
画像は、台東区池之端1丁目にある「旧岩崎邸庭園」です。
三菱財閥を興した岩崎彌太郎の長男で三菱第三代社長の久彌の本邸として建てられたというこの旧岩崎邸庭園は、往時は1万5,000坪の敷地に20棟もの建物が並んでいたそうですが、現在は3分の1の敷地に洋館、撞球室、和館大広間の3棟が残されています。重要文化財として指定されている、貴重な庭園です。
この旧岩崎邸庭園の敷地内には、「班女塚」と呼ばれる塚が現存します。

画像が、現在の班女塚のようすです。円形の塚状の地形が見られるようですので、かつては高さのあるマウンドが存在したのかもしれませんが、塚の学術的な調査は行われていないとみられ、詳細はわかりません。
人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵氏は、江戸時代の地誌である『江戸砂子』の中に、原始時代及びそれ以後の古墳と考えられる遺構が掲載されているとして、昭和3年(1927)に発刊した著書『上代の東京と其周囲』において、「江戸砂子に見えたる古墳」という論文を発表しています。この中でこの班女塚も取り上げられており、
今の斎藤實盛の墳と稱するあたりに班女の衣掛松といふのがあつて、而して其の傍に班女塚といふのがある。これには
榊原殿やしきの内にありと伝ふ。
と書いて居る。此等も矢張り本郷の崖縁の古墳の例として見るべきものである。
と書かれています。
果たしてこの班女塚が古墳であるのか否か、現在のところは不明ですが、重要文化財であるこの旧岩崎邸庭園内にあって班女塚は忘れ去られたような存在で、ほとんど何もピックアップされていない状況ですので、まずは調査が行われることを期待したいところですね。

