
「河辺古墳群」は、青梅市河辺町3丁目に存在したとされる古墳群です。
『東京都遺跡地図』には、青梅市の遺跡番号90番の遺跡として登録されています。
この古墳は、明治年間に耕地拡大のために発掘されたもで、小さな墳丘を持つ「内部は石垣で石室のごときものを認め」られる「3基の古墳と思われるもの」が確認されており、2基からは直刀と思われるもの、そのうちの1基は須恵器のごとき壺が出土したといわれています。直刀は神社の庭に埋められ、また壺は他所に持ち去られたといわれ、所在はわからなくなっているようです。
これまで、発掘調査により確認された古墳で多摩川左岸において最も上流にあるとされているのは、昭島市の「浄土古墳群 」ということになると思われますが、もしこの河辺古墳群の存在に間違いがなければ、多摩川流域で最も上流にある古墳群ということになります。またそうなると、これまで古墳が確認されていない福生市や羽村市内に古墳が存在しなかったのかというところも気になるところです。
青梅市内の古墳はすべて学術的な調査が行われないまま消滅してしまっており、詳細はわからないのですが、河辺古墳群と呼ばれる3基の古墳とは別に、現在の青梅市立総合病院と同じ一段高い段丘上南端部からも、かつて古墳が発見されたとも伝えられているようです。
これらの伝承からすると、多摩川流域の最も上流に所在する古墳は、この河辺町周辺ということになりそうです。果たして青梅市内に古墳が存在したのかどうか、今後の調査の進展が楽しみな地域です。。。

画像は、河辺古墳群と同じ青梅市河辺町3丁目に所在する「春日神社」です。
古墳から発掘された直刀は、のちに神社の庭に埋められたといわれています。
これがどの神社に埋められたのかは不明なのですが、時間の許す限り周辺の神社を参拝しました。。。

画像は、東青梅4丁目の「石神社」です。
この神社は青梅市立総合病院の建設により西に移転したそうですが、市立総合病院と同じ段丘上南端部からも古墳が発見されているといわれています。
この神社が古墳と何か関係があるということはないのでしょうか。。。

石神社の分かれ道にあるのが「大山道の道標」です。
大日如来塔で、「右 大山八王子道 左 箱根 所沢道」と彫られています。
う〜ん。こういう分かれ道の間の三角地、怪しい。。。笑。
<参考文献>
青梅市史編さん実行委員会『定本市史 青梅』
青梅市役所『定本市史青梅』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2020/06/07(日) 23:09:18|
- 青梅市の古墳・塚
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現在の青梅市駒木町、青梅市と日の出町の境にある、通称「二ツ塚峠」と呼ばれる古道の頂部には、その地名の由来ともなっている「二ツ塚」が所在します。『東京都遺跡地図』には未登録となっているようですが、この塚にまつわる悲しい伝承は現代にも伝えられており、塚は今も地元の人に大切に供養されているようです。
今回は、この二ツ塚の探訪の記録です。
画像は、JR青梅駅から徒歩30分ほどでしょうか?「長淵山ハイキングコース」の入口付近の様子です。ここから南に向かって、しばらく山の中を歩きます。

こーんな感じで、ハイキングコースというよりは獣道に近いような道を40〜50分ほど歩きます。
私、古墳探訪はほとんど一人で歩き回っているのですが、この日は実は知人に付き合ってもらって二人で訪れました。この何ヶ月か前に、人気のほとんどないやはり青梅の山の中で、斜面を滑り落ちて酷い目にあったことがありました(まったくあの時は死ぬかと思いました。笑)。誰もいない山の中で怪我でもして動けなくなったらとビビってしまったわけですが、心霊スポットとしても取り上げられているこの二ツ塚が怖くなってしまったこともあったかもしれません。
帰宅後に何日かして、「撮影した写真にオーブが写っていた」と知人から連絡が来て、後日、見せてもらいましたが、シャボン玉のような円形のオーブがたくさん写っていました。あれは一体なんだったんだろう。。。

途中、倒木があって行く手を阻む感じ。

途中、石がゴロゴロ落ちていて行く手を阻む感じ。

途中、分かれ道が行く手を阻む感じ。

左から来た道と合流。
「二ツ塚峠」の文字が見えます。
もうすぐかな?

