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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「渋谷区№4遺跡」

「渋谷区№4遺跡」

 画像は、渋谷区代々木5丁目にある「代々木八幡神社」を西から見たところです。
 健歴2年の創建と伝えられるこの神社は、江戸時代の寛文11年頃にこの地に移転されており、かつての代々木村の鎮守であったといわれています。境内には古墳に関係すると思われる伝承が残されており、『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号4番の古墳(円墳)が登録されています。


「渋谷区№4遺跡」

 鳥居をくぐり、境内に入るとまず目に飛び込んでくるのはこの復元された古代住居跡です。昭和52年5月26日には渋谷区の史跡として指定されているこの「代々木八幡遺跡」は、昭和25年(1950)に発掘調査が行われており、多数の土器や石器類とともにロームを浅く掘りくぼめた住居と、その中に掘られた柱穴を発見されています。縄文時代の住居跡とともにが検出されています。ここから出土した加曾利E式土器によって、この住居には約4500年前に人が住んでいたと推定されているそうです。
 この復元住居前には渋谷区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。

代々木八幡遺跡と石器時代住居

 この遺跡は今から四千五百年程前の、石器時代中期を中心に栄えたも
ので、標高三十二、三メートルの幡ヶ谷丘陵の南方に突き出した半島
の端に位している。当時、この前の低地は海の退きはじめた沼のような
ところで丘のうしろは一面、カシやナラの森で、そこにはシカやイノシ
シなどの動物が多く当時の人達はそれを取ったり木の果を拾って、見は
らしの良いこの丘の上で永く住みついていた。
 昭和二十五年渋谷区史を作るため発掘研究が行われたが、そのときに
は、地下三十センチメートル位のところから沢山の遺物が発見された。
土器は縄文式土器中期の加 曽利E式の鉢や壺が一番多く、その他わづか
ではあるが、前期の黒浜式や諸磯式、後期の堀ノ内式、加曽利B式など
も出たから、前期にはじまり、中期に栄え後期までつゞいたことがわか
る。石器としては石斧、石槌、石棒、石錐、石鏃、凹石、皮剝などが発
見されている。
 この発掘のとき、地下八十センチメートル位の下のローム層の上に当
時の住居(竪穴家屋)の跡が一個分発見されたので、その上に当時のまゝ
の家を組み立てゝ作ったのが、この復元住居である。この家は直径約六
メートルの円形にローム層を約二十センチメートル掘りくぼめ、その内
がわの周に高さ一メートル六十センチメートルの柱を十本程立て、その
柱の頭に 桁を横に結びつけ、その桁に椽を二十一本周から葺き寄せて、
屋上で円錐形に結び合せ、この上に萱を葺いて作ってある。屋上の南北
には煙出しを作り東側には入り口をその北側の貯蔵室の跡にはこゝだけ
椽を葺き出し中央部には爐の跡がそのまゝ残してある。貯蔵室に掘り埋
めてあった大型土器と爐の中に置いてあった底なしの二個の土器は別に
保存してある。この家の内は冬は野外より十度温かく夏は十度程涼しい
し、内でたき火をすれば数時間で床面は乾いて案外住み心地が悪くない。
使った木材は当時の附近の森相から考えてカシ、クリ等濶葉樹にした。
(この復元家屋は東大建築工学教授藤島亥治郎博士の検閲を得て国学院大学教授樋口清之 博士が立案したも
のを当区で作成した詳細は『渋谷区史』九二-一〇五頁参照)

                   東京都渋谷区教育委員会


 
「渋谷区№4遺跡」

 本殿の向かい側には「代々木八幡遺跡出土品陳列館」があり、出土した遺物や発掘当時の写真などが展示されています。古代人の等身大の人形なども飾られていて、さながら境内に造られたプチ郷土資料館という感じで、充実していますね。


