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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「日枝神社の前方後円型地形」

「日枝神社の前方後円墳」1

 画像は、千代田区永田町2丁目に所在する「日枝神社」です。
 現在は東京十社の一つに定められており、日枝神社が執り行う「山王祭」は日本三大祭・江戸三大祭りのひとつに数えられています。
 この神社の境内には、かつて鳥居龍蔵博士が「古墳ではないか?」と想定した遺構が存在します。

 以前にもふれたことがありますが、鳥居龍蔵博士とは、大正12年(1923)の関東大震災により東京が廃墟と化した際、震災によって建物が焼けたり崩れたりして元々の地面の起伏が露出したことを鳥居龍蔵氏はチャンスと捉えて、カメラを携えて東京市中の古墳と思われる塚を調査したという人物です。
 これらの調査記録は、鳥居龍蔵博士の著作『武蔵野及其周囲』や『上代の東京と其周囲』といった書籍のなかで取り上げられています。
 鳥居博士が古墳であるとしていながらも、その後の調査で古墳ではなかったことが判明した、という事例も少なからず存在するのですが、その後の開発により消滅してしまう都心部の遺構を、また当時デジカメもなくカメラやフィルムが高価であった時代に写真や記録に残していることは、のちの考古学の発展に多大な貢献をされていると思います。
 そんな鳥居博士により、大正時代に古墳であると報告された塚が現在も残されているなんて、古墳マニアでなくても気になりますよね?笑。

 というわけで、早速見学に行ってみましょう!


「日枝神社の前方後円墳」2

 この日枝神社は独立した丘陵上に鎮座しており、周囲を急斜面に囲まれているわけですが、なんと!境内にはエスカレーターで向かいます!神社で参拝するために長い石段を登らなければならないことは何度もありましたが、エスカレーター完備の神社はなかなかレアですよね。
 江ノ島の頂上に「エスカー」というエレベーターで登ったことがありますが、それを思い出しました。笑。


「日枝神社の前方後円墳」3

 日枝神社拝殿の様子です。

 私はずっとこの近辺で働いていて、日枝神社には何度も参拝にきました。
 西側の鳥居の横にはポツリと一本だけ桜の木があって、毎年お花見の時期の夜には満開の桜の下、仲間と缶ビールで乾杯しました。(どうしてあんな渋い場所で呑むようになってしまったのか、今となっては理解できませんが。笑。)
 神社はいつも人が絶えない印象で、初詣や七五三の時期には大変な賑わいでしたが、緊急事態宣言が発令された今、どうなっちゃっているんでしょう。。。


「日枝神社の前方後円墳」4

 境内社の様子。山王稲荷神社、八坂神社、猿田彦神社が祀られています。
 この画像の奥、北側に古墳であるとされる高まりが存在します。


「日枝神社の前方後円墳」5

 祠の奥にちらりと見えているのが、鳥居博士をして前方後円墳であると言わしめた高まりです。
 近づいてみます。。。


「日枝神社の前方後円墳」6

 これが鳥居龍蔵博士が古墳であるとした塚状地形で、南から見たところです。
 鳥居博士は前方後円墳であると考えていたようです。
 昭和2年(1927)に刊行された『上代の東京と其周囲』には、この高まりについて次のように書かれています。

 芝公園で十分に調査をして、それから尚ほ自動車を走らせて赤坂の日枝神社の境内に到着した。此處にも原始時代の古墳がある。此の古墳も瓢形をして居るが、多分昔の前方後圓の崩れたものであらうと思ふ。此處の古墳は周圍百五十間あつて、今は其の眞中にトンネルを穿ち、其處を通ずるやうになつて居る。これは近頃のことである。けれども能く此の形を見れば、立派な瓢形を呈して、崖に臨んでいる。此の狀態は芝の丸山に於ける前方後圓の古墳と同じである。今は此の古墳の上に闊葉樹の大木が茂つて居る。此の木を見ても、此の古墳の新しくないことが考へられる。これは日枝神社が此處に移されない前から、此の山王臺にあつたものと謂つて宜い。
 境内を彼處此處見たが、丸塚のやうなものは見當らなかつた。併し旣に瓢形の古墳が此處にあるとすれば、今日日枝神社のお宮のあるあたりには、丸塚が少しはあつたものであらうと考へられる。尚ほ今日星ヶ岡茶寮の建物のある土地は、幾らか高くなつて居る。これは或は古墳を削つたものではあるまいか。茲に疑ひを存じて置く。(『上代の東京と其周囲』66ページ)


