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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「駄倉塚古墳」

狛江市「銀行町の無名古墳」

 狛江市は、古くから多くの古墳が存在することで知られており、俚伝などによると、和泉、猪方、岩戸の各地区を中心に200基以上にのぼるともいわれてきました。古くは、鳥居龍蔵氏の「武蔵野会」にも属していたという、地元在住の郷土史家である石井正義氏が狛江町に分布する古墳の調査を進め、『狛江百塚の記』を著しています。その後、子息の石井千城氏が補訂して冊子『狛江百塚』にまとめられており、同書に掲載された古墳の数は77基を数え、狛江古墳群を知る最初の手がかりとなっています。
 その後、昭和35年(1960)には狛江町全域の古墳分布調査が行われ、18基の古墳が現存を確認されるとともに、この時期に作成された「狛江古墳群地名表」には137基の古墳が掲載されています。そして、さらに昭和51年(1976)には狛江市内全域の古墳と遺跡の分布調査が狛江市教育委員会により取り組まれ、『狛江市の古墳(Ⅰ)』にまとめられています。
 その後、平成4年度から6年度にかけては、多摩地区所在古墳確認調査団によ狛江市内の古墳の分布調査が行われ、さらには「前原塚古墳」の墳丘の測量と地下レーダー探査が行われています。

 画像は、狛江市東和泉1丁目の「狛江三叉路」交差点周辺を南西から見たところです。この周辺は、明治の終わり頃から大正にかけて狛江唯一の銀行があったところで、銀行町と呼ばれていました。この交差点を中心に、お菓子屋や米屋、下駄屋、蕎麦屋などがあり、画像の角のところには交番もあったようです。小田急線の敷設以前は、このあたりが狛江の中心だったのかもしれません。
 銀行は画像の右側あたりにあったようですが、その背後に倉庫(土蔵)があり、この倉庫に隣接して古墳があったといわれています。
 『東京都遺跡地図』や『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には記載されていない古墳ですが、昭和35年(1960)の分布調査による「狛江古墳群地名表」には39番に「駄倉塚古墳」の名称で記載されている古墳です。


狛江市「銀行町の無名古墳」

 このあたりが銀行の跡地でしょうか?この奥に倉庫があり、古墳があったようです。
 古墳の跡地と思われる周辺は宅地化が進んでおり、古墳はすでに消滅していると思われます。
 ただし、民家が建ち並ぶ中に薮となっている怪しい一角があり、ひょっとしたらこの場所が古墳の跡地で、なにか痕跡が残されているのでは?とも考えました。(怪しい一角とは、画像左寄りの木立のことですが)ただし、この場所には近寄ることが出来ず、この茂みの中がどんな状況なのかは確認するまでには至りませんでした。いずれ近くを通るチャンスがきた時に、またチャレンジしようと思います。。。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の民俗Ⅱ』
狛江市中央公民館『平成14年度 郷土のむかし講座』


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  1. 2018/01/31(水) 22:01:02|
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「浅間塚」

狛江市「浅間塚」

 以前、狛江市藤塚(現在の和泉本町4丁目)に所在したといわれる富士塚、「金堀塚」を紹介したことがありましたが、狛江市内にはもう1基、かつての銀行町(現在の狛江三叉路あたり)にも富士塚が存在したといわれています。
 画像は、「浅間塚」が所在したとされる、狛江市東和泉2丁目の跡地周辺のようすです。

 この古墳は、昭和35年(1960)に当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査の際に把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には40番に、「浅間塚」の名称で取り上げられています。台地の縁辺部にあたる、画像の左側あたりに所在したとされる浅間塚は、開発により宅地となって消滅しており、痕跡はすでに残されていないようです。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-285.html

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』


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  1. 2018/01/30(火) 23:06:15|
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「亀塚古墳」

「亀塚古墳」

 画像は、狛江市元和泉1丁目にある「亀塚古墳」を北西から見たところです。『東京都遺跡地図』には狛江市の41番の古墳として登録されています。

 昭和35年(1960)、明治大学考古学研究室により初めて本格的に狛江市内の古墳についての分布調査が実施されています。当時、地元研究者が確認していた137基分の古墳リストに基づき調査を行った結果、昭和35年の段階で残存している古墳は、この亀塚古墳を除き16基、何らかの状態で墳丘の一部でも痕跡として残っている古墳は15基で、合計でも31基という状況でした。
 その後、16年後の昭和51年には再度、詳細な分布調査が実施されたそうですが、この16年間で14基の墳丘が消滅してしまい、残存する古墳はわずか17基となっていたそうです。また、既に消滅してしまったものについても検証を行い、古墳だった可能性の高いものは13基。つまり、合計49基が現状で確認出来る古墳とされたそうです。