「渋谷区№4遺跡」

 代々木八幡遺跡は、昭和25年(1950)の夏に国学院大学考古学資料室と上原中学校の生徒たちにより、また同年秋には旧渋谷区史編纂委員会により発掘調査が行われています。その後、平成22年(2010)にも社務所増築工事に先立つ発掘調査が行われています。出土した遺物は縄文時代のものが多く、この陳列館にて公開されている遺物には古墳時代のものは存在しないようですが、果たして本当にこの場所に古墳が存在したのでしょうか。


「渋谷区№4遺跡」

 代々木八幡神社境内のようすです。
 渋谷区というと、何かと人の多いイメージがありますよね。先日のW杯コロンビア戦勝利の際には、渋谷駅前のスクランブル交差点は大盛り上がりだったようですが、この代々木八幡神社は神聖なる森の中、という感じで、いつもとても静かです。


「渋谷区№4遺跡」

 画像の奥が、古墳の跡地であると思われる「出世稲荷社」で、南西から見たところです。この稲荷社は、ある芸能人がこの出世稲荷社にお参りしたところ仕事が増えたという話がテレビ番組で紹介され、注目が集まっているそうですが、この場所が古墳跡であると考えられていることはほとんど知られていないようです。
 この稲荷社について、説明板が立てられていますが、やはり古墳についてはふれられていませんでした。

出世稲荷社
祭礼日:旧暦初午の日
 第二次世界大戦末期の昭和二十年(一九四五)五月二十五日夜、この
あたりは米軍の空襲により大きな被害を受けた。幸い神社は焼け残
ったが、周辺は一面焼野原となり、その焼跡には家々で祀っていた
稲荷社の祠や神使の狐などが無惨な姿をさらしていた。それらを放
置しておくのはもったいないと、有志の人々らが拾い集め、合祀し
たのがこの稲荷社の最初で戦災の記憶と平和の大切さを偲ぶよすが
ともなっている。
 なお、祭礼日の旧暦初午の日には、さまざまな祈願をこめた紅白
の幟の奉納が行われる。



「渋谷区№4遺跡」

 出世稲荷社を間近で見たところです。
 明らかにこの周囲が一段高くなっているようですが、古墳とするには周囲の改変が著しく、墳形を推測するのは難しそうです。


「渋谷区№4遺跡」

 古墳ではないかと考えられる、マウンド上のようすです。
 左側が出世稲荷社の祠で、右側に見えるのは榛名山登山碑です。
 昭和41年(1966)に東京都渋谷区より発行された『新修 渋谷区史 上巻』には、「代々木八幡神社境内より集塊岩ようの石棺蓋が出土したという話であるが、早く井戸の中に埋められたと伝えられる。しかし、ほかに傍証となるべきものがない限り、古墳が存在したという断定を下し得ない。」と記されています。この場所を古墳であるとする背景には、この伝承の存在があってのことかと思われますが、少なくともこの塚状地形の周辺に、古墳であるという確証を得られるような材料はなく、出土したとされる石棺蓋が発見されない限りはなんとも言えないところです。


「渋谷区№4遺跡」

 角度を変えて、南東から見た塚状地形のようすです。
 実は訪れた当日に、代々木八幡神社の別当寺である福泉寺のご住職にお話を聞くことができたのですが、石棺蓋出土についての詳細は分からず、出土した石棺蓋が埋められたという井戸の場所も知ることはできませんでした。
 現在の代々木公園や明治神宮内には、とても多くの古墳の伝承が伝わっているようですし、この代々木八幡神社における古墳の存在も想定内!という気がするのですが、真相が明かされるには発掘調査を待つしかなさそうですね。。。

<参考文献>
佐藤昇『渋谷区史跡散歩』
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明板


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  1. 2018/06/21(木) 22:59:58|
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「笹塚」その2

