
さて、今回は世田谷区大蔵5丁目に所在する「殿山横穴墓群」です。
この横穴墓群は平成27年(2015)6月16日、東京外かく環状道路建設現場において斜面の掘削中に2基の横穴墓が発見され、世田谷区教育委員会により調査が行われました。そしてその後、さらに15基の横穴墓が発見され、東京都埋蔵文化財センターにより発掘調査が行われました。
これにより2度にわたる現地説明会が行われたわけですが、私は残念ながらどちらも参加できず、説明会終了後に遠方から観察しました。笑。
この地域の横穴墓の大半は、標高31~35m前後のTP(東京軽石)層に築造されていることから、この場所に横穴墓が存在することは想定されなかったそうです。しかし、この「殿山横穴墓群」は、近接する横穴墓群よりも10~15mも低い、標高20m前後に築造されており、これまで認識されていた立地条件からは大きくかけ離れた選地が行われているそうです。
この場所の横穴墓の存在を想定できなかったということを世田谷区の学芸員の先生が悔しそうに話されていたのが、今でも記憶に残っていますが、ひょっとして破壊されずに保存された可能性があったかもしれない訳で、残念です。。。
17基確認されたこの横穴墓群のうち、15基については復元可能とするための3次元データが取得され、道路に影響のない3号墓1基が保護されているそうです。
今後どういった方法で公開されるのか、とても楽しみですね。。。
<参考文献>
東京都埋蔵文化財センター『世田谷区 殿山横穴墓群(第2次調査)』
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- 2020/03/30(月) 20:44:49|
- 世田谷区/殿山古墳群
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「殿山古墳群」は、多摩川と仙川により舌状に突出した武蔵野台地の先端、世田谷区大蔵5〜6丁目に所在する古墳群で、『東京都遺跡地図』には現在9基の古墳が登録されています。
この古墳群については江戸時代の地誌に記述を見ることができ、『新編武蔵風土記稿』には「丸山塚 字本村にあり、百姓宗右衛門と云ものの地内にして小さき塚なり、近き頃こぼちし土中より石棺の如き物を得たり、其内に太刀短刀などのくさりたるあり、又壷一を得たり、口の径り六寸、高さも九寸許にして、今云ふ焼の類なり」、また「塚 三ケ所 一ハ岡本村境ニアリ。村民持山ノ内ニテ二間四方許。一ハ愛宕社ノ傍ニアリ。又一モ此辺ニアリ。耕作ノ障ニナリトシトテ近キ頃崩シタレバ、古瓦ノ如キ損タルモノ出シトイヘリ。」と書かれており、『武蔵名勝図会』には「塚 五ケ所あり。この辺は前にも出せし如く大なる塚数ケ所あり。中古以来の事にあらず。上古何人の住居せし跡なるか。字愛宕山と称すは周径廿間程、高さ一丈許。又江戸道の北裏に三ケ所、各同断の高さなり。この内一ケ所は畑のさわりになりけるゆえ土人掘り崩したるとき古瓦など出けりと。又、一ケ所は本村百姓地内にあり。これも先年掘り穿ちしとき甕一個、或は古瓦、刀剱の類を出したり。甕はいま名主石井氏が家にあり。」と書かれています。
『新編武蔵風土記稿』には「丸山塚」という名称のある古墳が存在したようですが、何号墳がこの丸山塚であるかはわからなくなっているようです。
「殿山古墳群 1号墳」は、世田谷区大蔵6丁目に所在したとされる古墳で、世田谷区の遺跡番号39-1番の遺跡として登録されています。この古墳は昭和41年(1966)7月に発掘調査が行われています。当時すでに畑地として開墾が進み墳丘は削平されていたようなのですが、土地所有者が耕作中に耕運機に岩が当たって作業が困難な地点があり、この周辺約5m四方に泥岩が散乱していたことから発掘調査が行われたということのようです。地中からは、半地下式の両袖を有する凝灰岩切石使用の横穴式石室が発見され、玄室内からは直刀や刀子、鉄環、鉄鏃などが出土しています。
画像の道路の右側あたりがこの1号墳の跡地であると思われますが、周辺は開発が進み、古墳の痕跡は残されていないようです。。。
<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
下山照夫『史料に見る江戸時代の世田谷』
- 2015/03/07(土) 00:39:59|
- 世田谷区/殿山古墳群
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「殿山古墳群 2号墳」は、小字殿山の丘陵で最も高い地点に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号39-2番の古墳として登録されています。
この古墳は、昭和41年(1966)7月に発掘調査が行われています。当時すでに開墾により削られており、径約7m、高さ役1mの墳丘には数本の杉などが繁り、御嶽社の小祠が祀られていたそうです。埋葬施設はかなり破壊されていたものの、凝灰岩の切石を使用した半地下式の横穴式石室が検出されています。
古墳はその後、東名高速道路建設のために完全に消滅しています。画像は、東名高速をわたる「第六天橋」を南東から見たところです。この橋の右側あたりが、2号墳のかつての所在地です。

