
画像は、渋谷区猿楽町に所在する「猿楽塚(北塚)」を東から見たところです。
旧山手通り南側の代官山ヒルサイドテラスの敷地内に保存されている、2基の古墳のうちの1基で、『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号50番の古墳として登録されており、№51番の猿楽塚(南塚)を含む遺跡範囲のすべてが、渋谷区指定史跡となっています。
現状の規模は径約20m、高さ約5mで、発掘調査が行われていないことから詳細はわからないものの、6~7世紀の円墳であると推定されているようです。

南から見た猿楽塚です。
この古墳には多くの伝説が残されています。その昔、鎌倉時代の将軍、源頼朝がここで猿楽を催して、そのときの道具を埋めたと伝えられており、この伝説が、塚の名称や周辺地域の地名の起源となっています。
ただし、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、『高さ一丈許の塚なり、土人の説に往古鎌倉将軍頼朝此の地にて猿楽を催し、畢つて其具を埋めし印なりと伝ふ、受け難き説なり。』と記されており、江戸時代には疑わしい伝承であると考えられていたようです。
また、『江戸名所図会』には「去我苦塚別所臺と言ふ地にあり、塚の高さ一丈あまりあり、相傳ふ、昔渋谷長者某、此邉の人民を語らひ、時として此塚の邉にて酒宴を催し歓楽せしにより、苦を去の所謂なりと言ふ」とも記されています。

猿楽塚の墳丘上には「猿楽神社」が鎮座しています。
現在の2基の古墳を含むヒルサイドテラスの敷地は、古くは朝倉家の敷地であったそうですが、この敷地内にはかつては4基の塚が存在したようです。大正9年に本宅を建設して庭も造園した際に、4基の塚のうちの1基が邪魔になるということで取り壊されたそうですが、間もなく当主の虎治郎と工事を請け負った棟梁とが奇病にかかってしまったそうです。二人とも同じ容態で、医者にかかっても何の病気か全くわからない。そこで、塚から出土した人骨らしきものや武具をきれいに取り出して前の塚(猿楽塚)に丁寧に納め、供養をしてお宮を建ててお祀りしたそうです。
「残った3つの塚は以後、絶対に手をつけてはいけない」ということになり、お社は「猿楽様」として祀られることとなりました。これが、現在の猿楽神社の由来です。
「残った3つの塚」ということは、北塚と南塚の他にどこかにもう1基、古墳が残存している?
これが一番気になるところですが。。。。。

墳丘上の猿楽神社です。
高さ5mですからね。結構な高さが残っています。

猿楽神社の鳥居。
渋谷区教育委員会により設置された説明板には次のように書かれています。
猿楽塚(さるがくづか)
猿楽町29番 ヒルサイドテラス内
区指定史跡 昭和五十一年三月二十六日指定
ここにあるこんもりした築山は、六~七世
紀の古墳時代末期の円墳で、死者を埋葬した
古代の墳墓の一種です。
ここにはその円墳が二基あって、その二つ
のうち高さ五メートルほどの大型の方を、む
かしから猿楽塚と呼んできました。
この塚があることから、このあたりを猿楽
といい、現在の町名の起源となっております。
ここにある二基の古墳の間を初期の鎌倉道
が通っていて目黒川にくだっていました。
渋谷区のように開発が早くからはげしく行
なわれた地域に、このような古墳が残されて
いることは非常に珍しいことです。
渋谷区教育委員会
墳丘上には石段が造られていて、この石段を登った墳頂部が猿楽神社です。
早速お詣りしましょう!

石段の途中左側には「猿楽神社縁起」が建てられています。
猿楽神社縁起
古よりこの地に南北に並ぶ二基の円墳があり。北側に
位置する大型墳を猿楽塚と呼称している。この名称は、
江戸時代の文献「江戸砂子」「江戸名所図会」等にも見ら
れ、我苦を去るという意味から、別名を去我苦塚と称し
たとも言われている。六~七世紀の古墳時代末期の円墳
と推定され、都市化その他の理由により渋谷区内の高塚
古墳がほとんど隠滅したなかで、唯一現存する大変貴重
な存在であり、昭和五十一年三月十六日に、渋谷区指定
文化財第五号に指定された。
この地に移住する朝倉家は戦国時代からの旧家であり、
遠祖は甲州の武田家に臣属し、後に武蔵に移り、中代よ
り渋谷に住み、代々、無比の敬神家として、渋谷金王八
幡宮と氷川神社の両鎮守への参拝を常とし、また氷川神
社改建の折にも尽力している。
朝倉家では、大正年間に塚上に社を建立し、現在、
天照皇大神、素盞嗚尊、猿楽大明神、水神、笠森稲荷を
祀り、二月十八日、十一月十八日を祭礼日と定めて、
建立以来、一族をはじめ、近隣在郷の信仰を集めている。
平成十四年十一月十八日 朝倉徳道 撰
さらに登ります。

墳頂部の様子。猿楽神社の社殿です。
この猿楽塚、2基ともに学術的な調査は行われていないようなので、いずれはきちんと発掘調査が行われたら、見学会も開催してほしいですよね。

画像は、もう1基の「南塚」です。
旧山手通り南側の代官山ヒルサイドテラスの敷地内に保存されている、2基の古墳のうちの1基で、『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号51番の古墳として登録されており、№50番の猿楽塚(北塚)を含む遺跡範囲のすべてが、渋谷区指定史跡となっています。
現状の規模は径約12m、高さ約4mほどで、発掘調査が行われていないことから詳細はわからないものの、古墳時代後期の円墳であると推定されているようです。
10年近く前、最初に南塚を訪れた時だけはなぜか立入禁止の看板がなく、塚の目の前まで行くことができました。ただし、その時は天気がうす曇りでポツポツと小雨も降っていて、しかもカメラのレンズが汚れているのに気が付かずに、撮影した写真が汚いという最悪の事態。
私、実は一昨年くらいまで、仕事の都合で年に何度かは定期的にこの代官山を訪れていましたので、いつでもまた撮り直しに来ればいいやと思っていたのですが、その後は何度来ても立ち入り禁止の看板が立てられていて、二度とこの場所に立ち入ることはできませんでした。。。
北塚はいつでも参拝できるのですけどね。ま、良き思い出ということで。。。
画像は、旧朝倉家住宅のほうから撮影したものです。