少し勾配が緩やかになってきました。

少し視界がひらけてきた突き当たりに、それらしき塚が見えます。
さらに近づいてみます。

立て札が見えるし、きっとここだよ。
やっと着いた。。。

二ツ塚です。

二ツ塚の由来を記した説明シートが置かれていました。
これが、二ツ塚に残る悲しき伝承です。
二ツ塚物語
旧二ツ塚の頂に、小さな二ツの塚があります。
桜の木の根元にあつて、今も花や水が供えられています。
今から何百年もの昔、
この峠の麓に貧しい母と娘が住んでいました。
不幸にして母親は、不治の病にかかりだんだん病も
悪くなり、死の近いことを悟っていました。
ある日のこと、見舞に来てくれた村人に、
母親はこんなことをお願いしました。
「わしはもうすぐ死ぬ。 わしは村の為に何の役に立つ事も
できなかった。だからわしを生きているうちに峠の頂に
埋めておくれ。死んだらこの峠を守るから」
それをきいていた娘は、母を思い、
「私を一緒に埋めておくれ」と涙ながらに頼みました。
しかたなく村人たちは大きな籠に母と娘を一緒に入れて
埋める事にしました。
村人たちは籠を峠の頂に埋め二ツの塚を作って
弔いました。
それ以来二ツ塚と呼ばれ、薄幸の親子を偲んで今も
掃除や土盛りをして供養をしているとのことです。
古の峠の道は変われども
塚となりてぞ今に残れる

言い伝えが史実であるとすれば、塚の性格としては「入定塚」ということになるのかもしれませんが、h発掘調査が行われていないことから塚の性格はわかりません。。
大きな塚の上にラクダのコブのような2つの小さな塚が乗っている、というかなり興味深い形状をしているようですが、悲しき母娘は今も旅人を見守っているのでしょうか。

二ツ塚の頂部の様子です。
大きな桜の木が植えられていて、2つの塚の間には石碑が建てられています。桜の木の根が露出してしまっているようすからすると、かつてはもう少し大きな塚だったのかもしれません。

木の幹に取り付けられた木札に、歌が詠まれていました。

帰りは「天狗岩」方向に山を下り、青梅市の郷土博物館を見学してから帰宅。
それにしても、青梅市内には古墳は残されていないようなのですが、以前取り上げた「鎧塚」や「比丘尼塚」等々、山中に言い伝えの残る大きな塚が数多く残されていて、とても見応えのある地域でした。
塚にまつわる伝承には、悲しいお話が多いですね。。。
<参考文献>
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』
現地説明版
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- 2019/11/18(月) 23:37:33|
- 青梅市の古墳・塚
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画像は、青梅市柚木町3丁目に所在する「青梅市№175遺跡」を東から見たところです。
東京都教育委員会より公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』によると、この塚は青梅市の遺跡番号175番に登録されており、時代は「中世」の、種別は「その他の墓」とされています。中世の塚とするならば、現存する「鎧塚」と同様に、「辛垣の合戦」での戦死者を埋葬した、または供養した塚ではないかとも考えられるところですが、発掘調査等は行われた記録はなく、塚の性格については不明で、出土品等も存在しないようです。

南から見た「№175遺跡」のようすです。塚は、円形ではなく楕円形を呈しているようです。
少なくとも、この塚に古墳の可能性はなさそうです。。。

塚の頂部は、ちょっと荒れた状態ではありますが、いくつかの石造物が祀られていたようです。

帰り道はなんと、吊り橋を渡って沢井駅に向かいます。
周辺には見学のできる酒造があってきき酒を行っていたり、「澤乃井櫛かんざし美術館」や「福島家住宅」などなど気になる場所もたくさんあり、後ろ髪を引かれながら戻りました。やはり平日の強行軍はいかんですよね。あとであらためてお休みの日にゆっくり来たい場所です。。。

