
画像は、狛江市猪方3丁目に所在する「前原塚古墳」を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号38番の古墳として登録されています。
この古墳は古くは、昭和35年(1960)に当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査により把握されています。狛江市教育委員会より刊行されている『狛江市の古墳(Ⅰ)』には、分布調査当時の『狛江古墳群地名表』が掲載されており、前原塚古墳は「久保塚」の名称で、97番の古墳として取り上げられています。
調査当時、墳丘はけやきのある雑木林で、周囲には畑地がひらけていました。墳丘は南側から西側の裾部が削られているものの、全体の形状はよく残されており、規模は東西径19m、南北径18m、高さは2.45mを計測されています。主体部は不明であるもの、横穴式石室の存在が想定されていたようです。
その後、昭和51年(1976)に行われた古墳分布調査でもこの古墳は確認されており、長径21.4m、短径18.6m、高さ2.4m、墳頂平坦部6mと計測されています。雑木林となっている墳丘上には挙大の礫がみられ、これは葺石ではないかと考えられていたようです。

南東から見た前原塚古墳のようすです。
平成5年(1993)2月には、多摩地区所在古墳確認調査団により墳丘の測量と周溝の確認、地下レーダー探査などの調査が行われました。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』によると、この当時の規模は直径約18m、高さ2.1 ~ 2.6 mの円墳で、墳丘上には葺石と考えられる挙大の円礫が散在しているとされています。周溝を復元すると、内径は約23.5m、外径約31.5mで、発掘調査により陸橋部が検出されています。埋葬施設を確認する為の発掘は行われなかったものの、レーダー探査の結果、墳頂部からほぼ並ぶように存在する主体部が2箇所確認されたことから、竪穴式の主体部が2基存在するとされ、それまで考えられていた横穴式石室の存在の可能性は否定されています。

画像は墳頂部のようすです。
訪れた当日は、土地の所有者の方に許可を得て墳丘に登らせていただきました。「挙大の円礫が散在している」という葺石と考えられる状況を確認したかったのですが、かなり落ち葉が積もっている状況で、古墳をほじくり返しているように見えてもいけないしなあとビビってしまったかもしれません。落ち葉をよけてみたりはしましたが、葺き石らしき円礫を写真におさめることは出来ず、です。笑。
狛江市内では、「兜塚古墳」とこの「前原塚古墳」の2基が、最も良い状況で残されているようです。
近年、急速に開発の進む狛江市内にあって、このままよい環境で保存されると良いなあと心から願います。
<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2018/02/05(月) 23:33:15|
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画像は、狛江市猪方1丁目に所在する「清水塚1号墳」を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号33番の古墳として登録されています。
この古墳は昭和35年(1960)に行われた、当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査の際に把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には、101番に「清水塚古墳」という名称で「円墳」として紹介されています。
この調査当時に実測調査が行われており、同書には「円墳。西側から南側にかけて、墳丘裾部が削平され、崖状を呈しているほかは比較的形状をよく残していた。残存部は東西径14m、南北径17mで、墳頂部の平坦面は東西径5.5m、南北径4.0mで、祠が祀られていた。高さは、北側裾部で2.6m、東側で2.4mであるが、西側から南側にかけて遠まきに3.0mコンタが走っており、このことから、構築時の墳丘規模は径20m、高さ3.0m前後を推定したい。」と書かれています。また墳丘南側に凝灰岩石材が露出していたようで、横穴式石室の存在が推定されています。

画像は、墳丘を南から見たところです。石段が設けられており、墳頂部に登ることが出来ます。鳥居をくぐるとお稲荷さんと観音様が祀られています。
昭和51年(1976)に行われた分布調査の調査記録には、「東側の墳端部が新たに削られたものの、1960年当時とほぼ同じ保存状態にある。現状は長径19.9m、短径17.4m、高さ2.5mで、墳頂平坦部には挙大の円礫が見られる。」と書かれているようですが、平成4年(1992)の多摩地区所在古墳確認調査団による調査では、露出する凝灰岩の石材は確認されなかったようです。
ちなみに見学に訪れた当日も、この露出するとされる石材については確認することはできませんでした。

墳頂部のようすです。
昭和51年の調査時の記録には、墳頂平坦部には挙大の円礫が見られるとの記述があるようです。散在するような円礫は見られませんでしたが、祠の周囲に並べて置かれている石がこの円礫なのでしょうか?
この稲荷祠は、個人の屋敷内にある講中稲荷としては唯一のもので、大きな塚の上に祀られていることから「大山稲荷」と称されているようです。京都の伏見稲荷から分霊を分けてもらい、当地に勧請された稲荷であると伝えられているそうです。また、かつてこの古墳の横を泉龍寺の弁天池を水源とする「清水川」が流れていたそうですが、古墳はこの清水川を掘り下げた土を盛って造った塚であるといわれ、これによって古くから「清水塚」と呼ばれてきたようです。
当日は、土地の所有者に声をかけてお参りさせていただきました。ありがとうございました。
<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
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- 2018/02/04(日) 22:13:33|
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さて、狛江市猪方3丁目所在の「猪方小川塚古墳」は、現地説明会のようすを平成24年(2012)12月31日(月) の『古墳なう』にて取り上げましたが、今回はその後の状況を掲載しようと思います。
画像は、現地説明会が行われた平成24年(2012)10月21日に撮影した古墳のようすです。現地説明会はかなり盛況で、多くの人が訪れていました。古墳は平成25年6月には狛江市の文化財に指定され、敷地は狛江市により買収されて古墳は現状保存されています。

