
画像は、大田区本羽田3丁目にある「羽田神社」です。
御祭神は須佐之男命、稲田姫命で、羽田の氏神様として羽田全域から現羽田空港まで広く氏子を有している羽田総鎮守です。
この神社の境内には「羽田富士」と呼ばれる富士塚が所在します。

羽田神社の社殿と境内のようすです。
私はまだ参加したことがないのですが、この神社の例大祭はなかなか凄そうで、神輿の担ぎ手だけで三千人、三万人もの見物人が訪れて賑わうそうです。通称「ヨコタ」という担ぎ方で、神輿を左右90度に倒して大きくローリングしながら進むという独特な担ぎ方をするそうなのです。活気のあるお祭りはエネルギーをもらえるし、一度見に行きたいですよね。。。

社殿の左奥、画像の鳥居をくぐると羽田富士塚です。
大田区教育委員会により説明板が設置されており、次のように書かれています。
大田区文化財 富 士 塚
富士塚は、富士山の信仰団体である富士講の講員たちが、実際の富士山に登れない者のために、富士山を模して築いた人工の小山である。この塚は、大田区で唯一の存在で、俗に「羽田富士」と呼ばれ、明治初年に築造されたと伝えられる。
富士講の人々が富士山に見立てた富士塚を登詣する習俗は、江戸中期の安永(1772~1780)の頃から、関東を中心として各地に起こったといわれる。羽田ではこの習俗が昭和50年代頃まで、毎年七月一日の山開きに行われていた。
昭和四十九年二月二日 指定 大田区教育委員会
この富士塚は、昨年の東京都文化財ウィークの「よみがえる羽田富士~羽田神社富士塚の謎にせまる」に参加して、見学しました。ただし、この時期はちょうど富士塚を解体して整備を進めている真っ最中で、富士塚は画像のような感じ。しかも、結構な強い雨が降る中で、傘を差しての見学という状況でしたが。。。

画像は、2020年2月の富士塚。すでに綺麗に整備されているようです。
残念ながらまだ登拝はかなわない状況でした。
ちょっと気が早すぎたな。。。笑。

御朱印をいただきました。
羽田神社のと羽田富士塚のもの、2種類あります。
最初のが羽田神社の御朱印です。.゚+.(・∀・)゚+.

2枚目が羽田富士塚の御朱印です。.゚+.(・∀・)゚+.
<参考文献>
現地説明板
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- 2020/03/07(土) 21:48:52|
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画像は、大田区北嶺町に鎮座する「御嶽神社」です。
通称「嶺の御嶽山」とも呼ばれるこの神社は、天文4年(1535)の創始といわれています。
木曽御嶽山などで修行を積んだと伝えられる一山行者(いっさんぎょうじゃ)が神の示現の地として、天保2年(1831)に社殿を建立したと伝えられており、その後、この御嶽神社は木曽御嶽山の関東第一分社とも呼ばれるようになり、関東一円から人々を集めるほどになったそうです。

画像が御嶽神社本社殿のようす。大田区の指定文化財となっています。
私、三回お参りしましたが、いつも参拝客の絶えない活気のある神社で、きっと地元で暮らす人たちと繋がっている!(気がします!パワースポットというか、絶対神様、います!)
創建は天文4年(1535)とされているものの詳細はわからないようですが、手水石に明和8年(1771)と刻まれていることから、遅くともこの時期に神社が存在していたことは間違いないようです。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「御嶽社 見捨地四畝、これも村の北にあり、小祠なり」と記されています。

注目すべきはこの狛犬。御嶽神社の狛犬は山犬(狼)なのです。
見分け方として、脇腹にアバラを表した線が掘られていますよね。そして、狐と違ってキバがありますし、耳も寝ています。
このことにより、この神社は元々は木曽御嶽ではなく、武州御嶽神社だったのではないかと推測されており、つまりは武州御嶽山(みたけさん)の信仰があったところに木曽御嶽山(おんたけさん)の信仰が重なったものではないかと考えられているようです。

