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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「蓬莱稲荷大明神」

「蓬莱稲荷大明神」1

 今回紹介するのは、足立区竹の塚2丁目に所在する「蓬莱稲荷大明神」です。

 駐車場の奥の木立になっている場所が蓬莱稲荷社で、周囲を石垣で囲まれてはいるものの1mほどの高さの塚が残されており、その塚上に蓬莱稲荷の祠が祀られています。


「蓬莱稲荷大明神」2

 南東から見た蓬莱稲荷です。

 この一帯は、特に遺跡として登録されているというような場所ではないのですが、この近隣にはかつて一里塚が存在したという伝承が残されており、ひょっとしたら何か痕跡が残されていないだろうかと気になっていました。
 それで、竹塚神社や鷲神社の参拝のあとにウロウロと散策したわけですが、おそらく何も収穫はないだろうと想定していたので、この塚を見つけた時にはびっくりしました。
 おそらく一里塚とは無関係で、古墳である可能性もなさそうに思われる塚ですが、宅地化が進んだこの地域においては貴重な存在かもしれません。


「蓬莱稲荷大明神」3

 この角度からだと石段が見えるので、塚の高さが想像できると思います。

 この増田橋の一帯は日光道中の立場(街道の宿場と宿場の中間の小休所)で、江戸時代まではかなり賑わったそうです。そして、増田橋の周辺には「亀屋」という店が何軒かあり、繁盛していたそうです。
 角亀山沢家の屋敷神ともいうべきこの稲荷の祠には「正一位 蓬莱稲荷大明神 角亀 山沢」とあり、亀屋の守り神として手厚く祀られてきたようです。


「蓬莱稲荷大明神」4

 ひょっとしたらここが二の鳥居だったのかもしれませんが、まるでアニメのワンシーンのような、とても幻想的な社ですね。
 真夏に訪れたのが失敗だったのですが、ミンミンゼミが私に向けておしっこを噴射して、ババババっと飛び去って行きました。。。


「蓬莱稲荷大明神」5

 塚上に祀られている祠。

 境内に立て札が建てられていて、「正一位 蓬莱稲荷大明神 当稲荷神社は創建約弍百年位有する社です。大震災や戦争の時や戦後の数多の災害も当地域周辺は平穏無事に守って頂いています。 令和弍年八月 記」と書かれていました。

 この地域の長い歴史を感じます。。。


「蓬莱稲荷大明神」6

 南の駐車場の側から塚上の祠を見たところです。

 偶然に見つけたお稲荷さんでしたが、お参りできてよかったです。。。

<参考文献>
足立区郷土博物館『足立風土記高ー地区編9・渕江』


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  1. 2020/08/21(金) 00:30:52|
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「竹塚神社」


 つい先日、東部伊勢崎線竹ノ塚駅東にある「竹塚神社」から「鷲神社」、花畑の「大鷲神社」あたりまで、ぶらりと御朱印巡りに出かけてきました。

 どこも、古墳や塚巡りに関連して過去に一度は参拝したことのある神社なのですが、最近、足立区の古墳に関する記事を書いていたこともあり、もう一度ゆっくりと歩いてみたくなりました。
 どうせ行くなら、以前散策した際に見逃してしまっていた塚も見学に行けるぜ!ということで、御朱印帳とカメラを持って出発しました。


「竹塚神社」1

 画像は、竹の塚6丁目所在の「竹塚神社」です。

 この神社の境内には天喜四年(1056)、奥州東征の際に源頼義父子が宿陣したと伝えられており、大将頼義が戦勝祈願の後植えたといわれる松が「お手植の松」と呼ばれていたそうです。そしてその約800年後、嘉永二年(1849)六月六日にこの松の大樹は雷火により枯れてしまいますが、社殿改築の時期であったことから資材の一部として使用されたといわれています。

 境内に建てられている『竹塚神社 由緒』の石碑には「天喜四年源頼義公奥州東征の折、當社境内に宿陣相成り、明治年間に至るまで境域に環壕が存し、本営の奮跡と傳へられる。」と刻まれていました。
 竹塚神社周辺からは鬼高式土師器や須恵器が出土しており、また竹の塚5丁目の延命寺境内とその周辺からもやはり土師器や須恵器が出土しているそうです。
 多くの伝承が史実か否かはなんとも言えないところですが、環壕が存在したというあたりからは古墳の存在を妄想してしまいます。ひょっとしたらこの竹塚神社も、古墳の跡地に建てられているのではないかと想像したくなってしまいます。。。