軍畑駅同様に無人駅である沢井駅。いい感じです。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2018/06/04(月) 02:06:11|
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JR青梅線は、立川駅を過ぎたあたりから多摩川に沿うように走っていて、特に青梅駅を過ぎたあたりからは、多摩川の北側を並走しています。今回紹介する「鎧塚」が所在する「軍畑(いくさばた)」駅も、駅舎の北側は山林となっており、南側は多摩川に向かって段丘を降りる急坂となっています。この軍畑駅から南へ段丘を下りた都道193号下畑軍畑線の道路沿い、青梅市沢井1丁目に現存する塚が「鎧塚(よろいづか)」です。
余談になりますが、東京都内に無人駅があるんだということは、この鎧塚を訪れた時に初めて知りました。私の地元のさらに田舎では、無人駅など特に珍しくもなんともなかったんですが、東京にもあるんだ〜?と、ちょっと懐かしいような気持ちになりました。私の少年時代と違うなあと感じるのは、この軍畑駅は駅舎がちょっと近代的で格好良いんですよね。しかも、昔はSuicaなんかなかったから、乗客は、無人の駅舎の改札口に置かれた箱に勝手に切符を入れて降りていく、みたいな状況だったんですが、今は「ピッ」と電子音が鳴ったりしています。ほんの何十年かで世の中はどんどん変わってしまいますね。笑。

「鎧塚」は、軍畑駅から直線距離にして100メートルほどに位置しており、駅前のスペースから南東側を見下ろすと、円形の大きな鎧塚の姿を見ることができます。画像は、北西から見た鎧塚です。
『東京都遺跡地図』には、この鎧塚は青梅市の遺跡番号32番の”中世の塚”として登録されています。規模は、直径約30m、高さ約9mの円墳状の塚で、昭和35年(1960)には青梅市の史跡として指定されています。
江戸時代の地誌類には、鎧塚に関する多くの記述が残されており、『新編武蔵風土記稿』には「街道の傍にて小名軍場にあり、塚高き一丈餘、周廻十五間許、塚上六尺四方程の所に一尺餘の小祠を安す、鎧明神と号す二俣屋の城永禄六年落城のとき討死の者の丘器を埋めし塚なりと云、鉄器の破れ、又は刀剣の折れたつものを土人穿出せしことありと云。」とあり、また『武蔵名勝図会』には「小名軍端にて、街道の傍にあり。塚の高さ一丈余、廻り凡そ十五間程、塚の上は六尺四方程にて、ここに一尺ばかりの小祠あり。鎧明神と号す。土人はこの塚を穿ちて矢の根または鎧の錣、或は槍の穂その外種々の兵具を堀りだせしことありと云。合戦の後に討ち死せしものの兵具を埋めたる塚なり。奥沢橋より 二町程を隔つ。」と書かれています。
いわゆる「辛垣の合戦」と呼ばれる戦いで命を落とした、兵士や刀・鎧などの兵具を埋葬した塚ということのようですが、大きな塚を目の前で見ると、相当に多くの兵が戦死した、激しい戦いだったのであろうと想像してしまいます。ちなみにこの周辺の地名や、JR青梅線の駅名ともなっている「軍畑(いくさばた)」も、この辛垣の合戦に由来しているといわれています。