続いて、現地説明会から2年後の、平成26年12月に訪れた時の猪方小川塚古墳のようす。敷地はフェンスで囲まれていて立ち入りは出来ず、墳丘にはシートが被せられています。
敷地内には、新たに狛江市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。
狛江市指定文化財(市史跡)
猪方小川塚古墳
指定年月日 平成25年6月24日
猪方小川塚古墳は、狛江古墳群のなかでは、横穴式石室墳であることがはじめて具体的に確認されたものです。
墳丘は大部分が削平されていましたが、墳丘を取り巻く周溝は良好な状態で遺存しており、外径30m、内径22~23mを測ります。石室の正面となる南側では周溝が途切れ、陸橋状となっています。周溝の規模から、本来の墳丘は径15~20m程度と想定されます。
石室は天井部を失っていますが、玄室と前室からなる復室構造です。玄室は、長さ2.7m、奥壁幅1.36mを測る長狭な長方形で、壁面は約1.2mほどの高さで遺存していました。前室は、長軸1.8m、幅1.1mほどの長方形で、本来はその手前に羨道、前庭部が備わっていたものと想定されます。
石室の築造にあたっては、「唐尺」(1尺≒30cm)が利用されたと考えられ、玄室は、長さ9尺、幅4.5尺で、前室は、長さ6尺、幅4尺で築造されたものと考えられます。
奥壁、側壁はともに泥岩による切石切組積みで築造されており、切石表面には石室の構築や仕上げにともなう工具や調整の痕が観察出来ます。床面は、前室から玄室手前側には長楕円形の大礫が敷き詰められているのに対して、玄室奥側では泥岩の板石を敷いた上に小円礫が敷き詰められ、玄室を前後に区分する意図が窺えます。副葬品の多くは、玄室奥側の小円礫上から出土しました。
また、残された墳丘の土層堆積状況からは、石室と墳丘の具体的な築造の方法・手順等を復元することが可能となりました。
石室内からは、被葬者の頭部付近から2個1対の状態で金銅製の耳環が、また被葬者の両脇に束ねられるようにして鉄鏃が出土しています。鉄鏃の形態等から、この古墳は7世紀第2四半期頃に築造されたと想定されます。
猪方小川塚古墳は、これまで5世紀半ばから6世紀半ばにかけて集中的に造営されたと考えられてきた狛江古墳群の造営時期について見直しを迫るもので、狛江古墳群の全体像、さらには多摩川中・下流域における横穴式石室墳の成立と展開や、7世紀における多摩川流域の地域社会の様相を考えるうえで、きわめて貴重な古墳といえます。
平成26年3月 狛江市教育委員会
そして画像が、今年に入ってからの猪方小川塚古墳のようすです。墳丘にシートが被せられて見学できない状況は変わっていないようですが、古墳の状況には変化が!
昨年12月には、次の建築許可をするための公聴会が行われたようですので、いよいよ古墳の整備が行われるのかもしれません。鉄骨造の遺跡(石室)保存覆屋が新築されるようですので、楽しみに待とうと思います。
<参考文献>
現地説明版
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- 2018/02/03(土) 22:04:03|
- 狛江市/狛江古墳群(猪方)
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「猪方673番地古墳」は、狛江市猪方1丁目に所在したとされる古墳です。
この古墳は、昭和35年(1960)に当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査時に把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている「狛江古墳群地名表」には、100番の名称のない古墳として取り上げらています。同書によると、当時の古墳は林地に残存するとされ、「径11m 高さ1~1.2m 台地東北縁辺に近い地」と記されています。昭和35年当時は、まだ猪方673番地古墳は残されていたようです。
その後、昭和51年(1976)に行われた古墳分布調査による資料では、古墳は消滅扱いとなり、「現存していないが、その存在が確認できる古墳」として取り上げられています。その後、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には、この古墳は取り上げられず、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようです。
画像は、「猪方673番地古墳」の跡地周辺のようすです。
ちょうど画像中央の、道路が左に折れ曲がった右側あたりが猪方673番地古墳の推定地ではないかと思われますが、残念ながら特に古墳の痕跡は見当らないようです。
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=193508&isDetail=true)
出
典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=430101&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、猪方673番地古墳周辺の空中写真です。1枚目は、昭和23年(1948)03月29日に米軍により撮影されたもので、2枚目は、昭和38年(1963)6月26日に国土地理院により撮影されたものです。どちらも、わかりやすいように猪方673番地古墳が写真の中央となるように切り取っています。(ちなみに左端に見えるのが「中村石塚」と思われます。)
昭和23年の画像は、古墳の周辺は樹木が生い茂る林となっており、これはほかの昭和20年代の写真を確認しても似たような状況です。しかし、昭和38年の写真では樹木は伐採されたのか、東西にはしる古道が「く」の字に折れ曲がった南側にはっきりと円形の影を見ることが出来ます。もちろん、あくまで古い空中写真で確認するしか手段がなく、この円形の影が絶対に古墳であると断言はできませんが、可能性は高いように思います。
この円形の影が古墳であれば、昭和50年代前半頃までは残されていたのではないかとも考えられるのですが、真相はわかりません。