北塚の側から見た南塚です。
建物の隙間から『東京都遺跡地図』からすると、2基の古墳の総称が「猿楽塚」で、北側のが「北塚」、南側のが「南塚」ということのようですが、書籍によっては主墳である猿楽神社を祀るほうの古墳のみが「猿楽塚」である、とする記述も見られるようです。

猿楽塚のあるヒルサイドテラスの入り口のあたりの歩道には、「目黒区みどりの散歩道」という案内板が建てられています。「ん?目黒区?」と不思議に思ってよく読んでみると、そこには猿楽塚の解説文が。
「古墳時代の円墳 猿楽塚 主墳と副墳から成る。昔、源頼朝がここで猿楽を催し、それが名前の由来との説もあるが実は二つとも古墳時代の円墳。区境をはさんで主墳は渋谷区、副墳は目黒区にある。」と書かれています。
つまり、北塚は渋谷区、南塚は目黒区にあるということのようです。
グーグルマップで確認すると、北塚も南塚も渋谷区内に入っているように感じるのですが、これホント?
『東京都遺跡地図』でも2基ともに渋谷区の遺跡に登録されているようですが。。。

画像は「旧朝倉家住宅」の敷地内の築山です。
職員にお尋ねしたところでは、丁寧なご返答ながらも「古墳のわけないじゃん」という感じで、「ですよねー。。。」と引き下がってきたのですが、他に古墳らしき形状の地形は見当たらないし、「残った3つの塚」のうちの残る1基がどこにあるのか(どこにあったのか)は、最後までわかりませんでした。
これは宿題ということで。。。

猿楽町の周辺もブラブラと散策。
画像は、同じ猿楽町内にある「渋谷区立猿楽古代住居跡公園」です。
どこの区にもこうした史跡公園が存在するのはいいことですよね。
公園内に設置された渋谷区教育委員会による説明板には次のように書かれています。
猿楽古代住居跡
渋谷区指定史跡 猿楽町12
このあたり一帯は古代人が居住していたところであろう
と推定されていました。
昭和五十二年一月、渋谷区教育委員会ではその調査を国
学院大学考古学第一資料研究室に委託して発掘しました。
発掘作業を行っているうちに出土して来た土器は壺、甕
高坏などの破片ばかりでしたが、この土器に付けられた模
様からみると、久ヶ原式、弥生町式、前野町式に属し、そ
れらが作られた時期は今から約二千年前の弥生時代で、こ
れらの文化は南関東一帯にひろがっていました。
弥生時代というのは、生活の方法はその前の縄文時代と
同じですが、現代人のように米を栽培して食べる習慣がは
じまり、文化が進んだ時代といえます。
発掘を進めて行くと、いくつかの住居跡が発見されまし
たが、中には他の地域でみられる住居跡よりも大型で珍し
いものが発掘されました。
区は昭和五十三年、樋口清之博士の指導により古代住居
を復元しましたが、その後焼失したので、現在は住居跡の
上を被覆し保存に努めています。
東京都渋谷区教育委員会
コレ、かつて公園内に復元された、当時の古代住居の写真です。
残念ながら不審火により消失。現在見ることはできません。
復元された古代住居が不審火で消失したパターンはよく聞く気がしますが、せっかく復元するのであれば、もちろんリアルなものが見たいところですが、最近はコンクリートで造られたものが主流ですよね。消防法とか色々あるのだとは思いますが、茅葺き屋根の古民家はOKなんだし、忠実に再現したものが見たいなあと切に思います。。。(本町田の復元住居がリアルだった!)

コレが現在の住居跡の様子。
雨の後に水が溜まってしまうと池みたいです。。。

公園内には3基の庚申塔と廿三夜塔、道しるべが建てられています。
元々は猿楽町周辺にあったものが、道路の拡張工事、や宅地開発によりこの公園に移設されたそうです。
どれもいい状態で残されているようです。

このあたりに、渋谷区の遺跡番号47番の横穴墓群が登録されているようですが、痕跡なし。
すでに遺跡は消滅しているようです。
<参考文献>
朝倉徳道『代官山考察「猿楽雑記」ー江戸近郊農家の百年ー』
野村敬子『渋谷むかし語り 区民が紡ぐ昭和』
東京都渋谷区『新修 渋谷区史』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2020/03/02(月) 23:55:52|
- 渋谷区の古墳・塚
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前回に引き続き、今回も明治神宮内の古墳ということで「渋谷区№17遺跡」の探訪の記録です。
画像は「明治神宮宝物殿」の入場口で、この宝物殿の敷地の周辺に古墳の伝承が残されています。
『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号17番の古墳として登録されており、所在地として「代々木神園町明治神宮宝物殿裏」、遺跡の概要には「台地 古墳群(円墳)」と書かれているようです。
昭和41年(1966)に東京都渋谷区より発行された『新修 渋谷区史 上巻』には、この古墳についての記述があり、
「代々木外輪町の明治神宮宝物殿附近に存在した三基の小円墳は、いずれも丘陵上に営まれ、坩・坏・提瓶等の須恵器および鉄製直刀身が出土した由であるが、内部構造など詳細は全くわからない。出土品の行方も不明である」
と書かれています。
これだけでは詳細はよくわからず、現在古墳が残存するのかさえ不明ですが、3基もの古墳が存在したという記述はとても興味をそそります。
古墳の所在地はどこなのか、果たして古墳は残されているのでしょうか。

古墳の位置が分布図に記されている、東京都教育委員会より発行されている『東京都遺跡地図』と『都心部の遺跡』ではともに宝物殿の背後、北側の丘陵縁辺部に古墳の位置が記されています。『東京都遺跡地図』の分布図では青い消滅のマークで記されているようです。
宝物殿の背後に向かうらしき道は一応存在はするのですが、やはり関係者以外は立ち入り禁止でした。
想定内ではありますが、場所柄あまり無茶もできません。
とりあえずは正攻法で、宝物殿に入場して北側の森の様子を見てみることにします。

