
前回は、杉並区大宮2丁目の高千穂大学構内から発掘調査により確認された「高千穂大学大宮遺跡1号墳」を紹介しましたが、敷地内にはもう1基、古くから古墳ではないかと考えられてきたマウンドが存在します。
昭和30年(1955)に東京都杉並区役所より発行された『杉並区史』の「区内発見古墳地名表」には「大宮町高千穂商業内、約30基と伝ういま湮滅してなし」とあり、かつての古墳群の存在を連想させる記述を見ることが出来ます。30基もの古墳が存在したのであれば、高千穂大学の敷地だけでなく隣接する大宮八幡宮や宅地化されている周辺も含めて広い範囲に古墳群が形成されていたのではないかと考えられますが、この約30基といわれる古墳がいつ頃まで残存していたのか、また出土品等の詳細についてはわかりません。その後、昭和50年(1975)に杉並郷土史会により発行された『杉並歴史探訪』にその後の古墳についての記述があり、「高千穂学園は明治四十三年頃、大宮八幡から一万七千坪買って、大正三年に開校したのですが、校地内に塚(円墳)が三個あったので、川田校長が標柱を建てられたそうだ。(中略)三個の円墳のうち二箇所は校地整備の際発掘したが、深く掘らなかったためか、何も出土しなかった。一箇所は、昔の面影は少しもないが、現存している」と書かれています。
画像は、残存する最後の1基と考えられるマウンドを南から見たところです。

このマウンドの北側には善福寺川が大きく蛇行する状況で流れ、長い間の河川の蛇行により舌状台地が形成されています。この台地上に旧石器時代から縄文、弥生、古墳、奈良、平安、鎌倉、そして江戸時代へと続く複合遺跡が残されており、さらにこの古墳ではないかと考えられるマウンドも、同じ舌状台地上に存在します。
画像は現在の墳頂部のようすです。墳丘は四方を削られて方形に改変されており、中央には「浦門川田先生像」と刻まれた像が建てられています。とても古墳には見えない状況で、この大学の卒業生であるという知人に尋ねてみたところ、敷地内に古墳が残されていることなど全く知りませんでした。。。