第六天橋から東名高速道路を見たところです。このあたりに2号墳が存在したと思われますが、この地点は台地ごと削り取られていて古墳の痕跡を見ることは出来ません。時の流れ、恐るべし!という感じですね。笑。

さて、この2号墳の墳丘上に祀られていたという御嶽社の小祠ですが、東名高速道路建設により古墳が消滅した後は、3号墳であるとされている第六天神社の敷地内に移設されていました。画像は3号墳の項でも紹介した、残存する古墳の高まりであるとされるマウンドですが、この後ろに御嶽社の祠を見ることができます。

その後、東京外かく環状道路と東名高速道路が接続する東名ジャンクションの建設のため、御嶽社の祠は同じ大蔵6丁目に所在する氷川神社の境内に移されています。画像がその現在の御嶽社の祠です。最近移設されたばかりのようでピカピカですね。笑。
この御嶽社の祠も、古墳から古墳へ渡り歩いたという古墳に縁の深い祠ということになります。これまで紹介した中では、北区滝野川の「四本木稲荷神社」や狛江市中和泉の「伊豆美神社」も似たような運命を辿った神社であるわけですが、東京都内の古墳は開発のために破壊し尽くされてきた歴史があり、こういったパターンも意外と多いのかもしれませんね。。。
<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/03/05(木) 02:18:40|
- 世田谷区/殿山古墳群
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「殿山古墳群 3号墳」は世田谷区大蔵6丁目に所在する古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号39-3番の古墳として登録されています。
この古墳は永安寺所有地で、かつては第六天神社が祀られていました。昭和41年(1966)に行われた分布調査により古墳として把握されており、その後、墳丘の北側を日本道路公団の東名高速道路建設により削られています。東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』にはこの古墳について、「第六天神社境内北側の数10cm程度の僅かな高まりとして観察できる。墳丘北側は東名高速道路工事の際に削られたと思われる。」と記されており、『東京都遺跡地図』では、径20m、高さ1mの円墳であるとしています。
画像は2年ほど前の3号墳の所在地のようすです。この時点ではまだ鳥居の奥には第六天の祠が、また鳥居の左側にはかつて2号墳から移されたという御嶽社の祠が祀られいるようすを見ることができます。

画像が、『都心部の遺跡』にある「境内北側の数10cm程度の僅かな高まり」とされていたと思われる地点です。確かにわずかな地膨れのような高まりが確認出来ます。ちなみに、奥に見えるのが御嶽社の祠です。

さて、画像は現在の3号墳の跡地を、1枚目の画像と同じく西南西から見たところです。この箇所は、東京外かく環状道路と東名高速道路が接続する東名ジャンクションの用地となっているため、現在は周辺の土地とともに買収されて更地となっています。このまま削られて消滅してしまうのでしょうか?
第六天と御嶽講の祠は、現在は別の場所に移転されています。