さて、『江戸砂子』からは特にこの塚の伝承や由来は知ることが出来ませんでしたが、「班女塚」という名称がつけられているあたりからしても、何らかの由来や言い伝えが存在するのではないかとは考えていましたが、意外なところから真相を知ることが出来ました。
この場所は戦後にGHQに接収された後、最高裁判所の研修所等に使用されており、法曹会より刊行されている『法曹』の第466号に、この班女塚に関する記述を見つけることが出来ました。今回はその全文を紹介してみようと思います。
研修所の庭の片隅に家の形をした小さな石の碑がある。傍らの大きな椎の木とアオキの葉の陰に隠れて人目につかない。去年の春、庭を散歩している内、ふとこの碑を見つけた。相当時代を経て、風化が著しいが、よく見ると碑面には一首の歌が刻まれている。
としふれどその名は
朽ちぬ古塚を
猶末の世に
のこすしるしぞ
「古塚」の文字が気になって、この碑のことを心に留めていた。間もなく、この碑が「班女の碑」と呼ばれていることを知った。
能に「班女」という狂乱物の一番がある。
げにやもとよりも定めなき世と言いながら、憂き節しげき川竹の流れの身こそ悲しけれ」と始まる能「班女」のシテ、美濃の国野上の宿の遊女、花子を中国の班婕妤の故事に因んで「班女」と呼んでいる。漢の成帝の寵姫班女は寵を失って、我が身を秋の扇にたとえ、歎きの詩を詠んだ。花子は吉田の少将と契りを結んで別れる際形見に互いに取り交わした扇の縁で再会を果たした。この塚は能の「班女」と関係があるのであろうか。
「班女の塚」は江戸時代から早くから人に知られていた。既に、享保十七年刊行の「江戸砂子」が「班女の塚 榊原殿の御屋敷の内にありという「と誌している。榊原殿御屋敷とは、現在の司法研究所の敷地一帯のことである。しかし、「江戸砂子」は「班女」がいかなる人かについては何も誌していない。「再校江戸砂子」も又「いかなる人にや知らず」としか誌していない。
少し時代の下がる「遊歴雑記」(文化一一~一二年成)がこの碑を絵入りで紹介し、面白い記述をしている。「(椎の気)の本に梅若の母、班女御前の杖と傘とを埋めし古跡あり、(中略)その上に碑を建て、平仮名の一首の和歌を刻せり」。班女は、すなわち梅若の慕ひ浅芽が原なるかがみが池に入水せし班女の今此処に杖と傘とを埋めたるもいぶかし、同名異人なるや、後の穿さく家の考勘を待のみ」。この塚が班女すなわち梅若丸の母のものであるとする伝承があることを伝えるとともに、梅若の母は入水して果てたのであるから、その母の杖と傘が埋めてあるというこの伝承をいぶかしとしている。そして、班女がいかなる人かについては後考を待つとしたのであった。
当時、「班女」(の花子)と梅若丸の母とは同一人物であったとの伝承があった(江戸時代の謡曲の研究所である謡曲拾葉抄は、それぞれ、その夫が同姓の吉田少将と吉田の某(なにがし)であることから、同一人物であるとしている)。
ここでいう梅若丸の母とは能「隅田川」のシテのことをいっている。梅若丸は、人商人に都から連れ出されその旅中に旅の疲れから病を得、そのまま隅田川土手に行き倒れ、非業の死を遂げたのであった。梅若丸の母は、その後を追ってはるばる都北白川から江戸にまで下ったものの、隅田川の渡船の船頭からその死を知らされ、愛児の供養をした後、悲嘆のあまりその後を追って、鏡が池に入水したのであった。今隅田川畔にある妙亀塚はこの母の墓であると伝えている。
ところが、「遊歴雑記」の期待した穿さく家は、後世に出なかったようである。この後、この点に関し、更に検討を加えた書は、残念ながら見当らない。
明治四〇年刊の「新撰東京名所図会」もまた、班女塚が岩崎邸内にあるとしたのに続けて「知らず、この塚は何人の塚なるか、精査せば獲るところあるべし」とするのみである。
結局、今となっては知るすべもないであろう。
塚は「班女の塚」というゆかしい名前を残している。塚の朽ちるのを惜しんで建られた碑がわずかにこのことを伝えている。「新編江戸誌」は、毎年この塚の前で供養読経のことありとしている。しかし、時代と人は変わり、今は供養することも絶えてしまい、その存在すら忘れられてしまっている。
時折、この碑の前に佇むことがある。そんな折、この古跡はやはり「一人子を人商人に誘われて、行方を聞けば逢坂の関の東の国遠き東(あずま)とかやに下りぬと聞きしより、心乱れつつ其方とばかり思ひ子の跡をたずねて迷い」ながら、都北白川からはるばる隅田川まで下って来た梅若丸の母その人の杖と傘とを埋めたものではないだろうかとあはれに思うのである。(『法曹No.466』36~37ページ)
前回の『古墳なう』で取り上げた、墨田区の「梅若塚」の中でも梅若丸にまつわる伝説を紹介しましたが、なんとこの班女塚には、わが子の死を悲嘆して鏡ヶ池に身を投げたという梅若丸の母親の杖と傘を埋めた塚であるという伝承が残されているようです。
謡曲「隅田川」で知られる梅若丸の墓であるとされる墨田区の「梅若塚」や、梅若丸の母親の墓であるとされる台東区の「妙亀塚」と比べると、何とも地味な存在となってしまった班女塚ですが、しっかりと言い伝えが残されていたのですね。。。

少し離れた位置から見た「班女塚」です。
地膨れ程度のわずかな高まりが残されているようです。

旧岩崎邸庭園の入り口付近から見た班女塚の場所です。左上の崖の上が班女塚です。
立地的には、古墳の可能性も考えられそうなところですが、真相はわかりません。。。

庭園内にはもう1箇所、塚状の築山が存在するようです。
古墳を流用した築山である可能性はないのだろうかとすぐに妄想してしまうのですが、真相はわかりません。周辺は貝塚として知られた場所で、『東京都遺跡地図』には台東区の遺跡番号10番の「湯島(切通し北)貝塚」として登録されています。

