
「駒込古墳」は、豊島区内で唯一古墳として認定されている遺跡で、『東京都遺跡地図』には豊島区の遺跡番号9番に登録されています。この駒込古墳は、『東京都遺跡地図』の分布図に赤い色の残存マークで記されているのですが、実際に現地を訪れてもなんの痕跡も見ることができないという、謎の古墳です。
画像は、豊島区駒込1丁目の、古墳の跡地と思われる周辺の様子です。
周囲をぶらりと散策したところでは、古墳らしき痕跡は見当たらないようです。ひょっとしたら個人の敷地内に残存するという可能性も考えられるのですが、

道路を反対側から見たところ。
道が「く」の字に曲がっているあたりは、ひょっとしたら古墳の痕跡なのかもしれませんが、真相はわかりません。
この古墳に関しては、学術的な調査は行われていないようです。

古墳の跡地北側に建てられている「明治天皇行幸所木戸舊邸」の石碑。
実はこの地域は、江戸時代に大名・旗本屋敷などの武家地が集住した地域です。
駒込古墳は、大名屋敷の庭園の築山などに流用されたことにより残されていた可能性も考えられます。(実は、図書館で複写しておいた、この古墳に関する記述かなと思われる文献があったのですが、ちょっと前の引っ越しの際に資料を紛失。内容もよく思い出せないという体たらくなのです。不覚。。。)

おお!塚状の怪しい地形が見える、と思い切りズームにして撮影したものの気のせいだったという写真。
<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明版
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- 2020/05/04(月) 19:13:09|
- 豊島区の古墳・塚
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さて、今回は超久しぶりに、訪れた塚をタイムリーに紹介したいと思います。
画像は、豊島区高松2丁目に所在する「豊島長崎の富士塚」を南から見たところです。
この豊島長崎の富士塚は、元々存在した古墳を改変して築造された富士塚であるといわれています。周辺地域では、江古田富士塚(練馬区小竹町)や落合の富士塚(新宿区上落合、現存せず)なども、元は古墳だったといわれています。
通常は富士塚の境域は閉ざされており、この豊島長崎の富士塚は、お山開きの期間中にのみ富士塚登拝をすることができます。今年は、6月30日の土曜日の午後1時~3時と翌7月1日の日曜日の午前10時~午後3時にお山開きが行われました。私も最初に訪れた時は金網の外からの見学となりましたが、今年は30日の土曜日に参拝することができました。

以前訪れた際には、昭和55年の説明板が設置されていたのですが、現在は平成28年の新しい説明板が設置されています。この説明板には次のように書かれています。
国指定重要有形民俗文化財
豊島長崎の富士塚
富士塚は、富士山を神の宿る場所として信仰する人々の集まりである富士講によって、江戸時代後期以降、主として富士登山が困難な人々のために、江戸とその周辺地域に築かれた。富士講は、角行を開祖とし、江戸時代中期に身禄によって広められ、最盛期には江戸八百八講と称されるほどの講が結成されて、代表的な庶民信仰の一つとなった。
豊島長崎の富士塚は、富士講の一つである豊島郡長崎村の月三椎名町元講の人々によって築造された。塚内には文久2年(1862)の銘記がある碑などが10基あり、これらが最も古く、「当山再建」と刻まれた碑も含まれていることから、この年に築造されたと考えられる。
塚は、高さ約8m、直径約21mで、表面は富士山の黒ボク石(溶岩)でおおわれている。塚内には、頂上に大日如来坐像、山腹に小御岳石尊大権現碑、烏帽子岩奉献碑、合目石、講碑、石仏、天狗像、御胎内などが配置され、約50の石造物群で構成されている。また、塚の東にある浅間神社では、かつてお炊き上げが行われており、奉納された数多くの講碑から長崎村の人々の富士信仰の強さと、近隣地域の人々との交流をうかがい知ることができる。
都区内にある江戸時代築造の富士塚の中では、原形を最もよく保ち庶民信仰の様相を示すものとして重要であるという評価から、昭和54年5月21日に重要民俗文化財に指定された。
平成28年豊島区教育委員会
早速、富士塚に登ってみようと思います。
富士塚の登山道には、実際の富士山に見立てて「×合目」と刻まれた石碑が建てられているのですが、一合目の石碑は存在せず、この鳥居が一合目に当たるのだそうです。

