FC2ブログ

古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「下石神井御嶽神社」

「下石神井御嶽神社」

 画像は、練馬区下石神井4丁目にある「下石神井御嶽神社」です。
 この神社の創建年代は不詳とされているようですが、木曽御嶽講に入った当地の石塚平左衛門(天保六年歿)が分霊を祀ったのが始まりと言われています。御嶽神社の祭神は、国常立命・大己貴命・少彦名命で、本殿は明治30年、拝殿は大正11年の建築されています。神紋は一山系笠印の富士に丸三紋と、十六弁菊花紋です。
 御嶽神社社殿と一山神社の間には御嶽山に見たてたという塚が所在します。


「下石神井御嶽神社」

 画像が、本殿奥に所在する御嶽塚です。3体の石の祭神像が祀られており、霊神碑や中興の先達一山・忠明の顕彰碑なども建てられています。石塚忠明によって組織されたという「一山講」ニには、誠時には1800人もの講員があったそうです。
 西側には、東京都道444号下石神井大泉線が南北に走っており、私もかつてはよく利用した道路なのですが、西武新宿線の踏切で渋滞が発生して、混み合うこともよくある場所です。
 境内にはケヤキやスダジィ、シラカシ、ムクロジなどの大樹が茂り、静寂が保たれているようです。。。


「下石神井御嶽神社」

 塚の頂部のようす。
 かつて、例祭には戦前まで火渡りの行事が行われていたそうです。。。

<参考文献>
練馬区教育委員会『練馬の神社』


人気ブログランキングへ

  1. 2018/11/23(金) 23:31:58|
  2. 練馬区の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「練馬区№124遺跡」

「練馬区№124遺跡」

 画像は、練馬区豊玉南2丁目の「氷川神社」を南から見たところです。
 この神社は、創建時期は不詳であるようですが、武蔵国一宮氷川神社の御分霊を奉斎したと伝えられています。練馬区教育委員会より発行された『練馬区の神社』によると、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の中荒井村の項に「氷川社、村の鎮守なり。例祭9月18日。正覚院持。末社牛頭天王、天神、稲荷」とあり、また『東京府志料』には「創建詳ならず。明治5年11月村社となる」、『北豊島郡誌』には「境内老樹林立し風向佳なり、当社の神木老杉は付近に有名なる大木にて包三囲に余れり、外に大杉樹2株社殿の後にあり」と書かれています。社伝によると、この杉が古損のため昭和12年と同20年に伐採された際に、年輪が各700年、600余年を数えたことから、氷川神社の神域が鎌倉時代の開創であるこ とを物語るとされているようです。
 神社の創建は不詳ながらも武蔵国一の宮氷川神社の分霊の社と伝え、現在境内社の北野神社が最も古く主神、次いで須賀神社が主神となり、その後、時期は明らかでないものの氷川神社が主神になったとされています。


「練馬区№124遺跡」

 氷川神社境内のようす。
 社殿は須賀神社の上屋が本殿となっており、昭和3年の建築です。その際に、元の拝殿は移築して神楽殿となっています。この旧拝殿は江戸時代後期の建築で、昭和59年に新神楽殿が造られると、絵馬堂として使われ、今は「額殿」と呼んでいるそうです。 


「練馬区№124遺跡」

 『東京都遺跡地図』によると、この氷川神社の境内一帯は「練馬区№124遺跡」として登録されており、さらに環七沿いに、「近世の塚」であるとされる「練馬区№124遺跡」が登録されています。
 この塚については、記述のある文献が見当たらなかったので詳細がわからないのですが、『練馬区史 歴史編』には、まず№123遺跡について「中新井川左岸台地にある遺跡で、遺跡地の大部分は環状七号線になっているものと思われる。滝沢浩氏は縄文時代前期の諸磯C式、小田静夫氏は勝坂式を指摘しており、それぞれ地点を異にするが、複合遺跡として取りあつかうことができよう。」とのみ書かれており、№124遺跡(塚)については何もふれられていません。
 画像が、おそらくこれではないかと思われる塚状の地形です。環七沿いの歩道から見ることのできる場所なのですが、神社の境内からは立ち入り禁止となっているので、近くまで行くことはできません。あとから考えると、果たしてこれが124番の塚であるのかどうか、自信がなくなってきたのですが(笑)、少なくとも古墳とはあまり関係がなかったかもしれませんね。。。


