
画像は旧上尾久村、現在の荒川区西尾久3丁目にある「八幡神社」を???から見たところです。この神社の周辺にも「第六天塚」「高木塚」「池田塚」「ダイダラボッチ塚」といった数多くの塚があり、明治、大正の頃までは残されていたといわれています。
「ダイダラボッチ」という巨人の伝説は九州地方に広く残されている伝説なのだそうですが、近いところでは同じ隅田川沿いの隣区である北区豊島の「天狗の鼻」と呼ばれる辺りに「大道法師の塚」という塚があったといわれており、大道法師という巨人の草鞋についた土砂が落ちて塚になったという伝説が残されています。下尾久の「ダイダラボッチ塚」については『東京府志料』にその存在について記されているものの、塚の言い伝えなどは残されていないようですが、『新修荒川区史 上』には、「下尾久の塚にも昔は何かの伝えがあったことと思われる」と書かれています。
「高木塚」と「池田塚」については『荒川区史 上巻』に「旧下尾久村にあった円墳、今日隠滅」と書かれており、古墳であったのではないかと考えられているようですが、所在地はわからなくなっているようです。
他に、東方の八幡神社領内には「庚申塚」、「庄左衛門塚」があり、船方村境と八幡神社参道の前にも塚があったとされています。『上尾久村村絵図』によると、船方村境と八幡神社参道の前の塚は「此塚元禄頃犬養生場尾久二ヶ所」とあり、これは生類憐みの令により設けられた塚であるようですが、元々あった古墳を流用した塚である可能性はないのでしょうか。。。
このように、旧下尾久村には八幡神社の周辺に相当数の塚が存在したようで、『荒川史談』に掲載されている土地の古老の話の中には、広がる田んぼの真ん中に丸いポッチのような塚が残っていた、というような記述も見られるのですが、いかんせん情報が少なく、推定地を特定できるような塚は見当たりませんでした。
<参考文献>
荒川区役所『新修 荒川区史 上』
東京都荒川区『荒川区史 上巻』
学生社『荒川区史跡散歩』
東京都荒川区教育委員会『尾久の民俗』
- 2015/01/24(土) 04:37:45|
- 荒川区/尾久 微高地
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

画像は八幡神社北の荒川沿い、荒川区西尾久3丁目にある「尾久八幡中学校」を南から見たところです。この尾久八幡中学校の周辺に所在したとされる「外記屋敷」の場所にはかつて「経塚」があったと伝えられています。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、寛永年間にこの外記屋敷に、鈴木外記という怪力の男が住んでいたことが書かれており、八幡神社所蔵の『上尾久村村絵図』にも、荒川沿いに「□記屋敷」と記されています。によると、江戸橋という石橋を一人で担いできたという土地の古老の言い伝えも残されており、余程の力持ちであったようです。
『新編江戸志』には、「又此辺を外記やしきといへるは、寛永のころ此所に鈴木外記といふものあり。ある時馬を川の主にとられ、やすからずおもひ、この馬とりし川辺に至り見るに、何かは知らず、川中より外記が裾をとつて水中に引きて入、ひかれて行くに、よく見れば大亀なり。ふかき淵に数百の小泥亀ある所へ行を、外記かの大亀の首に縄をゆひ付、水中をおよぎ、陸へ上がりしかしかのことをいへは、所のもの弐拾人打より此泥亀を引上げつるに打ころし、皆々此肉を喰ひし上その泥亀の甲をば浅草の薬種谷(へ)送りたるに、米一石五斗を入けるとぞ。此泥亀を食せしものはみな熱病をなやみ、死しもの多し。外記もついに子供は絶へけるなり。此榎の辺を外記屋しきと今にいふとぞ」と、この鈴木外記が大亀を捉えた伝説を掲載しています。
また、同書には外記屋敷の経塚についても、「里談云。往古此辺は奥州海道なり。経を負たる僧の行労れ死せしを埋め、しるしに榎を植て経塚といへるよし」と記されています。
経塚は残念ながら痕跡もなく、以前は尾久図書館の向かいに荒川区教育委員会による説明板が設置されていたのですが、現在は尾久八幡中学校の工事のために取り外されているようです。。。
<参考文献>
荒川区役所『新修 荒川区史 上』
学生社『荒川区史跡散歩』
東京都荒川区教育委員会『尾久の民俗』
- 2014/12/02(火) 00:38:36|
- 荒川区/尾久 微高地
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