墳丘を南西から見たところです。実は意外と高さが残されていることがわかります。

隣接する「和田堀公園大宮遺跡」からは、弥生時代後期の方形周溝墓3基が調査されており、ここから出土した19点の遺物は杉並区の有形文化財に指定されています。大宮八幡宮の敷地内には杉並区教育委員会による説明板が設置されており、この方形周溝墓についての記述もみられるようです。
大 宮 八 幡 宮
当宮は古く、江戸八箇所八幡のうちに数えられた大社です。大宮と
よばれるのは、往古から広大な境内をもつ社であったことから、社名
とも、また鎮座地の地名にもなったといわれています。
祭神は応神天皇(誉田別尊)、仲哀天皇(帯仲彦尊)、神功皇后(息長
足比売尊)の三神で、創立については、当宮の縁起(天正十九年奥付)
に「平安時代末、源頼義が奥州へ出陣の際、当地で白雲が八つ幡のよ
うにたなびく瑞祥をみて、八幡大神の霊威を感じ勝利を得ることがで
きた。この報賽のため康平六年(一〇六三)、この地に源氏の氏神であ
る八幡神を祀ったのが、当宮の起源である。」と記されています。
南北朝時代の貞治元年(一三六二)十二月、大宮の社僧が紀伊国(和
歌山県)熊野那智大社に納めた願文の写し(米良文書)があり、これ
によると、その頃から当宮に奉仕する社僧のいたことがわかります。
徳川時代には代々朱印地三十石を与えられて、大名や武士たちからも
武勇の神として崇敬されてきました。
昭和四十四年には、善福寺川に面する旧境内地から、首長の墓とみ
られる方形周溝墓三基が発掘されました。また対岸の松ノ木台地から
も竪穴住居あと群や、縄文・弥生・古墳時代の各期にわたる遺物が数
多く出土しているので、当宮の周辺は、古くから集落がいとなまれ、
その中心地として重要な地域であったことがうかがわれます。
社宝には、豊臣秀吉の制札・由比正雪の絵額・山岡鉄舟筆の幟・武
術練達祈願の額などがあります。
昭和55年2月20日
杉並区教育委員会 高千穂大学構内のマウンドは、学術的な調査が行われていないことから古墳であると断定はされておらず、『東京都遺跡地図』にも未登録となっています。
もしこの塚が古墳であるならば、杉並区内で唯一墳丘の残る古墳ということになります。いずれ行われるであろう調査の日を楽しみに待ちたいと思います。。。
<参考文献>
東京都杉並区役所『杉並区史』
森泰樹『杉並風土記 下巻』
森泰樹『杉並歴史探訪』
高千穂大学大宮遺跡発掘調査委員会『高千穂大学大宮遺跡』
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- 2017/09/08(金) 02:05:19|
- 杉並区の古墳・塚
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画像は、杉並区大宮2丁目の「高千穂大学大宮遺跡1号墳」の所在地を南東から見たところです。
『東京都遺跡地図』には「高千穂大学大宮遺跡」が杉並区の遺跡番号180番の遺跡として登録されていますが、近年の発掘調査により、この敷地内から杉並区内で初めての古墳の周溝が発見されています。
平成13年、学校法人高千穂学園高千穂大学による建築事業計画に伴う試掘調査が行われ、環濠と思われる溝の一部と住居址と思われる落ち込み、土坑などの遺構が検出され、弥生時代後期及び古墳時代後期の土器片や埴輪片、中世の陶磁器編などが出土しており、その後の平成14年に行われた発掘調査により、古墳の西側半分が検出されています。古墳は円墳であると推定されており、周溝外径の最大径は19.5m、周溝内側の墳丘相当部の最大径は13.4mで、陸橋が検出されています。埋葬施設は検出されなかったようですが、遺構外から埴輪片が出土しており、これは杉並区内では3例しかない出土例であるそうです。
昭和30年(1955)に発行された『杉並区史』の「区内発見古墳地名表」には、この周辺に約30基もの古墳が存在していたという伝承が記されており、また大正3年の開校以前には3基の古墳が存在していたという文献の記録も残されているという中、この1号墳の発見は、この地の古墳群の存在を裏付ける存在となるのかもしれません。。。
<参考文献>
東京都杉並区役所『杉並区史』
高千穂大学大宮遺跡発掘調査委員会『高千穂大学大宮遺跡』
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- 2017/09/07(木) 01:12:41|
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「かんかん塚」は、杉並区阿佐谷南2丁目に所在したといわれる塚です。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、地元にはこの塚にまつわる言い伝えが残されているようです。
昔、長い間五穀と肉類を断って木食修行をしてきたというやせ衰えた旅の行者が、阿佐ヶ谷村の名主である相沢喜兵衛さん宅を訪れ、「自分の寿命があと二十日程しか残されていないことがわかったので、穴を掘って生き埋めにしてほしい」と頼み込んだそうです。
名主は、村の人を集めて協力を求め、行者は翌朝、水ごりで身を清めてから白衣に着替え、座禅を組んでから名主の案内で村はずれの山に向かいました。前日に掘られた墓穴の廻りには、生き仏を拝もうと大勢の村人が集まっていたそうです。
行者は「地下から鉦(かね)の音が聞こえる間は、毎日お椀で一杯の水を息抜き用の竹の穴へ流し込み、鉦の音が聞こえなくなったら竹を引き抜いて穴を埋めてくれ」と村人に頼み、塚の中に入ったそうです。
竹の穴から鉦の音が聞こえる間は村人たちが毎日水を流し込みましたが、21日後に鉦の音が聞こえなくなり、村人たちが供養をした上で竹を引き抜き、塚を埋めたそうです。