「竹塚神社」2

 本殿と境内の様子です。

 ちなみにこの地域の現在の住居表示は「竹の塚」となっていますが、古くは「竹塚」と書いて「たけのつか」と呼んでいたそうです。だから「竹塚神社」なんですね (*^_^*)

 この地名は、周辺の保木間や六月よりも知られていたらしく、近世の地誌類には、六月村内にあった一里塚が「竹塚一里塚」、また保木間村内の「増田橋立場」が「竹塚立場」などと書かれているようです。

 「竹塚」の名称についての伝承はよくわからないようですが、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の竹塚村の項には「伊興村ノ境ヲ云 此地ニ小キ塚二ツ三ツアリ」と塚(古墳の可能性が高い)の存在が記されています。
 また、文政9年(1826)の墓誌集『埋木花』には「右の保木間より江戸の方へ隣村カセイ領竹塚村也、是ハ千住より日光道草加宿迄之間、建場茶屋ある村也、竹塚とハいえとも、今は塚の類もなきよし、案に領ハたがへとも隣村にはやつかあり、いつれ此近辺塚によつてむかし村名をしものか、定めて故ある村々の塚ありしなるへし、」とあり、江戸時代後期にはまだ多くの塚が点在しており、また毛長川を挟んだ北側の草加市谷塚とも関連があるのではないかと推測しています。

 この神社が古墳の跡地に建てられたかどうかは私の憶測に過ぎませんが、竹の塚の地名が古墳に由来する可能性は高いのかもしれません。。。


「鷲神社」1

 さて、この後、足立区島根4丁目にある「鷲神社」に移動しました。
 竹塚神社はこの鷲神社の兼務社なので、御朱印も鷲神社で頂けます。

 我が『古墳なう』では以前に一度、この神社にある「島根富士」という富士塚を取り上げました。
 その時以来、2度目の参拝です (*^_^*)


「鷲神社」2

 社殿は氏子中の寄進により、昭和31年9月に再建されているそうです。
 祭礼時に神楽殿で奉納される「島根ばやし」は昭和57年12月に、島根神代神楽は昭和63年11月に、それぞれ足立区登録無形民俗文化財となっています。
 また、境内に京和二年(1802)在銘の明神型石造鳥居は、千住4丁目の石工・保永助七の手によるもので、昭和60年11月に足立区登録有形文化財(建造物)となっています。
 とても立派な社殿ですよね。。。


「鷲神社」3

 「島根富士」も健在でした。


「鷲神社」4

 発泡スチロールで稲が育てられている光景がほっこりしました。
 このあたりはかつては農業が盛んだった土地ですからね。
 その名残なのでしょうか。

 かなりいい感じで育っています。。。


「竹塚神社」3

 竹塚神社の御朱印。
 見ている目の前で、筆で書いていただきました。


「鷲神社」5

 鷲神社の御朱印。

 もはやメールとかLINEばっかりで、文字を書く機会がどんどん減ってきていますが、私も子供の頃は母親にお習字を習っていてちゃんと筆で書いていたのですが、今はもうきっと書けません。

 日本人の魂は、いつも神社に残っているなあとしみじみ思います。。。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-804.html(2017/11/15(水)『鷲神社』)

<参考文献>
足立区郷土博物館『足立風土記高ー地区編9・渕江』
現地説明板


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  1. 2020/08/19(水) 20:41:34|
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「花畑と竹の塚周辺の塚跡かもしれない場所」

花畑3-8

 前回に引き続き、今回も足立区花畑地区周辺の塚跡探し。

 画像は、足立区花畑3丁目8番地周辺の様子です。
 古地図で確認して、この区画に塚のマークが記されていたことから見学に訪れてみたのですが。。。


花畑3-8

 この番地の北西角、駐車場となっている一角に鳥居と祠が祀られているのを発見しました。
 この場所が古墳跡かどうかは不明ですが、古地図に記されていた塚状地形とは何か関係がありそうな感じです。。。


花畑3-8

 南東から見たところ。


花畑3-8

 古地図に記されていた塚状地形の位置からすると、宅地化が進んだこの地域において、この草ボウボウの藪になっている地点の方がよっぽど怪しそうな感じ。

 真相はわかりませんが、ここが塚跡かな???