「練馬区№124遺跡」

 ちょっと変わったところでは、鳥居をくぐった左側に「ビール麦 金子ゴールデン発祥の地」と刻まれた石碑が建てられています。この石碑の横の説明板には次のように書かれていました。

 江戸・東京の農業 ビール麦の金子ゴールデン
 わが国のビール麦栽培は外国から導入された品種によって始められました。
 最初に導入されたのは江戸時代末期といわれていますが, 本格的に導入されたのは明治に入ってからで, 政府が勧業の一策として諸外国から穀類の種子を導入し, 試作を進めました。
 当時, 輸入された中には大麦も多く, 明治20年(1887)にはゴールデンメロン(米国)の名が記録されています。
 北豊島郡中新井村(現在の練馬区豊玉)の金子丑五郎が明治33年(1900)、六条大麦の四国とゴールデンメロンの自然交雑によって生じた雑種の中から「金子ゴールデン」を育成しました。
 早生で草丈が低いため成熟しても倒れにくく, 一時, 関東一円に栽培が広がりました。この品種を親にエビス1号、ニューヨークゴールデン、アズマゴールデン、ふじ二条等の優良品種が育成され, 初期のわが国ビール醸造に大きく貢献しました。

 私、ビールは大好きなんですけどね。
 練馬でビール醸造のための麦が育てられていたなんて、知らなかったなあ。。。

<参考文献>
東京都練馬区『練馬区史 歴史編』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明版


人気ブログランキングへ

  1. 2018/11/20(火) 23:15:11|
  2. 練馬区の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「練馬区No.95遺跡」

「練馬区No.95遺跡」

 画像は、練馬区貫井5丁目にある「須賀神社」を南から見たところです。
 牛頭天王、須佐之男命を祭神とするこの神社の一帯は、縄文時代前期の遺跡の包蔵地として知られており、『東京都遺跡地図』には「練馬区No.95遺跡」として登録されています。実はこの神社の境内には、人為的に盛られたのではないかと考えられる塚が存在するということで、この塚の見学を一番の目的としてこの須賀神社に参拝に訪れました。


「練馬区No.95遺跡」

 画像は南から見た須賀神社境内のようすです。この画像では見えにくいのですが、社殿の背後にマウンド状に盛り上がっている塚状の地形が存在します。この塚についての詳細な記述が見られる文献はあまり多くは見つからなかったのですが、『練馬区史 歴史編』の、この遺跡についての記述の中に、塚についてわずかにふれられており、次のように書かれています。

 石神井川右岸の、貫井小支谷の右岸縁辺に位置し、新・旧道路が複雑に入り込んでしまったため、旧地形はほとんど残っていない。№95遺跡は№85・90遺跡に連続する集落跡と理解される。滝沢浩氏はこの地点で縄文時代早期の茅山式土器を採集し、遺跡地と確認された。
 昭和五五年九月四日に踏査したが、三叉路に狭まれた高台(道路の切通しのため、旧地形の残存はこのように感じられる)に須賀神社が位置し、神社裏側には塚が残存している。
 塚にはかつて杉の大木がそびえていたらしく、大きな切株がみられた。神社と塚の周辺で縄文時代早期の土器が三片採集できた。

 この文献からは、塚の性格について知ることはできないようです。
 果たしてこの塚が古墳である可能性はないのでしょうか。。。


「練馬区No.95遺跡」

 画像は、社殿の南側から見た、塚の様子です。
 塚の南側が須賀神社の社殿となっており、西側はマンションに、西側と東側は宅地として開発が進んでおり、塚の全貌を写真に収めることは難しい状況です。


「練馬区No.95遺跡」

 南西から見た塚のようすです。
 図書館で調べた限りでは、この塚の発掘調査の記録は見つけることができなかったので、これ以上の詳細はわかりません。開発の進んだ住宅地に残された、とても気になる塚でした。。。


「練馬区No.95遺跡」

 すが神社の参道前には、「清戸道」と刻まれた石碑と、練馬区教育委員会による説明板が建てられています。
 残念ながら、社殿の背後にある塚についての記述は見られないようです。
 説明板には次のように書かれています。