画像は、段丘を下りて東から見上げた「鎧塚」です。墳丘の裾部が一部削られているものの、かなり良好な状態で残されているのがわかります。段丘の下に降りて見上げてみると、塚の大きさを感じることが出来ます。
青梅市教育委員会により設置された説明板には次のように書かれていました。
市指定史跡 鎧塚
鎌倉時代末期から、この地方一帯の領主であった三
田氏は、永祿年間(一五六〇年代)北條氏照の軍勢に
攻められ、辛垣城において最期を遂げた。鎧塚は、こ
の戦いの際に戦死した武者の兵器を埋め、供養した塚
と伝えられている。
『新編武蔵風土記稿』には、「街道の傍にて小名
軍場にあり、塚高さ一丈(三・〇三m)餘、周廻十
五間(二七・二七m)許、塚上六尺(一・八二m)
四方程の所に一尺(三〇・三m)餘の小祠を安す、鎧
明神と號す、二俣尾の城、永祿六年(一五六三)落
城のとき、討死の者の兵器を埋し塚なりと云、鐵器の
破れ又は刀剱の折れたるものを土人穿出せしことあ
りと云」とある。
昭和三十五年十一月三日 指定
青梅市教育委員会
画像は鎧塚の頂部のようすです。祠が祀られていますが、これはかつて鎧塚大明神と呼ばれた神社で、享保16年(1731)に再建されたという記録が残されているそうです。塚に埋葬された戦死者の霊を祀ったものであるといわれています。

塚の前には地蔵尊がが祀られています。宝暦10年(1760)3月の伊奈石製の地蔵尊です。
実は、今回のこの鎧塚の画像は3年ほど前のものなのですが、最新のGoogleマップのストリートビューで確認すると、塚の前の道路の工事が行われていて、パワーシャベルが塚に向かっているようなようすが見られます。ほんの一部であっても、塚自体が削られてしまわなければいいなあと、ちょっと心配になります。
画像は、鎧塚から、南西の「軍畑大橋」を見たところです。この日はこの後、軍畑大橋を渡ってお隣の沢井駅までぶらぶらと30分ほど歩きました。沢井駅近くの、中世の墳墓であるとされる「№175遺跡」を見学してから、午後はなんと仕事に向かうわけですが、思えばこのころはかなりチャレンジャーでしたね。笑。

この辺りまで来ると、多摩川の水はまだ綺麗に透き通っていて、本当にここが東京都なのかと目を疑いたくなるような、美しい景観が広がっています。(仕事に行くの、イヤになっちゃうんですよね。笑)
次回の「№175遺跡」に続く。。。
<参考文献>
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
現地説明版
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- 2018/05/30(水) 08:13:34|
- 青梅市の古墳・塚
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青梅市二俣尾に所在する「海禅寺」は瑞龍山と号し、本尊は釈迦如来です。室町時代に群馬県白井の雙林寺2世、一州正伊を開祖として開かれたといわれています。この地方を支配していた三田氏の菩提寺であったといわれており、厚い保護を受けていたそうです。
この海禅寺の本堂西側の坂道を100メートルほど登った墓地の一角に、五輪塔が建てられている場所があり、「首塚」と呼ばれています。

画像が「首塚」の現在のようすです。
説明板が建てられているようなのですが、これは残念ながら日に焼けてしまっていて、まったく文字を読むことができませんでした。
画像の右側に見えるのが五輪塔で、永禄年間(1558~1570)に五世の僧禅染が建てたといわれています。また左側の石の祠は「三田稲荷社」で、寛政年間に23世和尚が綱秀の霊を祀ったと海禅寺の記録に残されているそうです。『定本市史 青梅』では、この五輪塔は北條氏の治世に世を忍んでひそかに建てられた綱秀の墓ではないかとしていますが、『青梅を歩く本』では、形式からして、三田氏の墓と同じく江戸時代初期のものではないかとも書かれています。