その後、村人がここを通るとカンカンと鉦の音がすると評判になり、塚は「かんかん塚」と呼ばれるようになったといわれています。
塚は、大正末期には道路の拡張により一部を削られ、その後の宅地造成により残存部分が削平されて姿を消しています。画像の道路の右側が、かんかん塚の所在地とされる阿佐ヶ谷南2丁目22番地ですが、塚の正確な位置はすでにわからなくなっているようです。道路の拡張により削られたということですから、おそらくはこの道路沿いの右側あたりに存在したのではないかと考えられますが、残念ながら塚の痕跡はまったく残されていないようです。。。
<参考文献>
森泰樹『杉並の伝説と方言』
杉並区教育委員会『杉並の通称地名』
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- 2017/09/05(火) 23:41:33|
- 杉並区の古墳・塚
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画像は、杉並区和田1丁目に所在する「本村原遺跡C地点」周辺を南西から見たところです。
この遺跡は古くから古墳時代の遺物包蔵地として知られており、昭和30年(1955)発行の『杉並区史』138ページに掲載されている「区内発見古墳地名表」には「和田本町983附近」の高塚として「東京市町名沿革史・群在という・今なし」とあり、出土遺物として「刀・槍(?)」をあげています。
この、かつての古墳の存在の可能性が考えられる地域での学術的な調査が行われたのは平成19年(2007)、女子美術大学の校舎の改築に伴う発掘調査により、旧石器時代の炭化物集中部や縄文時代の陥し穴、弥生時代や平安時代の住居跡や近世の遺構・遺物群などが検出されています。そして、このほかに小形の円筒埴輪か形象埴輪の破片3点が出土しています。
杉並区内で3例目となるこの3点の埴輪片の発見は表土や近世の遺構覆土からであり、残土がほかの場所から流れ込んだ可能性もあることから、古墳の正確な所在地を特定することは困難な状況です。また、報告書が未刊であることから埴輪片の出土した位置もわからないのですが、少なくとも付近に古墳が存在したことは間違いないようです。
今後の周辺地域の調査により古墳の発見の可能性は高まっているのかもしれませんね。。。
<参考文献>
杉並区立郷土博物館『炉辺閑話 No.40』
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- 2017/08/26(土) 00:11:01|
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「本村原遺跡」は、小沢川(現在は暗渠となっている)に面した低地に広がる微高地上に存在する遺跡で、『東京都遺跡地図』には、杉並区の遺跡番号174番に登録されている遺跡です。
平成5年(1993)の住宅改築工事に伴う発掘調査により、縄文時代後期のフラスコ状ピットや奈良・平安時代の須恵器破片とともに、円筒埴輪の破片が出土しています。わずかに2点のみではあるものの杉並区内からは初めての検出で、この発見により、周辺地域の高塚古墳の存在が想定されています。
画像が、杉並区和田1丁目の「本村原遺跡」周辺のようすです。周溝や埋葬施設は未確認であるため、古墳の正確な所在地は不明ですが、埴輪片が出土したのは、基礎工事が行われている敷地のさらに右奥あたりです。
その後の、平成19年(2007)の女子美術大学の校舎改築に伴う発掘調査により、やはり小形の埴輪片3点が出土していることから、複数の古墳が存在した可能性も有り、杉並区内の古代史を大きく塗り替える発見となるようです。
<参考文献>
杉並区立郷土博物館『杉並の考古展 ―10年間の発掘から交流のあしあとを探る―』
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- 2017/08/25(金) 01:14:52|
- 杉並区の古墳・塚
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東京都杉並区井草2丁目8に所在したといわれる塚が「念佛塚」です。『東京都遺跡地図』には未登録で、すでに消滅して存在しない塚ですが、この塚にも文明9年(1477年)4月に豊島泰経と太田道灌との間で行われた「江古田・沼袋原の合戦」の戦死者を葬ったとされる言い伝えが残されているようです。
画像は、念佛塚の跡地周辺を北東から見たところです。かつての念佛塚は、旧早稲田通りの西側3m程の地点に2mほどの高さで存在したといわれています。画像の手前が旧早稲田通りで、駐車場の敷地のあたりが塚の所在地となるようですので、おそらく駐車場の入り口あたりに念佛塚が存在したものと思われますが、残念ながら痕跡は何も残されていません。塚は十坪程の広さで欅の木が生えており、塚のあった山は周辺地域では「念佛山」と呼ばれていたそうですが、大正の初め頃に畑地化のための開墾が行われ、塚の盛土は畦の埋立てのために使われて削平されてしまいました。
学術的な調査がおこなわれた記録は無く、また出土した遺物等も存在しないこの塚の性格を知る術は残されていないようです。。。
<参考文献>
井口龍蔵『井草のかたりぐさ ―大正のころの八成―』
杉並区教育委員会『杉並の通称地名』
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- 2017/01/27(金) 02:34:11|
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画像は、杉並区桃井1丁目の「お古里塚」が所在したとされる周辺を西から見たところです。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、塚にはさまざまな言い伝えが残されており、古墳である可能性も指摘されているようです。