 清 戸 道
 清戸道は、練馬区の東端から西端まで延長
約十五キロメートル。区のほぼ中央を横断し
テイル道路です。この道を東に行くと目白駅
を経て江戸川橋に達し、西に行けば、保谷、
東久留米を経て清戸(清瀬市)に着きます。大
泉から先、清瀬までの道筋は幾とおりにも分
岐していきます。
 練馬の村々から江戸に出るためには、この
道を通るのが最も近道でした。江戸時代から
練馬のお百姓さんは、朝早く野菜をもって町
に向い、昼頃には下肥を運んで帰ってきまし
た。その下肥を、中農以上の百姓は馬の背で、
それ以下の百姓は天秤棒で運びました。この
ように清戸道は、農産物輸送の重要な道路で
した。
 明治、大正時代には、大八車が発達し、目
白坂には、車の後押しをして金をもらってい
た「立坊」がいたのも有名な話です。金輪の
はまった車の音は、静かな夜明け前の空気を
震わせていたことでしょう。
 平成十三年一月
            練馬区教育委員会


<参考文献>
東京都練馬区『練馬区史 歴史編』


人気ブログランキングへ

  1. 2018/11/16(金) 18:14:11|
  2. 練馬区の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「入定塚」

「入定塚」

 練馬区貫井5丁目に所在するのが「入定塚」です。
 『東京都遺跡地図』には未登録の塚で、路上から見学したところでは「塚」らしきマウンドは存在しないようですが、個人の民家の敷地内には入定塚の石碑が残されています。

 伝承によると、ある旅僧が止宿した際に自ら石を刻み、それが完成すると「これで全ては終わった」と村人に頼んで自分の身体を土中に埋めてもらったそうです。それから七日目、それまで聞こえていた鉦の音がぱったりと止まり、大往生を遂げました。なんとその日は、旅僧が石碑に刻んだ延享五年(1748)四月二十三日であったといわれています。
 入定塚の伝説は東京都内でも各地に残されているようですが、僧が自ら石碑に刻んだ日に大往生を遂げるとは、とても興味深いお話ですよね。。。

 この塚を見学に訪れた日に、土地の所有者のお宅をピンポンしてみたのですが、残念ながらご在宅である様子がなく、石碑の撮影の許可を得ることができませんでした。石碑の写真は、いつかまた近くを訪れるときまでの宿題ということで、乞うご期待。。。

<参考文献>
練馬郷土史研究会『練馬区の歴史』


人気ブログランキングへ


  1. 2018/11/14(水) 00:58:58|
  2. 練馬区の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「お松塚」

「お松塚」

 「お松塚」は、練馬区南大泉5丁目にかつて所在したといわれる塚です。すでに塚自体は開発により消滅しており、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようですが、昭和50年代頃まで塚は残されており、地元の古い人たちは「お松どん」と呼んでいたそうです。
 画像はこのお松塚の跡地周辺の、現在のようすです。正確な所在地まではわかりませんでしたが、塚はかつての土支田村と小榑村の村境にあり、一本松の下には小さな祠が祀られていたそうです。
 このお松塚にまつわる言い伝えについて、『練馬区史』には次のように記されています。

