古墳なう

ご〜ご〜ひでりんの古墳探訪記

「妙亀塚」(東京都指定旧跡)

「妙亀塚」(東京都指定旧跡)

 画像は、台東区橋場1丁目にある「妙亀塚」を南から見たところです。台東区の遺跡番号7番の遺跡として登録されており、”近世の塚?”とされています。

 この「妙亀塚」にはある有名な物語が残されています。東京都台東区より発行された『新版 史跡をたずねて』には、この物語りについて次のように書かれています。


 時は平安期の貞元元年。京都北白川に住む吉田帷房(これふさ)の子梅若丸は、陸奥の藤太という人買いにさらわれた。東北へ連れてゆかれる途中、幼梅若丸は病気になって隅田川のほとりで死んでしまう。
 それから1年…。母の妙亀はわが子こいしとあとを追ってはるばる京都から北上、やっとの思いで隅田川のほとりにたどり着く。向こう岸の塚にわが子の梅若丸が葬られているのを知らされる。母の妙亀は悲嘆の涙に明け暮れ、わが子の成仏を願い塚のかたわらに庵をつくって念仏三昧の生活を続ける。だが、かわいいわが子が忘れられず、遂に発狂して浅茅ヶ原(橋場付近)の鏡ヶ池に身を投じてしまうというあわれな物語りである。(『新版 史跡をたずねて』359ページ)


 この物語は、室町時代の能作者、観世元雅により『隅田川』という謡曲として演じられており、現代に語り継がれている有名な物語です。どこまでが史実でどこまでが創作された物語かはわかりませんが、実話に基づいた物語だといわれています。
 この、鏡ヶ池に身を投げた母親の墓であるといわれているのがこの「妙亀塚」で、ちなみに隅田川の対岸にある「木母寺」の境内には、梅若にちなむ「梅若塚」も残されています。梅若が死んだことを知った母親は「総泉寺」で妙亀尼と号して尼僧となったといわれており、妙亀塚は総泉寺の境内に造られたといわれていますが、総泉寺は関東大震災での被災により板橋区に移転。寺の跡地は住宅地となり、妙亀塚だけが史跡公園として整備されて残されています。
 塚の上には板碑が祀られており、この板碑には「弘安11年戊子5月22日孝子敬白」と刻まれているそうですが、妙亀塚と板碑との関係はわからないようです。


「妙亀塚」(東京都指定旧跡)

 さて、後にこの妙亀塚について調べてみたところ、鳥居龍蔵氏の著書『上代の東京と其周圍』の中に関東大震災後の妙亀塚の写真が掲載されているのを知りました。鳥居龍蔵氏は、震災のために人家が焼失して古い地形が観察できるようになったことを遺跡や古墳を観察するチャンスとして捉え、東京市中を調査してまわったという凄い人です。しかも、恐らくカメラが高価であったであろう時代に古墳の写真を撮りまくっています。画像がその、震災後の妙亀塚の写真です。
 この写真を見ると、かなり大きな塚であったことがわかります。鳥居氏は、妙亀塚のほかにこの周辺に所在した「釆女塚」や「首塚(蛇塚)」も含めて古墳群の存在を指摘しています。


「妙亀塚」(東京都指定旧跡)

 私が初めて訪れたときの印象は、史跡公園に造られたモニュメント的なもので古墳等ではないのかなと思っていたのですが、実はこの公園の土台の部分自体が古墳であるのかもしれません。公園は四方を道路や宅地に削られて平らに整地されていますが、今でも周囲の土地より高くなっていています。。。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都台東区『新版 史跡をたずねて』
現地説明版

  1. 2014/02/12(水) 01:37:16|
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「鳥越古墳」

「鳥越神社」

 画像は、台東区鳥越2丁目にある「鳥越神社」を南から見たところです。

 この鳥越神社には蕨手刀、高杯、勾玉、管玉、銀環が所蔵されており、特に蕨手刀と高杯はこの周辺で発掘されたものであることから、付近に古墳が存在したことを示すものとして昭和5年(1930)に鳥居龍蔵氏により紹介されています。
 高杯は昭和24年7月に、蕨手刀は8月に鳥越神社に献納されており、蕨手刀が収められていた木箱には「天保七年丙申八月従土中掘出之 源通文蔵」墨書されているそうです。また、勾玉、管玉、銀環はこの神社に伝えられているものであると云われています。木箱に書かれている源通文という人物はこの鳥越神社の付近に居住していた人であるそうなので、蕨手刀がこの周辺から発掘された可能性は高いのではないかとも思われますが、確実に付近に古墳が存在していて、そこから出土した遺物であるという客観性にも欠けるというのが現状の考え方のようです。
 葛飾区立石には、大正12年以来の鳥居龍蔵氏の調査により古墳であると主張されていたもののその後の開発により古墳の正確な位置や規模がわからなくなり、近年の発掘調査により散布する埴輪片が発見されて推定地が確認された「南蔵院裏古墳」があります。その後、同じ立石8丁目に「熊野神社古墳」の周溝が検出され、鳥居龍蔵氏の主張通り古墳群が形成されていたことがわかっているケースもあります。この「鳥越古墳」も、今後の学術的な調査がされる日を楽しみに待ちたいところです。