江戸時代の初め頃、この周辺は井口長佐衛門というお百姓さんの所有地だったことから「長佐衛門原」がなまって「チョウセンパラ」と呼ばれていたそうです。長佐衛門は当時、薄の原っぱだったこの土地にクヌギやコナラなどの落葉樹を植えて雑木林にした後、ところどころに畑を開墾しました。この林の中にはいくつもの塚が散在していたそうですが、その後大正の半ば頃にはほとんどの塚は開墾により消滅し、一番大きかったお古里塚が残されていたようです。
一説にはこの塚は、室町時代後期の文明9年(1477年)4月に豊島泰経と太田道灌との間で行われた江古田・沼袋原の合戦の戦死者を集めて葬ったところで、鎧や兜、刀、槍などが埋められているために、これを掘り返すと”おこり”(熱病)になるという言い伝えがあり、このため誰も手をつけずに取り崩されなかったのではないかといわれています。
塚は、明治時代に周辺の小さな塚を取り崩したときに、鎧の破片らしい鉄屑が残っていたという話があり、お古里塚周辺にあった小さな塚も皆、太田軍の将兵の墓だったのではないかともいわれているようですが、この遺物は残されていないため真相はわかりません。また、戦後に塚の一部を整備した際に応安2年(1369)銘の板碑が出土していることから、江古田・沼袋原の合戦以前の古墳ではないかとする説があり、また塚は鎌倉時代に築造された塚に江古田・沼袋原の合戦の戦死者を併葬したもので、”おこり”になるという伝説は塚を保護するための作られた伝説ではないか、とさまざまな説があるようです。
昭和30年(1955)に発行された『杉並区史』では「あるいは古墳であるかも知れない」と古墳の可能性も指摘しているようですが、すべての塚が消滅してしまった現在では塚の性格を知ることは出来ないようです。。。
<参考文献>
森泰樹『杉並の伝説と方言』
森泰樹『杉並歴史探訪』
森泰樹『杉並風土記 上巻』
東京都杉並区役所『杉並区史』
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- 2017/01/23(月) 00:52:10|
- 杉並区の古墳・塚
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これまでに、江古田、沼袋を中心に中野区内に所在したといわれる、「江古田・沼袋原の合戦」の戦死者を葬ったとされる7ヶ所の「豊島塚」を紹介してきましたが、この周辺地域である杉並区や練馬区内にもこの合戦の戦死者を葬ったとされる塚が存在したようです。
杉並区高円寺南2丁目周辺には「六つ塚」と呼ばれる数基の塚群が存在したといわれています。この塚群は開発によりすべて消滅しており、『東京都遺跡地図』にも未登録の言い伝えのみに残る塚ですが、高円寺図書館の敷地内に杉並区教育委員会による説明板を見ることができます。
六 つ 塚 跡
図書館前の路を北に六〇メートルほど行った辺り(名取眼
科医院付近)に、かつて六基の塚があり、地元の人々はそれ
を「六つ塚」と呼んでいました。
塚はいずれも土まんじゅうのような円墳型をしており、四
基は小塚でしたが二基は高さ四メートル、直径が六メートル
ほどの大塚で、頂には木が生え、裾には小さな窪みがあった
と伝えられています。
雑木林の中にあったこの塚は、その頃はまだ当図書館の場
所にあった杉並第三小学校の児童たちの恰好の遊び場で、腕
白どもは学校の行き帰りや休み時間に、よく塚に登って遊ん
だということです。
また、当図書館の一帯が昭和の初め頃まで「むつづか」の
通称で呼ばれていたのも、この塚に由来していたのです。
しかし大正末年頃、塚は区画整理事業による桃園川流域低
湿地埋めたてのため、崩されてしまいました。その際、塚か
らボロボロになった刀などが出土したといわれ、こうした出
土品などから、塚は太田道灌と豊島氏との戦の死者を葬った
墓ではないか、との説もありますが、真偽のほどは不明です。
なお、六つ塚に近く、長く当図書館の地にあった杉並第三
小学校(前身は高円寺小学校)は、明治二十六年に開校した古
い歴史を持ち、昭和三十三年に現在の高円寺南一丁目へ移転
した学校です。
平成四年三月
杉並区教育委員会
六つ塚の跡地周辺のようすです。画像は跡地周辺を北東から見たところで、坂道を上がった右側が説明板の立つ高円寺図書館です。現地はなだらかな坂道となっているようですが、塚はこの斜面に存在したのか、それとも宅地造成が行われる以前の台地の縁辺部にしたのか、塚の正確な所在地がわからないので何ともいえないところです。6基存在したという塚の痕跡は全く残されていないようです。
江古田・沼袋原の合戦の戦死者を埋葬した塚ではないかという伝承について、『杉並の通称地名』では33ページで「いわゆる古墳ではなく、中世の死者を埋めたもののようである。」としながらも、81ページでは「古墳らしい塚が六基あった」と、塚が古墳であった可能性を感じさせる記述も見られます。果たしてこの地に古墳が存在したのか否か、塚が消滅して出土した遺物等もすでに存在しない今となっては真相を知ることは出来ないようです。。。
<参考文献>
杉並区教育委員会『杉並の通称地名』
現地説明版
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- 2017/01/21(土) 00:15:03|
- 杉並区の古墳・塚
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画像は、杉並区成田東5丁目にある「成宗弁財天社」を南東から見たところです。ここにかつて「成宗富士」と呼ばれる富士塚が存在したそうです。塚は大正7年頃に取り壊されて消滅しており、現在その姿を見ることは出来ませんが、当時「泥富士」とも呼ばれた塚は高さ12メートル程もある大きな富士塚であったようです。