画像は、荒川区東尾久3丁目、満光寺境内にある「かね塚地蔵尊」の庚申塔と地蔵尊を南東から見たところです。
『荒川区史 上巻』には、古墳群ではなかったかと考えられている「十三坊塚」の内の8基の外に、旧下尾久村内に「かのへ塚」があったと記されています。これも跡地は分からなくなっているようですが、石門通り都電南角のあたりには「かね塚地蔵尊」が所在したとされており、『あらかわの庚申塔 付 日待塔』ではこの「かのへ塚」と「かね塚」が同一のものではなかったかとしています。「かね塚」の名称からして「庚申塚」があったのではないかと考えられており、庚申塔と地蔵尊は昭和17年に満光寺に移されて現存しています。
「かのへ塚」の推定地は古墳群であったといわれる「十三坊塚」から極めて近い位置にあり、「かのへ塚」が古墳であった可能性も十分に考えられるのではないでしょうか。。。
東京都荒川区『荒川区史 上巻』
学生社『荒川区史跡散歩』
東京都荒川区教育委員会『尾久の民俗』
東京都荒川区教育委員会『あらかわの庚申塔 付 日待塔』
現地説明版
- 2014/07/14(月) 23:51:22|
- 荒川区/尾久 微高地
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

画像は、東尾久7丁目にある「尾久の原公園」を南西から見たところです。
このあたりは旧上尾久村と下尾久村の村境にあたるところで、「十三坊塚」と呼ばれる古い塚が点々としていたといわれています。上尾久村には「十三房」という小字もありました。
『新編武蔵風土記稿』にはこの十三坊塚について、上尾久村「当村に四所あり、高各五尺許」、下尾久村「村北にあり、高さ五尺、廻り七八尺、八ヶ所程あり、此内に砂利塚と唱へるあり、永禄年中太刀具足様のものを掘出せしことありと云」とあり、江戸時代には上尾久村に4基、下尾久村に8基の合わせて12基の塚が残されていたことがわかります。その後、明治時代に入っても8基が残存していたことが『東京府志料』に記されていますが、大正6年には「旭電化」の敷地になるなど、開発により壊滅しています。
『新編武蔵風土記稿』に記されている、十三坊塚のうちの1基といわれる「砂利塚」から永禄年中(1558~1569)に出土したと伝えられている太刀、具足等について、『荒川区史 上巻』では、直刀と短刀ではないかと推測しており、また砂利塚という名称から推測しても砂利とは玄室内の玉石で築いた石敷で、「十三坊塚」とは円墳を主体とする群集墳が残っていたのではないか、とされています。また、『隅田川とその両岸 補遺(下巻)』にはこの十三坊塚についての町の古老の懐古談が載せられており、「子供の頃刀が二、三本と馬の骨が出て来たのを知っている。また金碗(かなまり)を掘り出して鶏の餌入れに使っていたが、屑屋に売ったところ数日して屑屋が来て『先日いただいた品は金無垢で良い値に売れました』とて反物を置いていったという話が伝えられています。
12基の塚のすべてが古墳であったかどうかはわかりませんが、少なくともいくつかの古墳が含まれていた可能性は高いかもしれません。
また、荒川区教育委員会から発行された『尾久の民俗』には、この「十三坊塚」について次のように書かれています。
…両村には「十三坊塚」という塚があった(『新編武蔵』)。おそらく、両村にまたがって、十二か所からなる塚が点々としていたと思われる。十三坊塚は、旭電化跡地付近に、大正くらいまでは見られた。位置を『平成区史』上所収の上尾久村の絵図に重ねると、十三坊塚は東方の村境あたりに位置したようである。同村絵図を見ると、上・下両村の東方境に、荒川沿いに複雑な線を描いている部分がある。掘・道などがないにもかかわらず、このような線を描くとすれば、何かと何かをつないだーつまり点々としていた塚をもって両村の境界としたのではないだろうか。十三塚の造営の意図は「村の境にこれを築いて外から入る災いを防ぐ」「疫神や害虫を外に送って境を鎮めるなど」にあったのではないかとされる(「十三塚築造の意図」、『十三塚ー現況調査編』)が、段木一行氏は同塚は近世に入り、境界設定の手段に利用されたとする(「十三塚をめぐって―村境の変換―」、『中世村落構造の研究』)。(『尾久の民俗』5ページ)
全国に分布する「十三塚」の形式が、一直線上に並び築かれている同系列塚が主流を占めているのに対して、この尾久の「十三坊塚」は点在していたと推測されていることも、この塚群が古墳群であった可能性を感じさせる部分かも知れません。

