古墳なう

ご〜ご〜ひでりんの古墳探訪記

「牛嶋神社隣の古墳」

「牛嶋神社」

 画像は、墨田区向島1丁目にある「牛嶋神社」を南から見たところです。貞観年間(859-79)に慈覚大師が建立したと伝えられる神社で、本所総鎮守として知られています。かつては牛御前社と称しており、『江戸名所図会』によると、牛島の出崎に位置することから、牛島の御崎と称えたのを御前と転称したものであろうとしています。明治初年以降は牛嶋神社と称しています。関東大震災により社殿等を焼失し、その後、隅田公園の開設の際に昭和7年に現在地に移転しています。
 この神社の旧地には、当時古墳ではないかと考えられた塚が所在していたようです。鳥居龍蔵氏は、著書『武蔵野及其周囲』の中で「牛嶋神社隣の古墳」として紹介しています。


「牛嶋神社隣の古墳」

 画像は、『武蔵野及其周囲』154ページに掲載されている、牛嶋神社の隣に所在したとされる塚の往時の姿です。
 武蔵野台地と下総台地との間に分布する沖積低地は隅田川や荒川の運搬土砂による三角州であり、古代の墨田区域はまだ海中で陸化はされていない可能性が高いと考えられているようですが、鳥居龍蔵氏は、この地域は浮洲で原始時代以降はすでに出来上がっており、人が住み、墓も設けられ、方牛の場所となっていたであろうという推測から、前回紹介した「業平塚」や牛嶋神社隣の塚は古墳ではないかと考えていたようです。

 『武蔵野及其周囲』にはこの塚について次のように書かれています。

 業平塚のあつた附近に今も尚ほ古墳の殘つて居る所があります。之は牛島神社の隣で、六月二十八日永峰氏の案内で八幡、大里、高澤氏等と共に之を見に行きましたが、まさしく古墳の跡であります。もとは圓形を呈して居つたが、今は池田候の墓が東側に出来た爲めに此の側は取り去られて居ります。今日では盛土の長さは南北で六間、東西で四間でありますが、昔は東西の四間は六間であつたでしやう。さうすると此の古墳は圓形のものとなります。高さは七尺、此の古墳ももとは尚ほ大きかつたでしやうが、一方は牛島神社の方から一方は寺の方から、古来土を段々自然に取り去られた爲め小さくなつたものと思ひます。今は塚の上は竹薮になつて居ります。此の古墳のある所の地形は稍や高い沖積土で、其隣は牛島神社、更に一方は葦の生えて居る水澤の地になつて居りますから、昔は此處は或浮洲の端の方であつたでありましやう。此の古墳は牛島神社に關聯し桓武天皇の王子の塚と申し傳へて居ります。私は此塚の傳説がもとで牛島神社と關聯する様になつたのではないかと思ひます。
 此の古墳もまた業平塚と共に見る可きもので、斯んな古墳は此の邊一帯に昔は存在して居つたものでは無からうか、尚ほ之と共に墨田川を距てゝ前岸の眞土山、淺草寺境内の諸古墳其他のものと相對して又共に見る可きものでしやう。(『武蔵野及其周囲』154~155ページ)


「墨堤常夜燈」

 画像は、墨田区向島5丁目に所在する「墨堤常夜燈」です。まだ照明が発達していない時代にはこの常夜燈の明かりが非常に重要な役割を果たしていました。この常夜燈の置かれている場所はかつて牛嶋神社の境内地で、牛嶋神社がまだこの付近にあった明治4年(1871)頃に、土手から神社へ下る坂の入口に立てられたといわれています。神社が隅田公園内に移転した後も、墨堤常夜燈はこの地に残されています。
 つまりは画像の常夜燈の奥のあたりが塚の所在地となるようですが、周辺は開発が進み、かつての牛嶋神社とともに塚の痕跡もすでに残されていないようです。

 昭和34年(1959)に発行された『墨田区史』では
 ある地域に古墳が築造されるためには、古墳を営みうる力のある豪族の存在がなければならず、同時にそのような豪族の発生はかなりの規模に発展した農耕社会を母胎とする背景を前提として初めて考えられるところである。古墳時代の終末に近いころにあつては、古墳を営む風習は広範囲の階層に及ぶのであるが、それでもなお相応の権力と経済力をもつた限られた階層のものにとどまつていた。少なくとも奈良時代以前の牛島が、相当の規模を示す農耕社会の存在を許す条件にあつたとは考えられない。他方当時の集落存在を裏づける土師器、須恵器の遺跡すら全く探知されていないのである。
 として、これにより
 須崎町の牛島神社旧地にあつた築山が古墳であるとする根拠は全くないといつてよいのである。
 と、鳥居氏が唱える古墳説を一蹴しています。