画像は、「成宗弁財天社」の境内のようすです。敷地内には杉並区教育委員会による説明板が設置されており、この「成宗富士」についての記述も見ることが出来ます。
成宗弁財天社
当社は、成宗村がつくられたのと同じ頃、水神様のご加護を祈って、湧水池(弁天池、現在、神社裏手の住友銀行社宅内)のほとりに建立されたのが始まりと伝えられていますが、詳細は不明です。ご神体は、鎌倉時代に江ノ島弁財天で焚いた護摩の灰を練り固めて作ったという伝説のある、素焼きの曼陀羅像です。
近世の当社は、近在の村々の水信仰の中心地で、日照りが続くと人々は雨乞いのため、弁天社にお詣りし、弁天池の水を持ち帰る習慣であったといわれています。近代になっても大正初期頃までは富士登山・榛名詣り・大山詣り等の際には、弁天池で水ごりをして、道中の安全を願ったということです。
この弁天池は天保11年(1840)、馬橋村等が開さくした新堀用水の中継地として利用されましたが、その際池を掘り上げた土で、富士講のための築山をつくりました。成宗富士と呼ばれた富士塚がそれです。この富士塚は、大正七年頃にとりこわされましたが、境内の大日如来像・惣同行の碑・浅間神社・手水鉢などは、かつての成宗富士のおもかげを伝えています。
また、鳥居前に残る石橋・水路跡は天保用水の名残りで、板型の用水路記念碑と共に貴重な文化遺産です。
当社は、弁天講中の人々により手厚く守られて来ましたが、現在は隣接する須賀神社役員により引きつがれ、維持管理されています。
昭和60年3月
杉並区教育委員会