 亀塚古墳は、昭和26年(1961)に宅地開発により破壊が始まったのを機に本格的な緊急発掘調査が実施されました。埋葬施設は後円部から木炭槨が2基、前方部から石棺が1基、発見されています。また、白銅製の尚方作神人歌舞画像鏡をはじめとする多くの遺物も発掘され、周溝覆土からは円筒埴輪、また前方部からは人物埴輪、馬形埴輪などが出土するなど、多大な成果を挙げたそうです。


亀塚古墳

 画像は、昭和26年(1961)の往時の亀塚古墳です。この古墳が属する「狛江古墳群」は、狛江市南部を中心に分布する南武蔵でも屈指の古墳群として知られています。この狛江古墳群は、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』などに塚の存在が記載されるなど江戸時代からその存在が知られ、かつては「狛江百塚」と呼ばれていました。
 この亀塚古墳について、次のような記述が見られます。


亀塚 村内小名田中というところの畠の中にあり。大さ凡そ一反歩程。塚上に雑木生茂せり。高さ二丈余。四足、頭尾とおぼしくて、山足あるゆえに、往昔より亀塚と号す。中古以来畠中ゆえ、耕作の時々切り崩して、いまはその山足なく、丸き大塚となれり。上古いかなる人の古墳なるか、更にその謂れも不知。定めて高貴の人の墳なるべし。(武蔵名勝図会)

[塚] 亀塚 小名田中ニアリ。其地一段許高サ二丈余、コノアタリノ大塚ナリ。塚上ニ雑木オヒ茂リ首尾手足ノサマモアリテ、亀ノ形ニ似タリシタハカク号セシヨ。サレトココハ畑中ニテ土民等トシドシニ掘崩シタレハ、今ハソノサマモ見エス。(新編武蔵風土記稿)
(『史料に見る江戸時代の世田谷』353〜354ページ)



「亀塚古墳」

 この古墳は当時、保存運動の機運も高まっていたそうですが、残念ながら昭和34年には結局破壊され、現在残存する前方部とされる部分は、残土を盛って復元されたものなのだそうです。
 この前方部には「狛江亀塚」の碑が立てられています。


「亀塚古墳」

 「亀塚古墳」は最大長41m、後円部径34m、高さ7mの帆立貝形前方後円墳で、墳丘を取り囲んだ幅9mの周溝があり、北側に陸橋が存在します。狛江古墳群のなかでも唯一の前方後円墳です。
 残念ながら墳丘は消滅しましたが、当時の後円部の周囲を取り巻くように道路が弧を描いており、古墳の痕跡を見ることができます。


「亀塚古墳」

 残された古墳の前方部はいつでも見学することができますが、宅地に囲まれて非常にわかりにくい場所にあるので、気をつけていないと通り過ぎてしまいそうです。周辺には案内板が設置されています。矢印に沿って細い路地を進むと、突き当たりの石段のところが亀塚古墳です。

狛江市 41「亀塚古墳」5

<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
下山照夫『史料に見る江戸時代の世田谷』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
狛江市教育委員会『猪方小川塚古墳と狛江古墳群』
現地説明版

  1. 2015/04/07(火) 01:51:19|
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「大手塚第1号古墳」

狛江市 未登録 大手塚第1号

 「大手塚第1号古墳」は、狛江市東和泉1丁目に所在したとされる古墳です。

 すでに墳丘は開発により消滅している古墳ですが、昭和35年(1960)に当時の狛江町全域で行われた分布調査の際にその存在は確認されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には、54番に記載されています。ただし、詳細については「畑地 平夷」とのみ記されていて古墳の形状も不明とされているようですので、おそらくは当時すでに消滅していて、伝承のみが残るという状況だったと考えられます。
 その後、昭和51年(1976)の狛江古墳群の分布調査では取り上げられず、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にも未登録で、現在の『東京都遺跡地図』にも登録されていないようです。
 実際に現地を訪れても、古墳の痕跡を見ることは出来ないようです。。。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』


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  1. 2015/02/09(月) 02:28:23|
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「熊野塚」