 しかしその後、昭和53年(1978)に発行された『墨田区史 前史』では
 (前略)鳥居博士による当時の写真並びに平面図を見るときは、このつかはいかにも円墳と受け取れる。最近の考古学は発掘主義で、掘って何か出なければ納得しないというやり方であって、これは確かに正しいのであるが、こうした発掘主義―最近では行政発掘などといういやな専門語が流行し、大規模工事の時などには必ずこれがつきまとう―がまだ流行しない時代の考古学者の診断を一概に否定し去ることはできない。調査の目的で発掘されない間にいつのまにか土木工事で壊されてしまったからである。牛島神社隣りの古墳が原始時代のものとすれば、これと業平塚とは相対的に考えられてもよいのではなかろうか。
 と、鳥居氏の古墳説に肯定的です。

 「業平塚」も「牛嶋神社隣の古墳」も消滅してしまった今、発掘調査により真相を知るにはなかなか困難な現状ではあるかもしれませんが、最新の調査によりそれまでの定説が覆された事例もあるわけで、やはり今後の調査に期待ですね。。。

<参考文献>
鳥居龍蔵『武蔵野及其周囲』
東京都墨田区役所『墨田区史』
墨田区教育委員会社会教育課『すみだの史跡文化財めぐり―北部編―』
現地説明版


人気ブログランキングへ

  1. 2017/10/15(日) 00:00:34|
  2. 墨田区
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「業平塚」

「業平塚」

 都営浅草線本所吾妻橋駅を地上に出て東に100mほどの、墨田区吾妻橋3丁目6番地付近にはかつて南蔵院という天台宗の寺院がありました。東京スカイツリーのたもとの街として観光客で賑わうこの地に所在したという南蔵院の寺域には、かつて「業平塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。

 画像は、南蔵院跡地周辺のようすです。江戸時代から「しばられ地蔵」で知られるこの寺院は関東大震災後に葛飾区水元に移転しており、その境内に存在したという業平塚とともにすでに痕跡は残されていないようですが、跡地前の浅草通り沿いの路上には、墨田区教育委員会による「南蔵院跡」の案内板が設置されています。


「業平塚」

南蔵院跡(しばられ地蔵と業平伝説)
                    所在地 墨田区吾妻橋三丁目六番

 この一画には、しばられ地蔵でよく知られる南蔵院という寺院がありまし
た。しばられ地蔵とは、大岡政談で一役買ったお地蔵様のことです。
 ある時、日本橋木綿問屋の手代が業平橋の近くで商品の反物を盗まれてしま
います。商いの疲れからお地蔵様のそばで居眠りをしていた間のことなので、
手がかりがまるでありません。そこで町奉行大岡越前守は一計を案じ、このお
地蔵様を犯人として縛り上げ奉行所に運びました。その上、お白州で地蔵の裁
きをする旨のお触れまで出したのです。この噂はたちまち広まり、お裁き当日
の奉行所は詰めかけた野次馬でごったがえし大混乱となりました。越前守は騒
ぎを起こした罰と称して、見物に集まった人々に一反ずつ反物を納めさせまし
た。すると、集まった反物の中には予想どおり盗品が混じっていました。越前
守は納め主を割り出して真犯人を捕らえ、事件は無事解決したのでした。
 この話から、南蔵院のお地蔵様を縛ってお願いすると、失くしたものが戻っ
てくるとか、泥棒よけのご利益があると信じられるようになり、しばられ地蔵
と呼ばれ、人々の信仰を集めるようになりました。
 一方、南蔵院の境内にはかつて業平天神社がありました。平安時代の歌人・
在原業平をまつったものといわれます。業平は、隅田川を舟で渡ったときに
「名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」と詠み
ました(『伊勢物語』)。現在も地名や橋の名前などに業平の名前を残している
のは、このことに由来しています。
 南蔵院は、昭和元年(一九二五)に葛飾区水元に移転しましたが、現在でも
しばられ地蔵の信仰と風習で知られています。
 平成二十一年三月
                           墨田区教育委員会