花畑3-9

 足立区花畑3丁目9番地あたり。
 この区画にも塚のマークが記されていましたが、塚らしき痕跡はなし。

 宅地もも進んでいますし、なかなか難しいですね。。。


花畑3-17

 花畑3丁目17番地あたり。
 この区画にも塚のマークが記されていましたが、痕跡なし。


花畑3-17

 この区画には「実性寺」というお寺がありました。
 境内に古墳の痕跡が残されていないものか、念の為チェックしてみましたが。。。


花畑3-17

 墓所内の様子です。
 やはり古墳や塚らしき存在は発見できません。


竹の塚5-21

 保木間5-21あたりにも塚のマークが。
 駐車場となっているあたりが塚のマークの地点ですが、痕跡はまったくありません。


保木間5-21

 竹の塚5丁目21番地。
 角の駐車場あたりが塚の跡地かと思われますが、もはやまったく痕跡なし。

 毛長川からは多少距離があるのですが、このあたりにもいくつかの塚が存在したともいわれています。古地図の塚マークはとても気になるところですが、残念ながらどんな性格の塚が存在したのか、真相はわかりません。

 さらに次回に続きます。。。


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  1. 2020/08/17(月) 00:58:34|
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「花畑地区周辺の塚状地形」

花畑地区周辺
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1180682&isDetail=true)


 前回は、古墳の跡ではないかといわれる、足立区花畑5丁目所在の「花畑浅間神社富士塚」を取り上げました。

 そもそもこの一帯は、かつては多くの古墳が存在したのではないかと想定される、とても興味深い地域です。
 同じ毛長川の上流には「入谷古墳」や「白旗塚古墳」が現存しますし、下流には「一本松古墳」、「白山塚古墳」といった多くの古墳の伝承が残されています。また、毛長川左岸にあたる草加市側にも「谷塚」という地名とともに多くの塚の伝承が残されており、古墳群の存在が想定されています。
 そこで、古地図に塚らしきマークが記されている場所や、まだこの周辺の土地が農地として使用されていた戦後の空中写真を調べて、花畑や谷塚周辺を散策してみました。

 最初の画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)11月28日に米軍により撮影された、花畑地区周辺の空中写真のようすです。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。

 一番左に見えるのが、前回紹介した花畑5丁目所在の「花畑浅間神社富士塚」です。一面に広がる農地の中に浅間神社の敷地のみが木立となっていて、小高く盛り上がっている様子も確認することができます。
 この空中写真からすると、形状が方形を呈しているようにみえるのですが、古墳であれば方墳であったのか、それとも何か宗教的な目的で造られた塚であったのか、とても興味深い形状です。

 そして、もっと気になったのがその右側、画像の中央やや左側に見える、前方後円形の地形です!


花畑5-11

 拡大してみたところです。
 今までも、東京都内のこういった古墳かもしれない地形を (無駄に) 取り上げてきましたが、これを見つけた時も「まじかあああ!」とそれは胸が高鳴りました。笑。(こんなんで胸が高鳴るわけですから安上がりな男ですね、私は。笑)

 後円部の周囲には、円形の形状にに沿って木が植えられているように見えます。ちょうどくびれ部のところを農道が突っ切っている状況でしょうか?少なくともこの写真では、小高く盛り上がっているようには見えません。。。
 もし本当に古墳であれば、周囲の農地の部分に周溝の痕跡が残っていそうなものですし、これは古墳ではなく偶然にできた自然地形なのかなあ?とも感じます。

 念のため、現地に行ってみました。


花畑5-11

 前方後円形の場所の現在の様子です。
 なんとなくだいたいこのあたり、という感じです。
 手前が後円部、奥が前方部という状況でしょうか。。。

 小高くなっているようにも見えませんし、古墳らしき形状も残されていません。
 痕跡は何も存在しないようです。

 立地的には、前方後円墳の存在は十分に考えられるように思いますが、果たしてこの場所に存在したのかどうか、確認することはできませんでした。


足立区花畑5-13

 前方後円地形の東方に見える塚状地形を拡大した画像です。
 先ほどの前方後円地形は古地図には何も記されていなかったのですが、この南北に長い地形は、古地図にも塚のマークが記されていました。少なくともなんらかの高まりが存在したのは間違いないようです。
 うがった見方をすると、南が前方部、北が後円部という小型の前方後円墳の残骸か?とも考えられます。
 これも、現地に確認に向かいましたが。。。