狛江市「熊野塚」

 画像は、狛江市東和泉1丁目の「熊野塚」の推定地周辺を南から見たところです。画像中央の道路が左に曲がっている左側あたりが熊野塚の跡地であると思われます。『東京都遺跡地図』には未登録の古墳です。

 この古墳は、昭和35年(1960)に行われた狛江町全域の古墳分布調査の際に把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている、調査当時に作成された『狛江古墳群地名表』には、61番の「円墳」として取り上げられています。同書には「宅地 平夷」とのみ書かれており、当時すでに墳丘は削平されていたと考えられます。
 その後、昭和51年(1976)に狛江古墳群の分布調査が行われ、『狛江市の古墳(Ⅰ)』には「現存しない古墳」の項に「1976年の調査時点で現存していないが、存在の可能性の高い古墳」として紹介されています。
 そして、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には、この古墳は取り上げられていません。

 この塚の所在地は、昭和35年の「狛江古墳群地名表」では和泉2583番地、昭和51年の「古墳分布図地名表」では和泉2454番地、『狛江市史』の本文中では小字玉泉寺前2517番地、「狛江古墳群一覧表」では東和泉1丁目35番地と、すべて違う地点を記しており、正確な跡地を特定するのは困難なのですが、先日紹介した「稲荷前塚」と同様に『旧彦根藩世田谷領二〇ヶ村絵図』に位置が記されており、おおよその推定地を特定することができます。


狛江市「熊野塚」

 熊野塚の推定地近くには、画像のような庚申塔が立てられています。
 この庚申塔もかつては墳丘上にまつられていたのでしょうか。。。


狛江市「熊野塚」

 この熊野塚と諏訪塚、稲荷前塚の3基の塚は、明治末期に多摩川の堤防工事のため盛り土を利用するために取り除かれたといわれており、現在塚は消滅、痕跡はまったく残されていません。祀られていた祠については『狛江市史』に記述があり、「熊野の祠は、玉泉寺持だったので、明治の神仏分離で伊豆美神社の所轄となり、明治四十一年(1908)六月の許可で伊豆美神社境内末社の神明社に合祀された。」と書かれています。

 画像が伊豆美神社の境内にある、熊野神社が合祀されたという「神明社」です。この伊豆美神社も「大塚山古墳」から「腰掛塚古墳」へと渡り歩いた神社であるといわれており、古墳に縁の深い神社であるといえるかもしれませんね。。。

<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
狛江市教育委員会『田中・寺前遺跡発掘調査報告所 ~第5次発掘調査~』


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  1. 2015/02/07(土) 23:38:45|
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「諏訪塚」

狛江市「諏訪塚」

 画像は、狛江市東和泉1丁目に所在したとされる「諏訪塚」の推定地を南から見たところです。この道路の右側あたりが諏訪塚の跡地ではないかと思われます。ちなみに突き当たりの右側あたりが「稲荷前塚」の推定地です。どちらも『東京都遺跡地図』には未登録の古墳です。

 この古墳は、昭和35年(1960)に狛江町全域で行われた古墳の分布調査の際に把握されており、調査結果が掲載されている『狛江市の古墳(Ⅰ)』の当時の『狛江古墳群地名表』には、56番の「円墳」として取り上げられています。当時の現状については「宅地 平夷」とのみ書かれており、この古墳も調査当時にはすでに墳丘が削平されて消滅、伝承のみが残されていたという状況ではないかと思われます。
 その後、昭和51年(1976)の調査では、「現存しない古墳」として「1976年の調査時点で現存していないが、存在の可能性の高い古墳」と紹介されています。その後、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にはこの古墳は取り上げられていないようです。

 この諏訪塚の所在地は、昭和35年の「狛江古墳群地名表」と昭和51年の「古墳分布図地名表」では和泉2450番地、『狛江市史』の本文中では和泉2453番地、「狛江古墳群一覧表」では東和泉1丁目34番地と、それぞれ微妙に違った場所を示しており、跡地を特定するのは困難であるようですが、先日紹介した「稲荷前塚」と同様に『旧彦根藩世田谷領二〇ヶ村絵図』に位置が記されており、おおよその推定地は特定することができます。