入場口を入って宝物殿を正面から見たところ。大正10年(1921)に開館したという校倉風大床造の宝物殿で、平成23年(2011)に重要文化財として指定されています。
私が見学に訪れた時期は入場料を払って中を見学できたのですが、東日本大震災で罹災した屋根の修復、また重要文化財としての保存に必要な耐震工事施工ということで、平成29年以降は閉館となっているようです。
いずれは整備されて建物が公開されるのかもしれませんが、私のお目当てはそこではないので…。笑。

建物の内部は撮影禁止(だったはず。写真が一枚も残っていないし)でしたが、建物の外から北側の森の様子は見られます。画像は、宝物殿東側の、撮影OKの場所から撮った宝物殿背後のようすです。
残念ながら、この位置では建物に遮られてしまって背後の森の中の様子がわかりません。
移動して別の位置から見てみましょう。

宝物殿西側の撮影OKの場所から撮った宝物殿背後のようすです。
訪れたのが秋の初め頃だったせいか、まだ木々が茂っていてやはり古墳の所在はよくわかりません。
ただし、敷地内の北西隅に大きな石が立てられているのが見えます。距離があるため肉眼ではよくわからないのですが、石室の天井石のようにも見えます。
かつて、止むを得ず破壊された古墳から出土した石室の天井石をこの場所に祀っている、なんてことはないのでしょうか。とても気になります。。。

拡大してみた石のようすです。
実は後日、この石がやはり気になって明治神宮の社務所を訪ねてお聞きしてみました。
明治神宮内には全国各地から様々な石が奉納されているということで、宝物殿北西隅の石がなんの石なのかは、一つ一つの石の記録を全て調べてみないとわからない、ということで、残念ながら古墳の石材なのかどうかはわかりませんでした。(明治神宮を取り上げたテレビでよくお見かけする”H”さんが直々に出てきてくださって、お話を聞かせていただいて、参考になるならと資料のコピーまでいただきました。心の底から感謝しております。。。)

確かに、敷地内を隅々まで歩くと、様々な石に遭遇します。
画像は、国歌にもよまれているという「さざれ石」です。
国家発祥の地といわれる岐阜県揖斐郡春日町から奉納されたものだそうです。

これは「亀石」。なんだかちょっとパワーを感じる石です。

さて、最初に古墳を目指して散策した日は古墳の所在を確認することはできなかったのですが、その後、宝物殿が建設される以前のこの地域の古地図を見つけることができました。
宝物殿の北側、北西側、西側の3ヶ所に、古墳かもしれない楕円形の高まりを見ることができます。『新修 渋谷区史』にも「3基の小円墳が存在した」と書かれているようですし、この3ヶ所が古墳である可能性は十分に考えられます。
とりあえず、北側の楕円形の高まりを1号墳、北西のを2号墳、西側のを3号墳と仮称して、もう一度散策してみようと思います。

宝物殿北側の、三角に尖った道路の形状は、現在も割とそのままに近い状態で残っているようなのですが、現在は丘陵縁辺部に沿うように首都高速4号線が開通しており、また運の悪いことに、仮称1号墳の所在地に重なる位置にちょうど代々木のパーキングエリアが造られています。この場所に古墳が存在したとすれば、もはや高い確率で削平されています。
首都高速4号線の三宅坂から初台までが開通したのは昭和39年(1964)で、『新修 渋谷区史 上巻』の発刊は昭和41年(1966)ですから、ひょっとしたら同書にある「坩・坏・提瓶等の須恵器および鉄製直刀身が出土した」というのは、首都高速の敷設工事の際のものではないか?とも考えられます。
画像が、代々木パーキングエリアの現在のようすです。画像左側の木立が宝物殿の裏手の森です。

仮称2号墳はこのあたり。
古地図と現在のグーグルマップを見比べると、おそらく運よく削り残されたとしても半分ほどは首都高速4号線に削平されていると考えられます。首都高速4号線を運転中に、このあたりが若干高くなっているかようにも見えたことがあるのですが、見間違いかもしれません。最近は年齢のせいか運転にも自信がなくなってきたので、運転しながら撮影する等の無茶は控えました。
ひょっとしたら古墳の残骸くらいは残されているのかもしれませんが、真相は不明です。

仮称3号墳は、現在の弓道場(至誠館)の奥あたりではないかと思われるのですが、ここもやはりザクザク入っていくわけにもいかず、古墳が残されているのかどうか確認できません。
結論として、仮称1号墳は高い確率で消滅。仮称2号墳は一部残存の可能性はあるかもしれない。仮称3号墳はひょっとしたら痕跡が残されているかもしれない。というところかなと想像しますが、所在地をこの目で確認することはできませんでした。
将来の発掘調査、そして現地説明会に期待ですね。。。
<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2020/03/01(日) 19:47:43|
- 渋谷区の古墳・塚
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明治神宮の広大な敷地内には、いくつかの古墳の伝承が残されています。
東京都教育委員会より発行された『東京都遺跡地図』には、明治神宮内に「渋谷区№17遺跡」と「渋谷区№22遺跡」という2箇所に古墳のマークが記されています。特に№17遺跡は、複数の古墳が存在したという言い伝えがあり、「渋谷区№22遺跡」は露出した石棺の伝承が伝えられているようです。
この古墳の存在を確認すべく、今回は、渋谷区代々木神園町の「明治神宮」の探訪の記録です。

最初の写真は、JR原宿駅を降りた西側、明治神宮の一の鳥居です。
以前から、訪れるたびに「鳥居、デカッ」と感じていましたが、あらためてデカイですね。この鳥居。
そして2枚目の画像は参道のようすです。
何年か前までは、平日の午前中はもう少し静かな印象もありましたが、最近は外国からの参拝客がかなり増えましたし、人が多い印象です。。。