杉並区内に高さ12メートルもの富士塚が存在したとはまったく知りませんでしたが、その姿を見ることが出来ないことは残念に思います。この周辺には「儀右衛門塚」や「お釈迦塚」といった伝承に残る塚が存在したといわれており、この「成宗富士」が元々あった古墳か塚を流用して築造した可能性も考えましたが、詳細はわかりませんでした。。。
<参考文献>
杉並区立郷土博物館『炉辺閑話 杉並区立郷土博物館だより No.49』
現地説明版
- 2015/07/21(火) 01:09:58|
- 杉並区の古墳・塚
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画像は、杉並区善福寺1丁目にある「富士塚」を南西から見たところです。杉並区内に現存する富士塚としては唯一のもので、『東京都遺跡地図』には未登録の塚です。
この富士塚は、「井草八幡宮」の北側、参拝者用の駐車場の横に浅間神社の祠とともに祀られています。かつては「井草八幡宮」の現社務所の西側にあったそうですが、昭和50年(1975)に現在地に移築されているそうです。従って、古墳を流用したような可能性はないようですが、杉並区内では唯一残された貴重なマウンドの残る塚ということで今回紹介してみました。

画像は、富士塚を北から見たところです。
敷地内には井草民族資料館により立てられた説明板が設置されており、富士塚についての解説が次のように書かれています。
富士塚
こちらの小山は富士塚といって浅間信仰に由来するものです。
浅間信仰とは浅間神社の御祭神であり富士権現とも称される木花開耶姫命を信仰するもので、富士信仰とも言われました。富士信仰は、集団になって資金を集め、代表者が登拝する体参制を主流にした富士講によって発展を遂げていきました。
富士講は、戦国時代末に長谷川角行によって創初され、十八世紀半ばから大変流行しました。講の名称には普通、地名が付けられる事が多く、井草周辺では昔の村名でもある「遅乃井」の頭文字をとって「丸を講」という講が戦前まで続いた。
富士塚は、実際の富士登山が出来ない人たち(体が悪い・老人・婦女子)のため、精神的に少しでも信仰欲を満たすにうに造られ、現在も都内に約五十ヵ所あると言われていますが、この規模の富士塚は杉並区内では唯一のものです。
以前は本殿西南側にあったもので、昭和五十年に現在地に移築され、塚前の浅間神社より丁度西方遥か遠くに富士山を仰ぐことが出来る位置にあります。
旧塚の跡地には小御岳石尊大権現(通常、富士塚の五合目に置かれる)や庚申塔などの石碑が昔日の面影を残しています。
平成十六年正月吉日
井草民族資料館

画像は、富士塚を北東から見たところです。手前に見えるのが浅間神社の小祠で奥に見えるのが富士塚です。周囲は道路と駐車場に囲まれているので基本的にどの角度からも見学することは出来ますが、駐車場は閉じられていることが多いようです。
実はこの塚については以前より存在は知っていたのですが、杉並区内には古墳は存在しないと思い込んでいましたし、富士塚は「ボク石」で固められて石造物が立ち並んでいるという固定観念があったためにまさか富士塚であるとも思わず、一体何の塚だろうと思いながらも長い間スルーしてしまっていました。その後、散策中に偶然立ち寄った杉並区成田東5丁目の「成宗弁財天社」にかつて富士塚があったことを知り、杉並区内の富士塚について調べてみたところ、この井草八幡宮内の塚も富士塚であることを知り、あらためて見学に訪れました。

