古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「青梅市№175遺跡」

「青梅市№175遺跡」

 画像は、青梅市柚木町3丁目に所在する「青梅市№175遺跡」を東から見たところです。

 東京都教育委員会より公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』によると、この塚は青梅市の遺跡番号175番に登録されており、時代は「中世」の、種別は「その他の墓」とされています。中世の塚とするならば、現存する「鎧塚」と同様に、「辛垣の合戦」での戦死者を埋葬した、または供養した塚ではないかとも考えられるところですが、発掘調査等は行われた記録はなく、塚の性格については不明で、出土品等も存在しないようです。


「青梅市№175遺跡」

 南から見た「№175遺跡」のようすです。塚は、円形ではなく楕円形を呈しているようです。
 少なくとも、この塚に古墳の可能性はなさそうです。。。


「青梅市№175遺跡」

 塚の頂部は、ちょっと荒れた状態ではありますが、いくつかの石造物が祀られていたようです。


「青梅市№175遺跡」

 帰り道はなんと、吊り橋を渡って沢井駅に向かいます。
 周辺には見学のできる酒造があってきき酒を行っていたり、「澤乃井櫛かんざし美術館」や「福島家住宅」などなど気になる場所もたくさんあり、後ろ髪を引かれながら戻りました。やはり平日の強行軍はいかんですよね。あとであらためてお休みの日にゆっくり来たい場所です。。。


「青梅市№175遺跡」

 軍畑駅同様に無人駅である沢井駅。いい感じです。。。

<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2018/06/04(月) 02:06:11|
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「鎧塚」ー青梅市指定史跡ー

「鎧塚」ー青梅市指定史跡ー

 JR青梅線は、立川駅を過ぎたあたりから多摩川に沿うように走っていて、特に青梅駅を過ぎたあたりからは、多摩川の北側を並走しています。今回紹介する「鎧塚」が所在する「軍畑(いくさばた)」駅も、駅舎の北側は山林となっており、南側は多摩川に向かって段丘を降りる急坂となっています。この軍畑駅から南へ段丘を下りた都道193号下畑軍畑線の道路沿い、青梅市沢井1丁目に現存する塚が「鎧塚(よろいづか)」です。

 余談になりますが、東京都内に無人駅があるんだということは、この鎧塚を訪れた時に初めて知りました。私の地元のさらに田舎では、無人駅など特に珍しくもなんともなかったんですが、東京にもあるんだ〜?と、ちょっと懐かしいような気持ちになりました。私の少年時代と違うなあと感じるのは、この軍畑駅は駅舎がちょっと近代的で格好良いんですよね。しかも、昔はSuicaなんかなかったから、乗客は、無人の駅舎の改札口に置かれた箱に勝手に切符を入れて降りていく、みたいな状況だったんですが、今は「ピッ」と電子音が鳴ったりしています。ほんの何十年かで世の中はどんどん変わってしまいますね。笑。


「鎧塚」ー青梅市指定史跡ー

 「鎧塚」は、軍畑駅から直線距離にして100メートルほどに位置しており、駅前のスペースから南東側を見下ろすと、円形の大きな鎧塚の姿を見ることができます。画像は、北西から見た鎧塚です。

 『東京都遺跡地図』には、この鎧塚は青梅市の遺跡番号32番の”中世の塚”として登録されています。規模は、直径約30m、高さ約9mの円墳状の塚で、昭和35年(1960)には青梅市の史跡として指定されています。
 江戸時代の地誌類には、鎧塚に関する多くの記述が残されており、『新編武蔵風土記稿』には「街道の傍にて小名軍場にあり、塚高き一丈餘、周廻十五間許、塚上六尺四方程の所に一尺餘の小祠を安す、鎧明神と号す二俣屋の城永禄六年落城のとき討死の者の丘器を埋めし塚なりと云、鉄器の破れ、又は刀剣の折れたつものを土人穿出せしことありと云。」とあり、また『武蔵名勝図会』には「小名軍端にて、街道の傍にあり。塚の高さ一丈余、廻り凡そ十五間程、塚の上は六尺四方程にて、ここに一尺ばかりの小祠あり。鎧明神と号す。土人はこの塚を穿ちて矢の根または鎧の錣、或は槍の穂その外種々の兵具を堀りだせしことありと云。合戦の後に討ち死せしものの兵具を埋めたる塚なり。奥沢橋より 二町程を隔つ。」と書かれています。

 いわゆる「辛垣の合戦」と呼ばれる戦いで命を落とした、兵士や刀・鎧などの兵具を埋葬した塚ということのようですが、大きな塚を目の前で見ると、相当に多くの兵が戦死した、激しい戦いだったのであろうと想像してしまいます。ちなみにこの周辺の地名や、JR青梅線の駅名ともなっている「軍畑(いくさばた)」も、この辛垣の合戦に由来しているといわれています。