「諏訪塚+熊野塚」

 この諏訪塚、熊野塚、稲荷前塚の3つの塚は江戸時代に編纂、刊行された多くの地誌にとりあげられています。画像の『武蔵名勝図会』の和泉村大塚の図には、中心に大きく描かれた「亀塚」や泉龍寺の参道とともに3つの塚が描かれており、「この他は、これより形小さき塚三、四あり。地頭下屋敷と号する南の角に、鼎足の如く相並びてあり。高さ各八、九尺許。塚上にいまは熊野、稲荷、諏訪などの小祠を祀れり。又、外にある小塚は高さ四、五尺以上なり。百姓屋敷内、或は田圃の辺にあり。」と、塚のようすが記されています。また『新編武蔵風土記稿』には、「塚三ヶ所 石谷某屋敷跡より南方泉龍寺大門脇につづき鼎足の如くに並べり、其間十五間もしくは二十間に及べり、三ケ所共に塚上には古松立り、一は熊野、一は稲荷、一は諏訪の祠を建り、いづれも玉泉寺の持、この外、畑中及び村民の屋敷内にも大さの似たる塚七ケ所あり、共に所謂を伝へず」とあり、熊野塚、諏訪塚、稲荷前塚の3基の古墳以外にも周辺に7基の塚が存在したことが記されています。昭和35年の狛江古墳群地名表には3基の古墳の他にも「大手塚第2号古墳」、「十幹森古墳」、「天神古墳」、「白旗塚」等の古墳が記載されていますが、江戸時代にはこれらの塚はまだ残されていたようです。


狛江市「諏訪塚」

 さて、この諏訪塚の墳丘上に鎮座していたとされる諏訪神社については『狛江市史』に記述があり、「明治十三年(1880)の『皇国地誌』では諏訪神社は、まだ、字寺前二四五三番地にあったが、明治四十二年伊豆美神社境内末社の稲荷社に合祀、移転され、塚はすぐそばの熊野神社のそれと同じく取除かれて平地となった。」と書かれています。熊野塚、稲荷前塚と同じく、明治末期に多摩川の堤防工事のため盛り土を利用するために削平されたらしく、塚は消滅して痕跡も残されていません。

 画像が、伊豆美神社の境内にある「稲荷社」です。これはあくまで合祀されたもので、墳丘上に建てられていた祠が残されているわけではありませんが、唯一の古墳の痕跡といえるかもしれませんね。。。

<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
狛江市教育委員会『田中・寺前遺跡発掘調査報告所 〜第5次発掘調査〜』


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  1. 2015/02/06(金) 00:02:01|
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「稲荷前塚」

狛江市「稲荷前塚」

 画像は、狛江市東和泉2丁目に所在する「十幹森稲荷神社」を西から見たところです。かつてこの周辺に所在したとされる「稲荷前塚」と呼ばれる古墳の墳丘上に祀られていたとされる神社です。

 「稲荷前塚」は、昭和35年(1960)に狛江町全域で行われた古墳の分布調査時に把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には、55番の「大手塚第2号古墳」という名称で、円墳として紹介されています。同書にはこの古墳については「宅地 平夷」とのみ書かれており、当時すでに墳丘は削平、消滅していたようです。
 その後、昭和51年(1976)に行われた調査では「稲荷前塚」と名称をかえ、『狛江市の古墳(Ⅰ)』には「現存しない古墳」の項に「1976年の調査時点で現存していないが、存在の可能性の高い古墳」として紹介されています。
 その後、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には未掲載であり、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようです。


狛江市「稲荷前塚」

 境内に立てられている「社殿改築記念碑」には塚と神社についての詳しい記述が見られます。次のように書かれていました。


社殿改築記念碑

正一位十幹森稲荷神社は文化の頃下泉及泉原住民が
京都伏見稲荷神社の御分霊を仰ぎ奉り十幹森圓塚頂
上に安置氏子の繁栄五穀豊饒を祈願したるに始る尚
其西南位に熊野神社東南位に諏訪神社あり合せて三
山の神として村人の崇敬深かりしが明治の御代に熊
野諏訪の二神社は伊豆美神社境内に他社と合祀稲荷
神社のみ圓塚上に安置のまま残り給ふも多摩川大洪
水により南河原堤防決壊の為堤側補強の用土として
此の圓塚を用う住民を水害から護るとは云え此為神
社は旧熊野神社敷地跡の一部を借受け明治三十七年
に奉遷せり大正時代に至り氏子三十余軒を数へ昭和
三年泉原氏子は小町神宮の御意向に従い御分霊を原
組氏子の地区に祭る昭和四年社殿修理の際神社敷地
の借地なるを憂い氏子全員毎月二十戋づつを據出後
日此を増額??七年昭和十年氏子の熱意と努力に依
って旧十幹森敷地の一部即ち現在地を入手氏子総出
動にて整地基礎固めを行い仝年五月三日後神霊を遷
座し奉った一同の喜此上無永に安らけく御神霊の御
鎮座あらんことを祈った昭和四十五年一月都道三号
線拡張幅為敷地の半を提供補償金により社殿鳥居狐
幟枠玉垣等を新にし御神霊の御遷座を仰ぎ奉る即昭
和四十六年二月十二日なり氏子の祖先京都より神霊
を迎えて百五十余年幾多の変遷ありしも常に氏子の
信仰は誠心と努力に依って築かれたもので其平和と
繁栄は神より授けられたものであると信ず此處に社
殿改築を記念し謹賀新書す。
 昭和四十六年十月吉日