 大泉学園駅から保谷駅へいく西武電車沿いの道が、白子川の谷を渡つて、東大泉町から西大泉町へ入つた所に、形ばかりの小さな塚がある。塚の上には、小さな石の祠があつて、これを土地の人は、お松様と呼んでいる。むかしから、嫁入の行列は、決してこの前を通らないことにしている。それは、ちようど中山道板橋宿にある縁切榎と同じように、この前を通つていつた嫁は、必ず不縁になると信じられているからである。
 それはなぜか。村の娘は、村の若者が管理している時代があつた。結婚は村人同志で行われるのが原則で、娘が他の村へ出ることを非常に嫌つたので、そうする場合には、事前に、若者たちに何程かの償いをして、その了解を得なければならなかつた。もしその了解を得ないままに、娘が他村へ出るようなことがあれば、若者たちは、ただでは置かなかつた。何等かの手段で報復しなければ止まない。祝言の席に暴れ込んで、酒肴を強要したり、石の地蔵様を担ぎ込んだりしたという話は、至る所に聞かれた。このお松様の塚のある所は、むかし土支田村と小榑村との村境で、ものさびしい場所で、村から出ようとする、嫁入の行列を、若者たちが襲うには、屈強の場所だつた。そこにたまたま松の大木があつ たので、お松様の前を通ると、不縁になるというような話だけが、そうした事実の行われなくなつた後までも、伝わつたものと思われる。
 そして、また、江戸時代の半頃には、そこに、どこから流れて来たとも知れぬお松という老婆が、小屋掛して住んでいた。ある時、嫁入の行列が、そこを通ると、お松は何を思つたか、物に狂つたように、花嫁におどりかかつた。あまり不意だつたのでお伴の人々も、あわてて、なすところを知らなかつたが、やつと泣叫ぶ花嫁を救い出した時には、もう、一生に一度の晴と着飾つた衣裳は、ずたずたに裂切られていた。嫁の災難は、これだけでなかつた。このことから、ついに破談となつてしまつたのである。こんな事が、その後も、度々重つたので、村人は嫁入の時には、遠廻りしても、ここを通らないことにした。
 そのお松婆の死んだ後、葬つたのが、この塚であるというような話が生れた。


 よくある祟りの伝説とは違って、ちょっと史実に近いと思われるような江戸時代のお話ですが、果たしてお松塚がお松婆を葬った墳墓なのか、それとも供養塚の類なのか、またはさらに古い時代に造られた塚であるのか、塚が学術的な調査を経ないまま消滅してしまった今となっては、塚の性格を推測することはできないようです。。。


「お松塚」

 塚上に祀られていたという祠は、南大泉5丁目の「南大泉五丁目児童遊園」の南の一角に移されて現在も供養されています。児童遊園と民家の間の隙間のような場所ですが、祠の横には小さいながらも練馬区教育委員会による説明板が設置されています。

 お松塚の祠
 この石造の祠は、八〇mほど東、現在
鉄道線路と道路になっている場所にあっ
た塚に建てられていました。その後、道
路拡張などにより白子川に泉橋の架かる
道沿いに移された後、現在地に移設され
ました。
 かつての塚には大きな一本松があり、
「お松様」とか「お松どん」と呼ばれて
いました。
 祠の側面には、明治二十年(一八八七)
四月十三日に小美野玉次郎が建てたこと
が刻まれています。
平成二十四年三月  練馬区教育委員会



「力持ち惣兵衛の馬頭観音」

 画像は、「力持ち惣兵衛の馬頭観音」です。お松塚から北東に徒歩15分ほどの、大泉学園町2丁目3番11号の三叉路の角地に残されている馬頭観音の塚で、練馬区の登録有形民俗文化財に指定されています。
 この馬頭観音は、天保十一年(1840)九月に加藤惣兵衛により建てられたもので、河原石で造られています。正面中央には「馬頭観世音」、両脇には「当知是処」「即是道場」、背面には「七十六秤目」と刻まれています。つまり、この碑はかつて力試しに使われた力石で、力石と馬頭観音を兼ねたものは珍しいものであるそうです。
 この石には、力持ち惣兵衛とその愛馬にまつわる、なかなか興味深いいつかの伝承が残されており、現地の説明板には

 江戸の屋敷の主人に力を試された惣兵衛が、持ち上げた大きな石を褒美にもらい、馬の背にのせ帰る途中、馬が力尽き石に押しつぶされ息絶えてしまいます。惣兵衛はかわいがっていた馬の死をなげき悲しみ、供養のためにこの馬頭観音を造ったとのことです。

 と書かれています。


「力持ち惣兵衛の馬頭観音」

 電車もバスもない江戸時代に偉い人に呼びつけられて大きな石を持ち上げさせられたあげく、ご褒美と称してそれを持って帰れとは、それって罰ゲームというか、もしやパワハラ?
 良い話なんだろうか、これは。。。
 愛馬を亡くした惣兵衛の悔しい気持ちが俺にはわかる。。。。。気がする!

