤孫六左衛門等四人の姓名を加へ、又十三人といへるをも十二人に作れり、されば普通の本に十三人とあるは字の誤歟、あるひは義興を加へて主従十三人のことなるもしるべからず、是によれば従者は十三人、或十二人なるを十騎と云も疑ふべし、此十三人の人々、義興と同く亡ひしことは已に前に見えたれば略せり、本社二間に九尺、拝殿二間四方前に鳥居をたて十騎明神の四字を扁せり、本社の後背に古塚あり、これ十三人の印の墳にて、そのさま新田の社の塚に似たり、是も真福寺の持(『大田区史 資料編 地誌類抄録』82ページ) これらの伝説は諸説あるようで、もちろんすべての伝説がイコール史実であるとは限らないわけですが、十寄明神社の背後にあったといわれる「十騎明神塚」がどういった性格の塚であったかは、塚が失われてしまった今では知る由もありません。
平成4年(1992)に発刊された『大田区史跡散歩』には「社殿のうしろに古墳があり、これが従者を葬ったところと伝わる」と書かれており、近年までこの塚は残されていたのではないかとも思われるのですが、昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』にはこの塚は取り上げられず、『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号191番の”中世の墳墓”として登録されていますが、古くは柳田国男氏が「十三塚」として取り上げたこともあったようです。残念ながら塚は発掘調査が行われることもなく消滅しています。

画像が、現在の社殿の背後のようすです。すでに塚は削平されて消滅しているようですが、塚の跡地ではないかと思われる敷地は宅地化されずに残されており、いくつかの石造物が立てられているようです。『新編武蔵風土記稿』ではこの塚について「新田の社の塚に似たり」としていますので、この敷地に収まるようではない大きな塚だったのではないかと思われますが、周辺は宅地化されて塚の痕跡は残されていないようです。
江戸時代にはこの神社は新田神社とともにかなり栄えた様子で、新田明神に参拝する者は最初に十騎明神に参拝して願をかけてから、その後に新田明神に参拝すると願望が成就するといわれており、逆に新田明神に参拝した後に十騎明神に参拝すると願い事は叶わないといわれていたそうです。。。
<参考文献>
学生社『大田区史跡散歩』
東京都大田区『大田区史 資料編 地誌類抄録』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2015/10/21(水) 01:50:30|
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「鵜ノ木奥島天神の森遺跡」は、西蒲田1丁目に所在したとされる塚です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号192番の”時代不明の墳墓”として登録されています。
大田区教育委員会より発行された『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』によると、画像の大城通りの右側、病院の建物の後ろ側に所在したと伝えられているようですが、周辺は宅地化されて塚は消滅しており、痕跡は残されていないようです。
<参考文献>
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2015/10/16(金) 23:38:47|
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「月輪霊神塚」は、西蒲田6丁目に所在したとされる、『東京都遺跡地図』には未登録の塚です。
この塚については、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に詳しい記述を見ることが出来ます。
月輪霊神社 村民甚五左衛門の構のうちに、竹木生茂りたる古塚あり、相伝ふ此塚は本家八郎右衛門の先祖月村宗観の墳墓なり、安永七年塚上に社を建て、私に月輪霊神と祟めたりと、其時の棟札に月輪氏入道天正三乙亥歳八月二十八日、勧請年月安永七戌稔八月二十八日云云とあり、此文の意解しがたし、案に村民八郎右衛門が所持の三宝祖師の像は、入道宗観逆修の為につくりしとて、其年月をしるせしも、この棟札と同じ、これによれば宗観の卒年の定かならずして、ただ其ありし世のことを伝んがために、同じ年月をしるし置しならんと土人もいへり、さもありにしや、或は云宗観、実は月輪氏にて、ゆゑある人の支族なり、乱をさけ民間にかくれしとき、しばらく月村を氏とす、故に神に祀るに及て、実の氏を神号 とせるなりと、されど其たしかなる事をきかず、
塚の跡地とされているのは画像の右手前あたりであるようです。かなり密集して存在したとされる、「女七塚」と呼ばれた7基の塚群からかなりの近距離にあり、このうちの1基である「白旗明神塚」の跡地(画像の右奥、現在の大田区立西蒲田相生児童公園)からは西に数十メートルほどの存在します。この塚も古墳であった可能性もあるのではないかとも考えましたが、言い伝えから考えると後世の塚であったのかもしれません。残念ながら跡地とされる周辺はすでに宅地化され、塚の痕跡を見ることは出来ません。。。
<参考文献>
東京都大田区『大田区史 資料編 地誌類抄録』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
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- 2015/10/14(水) 23:26:28|
- 大田区/その他の古墳・塚
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「星谷明神塚」は、西蒲田5丁目に所在したとされる塚です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号193番の”時代不明の墳墓”として登録されています。
画像は、「星谷明神塚」が所在したとされる西蒲田5丁目(旧内人耕地200番地)周辺のようすです。この塚も、「女塚七塚」と称されていた7基の塚のうちの1基で、古代に築造された古墳だったのではないかとも考えられているようですが、埋葬施設や出土品の伝承はなく、塚は宅地化により削平されて消滅しているため、どういう性格の塚であったか詳細はわかりません。
大田区教育委員会より発行された『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』によると、この塚の名称にある「星谷」とは人名で新田氏の家臣であり、この塚に祀られていた明神はその祖先を祀ったものではないかと考えられているようです。また旧八幡塚村には「新田義興の家臣畑某の自害せしところ」であるという「畑明神社」がありましたが、この星谷家は義興以前に女塚村に入植土着したのではないかとも推測されています。
画像の西蒲田5丁目10番地周辺が塚の推定地であると思われますが、塚の痕跡を見ることは出来ず、正確な跡地を特定することは出来ませんでした。。。

画像は、西蒲田6丁目に所在する「女塚神社」を東から見たところです。七塚のうちの白山明神を除く六社(自従大明神を含む)と八幡社が合祀されて現在の八幡社となっており、つまりは「星谷明神」もこの神社に合祀されているということになるようです。
<参考文献>
蒲田町史編纂會『蒲田町史』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2015/10/12(月) 23:56:45|
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