足立区花畑5-13

 現在、「ベルクス足立花畑中央店」というスーパーマーケットの敷地となっている、画像の奥のあたりが塚の所在地であると思われます。当然ながら、古墳らしき痕跡はなにも見ることができません。
 ま。古墳かどうかはぶっちゃけよくわかりませんね。笑。


八角形墳?

 1枚目の空中写真のもっとも東方、毛長川沿いに存在したらしき不思議な地形。
 これも、うがった見方をすると「八角形墳の残骸か?」とも思いたくなるところですが、やはり正体はまったくわかりませんでした。
  これも、現地に確認に向かってみましたが。。。


毛長公園の石碑

 このあたりか?と見に行ってみた周辺には、塚状に盛り上がった上に「毛長公園」の石碑が建てられていました。
 かつてゆるゆると蛇行していた毛長川は、改修工事が行われていて直線的になっています。周辺の地形も変わっていますので、八角形の塚状地形とこの石碑の場所がぴったり重なるかどうかは微妙なところですが、この地に八角形墳が存在したかもしれないとすれば、とても夢のある話です。


花畑公園のモニュメント

 同じ、毛長公園内にで見かけたモニュメント。
 「ぷ。葺石が完璧に残る古墳だよ」と妄想。

 右側は「世界一高い山 エベレスト8848M」。
 左側が「日本一高い山 富士山3776M」。


花畑公園のモニュメント

 一番小さな山には「東京一高い山 雲取山2018M」と表示されています。
 雲取山が東京一高い山は知らなかったですね。。。


花畑2丁目14番地

 右に見えるのは綾瀬川。
 川の奥は花畑2丁目14番地あたり。
 古地図で確認すると、画像中央のあたりに塚状の地形が記されているのですが、ここももはや痕跡はまったく見られません。


八潮市大字浮塚

 さらにその対岸。
 綾瀬川の向こうの八潮市側にも塚状のマークが記されているのですが、こちらもまったく痕跡なしです。

 この、花畑と谷塚の痕跡巡りは、まだ続きます。。。


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  1. 2020/08/15(土) 19:50:28|
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「花畑浅間神社富士塚(花又富士・野良浅間)」ー足立区登録有形民俗文化財ー

花畑浅間神社(花又富士・野良浅間)1

 今回紹介するのは、足立区花畑5丁目10番地に所在する「花畑浅間神社」です。この神社は「花又富士」と呼ばれる富士塚でもあり、また北側を流れる毛長川流域には数多くの古墳や遺跡が確認されていることから、この神社の塚状の地形は古墳ではないかとも考えられているようです。


花畑浅間神社(花又富士・野良浅間)2

 鳥居をくぐると、周囲よりも一段高くなった境内の様子を見ることができます。
 いかにも神社古墳らしき光景です。

 この地域は、現在でこそ日本住宅都市整備公団の団地が整然と並ぶ町並みとなっていますが、1960年代から70年代半ば頃までは一面見渡す限りの田園地帯で、この水田の中にポツリと塚状に盛り上がった一角があり、そこに浅間神社の石祠が祀られていたそうです。このことからこの神社は地元の人には「野良浅間」とも呼ばれていました。

 この野良浅間には次のような言い伝えが残されています。

 神社は元々は綾瀬川と毛長川の合流地点、現在の大鷲神社の裏手あたりにあったそうです。康平年間(1058~1065)末頃に、村人が大鷲神社を祀る場所を、野良浅間の真南直前に決めましたが、大鷲神社の信仰が高まるにつれ、野良浅間を参拝する人の数は日に日に少なくなっていったそうです。
 それがある夜、一天にわかに曇り烈風人馬を巻き上げるように吹きまくり、百雷一時に落ちるごとき音と、滝のような豪雨が降りました。嵐が去り、村人たちが浅間神社が無事かどうか見に行くと、どうしたことか神社は忽然と消え失せていました。驚いた村人が探すと、南西の富士山の方向に点々と血の滴る跡が続いており、水田の中に浮かぶ小丘の上に浅間社の御神体が安置されていました。
 これを見た村人は、浅間神社の前に大鷲神社を建てたことから、木花咲耶姫命が浅間の本社である富士山に向かって逃げようとして、その無念の血痕を流したのかと語り合い、この地に御神体を奉祀して数日お参りをして、霊を慰めました。それ以降は、災難水渦がなくなったといわれています。