首塚は、塚と呼ばれて入るもののマウンドは存在せず、周囲は墓域として整地されています。以前は山中の竹林に存在したようなので、かつては盛土が存在したのかもしれませんが、真相はわかりませんでした。。。
<参考文献>
青梅市史編さん実行委員会『定本市史 青梅』
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』
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- 2018/05/26(土) 12:27:29|
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『東京都遺跡地図』には、青梅市の遺跡番号107番に「塚(三基)」という名称の中世の塚が登録されています。そのままじゃないか!というネーミングもさることながら、まだ開発の手の及んでいない青梅市内の山林に存在する塚ということで、かなり良い状態で残されているのではないかという期待感もあり、見学に訪れてみたのですが。。。
というわけで、画像は、青梅市塩船にある「塩船神明社」です。『東京都遺跡地図』の分布図を参考にすると、鳥居をくぐって参道を登った山の中腹に社殿があり、更にその奥の裏山の頂部か尾根のあたりに塚が存在するはずです。

この場所を訪れるにあたって、『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』からプリントアウトした地図を参考にしました。ネット上の遺跡分布地図に記された塚の位置が、必ずしも正確なのもではないことは理解していましたが、3基の塚が山林に存在しているなら、すぐに見つかるだろうと思っていました。
画像は、塩船神明社の社殿のようすです。背後に見える裏山を100メートルほど登れば、3基の塚が存在するはずです。

画像は、塩船神明社裏山の山頂に行き着く直前の丘陵斜面のようすです。
神明社の境内社の裏から塚の所在地と思われる山の頂部を目指して登って行ったのですが、なんと!山頂に辿り着く直前にカメラの電池の残量を使い切ってしまって、塚を発見できたとしても写真に収めることが不可能な状況になってしまいました。掲載した画像は、山頂にたどり着く直前の、この日の最後の一枚です。しかもこの日は、転倒して肩を痛めてしまっていたので、心も折れてしまっていたかもしれません。。。
その後、丘陵頂部の平坦な場所までは登って行ったのですが、塚を見つけることはできずに、深追いせずに諦めて山を降りてしまいました。
その後に調べてみたところでは、青梅市郷土資料館より発行された『青梅市の埋蔵遺跡』には「塩船観音寺南方、吹上との境をなす尾根上」とあり、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「山地斜面 3基、部分消滅、径5m」とも書かれています。ひょっとしたら山頂の平らな地点ではなく、周辺のどこかに塚が残されていたかもしれないのですが、今となっては後の祭りですね。。。
いつかリベンジのチャンスがあればもう一度チャレンジしようかとも思っていますが、今のところその機会はありません。
うーん。見逃していたかもしれないなあ。。。
<参考文献>
青梅市郷土資料館『青梅市の埋蔵遺跡』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』
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- 2018/05/25(金) 01:39:39|
- 青梅市の古墳・塚
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画像は、青梅市成木8丁目に所在する「佐藤塚」を北西から見たところです。『東京都遺跡地図』には青梅市の遺跡番号5番の近世の「石灰窯跡・墓地」として登録されている遺跡です。
この塚について、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「松木峠の麓にて往還の傍にあり、天正年中北條氏照が家臣佐藤助十郎と云もの此地へ来り住し、上成木村にすめる木崎某川口某ら三人とはかりて始めて石灰を製せしよし、この家も今はたえてなし」と書かれています。『斎藤地誌』には「土人は塚と呼べども平地なり」とあるものの、『武蔵名勝図会』には「高さ六、七尺、上に雑木生ぜり」とあり、築造当時、塚状のマウンドは存在したのかどうかはよくわかりません。

画像は南西から見た佐藤塚です。現在の佐藤塚は高さ30mほどの大きなヒノキの根本に2基の五輪塔が建てられており、青梅市教育委員会による説明板が設置されています。この説明板には次のように書かれています。
市指定史跡 佐 藤 塚
文政三年(一八二〇)に著された『武蔵名勝図会』に、「佐藤助十郎とて、上成木村木崎治右衛門、川口弥次郎等の先祖と同じく、北條家落魄のものどもなり。この辺にて石灰を焼きだすことを始めたる、その佐藤が塚なりと云。いまは断絶しければ、住居のあたりに築きたる塚なりと云。高さ六、七尺、上に雑木生ぜり」と記されている。
江戸初期にはじまるこの地方の石灰産業史をかたるうえに重要な史跡である。また、檜の大木の前にある五輪塔の地輪には正保二年(一六四五)と解読できる年号が記され、本市における石造遺物の一つとして貴重である。
昭和三十年十一月三日 指定
青梅市教育委員会
画像が塚に立てられている2基の五輪塔です。
この塚へは最寄りのJR青梅線軍畑駅からでも2~3kmほど歩かなければならず、また榎峠をを越えなければならないので、見学に訪れるにはなかなか難易度の高い塚です。車で訪れても山の中の一本道ですので付近に駐車場はありません。東京都内であることを忘れてしまいそうな自然の豊かな地域ですが、この周辺では消石灰の大量生産が行なわれ、江戸時代から明治時代にかけてかなり裕福な地域であったそうです。