 鳥居氏が指摘した「トンネル」は今も健在であるようです。
 奥にある、星が岡会館に向かうための道であると思われますが、どうしてこのようなトンネルが造られたのでしょうか?
 城跡などに見られる土塁のようにも見えますが、古地図で確認すると2基の塚が並んでいるような形状であるようです。この場所はフェンスで囲まれていて立ち入り禁止で、この角度からしか観察できませんのでなんとも言えませんが、現地で見学した印象では、やはり2基の塚はかつて繋がっていて、前方後円墳だったのではないかとも妄想できます。。。
 このトンネルの場所が、前方部と後円部の間のくびれ部ということになると思われますが、いかがでしょうか。。。


「日枝神社の前方後円墳」7

 西側の塚の状況。
 古墳であるとすれば、かなり削られてしまっている印象ではありますね。


「日枝神社の前方後円墳」8

 西側に塚を南西から見たところ。
 石垣が造られています。

 『東京都遺跡地図』で確認すると、この一帯は千代田区の遺跡番号19番の「日枝神社境内遺跡」として登録されているようですが、時代は「近世」の包蔵地とされており、この地点に古墳は登録されていません。(もちろん塚としても未登録)
 というよりも、昭和55年(1980)に東京都により行われた都心部遺跡分布調査の際に千代田区が古墳分布調査の対象にならなかったことから、昭和60年(1985)発行の『都心部の遺跡』にはこの遺跡について何も書かれていません。
 その後にもし調査が行われているならば、私が報告書の存在を見逃している可能性もあるかもしれないのですが、この塚の性格については今のところわかっていないようです。。。


「日枝神社の前方後円墳」9

 東側の塚の様子。
 石段が作られていて、墳頂部に登ることができるようです。

 実はこの写真はフェンス越しに撮影していて、フェンスの内部には立ち入ることができません。
 したがって塚の上に登れませんので表面観察もできないのですが、例えば埴輪が存在したとするとまだ塚上に埴輪片が残されていそうな、そんな予感もします。中に入って観察してみたいですね。。。

「日枝神社の前方後円墳」10

 塚の頂部に祠が祀られているのが見えます。
 「あれ?以前はなかったんじゃないかな?」と感じて、帰宅して古い写真を確認してみました。


「日枝神社の前方後円墳」11

 これは2012年に訪れた時の画像。
 やっぱり祠の数は増えているみたいです。。。


「日枝神社の前方後円墳」13

 境内にある「さざれ石」。
 国家「君が代」の歌詞に詠まれて知られた石ですよね。さざれ石。
 学名は「石灰岩角礫岩」といい、岐阜県揖斐郡春日村の山中から発掘されるそうです。
 石灰岩が長い年月をかけて雨水に溶解され、それにより生じた粘着力の強い乳状液が小石を結集して大きくなり、一つの大きな岩の塊に変化したものです。


「日枝神社の前方後円墳」12

 境内には藤棚があって、毎年4月〜5月頃には花が咲き誇ります。
 いや、ホントに素敵な神社なんです。。。


「日枝神社の前方後円墳」14

 赤坂にはまだまだお世話になりますからね。
 またお参りに来ますね。。。

<参考文献>
東京都神社庁『東京都神社名鑑 上巻』
鳥居龍蔵「東京市内の古墳調査巡回の記」『上代の東京と其周囲』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2020/05/01(金) 19:15:51|
  2. 千代田区の古墳・塚
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「九段坂上貝塚」

「九段坂上貝塚」

 「九段坂上貝塚」は千代田区の遺跡番号9番に登録されている遺跡で、麹町台地の縁辺部に所在します。この遺跡内ではこれまでに試掘とあわせて5ヶ所の発掘調査が行われており、円筒埴輪の破片が検出されていることから古墳の存在が想定されている地域です。画像はこの「九段坂上貝塚」の所在地を南西から見たところです。

 これまで代田区内で発見された古墳は「富士見二丁目1号墳」1基のみですが、ほかにこの「九段坂上貝塚」や「一ツ橋二丁目遺跡」など旧平川流域の遺跡から円筒埴輪片が採集されており、古墳の存在が想定されています。「九段坂上貝塚」で採集された埴輪片は6世紀前半、「一ツ橋二丁目遺跡」の埴輪片は6世紀半ばから後半のものであるとされており、「富士見二丁目1号墳」→「九段坂上」→「一ツ橋二丁目」の順に古墳が築造されたと考えられているようです。


