
画像は、練馬区栄町に所在する「武蔵野稲荷神社」です。
この神社は通称「江古田のお稲荷さん」とも呼ばれており、祭神は宇迦之御魂神、月日十天上大神、弥栄天神で、創建は不詳とされています。明治、大正から昭和と商家、歌舞伎役者、馬主、事業家等の信仰を集め、平成となった現在でも除災招福、病気平癒、商売繁昌の祈願が多いといわれます。
この神社の境内には、「瓢箪塚」と呼ばれる塚が所在します。
ネットで公開されている最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』では、練馬区の遺跡番号115番の「近世の塚」として登録されているようですが、かつては古墳の跡ではないかとも考えられていたようです。

武蔵野稲荷神社の二の鳥居です。

武蔵野稲荷神社の拝殿の様子です。
昭和50~55年にかけて整備されたもので、かなり個性的な拝殿です。
『練馬の神社』によると、この拝殿のさらに奥にある「本殿」の建っている場所が「瓢箪塚」となるようです。
ただし、残念ながら本殿の場所まで立ち入ることはできず、また神社の周囲からも本殿を見渡せる場所はなく、塚を見学することはできませんでした。
塚は、後が二個に割れているところから「割塚」。
また塚には白狐が十数匹も棲んでいたので「白狐塚」とも呼ばれていたそうです。
「瓢箪塚」は前方後円墳に良くみられる名称ですので、この塚が古墳であった可能性も捨てきれないところですが、真相はわかりません。周囲には空堀がめぐらされており、以前は千川上水の水を引き入れていたそうですので、これはひょっとしたら古墳の周溝の可能性もあるのかもしれません。。。
一説には、文明9年(1477)の江古田・沼袋の合戦で太田道灌によって滅ぼされた豊島軍の死者を葬った豊島塚であるとの言い伝えもあるようで、他に石器時代の遺跡であるとか、先住民族であるコロボックルの遺跡であるともいわれているそうです。

武蔵野稲荷神社境内にある「子守塚」です。
塚に住んでいた古狐が死んだとき、近所の人がこれを哀れに思い供養して、子供がよく育つようにと祈って建てたのがこの「子守塚」であるそうです。
<参考文献>
練馬区教育委員会『練馬の伝説』
練馬区郷土史研究会『練馬の歴史』
練馬区教育委員会『練馬の神社』
練馬区立石神井公園ふるさと文化館『ふるさと練馬探訪』
人気ブログランキングへ
- 2020/05/03(日) 18:14:44|
- 練馬区の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

画像は、練馬区高野台1丁目に所在する「練馬区No.77遺跡」を南西からみたところです。
その名の通り、練馬区の遺跡番号44番の遺跡として登録されているこの塚は、かつては古墳ではないかとも考えられていました。
昭和32年に発行された『練馬区史』の78ページ、「区内古墳地名表」には「円墳」として掲載されており、次のように書かれています。
「谷原町二丁目二、四四一番地横山政雄氏宅地内の高塚古墳は、現在同家の築山として利用されている。現形は実測図で見るように東西に長い楕円状であつて、横山氏の談によれば土蔵、家屋を建築の時に、南側を削りとつた由で、したがつて旧形は直径八米ほどの円墳であつたことが想像される。また高さは前庭との比高四米ほどであるが大正十二年の震災の時、三尺ほど墳頂の土砂が崩れたといわれるから、もとの高さは五米位であつたろう。ここは石神井川の沖積地を南に見晴す景勝地であつて、地方有力者の奥津城としては格好の土地である。しかし、この高塚が確実に古墳であるということは発掘しない限り断定できない。恐らく古墳と思われるが断定は後日の発掘を待たなければならない。」 この当時、学術的な調査が行われていなかったことから断定はされていないものの、この当時は古墳ではないかと想定されていたようです。