現在でも、攪乱された貝の散布を見ることが出来るようです。

敷地内の一番の見どころは、やはりこの洋館ですよね。
三菱を創設した岩崎家の第三代当主、久彌の本邸として明治29年に竣工。
日本の近代建築史に名を残すイギリスの建築家、ジョサイア・コンドルにより設計されたもので、洋館と撞球室が昭和36年に重要文化財に指定、昭和44年に和館内の大広間と洋館の袖塀1棟が追加指定を受けています。
<参考文献>
鳥居龍蔵「江戸砂子に見えたる古墳」『上代の東京と其周圍』
北島佐市郎「司法研修所の庭から(2)班女の塚」『法曹No.466』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
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- 2018/06/10(日) 00:11:20|
- 台東区/その他の古墳・塚
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画像は、台東区橋場1丁目にある「妙亀塚」を南から見たところです。台東区の遺跡番号7番の遺跡として登録されており、”近世の塚?”とされています。
この「妙亀塚」にはある有名な物語が残されています。東京都台東区より発行された『新版 史跡をたずねて』には、この物語りについて次のように書かれています。
時は平安期の貞元元年。京都北白川に住む吉田帷房(これふさ)の子梅若丸は、陸奥の藤太という人買いにさらわれた。東北へ連れてゆかれる途中、幼梅若丸は病気になって隅田川のほとりで死んでしまう。
それから1年…。母の妙亀はわが子こいしとあとを追ってはるばる京都から北上、やっとの思いで隅田川のほとりにたどり着く。向こう岸の塚にわが子の梅若丸が葬られているのを知らされる。母の妙亀は悲嘆の涙に明け暮れ、わが子の成仏を願い塚のかたわらに庵をつくって念仏三昧の生活を続ける。だが、かわいいわが子が忘れられず、遂に発狂して浅茅ヶ原(橋場付近)の鏡ヶ池に身を投じてしまうというあわれな物語りである。(『新版 史跡をたずねて』359ページ)
この物語は、室町時代の能作者、観世元雅により『隅田川』という謡曲として演じられており、現代に語り継がれている有名な物語です。どこまでが史実でどこまでが創作された物語かはわかりませんが、実話に基づいた物語だといわれています。
この、鏡ヶ池に身を投げた母親の墓であるといわれているのがこの「妙亀塚」で、ちなみに隅田川の対岸にある「木母寺」の境内には、梅若にちなむ「梅若塚」も残されています。梅若が死んだことを知った母親は「総泉寺」で妙亀尼と号して尼僧となったといわれており、妙亀塚は総泉寺の境内に造られたといわれていますが、総泉寺は関東大震災での被災により板橋区に移転。寺の跡地は住宅地となり、妙亀塚だけが史跡公園として整備されて残されています。
塚の上には板碑が祀られており、この板碑には「弘安11年戊子5月22日孝子敬白」と刻まれているそうですが、妙亀塚と板碑との関係はわからないようです。

さて、後にこの妙亀塚について調べてみたところ、鳥居龍蔵氏の著書『上代の東京と其周圍』の中に関東大震災後の妙亀塚の写真が掲載されているのを知りました。鳥居龍蔵氏は、震災のために人家が焼失して古い地形が観察できるようになったことを遺跡や古墳を観察するチャンスとして捉え、東京市中を調査してまわったという凄い人です。しかも、恐らくカメラが高価であったであろう時代に古墳の写真を撮りまくっています。画像がその、震災後の妙亀塚の写真です。
この写真を見ると、かなり大きな塚であったことがわかります。鳥居氏は、妙亀塚のほかにこの周辺に所在した「釆女塚」や「首塚(蛇塚)」も含めて古墳群の存在を指摘しています。