御嶽神社末社、一山神社祖霊社です。
国登録有形文化財となっている建築物で、御嶽神社創建における最大の功労者である一山行者を祀った祖霊堂として、社殿に並行するように建立されています。
設置された説明板には次のように書かれています。
一山霊神事績
この一山神社の御祭神は一山(イッサン)霊神。俗名は治兵衛。
神奈川県津久井村の出身で、埼玉県与野に移り井原家に婿入
りしたが『下化衆生』の本願を叶えようと井原家を離れて同
地の円乗院で僧となる。仏門修行の後諸国を行脚し三峰の修
験道の道場を訪れ、また覚円峯に行き仙峨の滝で心身を清め、
木曽駒ケ岳を経て木曽の御嶽に入った。一山行者は大滝口よ
り清滝に至り、柴の庵を結び不動滝で寒三十日の水行などを
した。ある夜ふと夢を見た。御嶽三社の大神達が現れて「早々
下山し世間大衆の苦悩を救え、幸い汝に因縁の地あり、都を
去る三里。」と述べた。一山行者は山を降り江戸へ向かう。そ
して御嶽の神々の教えを広めながら近郷近在を歩いているう
ちに、武州荏原郡嶺村に来て、御嶽の小社を発見「これぞ木
曽御嶽の大神に示現したところ…」とこの地に庵を結ぶ。付
近の人は一山行者を「偉い行者」と崇め信者も増え、進徳講
話、参詣聴聞などを行い確固たる地盤を築くに至った。天保
二年(一八三一)社殿を新築し、布教怠を続けたが、嘉永四年
(一八五一)十二月二十日、神田見富家の隠宅で没す。
行年は定かではない。
〈一山御歌〉
無の上に 浮きて楽しむ心こそ 誠の道の宝なりけり
宗教法人 御嶽神社
東京嶺一山講
水行堂です。
御嶽信仰は、水行を重要な求道と潔斎の行事としており、御嶽神社の信徒が心身を清めるためにここで水垢離を行なったといわれています。
この水行堂も国登録有形文化財となっている建築物です。

大きな木が立っている場所が「霊神塚」です。
かつてはここに大きな塚があり、その周囲には「霊神碑」と呼ばれるたくさんの石碑が建てられていました。
霊神碑は今は「霊神の杜」と呼ばれる社殿の背後の一角に移されていますが、この場所には今も塚の名残が残されています。

画像が、現在の霊神塚を北から見たところ。
周囲は削られているようですが、塚の中央から東側が残されていて、古木が立っています。
実は、昨年の東京都文化財ウィークの「嶺の御嶽山と一山行者」の関連イベントに参加して、特別展の舞台でもあるこの御嶽神社と北嶺町周辺を散策しました。そこで、学芸員の先生にこの霊神塚についてお尋ねしましたが、近世に造られた塚であることがわかっていて、古墳とは無関係であるということです。
したがって、『東京都遺跡地図』にも登録されていないようです。

霊神の杜。
すごい数の霊神碑が建てられています。
かつては霊神塚とその周囲にあったものです。

さて、旧嶺村の古くからある集落の周囲には「嶺の四庚申」と呼ばれる4基の庚申塔があり、これは四方除けのために配置されたものであるといわれています。この4基の庚申塔はいずれも駒形で正面金剛の立像が刻まれており、いずれも覆屋内に置かれていることが共通しています。
昨年の東京都文化財ウィークの「嶺を歩く」では、御嶽神社に関連するこの「嶺の四庚申」についても、学芸員の先生の解説を聞くことができました。記憶が確かなうちに、この嶺の四庚申も取り上げようと思います。

最初の画像は、東嶺町42番地1の庚申塔です。
道路が交差する角、マンションの敷地の一角の覆屋内に建てられています。
元禄13年(1700)の建立で、嶺地区では最も古い庚申塔です。

画像は東嶺町の白山神社。
この神社の境内に、「嶺東向庚申様」とも呼ばれる庚申塔が祀られています。

画像が嶺東向庚申様です。
古くは、神社向かいの、現在のLAWSON大田西嶺町店のあたりにあったそうですが、昭和40年代に行われた環状八号線の工事により白山神社境内に移されています。

正徳3年(1713)建立の庚申塔。
環八の向かいから境内に移された後、境内の中でも場所を変えたそうですが、平成26年(2014)5月に現在地に落ち着きました。今はすごく綺麗に整備されています。。。

白山神社境内の御神木。
樹齢六百年といわれる椨です。
うわー!春頃来ればよかったかなあと思わせる、素晴らしきお姿。
大田区の保存樹に指定されています。

鵜の木1丁目2番地の庚申塔。「嶺北向庚申様」とも呼ばれています。
どこの庚申様も、花が生けてあったりお供え物があったりと、地元の人に大切にされているようですね。。。

