
今回紹介するのは、墨田区堤通2丁目に所在したといわれる伝説の塚、「梅若塚」です。
この梅若塚は、『東京都遺跡地図』には墨田区の遺跡番号1番の「近世の塚」として登録されており、昭和30年(1955)には東京都の旧跡に指定されています。この一帯は、昭和47年の都市計画決定から同57年3月にかけて都市再開発事業による防災拠点都市建設が行われており、残念ながら梅若塚は木母寺とともに移転を余儀なくされており、かつての梅若塚は消滅。塚の跡地は「墨田区立梅若公園」として整備されて説明板や石碑が建てられており、わずかながらも往時の面影を偲ぶことができます。
画像は、この梅若公園を南東から見たところです。
この梅若塚には、ある有名な伝説が残されています。
時に平安期の貞元元年。京都北白川に住む吉田少将帷房(これふさ)・美濃国野上長者の一人娘花御せんの夫妻の子、梅若丸は、五歳にして父親と死別、七歳の時に比叡山月林寺へ入り、彼ほどの稚児はいないと賞賛を受けます。これをねたんだ松若殿に襲われた梅若丸は、山中をさまよった後に、大津の浜で信夫の藤太という人買いにさらわれてしまいます。しかし、奥州へと向かう途中、隅田川のほとりで幼い梅若丸は病に倒れ、里人たちの看病の甲斐なく帰らぬ人となってしまいます。貞元元年(976)三月十五日のことで梅若丸はわずか12歳でした。その折、その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が里人と墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ ています。
そしてその後、わが子恋しと梅若丸の行方を探し求めた母親が隅田川のほとりにたどり着き、渡し守から梅若丸の死を知らされたのは翌年、ちょうど一周忌の日のことでした。その晩、悲嘆の涙にくれる母とともに大念仏が催されているその時、一目でも会いたいという母親の願いが通じたのか墓から梅若丸の亡霊が現れます。しかしそれも束の間、再びその姿は消え去ってしまいます。
その後、塚のかたわらには庵室が営まれて母親はそこで暮らしていましたが、わが子が忘れられない母は、遂に浅茅池に身を投げてしまいます。
この悲しい物語は、謡曲「隅田川」や、歌舞伎の隅田川物・浄瑠璃「雙生隅田川」等の芸能・絵画に取り上げられ、広く知られることとなりました。梅若塚は、この謡曲「隅田川」で知られる梅若伝説の伝説の人物、梅若丸の墓であるとされています。

画像は、梅若公園に建てられている、東京都教育委員会による説明板と「梅若塚旧蹟」の石碑です。説明板には次のように書かれています。
東京都指定旧跡
梅若塚
所在地 墨田区堤通二の六
区立梅若公園
標 識 大正九年三月
指 定 昭和三〇年三月二八日
梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲
「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白
川の吉田少将帷房の遺児で、比叡山で修行中
に信夫藤太と言う人買いによりさらわれ、奥
州に向かう途中隅田川のほとりで死にます。
その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた
墓が梅若塚であると伝えられます。
木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てら
れた隅田院梅若寺が始まりとされます。塚は
梅若山王権現として信仰を集めました。木母
寺は当該地周辺にありましたが、白髭防災団
地建設に伴い現在地に移転しています。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会
実は、かつての梅若塚は、古代に築造された古墳だったのではないかとする説が存在しました。
人類学・民族学者である鳥居龍蔵氏は、著書『上代の東京と其周囲』の中で「梅若塚の感想」という論文を発表していますが、博士はこの論文の中で、江戸期に書かれた梅若塚に関する文献を数多く取り上げて考察しており、梅若塚は一部の学者が言うような新しいものではなく、古墳であると推測しています。
画像は、『上代の東京と其周囲』に掲載されている梅若塚の写真です。(同書は昭和2年の発行ですので、おそらく大正後期から昭和初年あたりのものであると思われます。)道行く人の背丈よりも若干の高さが残る、往時の梅若塚を見ることができます。
鳥居博士は、同じ隅田川流域に存在した「業平塚」や「牛の御前の隣にある古墳」、「秋葉の社の内の古墳」は古墳であると考えており、同じ「古墳群」に存在するこの梅若塚も同様に古墳であると推測したようです。さらには、『江戸名所記』に描かれた挿絵を取り挙げており、17世紀の梅若塚が後世のものよりも遥かに大きかったことも指摘しています。