塚の横にある橋には「佐藤塚橋」と塚の名前が使われています。。。
<参考文献>
青梅市史編さん実行委員会『定本市史 青梅』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』
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- 2016/12/14(水) 01:02:37|
- 青梅市の古墳・塚
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現在の青梅市藤橋2丁目周辺は、古くは今寺天皇塚という字名で呼ばれており、『東京都遺跡地図』によると、古墳や塚といった遺構は存在しないものの「天皇塚遺跡」の名称で青梅市の遺跡番号136番の包蔵地として登録されています。画像は、この天皇塚遺跡内に所在する「天皇さま」の祠を南から見たところです。
『皇国地誌』の『今寺村誌』にはこの天皇塚についての記述があり、「天皇塚 元標ヨリ子ノ方、字天皇塚五百七十四番茅野壹反七畝十五歩、築地誠五郎所有地ノ内ニテ高サ(記述なし)、回リ(記述なし)、冢上ニ速進男命、神武天皇二柱ヲ祭ル。名義之ニ因レリ。側ノ字モマタ同義ナリ。」と書かれています。『皇国地誌』は、当時の明治政府によって行われたものの未完に終わった官撰地誌編纂事業で、正本は関東大震災により焼失したとされているものの、残存する草稿や副本などをまとめた『皇国地誌・西多摩郡村誌』が青梅市教育委員会より刊行されています。未刊に終わったためか「記述なし」や「草稿缺落」などと書かれている記事も多く、この天皇塚に関しても塚の規模については「記述なし」とされています。これは、塚の存在を想定して執筆したものの未完成の原稿であるために記述がないのか、それとも塚そのものが削平されて存在しなかったためなのか、詳細はわかりません。
この周辺で地元の人にお聞きしたところでは、かなり以前よりこの場所に塚はなく、塚があったという話も聞いたことがないという事でしたので、少なくとも戦後くらいにはすでに塚は消滅していたようです。江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』にはこの天皇塚は記載されていないようなので、かつて塚が存在したとしてもそれほど知られた存在ではなかったのかも知れません。
皇国地誌には他に「無名冢 元標ヨリ子ノ方、字常磐木平、路傍ニアリ。藤橋城没(以下記述なく草稿缺落)」とも書かれていますので、この周辺にはいくつかの塚が存在していたことは間違いないようです。。。
<参考文献>
青梅市郷土資料館『青梅市の埋蔵遺跡』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
青梅市教育委員会『青梅市史史料集第五十五号 皇国地誌・西多摩郡村誌』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』
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- 2016/12/12(月) 01:45:55|
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画像は、青梅市塩船に所在する「大悲山塩船観音寺」の山門を南東から見たところです。山号を大悲山と称すこの塩船観音寺は、周囲の地形が小丘に囲まれて舟の形に似ていることから、仏が衆生を救おうとする大きな願いの舟である『弘誓の舟』になぞらえて塩船と名づけられたといわれています。大化年間(645~650)に若狭国の八百比丘尼が一寸八分の紫金の観音像を安置したのが開山と伝えられており、貞観年間(859~877)には安然和尚が十二の坊舎を建て興隆を極めたと伝えられています。このお寺の敷地内には青梅市の遺跡番号119番の「入定塚」という名称の中世の塚が登録されています。