 案内板には業平塚についての記述は見られないようですが、江戸時代の地誌類には多くの記録が残されているようです。人類学・民族学者である鳥居龍蔵氏は、著書『武蔵野及其周囲』の中で『江戸名所記』に所載されている塚の記述を取り上げており、この記事と同書に掲載されている業平塚の図を根拠に、この塚の古墳説を唱えているようです。
 『江戸名所記』の「牛島業平塚」の項には
 そのかみ在原の業平朝臣は、二条の后の事によりて、東のかたにくだり給ひしとや、京やすみうかりけん、あづまのかたにゆきてすみ、ところもとむるとて、友とする人ひとりふたりしてゆきけりと、伊勢物語にかきたり、ある説に業平は東國に流され賜ひしといへり、しかるに業平すでに都にのぼらんとて、舟にのり賜ひしが、此ほとりの浦にて舟損じて、死給ひしを塚につきたりといへり、伊勢物語に東にくだりしとはありて、のぼられしとはかき侍らず、又ついにゆくの歌はありて、いづかたにて死なれしといふ事もみえず、さりながらかやうの事は、しいて吟味するに及ばずといへり、三代實錄には、元慶四年廿八日辛己、従四位上右近衛中將兼美濃守在原朝臣業平卒時年五十六としるせり、しかるに牛島の古老の傳に、此所にして舟損じて死なれしを塚につきこめたり、その在所の名も今に業平村といふ、塚の形ち、すなはち舟のごとくにて殘れりと也。(『武蔵野及其周囲』142ページ)
 と書かれています。


「業平塚」

 画像は、江戸名所記に掲載されている業平塚の図です。
 鳥居龍蔵氏は、この江戸時代に描かれた、一方が丸く突起し、また一方が低く描かれている業平塚の形状と、『江戸名所記』の中で「塚の形ち、すなはち舟のごとくにて殘れり」と記されていることからこれを「舟形式古墳」と命名、静岡県磐田郡に所在する「船塚」と呼ばれる古墳を参考として取り上げたうえで、業平塚は古墳であり、浅草寺境内の古墳や陶棺の出た駿馬塚、眞土山の古墳等と同一時代か、それよりも後の時代のものであるとしています。
 これに対して、昭和34年(1959)に発行された『墨田区史』では「古墳を形式的に分類するばあい、基準となるのは封土の形式であつて、そこにオリジナルな意味で舟形を呈する封土は存在していない。全国的に舟塚と呼ばれている古墳を調べると退化形式の前方後円墳の名称として用いられることが最も多く、その他舟にまつわる伝説を有するために名づけられたか、あるいは後世における変形のために偶然舟に似た形に見えるにすぎないばあいなどである。(中略)そこで業平塚がかりに古墳であつたとしても、おそらく後世における変形のため舟塚となつたか、舟に関する伝説から導かれて「舟のごとくにて」の表現を用いたものと考えなければならないであろうが、博士が「横から見ると瓢を長く真二つに割つた、其一つを地上に置いた様な形」と説明したことばを素直に受けとれば、むしろ前方後円墳とした方が適切であるとすべきである。にもかかわらず「舟のごとくにて残れり」とした記事にこだわり、あえて舟形式なる名称を用いたのは、前方後円墳がこの牛島のような中州に存在したとすることの無理を知つての結果であつたに違いない」と、鳥居氏の主張をバッサリと切り捨てています。

 私のような素人からすると、武蔵野台地と下総台地の間の沖積低地は古代にはすでに陸化されており、墨田区内にも前方後円墳が存在したのではないか、というロマンを追い求めたくなってしまうところですが、塚が消滅してしまった今、真相を知ることは出来ないようです。。。

<参考文献>
鳥居龍蔵『武蔵野及其周囲』
東京都墨田区役所『墨田区史』
墨田区教育委員会『墨田区の民間伝承・民間信仰』
現地説明版


人気ブログランキングへ

  1. 2017/10/13(金) 19:23:03|
  2. 墨田区
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「吾嬬神社」

「吾嬬神社」

 画像は、墨田区立花1丁目にある「吾嬬神社」を南から見たところです。
 この吾嬬神社の祭神は弟橘媛命を主神とし、相殿に日本武尊が祀られています。

 この神社の創始については次のような伝説が残されています。景行天皇の皇子日本武尊が妻の弟橘媛とともに相模国から相模国から上総国に遠征に向かっていたところ、一行は大嵐に巻き込まれてしまいます。舟が沈没してしまうほどの海の荒れ方に、弟橘媛が海神の怒りを鎮めるために海中に身を投げてしまいます。すると、まるで何事もなかったかのように海は穏やかとなり、一行は無事に房総半島に上陸することが出来ました。その後、日本武尊はこの地で、流れ着いた弟橘媛の肩掛けを見つけ、この遺品を埋めて塚に埋納し、玉垣をめぐらせました。そして弟橘媛のの霊を鎮めるために食事をして、その時に使っていた箸を「末代平天下ならんにはこの箸二本ともに栄ふべし」と祈りを込めて塚に突き刺したところ、枝葉を生じました。これを、めでたいことが起きる兆しとして神木としたのが「連理の楠」であるといわれています。