参道を2~3分ほど歩くと、左手に「代々木」と書かれた立て札と樅の大木が見えてきます。
この樅の木が実は、「渋谷区№22遺跡」と呼ばれる古墳に密接な関係があるのです。
昭和41年(1966)発行の『新修 渋谷区史 中巻』には、この「代々木」について
「今の明治神宮菖蒲園東門の傍に、終戦前まで枯木として残っていたモミの大木で、代々木の大樅として江戸時代有名であった。大体高さ数十尺、周り九抱(約一四メートル余)と言われ、木の向う側に馬三疋をつないでも、反対側からは馬の首も尾も見えない程の大木で、日本中でもこれ程の大木はなかろうといわれた。武蔵野旅行の旅人は昔この木を目標に歩いたといわれ、幕末にはこの木の上に登って井伊家の家臣は遠眼鏡で品川沖の外艦を見張ったといわれている。」 と書かれており、さらに
「木の根元には常に水が二、三升たまっていて、味少し渋辛く、霊水だといわれた。この木の下は、古代の古墳らしく、石棺が埋没しているといわれている。とにかくかつて存在した区内第一の巨木であったことは疑いがない。昭和二十年米軍の当区内空襲の折、我が高射砲に撃墜された米軍機B29の巨体がこの枯木の上に落ちたので、遂に焼亡して今日はその枯株さえ見ることができなくなった。」 と、この場所に存在したとされる古墳についてもふれられています。
今でこそ鬱蒼と茂った明治神宮の森ですが、この森は全国から献木されたおよそ10万本を植栽した人工林です。明治神宮の鎮座祭が行われたのは大正9年(1920)ですから、終戦前まで残っていたという「代々木」の枯木は、当時は周囲の木々よりもまだ頭一つ高かったかもしれません。
B29の墜落により代々木の木は焼け落ちてしまったようですが、根本にあったという古墳はどうなってしまったのでしょうか。。。

現在の「代々木」の全貌です。
代々木にだけ陽があたっているという状況が素晴らしいタイミングでした。笑。
立て札には「この地には昔から代々樅の大木が育ち「代々木」という地名が生まれました。この前の名木「代々木」は昭和二十年五月の戦禍で惜しくも消失しましたのでその後植継いだものであります。」とのみ書かれているのですが、実は現在の、植え替えられた二代目の「代々木」は、初代の代々木とは離れた場所に植えられており、初代の代々木の所在地、つまり古墳の所在地はさらに進んだ二の鳥居の奥となるようです。先に進んでみます。

二の鳥居です。
デカイデカイと思っていましたが、この鳥居、我が国で最も大きい鳥居で「明神鳥居」というのだそうです。高さ12m、柱と柱の間は9.1m、鳥居の長さ15.5m、柱の径1.2m、笠木の長さ17mで、原木は台湾丹大山の樹齢1,500年に及ぶ扁柏(ひのき)だそうです。ということは、一の鳥居よりも大きいわけで、びっくりしますね。
樹齢1,500年ということは、古墳時代を知る扁柏(ひのき)なんですね。。。

『東京都遺跡地図』では渋谷区の遺跡番号22番の古墳が、また『都心部の遺跡』では148番の古墳が、この”代々木”の古墳であるようですが、分布図に記されている古墳の位置はどちらも大体このあたりで、画像の左奥、参道から少々森の中に入った地点となるようです。
『新修 渋谷区史 上巻』には、
「(前略)外輪町明治神宮内”代々木”の西側二メートル程の円墳に頂上と思われる箇所に、石棺の一部と認められる石が露出したことは著名な事実である。この円墳は著しく変形されていて、もとの状態を知る由のないが、”代々木”はこの円墳の上に植えられた樹木と考えられる。石棺の露出部分は石棺蓋の一部であろうと推測されるが、硬質種塊岩製で灰色を呈し、厚さ一二センチ程の縁を有しているものであった。内部主体は未だ保有されている可能性もあるが、未発掘のために副葬品などについては知り得ない。埴輪もない。」 と、古墳の石棺の状況についてもかなり具体的に記されています。
天下の明治神宮で、外国人観光客も大勢いる中、藪の中にガサガサ入っていくのはさすがに気が引けたので、参道の縁の土塁の上に上がるのみにとどめて、森の中を見回してみました。
下草が多く、地表の状況を観察するには少々厳しい状況ですが、一目で古墳と認識できるような高まりは、少なくともみられないようです。
『新修渋谷区史 中巻』によると、石棺は代々木の真下ではなく「西側二メートル程」の地点に存在したということですし、『東京都遺跡地図』には「径10m高2m」とされる墳丘の規模まで書かれています。
古墳の残骸くらいは残されているのではないかと期待したいところですが、墳丘も露出したとされる箱式石棺も、表面観察では見つけることはできないようです。
伝説の古墳は消滅してしまったのでしょうか。それとも、いまだ地中に眠り、再び発見される日を待っているのでしょうか。。。

この後、「渋谷区№17遺跡」の見学のために宝物殿に向かうわけですが、その前にまずお参り。
画像は三の鳥居です。平成28年10月に建てられたばかりで、まだピカピカです。

いや、本当に人が増えたなあと思いますが、実は7割から8割は外国人で、日本人はほとんどいないのでは?と感じてしまいます。もちろん外国の参拝の方が増えたのは喜ばしいことではありますが、なんだか変な感じです。

こんなに人が。
どこかの観光地で警備の仕事をしている方と雑談した時の話ですが、「最近はアメリカやヨーロッパ、中国や韓国からの人だけではなく、どこの国の言葉だか全くわからない人に尋ねられて一文字もわからなかったことがあるよ!」と嘆かれたことを思い出しました。私なんて英語も満足に喋れませんからねえ。。。