私が初めて訪れたときの印象は、史跡公園に造られたモニュメント的なもので古墳等ではないのかなと思っていたのですが、実はこの公園の土台の部分自体が古墳であるのかもしれません。公園は四方を道路や宅地に削られて平らに整地されていますが、今でも周囲の土地より高くなっていています。。。
<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都台東区『新版 史跡をたずねて』
現地説明版
- 2014/02/12(水) 01:37:16|
- 台東区/その他の古墳・塚
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画像は、台東区鳥越2丁目にある「鳥越神社」を南から見たところです。
この鳥越神社には蕨手刀、高杯、勾玉、管玉、銀環が所蔵されており、特に蕨手刀と高杯はこの周辺で発掘されたものであることから、付近に古墳が存在したことを示すものとして昭和5年(1930)に鳥居龍蔵氏により紹介されています。
高杯は昭和24年7月に、蕨手刀は8月に鳥越神社に献納されており、蕨手刀が収められていた木箱には「天保七年丙申八月従土中掘出之 源通文蔵」墨書されているそうです。また、勾玉、管玉、銀環はこの神社に伝えられているものであると云われています。木箱に書かれている源通文という人物はこの鳥越神社の付近に居住していた人であるそうなので、蕨手刀がこの周辺から発掘された可能性は高いのではないかとも思われますが、確実に付近に古墳が存在していて、そこから出土した遺物であるという客観性にも欠けるというのが現状の考え方のようです。
葛飾区立石には、大正12年以来の鳥居龍蔵氏の調査により古墳であると主張されていたもののその後の開発により古墳の正確な位置や規模がわからなくなり、近年の発掘調査により散布する埴輪片が発見されて推定地が確認された「南蔵院裏古墳」があります。その後、同じ立石8丁目に「熊野神社古墳」の周溝が検出され、鳥居龍蔵氏の主張通り古墳群が形成されていたことがわかっているケースもあります。この「鳥越古墳」も、今後の学術的な調査がされる日を楽しみに待ちたいところです。

この周辺は江戸時代以前は丘陵であったそうで、徳川家康の入国以降の何度かの埋立てにより崩されてしまったそうです。埋立ては天正十八年(1590)以降、元和六年(1620)、正保二年(1645)の3度行われていて、正保2年の埋立てにより現在のように平坦な地となってしまったそうですので、もし仮に鳥越古墳が丘陵上に存在しており、古墳が崩されて蕨手刀が発掘されたのが木箱に書かれている天保7年であるならば、天保7年は西暦1836年ですからちょっと矛盾するとは思います。もちろん古墳が低地に存在した可能性もあるかもしれませんが、このあたりは良くわかりません。
画像は、同じ台東区鳥越2丁目にある「鳥越古墳」の推定地を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には、台東区の遺跡番号9番の古墳としてこの地点に登録されています。。。
東京都台東区役所『台東区史 上』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都台東区『台東区史 通史編Ⅰ』
- 2014/02/06(木) 01:09:07|
- 台東区/その他の古墳・塚
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画像は、台東区千束3丁目にある「吉原弁財天」を北西から見たところです。

ここにはかつて「弁天池」という池があり、中央の島に弁天様が祀られていたそうです。この弁天池の畔に「蛇塚」があったそうです。この「蛇塚」については、古くは江戸時代の古文書にも記されています。鳥居龍蔵氏の著書、『上代の東京と其周圍』には、『江戸砂子』に記されている「蛇塚」について次のような記述が見られます。
それから浅草寺の裏の田の中に、蛇塚といふのがある。此の記述には、
浅草寺のうらの田の中にあり、一株の木ありて、今も蛇おほしといふ。
とある。これも矢張り古墳であることが分る。尚ほ此の古墳も、矢張り浅草寺の境内に多い古墳群の其の一つと見て間違無い。(『上代の東京と其周圍』38ページ)
塚は既に削平されて消滅していますが、敷地内には「蛇塚」と書かれた石碑が残されています。それにしても、この周辺が田んぼだったとは、今となってはまったく想像出来ませんね。。。