画像は、旧第六天神社の敷地を南東から見たところです。以前は周囲を宅地に囲まれていたので全体を見ることができなかったのですが、周囲の建物がなくなったことにより全体像を見ることができます。おそらく、『都心部の遺跡』に書かれていた「境内北側の数10cm程度の僅かな高まり」が古墳であるというよりは、この第六天神社の敷地全体が古墳の基底部にあたるのではないかとも思えます。『世田谷区史料 第8集 考古編』にある「殿山古墳群とトレンチ配置図」にも、円形の高まりの上に祠が祀られているようすが描かれています。

画像は現在の第六天神社を南西から見たところです。
この土地の所有者に声をかけて見学させていただきました。ありがとうございました!
<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/03/03(火) 00:21:01|
- 世田谷区/殿山古墳群
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「殿山古墳群 4号墳」は世田谷区大蔵6丁目に所在する古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号39-4番の古墳として登録されています。
『世田谷区史料 第8集 考古編』によると、この古墳は畑地の隅にあり、「1号墳石室」の南約30mの地点にある。現在わずかな地膨れとなっている。」とのみ書かれています。ただし、同書の「殿山古墳群とトレンチ配置図」を見比べると、”1号墳の南30m”というのは誤りで、おそらく”南西30m”のあたりではないかと思われるのですが、正確な跡地は特定出来ませんでした。
画像は、5号墳を見学した際に撮影したものです。墳丘の残存する「5号墳」と並ぶ台地の縁辺に所在したのではないかと思われるのですが、もう少し奥のあたりが跡地であるならばすでに宅地となって消滅しているのかもしれません。何年か前に訪れた時はまだこの場所は畑地だったのですが、いずれは宅地化されてしまうのでしょうね。。。
<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/03/02(月) 00:33:48|
- 世田谷区/殿山古墳群
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「殿山古墳群 5号墳」は世田谷区大蔵6丁目に所在する古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号39-5番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳は、丘陵の南傾斜肩部に位置しています。周辺は開発が進み、宅地化されているものの、古墳の周囲には古木が繁る山林が残されています。同じ台地上の縁辺には北西に6号墳が、東には4号墳が所在したとされていますが、この2基については残念ながら墳丘は残されていません。残存する5号墳は、画像の長い石段の奥に所在します。

画像が、「殿山古墳群 5号墳」を南西から見たところです。石段を登りきったところに鳥居が立てられており、墳丘と思われる上には屋敷稲荷の祠が祀られています。素人目に見たところでは、墳丘の中央から西側にかけてざっくりと抉るように削られており、祠は墳丘西側の裾のあたりに建てられているようです。『東京都遺跡地図』には横穴式石室の存在を記していますが、特に露出する石室の有無は確認出来ませんでした。