画像は、『上代の東京と其周囲』に掲載されている、『江戸名所記』の挿絵です。塚上に祀られている祠の周囲に囲いが存在するあたりからして、かなり大きな塚であったようすを伺うことができます。
江戸期の文献を紐解くと、梅若塚に関するかなり多くの記述を見ることができるようですが、塚の存在を伝える最古の文献は、もと京・五山の学僧・萬里集九(周九)の詩集『梅花無盡藏』の中の文章であるようです。萬里集九は誌名が高く、文明17年(1485)には、親交のあった太田道灌に招かれて江戸城に入り、翌18年(1486)の春、道灌の催した舟遊びに加わり、詩作をしたようです。文中には「路傍の小塚に柳あり」とあり、「けだし吉田の子梅若丸の墓処なり、某母は北白河の人」と記されています。
この文献により、梅若塚は少なくとも15世紀の末頃には間違いなく存在していたようですが、塚は発掘調査が行われることなく消滅しており、今となってはその性格を知ることはできません。
果たして梅若塚は古墳だったのでしょうか。。。

画像は、移転された現在の木母寺です。この境内に、移転した梅若塚が所在します。

現在の「梅若塚」のようすです。鳥居の形をした石の柵の中に「梅若塚」があります。

画像が現在の「梅若塚」です。
この形状にどんな意味が込められているのかはわからないのですが、「塚」というよりは、かつて存在した梅若塚のモニュメント的な存在なのかもしれません。

日本が敗色濃厚だった昭和20年(1945)、木母寺は2度にわたる戦災に遭っています。4月13日と翌々15日のどちらも夜半の空襲で、木母寺境内のほとんどが一刻の間に灰と化した中、唯一焼け残ったのがこの梅若堂(梅若塚拝殿)だったようです。特に15日の空襲は、当時の軍部が「人馬殺傷」と称していたという小型爆弾数十発の集中投下であり、そのうちの1発が、13日の空襲で焼け残った梅若堂の前面から左側面2~30mという至近距離に爆撃され、お堂に損傷を与えたようです。(ちなみに、お堂の損傷が米軍の機銃掃射による弾痕であるという説が伝えられているようですが、これは間違いで、真相はこの爆撃による損傷であるようです。)
この日の木母寺境内には多くの被災した人たちが仮泊していたようですが、この中からは一人の事故者も出なかったことから、唯一焼け残ったお堂が「身代わりのお堂」と称され始めたのは、この頃であるといわれています。
画像は、移転された現在の梅若堂です。かつての梅若塚に隣接して建てられていたお堂で、現在もやはり梅若塚に隣接しています。この地域が防災拠点で木造建築物が不許可であることから、苦肉の策として、強化ガラス張りの建物の中にお堂が安置されています。

さて、梅若丸の墓であるとされる「梅若塚」と呼ばれる塚は実はもう一箇所、埼玉県春日部市にも存在します。
画像は、春日部市新方袋にある満蔵寺を南西からみたところです。このお寺の敷地内に梅若塚は所在します。