塚跡?には築山の上に観音様が建てられています。台東区教育委員会により設置された説明板には、次のように書かれていました。
新吉原花園池(弁天池)跡
台東区千束三丁目二二番
江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在
していたが、明暦三年(一六五七)の大火後、幕府の命により、
湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、
昭和三三年までの三〇〇年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史
が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源
泉となった。
遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が
祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七
福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。
池は花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正一二年の関
東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、四九〇人が溺死
したという悲劇が起こった。弁天祠附近の築山に建つ大き
な観音様は、溺死した人々の供養のため大正一五年に造立
されたものである。昭和三四年吉原電話局(現在の吉原ビル)
の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留
めるのみとなった。
平成十年三月
台東区教育委員会
<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都台東区『新版 史跡をたずねて』
現地説明版
- 2014/02/04(火) 03:36:22|
- 台東区/その他の古墳・塚
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画像は、台東区下谷2丁目にある「小野照崎神社」を南西から見たところです。この神社の境内には「下谷坂本の富士塚」が保存されており、社寺と塚が台東区の遺跡番号49番の遺跡として登録されています。
鳥居龍蔵氏は著書『上代の東京と其周圍』の中で、この小野照崎神社付近は古墳群の跡であり、残されている土墳は矢張り古墳の一例であると紹介しています。富士塚の中にはすでに存在した古墳や塚を流用して造られたものが数多く存在するといわれていますが、この「下谷坂本の富士塚」も古墳の可能性があるのでしょうか。
画像は、「下谷坂本の富士塚」を西から見たところです。この富士塚について、現地に立てられている説明板には次のように書かれています。
下谷坂本の富士塚
台東区下谷二丁目十三番十四号
この塚は模造の富士山で、文政十一年(一八二八)の
築造と考えられている。『武江年表』同年の項に、「下
谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。
境内の「富士山建設之誌碑」によると、坂本の住人で
東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂
屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧
請したという。
東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一。富
士山信仰は室町末期頃に起り、江戸時代中期には非常
に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこち
で結成された。それにともない、模造富士も多数築か
れ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至
った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。
ここの富士塚は高さ約五メートル、直径約十六メー
トル。塚は富士の熔岩でおおわれ、東北側一部が欠損
しているものの、原形がよく保存されている。原形保
存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重
である。昭和五十四年五月二十一日、国の重要有形民
俗文化財に指定された。
平成六年三月
台東区教育委員会

この「小野照崎神社」には、俳優の渥美清氏がまだ駆け出しだった頃、「タバコを一生吸いませんので仕事をください」と願掛けをしたところ、その直後に映画『男はつらいよ』の主役に抜擢されたのだそうで、その後、渥美氏は死ぬまでタバコを吸わなかったのだそうです。現在でもこの御利益にあやかろうと、若手の芸人さんが数多く参拝に訪れているそうです。訪れた時も多くの参拝客が列を作っていました。

境内には「庚申塚」が保存されています。古くから有名な塚であるそうで、正保二年(1645)作の庚申塔の他、10基の塔が合祀されています。
<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都台東区『新版 史跡をたずねて』
現地説明版
- 2014/01/28(火) 01:02:15|
- 台東区/その他の古墳・塚
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画像は、台東区清川1丁目の出山寺境内にある「釆女塚」を東から見たところです。
鳥居龍蔵氏は『上代の東京と其周圍』の中でこの「釆女塚」を取り上げています。釆女塚のすぐ北東には「妙亀尼塚」があり、鏡ヶ池(この出山寺のある橋場一丁目の北部辺りにあったといわれる)を挟んで一方にこの「釆女塚」があることから、周辺には古墳群があったのではないかとしていますが(鏡ヶ池の周圍には他に首塚(蛇塚)という塚も存在していたそうです)、ほとんどは開発のために消滅しており、残念ながら塚の性格を知ることは出来ません。
境内には台東区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
采女塚
台東区清川一丁目十三番十三号 出山寺
石碑の正面上部に横書きで「采女塚」とあり、その下
に仮名混じりの文でその由来を刻んでいる。
江戸時代の初期、寛文年間(1661-1672)新吉原
雁金屋の遊女「采女」に心を寄せた若い焦慮が師から固
く制され、悩んだ末、雁金屋の前で自害してしまった。
采女は悲しんで浅茅ヶ原の鏡が池に身を投げた。時に
十七才。翌朝、草刈りの人たちが
「名をそれとしらずともしれさる沢の
あとをかがみが池にしずめば」
としるした短冊を見つけ、采女とわかり、塚に葬った。
浅茅ヶ原は、現在の橋場一、二丁目と清川一、二丁目
のあたりを指し、『江戸名所図会』によると鏡が池の面
積は、文政(1818-29)の頃、約五百平方メートル、
橋場一丁目の北部あたりにあったという。
碑は、文化元年(1804)大田南畝ら文人たちによ
って建立。第二次世界大戦で火をあびている。
平成七年三月
台東区教育委員会