「鎧塚」ー青梅市指定史跡ー

 画像は、段丘を下りて東から見上げた「鎧塚」です。墳丘の裾部が一部削られているものの、かなり良好な状態で残されているのがわかります。段丘の下に降りて見上げてみると、塚の大きさを感じることが出来ます。
 青梅市教育委員会により設置された説明板には次のように書かれていました。

   市指定史跡 鎧塚
 鎌倉時代末期から、この地方一帯の領主であった三
田氏は、永祿年間(一五六〇年代)北條氏照の軍勢に
攻められ、辛垣城において最期を遂げた。鎧塚は、こ
の戦いの際に戦死した武者の兵器を埋め、供養した塚
と伝えられている。
 『新編武蔵風土記稿』には、「街道の傍にて小名
軍場にあり、塚高さ一丈(三・〇三m)餘、周廻十
五間(二七・二七m)許、塚上六尺(一・八二m)
四方程の所に一尺(三〇・三m)餘の小祠を安す、鎧
明神と號す、二俣尾の城、永祿六年(一五六三)落
城のとき、討死の者の兵器を埋し塚なりと云、鐵器の
破れ又は刀剱の折れたるものを土人穿出せしことあ
りと云」とある。
   昭和三十五年十一月三日 指定
              青梅市教育委員会



「鎧塚」ー青梅市指定史跡ー

 画像は鎧塚の頂部のようすです。祠が祀られていますが、これはかつて鎧塚大明神と呼ばれた神社で、享保16年(1731)に再建されたという記録が残されているそうです。塚に埋葬された戦死者の霊を祀ったものであるといわれています。


「鎧塚」ー青梅市指定史跡ー

 塚の前には地蔵尊がが祀られています。宝暦10年(1760)3月の伊奈石製の地蔵尊です。

 実は、今回のこの鎧塚の画像は3年ほど前のものなのですが、最新のGoogleマップのストリートビューで確認すると、塚の前の道路の工事が行われていて、パワーシャベルが塚に向かっているようなようすが見られます。ほんの一部であっても、塚自体が削られてしまわなければいいなあと、ちょっと心配になります。


「鎧塚」ー青梅市指定史跡ー
 
 画像は、鎧塚から、南西の「軍畑大橋」を見たところです。この日はこの後、軍畑大橋を渡ってお隣の沢井駅までぶらぶらと30分ほど歩きました。沢井駅近くの、中世の墳墓であるとされる「№175遺跡」を見学してから、午後はなんと仕事に向かうわけですが、思えばこのころはかなりチャレンジャーでしたね。笑。


「鎧塚」ー青梅市指定史跡ー

 この辺りまで来ると、多摩川の水はまだ綺麗に透き通っていて、本当にここが東京都なのかと目を疑いたくなるような、美しい景観が広がっています。(仕事に行くの、イヤになっちゃうんですよね。笑)

 次回の「№175遺跡」に続く。。。

<参考文献>
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
現地説明版


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  1. 2018/05/30(水) 08:13:34|
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「三田綱秀首塚」

 青梅市二俣尾に所在する「海禅寺」は瑞龍山と号し、本尊は釈迦如来です。室町時代に群馬県白井の雙林寺2世、一州正伊を開祖として開かれたといわれています。この地方を支配していた三田氏の菩提寺であったといわれており、厚い保護を受けていたそうです。
 この海禅寺の本堂西側の坂道を100メートルほど登った墓地の一角に、五輪塔が建てられている場所があり、「首塚」と呼ばれています。

「三田綱秀首塚」

 画像が「首塚」の現在のようすです。
 説明板が建てられているようなのですが、これは残念ながら日に焼けてしまっていて、まったく文字を読むことができませんでした。
 画像の右側に見えるのが五輪塔で、永禄年間(1558~1570)に五世の僧禅染が建てたといわれています。また左側の石の祠は「三田稲荷社」で、寛政年間に23世和尚が綱秀の霊を祀ったと海禅寺の記録に残されているそうです。『定本市史 青梅』では、この五輪塔は北條氏の治世に世を忍んでひそかに建てられた綱秀の墓ではないかとしていますが、『青梅を歩く本』では、形式からして、三田氏の墓と同じく江戸時代初期のものではないかとも書かれています。


「三田綱秀首塚」

 首塚は、塚と呼ばれて入るもののマウンドは存在せず、周囲は墓域として整地されています。以前は山中の竹林に存在したようなので、かつては盛土が存在したのかもしれませんが、真相はわかりませんでした。。。

<参考文献>
青梅市史編さん実行委員会『定本市史 青梅』
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』


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  1. 2018/05/26(土) 12:27:29|
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「塚(三基)」