画像が、満蔵寺の「梅若塚」です。
綺麗に整地されていて塚らしき風情は失われているようですが、周囲よりは一段高くなっているようすを伺うことができます。
塚上に設置された埼玉県春日部市による説明板には次のように書かれています。
梅若伝説と梅若塚
所在地 春日部市新方袋二六六
今からおよそ千年前、京都の北白川に住んでいた吉田少将帷房卿の一
子梅若丸は七歳の時父に死別し、比叡山の稚児となった。十二歳の時、
宗門争いの中で身の危険を思い下山したが、その時に人買いの信夫(現
在の福島県の一地域)の藤太にだまされて東国へ下った。やがて、この
地まできた時、重病になり、藤太の足手まといとなったため隅田川に投
げ込まれてしまった。幸いに柳の枝に衣がからみ、里人に助けられて手
厚い介護を受けたが、我身の素性を語り
尋ね来て 問わば答えよ 都鳥
隅田川原の 露と消えぬと
という歌を遺して生き絶えてしまった。時に天延二年(九七四)三月十五
日であった。里人は、梅若丸の身の哀れを思い、ここに塚を築き柳を植
えた。これが隅田山梅若山王権現と呼ばれる梅若塚である。
一方、我が子の行方を尋ねてこの地にたどり着いた梅若丸の母「花子
の前」は、たまたま梅若丸の一周忌の法要に会い、我が子の死を知り、
出家してしまった。名を妙亀と改め、庵をかまえて梅若丸の霊をなぐさ
めていたが、ついに世をはかなんで近くの浅芽が原の池(鏡が池)に身投
げしてしまったという。これが、有名な謡曲「隅田川」から発展した梅若
伝説であるが、この梅若丸の悲しい生涯と、妙亀尼の哀れな運命を知っ
た満蔵寺開山の祐閑和尚は、木像を彫ってその胎内に梅若丸の携えてい
た母の形見の守り本尊を納め、お堂を建てて安置したという。
これが、安産、疱瘡の守護として多くの信仰を集めてきた子育て地蔵
尊(満蔵寺内)である。
昭和六十一年三月 埼玉県春日部市

塚上のようすです。
梅若塚の春日部説は、十万庵敬順の『遊歴雑記』や斎藤鶴磯の『武蔵野話』等により紹介され、知られるようになったようです。その後に刊行された『新編武蔵風土記稿』では、春日部本家説は否定されているようです。

祠の背後に存在する謎のマウンド。新しく盛られたようにも思える塚状地形いですが、これもある意味、モニュメント的な塚なのでしょうか。塚の上に塚があるようで、なんだか変な感じがします。笑。

塚上に建てられている「梅若塚の由来」と刻まれた石碑。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-198.html(2014年2月12日号「妙亀塚」)
次回、梅若伝説 その3「班女塚」に続く。。。
<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
豊島寛彰『隅田川とその両岸』
すみだ郷土文化資料館『隅田川の伝説と歴史』
真泉光隆『梅若塚物語』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2018/06/08(金) 08:36:47|
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画像は、墨田区向島1丁目にある「牛嶋神社」を南から見たところです。貞観年間(859-79)に慈覚大師が建立したと伝えられる神社で、本所総鎮守として知られています。かつては牛御前社と称しており、『江戸名所図会』によると、牛島の出崎に位置することから、牛島の御崎と称えたのを御前と転称したものであろうとしています。明治初年以降は牛嶋神社と称しています。関東大震災により社殿等を焼失し、その後、隅田公園の開設の際に昭和7年に現在地に移転しています。
この神社の旧地には、当時古墳ではないかと考えられた塚が所在していたようです。鳥居龍蔵氏は、著書『武蔵野及其周囲』の中で「牛嶋神社隣の古墳」として紹介しています。