「九段坂上貝塚」

 千代田区立日比谷図書文化館には、九段坂上貝塚より出土したという円筒埴輪の破片が展示されています。(館内は撮影禁止とされていますが、文化財事務室にて許可を得て撮影させていただきました)


「九段坂上貝塚」

 九段坂上貝塚の南東には「牛ヶ淵貝塚」があります。当時の軍人会館の基礎工事の際に、人類学・民族学者の鳥居龍蔵氏の調査により貝殻や土器が採集されたもので、現在の九段会館の敷地内には「貝塚碑」が残されています。
 画像ではわかり難いのですが、貝塚碑の台座の右側には「軍人会館建設工事ノ際地下八尺ノ處ヨリ掘出シタルモノナリ 昭和九年五月」と刻まれています。かつては、この中に出土した遺物が納めてあり、台座の窓からガラス越しに見ることが出来たようですが、残念ながら遺物は戦後に失われ、ガラス窓の中には草が生い茂ってしまっています。

 九段会館とともに、この貝塚碑も良い形で保存されることを願います。。。

<参考文献>
『九段坂上貝塚遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2017/08/21(月) 00:56:49|
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「金子塚」

「金子塚」

 画像は、千代田区平河町1丁目に所在する「平川天満宮」を東から見たところです。
 
 この神社の御祭神は菅原朝臣道真公で、境内の由緒畧記によると、江戸平河城主太田道灌公が城内の北坂梅林坂上に文明10年(1478)、江戸の守護神として創祀されたとされています。
 この「平川天満宮」の周辺には「金子塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。この塚は、享保17年に刊行された江戸時代の地誌『江戸砂子』(江戸市中の地名や寺社、名所などが図解入りで説明されている)に記述が見られ、人類学・民族学者の鳥居龍蔵氏は、昭和2年(1927)に刊行した著書『上代の東京と其周囲』の中でこの金子塚を紹介しています。鳥居氏は、『江戸砂子』に掲載された史跡の中のいくつかの塚を、古代に築造された古墳ではないかと推測しており、同書の「江戸砂子に見えたる古墳」の項で麹町の「金子塚」について次のように記述しています。

次に麹町の所では「金子塚」と題し 金子十郎家忠の墳、古鹿子曰、麹町門外、越後守光長卿のやしきの内にあり、今は知れず。と記せり然らば平河天神前の邊か
 と書いて居る。此の當時にもう既に金子塚といふものが無くなつて、何處にあるか分らないが、兎に角此のあたりに金子塚といふものがあつたことは、是れに依つて知ることが出来る。」(『上代の東京と其周囲』36~37ページ)



「金子塚」

 平川天満宮境内のようすです。少なくとも境内には古墳らしきマウンドは残されていないようです。
 この平川天満宮は、徳川幕府に特別な格式で待遇され、紀州藩徳川家、彦根藩井伊家の祈願所でもあったそうです。画像の銅鳥居は天保15年に周辺の人びとにより奉納されたもので、千代田区の有形文化財に指定されています。ほかに、千代田区の有形民俗文化財に指定されている常夜燈や狛犬、百度石などを見ることが出来ます。


「金子塚」

 画像は、平川天満宮境内に所在する「筆塚」で、左に見えるのが、千代田区の有形民俗文化財に指定されている「力石」です。多くの神社で、保存されている力石をみかけますが、この力石はかなり大きなもので、中央に「天龍石」、右端に「十店助次郎持之」、左端に「同新助」と刻まれています。
 どうも、こういった場所で「塚」の文字を見ると過剰に反応してしまうのですが、筆塚に関しては古墳とは無関係であるようです。


「金子塚」

 『江戸砂子』の記述からすると、「金子塚」の所在地は千代田区平河町1丁目から隼町のあたりではないかと推測できるのですが、江戸時代にはすでに消滅していたとされるこの「金子塚」の痕跡を現代に見ることは残念ながら出来ないようです。
 画像は門前のようすで、左側が平川天満宮です。塚が古墳だったとすれば、坂を上がり切った頂部のあたりに存在したのではないかと妄想してしまいますが、金子塚の正確な所在地を突き止めることはできませんでした。