 「?」マークの部分は写真の写りが悪く、判読不能でした。この記念碑には、稲荷前塚以外に、周辺に存在したとされる「諏訪塚」と「熊野塚」についての記述もみられます。稲荷前塚の西南に所在した熊野神社と東南に所在した諏訪神社は伊豆美神社境内に合祀されたものの、その後も稲荷神社だけは塚上に残されていたようですが、明治期に多摩川の洪水で決壊した堤防の補強のため、塚は土を使うために崩され、稲荷神社は旧熊野神社跡地に遷宮したようです。しかし、借地だったのを憂いた氏子の熱意で、旧十幹森敷地の一部である現在地に再建されました。昭和45年の世田谷通りの拡幅により敷地は半分になりましたが、現在でも地元の人が講を作って初午などの行事を続けているそうです。
 数多くの鳥居が立ち並ぶ現在の景観はとても幻想的で、日常を忘れてしまいそうですね。


狛江市「稲荷前塚」

 昭和10年(1935)に狛江村より発行された『狛江村誌』の「名所、舊蹟、古戰塲」の下屋敷の項には「下屋敷は石谷五郎大夫尉淸定の陣屋跡にして町奉公石谷佐貞淸の居住する處たり(中略)南大手に二つ塚並びあり。西は泉龍寺大門に空堀の後ありしが今はなし。東に石谷家の藤稲荷ありしも之れ亦今は其の面影なく(後略)」とあり、また『新編武蔵風土記稿』には、「塚三ヶ所 石谷某屋敷跡より南方泉龍寺大門脇につづき鼎足の如くに並べり、其間十五間もしくは二十間に及べり、三ケ所共に塚上には古松立り、一は熊野、一は稲荷、一は諏訪の祠を建り、いづれも玉泉寺の持、この外、畑中及び村民の屋敷内にも大さの似たる塚七ケ所あり、共に所謂を伝へず」と書かれています。さらに『旧彦根藩世田谷領二〇ヶ村絵図』には「石谷陣屋」とともに3つの塚が描かれており、この稲荷前塚の位置を知ることができます。
 画像は、狛江市東和泉1丁目の「稲荷前塚」の跡地を南東から見たところです。『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』の古墳の所在地とされる番地が、この地点にあたります。この西側、現在の保育園の敷地は「田中・寺前遺跡」の第5次本調査で発掘されているようですが、どうやら古墳の周溝は検出されていないようなので、やはりこの画像の周辺が古墳の跡地ではないかと想定しました。残念ながら古墳の痕跡は何も残されていないようです。

<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
狛江市教育委員会『田中・寺前遺跡発掘調査報告所 〜第5次発掘調査〜』
狛江市地域活性課『わっこ 第77号』


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  1. 2015/02/04(水) 00:32:11|
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「揚辻塚」

狛江市 未登録 揚辻塚

 「揚辻塚」は、狛江市東和泉1丁目に所在したとされる古墳です。昭和35年(1960)に、当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査時に把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には、49番の円墳として取り上げられています。古墳の詳細については「宅地 平夷」とのみ書かれており、当時すでに古墳は削平され、伝承のみが残る存在となっていたようです。
 その後、昭和51年(1976)の調査の記録では、「1960年と1976年の分布調査を総合的に判断した結果、存在のきわめて高い古墳である」とされていたようですが、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には未掲載で、『東京都遺跡地図』にも未登録となっています。

 画像は、揚辻塚の所在地と考えられる地点の現在のようすです。マンションの奥のあたりがこの揚辻塚の所在地となるようです。残念ながら、古墳の痕跡はまったく見ることが出来ません。。。