画像は、『武蔵野及其周囲』154ページに掲載されている、牛嶋神社の隣に所在したとされる塚の往時の姿です。
武蔵野台地と下総台地との間に分布する沖積低地は隅田川や荒川の運搬土砂による三角州であり、古代の墨田区域はまだ海中で陸化はされていない可能性が高いと考えられているようですが、鳥居龍蔵氏は、この地域は浮洲で原始時代以降はすでに出来上がっており、人が住み、墓も設けられ、方牛の場所となっていたであろうという推測から、前回紹介した「業平塚」や牛嶋神社隣の塚は古墳ではないかと考えていたようです。
『武蔵野及其周囲』にはこの塚について次のように書かれています。
業平塚のあつた附近に今も尚ほ古墳の殘つて居る所があります。之は牛島神社の隣で、六月二十八日永峰氏の案内で八幡、大里、高澤氏等と共に之を見に行きましたが、まさしく古墳の跡であります。もとは圓形を呈して居つたが、今は池田候の墓が東側に出来た爲めに此の側は取り去られて居ります。今日では盛土の長さは南北で六間、東西で四間でありますが、昔は東西の四間は六間であつたでしやう。さうすると此の古墳は圓形のものとなります。高さは七尺、此の古墳ももとは尚ほ大きかつたでしやうが、一方は牛島神社の方から一方は寺の方から、古来土を段々自然に取り去られた爲め小さくなつたものと思ひます。今は塚の上は竹薮になつて居ります。此の古墳のある所の地形は稍や高い沖積土で、其隣は牛島神社、更に一方は葦の生えて居る水澤の地になつて居りますから、昔は此處は或浮洲の端の方であつたでありましやう。此の古墳は牛島神社に關聯し桓武天皇の王子の塚と申し傳へて居ります。私は此塚の傳説がもとで牛島神社と關聯する様になつたのではないかと思ひます。
此の古墳もまた業平塚と共に見る可きもので、斯んな古墳は此の邊一帯に昔は存在して居つたものでは無からうか、尚ほ之と共に墨田川を距てゝ前岸の眞土山、淺草寺境内の諸古墳其他のものと相對して又共に見る可きものでしやう。(『武蔵野及其周囲』154~155ページ)