角度を変えて見ると、円形の古墳の形状がまだ残されていることがわかります。『東京都遺跡地図』には径20mの円墳と記載されています。
土地の所有者に声をかけて見学させていただきました。また、自動車屋の「変なおじさん」さまには土地の所有者を紹介していただきました。ありがとうございました!
<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/02/17(火) 00:12:14|
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この「殿山古墳群」は、昭和41年(1966)に行われた、日本道路公団の東名高速道路建設に伴う分布調査により8基の古墳が確認されており、「1号墳」と「2号墳」の2基の古墳の発掘調査が行われています。「殿山古墳群 6号墳」はこの調査当時には残存しており、個人の屋敷内に築山として存在していたようです。雑竹林の中にあり、墳丘はあまり明瞭ではなかったようですが、墳頂部には松の独立樹があったといわれています。
画像が世田谷区大蔵6丁目、6号墳の推定地を東から見たところです。台地縁辺の、いかにも古墳が存在しそうな立地条件の箇所であり、同じ台地縁辺に5号墳、4号墳も並ぶように存在しています。。発掘調査の予定もあったようですが、結局行われないまま東名高速道路建設により消滅しています。
この地点は東京外かく環状道路と東名高速道路が接続する東名ジャンクションの用地となっているので、今後景観も大きく変わってくるものと思われます。周溝の一部でも検出される可能性はあるように思うのですが、発掘調査等はおこなわれているのでしょうか。。。
<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/02/16(月) 00:22:17|
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画像は、世田谷区大蔵6丁目に所在したとされる「殿山古墳群 7号墳」の推定地を北西から見たところです。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号39-7番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳からはかつて直刀が出土しており、古墳の存在は間違いないようですが、殿山古墳群の調査が行われた昭和41年(1966)にはすでに開墾により湮滅しています。第六天の祠の東方に所在したとされており、画像の畑地のあたりが推定地であると思われますが確証はありません。特に古墳の痕跡は残されていないようです。
<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/02/14(土) 23:19:12|
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画像は、世田谷区大蔵6丁目にある「殿山古墳群 8号墳(大将塚)」を西から見たところです。世田谷区の遺跡番号39-8番の古墳です。
「殿山古墳群」については、昭和37年に発行された『新修世田谷区史』の「第二編 原始・古代 第五章 古墳時代」の項に「大蔵殿山古墳群」の名称で取り上げられており、「殿山古墳群には小円墳群であったらしいがほとんど削平されてしまった」とのみ書かれており、各古墳の詳しい記述は見られません。このように、完全に湮滅したように考えられていた殿山古墳群ですが、昭和41年(1966)に行われた、日本道路公団の東名高速道路建設に伴う分布調査により8基の古墳が確認されており、2基の古墳の発掘調査が行われています。
ただし、この8号墳については、同書の「文化遺産 第五章 伝説」の項に「天明年間に、この地の清水惣右衛門という農民が義賢の塚を発掘したところ、石壁の中に古刀や砂金の類が発見されたが、祟を恐れて古刀、白骨などは朽損のまま埋め、古瀬戸の壷は芦原英俊一に譲ったという。」と書かれており、また昭和50年(1975)に発行された『世田谷区史料 第8集 考古編』にも「平安時代末武蔵国大倉の館で討死した源頼賢の墓とされている。しかし天明年間に農民がこの塚を発掘した際に石壁の中に、石刀、古瀬戸壷、砂金、白骨が発見されたという。古墳の可能性もあろう。」と書かれており、この言い伝えが大将塚が古墳ではないかと考えられる理由のひとつになっているようです。『東京都遺跡地図』ではこの古墳は円墳であるとされています。
古墳は周囲を道路と宅地で削られているものの、個人の邸宅内で大切に保存されています。地元の人には「大将塚」と呼ばれているそうです。

墳頂部には「源義賢朝臣墳」の石碑が立てられています。
当日は、土地の所有者に声をかけて見学させていただきました。ありがとうございました。
<参考文献>
東京都世田谷区『新修 世田谷区史 上巻』
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
- 2015/02/13(金) 02:42:38|
- 世田谷区/殿山古墳群
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さて、ここまで狛江市内の古墳を数多く紹介してきましたが、狛江古墳群に隣接する「喜多見古墳群」や「殿山古墳群」、「砧中学校古墳群」といった世田谷区内の古墳も、あらためて整理して紹介しようと思います。
「殿山古墳群9号墳」は、世田谷区大蔵6丁目にある井山ゴルフ練習場の敷地内北側に残されている古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号39-9番の古墳として登録されています。
画像は9号墳を北西から見たところです。東京都教育委員会より昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』にはこの古墳について「古墳の基部のみ残存。基部の直径は約10m。圭頭大刀(東京国立博物館蔵)は昭和2年に耕作中発見されたもの。当古墳は昭和57年に削平された。」との記述があります。また、土地の所有者にお聞きしたところでは、調査の際に石室等の埋葬施設は検出されなかったとのことなのですが、同書には主体部について「横穴式石室?」と、石室の存在の可能性についてふれています。実際に見学させていただいたときには、特に石材が露出しているようなことはなかったように思いますが、このあたりの詳細は不明です。

画像は9号墳を東から見たところです。都心部の遺跡には「削平された」と書かれていますが、古墳らしい形状は残されているように思います。この古墳は、恐らくすでに消滅して見ることはできないのではないかと思っていましたので、存在を確認した時にはちょっと感動しました。笑。

画像は墳頂部のようすです。祠が祀られています。
当日は、土地の所有者の方に声をかけて見学させていただきました。ありがとうございました。
<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/02/11(水) 09:29:39|
- 世田谷区/殿山古墳群
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