
画像は、南千住6丁目に所在する「素盞雄神社」を西から見たところです。この神社の敷地内に所在する富士塚には古墳の石室材だったのではないかといわれる「瑞光石」と呼ばれる奇岩が祀られてています。『東京都遺跡地図』には未登録の遺跡で、富士塚は荒川区の指定記念物・史跡となっています。
同社の社伝によると延暦14年(795)、社司の遠祖の黒珍が、住居の東方小高いところの樹間から連夜、奇光を発する奇岩を見つけ、これを日夜礼拝するうちにある夜、二人の老翁が現れ、「我は素盞雄大神、飛鳥大臣なり。我を祀らば疫病を払い、永くこの郷土を栄えしめん」と告げたそうです。霊石が端光を発したのでこれを「神影面端光荊石」と称し、この古跡を小塚といいます。
これがこの周辺の地名である「小塚原」の起源であるといわれていますが、他に円通寺にも同様の伝説が残されており、諸説あるようです。


画像が、素盞雄神社境内に所在する「南千住富士」です。通称「お富士様」と呼ばれるこの富士塚は、嘉永4年(1851)、小塚の周囲に玉垣を築き、元治元年(1864)に浅間神社が祀られています。(財)日本常民文化研究所より発行されている『富士講と富士塚 ―東京・神奈川―』によると、「千住大橋の南側にある素盞雄神社の境内にある。刑場で有名な千住小原塚の小塚を母体としてつくられたもので、この小塚は『江戸名所図会』にも紹介されている古跡でる。慶応元年(1865)この小塚にボク石を積上げて富士塚としたようである。」とあり、元々あった塚を流用して富士塚が築かれたことが書かれています。

富士塚の中腹の祠に祀られている「瑞光石」です。画像を見ると、表面に小穴があいていますが、これは「房州石」と呼ばれる、千葉県鋸山の海岸で採取される凝灰質砂岩の表面に、貝が住み込むために穴を開けたもので、東京や埼玉周辺の古墳の石室材として多く使用されているものです。近隣では葛飾区の「柴又八幡神社古墳」でも同じように穴のあいた房州石を見ることができますし、さきたま古墳群にある「将軍山古墳」でもこの房州石が石室材に使われています。
同じ荒川区内の東尾久6丁目にある「下尾久石尊」とこの「瑞光石」は面の下で繋がっているという言い伝えが残されており、この下尾久石尊とともに瑞光石も、現在では古墳の石室の石材の一部であると考えられています。
この周辺の小名では「道久塚」があり、この塚も古墳の可能性が考えられているようですし、隅田川右岸には多くの塚の存在も指摘されています。この「瑞光石」が元々あった古墳の石材であったのか、他から持ち込まれたものなのかは謎ですが、このあたりは今後の調査を待ちたいところです。
<参考文献>
芳洲書院『隅田川とその両岸 補遺(上巻)』
学生社『荒川区史跡散歩』
(財)日本常民文化研究所『富士講と富士塚 ―東京・神奈川―』
東京都荒川区教育委員会『南千住の民俗』
現地説明版
- 2015/01/26(月) 09:12:28|
- 荒川区/南千住 微高地
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荒川区内にはかつては数多くの塚が存在したといわれており、現在の南千住周辺にも多くの塚が存在したといわれています。ほとんどの塚はすでに開発により消滅しており、これらの塚が古墳であるか中世以降の塚であるかは確認する術はありませんが、古い江戸時代の文献には塚の言い伝えが残されています。
「石浜の経塚」は、かつての総泉寺の北側の畑の中に残されていたとされる塚です。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「云、鎌倉将軍頼朝隅田川合戦の刻、討死の者を埋し首塚は、只今総泉寺後ろの田の中に有よし、後に誤りて蛇塚と呼よしなりとあれは、今其名を唱えるものなく、また此余に塚もなけれは此塚のことなるへし」とあり、また『南向茶話』には「総泉寺の北裏あたりにあり、高一丈許、塚上に稲荷の小祠をたつ」と記されています。
『新編武蔵風土記稿』は隅田川合戦の死者を埋めた首塚であると伝えていますが、経塚であるとも伝えられており、高さ3メートル程の塚上に祀られていた経文稲荷は経塚を利用して後世に祀られたものであるといわれています。ただし、塚を発掘した際には経文その他の埋蔵品は発見されなかったそうですので、この塚が経塚であったか、それとも古代に築造された古墳であったかは何ともいえないところですね。
現在は板橋区小豆沢に移転した「総泉寺」はかつて台東区清川2丁目から南千住3丁目あたりに所在したとされておりますので、総泉寺の北側にあたる現在の荒川区南千住3丁目周辺が塚の推定地であると思われます。また、東京瓦斯会社が出来る時に塚の稲荷が撤去されたといわれていることから、画像の東京ガスが所在する(南千住3-13)辺りが塚の推定地であると思われますが、正確な所在地まではわかりませんでした。
この塚の稲荷には御神体の鏡があり、祠が撤去された際に橋場2丁目の個人邸内に移されているそうですが、特に調査はされてのが残念なところです。。。


