
荒川区内にはかつては数多くの塚が存在したといわれており、特に尾久、町屋、三河島あたりの自然堤防上に分布が顕著に見られます。すべての塚はすでに開発により消滅しており、これらの塚が古墳であるか中世以降の塚であるかは確認する術はありませんが、南千住の素盞雄神社境内の瑞光石や東尾久の下尾久石尊は古墳に関係する遺跡であるとされています。
画像はJR山手線日暮里駅西口を出た右側、荒川区西日暮里3丁目にある「本行寺」を南東から見たところです。
この本行寺は、太田道灌の孫にあたる太田資高の開基であり、「月見寺」の名で知られています。この敷地内は太田道灌の斥候台があったところで、太田家の菩堤寺である本行寺がこの地に移転してきたのはこのためであるといわれています。斥候台を築いたところは「物見塚」と呼ばれており、周辺にはこの物見塚を合わせて7つの塚があったと伝えられていますが、残念ながら塚はすべて消滅しています。この塚について『新修荒川区史 上巻』では「史跡と名所」の項で、「恐らくは古代豪族を葬つた円墳であったのであろう」としており、また『荒川区史 上巻』でも「すべてが古墳ではないにしろ、道灌山遺跡や延命院貝塚遺跡の延長の古墳時代の遺跡の一画を形づくっていた可能性は極めて高いといえるのであろう」とされています。

画像が現在の物見塚です。「荒川区指定文化財 道灌丘碑」の標が立てられており、次のように書かれています。
太田道灌が長禄元年(1457)に江戸城を築いた際、ながめのよいこの地に「物見塚」と呼ばれる斥候台(見張り台)を造ったという。寛延3年(1750)に本行寺の住職日忠や道灌の後裔と称する掛川藩主太田氏などが道灌の業績を記したこの碑を塚の脇に建てた。塚は鉄道敷設でなくなり、この碑だけが残った。このあたりの道灌の言い伝えは古くからよく知られていて、小林一茶も当地で「陽炎や道灌どのの物見塚」と詠んでいる。

画像が、築山の上に残されている「道灌丘碑」です。
この物見塚については多くの文献に記録が残されており、東京都荒川区教育委員会により発刊された『日暮里の民俗』に次のように掲載されています。
・此城山(道灌山)に道灌塚とてありと聞く、行てみれば不知(天和三年、『紫一本』巻上)
・塚は境内にあり、渡り二間斗、高一丈ほど、丸き見事成山なり、此類此辺に七ヶ所ありしと也(享保十七年、『江戸砂子温故名跡誌』巻三)
・里には日暮といひ、寺には本行といふ。東都の郭北に在り、道灌山といふ。なんすれぞ道灌太田氏の号を名づけたるや、里人太田氏を思へばなり。里人なんすれば太田氏を思ふや、其の恵みを忘るることなければなり。寺の西北に山あり、?道灌といふ。盞し山は、則ち太田氏保障の遺にして、丘はすなはち其の斥候台の址なり。故に丘なく唯址のみ。これ有るは、里人の太田氏を思ふて、自ら丘あるにはじまり、今に二百有余年なり。相伝ふ、昔、太田氏既に亡び里人その墟を過ぎ、尽く禾黍(かしょ)となり、塁(とりで)は壊れ、台はやぶれたるをかんがみ、彷徨去るに忍びずして、其の址を丘にす。故に丘と山と皆其の号を用ひて名とすと(後略、寛延三年建立、道灌丘碑、原漢文)
・道灌斥候(ものみづか)台丘という本行寺境内にあり其傍に筑波先生碑銘あり此邊此類ひ七ヶ所の其一也といふ(寛政五年成立、『江戸往古図説』下巻)
・周囲五間、高さ七尺、頂に一株の松を植えて十かえりのみどりとこしなえ也。塚のもとの断崖三五丈、東南北の眺望は須弥の金輪を、かぎりとす(文化八年刊、『物見塚記』)。
(『日暮里の民俗』243~244ページ)

現地説明版には 本行寺境内に立てられている一茶の石碑です。

画像は、「物見塚」の跡地を南東から見たところです。台地ごと削りとられてJRの線路が敷かれており、塚は痕跡すら残されていません。もはや元の地形は想像できませんね。
<参考文献>
東京都荒川区教育委員会『日暮里の民俗』
高田隆成•荒川史談会『荒川区史跡散歩』
- 2015/01/23(金) 00:14:15|
- 荒川区/日暮里 台地上
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古墳は通常、台地上の特に縁辺部を中心に築造されていますが、荒川区の場合は低地の自然堤防(南千住や三河島、町屋、尾久といった微高地)に塚の分布が見られます。かつては相当数の塚が存在したといわれていますが、大正時代以降の急速な開発により残念ながらほとんどの塚は消滅しています。今となっては塚の性格を確認することは出来ませんが、日暮里の台地上にも古墳ではないかと考えられる塚が存在します。
画像はJR西日暮里駅西側、西日暮里3丁目にある「諏訪神社」を南から見たところです。敷地内には荒川区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
諏 訪 神 社
信濃国(長野県)上諏訪社と同じ建御名方命を祀る。
当社の縁起によると、元久二年(一二〇五)、豊島左
衛門尉経泰の造営と伝える。江戸時代、三代将軍徳川
家光に社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守と
して広く信仰をあつめた。
旧暦七月二十七日の祭礼では、囃屋台・山車をひき
まし神輿渡御が行われた。神田芋洗橋までかつぎ、そ
こから船で浅草・隅田川を経て、荒木田の郷でお神酒
をそなえて帰座したと伝えている。
拝殿の脇には元禄十二年(一六九九)銘・元禄十四
年(一七〇一)銘の灯籠型の庚申塔が並んで建てられ
ている。
荒川区教育委員会 説明板には、諏訪神社と古墳に関係する記述はありませんが、この周辺には多くの古墳が存在したのではないかと推定されており、この諏訪神社の社殿は古墳の墳丘上に鎮座するのではないかと考えられているようです。

画像は、天保7年(1836)長谷川雪旦画、『江戸名所図会』の諏訪神社の拡大画像です。現在の諏訪神社の社殿は石垣の上に建てられていますが、当時の絵を見ると塚ではないかと考えられる墳丘上に社殿が建てられており、これが古墳ではないかと推定される根拠になっているようです。
同じ台地上の台東区内には「摺鉢山古墳」を中心に「上野台古墳群」が、北区内には「田端西台通遺跡」や「飛鳥山古墳群」、「十条台古墳群」、「赤羽台古墳群」などが調査されており、また同じ荒川区内の「道灌山遺跡」からは土師、須恵器片が出土して、古墳時代には集落が存在していたと想定されていることから、この諏訪神社の塚が古墳である可能性も高いように思います。
<参考文献>
東京都荒川区『荒川区史 上巻』
東京都荒川区教育委員会『日暮里の民俗』
荒川区教育委員会『発掘!あらかわの遺跡展』
- 2014/12/12(金) 01:56:57|
- 荒川区/日暮里 台地上
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