「鳥越古墳」

 この周辺は江戸時代以前は丘陵であったそうで、徳川家康の入国以降の何度かの埋立てにより崩されてしまったそうです。埋立ては天正十八年(1590)以降、元和六年(1620)、正保二年(1645)の3度行われていて、正保2年の埋立てにより現在のように平坦な地となってしまったそうですので、もし仮に鳥越古墳が丘陵上に存在しており、古墳が崩されて蕨手刀が発掘されたのが木箱に書かれている天保7年であるならば、天保7年は西暦1836年ですからちょっと矛盾するとは思います。もちろん古墳が低地に存在した可能性もあるかもしれませんが、このあたりは良くわかりません。

 画像は、同じ台東区鳥越2丁目にある「鳥越古墳」の推定地を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には、台東区の遺跡番号9番の古墳としてこの地点に登録されています。。。

東京都台東区役所『台東区史 上』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都台東区『台東区史 通史編Ⅰ』

  1. 2014/02/06(木) 01:09:07|
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「蛇塚」

「蛇塚」

 画像は、台東区千束3丁目にある「吉原弁財天」を北西から見たところです。


「蛇塚」

 ここにはかつて「弁天池」という池があり、中央の島に弁天様が祀られていたそうです。この弁天池の畔に「蛇塚」があったそうです。この「蛇塚」については、古くは江戸時代の古文書にも記されています。鳥居龍蔵氏の著書、『上代の東京と其周圍』には、『江戸砂子』に記されている「蛇塚」について次のような記述が見られます。

 それから浅草寺の裏の田の中に、蛇塚といふのがある。此の記述には、
 浅草寺のうらの田の中にあり、一株の木ありて、今も蛇おほしといふ。
 とある。これも矢張り古墳であることが分る。尚ほ此の古墳も、矢張り浅草寺の境内に多い古墳群の其の一つと見て間違無い。(『上代の東京と其周圍』38ページ)

 塚は既に削平されて消滅していますが、敷地内には「蛇塚」と書かれた石碑が残されています。それにしても、この周辺が田んぼだったとは、今となってはまったく想像出来ませんね。。。


「蛇塚」

 塚跡?には築山の上に観音様が建てられています。台東区教育委員会により設置された説明板には、次のように書かれていました。


  新吉原花園池(弁天池)跡
               台東区千束三丁目二二番

 江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在
していたが、明暦三年(一六五七)の大火後、幕府の命により、
湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、
昭和三三年までの三〇〇年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史
が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源
泉となった。
 遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が
祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七
福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。
 池は花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正一二年の関
東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、四九〇人が溺死
したという悲劇が起こった。弁天祠附近の築山に建つ大き
な観音様は、溺死した人々の供養のため大正一五年に造立
されたものである。昭和三四年吉原電話局(現在の吉原ビル)
の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留
めるのみとなった。
   平成十年三月
                  台東区教育委員会


<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都台東区『新版 史跡をたずねて』
現地説明版

  1. 2014/02/04(火) 03:36:22|
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「下谷坂本の富士塚」(国指定 重要有形民俗文化財)

「小野照崎神社」

 画像は、台東区下谷2丁目にある「小野照崎神社」を南西から見たところです。この神社の境内には「下谷坂本の富士塚」が保存されており、社寺と塚が台東区の遺跡番号49番の遺跡として登録されています。
 

「下谷坂本の富士塚」(国指定 重要有形民俗文化財)
 
 鳥居龍蔵氏は著書『上代の東京と其周圍』の中で、この小野照崎神社付近は古墳群の跡であり、残されている土墳は矢張り古墳の一例であると紹介しています。富士塚の中にはすでに存在した古墳や塚を流用して造られたものが数多く存在するといわれていますが、この「下谷坂本の富士塚」も古墳の可能性があるのでしょうか。