気になるのが、画像の地点です。
古墳の跡地と推定した地点から北東に20m程の位置にT字路となる交差点があり、この南角に庚申塔が祀られています。画像がこの庚申塔です。
この庚申塔の背後の個人の敷地内に、わずかながら塚状に盛り上がるマウンドが存在します。

実は、土地の所有者の方に許可を得て見学をさせていただきつつ、お話を聞かせていただくことが出来ました。
T字路南角の庚申塔は、かなり古くからこの場所に存在したそうですので、ひょっとするとこのマウンドは庚申塚である可能性も考えられそうです。そして、周囲の道路は舗装する際に砂利が敷かれていることから、農地だった頃よりも若干高くなっているそうですので、つまりはこのマウンドはかつてはもう少し高さがあったということになるようです。そして、このマウンド上には大きな木があったそうですが、これは最近伐採されたということです。そして、土地の所有者の方によると、敷地内に673番地古墳が存在した(する?)という認識もなかったようです。
可能性としては、
① 「く」の字に折れ曲がった円形の影が古墳ではなく、このマウンドが猪方673番地古墳である。
② このマウンドは673番地古墳とは別の古墳で、2基の古墳が近距離に存在する。
③ このマウンドは古墳ではなく、庚申塚である。
④ このマウンドは単なる自然地形で古墳でも塚でもない。
といったところかと考えられますが、今のところ真相は謎のままです。。。
この猪方673番地古墳について現状でわかったことはここまでですが、まだ引き続き調べてみようと思っています。詳細がわかったところで追記します!
<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2018/02/02(金) 23:58:06|
- 狛江市/狛江古墳群(猪方)
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今回は、狛江市猪方に所在する「猪方稲荷塚」です。実は、最近たまたまこの塚の横を通りがかったときに、墳丘の敷地内に建てられていたはずの火の見櫓が無くなっていることに気がついて、「あれ?なくなってる!」とびっくりしました。しかも、南側にあった、確かアパートらしき2階建ての建物も無くなっている!
この猪方稲荷塚は、以前一度、この『古墳なう』で取り上げているのですが、火の見櫓のない古墳の残存部分(?)の写真を撮り直してきたので、続編ということであらためて紹介しようと思います。
画像は、南西から見た現在の猪方稲荷塚のようすです。この古墳は、学術的な調査は行われていないようなので、詳細はわかりません。現在も『東京都遺跡地図』には未登録のままです。
昭和35年(1960)に、当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査において把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている「狛江古墳群地名表」には99番に、「稲荷塚」という名称で掲載されています。「現在火の見櫓 稲荷祠あり 径10~15mという 台地中央」と記されており、この時期にはすでに稲荷祠とともに火の見櫓が建てられていたことがわかります。そして、その後の昭和51年(1976)の調査の際にはすでに墳丘は削平されており、「1960年調査では削平されているものの径10~15mを推定された。今回の調査でも、宅地化されてほとんど原状をとどめていなかったが、わずかに30cmの微高を示し、稲荷祠を祀っていた。」と書かれています。現在の古墳の状況を見たところでは、この時期から大きな変化はみられないようです。

北西から見た猪方稲荷塚です。現在もかわらず、30cm程の微高は保たれているようです。
かつてのこの場所は、高く盛り上がった小山に鬱蒼と木が茂っていて、誰も近づかないような場所であったそうです。きれいに整備された現在の塚の姿からは、想像ができません。
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=194248&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年に米軍により撮影された猪方稲荷塚の空中写真です。わかりやすいように塚の周辺を切り取っています。まだ戦後のこの時期には塚状のマウンドが残されていたと考えられ、さらには東西に走る道路にまたがるように元々の塚の形状を思わせる円形の影が見えるのですが、これが周溝の跡であるとするならばとても興味深いですね。
削平の際に遺物が出土したようなことはなかったのでしょうか。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-273.html
<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市中央公民館『平成14年度 郷土のむかし講座』
狛江市『猪方の民俗』
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- 2018/02/01(木) 23:24:25|
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