この豊島長崎の富士塚は、間口が広くて奥行きの狭い、正面から見るだけの富士山として築かれていて、そのため正面の形は左右に末広がりに尾根を延ばし、頂上近くの勾配を急にして頂上を平坦にするという、絵になった富士山をそのまま形にしたという感じで造られています。
登山道は、正面に電光型に造られています。いろは坂みたいにジグザグに登っていくイメージですね。

一合目にあたる鳥居に続いて、「二合目」の石碑です。
登山道を登るに従って三合目、四合目と石碑が続きます。

麓から山頂を見上げてみたところです。
山の中腹から山麓にかけては土を盛ったままで、正面にはツツジやツゲが数多く植えられています。
今年は梅雨明けが非常に早かったので、この日はかなり気温が上がって暑い1日でしたが、よく晴れて綺麗な富士塚の写真が撮れました。笑。

五合目の石碑です。さらに登ります。

塚の中腹から山頂を見上げてみたところ。多くの参拝客が訪れていました。

九合目の石碑です。

山頂部が見えてきました。頂上近くはボク石で固められ、頂上には石祠が安置されています。
石祠の中には、昭和11年(1936)に十一代千達本橋源蔵が納めた大日如来の石像が安置されています。
(一応、「ブログに掲載していいですか?」と声を掛けて掲載しましたが、問題があれば削除いたしますので、削除依頼をいただければと思います。)

山頂から麓を見下ろしてみたところです。
富士講の多くが衰えてしまった昭和40年代以降、富士塚の管理を神社が行わなくてはならなくなったことにより、多くの富士塚が金網で囲まれて施錠されてしまったようですが、これは、富士塚が子どもの遊び場となり、塚から落ちて負傷してしまうことを防ぐためでもあるようです。
確かにこの急勾配を見ると、転がり落ちて怪我をすることも十分に考えられますが、むしろ私のようなおっさんの方が危ないのではないかとも思ってしまいます。笑。
古墳巡りを始めた最初の頃は、古墳なのにどうして富士塚に改造してしまうんだよ、と思っていたんですけどね。最近はすっかり富士塚の魅力に魅せられてしまっています。幾度もの幕府の弾圧にも耐えて平成の時代まで残されてきた富士塚ですので、今後も良い形で残されていくと良いなと思っています。
【このブログの過去の関連記事】
「豊島長崎の富士塚」ー国指定 重要有形民俗文化財ー(2014年1月18日)
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-191.html
<参考文献>
(財)日本常民文化研究所『富士講と富士塚 ー東京・神奈川ー』
豊島区立郷土資料館『生活と文化 研究紀要 第1号』
現地説明版
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- 2018/07/06(金) 23:41:07|
- 豊島区の古墳・塚
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画像は、豊島区池袋本町3丁目の氷川神社の境内にある「池袋富士塚」を南東から見たところです。
この富士塚は、同じ豊島区内の「豊島長崎の富士塚」が土山であるのに対して、石積み方という全山がセメントで固めてあるのが特徴です。
この塚には言い伝えがあり、ある夜、この氷川神社の近くに住む池袋講七世先達篠力蔵の夢の中に木花咲耶姫があらわれ、我を世に出してくれと告げたのだそうです。篠先達は講員に相談して、氷川神社内に富士塚を造山することになりました。先達には予知能力を持つ人が多かったといわれていますが、とても不思議な話ですね。その後、池袋富士塚は明治45年(1912)年に着工され、大正12年(1923)年に完成したそうです。ちなみに豊島長崎の富士塚は古墳を富士塚に改装したものであるといわれていますが、この池袋富士塚はどうなんでしょうか。。。