笹塚その2

 さて、今回は、平成28年(2016)10月30日に取り上げた「笹塚」についての追記です。

 実はその後、幡ヶ谷の一里塚が存在したという当時の土地所有者の現在の当主の方のご好意により、幡ヶ谷の一里塚に建てられていたのではないかとされる石碑を見学することができました。
 最初に更新した記事の中ではこの石碑についてはふれなかったのですが、この地域の郷土誌には、一里塚に建てられていたとされる標識碑についての記述が見られます。
 明治6~7年頃に書かれたという『東京府志料』には
 日本橋区通一丁目二丁目の間に於て東海道より西折し、呉服橋を経て旧日比谷門に至り、麹町隼町一番地に至りて日本橋より一里、此に第一の標を建つ、夫より内藤新宿三丁目二十四番地に至り二里一町二十五間、此に第二の標を建つ、夫より幡ヶ谷村五十五番地に至り此にて三里第三の標を建つ、夫より和田村と代田村松原村の間を経て下高井戸村八十八番地に至りて四里、此に第四の標木を建つ。
 とあり、さらに『幡ヶ谷郷土誌』には、
 幡ヶ谷一丁目四番地先に在った小堆塚の上の礎石上に建った標識碑こそ、東京府志料に言ふ幡ヶ谷村五十五番地先の一里塚標である。と言ふのも此の書を編むに當って少年時代の記憶を慥ならしめるために、同地點の地先土地所有者であり、前記志村兵四郎邸の當主である志村兵吉氏(明治廿三年生)と面語したのであるが、その時同氏は曰ふ。この八寸角程の標識碑の上部二尺程の破碑が嘗ての道路改正工事の際に掘出され、同氏の所有地内に投棄されてあった故熟視したが、それの建立歳月は忘却したが碑の一面に品川縣云々と刻まれてあり、この品川縣といふのが面白かったので未だに忘れずと、そして更に語を継いでこれの礎石の三尺四方もあるかと思はれたものは、建立當時の儘に地中に埋没されて居るであらうし、前記上部破碑は今も同氏所有地内の何所かに在る筈であると。
 當村が品川縣下を称したのは明治二年二月から同四年十一月までである。としたならばこの標碑がけんりつされたのはこの期間内であったといふ事は明かであり、前記東京府志料編纂の歳次とも略ぼ一致して居る點から考察して、幡ヶ谷の一里塚の建立地點は此所であったと言ふ事も確然とする。

 と書かれています。
 従って、当日はこの「品川縣云々」と刻まれているという標識碑が残されているものと、現地を訪れてみたところ…


「笹塚(その2)」

 というわけで、画像がその石碑です。
 『幡ヶ谷郷土誌』にある「八寸角程」よりはわずかに細い、六寸くらいかなという印象で、長さも『幡ヶ谷郷土誌』にある「上部二尺程」よりも若干小さい、一尺から一尺半くらいかなという印象で(正確に測ったわけではありませんが)、幡ヶ谷郷土誌が書かれてからかなりの時間が経過していますので、破損等があって小さくなってしまったのかもしれません。


「笹塚(その2)」

 と、そこで気がついたのが石碑に刻まれた文字なのですが、四面あるうちの三つの面には「内藤新宿」と刻まれており、さらにその下部にも何らかの文字が刻まれていると思われますがこれは不明。そして、残る一面は、1字目は「吹」に似たような漢字ですが正確にはよくわからず、2字目は「治」、3字目は漢数字の「三」で、4字目は健康の「康」の字に似ているように思いますがよくわからず。判読できるのは「○治三○」で、5文字目以降も何か刻まれているようなのですが、これも不明です。つまり、『幡ヶ谷郷土誌』にある「品川縣云々…」と刻まれた石碑ではなく、おそらくはまったく別の存在である「内藤新宿」と刻まれた標識碑だったのです。
 この石碑は、現在の土地所有者である当主が今から6年前、敷地内の集合住宅の建築の際に、その工事により掘り出された石碑を自宅内に保存しておいたものであるそうですが、どういう経緯でこの幡ヶ谷の地に存在することになったのでしょうか。