狛江市 未登録 揚辻塚
出典:国土地理院ウェブサイト( http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=193508&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)3月29日に米軍により撮影された揚辻塚とその周辺が写されている空中写真です。わかりやすいように古墳の所在地周辺を切り取っています。
 この古墳の所在地については、昭和35年の「狛江古墳群地名表」では「和泉2298番地」、昭和51年の「古墳分布図地名表」では「和泉2347番地」、『狛江市史』では「東和泉1丁目28番地」と資料によって記述に違いが見られることから、正確な跡地を特定することは困難ではないかと思われたのですが、この空中写真で揚辻塚らしき存在を確認することが出来ます。揚辻稲荷を水源としていた小川と清水川が並行して流れる南側に、揚辻塚とおぼしき影を見ることが出来ます。
 昭和32年の写真では、まだ揚辻塚らしき影を見ることが出来るのですが、昭和36年の写真では影は消えてしまっているように見えます。おそらくは、昭和35年の古墳の分布調査の直前まで塚は残されていたのではないかと考えられます。分布調査で把握されなかったのは残念なところですね。。。


狛江市 未登録 揚辻塚

 画像は、狛江市東和泉1丁目にある「揚辻稲荷」です。
 地元では「谷田部稲荷」とも呼ばれているこの神社はなんと個人所有の神社で、現在でも毎年初午の日に一家の当主が集まり、宮司を呼んで祭事を行っているのだそうです。


狛江市 未登録 揚辻塚

 社殿の裏側には石垣に囲まれた湧水池が残されています。ここを水源とする小川が、揚辻塚の横を西から東に向かって流れていたと思われます。

 現在この池の水は涸れ果ててしまっていますが、1960年代までは水が溢れていて子どもたちが水浴びをして遊んでいたそうです。池に降りる階段も残されていますが、現代でいうプールのような役割だったのでしょうか。なぜか懐かしいような気持ちになる風景です。
 
<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2015/01/30(金) 02:10:07|
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「東和泉1号墳~9号墳」

「東和泉1号墳~9号墳」

 狛江市に多くの古墳が存在することは、古くは江戸時代から知られていたようで、『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』といった江戸時代の地誌にも数多くの古墳が知られていたことが記されています。
 狛江古墳群が「狛江百塚」と呼ばれるようになったのは昭和に入ってからのことで、鳥居龍蔵氏の「武蔵野会」に属していた郷土史家の石井正義氏が『狛江百塚の記』を著したことに始まります。その後、子息の石井千城氏が昭和33年(1958)頃に『狛江百塚』を補訂しており、戦前、戦後の狛江の古墳の言い伝えや旧状を記したこの記録は、後の狛江古墳群の調査に大きな影響を与えます。同書では「狛江百塚は墳陵の一にして、此地国造国司の墳墓なり。九十九塚とも車塚とも云う、其の数多く故に百塚と呼称す」とされており、同書の分布図には77基の古墳が記されています。
 その後、昭和35年(1960)には狛江市全域に分布する実測調査が行われます。この調査は、「現存する古墳、それは破壊が進んでいるものであろうと、なかろうとできるかぎり墳丘実測調査を行なうということ、それと同時に壊滅古墳についても記録を取る」という意図して行われ、この調査により作成された「狛江古墳群地名表」には137基もの古墳が記載され、現存が確認された18基の古墳のうち16基の測量図が作成されています。さらにその後、昭和51年(1976)に狛江市教育委員会による古墳と遺跡の分布調査が行われ、この際の「古墳分布図地名表」には50基が記載されています。

 さて、その後の昭和62年(1987)、小田急線の高架化工事に伴う発掘調査により、それまでの分布調査で把握されていなかった未知なる9基の古墳が発見されます。いずれも墳丘は削平され、周溝が検出されたもので、そのうちの1基からは主体部が検出されているそうです。画像の道路左側あたりが「東和泉5号墳、同2号墳が検出された地点です。


「東和泉1号墳~9号墳」

 画像の手前から、1号墳、4号墳、9号墳、8号墳、6号墳、7号墳、3号墳が検出されています。規模が判明する最小の古墳は、周溝外径10m、内径7m、最大のものは外径19.4m、内径14.6mで、6号墳からは主体部が検出されているようです。
 古墳の面影を偲ぶことはできませんが、まだ地面の下には周溝が残されているのかもしれませんね。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
狛江市教育委員会『猪方小川塚古墳と狛江古墳群』