東尾久7丁目1番地、「大門小学校入口」交差点付近に、荒川区教育委員会による「十三坊塚」の説明板が設置されています。


面白いのは、旭電化跡地に建てられている「首都大学東京荒川キャンパス』内の中庭には、まるで古墳と見間違うかのような築山が築かれています。十三坊塚を意識して造られたものか偶然の築山であるかわかりませんでしたが、まるで幻の古墳群を彷彿させるような風景ですね。。。

画像は、東尾久7丁目にある「上尾久村の馬捨場跡」を南から見たところです。この周辺に「十三坊塚」が存在したともいわれています。
荒川区教育委員会により設置された説明板には次のように書かれています。
上尾久村の馬捨場跡(馬頭観音)
馬捨場の本来の位置および範囲は、東尾久七丁目三六一二番地、
三四八四番地あたり(西方五十メートルのところ)と推定される。
平成十二年、スーパー堤防の建設に伴って小祠や石像物がここに移
設された。
かつて、荒川沿いのこのあたりは、秣場と呼ばれていた。秣場と
は、田畑への施肥である刈敷きや、牛馬の資料をする草の共有の採
取地のことをいう。江戸後期には、新田開発されていくが、その呼
称は地名として大正時代まで使われていた。
この秣場の中に、馬捨場があった。牛馬は、田畑を耕すため、荷
物の運搬に欠かせない動物であり、特に馬は、軍事用、宿駅の維持
のために重視された。しかし、年老いたり、死んだ際には、ここに
持ち込まれ、解体されて、武具・太鼓などの皮革製品や、肥料・薬
品などの製品として活用されることになっていた。こういった馬捨
場は他の各村々にも存在し、生類憐み令では、解体後の丁重な埋葬
が求められた。
明治時代になって、馬捨場は使命を終えるが、荷を運ぶ運送業者
の信仰を集めたり、戦争で徴用された馬を供養する場ともなり、跡
地は別の意味合いを帯びていくようになっていった。近年まで、馬
の供養のための絵馬を奉納したり、生木で作ったY字型のイヌソト
バを供える習俗が残っていたという。現在、天保十二年(一八四一)
及び大正時代の馬頭観音のほか竹駒稲荷などが祀られ、また開発に
よって移された石塔類も置かれている。この内、寛永十五年(一六
三八)十二月八日銘の庚申塔は荒川区最古のものである。
荒川区教育委員会
荒川区役所『新修 荒川区史 上』
東京都荒川区『荒川区史 上巻』
学生社『荒川区史跡散歩』
芳洲書院『隅田川とその両岸 補遺(下巻)』
東京都荒川区教育委員会『尾久の民俗』
神奈川大学日本常民文化研究所『十三塚 ―現況調査編―』
現地説明版
- 2014/07/09(水) 23:36:15|
- 荒川区/尾久 微高地
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2