 画像は、「下谷坂本の富士塚」を西から見たところです。この富士塚について、現地に立てられている説明板には次のように書かれています。


下谷坂本の富士塚
           台東区下谷二丁目十三番十四号
 この塚は模造の富士山で、文政十一年(一八二八)の
築造と考えられている。『武江年表』同年の項に、「下
谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。
境内の「富士山建設之誌碑」によると、坂本の住人で
東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂
屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧
請したという。
 東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一。富
士山信仰は室町末期頃に起り、江戸時代中期には非常
に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこち
で結成された。それにともない、模造富士も多数築か
れ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至
った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。
 ここの富士塚は高さ約五メートル、直径約十六メー
トル。塚は富士の熔岩でおおわれ、東北側一部が欠損
しているものの、原形がよく保存されている。原形保
存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重
である。昭和五十四年五月二十一日、国の重要有形民
俗文化財に指定された。
 平成六年三月
               台東区教育委員会


「下谷坂本の富士塚」(国指定 重要有形民俗文化財)

 この「小野照崎神社」には、俳優の渥美清氏がまだ駆け出しだった頃、「タバコを一生吸いませんので仕事をください」と願掛けをしたところ、その直後に映画『男はつらいよ』の主役に抜擢されたのだそうで、その後、渥美氏は死ぬまでタバコを吸わなかったのだそうです。現在でもこの御利益にあやかろうと、若手の芸人さんが数多く参拝に訪れているそうです。訪れた時も多くの参拝客が列を作っていました。


「小野照崎神社の庚申塚」

 境内には「庚申塚」が保存されています。古くから有名な塚であるそうで、正保二年(1645)作の庚申塔の他、10基の塔が合祀されています。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都台東区『新版 史跡をたずねて』
現地説明版

  1. 2014/01/28(火) 01:02:15|
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「釆女塚」

「釆女塚」

 画像は、台東区清川1丁目の出山寺境内にある「釆女塚」を東から見たところです。
 
 鳥居龍蔵氏は『上代の東京と其周圍』の中でこの「釆女塚」を取り上げています。釆女塚のすぐ北東には「妙亀尼塚」があり、鏡ヶ池(この出山寺のある橋場一丁目の北部辺りにあったといわれる)を挟んで一方にこの「釆女塚」があることから、周辺には古墳群があったのではないかとしていますが(鏡ヶ池の周圍には他に首塚(蛇塚)という塚も存在していたそうです)、ほとんどは開発のために消滅しており、残念ながら塚の性格を知ることは出来ません。

 境内には台東区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。


采女塚

       台東区清川一丁目十三番十三号 出山寺
 石碑の正面上部に横書きで「采女塚」とあり、その下
に仮名混じりの文でその由来を刻んでいる。
 江戸時代の初期、寛文年間(1661-1672)新吉原
雁金屋の遊女「采女」に心を寄せた若い焦慮が師から固
く制され、悩んだ末、雁金屋の前で自害してしまった。
采女は悲しんで浅茅ヶ原の鏡が池に身を投げた。時に
十七才。翌朝、草刈りの人たちが
 「名をそれとしらずともしれさる沢の
   あとをかがみが池にしずめば」
としるした短冊を見つけ、采女とわかり、塚に葬った。
 浅茅ヶ原は、現在の橋場一、二丁目と清川一、二丁目
のあたりを指し、『江戸名所図会』によると鏡が池の面
積は、文政(1818-29)の頃、約五百平方メートル、
橋場一丁目の北部あたりにあったという。
 碑は、文化元年(1804)大田南畝ら文人たちによ
って建立。第二次世界大戦で火をあびている。
 平成七年三月
             台東区教育委員会


「釆女塚」

 出山寺境内に残されている石碑には、正面上部に横書きで「釆女塚」、その下には「金之竟合 水也 相比綵之無絲 嬉而不喜 士可以封 言可以己 車之所指毎田 即是一人十口 潭辺無水」と刻まれているそうです。この石碑は、采女を哀れに思った蜀山人らの文人が仲間だけにわかる隠語を用いたのだそうで、「隠語の碑」とも呼ばれています。

 台東区清川には、恋に破れて鏡が池に身を投げた玉姫を祭ったといわれる「玉姫稲荷神社」があり、橋場1丁目の「妙亀塚」には、人さらいにさらわれた我が子を追って京から訪ねてきたものの、我が子がすでに死んでいた事を知った母の妙亀尼は池に身を投げてしまうという悲しい伝説が言い伝えられています。色々と調べてみると、この周辺には女の人の悲しい伝説が多く残されていているようです。。。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都台東区『新版 史跡をたずねて』
現地説明版

  1. 2014/01/26(日) 03:55:35|
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