「塚(三基)」

 『東京都遺跡地図』には、青梅市の遺跡番号107番に「塚(三基)」という名称の中世の塚が登録されています。そのままじゃないか!というネーミングもさることながら、まだ開発の手の及んでいない青梅市内の山林に存在する塚ということで、かなり良い状態で残されているのではないかという期待感もあり、見学に訪れてみたのですが。。。

 というわけで、画像は、青梅市塩船にある「塩船神明社」です。『東京都遺跡地図』の分布図を参考にすると、鳥居をくぐって参道を登った山の中腹に社殿があり、更にその奥の裏山の頂部か尾根のあたりに塚が存在するはずです。


「塚(三基)」

 この場所を訪れるにあたって、『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』からプリントアウトした地図を参考にしました。ネット上の遺跡分布地図に記された塚の位置が、必ずしも正確なのもではないことは理解していましたが、3基の塚が山林に存在しているなら、すぐに見つかるだろうと思っていました。
 画像は、塩船神明社の社殿のようすです。背後に見える裏山を100メートルほど登れば、3基の塚が存在するはずです。


「塚(三基)」

 画像は、塩船神明社裏山の山頂に行き着く直前の丘陵斜面のようすです。
 神明社の境内社の裏から塚の所在地と思われる山の頂部を目指して登って行ったのですが、なんと!山頂に辿り着く直前にカメラの電池の残量を使い切ってしまって、塚を発見できたとしても写真に収めることが不可能な状況になってしまいました。掲載した画像は、山頂にたどり着く直前の、この日の最後の一枚です。しかもこの日は、転倒して肩を痛めてしまっていたので、心も折れてしまっていたかもしれません。。。
 その後、丘陵頂部の平坦な場所までは登って行ったのですが、塚を見つけることはできずに、深追いせずに諦めて山を降りてしまいました。

 その後に調べてみたところでは、青梅市郷土資料館より発行された『青梅市の埋蔵遺跡』には「塩船観音寺南方、吹上との境をなす尾根上」とあり、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「山地斜面 3基、部分消滅、径5m」とも書かれています。ひょっとしたら山頂の平らな地点ではなく、周辺のどこかに塚が残されていたかもしれないのですが、今となっては後の祭りですね。。。
 いつかリベンジのチャンスがあればもう一度チャレンジしようかとも思っていますが、今のところその機会はありません。
 うーん。見逃していたかもしれないなあ。。。

<参考文献>
青梅市郷土資料館『青梅市の埋蔵遺跡』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』


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  1. 2018/05/25(金) 01:39:39|
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「一里塚のエノキ」―青梅市天然記念物―

「一里塚のエノキ」―青梅市天然記念物―

 画像は、青梅市今寺2丁目、今寺交差点の北東角にある「一里塚のエノキ」です。青梅市の天然記念物に指定されているこの一里塚は、青梅駅からちょうど一里(約4km)の距離にあり、山根道(根通り道)と伝馬街道が交差するところにあります。「根通り道」の一里塚として江戸時代に植えられたと伝わる、青梅市内に残されている唯一の一里塚です。

 江戸時代の八王子代官である大久保石見守長安は、この周辺地域の水田開発や堤防や橋の築造、また甲州街道、五日市街道、青梅街道といった街道造りにも貢献しているそうです。街道の改修工事を行っていた長安は、見渡す限りの原野であった武蔵野に目印になる山や大きな木がなかったため、一里塚に目印になるような大きな木を植えようと考えたそうです。時の将軍秀忠公にお伺いに上がり、「一里塚に木を植えたいが、松の木ではスギやヒノキと紛らわしいのですが、いかがいたしましょうか?」と尋ねたところ、秀忠公は「”余の木”(他の木)を植えたらよかろう」と答えたのだそうです。この頃少し耳が遠くなっていた長安は、「上様の言われた通り、早速一里塚に”榎(エノキ)”を植えよ」と 、「余の木」と「榎」を聞き間違えて榎を一里塚に植えさせたと言われています。何のことはない、オチはオヤジギャグかよという感じですが(笑)今寺の榎はこの時に植えられたようです。。。


「一里塚のエノキ」―青梅市天然記念物―

 榎の根元は盛り上がっていて、塚の面影を残しています。青梅市教育委員会による説明板が立てられており、次のように書かれています。

市天然記念物 一里塚のエノキ
 江戸時代、街道の里程標
として植えられたという。
いわゆる「一里塚の榎」の
今に残る一本である。ここ
では川越街道とよばれた道
路の里程を示すために植え
られたものである。
植物名 ニレ科 エノキ
幹の太さ 三四七センチメートル
 昭和三十二年十一月三日 指定
    青梅市教育委員会


<参考文献>
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』
現地説明版


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  1. 2016/12/15(木) 01:36:19|
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