<参考文献>
鳥居龍蔵「江戸砂子に見えたる古墳」『上代の東京と其周囲』
現地説明版


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  1. 2017/08/13(日) 04:24:34|
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「日比谷公園内埴輪像」

「日比谷公園内埴輪像」

 さて、今回は番外編です。

 前回紹介した「平河町二丁目遺跡」を調べてみたものの真相はわからず、がっかりしながら日比谷図書文化館を後にしたわけですが、久しぶりに日比谷公園をぶらぶらしてから帰ろうと歩いていて見つけたのが、画像の二体の人物埴輪と家形埴輪です。全く存在を知らなかったので、なぜここに埴輪が?とビックリしました。

 この埴輪の前に設置されている石碑には
 贈 東京都立日比谷公園と宮崎県立平和台公園が姉妹公園として結ばれたことを記念し その喜びをこめて この「はにわ」像二体を東京都のみなさまに贈ります 宮崎県には特別史跡西都原古墳群をはじめ たくさんの古墳がありますが その古い宮崎をしのぶため造られたのがはにわ園で 第18回オリンピック東京大会の聖火リレー起点になった平和台公園の中にあります 昭和40年8月21日 宮崎県知事 黒木 博
 とあり、別の説明板には
 昭和40年(1965年)8月21日に、東京都立日比谷公園と宮崎県立平和台公園が、姉妹公園として結ばれたことを記念し、特別史跡西都原古墳群をはじめ、多数の古墳のある宮崎県より「はにわ」像二体が東京都に送られました。
 と書かれています。
 なるほど、という感じですが、果たしてこれが発掘調査により採集された実物なのか、それともレプリカなのかは何も書かれていないため不明ですが、はにわ”像”というからにはレプリカなのでしょうね、多分。そもそも貴重な完形の人物埴輪が雨ざらしになっているはずはないし。。。


「日比谷公園内埴輪像」

 ネットで調べたところでは、2014年冬の大雪の際に雪の重みで折れた枝が埴輪に直撃して、家形埴輪は粉々に、また右側の人物埴輪も一部が破壊されているようです。左側の年月を感じる埴輪に比べて右側の2体がキレイなのは、修理されたか、それとも新しいものと交換されたか、というところでしょうか。

 公園内には見どころはたくさんあるのですけどね。私にはここが最大のスポットです。。。


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  1. 2017/08/12(土) 00:16:09|
  2. 千代田区の古墳・塚
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「千代田区平河町二丁目遺跡?」

「千代田区平河町二丁目遺跡?」

 千代田区の郷土資料館といえば「日比谷図書文化館」です。ミュージアムのみならず図書館も併設されていて、千代田区の情報を調べるには重宝する場所です。実は、以前にこの図書文化館を訪れた際に、展示されている説明板の中に「古墳があった可能性あり」とする遺跡の中に『平河町二丁目遺跡』を発見しました。画像がその説明板ですが、(館内は撮影禁止とされていますが、スタッフの方に許可をえたうえで撮影しました)千代田区の範囲とする赤い枠内の左下に「平河町二丁目遺跡」が記載されています。

 千代田区内で発見された古墳は、富士見二丁目遺跡内で検出された「富士見二丁目1号墳」の1基のみで、ほかに「一ッ橋二丁目遺跡」、「東京国立近代美術館遺跡」、「九段坂上貝塚」といった複数の遺跡内から埴輪片が出土しており、古墳の存在が想定されていますが、平河町二丁目遺跡は知らなかったな!ということで早速図書館で調べてみました。結果、「平河町遺跡」という報告書は刊行されているものの、平河町二丁目遺跡という名称の報告書は存在せず、そもそも『東京都遺跡地図』にもこの名称の遺跡は存在しません。
 もちろん、発掘調査が行われながらも報告書が刊行されないパターンも存在しますので、もう一度ミュージアムに戻って学芸員の先生にお尋ねしてみました。色々と調べていただいたりもしたのですが、やはりこの遺跡は存在しないようで、しかもこの説明板を造ったのが前任者で確認が取れない、ということで、残念ながら真相はわかりませんでした。


