
「河辺古墳群」は、青梅市河辺町3丁目に存在したとされる古墳群です。
『東京都遺跡地図』には、青梅市の遺跡番号90番の遺跡として登録されています。
この古墳は、明治年間に耕地拡大のために発掘されたもで、小さな墳丘を持つ「内部は石垣で石室のごときものを認め」られる「3基の古墳と思われるもの」が確認されており、2基からは直刀と思われるもの、そのうちの1基は須恵器のごとき壺が出土したといわれています。直刀は神社の庭に埋められ、また壺は他所に持ち去られたといわれ、所在はわからなくなっているようです。
これまで、発掘調査により確認された古墳で多摩川左岸において最も上流にあるとされているのは、昭島市の「浄土古墳群 」ということになると思われますが、もしこの河辺古墳群の存在に間違いがなければ、多摩川流域で最も上流にある古墳群ということになります。またそうなると、これまで古墳が確認されていない福生市や羽村市内に古墳が存在しなかったのかというところも気になるところです。
青梅市内の古墳はすべて学術的な調査が行われないまま消滅してしまっており、詳細はわからないのですが、河辺古墳群と呼ばれる3基の古墳とは別に、現在の青梅市立総合病院と同じ一段高い段丘上南端部からも、かつて古墳が発見されたとも伝えられているようです。
これらの伝承からすると、多摩川流域の最も上流に所在する古墳は、この河辺町周辺ということになりそうです。果たして青梅市内に古墳が存在したのかどうか、今後の調査の進展が楽しみな地域です。。。

画像は、河辺古墳群と同じ青梅市河辺町3丁目に所在する「春日神社」です。
古墳から発掘された直刀は、のちに神社の庭に埋められたといわれています。
これがどの神社に埋められたのかは不明なのですが、時間の許す限り周辺の神社を参拝しました。。。

画像は、東青梅4丁目の「石神社」です。
この神社は青梅市立総合病院の建設により西に移転したそうですが、市立総合病院と同じ段丘上南端部からも古墳が発見されているといわれています。
この神社が古墳と何か関係があるということはないのでしょうか。。。

石神社の分かれ道にあるのが「大山道の道標」です。
大日如来塔で、「右 大山八王子道 左 箱根 所沢道」と彫られています。
う〜ん。こういう分かれ道の間の三角地、怪しい。。。笑。
<参考文献>
青梅市史編さん実行委員会『定本市史 青梅』
青梅市役所『定本市史青梅』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2020/06/07(日) 23:09:18|
- 青梅市の古墳・塚
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現在の青梅市駒木町、青梅市と日の出町の境にある、通称「二ツ塚峠」と呼ばれる古道の頂部には、その地名の由来ともなっている「二ツ塚」が所在します。『東京都遺跡地図』には未登録となっているようですが、この塚にまつわる悲しい伝承は現代にも伝えられており、塚は今も地元の人に大切に供養されているようです。
今回は、この二ツ塚の探訪の記録です。
画像は、JR青梅駅から徒歩30分ほどでしょうか?「長淵山ハイキングコース」の入口付近の様子です。ここから南に向かって、しばらく山の中を歩きます。

こーんな感じで、ハイキングコースというよりは獣道に近いような道を40〜50分ほど歩きます。
私、古墳探訪はほとんど一人で歩き回っているのですが、この日は実は知人に付き合ってもらって二人で訪れました。この何ヶ月か前に、人気のほとんどないやはり青梅の山の中で、斜面を滑り落ちて酷い目にあったことがありました(まったくあの時は死ぬかと思いました。笑)。誰もいない山の中で怪我でもして動けなくなったらとビビってしまったわけですが、心霊スポットとしても取り上げられているこの二ツ塚が怖くなってしまったこともあったかもしれません。
帰宅後に何日かして、「撮影した写真にオーブが写っていた」と知人から連絡が来て、後日、見せてもらいましたが、シャボン玉のような円形のオーブがたくさん写っていました。あれは一体なんだったんだろう。。。

途中、倒木があって行く手を阻む感じ。

途中、石がゴロゴロ落ちていて行く手を阻む感じ。

途中、分かれ道が行く手を阻む感じ。

左から来た道と合流。
「二ツ塚峠」の文字が見えます。
もうすぐかな?