享保7年(1722)建立の庚申塔です。
飯島姓3名、長久保姓1名、羽田姓1名、蔵方姓1名、天明姓1名、鈴木姓1名の名前が刻まれているそうです。。。

西嶺町34番地の庚申塔。
旧嶺町の小字である高砂の人々が庚申講を作り、庚申塔を建てたといわれています。「庚申塔の由来」の石碑には「庚申信仰は、江戸時代に民間信仰として栄え、庚申供養塔はその象徴として村の厄災を防ぐため、建てられたという。当地(旧嶺村の高砂)の住民は講をつくり、この庚申塔を建立した。庚申の日に宿(当番)の家に集って談笑し、地域の人々のくらしの無事を祈る風習庚申待は、現在の続いている。」と刻まれています。

この庚申塔のみ、建立年は不明であるようです。

さて、旧嶺村周辺を巡り終わったら、帰りももちろん東急池上線御嶽山駅に戻ります。
画像は「御嶽橋」。
東嶺町42番地1の庚申塔の北側数十メートルのところです。

ここは東海道新幹線が走っているんですよね。
と、言ってるそばから下り線が走ってきました。
まだ本気を出していないかもしれませんが、それでも十分早いです。

「御嶽の霊水」です。
御嶽山駅前のイオンの入り口付近にあり、買い物客の自転車に囲まれてしまって一見目立たないのですが、この地域では見逃してはいけない大事な史跡です!
天保2年(1831)、当時この場所にあった田原屋の主人が、御嶽神社参拝の信者のためにここに禊の井戸を築いたそうです。この井戸水で禊ぎをした信者には霊験極めてあらたかであったため、その噂は近郷近在に伝わり、もらい水をする人も多く、いつしかこの水は御嶽の霊水と呼ばれるようになりました。
二百年近く前に作られた井戸の湧き水ですが、なんと!今も枯れることなく汲み続けられています。

御朱印をいただきました。.゚+.(・∀・)゚+.
大田区の昨年の特別展、「嶺の御嶽山と一山行者」は、展示の内容が質、量ともに素晴らしく、学芸員の先生の調査力は(情熱も含めて)すごいなと感動しました。図録もかなり内容の濃いものでしたし。。。
もっと地域の郷土資料館に多くの人が足を運ぶようになるといいなと思っています。。。
<参考文献>
大田区立郷土博物館『嶺の御嶽山と一山行者』
現地説明板
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- 2020/03/06(金) 22:09:49|
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画像は、大田区南久が原2丁目に所在する「おしゃもじさま」を南西から見たところです。『大田区ホームページ』によると、道祖神とは道路の悪魔を防いで道行く人をお守りする神様であり、「おしゃもじさま(別名ドウロク様)」とも呼ばれるこの道祖神は咳と風邪の神様で、これが祀られているために鵜の木ではチフスが流行しても風邪にかからないともいわれているそうです。この道祖神の背後に現在も残存するのが「大桜大塚」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号165番の”中世の塚”として登録されています。
「大桜大塚」は、新田義興の入定穴であったという伝説が残されており、また義興手植えとされる八重山桜の巨木があったようですが、昭和初期に枯れてしまったそうで今はその姿を見ることが出来ません。古くは「大桜古墳」という名称で、古墳ではないかとも考えられていたようですが、平成4~5年にかけて古代・中世遺跡調査団により調査が行われており、中世の出土品である板碑の存在からこの塚は古代の高塚古墳ではなく中世の塚であると判断されています。またこの調査により、名称が「大桜古墳」から「大桜大塚」へと変更されています。