「千代田区平河町二丁目遺跡?」

 画像は、赤坂見附交差点から平河町二町目周辺を見上げてみたところです。
 麹町台地縁辺部にあたるこの周辺では、南に数百メートルの地点に、鳥居龍蔵氏が著書『上代の東京と其周囲』の中で前方後円墳が所在するとした日枝神社があり、北東には、やはり鳥居龍蔵氏が古墳であるとして紹介した「金子塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。
 果たしてこの平河町二丁目に古墳が存在したのかどうか、とても気になるところですが、東側に最高裁判所、更に奥が皇居、南側には国会議事堂と首相官邸と、日本の中心地として都市化が進んだこの地に古墳の痕跡は残されていないようです。


赤坂見附跡

 実はこのあたりは私の仕事場から徒歩で行ける場所なのですが、やはりこの周辺を歩くなら古墳よりも赤坂見附でしょう!ということで、画像は江戸城外堀の赤坂御門の跡地です。この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されており、多くの文化財が残されています。

     史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門
 正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸
城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設
であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっ
ています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門
や桜田門には同じ形式の門を見ることが出来ます。
 赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、
同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時
代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。
 明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成
3年の地下鉄南北線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。
現在、右手の石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。
                               千代田区教育委員会



赤坂見附跡

 青山通り沿いには、赤坂御門の石が期の一部が残されています。
 江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であることから「見附」と呼ばれ、2つの門が直角に配置された「枡形門」という形式をとっているそうです。


赤坂見附跡

 画像は、赤坂門の石垣復元と紀州藩徳川家麹町邸の石組遺構を復元したものです。
 仕事場から近いからいつでも行けると思いがちですが、いずれゆっくり見て回らなければいけませんね、これは。。。

<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
日比谷図書文化館内説明版


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  1. 2017/08/11(金) 01:57:24|
  2. 千代田区の古墳・塚
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「富士見二丁目1号墳」

「富士見二丁目1号墳」

 「富士見二丁目1号墳」は、平成17年(2005)に行われた「富士見二丁目遺跡」の発掘調査により周溝が検出された古墳です。千代田区は、武蔵野台地東縁部の「山の手台地」と呼ばれる段丘面と「下町低地」と呼ばれる低地に二分されており、この「山の手台地」のうち千代田区内では淀橋台と本郷台の2つの段丘面が存在しています。富士見二丁目1号墳が発見された富士見二丁目遺跡は淀橋台の縁辺部に所在する遺跡で、神田川の谷に面した低い段丘面に位置しています。江戸時代には牛込門御内と呼ばれた地域の武家地で、稲垣氏と米倉氏の拝領屋敷であったようです。千代田区内では、これまでの台地縁辺部からの埴輪片の出土により古墳の存在が想定されていましたが、初の古墳の発見となったようで す。
 古墳の規模は周溝約30mほどの比較的大型の円墳で、ブリッジや埋葬施設は確認されなかったものの、ブリッジ付の円墳で竪穴系の埋葬施設を有する古墳と考えられており、出土した遺物により5世紀前半に築造されたと推定されているようです。同じ遺跡内からは弥生時代後期の方形周溝墓が2基、検出されています。

 画像は、古墳が検出された千代田区富士見2丁目の「富士見二丁目遺跡」周辺のようすです。JR中央本線飯田橋駅のちょうど裏側にあたるこの「富士見二丁目遺跡」はすでに発掘調査は終了しており、かなり大きなビルが立ち並ぶなど開発が進められています。画像中央の大きなビルの真下が古墳の跡地であると思われますが、残念ながら痕跡は全く残されていないようです。


「富士見二丁目1号墳」

 お隣の日本歯科大学の敷地内にはこんな石碑が立てられていました。「下乗(かじょう)」と読むこの石碑の建立の動機については不明とされていますが、江戸時代のこの場所は富永権左エ門という旗本の屋敷地で、この時代のものとして残されていたものであるようです。
 それにしても、ほんの10年ほど前までは雑居ビルが立ち並ぶもう少しごちゃごちゃした場所だったような記憶があるのですが、どんどん変化していく東京の街の景観にはいつもながら驚かされます。。。


「富士見二丁目1号墳」

 千代田区立日比谷図書文化館には富士見二丁目遺跡の古墳より出土した土器が常設展示されています。(館内は撮影禁止とされていますが、文化財事務室にて許可を得て撮影させていただきました)

<参考文献>
株式会社武蔵文化財研究所『富士見二丁目遺跡』
現地説明版


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  1. 2016/11/23(水) 01:16:35|
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「東京国立近代美術館遺跡」