画像は、墨田区向島5丁目に所在する「墨堤常夜燈」です。まだ照明が発達していない時代にはこの常夜燈の明かりが非常に重要な役割を果たしていました。この常夜燈の置かれている場所はかつて牛嶋神社の境内地で、牛嶋神社がまだこの付近にあった明治4年(1871)頃に、土手から神社へ下る坂の入口に立てられたといわれています。神社が隅田公園内に移転した後も、墨堤常夜燈はこの地に残されています。
つまりは画像の常夜燈の奥のあたりが塚の所在地となるようですが、周辺は開発が進み、かつての牛嶋神社とともに塚の痕跡もすでに残されていないようです。
昭和34年(1959)に発行された『墨田区史』では
ある地域に古墳が築造されるためには、古墳を営みうる力のある豪族の存在がなければならず、同時にそのような豪族の発生はかなりの規模に発展した農耕社会を母胎とする背景を前提として初めて考えられるところである。古墳時代の終末に近いころにあつては、古墳を営む風習は広範囲の階層に及ぶのであるが、それでもなお相応の権力と経済力をもつた限られた階層のものにとどまつていた。少なくとも奈良時代以前の牛島が、相当の規模を示す農耕社会の存在を許す条件にあつたとは考えられない。他方当時の集落存在を裏づける土師器、須恵器の遺跡すら全く探知されていないのである。 として、これにより
須崎町の牛島神社旧地にあつた築山が古墳であるとする根拠は全くないといつてよいのである。 と、鳥居氏が唱える古墳説を一蹴しています。
しかしその後、昭和53年(1978)に発行された『墨田区史 前史』では
(前略)鳥居博士による当時の写真並びに平面図を見るときは、このつかはいかにも円墳と受け取れる。最近の考古学は発掘主義で、掘って何か出なければ納得しないというやり方であって、これは確かに正しいのであるが、こうした発掘主義―最近では行政発掘などといういやな専門語が流行し、大規模工事の時などには必ずこれがつきまとう―がまだ流行しない時代の考古学者の診断を一概に否定し去ることはできない。調査の目的で発掘されない間にいつのまにか土木工事で壊されてしまったからである。牛島神社隣りの古墳が原始時代のものとすれば、これと業平塚とは相対的に考えられてもよいのではなかろうか。 と、鳥居氏の古墳説に肯定的です。
「業平塚」も「牛嶋神社隣の古墳」も消滅してしまった今、発掘調査により真相を知るにはなかなか困難な現状ではあるかもしれませんが、最新の調査によりそれまでの定説が覆された事例もあるわけで、やはり今後の調査に期待ですね。。。
<参考文献>
鳥居龍蔵『武蔵野及其周囲』
東京都墨田区役所『墨田区史』
墨田区教育委員会社会教育課『すみだの史跡文化財めぐり―北部編―』
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- 2017/10/15(日) 00:00:34|
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都営浅草線本所吾妻橋駅を地上に出て東に100mほどの、墨田区吾妻橋3丁目6番地付近にはかつて南蔵院という天台宗の寺院がありました。東京スカイツリーのたもとの街として観光客で賑わうこの地に所在したという南蔵院の寺域には、かつて「業平塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。
画像は、南蔵院跡地周辺のようすです。江戸時代から「しばられ地蔵」で知られるこの寺院は関東大震災後に葛飾区水元に移転しており、その境内に存在したという業平塚とともにすでに痕跡は残されていないようですが、跡地前の浅草通り沿いの路上には、墨田区教育委員会による「南蔵院跡」の案内板が設置されています。
南蔵院跡(しばられ地蔵と業平伝説)
所在地 墨田区吾妻橋三丁目六番
この一画には、しばられ地蔵でよく知られる南蔵院という寺院がありまし
た。しばられ地蔵とは、大岡政談で一役買ったお地蔵様のことです。
ある時、日本橋木綿問屋の手代が業平橋の近くで商品の反物を盗まれてしま
います。商いの疲れからお地蔵様のそばで居眠りをしていた間のことなので、
手がかりがまるでありません。そこで町奉行大岡越前守は一計を案じ、このお
地蔵様を犯人として縛り上げ奉行所に運びました。その上、お白州で地蔵の裁
きをする旨のお触れまで出したのです。この噂はたちまち広まり、お裁き当日
の奉行所は詰めかけた野次馬でごったがえし大混乱となりました。越前守は騒
ぎを起こした罰と称して、見物に集まった人々に一反ずつ反物を納めさせまし
た。すると、集まった反物の中には予想どおり盗品が混じっていました。越前
守は納め主を割り出して真犯人を捕らえ、事件は無事解決したのでした。
この話から、南蔵院のお地蔵様を縛ってお願いすると、失くしたものが戻っ
てくるとか、泥棒よけのご利益があると信じられるようになり、しばられ地蔵
と呼ばれ、人々の信仰を集めるようになりました。
一方、南蔵院の境内にはかつて業平天神社がありました。平安時代の歌人・
在原業平をまつったものといわれます。業平は、隅田川を舟で渡ったときに
「名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」と詠み
ました(『伊勢物語』)。現在も地名や橋の名前などに業平の名前を残している
のは、このことに由来しています。
南蔵院は、昭和元年(一九二五)に葛飾区水元に移転しましたが、現在でも
しばられ地蔵の信仰と風習で知られています。
平成二十一年三月
墨田区教育委員会 案内板には業平塚についての記述は見られないようですが、江戸時代の地誌類には多くの記録が残されているようです。人類学・民族学者である鳥居龍蔵氏は、著書『武蔵野及其周囲』の中で『江戸名所記』に所載されている塚の記述を取り上げており、この記事と同書に掲載されている業平塚の図を根拠に、この塚の古墳説を唱えているようです。
『江戸名所記』の「牛島業平塚」の項には
そのかみ在原の業平朝臣は、二条の后の事によりて、東のかたにくだり給ひしとや、京やすみうかりけん、あづまのかたにゆきてすみ、ところもとむるとて、友とする人ひとりふたりしてゆきけりと、伊勢物語にかきたり、ある説に業平は東國に流され賜ひしといへり、しかるに業平すでに都にのぼらんとて、舟にのり賜ひしが、此ほとりの浦にて舟損じて、死給ひしを塚につきたりといへり、伊勢物語に東にくだりしとはありて、のぼられしとはかき侍らず、又ついにゆくの歌はありて、いづかたにて死なれしといふ事もみえず、さりながらかやうの事は、しいて吟味するに及ばずといへり、三代實錄には、元慶四年廿八日辛己、従四位上右近衛中將兼美濃守在原朝臣業平卒時年五十六としるせり、しかるに牛島の古老の傳に、此所にして舟損じて死なれしを塚につきこめたり、その在所の名も今に業平村といふ、塚の形ち、すなはち舟のごとくにて殘れりと也。(『武蔵野及其周囲』142ページ) と書かれています。