大桜大塚の周囲は宅地に囲まれており、全容を写真に収めることは出来ません。画像は隙間からわずかに見える塚のようすです。規模は径約10m、高さ2mほどの円形の塚で、頂部に祀られている祠の基壇部に出土した板碑がコンクリートで貼付けられているそうですが、残念ながら見学することは出来ませんでした。
新田義興の入定穴であるともいわれる大桜大塚ですが、出土した板碑の年代は1309年と1320年、1345年の3基で、新田義興が矢口の渡しで憤死した1331年以前の板碑が含まれていることから、塚は南北朝以前の築造であると考えられています。
発掘調査は行われていないようですが、光明寺境内に所在する「荒塚」のように古墳を流用して後世に築造した塚である可能性も残されているように思いますが、このあたりは何ともいえないところです。
<参考文献>
学生社『大田区史跡散歩』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2015/10/26(月) 00:38:50|
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画像は、大田区千鳥町3丁目に所在する「灰塚」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号33番の”中世の塚”として登録されています。
この塚は、久が原台地と鵜の木台地に挟まれた沖積低地に所在します。この周辺に数多く残される新田義興伝説のひとつである、義興を荼毘にふした灰で築いたとの伝承がある塚です。
平成4年の測量の結果、東西9m、南北7m、高さ1.5mと確認されています。翌年に行われた地中レーダー調査では石室や周溝の反応はなかったそうで、盛土内の集石とその下の小さな落ち込みがレーダーの反応として確認されたこととかつて板碑が出土していることから、この塚は古墳ではなく墳墓であると推定されています。
興味深いのは、塚から出土した板碑には義興が生まれたとされる1331年以前の板碑があり、また義興が矢口の渡しで憤死した1358年以前の1367年の板碑もあるのだそうです。つまりは、新田義興を荼毘にふした灰で築いたとの伝説はあまり関係がないのではないかとも考えられているようです。
地中には蔵骨器などが埋まっている可能性もあるそうなので、この辺りは今後の更なる調査を待ちたいところです。

画像は敷地の外側、北西から「灰塚」を見たところです。塚上には大田区の文化財であるシイの古木があり、ひときわ目立ちますます。元々は一本の大木だったそうですが、江戸時代後期に切り倒された後に、新しい8本の太い樹木となったのだそうです。また塚上には祠が祀られており、この中に板碑が納められているそうです。
この土地の方に許可を得て見学させていただきました。ありがとうございました。
<参考文献>
大田区史編さん委員会『大田区史 上巻』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
現地説明版
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- 2015/10/25(日) 00:00:51|
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画像は。大田区下丸子2丁目に所在する「妙蓮塚三躰地蔵」を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には「妙蓮塚」の名称で、大田区の遺跡番号187番の”中世の墳墓”として登録されています。
前々回紹介した「十騎明神塚(十寄神社)」には、新田義興とともに矢口の渡しで討死した従者たちが祀られているといわれていますが、もう一カ所、義興公とともに討死した従者たちが祀られているとされる場所があります。それが今回紹介する「妙蓮塚三体地蔵」です。
敵の謀略にのり、新田義興公が矢口の渡しで暗殺された折、義興公の家臣である土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市川五郎の三人は裸になって太刀を口にくわえ、水の底を潜って岸にかけ上がり、敵の中に切り込んで多くの敵を討ち取り手傷を負わせたものの、3人ともここで討死したといわれています。
その後、正平年間のある暑い夏の日、この地を訪れた尼僧妙蓮が旅の疲れをいやすために木陰で休んでいたところ、新田義興公の家臣の三体の霊が現れ、尼僧の夢枕に立って供養を懇願したそうです。これを哀れんだ尼僧は三体の霊を供養して、三勇士のために地蔵尊を建立して霊を弔ったそうで、後年里人が妙蓮の名をとって「妙蓮塚三体地蔵」と呼ばれるようになったといわれています。

塚上には銀杏の大樹が立ち、夏の暑い日差しを遮るように木陰を作っています。尼僧妙蓮が旅の疲れを癒すために休んだ木陰とは、この塚の場所ではないのかと想像してしまいます。
お地蔵様には浴衣が着せられていて、お茶碗やお水が供えられています。敷地内はきれいに整備されていて、地元の人たちに大切にされているようすが伺えます。

塚上に立てられている「妙蓮塚忠魂碑」です。この塚の由来が刻まれています。
大田区内には、女塚神社(女塚古墳)の「女塚古墳の由緒」の碑、塚越横穴墓群の「無縁霊位」と「由緒」の石碑、金山神社の「古墳由来碑」、三輪厳島神社塚の「古墳各霊乃塚碑」等々、古墳や塚の由来が刻まれている石碑がかなり多く見られますが、それだけ多くの古墳や塚が存在した証であるといえるかもしれませんね。。。
<参考文献>
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
『矢口トーク96 第19号』
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- 2015/10/23(金) 01:12:48|
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