御朱印、いただきました。♪(๑ᴖ◡ᴖ๑)♪
私、最初は確かに古墳巡りだったはずなのですが、古墳や塚巡りはイコール神社巡りみたいなところがあって、結果、色々な場所でお参りしているうちに、心の底から神社に安らぎを感じるようになりました。
御朱印をいただくと、丁寧にお参りをできた気がしてとってもいい感じです。。。
次回、「渋谷区№17遺跡」に続く。。。
<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 中巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
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- 2020/02/29(土) 22:48:01|
- 渋谷区の古墳・塚
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渋谷区鉢山町には、かつて「鉢山」と呼ばれる塚が存在したといわれています。
学術的な調査が行われないまま消滅しており、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようですが、その名の通り地名の由来となった塚で、この周辺ではかなり知られた存在だったようです。
画像は、その「鉢山」が所在したとされる周辺の様子です。
現在は、都立第一商業高等学校からNTTコミュニケーションズにかけての敷地となっており、塚の痕跡は全く見ることはできません。この鉢山は古墳だったのではないかという説もあるようで、『新修 渋谷区史』の1353ページにはこの鉢山について次のように書かれています。
鉢山(鉢山町三三番地附近) 今の都立第一商業高等学校から区立鉢山中学校の間にかけて、かつて存在したといわれる土饅頭で、古墳の一種ではないかと思われる。しかし『江戸砂子』には「法道仙人の鉢此処に飛来るといふ」とあるのを『新編武蔵風土記稿』は否定して「土人絶えて伝へず」と書いている。おそらく鉢を伏せたような山であったので起った説明と思われるが、今はその所在を失い、ただ地名にのみその名が残っている。附近一帯は顕著な石器時代遺跡でもあり、最近まで多数の遺物が出土した。(後略)
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=742556&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和11年に陸軍により撮影された鉢山周辺の空中写真のようすです。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
画像の左下あたりに見える木立が鉢山の跡地であると考えられます。この時期にはまだ、何らかの痕跡が残されていたようなのですが、塚が消滅してしまった今となっては、果たして鉢山が古墳であったか否か、真相を確かめる術はありません。
実はむしろ気になるのが、画像中央に見える、前方後円墳をも連想させる奇妙な形状です。
ちなみに前回は原宿の前方後円形の地形を取り上げましたが、渋谷区や新宿区、港区あたりの古い空中写真を眺めていると、たまーにこういう気になる地形に遭遇します。もしこれが古墳であれば、長軸200メートル以上の巨大前方後円墳が渋谷に存在したということになるわけですが、もうワクワクしてしまいますね。笑。
前方後円形の左下の木立のあたりが「鉢山」であると想定されます。
この木立の形状もとっても気になるところですが、まさか鉢山も前方後円墳だったとか???
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1178039&isDetail=true)
同じく、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年に米軍により撮影された鉢山周辺の空中写真です。こちらもわかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
11年経って戦争が終わった後も、まだ前方後円形の地形は残されているようです。
平らな土地ではなく、うっすらと盛り上がっているようにも感じられますが気のせいかな。。。
左下の「鉢山」もまだ残されているようです。。。

さて、鉢山跡地を散策した日、この”巨大前方後円墳の跡地”周辺もブラブラと歩いてみました。
画像右側のマンションを前方部の先端であると仮定すれば、なんとなくそんな感じなのではないかと思われるのですが、開発が進み、古墳らしき痕跡は見られないようです。

くびれ部に相当するあたり。
画像の奥が後円部で、右手前に向けて前方部というイメージですね。

さらに進むと、「渋谷区立鶯谷緑地」という小公園がありました。
公園内でさらに先を見ると、なんと!後円部の先端が残っています。
前方部から後円部の半分くらいまでは平らに整地されてしまったようですが、後円部の先端半分は高さがカマボコ型に残っています。
ついにきたよ絶対古墳で間違いないよこりゃ!

後円部の頂部に登って振り返ってみたところ。
かなり高さがあるようです。
群馬の天神山古墳や茨城の舟塚山古墳を思い出すぜ、と。

後円部頂部から古墳の先端(北側)をみたところ。
やべえ。二段築成の形状まで残されてるし。
福岡県田川郡赤村に長軸450mの巨大前方後円墳が!ってのが話題になってましたよね。
「新・卑弥呼の墓は本物だ!」って、プレイボーイ誌に載ってたやつ。もう2年くらい前ですかね?
あの頃、「いや、渋谷にだってあるぜ」と密かに思っていたのですが、公開するのが今頃になってしまいました。
いや、ひでりんの妄想です。。。
<参考文献>
東京都渋谷区『渋谷区史』
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- 2020/02/28(金) 23:16:07|
- 渋谷区の古墳・塚
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昨年暮れは不覚にもダウンしてしまい、この『古墳なう』の更新も滞ってしまっていました。
ようやく少しずつ体調も戻りつつあり、今日から再開することにしました。
見学したものの、公開できていない古墳や塚はまだまだたくさんあります。
地道に更新していこうと思います。

さて、昭和27年(1952)に渋谷区より発行された『渋谷区史』の「渋谷区原史時代遺跡跡地名表(古墳之部)」には、旧番地の原宿町3丁目361番地、「團邸内」に1基の円墳が存在したことが記されています。『東京都遺跡地図』にも未登録の古墳で、現代の感覚からすると「まさか原宿に古墳が?」とびっくりしてしまいますが、現在の明治神宮や代々木公園を中心に、その周辺地域も含めるとかなり多くの古墳の存在が想定されているようです。
原宿にも古墳があったのかもしれません。
画像は、渋谷区神宮前2丁目の住友不動産原宿ビルです。
『渋谷区史』にある、旧番地の原宿町3丁目361番地とはだいたいこのあたりで、團邸内の古墳の所在地と思われる地点なのですが、残念ながら古墳らしき痕跡は全く残されていなようです。

南側、坂の下から見上げたところ。
現代ではこの道は整地されてなだらかな坂となっていますが、古墳時代なら台地の縁辺部、という状況でしょうか。かなり開発が進んでいるようですし、こうなってしまうと古墳の痕跡は皆無という状況ですね。

さて、やっと見つけた、『建築工芸叢誌』に掲載されている、團邸内の古墳の往時の写真です。
画像中央に見えるのが古墳であるとされる築山です。おそらく大正時代の写真であると思われます。
画像の築山の手前の部分を造り出しと捉えると、円墳ではなく、帆立貝式の前方後円墳ではないかとも考えられそうです。。。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=743828&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和20年に陸軍により撮影された、旧團邸とその周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
実はむしろ気になったのは、画像中央の前方後円墳を連想させるような奇妙な地形です。
果たしてこの原宿にも巨大前方後円墳が存在したのでしょうか。。。
ちなみに左上の木立が旧團邸です。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=197564&isDetail=true) 画像は、昭和23年に米軍により撮影された、同じく国土地理院ウェブサイトより公開されている空中写真です。やはりわかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
前方後円型の地形と周辺のようすが、3年前よりもぐっと鮮明に見られます。
余談ですが、戦後になると、写真の解像度が飛躍的に上がりますねー。