 元々の所在地とされる「大鷲神社の裏手」というのもとても気になるところです。大鷲神社の西側には「一本松古墳」と「白山塚古墳」という2基の古墳が登録されており、多くの古墳が存在したとされる地域です。
 綾瀬川と毛長川の合流地点に浅間神社が存在した、というとやはり古墳の墳丘上に祀られたのではないか、などと妄想してしまいますが、この野良浅間の旧地がどこになるのか正確な位置は特定することはできません。。。


花畑浅間神社(花又富士・野良浅間)3

 『足立区歴史散歩』には、「日本住宅公団でここを区画整理する時、これを古墳跡と考えた考古学者によって調査も行われたが、さしたる収穫もなく、現状のような形となった」と書かれています。
 「さしたる収穫もない」という状況が、例えば墳丘に古墳に見られる版築が見られなかった、ということであれば、この塚は古墳ではなかったと断定できるかもしれませんが、この調査の内容が果たしてどのようなものだったのか、詳細はよくわかりませんでした。。。
 

花畑浅間神社(花又富士・野良浅間)4

 さて、ここから冬の写真に変わります。
 墳丘上に築造された富士塚の様子です。

 下草が枯れる冬の方が色々と観察できますよね。笑。


花畑浅間神社(花又富士・野良浅間)5

 墳丘上に築造された富士塚の様子です。

 最近お訪れた際には新しい令和元年の説明板が設置されていましたので、建て替えられたようです。説明板には次のように書かれていました。

 花畑浅間神社富士塚
 富士塚とは、富士山を信仰する人々の集団である富士講によ
って築造された塚である。
 富士山の溶岩石を使用して小山を築き、頂上には浅間神社の
祠を祀り、烏帽子岩、小御嶽社をはじめ、実物の富士山と同様
に各名所を配すのが一般的であり、登山して参拝できるように
なっている。
 富士信仰は、文化•文政年間(1804-1829)に江戸を中心とし
て爆発的に広まり多くの講中が結ばれ、講の発達に伴い富士塚
の築造も盛んに行われるようになった。
 この富士塚は、千住神社、保木間氷川神社の富士塚と同じく
伊藤参行を講祖とする丸参講による築造である。築造年代は明
らかではないが、石鳥居の年代や伝承より明治初年と考えられ
ている。また、花畑大鷲神社には、この講中により明治五年の
記年のある富士登山絵馬が奉納されている。
 花畑浅間神社は社殿を持たず、富士塚の頂上に祀る浅間社を
そのまま社名とし「野浅間」といわれている。
 神社の北側を流れる毛長川流域には、多くの古墳や遺跡の存
在が確認されており、この神社もその形態から古墳を利用した
ものと考えられており興味深い。
 昭和五十九年十一月、足立区有形民俗文化財に登録されてい
る。
 平成七年三月
                    足立区教育委員会


 ちなみに間違えて平成7年の説明板を書き写してしまいましたが、令和元年のものもほとんど変わらない内容だったので、このまま直さずに掲載します。。。


花畑浅間神社(花又富士・野良浅間)6

 富士塚の頂上に祀られている祠です。

 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の「花又村」の項には「浅間社二字一ハ正覚院持、一ハ法泉寺ノ持ナリ」と記されています。つまり、元々はこの地域に二社存在した浅間神社が、明治四年(1871)に合併されています。
 明治六年(1873)には、大鷲神社に合祀されて境外摂社となり、その後昭和21年(1946)6月に宗教法人として独立し、浅間神社として現在に至っているそうです。