画像は、江戸名所記に掲載されている業平塚の図です。
鳥居龍蔵氏は、この江戸時代に描かれた、一方が丸く突起し、また一方が低く描かれている業平塚の形状と、『江戸名所記』の中で「塚の形ち、すなはち舟のごとくにて殘れり」と記されていることからこれを「舟形式古墳」と命名、静岡県磐田郡に所在する「船塚」と呼ばれる古墳を参考として取り上げたうえで、業平塚は古墳であり、浅草寺境内の古墳や陶棺の出た駿馬塚、眞土山の古墳等と同一時代か、それよりも後の時代のものであるとしています。
これに対して、昭和34年(1959)に発行された『墨田区史』では「古墳を形式的に分類するばあい、基準となるのは封土の形式であつて、そこにオリジナルな意味で舟形を呈する封土は存在していない。全国的に舟塚と呼ばれている古墳を調べると退化形式の前方後円墳の名称として用いられることが最も多く、その他舟にまつわる伝説を有するために名づけられたか、あるいは後世における変形のために偶然舟に似た形に見えるにすぎないばあいなどである。(中略)そこで業平塚がかりに古墳であつたとしても、おそらく後世における変形のため舟塚となつたか、舟に関する伝説から導かれて「舟のごとくにて」の表現を用いたものと考えなければならないであろうが、博士が「横から見ると瓢を長く真二つに割つた、其一つを地上に置いた様な形」と説明したことばを素直に受けとれば、むしろ前方後円墳とした方が適切であるとすべきである。にもかかわらず「舟のごとくにて残れり」とした記事にこだわり、あえて舟形式なる名称を用いたのは、前方後円墳がこの牛島のような中州に存在したとすることの無理を知つての結果であつたに違いない」と、鳥居氏の主張をバッサリと切り捨てています。
私のような素人からすると、武蔵野台地と下総台地の間の沖積低地は古代にはすでに陸化されており、墨田区内にも前方後円墳が存在したのではないか、というロマンを追い求めたくなってしまうところですが、塚が消滅してしまった今、真相を知ることは出来ないようです。。。
<参考文献>
鳥居龍蔵『武蔵野及其周囲』
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墨田区教育委員会『墨田区の民間伝承・民間信仰』
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- 2017/10/13(金) 19:23:03|
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画像は、墨田区立花1丁目にある「吾嬬神社」を南から見たところです。
この吾嬬神社の祭神は弟橘媛命を主神とし、相殿に日本武尊が祀られています。
この神社の創始については次のような伝説が残されています。景行天皇の皇子日本武尊が妻の弟橘媛とともに相模国から相模国から上総国に遠征に向かっていたところ、一行は大嵐に巻き込まれてしまいます。舟が沈没してしまうほどの海の荒れ方に、弟橘媛が海神の怒りを鎮めるために海中に身を投げてしまいます。すると、まるで何事もなかったかのように海は穏やかとなり、一行は無事に房総半島に上陸することが出来ました。その後、日本武尊はこの地で、流れ着いた弟橘媛の肩掛けを見つけ、この遺品を埋めて塚に埋納し、玉垣をめぐらせました。そして弟橘媛のの霊を鎮めるために食事をして、その時に使っていた箸を「末代平天下ならんにはこの箸二本ともに栄ふべし」と祈りを込めて塚に突き刺したところ、枝葉を生じました。これを、めでたいことが起きる兆しとして神木としたのが「連理の楠」であるといわれています。