出山寺境内に残されている石碑には、正面上部に横書きで「釆女塚」、その下には「金之竟合 水也 相比綵之無絲 嬉而不喜 士可以封 言可以己 車之所指毎田 即是一人十口 潭辺無水」と刻まれているそうです。この石碑は、采女を哀れに思った蜀山人らの文人が仲間だけにわかる隠語を用いたのだそうで、「隠語の碑」とも呼ばれています。
台東区清川には、恋に破れて鏡が池に身を投げた玉姫を祭ったといわれる「玉姫稲荷神社」があり、橋場1丁目の「妙亀塚」には、人さらいにさらわれた我が子を追って京から訪ねてきたものの、我が子がすでに死んでいた事を知った母の妙亀尼は池に身を投げてしまうという悲しい伝説が言い伝えられています。色々と調べてみると、この周辺には女の人の悲しい伝説が多く残されていているようです。。。
<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都台東区『新版 史跡をたずねて』
現地説明版
- 2014/01/26(日) 03:55:35|
- 台東区/その他の古墳・塚
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画像は、台東区東浅草2丁目にある「駿馬塚」を南から見たところです。住宅街の細い路地の奥にひっそりと祀られており、路地の前には台東区教育委員会による説明板が設置されています。


この「駿馬塚」は、昭和2年に発行された鳥居龍蔵氏の著書『上代の東京と其周圍』の中で取り上げられており、かつてこの塚から陶棺が掘り出されたことが碑文に刻まれていることが紹介されています。この『上代の東京と其周圍』には関東大震災前後の塚の写真が掲載されていますが、これによると大正時代には既に塚は削平されており、わずかに残る盛土の上に石碑と五輪塔が立てられているようです。
現在は碑文の刻まれたという石碑は残されてはいないようで、五輪塔のみが保存されていました。

現地に立てられている説明板には江戸時代の地誌『江戸名所図会』の挿絵が載せられており、この挿絵には「駿馬塚」の石碑の横に円墳のような大きな土饅頭型の盛土が描かれています。この駿馬塚が石棺を用いた古墳であったのか、中世の塚であったのかは現在では知ることは出来ませんが、少なくとも江戸時代には塚が残されていたことがわかります。
説明板には次のように書かれています。
駿馬塚
台東区東浅草二丁目十六番一号
駿馬塚は、平安時代の康平年間(一〇五八~一〇六四)源
義家が陸奥へ向かう際、この地で愛馬「青海原」が絶命し、
これを葬った所と伝えている。
現存する塚は、明治二八年造立の石碑や石造層塔の一部
を遺すのみだが、天保七年(一八三六)刊行の『江戸名所図会』
には左の挿絵を載せており、江戸時代後期には土饅頭型の
塚や「駿馬塚」と書した石碑が建っていたようである。
現在、付近の人々はこの塚を「馬頭観音」と呼び、覆屋等
を設けて大切に守っている。
平成十年三月
台東区教育委員会
<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
現地説明版
- 2014/01/21(火) 23:56:48|
- 台東区/その他の古墳・塚
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