「吾嬬神社」

 吾嬬神社境内のようすです。
 吾嬬神社の拝殿は、伝説にいわれているように塚の上に建てられています。

 吾嬬神社境内の案内板には次のように書かれていました。

 往時は吾嬬の森八丁四方と云はれまた浮洲の森とも呼ばれこんもりと茂った森林の神域にあった名社である 草創は遠く景行天皇(十二代)の頃にさかのぼり御祭神は弟橘媛ノ命を主神とし日本武尊ノ命を御合祀奉斉してあります。正治元年(一一九九)北條泰時が幕下の葛西領主遠山丹波守らに命じて神領三百貫を寄進し社殿を造営した 嘉元元年(一三〇三)開創の真言宗宝蓮寺現亀戸四丁目を別当寺とし吾嬬大権現と称した 以後武家の尊崇があって安永三年(一七七四)大川橋の新設にあたり江戸から当社えの参道にあたるところから橋名を吾妻橋と称したともいゝ、明治二十一年に数村を合せて吾嬬村と称したのは時の府知事高崎五大の発案で社名をとったのである。
 抑当社御神楠は昔時日本武ノ命東夷征伐の御時相模の国に御進向上総の国に到り給はんと御船に召されたるに海中にて暴風しきりに起り来て御船すでに危ふかりしに御后橘媛ノ命海神の心を知りて御身を海底に沈め給ひしかば忽海上おだやかに鎮りたり時に一つの島忽然と現れ到る心を知りて御船をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひてあゝ吾妻恋しと宜ひしに俄かに東風吹き来りて橘媛ノ命の御召物海上に浮び磯部にたじ寄らせ給ひしかば尊大きに喜ばせ給ひ橘媛ノ命の御召物を則此浮洲に納め築山をきづき御廟となしたりこれ現在の御本殿の位置なり此時尊は食し給ひし楠の御箸を以て末代天下平安ならんには此箸忽ち根枝を生じし処葉茂り連理の男木女木となれり神代より二千有余年の星霜おし移ると云へ共尚梢えの色変らず栄えし処名樹も第二次大戦の災禍を被り焼け落ちて化石の如き姿で残った其一部を以て賽銭箱を造り御神前に永く保在される事となった以後御神徳に依る数々の奇瑞を現わし諸人の助けとなりたる神樹を惜みて明治維新百年祭を記念して元木に優る名樹に成長を祈念しつゝ二本の若木が植えられた爾来十年余念願成就の兆し現れ日毎に葉茂り枝栄えたりこれこそ御神木の再生ならんと此由来を御世に伝えんと略してしるす也



「吾嬬神社」

 築山を、角度を変えて南西から見たところです。『東京都遺跡地図』で確認すると、参道と境内の敷地が「墨田区No.2遺跡」という名称の包蔵地として登録されており、縄文土器が出土しているようです。
 人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵氏は、著書『上代の東京と其周圍』の中で、この築山を古墳であるとして紹介しています。これが古墳であるとすればおそらくかなり改変されており、元々はかなり大きな古墳だったのではないかと考えられますが、この地域の成り立ちを考えると古墳とは考え難い様にも思います。
 果たしてこの築山は古墳だったのでしょうか。。。


「吾嬬神社」

 吾嬬神社拝殿のようす。


「吾嬬神社」

 由緒書にも書かれていた「連理の楠」の現在のようすです。一つの根から二本の幹が出ていることから「相生の樟」と呼ばれていたようです。
 『本所雨やどり』には、この樟の葉を煎じて呑むと病気に効くと信じられていたことが記されており、全快した人が納めたお札の赤い幟が数多くはためいていたようすが錦絵に見ることが出来ます。


「吾嬬神社」

 拝殿の背後はさらに一段高くなっており、本殿が祀られています。
 現地で確認したところでは、吾嬬神社の築山は南北に細長い形状をしています。ひょっとしたら、北側が後円部で、南側が前方部という前方後円墳だったのではないかとも考えられます。
 文京区の「富士神社古墳」が前方後円墳であるならば、この吾嬬神社だって十分に前方後円墳に見えるよ!と心の中で叫んでみました。。。