さて、旧團邸の跡地である住友不動産原宿ビルを後にして、当然ながら巨大前方後円墳跡地の周辺もゆっくりと歩いてみました。
画像は、後円部にあたる場所を「神宮前一丁目」交差点の歩道橋の上から見たところです。
すでに大きなビルが建てられていて、古墳の跡地らしき高まりは感じることはできません。

後円部の中央のあたり。
やはり、古墳の存在を立証できるような痕跡を見つけるのは難しいようですね。
このへんは都会だし。

後円部の中央のあたりから南東を見たあたり。
後円部の東側は駐車場になっていて、駐車場側が一段低くなっています。

唯一、古墳の痕跡と言えるものがあるとしたら、やはりこの道路の形状でしょうか。
後円部からくびれ部、前方部に沿うように道路がカーブしています。
左手前が後円部。奥が前方部という状況です。

くびれ部のあたりで見られる謎の段差。
かつては高低差があったんですね。おそらく。
まさか後円部の痕跡では。。。

前方部の北東角のあたり。
小公園になっています。

最後は東郷神社に参拝。
この日はこの後、渋谷区立中央図書館で閉館時間まで粘って調べてみましたが、残念ながら前方後円墳の存在の記録はなし。現在は開発により消滅してしまったものの、東京都内にもかつては膨大な数の古墳が存在したはずですが、こうまで都市化が進んでしまうと確かめようがないですよね。。。
あったと思うなー。前方後円墳。
次回も、渋谷区内での妄想に続く。。。
<参考文献>
建築工芸協会『建築工芸叢誌』
東京都渋谷区『渋谷区史』
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- 2020/02/27(木) 20:58:42|
- 渋谷区の古墳・塚
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画像は、渋谷区代々木5丁目にある「代々木八幡神社」を西から見たところです。
健歴2年の創建と伝えられるこの神社は、江戸時代の寛文11年頃にこの地に移転されており、かつての代々木村の鎮守であったといわれています。境内には古墳に関係すると思われる伝承が残されており、『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号4番の古墳(円墳)が登録されています。

鳥居をくぐり、境内に入るとまず目に飛び込んでくるのはこの復元された古代住居跡です。昭和52年5月26日には渋谷区の史跡として指定されているこの「代々木八幡遺跡」は、昭和25年(1950)に発掘調査が行われており、多数の土器や石器類とともにロームを浅く掘りくぼめた住居と、その中に掘られた柱穴を発見されています。縄文時代の住居跡とともにが検出されています。ここから出土した加曾利E式土器によって、この住居には約4500年前に人が住んでいたと推定されているそうです。
この復元住居前には渋谷区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。
代々木八幡遺跡と石器時代住居
この遺跡は今から四千五百年程前の、石器時代中期を中心に栄えたも
ので、標高三十二、三メートルの幡ヶ谷丘陵の南方に突き出した半島
の端に位している。当時、この前の低地は海の退きはじめた沼のような
ところで丘のうしろは一面、カシやナラの森で、そこにはシカやイノシ
シなどの動物が多く当時の人達はそれを取ったり木の果を拾って、見は
らしの良いこの丘の上で永く住みついていた。
昭和二十五年渋谷区史を作るため発掘研究が行われたが、そのときに
は、地下三十センチメートル位のところから沢山の遺物が発見された。
土器は縄文式土器中期の加 曽利E式の鉢や壺が一番多く、その他わづか
ではあるが、前期の黒浜式や諸磯式、後期の堀ノ内式、加曽利B式など
も出たから、前期にはじまり、中期に栄え後期までつゞいたことがわか
る。石器としては石斧、石槌、石棒、石錐、石鏃、凹石、皮剝などが発
見されている。
この発掘のとき、地下八十センチメートル位の下のローム層の上に当
時の住居(竪穴家屋)の跡が一個分発見されたので、その上に当時のまゝ
の家を組み立てゝ作ったのが、この復元住居である。この家は直径約六
メートルの円形にローム層を約二十センチメートル掘りくぼめ、その内
がわの周に高さ一メートル六十センチメートルの柱を十本程立て、その
柱の頭に 桁を横に結びつけ、その桁に椽を二十一本周から葺き寄せて、
屋上で円錐形に結び合せ、この上に萱を葺いて作ってある。屋上の南北
には煙出しを作り東側には入り口をその北側の貯蔵室の跡にはこゝだけ
椽を葺き出し中央部には爐の跡がそのまゝ残してある。貯蔵室に掘り埋
めてあった大型土器と爐の中に置いてあった底なしの二個の土器は別に
保存してある。この家の内は冬は野外より十度温かく夏は十度程涼しい
し、内でたき火をすれば数時間で床面は乾いて案外住み心地が悪くない。
使った木材は当時の附近の森相から考えてカシ、クリ等濶葉樹にした。
(この復元家屋は東大建築工学教授藤島亥治郎博士の検閲を得て国学院大学教授樋口清之 博士が立案したも
のを当区で作成した詳細は『渋谷区史』九二-一〇五頁参照)
東京都渋谷区教育委員会 
本殿の向かい側には「代々木八幡遺跡出土品陳列館」があり、出土した遺物や発掘当時の写真などが展示されています。古代人の等身大の人形なども飾られていて、さながら境内に造られたプチ郷土資料館という感じで、充実していますね。

代々木八幡遺跡は、昭和25年(1950)の夏に国学院大学考古学資料室と上原中学校の生徒たちにより、また同年秋には旧渋谷区史編纂委員会により発掘調査が行われています。その後、平成22年(2010)にも社務所増築工事に先立つ発掘調査が行われています。出土した遺物は縄文時代のものが多く、この陳列館にて公開されている遺物には古墳時代のものは存在しないようですが、果たして本当にこの場所に古墳が存在したのでしょうか。

代々木八幡神社境内のようすです。
渋谷区というと、何かと人の多いイメージがありますよね。先日のW杯コロンビア戦勝利の際には、渋谷駅前のスクランブル交差点は大盛り上がりだったようですが、この代々木八幡神社は神聖なる森の中、という感じで、いつもとても静かです。