少し勾配が緩やかになってきました。

少し視界がひらけてきた突き当たりに、それらしき塚が見えます。
さらに近づいてみます。

立て札が見えるし、きっとここだよ。
やっと着いた。。。

二ツ塚です。

二ツ塚の由来を記した説明シートが置かれていました。
これが、二ツ塚に残る悲しき伝承です。
二ツ塚物語
旧二ツ塚の頂に、小さな二ツの塚があります。
桜の木の根元にあつて、今も花や水が供えられています。
今から何百年もの昔、
この峠の麓に貧しい母と娘が住んでいました。
不幸にして母親は、不治の病にかかりだんだん病も
悪くなり、死の近いことを悟っていました。
ある日のこと、見舞に来てくれた村人に、
母親はこんなことをお願いしました。
「わしはもうすぐ死ぬ。 わしは村の為に何の役に立つ事も
できなかった。だからわしを生きているうちに峠の頂に
埋めておくれ。死んだらこの峠を守るから」
それをきいていた娘は、母を思い、
「私を一緒に埋めておくれ」と涙ながらに頼みました。
しかたなく村人たちは大きな籠に母と娘を一緒に入れて
埋める事にしました。
村人たちは籠を峠の頂に埋め二ツの塚を作って
弔いました。
それ以来二ツ塚と呼ばれ、薄幸の親子を偲んで今も
掃除や土盛りをして供養をしているとのことです。
古の峠の道は変われども
塚となりてぞ今に残れる

言い伝えが史実であるとすれば、塚の性格としては「入定塚」ということになるのかもしれませんが、h発掘調査が行われていないことから塚の性格はわかりません。。
大きな塚の上にラクダのコブのような2つの小さな塚が乗っている、というかなり興味深い形状をしているようですが、悲しき母娘は今も旅人を見守っているのでしょうか。

二ツ塚の頂部の様子です。
大きな桜の木が植えられていて、2つの塚の間には石碑が建てられています。桜の木の根が露出してしまっているようすからすると、かつてはもう少し大きな塚だったのかもしれません。

木の幹に取り付けられた木札に、歌が詠まれていました。

帰りは「天狗岩」方向に山を下り、青梅市の郷土博物館を見学してから帰宅。
それにしても、青梅市内には古墳は残されていないようなのですが、以前取り上げた「鎧塚」や「比丘尼塚」等々、山中に言い伝えの残る大きな塚が数多く残されていて、とても見応えのある地域でした。
塚にまつわる伝承には、悲しいお話が多いですね。。。
<参考文献>
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』
現地説明版
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- 2019/11/18(月) 23:37:33|
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画像は、青梅市柚木町3丁目に所在する「青梅市№175遺跡」を東から見たところです。
東京都教育委員会より公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』によると、この塚は青梅市の遺跡番号175番に登録されており、時代は「中世」の、種別は「その他の墓」とされています。中世の塚とするならば、現存する「鎧塚」と同様に、「辛垣の合戦」での戦死者を埋葬した、または供養した塚ではないかとも考えられるところですが、発掘調査等は行われた記録はなく、塚の性格については不明で、出土品等も存在しないようです。

南から見た「№175遺跡」のようすです。塚は、円形ではなく楕円形を呈しているようです。
少なくとも、この塚に古墳の可能性はなさそうです。。。

塚の頂部は、ちょっと荒れた状態ではありますが、いくつかの石造物が祀られていたようです。

帰り道はなんと、吊り橋を渡って沢井駅に向かいます。
周辺には見学のできる酒造があってきき酒を行っていたり、「澤乃井櫛かんざし美術館」や「福島家住宅」などなど気になる場所もたくさんあり、後ろ髪を引かれながら戻りました。やはり平日の強行軍はいかんですよね。あとであらためてお休みの日にゆっくり来たい場所です。。。