富士塚には豊島区教育委員会による説明板が立てられていて、次のように書かれています。
池 袋 富 士 塚
富士塚は、さまざまな理由から富士登山ができない人たち
も、これに登れば富士山に登ったのと同じ霊験が得られる
として、江戸時代後期以降、現東京都域および近隣地域に
各富士講集団を単位として築造されたものである。高さ約
五メートル、東西幅約一三メートル、南北幅約一八メートル
を測り、全山がボク石で覆われている。登山道は正面部分に
電光形に設けられており、その道筋ははっきり確認できる。
この池袋富士塚は、明治四五年(1912)六月に池袋
月三十七夜元講によって築かれたものである。塚内に造立
された講碑から、歴代先達の名前や近隣の富士講集団との
つきあいの様子が知られる。一般に、富士塚の石造物は、
頂上に奥宮、中腹向かって右には小御嶽社をあらわす石祠、
中腹向かって左には烏帽子岩を配置するのを基本としてい
る。池袋富士塚の石造物は、こうした特徴を備えているほ
か、経ヶ岳(日蓮ゆかりの霊地)を示す題目碑、合目石、
講碑、教祖角行像、一対の天狗像、さらには胎内が配置さ
れており、充実した石造物群を構成している。
豊島区に残された数少ない富士塚のひとつとして、また
池袋本町地区に展開した民間信仰を考えていくうえでも貴
重なことから、平成十年(一九九八)六月に東京都豊島区
指定史跡となり、保存がはかられている。
平成十一年三月
東京都豊島区教育委員会
<参考文献>
豊島区立郷土資料館『生活と文化 研究紀要 第1号』
現地説明版
- 2014/01/18(土) 03:07:39|
- 豊島区の古墳・塚
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画像は、豊島区高松2丁目にある「豊島長崎の富士塚」を南から見たところです。
この豊島長崎の富士塚は、周辺にある江古田富士塚(練馬区小竹町)、落合の富士塚(新宿区上落合、現存せず)とともに、元々は古墳であるといわれています。豊島区立郷土資料館が発行した『鬼生活と文化 研究紀要 第1号』では、古墳の言い伝えについて次のように紹介しています。
この富士塚は現存する七つの江戸期築造の塚の中で旧態の良く保たれているものである。創建は文久二(1862)年四月。伝承によると本橋源蔵先達の父万五郎が、古塚のある地域を開墾しようと掘りはじめると、鍬先に銅鏡がひっかかって出てきた。円鏡の直径十五センチ、柄の長さ九センチ、裏に南天の模様が鋳てある。南天は難転に通ずるので鏡にはよく描かれたという。作者銘として「天下一藤原作」と鋳込んである。藤原は個人の名前ではない。金工、大工棟梁などの技術者はみな藤原姓を許し名として名乗っていた。天下一は和鏡作者のほとんどがそう自負して用いているものである。
要するに逸品というほどの代物ではなかったが、出た場所を考えると万五郎は何か新甥的なものを感じ、この古墳を富士塚に改装することを講と相談したのだと伝える。(『生活と文化 研究紀要 第1号』31ページ)
この伝承からすると、元々存在した塚に盛土をして富士塚を築造したことは間違いないようですが、塚は古墳というよりはもっと後世の塚である可能性もあるかもしれません。
富士塚は、開発の進んだ住宅街にあって良好な状態で保存されています。塚は柵で囲われていて立ち入ることは出来ませんが、隣接する児童遊園から見学することが出来ます。豊島区教育委員会による説明板には、次のように書かれていました。
国指定重要有形民俗文化財
豊島長崎の富士塚
所在地 豊島区高松二―九―三
富士塚は、富士山を神の宿る地として信仰する人々の集まりである富士講
によって、江戸時代後期以降、主として富士登山が困難な人々のために、江
戸とその周辺地域に築かれたものです。
この富士講は、角行を開祖とし、江戸時代中期には身禄によって広められ、
最盛期には、八百八講と称されるほどの講が結成されて代表的な庶民信仰の
一つとなりました。
豊島長崎の富士塚は、文久二年(一八六二)に富士講の一つである豊島郡
長崎村の月三講(講祖は三平忠兵衛)の椎名町元講の人々によって築造され
ました。高さ約八メートル、直径二十一メートルで、表面は富士山の黒ボク
石(溶岩)でおおわれています。
塚内には、頂上に大日如来坐像、小御岳石尊大権現碑、烏帽子岩奉献碑が
あるほか、合目石、講碑、石仏、天狗像、御胎内などが配置され、約五十基
の充実した石造物群で構成されています。浅間神社では、かつてお焚き上げ
が行われており、奉献された数多くの講碑からは長崎村の人々の富士信仰の
強さと、近隣地域の人々との交流をうかがい知ることができます。
この富士塚は、東京都内にある江戸時代に築造された富士塚の中でもよく
原型をとどめていることから、昭和五十四年五月二十一日に国の重要有形民
俗文化財に指定されました。その美観と偉容を永く後世に伝えるため、昭和
六十二年には昭和大修復が行われ、以後浅間神社豊島長崎富士塚保存会によ
って山掃除や保存修復事業が定期的に実施されています。
昭和五十五年三月
豊島区教育委員会<参考文献>
豊島区立郷土資料館『生活と文化 研究紀要 第1号』
現地説明版
- 2014/01/15(水) 03:39:07|
- 豊島区の古墳・塚
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