吾嬬神社境内のようすです。
吾嬬神社の拝殿は、伝説にいわれているように塚の上に建てられています。
吾嬬神社境内の案内板には次のように書かれていました。
往時は吾嬬の森八丁四方と云はれまた浮洲の森とも呼ばれこんもりと茂った森林の神域にあった名社である 草創は遠く景行天皇(十二代)の頃にさかのぼり御祭神は弟橘媛ノ命を主神とし日本武尊ノ命を御合祀奉斉してあります。正治元年(一一九九)北條泰時が幕下の葛西領主遠山丹波守らに命じて神領三百貫を寄進し社殿を造営した 嘉元元年(一三〇三)開創の真言宗宝蓮寺現亀戸四丁目を別当寺とし吾嬬大権現と称した 以後武家の尊崇があって安永三年(一七七四)大川橋の新設にあたり江戸から当社えの参道にあたるところから橋名を吾妻橋と称したともいゝ、明治二十一年に数村を合せて吾嬬村と称したのは時の府知事高崎五大の発案で社名をとったのである。
抑当社御神楠は昔時日本武ノ命東夷征伐の御時相模の国に御進向上総の国に到り給はんと御船に召されたるに海中にて暴風しきりに起り来て御船すでに危ふかりしに御后橘媛ノ命海神の心を知りて御身を海底に沈め給ひしかば忽海上おだやかに鎮りたり時に一つの島忽然と現れ到る心を知りて御船をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひてあゝ吾妻恋しと宜ひしに俄かに東風吹き来りて橘媛ノ命の御召物海上に浮び磯部にたじ寄らせ給ひしかば尊大きに喜ばせ給ひ橘媛ノ命の御召物を則此浮洲に納め築山をきづき御廟となしたりこれ現在の御本殿の位置なり此時尊は食し給ひし楠の御箸を以て末代天下平安ならんには此箸忽ち根枝を生じし処葉茂り連理の男木女木となれり神代より二千有余年の星霜おし移ると云へ共尚梢えの色変らず栄えし処名樹も第二次大戦の災禍を被り焼け落ちて化石の如き姿で残った其一部を以て賽銭箱を造り御神前に永く保在される事となった以後御神徳に依る数々の奇瑞を現わし諸人の助けとなりたる神樹を惜みて明治維新百年祭を記念して元木に優る名樹に成長を祈念しつゝ二本の若木が植えられた爾来十年余念願成就の兆し現れ日毎に葉茂り枝栄えたりこれこそ御神木の再生ならんと此由来を御世に伝えんと略してしるす也
築山を、角度を変えて南西から見たところです。『東京都遺跡地図』で確認すると、参道と境内の敷地が「墨田区No.2遺跡」という名称の包蔵地として登録されており、縄文土器が出土しているようです。
人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵氏は、著書『上代の東京と其周圍』の中で、この築山を古墳であるとして紹介しています。これが古墳であるとすればおそらくかなり改変されており、元々はかなり大きな古墳だったのではないかと考えられますが、この地域の成り立ちを考えると古墳とは考え難い様にも思います。
果たしてこの築山は古墳だったのでしょうか。。。

吾嬬神社拝殿のようす。

由緒書にも書かれていた「連理の楠」の現在のようすです。一つの根から二本の幹が出ていることから「相生の樟」と呼ばれていたようです。
『本所雨やどり』には、この樟の葉を煎じて呑むと病気に効くと信じられていたことが記されており、全快した人が納めたお札の赤い幟が数多くはためいていたようすが錦絵に見ることが出来ます。

拝殿の背後はさらに一段高くなっており、本殿が祀られています。
現地で確認したところでは、吾嬬神社の築山は南北に細長い形状をしています。ひょっとしたら、北側が後円部で、南側が前方部という前方後円墳だったのではないかとも考えられます。
文京区の「富士神社古墳」が前方後円墳であるならば、この吾嬬神社だって十分に前方後円墳に見えるよ!と心の中で叫んでみました。。。

鳥居龍蔵著『上代の東京と其周圍』ではこの吾嬬神社についての詳しい記述は見られないのですが、同書226ページには大正時代の吾嬬神社の写真を「吾嬬の森の古墳」として紹介しています。画像がその吾嬬神社の写真です。
この写真からすると、築山自体が古墳というよりも、社殿の背後の円形の塚を指して古墳であるとしている可能性も感じます。真相はどうなのでしょうか。。。
<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
墨田区教育委員会『墨田区の民間伝承・民間信仰』
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- 2017/10/11(水) 03:19:13|
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