その後、平成2年11月から12月にかけて、この「築山」を保護するため、確認の発掘調査が行われています。
塚は長軸約18m、短軸約15mの楕円形を呈しており、東側から頂上までの高さは4.8m、西側から頂上までは2.8mであることが確認されています。ただし、土質は軟弱で、古墳の盛土にみられる「版築」は確認されなかった、つまり古墳ではないことがわかっています。
また、この塚の盛土は宝永テフラ(1711年に起こった宝永山の噴火による降下火山灰)を含む層を切って構築されていることが確認されており、つまり塚は1711年以降に築造されたことがわかっていますが、これ以外の塚の性格についてはまったく不明で、また塚に関する伝承等も一切わからなかったようです。
現在は塚の周囲の開発が急速に進んでいます。
塚の周辺は開発が進んでおり、見学するにはなかなか難易度が高い状況です。
この場所は、植え込みが茂っている真夏に見に行ってしまったので、撮影した写真では塚のようすがよくわからないのですが、実際に現地で見学すると植え込みの隙間からわずかに塚の様子を見ることができます。
塚は良好な状態で残されているようですが、残念ながら古墳ではなかったようですね。。。
<参考文献>
東京都練馬区『練馬区史』
練馬区教育委員会社会教育課『埋蔵文化財調査報告 6 平成2年度』
人気ブログランキングへ
- 2020/04/16(木) 20:12:16|
- 練馬区の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

画像は、練馬区上石神井3丁目に所在する「練馬区No.44遺跡」を南から見たところです。
その名の通り、練馬区の遺跡番号44番の遺跡として登録されているこの塚は、かつては「芸術大学寮裏古墳」、「比丘尼塚」といった名称で呼ばれており、古墳ではないかと考えられたこともあったようです。

少々角度を変えて、東から見た塚の様子です。
こちらから見た方が、塚の形状が把握できそうですね。
この場所、何年か前に、東京芸術大学の石神井寮が取り壊されるということでニュースで取り上げられていました。塚の南側にあった石神井寮の跡地は今後は公園として活用されるということで、整備が進められています。開発が進む住宅街の一角に、塚はぽつりと残されています。

昭和32年に発行された『練馬区史』78ページの「区内古墳地名表」には、この塚は円墳として記載されており、同書には「上石神井一丁目芸術大学寮裏の円墳は、明治三十三年発行の「古墳横穴及同時代遺物発見地名表」所載の上石神井村上石神井の円墳にあたると思われるが今日では見るかげもない。」と書かれています。
さらには「地名表には7基をあげたが、発掘調査を経たものは一基もなく、そのすべてを確実に古墳であるとは断言できない状況である。」とも書かれています。
練馬区内では、古墳ではないかと考えられた塚はいくつか存在したようですが、現在では古墳は1基も存在しなかったとされているようです。このNo.44遺跡も、学術的な調査は行われていないものの、ネットで公開されている最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』では「近世の塚」とされており、古墳ではないと判断されているようです。

練馬区教育委員会より昭和52年(1977)に発行された『練馬の伝説』には、この塚について次のように書かれています。
比丘尼塚と半六稲荷
上石神井の東京芸大石神井寮の北、道をへだてた所に、大木におうわれた小高い塚がある。頂上に稲荷がまつってある。比丘尼塚とも山の神ともよんでいる。高橋家の畑の中に以前からあったもので、いろいろなたたりがあるとのことで、初牛の日の祭りはたやさないと言う。以前、鳥の絵馬を上げたとのことなので稲荷であるかどうか疑問が残る。
古老の話では、石神井城落城の時、金の鞍をおいて池にとびこみ、落ちのびようとした豊島泰経は、金の重みで馬が沈んでしまったので、馬と鞍を捨てて逃げたと伝えている。その馬を供養したのがこの塚であるという。豊島泰経生存説は他にもあるのでうなづける点もある。
山の神とは大山祇の神であり、岩上、古木の株、古墳の上にまつる。又田の神でもあるというが、この塚を将来汚さぬようにとの配慮から言いつたえられたものであろう。
塚の木を切るとたたりで死ぬと言われ、その通りになったという家があり、塚の方へ防空壕をほったり、いたずらをして死んだ話が残り、雪で折れた杉の木を切るにもおはらいをしたという。
この塚の西に半六稲荷という北向きの稲荷がある。半六さまと言われた高橋家の守護をしているという。(『練馬の伝説』123ページ) やはり、祟りの言い伝えや、塚上に祀られた祠の存在があるがゆえに、現代まで塚が壊されずに残されたということになるようですね。
確か、5、6年ほど前に、この東京芸大石神井寮が閉寮となり取り壊されるというニュースが話題になっていたと思います。私が最初にこの塚を見学した時は、まだ学生寮の建物が残っていた記憶があるのですが、「新しいカメラで写真を撮ろう!」ということで何年か後にもう一度ここを通りかかった時にはすでに寮は跡形もなく、塚の隣も駐車場になっていました。東京の景観はどんどん変わりますからね。。。
『練馬区史』の79ページには、「芸術大学寮裏古墳」という名称で往時の写真が掲載されており、この時期すでに墳頂部に小さな祠を確認することができます。興味のある方は、練馬区内の図書館で閲覧できます。。。