軍畑駅同様に無人駅である沢井駅。いい感じです。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2018/06/04(月) 02:06:11|
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JR青梅線は、立川駅を過ぎたあたりから多摩川に沿うように走っていて、特に青梅駅を過ぎたあたりからは、多摩川の北側を並走しています。今回紹介する「鎧塚」が所在する「軍畑(いくさばた)」駅も、駅舎の北側は山林となっており、南側は多摩川に向かって段丘を降りる急坂となっています。この軍畑駅から南へ段丘を下りた都道193号下畑軍畑線の道路沿い、青梅市沢井1丁目に現存する塚が「鎧塚(よろいづか)」です。
余談になりますが、東京都内に無人駅があるんだということは、この鎧塚を訪れた時に初めて知りました。私の地元のさらに田舎では、無人駅など特に珍しくもなんともなかったんですが、東京にもあるんだ〜?と、ちょっと懐かしいような気持ちになりました。私の少年時代と違うなあと感じるのは、この軍畑駅は駅舎がちょっと近代的で格好良いんですよね。しかも、昔はSuicaなんかなかったから、乗客は、無人の駅舎の改札口に置かれた箱に勝手に切符を入れて降りていく、みたいな状況だったんですが、今は「ピッ」と電子音が鳴ったりしています。ほんの何十年かで世の中はどんどん変わってしまいますね。笑。

「鎧塚」は、軍畑駅から直線距離にして100メートルほどに位置しており、駅前のスペースから南東側を見下ろすと、円形の大きな鎧塚の姿を見ることができます。画像は、北西から見た鎧塚です。
『東京都遺跡地図』には、この鎧塚は青梅市の遺跡番号32番の”中世の塚”として登録されています。規模は、直径約30m、高さ約9mの円墳状の塚で、昭和35年(1960)には青梅市の史跡として指定されています。
江戸時代の地誌類には、鎧塚に関する多くの記述が残されており、『新編武蔵風土記稿』には「街道の傍にて小名軍場にあり、塚高き一丈餘、周廻十五間許、塚上六尺四方程の所に一尺餘の小祠を安す、鎧明神と号す二俣屋の城永禄六年落城のとき討死の者の丘器を埋めし塚なりと云、鉄器の破れ、又は刀剣の折れたつものを土人穿出せしことありと云。」とあり、また『武蔵名勝図会』には「小名軍端にて、街道の傍にあり。塚の高さ一丈余、廻り凡そ十五間程、塚の上は六尺四方程にて、ここに一尺ばかりの小祠あり。鎧明神と号す。土人はこの塚を穿ちて矢の根または鎧の錣、或は槍の穂その外種々の兵具を堀りだせしことありと云。合戦の後に討ち死せしものの兵具を埋めたる塚なり。奥沢橋より 二町程を隔つ。」と書かれています。
いわゆる「辛垣の合戦」と呼ばれる戦いで命を落とした、兵士や刀・鎧などの兵具を埋葬した塚ということのようですが、大きな塚を目の前で見ると、相当に多くの兵が戦死した、激しい戦いだったのであろうと想像してしまいます。ちなみにこの周辺の地名や、JR青梅線の駅名ともなっている「軍畑(いくさばた)」も、この辛垣の合戦に由来しているといわれています。