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  1. 2015/01/29(木) 09:36:14|
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「矢崎山(大塚古墳)」

狛江市「矢崎山古墳(大塚)」1

 「大塚古墳(矢崎山)」は、狛江市猪方1丁目に所在したとされる古墳です。

 この古墳は、昭和35年(1960)の、当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査により把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には、104番に名称のない古墳として取り上げられています。
 ただし、古墳はこの時点ですでに削平されていたと考えられ、『狛江市の古墳(Ⅰ)』には、「付近には数基の古墳ありという 台地の先端に近い地」とのみ書かれています。

 その後、昭和51年(1976)の分布調査の資料にも記述か見られ、「現存しない古墳」の項に「1976年の調査時点で現存していないが、その存在が確認できる古墳」として取り上げられており、「1955年5月、附近から円筒埴輪片が出土し、1956年には第3小学校建設のために地ならしを行ない、その際土器片多数が出土したという。」と、興味深い記述がみられます。

 さらには、『狛江市史』の「狛江古墳群一覧表」には石棺の存在についても記されており、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にも「矢崎山」という名称で取り上げられていますが、現在の『東京都遺跡地図』には登録はされていないようです。

 矢崎山古墳の正確な跡地はわからなくなっているようですが、狛江市中央公民館から発行された『郷土のむかし講座』には、古老の話として、「「矢崎山」があってそこに第3小学校ができました。小さな山でした。」と書かれているように、この学校の敷地に矢崎山が存在したとする文献は少なくないようです。

 画像は、狛江市猪方1丁目の狛江第3小学校敷地内にある「矢崎花壇」を南から見たところです。この場所が矢崎山の跡地であるという説もあるようですが、学術的な調査が行われていないことから真相は不明です。


狛江市「矢崎山古墳(大塚)」5

 矢崎花壇の周囲の道路は、この場所を取り巻くように弧を描いており、確かに、いかにもここに古墳が存在したかのような形状となっています。(ちなみに狛江市元和泉1丁目にある「亀塚古墳」にも同様に、かつて存在した古墳の周囲を巡る道路が現在も残されています)
 この矢崎花壇に、第三小学校PTAにより立てられている説明板にも、「以前よりこの地が矢崎山と呼ばれていた」と書かれており、この場所が古墳の跡地である可能性は高そうです。

 「大塚」という名称からしても、少なくともそれほど小さな古墳ではなかったでしょうから、この矢崎花壇の地点が古墳の跡地としてはサイズ的にぴったりな印象がありますが、確証を得るには至りませんでした。


狛江市「矢崎山古墳(大塚)」4
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=194247&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年に米軍により撮影された矢崎山古墳周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。

 現在の矢崎花壇の場所は画像の中央あたりで、興味深いことに、その左上あたりにも円形の古墳らしき形状の木立を確認することができます。
 現代の地図と見比べるとわかるのですが、この場所は第三小学校の矢崎花壇の位置とは微妙なズレが見られれ、円形の木立から東南東に100メートルほどの地点が「矢崎山」という状況です。その後に第3小学校が建てられて花壇となる場所にも高まりらしき地形が見られはするのですが、古墳であるかどうか、空中写真だけではよくわかりません。

 左上の塚状の地形も、古墳であるのか、それともただの円形の林で古墳ではなかったのかは航空写真では判断することができません。
 円形の木立も矢崎花壇の地点も、両方とも古墳、ということも考えられるわけですが、とても興味深い写真です。

 『狛江市の古墳(Ⅰ)』にあるように、学校建設のための整地の際に敷地内から出土したのはあくまで土器片であり、円筒埴輪片が出土したという伝承はあくまで「附近から」ということであり、矢崎山古墳のみならず、周辺にかなり多くの古墳が存在したという可能性も十分に考えられます。
 

狛江市「矢崎山古墳(大塚)」2

狛江市「矢崎山古墳(大塚)」3

 円形の木立の跡地と思われる周辺のようすです。
 矢崎山の付近には何かいわれのある祠があったそうですが、残念ながらこれも所在不明で、発見することはできませんでした。
 何十年か前までに存在したはずの古墳でも、現代に痕跡を探し当てるのはなかなか難しいですね。。。

<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
狛江市中央公民館『平成13年度 郷土のむかし講座』


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  1. 2015/01/22(木) 01:58:44|
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