花畑浅間神社(花又富士・野良浅間)7

 富士塚の頂上から振り返って見下ろしてみたところ。
 思っていたよりもずっと高さがあり、ちょっとびっくりしました。笑。
 最近私は足腰に自信がないので、気をつけなければ。。。


花畑浅間神社(花又富士・野良浅間)9

 南西から浅間神社を見たところ。
 墳丘上は石垣により方形に成形されているのですが、ちょっと離れたところから見るとこの敷地全体が小高く盛り上がっている様子を見ることができます。
 やはりここは古墳の跡なのでしょうか。。。


花畑浅間神社(花又富士・野良浅間)8

 地元の古老の伝承によると、戦前の頃には境内にあった池に作った竹の支えにわらの大蛇をかけ、稲わらを燃やして「おたきあげ」と称し、20人程の代表が「コノハナサクヤヒメ」の祝詞を唱えて雨乞いをしたといいます。

 小山市間々田の「じゃがまいた」にちょっと似ている気がしますが、こういったお祭りが都内で継続されるのはなかなか難しいかもしれませんね。。。


花畑浅間神社(花又富士・野良浅間)10

 最後は夏の写真に戻って、北西から見た花畑浅間神社の様子です。
 やっぱり、古墳ではないかと考えたくなってしまいますが、真相やいかに!という感じですね。

<参考文献>
学生社『足立区歴史散歩』
足立区郷土博物館『足立風土記高ー地区編8・花畑』
足立区教育委員会『ブックレット足立風土記8花畑地区』
現地説明版


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  1. 2020/08/13(木) 22:53:14|
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「諏訪塚」

足立区「諏訪神社」1

 画像は、足立区六木3丁目にある「六木諏訪神社」を南東から見たところです。

 祭神は建御名方神であるというこの六木諏訪神社は創建年代は不詳とされているようですが、旧六ツ木村の鎮守社であったといわれています。

 足立区教育委員会より発行されている『ブックレット足立風土記⑧花畑地区』によると、江戸時代後期に幕府が編纂した地誌『新編武蔵風土記稿』には、

「村ノ鎮守ナリ、此社ヨリ二丁許北ニ当リテ諏訪塚ト云少シノ塚アリ、当社昔ハ彼所ニアリシト云、末社稲荷社」

 と書かれていおり、つまり、当時この場所から2丁ほど北方に諏訪塚という小さな塚があり、元々の諏訪神社はそこにあったことが記されています。足立区教育委員会より発行された『足立風土記稿ー地区編8・花畑』によると、この諏訪塚は古墳であったと考えられているようです。

 その後、明治12年(1879)に作成された『神社明細帳』によると、六木村内にあった高木神社がこの諏訪神社に合祀されているようです。さらには『東京都神社名鑑』に「千葉氏亡びてのち六ツ木村が成立した。のち星野梅三名主となるや、境内地として四百坪を寄進し、諏訪塚より奉還する」とあり、江戸時代に境内と社殿ができたようですが、江戸時代に諏訪神社があったという諏訪塚と呼ばれる古墳らしき塚の正確な所在地は、判明していないようです。

 まずは、現在の六木諏訪神社を訪れてみました。。。


足立区「諏訪神社」2

 画像が、現在の諏訪神社の境内のようすです。
 驚いたことに、社殿は塚状に小高くなった上に建てられています。

 もともとあった「諏訪塚」は古墳ではないかと想定されているようですが、現在地にも古墳らしき塚が元々あり、そこに移転された、つまり諏訪神社は古墳から古墳へと移された神社であるということなのでしょうか。
 それとも、元々の諏訪神社の所在地が実はこの場所で、この高まりは古墳の残存部分であるとも考えられるかもしれません。

 足立区内には、社殿の場所がこうして塚状に一段高くなっているという神社がかなり多く存在するように思いますし、もちろんその全てが古墳に関係するマウンドであるとは言い切れませんが、とりあえずこの諏訪神社はとても気になる存在です。。。


足立区「諏訪神社」3

 画像は、六木諏訪神社社殿の土台となっている塚状地形全景を南から見たところです。
 これが古墳跡だとすれば、意外と大きな古墳だったのかもしれません。


足立区「諏訪塚」1

 さて、『新編武蔵風土記稿』によると、現在の諏訪神社の場所から2丁ほど北方(約218m)に「諏訪塚」が存在したことが記されています。
 Googleマップでこの地域を確認すると、埼玉県八潮市大字垳102番地にあたる場所に「垳稲荷神社」という名称の神社が祀られているのを発見しました。
 早速、この垳稲荷神社も尋ねてみました。。。