「笹塚(その2)」

 私はこの道のプロではありませんので真相はわかりませんが、内藤新宿とは、江戸時代に設けられたとされる、甲州街道に存在した宿場のうちの日本橋から数えて最初の宿場であり、現在の地番で新宿区新宿1丁目から3丁目の一帯にあたります。つまり、甲州街道最初の一里塚が存在したとされる「新宿追分」の周辺が内藤新宿です。「新宿追分」の一里塚にあった標識碑が、何らかの事情でこの幡ヶ谷の地に移されたのか、それとも一里塚とはまったく無関係の石碑が幡ヶ谷に移されたのか、謎はむしろ深まるばかりです。また、品川縣と刻まれているという幡ヶ谷の一里塚本来の標識碑も、所在は不明のままです。

 ここから先は、専門家の調査や研究の結果を待つしかないと思われますが、果たして真相が解明される日がくるのかどうか、とても楽しみです。
 当日は、所有者の方に貴重な時間をいただいて見学させていただきました。楽しい時間をありがとうございました!

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-633.html (2016年10月30日号「笹塚」その1)
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-758.html (2017年09月11日号「新宿追分 一里塚跡」)

<参考文献>
東京府豊多摩郡『豊多摩郡誌』
堀切森之助『幡ヶ谷郷土誌』


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  1. 2017/11/17(金) 00:08:22|
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「聖心女子大学構内古墳」

「聖心女子大学構内古墳」

 画像は、渋谷区広尾4丁目にある聖心女子大学内に所在する「聖心女子大学構内古墳」を北東から見たところです。『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号95番として登録されている古墳です。

 この古墳はについて、昭和41年(1966)に発行された『新修 渋谷区史 上巻』に掲載されている「古墳所在地名表」には記載がなく、昭和57年(1982)に行われた東京都心部遺跡分布調査の古地図の調査により把握されています。昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には「5千分の1東京図に墳丘が認められる。今回の調査で確認」と書かれています。
 この大学の敷地と北側に隣接する日本赤十字医療センターや看護大学、広尾ガーデンヒルズとを含めた一帯は、江戸時代には下総佐倉藩堀田家の下屋敷であったといわれていますので、古墳は庭園の築山として流用されたことにより壊されずに残されたものでしょう。大正6年(1917)にはこの敷地内に久邇宮家の本邸が建設されており、戦後間もなくの昭和22年(1947)に聖心女子大学がこの地を末に購入して翌年に開校しているそうですが、おそらくは下屋敷時代の築山という認識のまま大学構内に残され、昭和57年の東京都心部遺跡分布調査団によりその存在が確認された、ということのようです。
 構内で学生さんに古墳について尋ねても皆きょとんとしており、土で盛られた築山があるはずだと訪ねると、「ああ、築山ですね」という感じで、「築山」と呼ばれているのがとても印象的でした。古墳の周囲に説明板等は存在しないようですし、在校生の多くはこの築山が古墳であるという認識を持っていないのかもしれません。


「聖心女子大学構内古墳」

 画像は、西から見た古墳です。学術的な調査は行われていないため、出土品や埋葬施設、周溝や埴輪の有無などの詳細は不明です。実際に見学してみたところでは、小型の前方後円墳だったのではないかとも感じましたが、『東京都遺跡地図』では径15~17mの円墳であるとしています。ひょっとしたら後世の塚である可能性もあるのかもしれませんが、このあたりの真相は今後の調査の進展を待ちたいところですね。


「聖心女子大学構内古墳」

 古墳の南東側の裾部は削られており、石垣により土留めされているようです。。。

<参考文献>
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2016/11/16(水) 00:15:02|
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「渋谷区№78遺跡」