<参考文献>
東京都練馬区『練馬区史』
練馬郷土史研究会『練馬区の歴史』
現地説明板


人気ブログランキングへ


  1. 2018/11/13(火) 00:33:39|
  2. 練馬区の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ

カテゴリ

足立区/伊興古墳群 (4)
足立区/その他の古墳・塚 (9)
葛飾区/立石古墳群 (3)
葛飾区/その他の古墳・塚 (10)
江戸川区の古墳・塚 (0)
板橋区/志村古墳群 (10)
板橋区/その他の古墳・塚 (36)
北区/赤羽台古墳群 (2)
北区/十条台古墳群 (2)
北区/飛鳥山古墳群 (8)
北区/田端西台通古墳群 (1)
北区/その他の古墳・塚 (13)
荒川区/尾久 微高地 (4)
荒川区/町屋-三河島 微高地 (19)
荒川区/南千住 微高地 (3)
荒川区/日暮里 台地上 (2)
台東区/上野台古墳群 (5)
台東区/その他の古墳・塚 (7)
墨田区の古墳・塚 (4)
練馬区の古墳・塚 (16)
豊島区の古墳・塚 (3)
文京区の古墳・塚 (8)
杉並区の古墳・塚 (17)
中野区の古墳・塚 (17)
新宿区の古墳・塚 (18)
千代田区の古墳・塚 (7)
目黒区の古墳・塚 (9)
渋谷区の古墳・塚 (19)
港区の古墳・塚 (8)
品川区/品川大井古墳群 (7)
品川区/その他の塚 (15)
大田区/田園調布古墳群 (34)
大田区/鵜の木・久が原古墳群 (8)
大田区/その他の古墳・塚 (52)
世田谷区/野毛古墳群 (24)
世田谷区/殿山古墳群 (9)
世田谷区/大蔵古墳群 (0)
世田谷区/砧中学校古墳群 (2)
世田谷区/喜多見古墳群 (13)
世田谷区/砧古墳群その他 (8)
世田谷区/その他の古墳・塚 (16)
武蔵野市の古墳・塚 (2)
三鷹市の古墳・塚 (4)
狛江市/狛江古墳群(和泉) (28)
狛江市/狛江古墳群(岩戸) (7)
狛江市/狛江古墳群(猪方) (29)
狛江市/その他の古墳・塚 (0)
調布市/国領南古墳群 (2)
調布市/下布田古墳群 (16)
調布市/上布田古墳群 (7)
調布市/下石原古墳群 (2)
調布市/飛田給古墳群 (17)
調布市/その他の古墳・塚 (11)
府中市/武蔵府中熊野神社古墳 (2)
府中市/白糸台古墳群 (14)
府中市/高倉古墳群 (32)
府中市/御嶽塚古墳群 (19)
府中市/その他の古墳・塚 (10)
国立市/下谷保古墳群 (12)
国立市/青柳古墳群 (3)
国立市/その他の古墳・塚 (9)
立川市の古墳・塚 (14)
稲城市の古墳・塚 (12)
多摩市/和田古墳群 (15)
多摩市/その他の古墳・塚 (6)
日野市/平山古墳群 (7)
日野市/西平山古墳群 (5)
日野市/七ッ塚古墳群 (8)
日野市/万蔵院台古墳群 (4)
日野市/その他の古墳・塚 (9)
町田市/能ケ谷香山古墳群 (0)
町田市/その他の古墳・塚 (5)
八王子市の古墳・塚 (30)
昭島市/浄土古墳群 (1)
昭島市/その他の古墳・塚 (2)
あきる野市/森山古墳群 (3)
あきる野市/草花古墳群 (14)
あきる野市/御堂上古墳群 (4)
あきる野市/瀬戸岡古墳群 (7)
あきる野市/牛沼古墳群 (3)
あきる野市/その他の古墳・塚 (16)
日の出町の古墳・塚 (2)
青梅市の古墳・塚 (15)
西東京•清瀬•東久留米市の塚 (3)
小金井•小平•国分寺市の塚 (0)
東村山•東大和•武蔵村山市の塚 (14)
福生市•羽村市•瑞穂町の塚 (12)
神奈川県川崎市の古墳・塚 (7)
栃木県の古墳 (13)
那須町•大田原市•那珂川町 (8)
宇都宮市•鹿沼市 (0)
壬生町•上三川町 (5)
長野県の古墳 (6)
群馬県の古墳 (6)
茨城県の古墳 (5)
埼玉県の古墳 (2)
千葉県の古墳 (1)
未分類 (5)

最新記事

最新コメント

検索フォーム

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QR