足立区「諏訪塚」2

 画像は、「垳稲荷神社」を南東から見たところです。
 なんと!驚いたことに、この神社の境内も、六木諏訪神社と同様に塚状に一段高くなった場所に社殿が建てられています。ひょっとしたらこの高まりが諏訪塚と呼ばれる塚の名残で、古墳の残存部分である可能性も考えられるのではないか、というとても興味深い状況です。。。

 というわけで今回はここまで。
 この続きはまたいずれ。
 八潮市の調査が進展した際にあらためて取り上げようと思います。。。

<参考文献>
東京都神社庁『東京都神社名鑑』
足立区教育委員会『足立風土記稿ー地区編8・花畑』
足立区教育委員会『ブックレット足立風土記⑧花畑地区』





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  1. 2020/07/20(月) 23:55:20|
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「一本松古墳」

足立区「一本松古墳」

 「一本松古墳」は足立区花畑7丁目に所在したとされる古墳です。
 『東京都遺跡地図』には足立区の遺跡番号22番の古墳(円墳)として登録されています。

 この一本松古墳については『足立区史』には、「現在の毛長堀改修工事により取り壊され姿を失った。」と書かれています。『足立区史』は昭和30年に発行されていますので、この記述からすると、おそらく昭和20年代後半頃までは痕跡が残されていたということになります。
  道路脇の畑中に存在していたという一本松古墳は、この当時の郷土誌類にモノクロの写真が残されており、わずかに残る塚上にその名の通りの大きな松の大木がそびえ立つという古墳の姿を見ることが出来ます。また、昭和20年代の地形図や戦後の空中写真にもそれらしき跡を見ることができます。

 古墳はその後、毛長掘改修工事のために取り崩されて消滅していますが、この工事の際に円筒埴輪片1片と土師器が出土したといわれています。これらの遺物は残念ながら現存しないようですが、少なくともこの地に古墳が存在したことはまちがいないようです。。。

 多くの地形図に位置が記されているこの一本松古墳は、隣接した白山塚古墳とともに、だいたいこのあたり!という程度には所在地を特定することが出来るのですが、跡地と睨んで訪れた場所にはなんと!都営花畑アパートの給水塔がありました。
 『足立区史』に掲載されていた、昭和20年代の一本松古墳の姿とあまりにも被って見えてしまって、給水塔を一本松に見立てて撮影しました。(土台も塚状に盛り上がっているし。笑)

 古墳の所在地がぴったりこの地点かどうかは不明です。。。

<参考文献>
東京都足立区役所『足立区史』
東京都足立区役所『新修 足立区史』


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  1. 2020/07/18(土) 01:17:50|
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「白山塚古墳」

足立区「白山塚古墳」

 「白山塚古墳」は足立区花畑7丁目に所在したとされる古墳です。
 『東京都遺跡地図』には、足立区の遺跡番号21番の古墳(円墳)として登録されています。

 この白山塚古墳について『足立区史』には、「此の塚は農耕のため、四周けずられ昔の状態を留めないが、もとは円墳と推定される。」と書かれています。
 『足立区史』は昭和30年に発行されていますので、この記述からすると、おそらく昭和20年代後半頃までは痕跡が残されていたということになります。
 古墳は残念ながら、その後の花畑団地の建設工事により消滅してしまったようです。

 画像は、大雑把に古墳の跡地はこのあたりかなあ?という感じです。
 何も痕跡は残されていないようです。。。
 
<参考文献>
東京都足立区役所『足立区史』
東京都足立区役所『新修 足立区史』


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  1. 2020/07/16(木) 21:26:50|
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「六万部経塚」

「六万部経塚」

 画像は、足立区伊興3丁目に所在する「六万部経塚(題目塚)」を北から見たところです。

 『東京都遺跡地図』には、足立区の遺跡番号16番の「経塚」として登録されています。

 この経塚は、今も住宅街の一角に残されており、平成3年(1991)にこの塚が整備された時に建てられたという「南無妙法蓮華経」と刻まれた宝塔の横には、宝永2年(1705)の塚碑が残されています。
 敷地内に建てられた説明板には次のように書かれていました。