「吾嬬神社」

 鳥居龍蔵著『上代の東京と其周圍』ではこの吾嬬神社についての詳しい記述は見られないのですが、同書226ページには大正時代の吾嬬神社の写真を「吾嬬の森の古墳」として紹介しています。画像がその吾嬬神社の写真です。
 この写真からすると、築山自体が古墳というよりも、社殿の背後の円形の塚を指して古墳であるとしている可能性も感じます。真相はどうなのでしょうか。。。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
墨田区教育委員会『墨田区の民間伝承・民間信仰』
現地説明版


人気ブログランキングへ

  1. 2017/10/11(水) 03:19:13|
  2. 墨田区
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

カテゴリ

足立区 (14)
伊興古墳群 (4)
その他の古墳・塚 (10)
葛飾区 (13)
立石古墳群 (3)
その他の古墳・塚 (10)
板橋区 (46)
志村古墳群 (10)
その他の古墳・塚 (36)
北区 (26)
赤羽台古墳群 (2)
十条台古墳群 (2)
飛鳥山古墳群 (8)
田端西台通古墳群 (1)
その他の古墳・塚 (13)
荒川区 (28)
尾久の微高地 (4)
町屋-三河島の微高地 (19)
南千住の微高地 (3)
日暮里の台地上 (2)
台東区 (11)
上野台古墳群 (5)
その他の古墳・塚 (6)
墨田区 (3)
江戸川区 (0)
練馬区 (7)
豊島区 (2)
文京区 (8)
杉並区 (17)
中野区 (17)
新宿区 (17)
千代田区 (7)
目黒区 (8)
渋谷区 (18)
港区 (4)
品川区 (22)
品川大井古墳群 (7)
その他の塚 (15)
大田区 (94)
田園調布古墳群 (34)
鵜の木・久が原古墳群 (8)
その他の古墳・塚 (52)
世田谷区 (54)
都指定史跡 野毛大塚古墳 (0)
野毛古墳群 (13)
砧古墳群-殿山古墳群 (9)
砧古墳群-大蔵古墳群 (0)
砧古墳群-砧中学校古墳群 (2)
砧古墳群-喜多見古墳群 (13)
砧古墳群-その他 (6)
その他の古墳・塚 (11)
三鷹市 (4)
狛江市 (43)
狛江古墳群-和泉支群 (17)
狛江古墳群-岩戸支群 (3)
狛江古墳群-猪方支群 (23)
その他の古墳・塚 (0)
調布市 (55)
国領南古墳群 (2)
下布田古墳群 (16)
上布田古墳群 (7)
下石原古墳群 (2)
飛田給古墳群 (17)
その他の古墳・塚 (11)
府中市 (77)
史跡 武蔵府中熊野神社古墳 (2)
白糸台古墳群 (14)
高倉古墳群 (32)
御嶽塚古墳群 (19)
府中市内の塚 (10)
国立市 (24)
下谷保古墳群 (12)
青柳古墳群 (3)
その他の古墳・塚 (9)
立川市 (14)
稲城市 (0)
多摩市 (4)
和田古墳群 (4)
多摩市内の塚 (0)
日野市 (33)
平山古墳群 (7)
西平山古墳群 (5)
七ッ塚古墳群 (8)
万蔵院台古墳群 (4)
その他の古墳・塚 (9)
町田市 (5)
能ケ谷香山古墳群 (0)
その他の古墳・塚 (5)
八王子市 (10)
昭島市 (3)
浄土古墳群 (1)
その他の古墳・塚 (2)
あきる野市 (47)
森山古墳群 (3)
草花古墳群 (14)
御堂上古墳群 (4)
瀬戸岡古墳群 (7)
牛沼古墳群 (3)
その他の古墳・塚 (16)
日の出町 (2)
青梅市 (11)
古墳空白地域 (19)
西東京•清瀬•東久留米市 (0)
小金井•小平•国分寺市 (0)
東村山•東大和•武蔵村山市 (7)
福生市•羽村市•瑞穂町 (12)
栃木県の古墳 (13)
那須町•大田原市•那珂川町 (8)
宇都宮市•鹿沼市 (0)
壬生町•上三川町 (5)
群馬県の古墳 (0)
茨城県の古墳 (5)
神奈川県の古墳 (2)
千葉県の古墳 (1)
長野県の古墳 (6)
未分類 (2)

最新記事

最新コメント

検索フォーム

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QR