画像の奥が、古墳の跡地であると思われる「出世稲荷社」で、南西から見たところです。この稲荷社は、ある芸能人がこの出世稲荷社にお参りしたところ仕事が増えたという話がテレビ番組で紹介され、注目が集まっているそうですが、この場所が古墳跡であると考えられていることはほとんど知られていないようです。
この稲荷社について、説明板が立てられていますが、やはり古墳についてはふれられていませんでした。
出世稲荷社
祭礼日:旧暦初午の日
第二次世界大戦末期の昭和二十年(一九四五)五月二十五日夜、この
あたりは米軍の空襲により大きな被害を受けた。幸い神社は焼け残
ったが、周辺は一面焼野原となり、その焼跡には家々で祀っていた
稲荷社の祠や神使の狐などが無惨な姿をさらしていた。それらを放
置しておくのはもったいないと、有志の人々らが拾い集め、合祀し
たのがこの稲荷社の最初で戦災の記憶と平和の大切さを偲ぶよすが
ともなっている。
なお、祭礼日の旧暦初午の日には、さまざまな祈願をこめた紅白
の幟の奉納が行われる。
出世稲荷社を間近で見たところです。
明らかにこの周囲が一段高くなっているようですが、古墳とするには周囲の改変が著しく、墳形を推測するのは難しそうです。

古墳ではないかと考えられる、マウンド上のようすです。
左側が出世稲荷社の祠で、右側に見えるのは榛名山登山碑です。
昭和41年(1966)に東京都渋谷区より発行された『新修 渋谷区史 上巻』には、「代々木八幡神社境内より集塊岩ようの石棺蓋が出土したという話であるが、早く井戸の中に埋められたと伝えられる。しかし、ほかに傍証となるべきものがない限り、古墳が存在したという断定を下し得ない。」と記されています。この場所を古墳であるとする背景には、この伝承の存在があってのことかと思われますが、少なくともこの塚状地形の周辺に、古墳であるという確証を得られるような材料はなく、出土したとされる石棺蓋が発見されない限りはなんとも言えないところです。

角度を変えて、南東から見た塚状地形のようすです。
実は訪れた当日に、代々木八幡神社の別当寺である福泉寺のご住職にお話を聞くことができたのですが、石棺蓋出土についての詳細は分からず、出土した石棺蓋が埋められたという井戸の場所も知ることはできませんでした。
現在の代々木公園や明治神宮内には、とても多くの古墳の伝承が伝わっているようですし、この代々木八幡神社における古墳の存在も想定内!という気がするのですが、真相が明かされるには発掘調査を待つしかなさそうですね。。。
<参考文献>
佐藤昇『渋谷区史跡散歩』
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明板
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- 2018/06/21(木) 22:59:58|
- 渋谷区の古墳・塚
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画像は、渋谷区広尾4丁目にある聖心女子大学内に所在する「聖心女子大学構内古墳」を北東から見たところです。『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号95番として登録されている古墳です。
この古墳はについて、昭和41年(1966)に発行された『新修 渋谷区史 上巻』に掲載されている「古墳所在地名表」には記載がなく、昭和57年(1982)に行われた東京都心部遺跡分布調査の古地図の調査により把握されています。昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には「5千分の1東京図に墳丘が認められる。今回の調査で確認」と書かれています。
この大学の敷地と北側に隣接する日本赤十字医療センターや看護大学、広尾ガーデンヒルズとを含めた一帯は、江戸時代には下総佐倉藩堀田家の下屋敷であったといわれていますので、古墳は庭園の築山として流用されたことにより壊されずに残されたものでしょう。大正6年(1917)にはこの敷地内に久邇宮家の本邸が建設されており、戦後間もなくの昭和22年(1947)に聖心女子大学がこの地を末に購入して翌年に開校しているそうですが、おそらくは下屋敷時代の築山という認識のまま大学構内に残され、昭和57年の東京都心部遺跡分布調査団によりその存在が確認された、ということのようです。
構内で学生さんに古墳について尋ねても皆きょとんとしており、土で盛られた築山があるはずだと訪ねると、「ああ、築山ですね」という感じで、「築山」と呼ばれているのがとても印象的でした。古墳の周囲に説明板等は存在しないようですし、在校生の多くはこの築山が古墳であるという認識を持っていないのかもしれません。

画像は、西から見た古墳です。学術的な調査は行われていないため、出土品や埋葬施設、周溝や埴輪の有無などの詳細は不明です。実際に見学してみたところでは、小型の前方後円墳だったのではないかとも感じましたが、『東京都遺跡地図』では径15~17mの円墳であるとしています。ひょっとしたら後世の塚である可能性もあるのかもしれませんが、このあたりの真相は今後の調査の進展を待ちたいところですね。

古墳の南東側の裾部は削られており、石垣により土留めされているようです。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2016/11/16(水) 00:15:02|
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『東京都遺跡地図』には、渋谷区広尾2丁目に「渋谷区№78遺跡」という名称で2基の古墳が登録されています。古くは昭和41年(1966)に東京都渋谷区より発行された『新修 渋谷区史 上巻』に掲載されている「古墳所在地名表」にこの古墳が取り上げられており、この時点では「円墳 1基」として記載されています。「湮滅」としながらも「古老談」と書かれていますので、恐らくはこの当時には消滅してしまった古墳の記憶を語ることのできる地元の古老の存在があったのかもしれません。
その後、昭和57年(1982)に行われた東京都心部遺跡分布調査の古地図の調査により存在が確認されており、昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には「5千分の1東京図に墳丘が認められる。」と書かれています。この地図には2基の古墳の墳丘が記されていますので、これがそのまま『東京都遺跡地図』に登録されているものと思われます。
画像の右側あたりが2基の古墳のうちの1基の所在地と思われます。立地的に台地の縁辺部ということもあり、古墳の存在を感じさせる場所ではあると思いますが、正確な位置までは特定できず、痕跡を見つけることは出来ませんでした。
実は知人宅が目の前であることに気がついてビックリしました。いつも暗くなってから訪問していたので、現地を歩くまで気がつきませんでした。あまり時間がなかったので素通りしてしまいましたが、昔のようすを聞いてみれば良かったかもしれません。残念。。。