この塚について、昭和52年(1977)に青梅市教育委員会より発行された『青梅市の埋蔵遺跡』には「塩船観音寺阿弥陀堂裏」とあり、また平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「残存、径10m」と書かれています。
『東京都遺跡地図』の分布図を確認すると、青梅市内の古墳や塚に関しては比較的正確に所在地が記されているのですが、この入定塚に関しては、実際に現地を訪れてみても分布図に記されたあたりには塚らしきマウンドは全く存在しません。塩船観音寺でお聞きしたところでは「阿弥陀堂裏手の丘陵裾部の墓所の場所が昔から入定塚と呼ばれている」ということなので、早速引き返してその墓所を訪れてみました。画像がその墓所のようすです。
多くの石造物が祀られているようですが、自然地形である丘陵の斜面を平らに削った場所であるようで、特に塚らしきマウンドは存在しないようです。入定塚という名称からしてかつては行者や修験者の入定伝説が残されていたのか、それとも供養塚の一種であるのか、というところですが、塚の由来については塩船観音寺でもわからないということのようです。。。

入定塚と呼ばれる墓所から南西側にさらに下った場所には、塚状のマウンドが存在します。『青梅市の埋蔵遺跡』にある「塩船観音寺阿弥陀堂裏」と、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の「丘陵裾部」、「残存、径10m」という記述からするとこの塚が「入定塚」ではないかと考えられますが、特に説明板などは存在しないようです。。。
八百比丘尼が紫金の千手観音像を安置したことにより開山したと伝わるこの塩船観音寺ですが、八百比丘尼とは、若狭国(現在の福井県)に暮らしていた漁師の娘が、人魚の肉を食してしまったことにより不老不死となり、その後娘は出家して八百比丘尼と呼ばれる僧侶となって諸国をを行脚したといわれており、全国各地に八百比丘尼にまつわる伝説が残されています。八百比丘尼は800歳まで生きた後、若狭に渡って死んだと伝えられており、福井県小浜市の空印寺には八百比丘尼が入定したとされる洞窟が残されているそうです。果たしてこの八百比丘尼の伝説と入定塚には何か関連があるのかもしれませんが、真相はわかりませんでした。

塩船観音寺境内のようすです。本当に舟のような形をしています。『東京都遺跡地図』には、この小丘の斜面に「青梅市№118遺跡」という名称の横穴墓が登録されています。。。
<参考文献>
青梅市教育委員会『青梅市の埋蔵遺跡』
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塩船観音寺『塩船観音寺公式ホームページ』
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- 2016/12/09(金) 09:24:49|
- 青梅市の古墳・塚
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『東京都遺跡地図』によると、青梅市内には発掘調査により確認された古墳は存在しないようですが、数多くの塚が登録されています。青梅市塩船の塩船寺裏手の墓地にはかつて2基の塚が存在したといわれており、『東京都遺跡地図』には青梅市の遺跡番号125番に「塚(2基)」という名称で中世に築造されたと推定される塚が登録されています。画像はその墓地周辺を南から見たところです。
この塚についてはあまり多くの情報を入手することができなかったのですが、昭和52年(1977)に青梅市教育委員会より発行された『青梅市の埋蔵遺跡』には「塩船寺裏尾根上、墓地造成のため破壊」と書かれており、また平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』でも「消滅」とされています。残念ながら2基の塚を姿を見ることはできないようです。
この塚は、青梅市の遺跡番号124番として登録されている「K-18遺跡」の包蔵地に含まれているようですが、この遺跡の時代は旧石器時代、縄文時代(早期~前期)、平安時代とあり、出土した遺物も尖頭器、縄文土器とありますので、やはりこの2基の塚も古墳ではなかったようです。。。
<参考文献>
青梅市教育委員会『青梅市の埋蔵遺跡』
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- 2016/12/06(火) 10:08:34|
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