現在の塚の頂部の様子です。
<参考文献>
練馬区教育委員会『練馬の伝説』
東京都練馬区『練馬区史』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
人気ブログランキングへ
- 2020/04/15(水) 21:08:59|
- 練馬区の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

画像は、練馬区石神井1丁目に所在する「和田稲荷神社」です。
祭神は「倉稲魂命」であるこの神社の創立年代は不詳といわれています。
昔は「伝五郎稲荷」として知られており、旧字和田地区の鎮守であったようです。『北豊島郡誌』には「由緒、社記ニ京都伏見稲荷ノ分社ナル由伝フ。」また「氏子石神井村大字下石神井和田全部、300戸」と記されています。
地元の人からは「和田稲荷」と呼ばれて親しまれているようですが、この「和田」とはこの周辺の旧地名で、創建は豊島氏の家臣、渡辺氏であるといわれています。

石神井公園駅周辺は再開発が進められており、この神社の前の道も拡張工事が進められています。
これから景観も大きく変わりそうですが、木々に覆われた神社境内は静けさを保っているようです。
境内の中央にある御神木の白樫は、練馬区内最大といわれています。

本殿の北側、左手奥に塚があります。
朱い鳥居が建てられており、塚の上には境内社として、荷田春満を祀っているという「荷田神社」が鎮座しています。
立地的に、石神井川左岸の台地縁辺部ということになるこの塚が古墳を流用した可能性はないのだろうかと考えました。
塚の周囲の石垣に使われている河原石も、石室の石材を流用したものではないだろうかといろいろ妄想が膨らんでしまいます。
現状のこの塚は、『東京都遺跡地図』にも登録されていないという状況で、学術的な調査も行われていないようです。。。

西から見た荷田神社の塚。
<参考文献>
練馬区教育委員会『練馬の神社』
練馬区立石神井公園ふるさと文化館『ふるさと練馬探訪』
人気ブログランキングへ
- 2020/04/14(火) 20:16:40|
- 練馬区の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

さて今回は、正体を突き止めることができなかった無名の塚を取り上げようと思います。
練馬区石神井台4丁目、新青梅街道沿いの墓地となっている三角地内には2基の塚が残されています。
『東京都遺跡地図』にも未登録であることから私はこの塚の存在を知らずに、この横を偶然に通り掛って見つけました。
まず最初の画像は、2基あるうちの南側の1基です。
円墳状の塚がかなり良好な状態で残されている様子で、塚の周囲には多くの石造物が建てられているのが見えます。塚の頂部にも1基の石造物が建てられており、これはおそらく庚申塔ではないかと思われるのですが、敷地内に入れないことから近くで観察することができず、よくわかりません。
庚申塔であれば「庚申塚」ということになるのかな???

角度を変えて、北東から見た塚の様子です。
『京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』によると、この区画は練馬区の遺跡番号57番の「扇山遺跡」の範囲内となるようです。しかし、「遺構」や「概要」の欄には「塚」の文字は見当たらないようです。また、扇山遺跡に関連する発掘調査報告書の類にも、塚の情報は見つかりませんでした。
見学した印象では人工的に盛られた塚であるように感じられますが、塚の名称や性格、伝承等については不明です。

塚上の様子です。
多くの石造物が残されているにも関わらず、塚の頂部にはこの庚申塔らしき1基のみが祀られているようです。
そういえば、ここから1kmほど上流には「小関庚申塚」が所在します。
やはりこの塚も庚申塚なのでしょうか?
まさか庚申塔1基のためにこんなに大きな塚を???

北側にあるもう1基の塚。
やはり塚の周囲には多くの石造物が見られます。

北側の塚を東から見たところ。
かつては南側の塚と同じくもっと大きな塚だったのではないかと推測されますが、おそらく新青梅街道の建設により削られてしまったのでしょうか?北側は大きく削平されて、塚の1/3ほどが残されているという状況でしょうか。。。
古い郷土史本の類をもうちょっと掘り下げると、この塚について書かれた文献は存在するのではないかとも思われるのですが、なにせ、コロナの影響で、図書館や郷土資料館等々軒並み閉館中というこのご時世ですからね。
真相のわからなかった正体不明の塚もどんどん公開していこうという方向です。
もちろん、何か判明した時には追記する予定です。。。
<参考文献>
東京都練馬区『練馬区史 歴史編』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
人気ブログランキングへ
- 2020/04/13(月) 20:06:24|
- 練馬区の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
次のページ