画像の右側あたりがもう1基の古墳の跡地と思われます。こちらも正確な跡地は特定できず、痕跡を見つけることは出来ませんでした。
<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2016/11/15(火) 00:35:42|
- 渋谷区の古墳・塚
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渋谷区円山町には、「カムロ塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。JR渋谷駅ハチ公口から道玄坂を目黒方面に登った一番高くなったあたりが塚の跡地であり、『東京都遺跡地図』には未登録となっているようですが、昭和41年(1966)に発行された『新修 渋谷区史 上巻』に掲載されている「古墳所在地名表」に取り上げられています。
画像は、カムロ塚の跡地とされる旧上通4丁目26番地(現在の渋谷区円山町)周辺を南から見たところです。この南西側(画像の左奥)は谷になっており、塚の跡地は台地の縁辺部という古墳の存在の可能性が考えられる立地条件であるようですし、同じ台地上の南東1km程の地点には複数の塚が存在していたと伝えられており、猿楽塚北塚と南塚の2基が現存しています。このカムロ塚が古墳であった可能性も十分に考えられると考えましたが、残念ながら塚は完全に消滅しているようです。

この塚にまつわる伝説について『新修 渋谷区史 中巻』1355ページに記載があり、「かつて、この附近青山道の北側にカムロ塚という土盛りがあったといわれる。諸書には見えないが、土地の口碑に昔カムロ某が、ここに行き倒れたので、里人達が集まってこれを厚く葬り、上に杉の木を植えて禿塚とよんで、やがて附近の地名となっていたと伝えられている。この事実の真偽も、その跡も今は確かめる方法がないが、附近は古くは寺院か、墓地のあとらしく、かつて地下から多くの枯骨が出土したといわれる。」と書かれています。
これだけの言い伝えが残されている塚ですので、祀られていた祠が残されているとか、立てられていた石造物が保存されているといった痕跡を探して周囲を散策しましたが、何も見つかりませんでした。私が上京した頃は、渋谷駅からここまで離れるともう少し雑多というか”隙”のようなものが残されていたように思うのですが。。。
この場所は通称「246」または「青山通り」と呼ばれる幹線道路沿いで、首都高速3号渋谷線が平行して走っており、直下には田園都市線が走行しています。周囲には高層ビルが建ち並び、開発の進んだこの地域に古代の墳墓が残される余地はないのかもしれません。。。
<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 中巻』
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- 2016/11/14(月) 00:47:51|
- 渋谷区の古墳・塚
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「加計塚古墳」は、渋谷区恵比寿4丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号62番の古墳(円墳)として登録されています。古墳はすでに削平されて消滅しており、墳丘の存在しない古墳ですが、墳丘上に立てられていたとされる「欠塚」の石碑が「加計塚小学校」の敷地内に保存されています。画像はこの欠塚の石碑を南から見たところです。
かつては、この周辺の丘陵上は円墳が散在する古墳群だったそうで、「欠塚」とは欠けた塚であったことからこのように呼ばれたそうです。この塚は大正6年頃までは校地の西側に残存していて、そこに生えていた松の木の根元にこの石碑が建てられていたそうです。その後、学校創設の際に伊達町の浅井家の庭へ、更に伊達町49番地へ移された後の昭和22年夏、同町50番地の路傍にこの石碑が二つに割れたまま放置されているのを同校の教諭に発見され、学校に運ばれたのだそうです。
この古墳について、東京都渋谷区より発行された『新修 渋谷区史 上巻』には「欠塚(景丘町11番地) もと伊達町五〇番地にあった、破壊された小円墳の名で、欠けた塚であるからこのように呼ばれたが、今はその小さい碑のみ残り、加計塚小学校校庭に移されている。加計塚の名も、景丘の名も、この欠塚をもとにして起ったといわれる。この附近丘陵上はもと小円墳が点々として散在し、キツネがその附近に住んだとも伝えられている。今の福徳稲荷社もその古墳の一つである。」とあり、また加計塚小学校の敷地内に建てられている「校名由来」の石碑には「昔、この附近一帯に小円墳群がありその一つが缺けていたことから、このあたりを缺塚と呼ばれたと伝えられる。缺塚の名は江戸初期、下渋谷村小字缺塚として存在した。(新編武蔵風土記稿による)本校設立にあたり、時の渋谷町長佐々木基氏、初代校長野口周作氏が合議の上この史実から校名を、東京府豊多摩郡加計塚尋常小学校と決定したものである。石碑「欠塚」は、本校創設の際西側敷地内にあったものが、伊達町四十九番地先に移され、後、昭和二十二年夏、この地に当時の職員が安置したものである。作者年代等不詳である。」と刻まれています。

この古墳の正確な跡地がどこであるのかは全くわからなかったのですが、少なくとも『新修 渋谷区史 上巻』に記載されている「もと伊達町五〇番地」とは誤りで、これは「欠塚」の石碑が最後に移されていた場所であるようです。校地の西側という記述が正しければ画像の周辺が古墳の跡地ということになるようですが、お洒落なカフェに古墳の面影を見ることは出来ないようです。。。

東京都教育委員会より発行された『東京都遺跡地図』の付図や『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』で公開されている分布図では、古墳の位置は校地の北西あたりに記されてます。もはや最先端の街へと変貌を遂げたこの恵比寿のど真ん中に畑が残されていることにビックリしましたが、やはりこの場所にも古墳の痕跡は残されていません。現在は渋谷区が所有する土地であるようですが、かつては小学校の体育館が建てられていたそうですので、この場所が古墳の跡地であったとしても墳丘が残されている可能性はなかったようです。
この周辺に古くから暮らしていそうな地元の人に話しかけてみたりしたのですが、欠塚の言い伝えを知る人もなく、小学校内に残された欠塚の石碑の存在もすでに忘れられているのかもしれません。。。
<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 中巻』
斎藤政雄『ふるさと渋谷』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2016/11/12(土) 23:57:35|
- 渋谷区の古墳・塚
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