「渋谷区№78遺跡」

 『東京都遺跡地図』には、渋谷区広尾2丁目に「渋谷区№78遺跡」という名称で2基の古墳が登録されています。古くは昭和41年(1966)に東京都渋谷区より発行された『新修 渋谷区史 上巻』に掲載されている「古墳所在地名表」にこの古墳が取り上げられており、この時点では「円墳 1基」として記載されています。「湮滅」としながらも「古老談」と書かれていますので、恐らくはこの当時には消滅してしまった古墳の記憶を語ることのできる地元の古老の存在があったのかもしれません。
 その後、昭和57年(1982)に行われた東京都心部遺跡分布調査の古地図の調査により存在が確認されており、昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には「5千分の1東京図に墳丘が認められる。」と書かれています。この地図には2基の古墳の墳丘が記されていますので、これがそのまま『東京都遺跡地図』に登録されているものと思われます。

 画像の右側あたりが2基の古墳のうちの1基の所在地と思われます。立地的に台地の縁辺部ということもあり、古墳の存在を感じさせる場所ではあると思いますが、正確な位置までは特定できず、痕跡を見つけることは出来ませんでした。
 実は知人宅が目の前であることに気がついてビックリしました。いつも暗くなってから訪問していたので、現地を歩くまで気がつきませんでした。あまり時間がなかったので素通りしてしまいましたが、昔のようすを聞いてみれば良かったかもしれません。残念。。。


「渋谷区№78遺跡」

 画像の右側あたりがもう1基の古墳の跡地と思われます。こちらも正確な跡地は特定できず、痕跡を見つけることは出来ませんでした。

<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2016/11/15(火) 00:35:42|
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「禿塚・カムロ塚」

「禿塚・カムロ塚」

 渋谷区円山町には、「カムロ塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。JR渋谷駅ハチ公口から道玄坂を目黒方面に登った一番高くなったあたりが塚の跡地であり、『東京都遺跡地図』には未登録となっているようですが、昭和41年(1966)に発行された『新修 渋谷区史 上巻』に掲載されている「古墳所在地名表」に取り上げられています。

 画像は、カムロ塚の跡地とされる旧上通4丁目26番地(現在の渋谷区円山町)周辺を南から見たところです。この南西側(画像の左奥)は谷になっており、塚の跡地は台地の縁辺部という古墳の存在の可能性が考えられる立地条件であるようですし、同じ台地上の南東1km程の地点には複数の塚が存在していたと伝えられており、猿楽塚北塚と南塚の2基が現存しています。このカムロ塚が古墳であった可能性も十分に考えられると考えましたが、残念ながら塚は完全に消滅しているようです。


「禿塚・カムロ塚」

 この塚にまつわる伝説について『新修 渋谷区史 中巻』1355ページに記載があり、「かつて、この附近青山道の北側にカムロ塚という土盛りがあったといわれる。諸書には見えないが、土地の口碑に昔カムロ某が、ここに行き倒れたので、里人達が集まってこれを厚く葬り、上に杉の木を植えて禿塚とよんで、やがて附近の地名となっていたと伝えられている。この事実の真偽も、その跡も今は確かめる方法がないが、附近は古くは寺院か、墓地のあとらしく、かつて地下から多くの枯骨が出土したといわれる。」と書かれています。
 これだけの言い伝えが残されている塚ですので、祀られていた祠が残されているとか、立てられていた石造物が保存されているといった痕跡を探して周囲を散策しましたが、何も見つかりませんでした。私が上京した頃は、渋谷駅からここまで離れるともう少し雑多というか”隙”のようなものが残されていたように思うのですが。。。

 この場所は通称「246」または「青山通り」と呼ばれる幹線道路沿いで、首都高速3号渋谷線が平行して走っており、直下には田園都市線が走行しています。周囲には高層ビルが建ち並び、開発の進んだこの地域に古代の墳墓が残される余地はないのかもしれません。。。

<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 中巻』


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  1. 2016/11/14(月) 00:47:51|
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