「東京国立近代美術館遺跡」

 画像は、千代田区北の丸公園の「東京国立近代美術館遺跡」の所在地を南東から見たところです。『東京都遺跡地図』には千代田区の遺跡番号22番に登録されているこの遺跡は、神田川下流にあたる旧平川を望む武蔵野台地縁辺部に立地しています。昭和54年(1979)から翌55年にかけて東京国立近代美術館遺跡調査会により発掘調査が行われており、旧石器時代から江戸時代にわたる複合遺跡であることがわかっています。この遺跡の古墳時代の遺物は大半が土師器であるものの2点の管玉と4点の埴輪片が出土しており、この周辺に古墳が存在したことが想定されています。

 神田川流域では新宿区の下戸塚遺跡で円墳2基が検出されており、また杉並区の本村原遺跡でも埴輪片が出土しています。また妙正寺川流域では中野区の遠藤山古墳群から円墳4基が検出されており、また善福寺川流域では高千穂大学大宮遺跡で円墳が1基検出されています。どうやら23区内の小さな河川沿いにも小規模ながらも古墳群は存在していたようです。。。

<参考文献>
東京都千代田区『新編 千代田区史 通史編』
東京都千代田区『新編 千代田区史 通史資料編』
千代田区一ツ橋二丁目遺跡調査会・文部省・学術情報センター『一ッ橋二丁目遺跡』


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  1. 2016/11/21(月) 08:57:25|
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「一ッ橋二丁目遺跡」

「一ッ橋二丁目遺跡」

 画像は、千代田区一ッ橋2丁目の「一ッ橋二丁目遺跡」の所在地を南東から見たところです。古代から中世、近世にかけての複合遺跡であるこの一ッ橋二丁目遺跡からは、須恵器や土師器に加えて円筒埴輪片が1点出土しており、周辺に古墳の存在が想定されているようです。

 この「一ッ橋二丁目遺跡」は、江戸時代初頭に行われた神田川の付け替えにより消滅したといわれる旧平川の左岸に位置しており、河川際の微高地であったと推定されています。近世では江戸城外堀の一角である一ツ橋御門外であり、寛永9年(1637)には大河内松平家の上屋敷となるも明暦3年(1685)と寛文元年(1671)の火災により明地となり、その後美濃郡上藩遠藤家上屋敷となるも享保2年(1717)の大火災により再度明地となり、明治時代以降は東京大学や学習院大学といった大学の集まる地域となっていたようです。現在のこの場所は首都高速都心環状線と5号池袋線が合流する竹橋ジャンクションの北東側の白山通り沿いにあたり、交通量も多く開発の進んだ地域で古墳の存在は想像し難い場所ですが、対岸の台地上に立地する北の丸の国立近代美術館遺跡からも埴輪片が検出されており、また皇居内や九段坂上貝塚といった平川を望む台地の縁辺部でも同様に埴輪片が検出されていることから、この周辺地域に複数の古墳が存在した可能性が考えられているようです。


「一ッ橋二丁目遺跡」

 千代田区立日比谷図書文化館には「一ッ橋二丁目遺跡」より出土した円筒埴輪片が常設展示されています。(館内は撮影禁止とされていますが、文化財事務室にて許可を得て撮影させていただきました)


「東京外国語学校発祥の地」

 一ッ橋二丁目遺跡跡地は現在、学術総合センターのビルが建てられており、敷地内には「東京外国語学校発祥の地」の石碑が建立されています。東京外国語大学は安政元(1857)年に創設された蕃書調所が起源といわれており、明治6年(1873)に前身である東京外国語学校が開設されています。その後、昭和15年(1940)に北区西ヶ原に移転、昭和24年(1949)に「東京外国語大学」となり、現在は府中キャンパスに移転しているそうです。


「一ツ橋」

 「一ツ橋」という橋があったのですね。千代田区教育委員会による説明板によると、この一ツ橋は内濠川に架かる見附橋で、徳川家康が江戸城に入ったころは大きな丸太が一本架けられていて、その名で呼ばれていたといわれているそうです。現在の橋はもちろんコンクリート造りで、大正14年(1925)に架設されたものですようです。

<参考文献>
千代田区一ツ橋二丁目遺跡調査会・文部省・学術情報センター『一ッ橋二丁目遺跡』
現地説明版


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  1. 2016/11/19(土) 01:39:03|
  2. 千代田区の古墳・塚
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