画像は、段丘を下りて東から見上げた「鎧塚」です。墳丘の裾部が一部削られているものの、かなり良好な状態で残されているのがわかります。段丘の下に降りて見上げてみると、塚の大きさを感じることが出来ます。
青梅市教育委員会により設置された説明板には次のように書かれていました。
市指定史跡 鎧塚
鎌倉時代末期から、この地方一帯の領主であった三
田氏は、永祿年間(一五六〇年代)北條氏照の軍勢に
攻められ、辛垣城において最期を遂げた。鎧塚は、こ
の戦いの際に戦死した武者の兵器を埋め、供養した塚
と伝えられている。
『新編武蔵風土記稿』には、「街道の傍にて小名
軍場にあり、塚高さ一丈(三・〇三m)餘、周廻十
五間(二七・二七m)許、塚上六尺(一・八二m)
四方程の所に一尺(三〇・三m)餘の小祠を安す、鎧
明神と號す、二俣尾の城、永祿六年(一五六三)落
城のとき、討死の者の兵器を埋し塚なりと云、鐵器の
破れ又は刀剱の折れたるものを土人穿出せしことあ
りと云」とある。
昭和三十五年十一月三日 指定
青梅市教育委員会
画像は鎧塚の頂部のようすです。祠が祀られていますが、これはかつて鎧塚大明神と呼ばれた神社で、享保16年(1731)に再建されたという記録が残されているそうです。塚に埋葬された戦死者の霊を祀ったものであるといわれています。

塚の前には地蔵尊がが祀られています。宝暦10年(1760)3月の伊奈石製の地蔵尊です。
実は、今回のこの鎧塚の画像は3年ほど前のものなのですが、最新のGoogleマップのストリートビューで確認すると、塚の前の道路の工事が行われていて、パワーシャベルが塚に向かっているようなようすが見られます。ほんの一部であっても、塚自体が削られてしまわなければいいなあと、ちょっと心配になります。
画像は、鎧塚から、南西の「軍畑大橋」を見たところです。この日はこの後、軍畑大橋を渡ってお隣の沢井駅までぶらぶらと30分ほど歩きました。沢井駅近くの、中世の墳墓であるとされる「№175遺跡」を見学してから、午後はなんと仕事に向かうわけですが、思えばこのころはかなりチャレンジャーでしたね。笑。

この辺りまで来ると、多摩川の水はまだ綺麗に透き通っていて、本当にここが東京都なのかと目を疑いたくなるような、美しい景観が広がっています。(仕事に行くの、イヤになっちゃうんですよね。笑)
次回の「№175遺跡」に続く。。。
<参考文献>
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
現地説明版
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- 2018/05/30(水) 08:13:34|
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青梅市二俣尾に所在する「海禅寺」は瑞龍山と号し、本尊は釈迦如来です。室町時代に群馬県白井の雙林寺2世、一州正伊を開祖として開かれたといわれています。この地方を支配していた三田氏の菩提寺であったといわれており、厚い保護を受けていたそうです。
この海禅寺の本堂西側の坂道を100メートルほど登った墓地の一角に、五輪塔が建てられている場所があり、「首塚」と呼ばれています。

画像が「首塚」の現在のようすです。
説明板が建てられているようなのですが、これは残念ながら日に焼けてしまっていて、まったく文字を読むことができませんでした。
画像の右側に見えるのが五輪塔で、永禄年間(1558~1570)に五世の僧禅染が建てたといわれています。また左側の石の祠は「三田稲荷社」で、寛政年間に23世和尚が綱秀の霊を祀ったと海禅寺の記録に残されているそうです。『定本市史 青梅』では、この五輪塔は北條氏の治世に世を忍んでひそかに建てられた綱秀の墓ではないかとしていますが、『青梅を歩く本』では、形式からして、三田氏の墓と同じく江戸時代初期のものではないかとも書かれています。

首塚は、塚と呼ばれて入るもののマウンドは存在せず、周囲は墓域として整地されています。以前は山中の竹林に存在したようなので、かつては盛土が存在したのかもしれませんが、真相はわかりませんでした。。。
<参考文献>
青梅市史編さん実行委員会『定本市史 青梅』
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』
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- 2018/05/26(土) 12:27:29|
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