築造当時の富士塚は井草八幡宮の境内に所在していました。画像がその「井草八幡宮」です。青梅街道に面する朱塗の大鳥居をくぐり参道を進むと、10,000坪もある広い敷地内には今なお多くの文化財が残されています。ちなみにこの青梅街道の南端にはかつては幅六尺ほどの千川用水が流れており、用水の橋を渡って鳥居をくぐったのだそうです。

画像右側の社務所の西側にあたる、中央の巨木の立つ場所がかつての富士塚の所在地です。こうして見ると、こんなに広い敷地がありながら境内の外の駐車場の片隅に追いやられてしまった富士塚がちょっと可哀想な気もしてきますが、どうして移築されることになってしまったのでしょうか。。。

画像が、現在の社務所の西側にあたるかつての富士塚の所在地のようすです。まだわずかながら盛土が残されており、通常富士塚の五合目に置かれている「小御岳大権現の石塔」や「庚申塔」に富士塚の面影を見ることが出来ます。
この移築する以前の旧地が、古墳など元々あった塚を流用して富士塚を築造した可能性はあるのではないかと考えたのですが、これはよくわかりませんでした。

敷地内には、富士講中により奉納された燈籠も残されています。この燈籠は丸を講資料とともに平成23年2月9日に杉並区の有形民俗文化財に指定されています。杉並区教育委員会により設置された説明板が立てられており、次のように書かれています。
井草八幡宮富士講燈籠並びに丸を講資料 二一点
この石燈籠二基は、江戸時代後期、「丸を講」という富士講が井草八幡宮と浅間神社に奉納したものです。ここからみて左側の燈籠には、上・下井草のほか、上荻窪村(杉並区)、上・下石神井村(練馬区)、保谷村、田無村(西東京市)、成子町、内藤新宿(新宿区)など広範囲にわたる寄進者101名の名が刻まれ、右側の燈籠は上井草先達の「登山三拾三年大願成就」の記念となっています。「丸を講資料」は、講員の方が井草八幡宮に寄贈した富士山を登拝する際の装束や登拝記録です。現在は消滅してしまった区内の富士講の実態を示す貴重な資料です。

古地名を冠して遅野井八幡宮とも称されるこの「井草八幡宮」の御祭神は八幡大神だそうです。寛文四年(1664)に今川氏?により改修が行われたというこの井草八幡宮の本殿は、杉並区内最古の木造建築なのだそうです。境内地付近から発見された数千年以前の住居趾からは縄文時代の土器が出土しており、「井草式土器」は広く知られています。この地域の長い歴史を感じますね。。。

境内には、源頼朝公お手植えの松があります。鎌倉時代初頭の文治5年(1189)、源頼朝公は奥州藤原氏の討伐に向かう途中、この井草八幡宮に立ち寄り戦勝を祈願しています。その後、奥州藤原氏討伐に成功した頼朝公は、建久4年(1193)に雌雄二本の松を奉献しています。その後、に雌松(赤松)は明治時代初頭に枯れてしまいますが、雄松(黒松)は東京都の天然記念物に指定されて偉容を誇っていたそうです。その後の昭和47年1月、残された雌松の二股に分かれた大幹の一方が強風により折れてしまい、それ以来急速に衰えて枯れてしまったそうです。
現在の松は末流にあたり、二代目の「頼朝公御手植の松」として大切に育てられています。神門の内側には初代の松が輪切りにされ、衝立として保存されています。
<参考文献>
杉並区立郷土博物館『炉辺閑話 杉並区立郷土博物館だより No.49』
学生社『杉並区史跡散歩』
現地説明版
- 2015/07/16(木) 23:45:59|
- 杉並区の古墳・塚
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