荒川区南千住3丁目、石浜神社の社殿の右側には高さ約3mの「白髭富士」が所在します。周辺に古墳の可能性のある塚の言い伝えが多く残されていることから見学に訪れてみたのですが、この富士塚に関しては、特に古墳を流用したということもないようですね。。。
それにしても、富士塚の頂上に立てられている石造物はいったいなんだろう???
<参考文献>
芳洲書院『続隅田川とその両岸(下巻)』
東京都荒川区教育委員会『南千住の民俗』
- 2014/11/23(日) 01:07:29|
- 荒川区/南千住 微高地
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南千住2丁目48番地から69番地(現在の南千住2丁目11番地から15番地あたり)周辺は、元の小字名を「道久塚」といったそうです。その昔、道久という人が長旅の途中で病に疲れて、水を飲もうとして誤って小川に落ちて死んでしまったそうです。それを里人が哀れんで塚を築いて弔ったのがこの道久塚であるといわれています。
この道久塚について加藤雀庵は『小鳥のさいづり』十四巻に、「日本堤より北の方、一丁余の田の中に土俗ダウキヤウ塚と呼べる地あり。方二、三間ばかりのいささかなる小塚の形残れり。」と記しており、さらにそのおわりに「余の幼きときまでは上にいへるごとし、今はその地及び小塚もありやなしや、おぼつかなけれど、なほ道鏡塚の名存せり」と書かれていることから、明治初年にはすでに塚は削平され、地名だけになっていたようです。加藤雀庵は明治8年に81歳で没した人で、塚が残っているのを見たというのは、享和か文化の頃ではないかと考えられているようです。
画像は南千住2丁目、かつての小字「道久塚」のあたりを南から見たところです。画像の左側手前から13、12番地、右の背後から奥に向かって15、14、11番地です。この「道久塚」は古墳ではないかとも考えられているようですが、残念ながら塚の痕跡は何も残されていないようです。
また、加藤雀庵の『みのわの雨』十四巻には「又小塚原田圃石橋より橋場の方へ至る野道より南の方玉姫稲荷の方へかけての田地を土俗塚田と称せり、塚のかたち四つあり、按るに石浜合戦の戦死の人の古墳なるべし、上の道キヤウ塚も同じたぐいにや。」とあり、この周辺に多くの塚が存在したことが書かれています。
旧字名で「石橋」とは現在の南千住8丁目周辺のようですから、塚が存在したのは現在の荒川区南千住3丁目から台東区清川2丁目、橋場2丁目辺りなのではないかと思われます。荒川区側には4基の塚の他に「石浜の経塚」や「道久塚」、台東区側には「妙亀塚」や「釆女塚」、「駿馬塚」などが存在したことを考えると、このうちの幾つかが古墳であった可能性も少なくないように思いますが、多くの塚が消滅してしまった現在ではこれを確かめることは出来ません。。。

画像は、台東区清川2丁目にある「玉姫稲荷神社」を東から見たところです。塚田と呼ばれ、4基の塚が残されていたのは、この玉姫稲荷から南千住にかけてのあたりであると思われますが、古墳の面影など微塵も残されていないようです。
台東区周辺には女性の悲しい言い伝えが残されている神社や塚が数多く、この玉姫稲荷神社にもひとつの伝説が残されています。昔、この周辺に暮らしていた砂尾長者という金持ちの一人娘が恋に破れ、鏡が池に身を投げて命を絶ってしまい、この玉姫を祭ったことから「玉姫稲荷」と呼ばれるようになったと伝えられているそうです。
台東区千束には吉原があり、1658年(明暦3年)の大火後、幕府の命により日本橋の吉原遊郭が移されて以来、売春防止法が施行される昭和33年(1958)まで300年間もの間、遊郭街新吉原は特に江戸時代を中心に風俗・文化の源泉でした。しかし、明治時代には吉原大火により全焼、その後大正時代の関東大震災や昭和の東京大空襲でもほぼ全焼するなど悲しい歴史も多く伝えられています。遊女達の結ばれない悲しい恋の物語も多かったのかもしれませんね。。。。
<参考文献>
芳洲書院『続隅田川とその両岸(下巻)』
東京都荒川区教育委員会『南千住の民俗』
- 2014/11/18(火) 02:01:46|
- 荒川区/南千住 微高地
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