 六万部経塚(題目塚)
 六万部とは法華経二十八部を繰り返し六万回に亘って唱える意味で「六万部経塚」の名の由来もここにある。寿福山長勝寺の第一世智性院日座聖人は千七百五年(宝永二年)国土の平和と、皇室の行く末の平安とこの土地の住民並びに檀信徒の末長き幸せを祈願し、小石に題目を書写してこの土地に埋めたとされる。日座聖人と聖人が始めた題目講の信者は、昼夜の別なく法華経を読誦しその法聲は周囲に響きわたって、多くのものの信仰を集めるに至ったという。以来土地の者は、この地を六万部と称し、諸願の達成を願うところとなった。
 古くからある塚碑には、「宝永二年霜月十三日立」とある。平成三年長勝寺第四十二世・慈海院日和上人の時代にこの経塚を整備再建し、「南無妙法蓮華経」の題目を書写した法塔が建立されることになり、改めて世界平和、国土安穏、法華経弘通、参詣者の諸縁吉祥心願満足が祈念された。「南無妙法蓮華経」とは、天地一切を貫く「真理」であり、万物の母なるものである。この前に一切の宗派なく、われも他人もともに絶対平等の命を現すことができる。この法塔功徳が万人に至ることを祈るものである。
この一大事業が成し得たことは母なる妙法と父なる釈尊の加護と感謝し、またこの再建に助力を寄せた多くの方々に厚く御礼の意を表し、その名を法塔の基盤に永く記すものである。
平成3年10月13日
壽福寺長勝寺第四十二世
飯島玄明 記 


<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明版


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  1. 2020/07/14(火) 23:07:37|
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「猿仏塚」

「猿仏塚」1

 画像は、足立区栗原1丁目に所在する「猿仏塚」を東から見たところです。

 『東京都遺跡地図』には未登録となっているようですが、かつては畑の中に、笹に覆われた小高い塚が存在したといわれています。
 足立区の古墳は毛長川流域に集中していますし、そこから遠く離れたこの猿仏塚が古墳であったかどうかは不明ですが、残念ながら周辺は開発が進み、塚自体は削平されて消滅してしまったようです。

 敷地内には現在も念仏供養塔と2基の庚申塔が祀られています。


「猿仏塚」2

 私が写真を撮っている傍ら、お参りする人がいたりして、地元の人に大切にされている、いい感じ。






「猿仏塚」3

 この猿仏塚の学術的な調査の記録は見つからなかったのでおそらくは未発掘であると思われるのですが、真相はわかりません。
 敷地内には足立区教育委員会による説明板が設置されており、この塚のまつわる言い伝えについて書かれています。

 猿 仏 塚(さるぼとけづか)
 こあたりは、昔、笹に覆われた小高い塚で榎
の古木が一本植わっていた。土地の人はこれを猿
仏塚と呼んで、それにまつわる美しい民話を今に
伝えている。
 話は、今から三百数十年前にさかのぼる。
 辺りの農家に、一匹の賢い猿がいた。
 ある日、猿が、留守番をしていると、赤ん坊が
むすかるので、湯をわかし行水をさせたが、湯が
熱すぎて、赤ん坊は死んでしまう。それからとい
うもの、猿は、食事もとらず、赤ん坊のお墓を守
り続け、ついに死んでしまったという。
 村の人々は、この猿の心を哀れみ「仏になって
子どもたちを守っておくれ」と、手厚くここに猿
を葬ったのである。
 後に、この塚は、子どもたちの厄除け塚となり、
子どもが病気になると泥団子をあげ、病気が治る
と米団子を供える風習となった。
 平成二年十月
           東京都足立区教育委員会



「猿仏塚」4

 どの地域でも開発が進む中で、土盛りである塚がたやすく削平されて消滅してしまうのは仕方がないのかもしれませんけどね。
 でも、庚申塔やお地蔵様、道しるべといった石像物を、可能な限り元の位置に残すことは、なんとか頑張ってほしいですよね。

 そしてできれば塚も残す!
 古墳や塚は建造物なのです!

<参考文献>
東京都足立区役所『足立の今昔』
現地説明版


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