
「古屋敷塚古墳」は、岩戸支群中最北端にあたる狛江市岩戸北3丁目に所在した古墳です。『東京都遺跡地図』には狛江市の遺跡番号24番に登録されている古墳です。
この古墳は、昭和35年(1960)に行われた分布調査時には残存しており、実測調査が行われています。墳頂部に祠が祀られていたこの古墳は調査当時にはすでに土砂採取が進み、特に北側は掘削が中心部に迫っている状況でした。しかし、埋葬施設の石材等は出土せず、石室、礫槨以外の竪穴系の主体部ではなかったかと考えられていました。また、葺石や埴輪等も確認されなかったようです。
その後古墳は削平され、正確な所在地もわからなくなっていましたが、昭和62年(1987)に始まる小田急線の高架複々線化工事に伴う発掘調査により集溝の一部が検出され、正確な所在地や規模が明らかとなっています。
周溝の内径は39m、外径は52mを測り、北西側に幅5mほどのブリッジが検出されています。周溝内から出土した遺物から、古墳の築造時期は5世紀第2四半期とされています。『東京都遺跡地図』には、昭和35年(1960)に行われた調査時の規模である径38m、高5mが記載されています。
画像は、狛江市岩戸北3丁目の「古屋敷塚古墳」の跡地周辺を南西から見たところです。道路から右側の宅地にかけて古墳が存在したと思われますが、残念ながら痕跡は何も残されていないようです。。。
<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
狛江市教育委員会『猪方小川塚古墳と狛江古墳群』
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- 2016/07/14(木) 09:19:34|
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画像は、狛江市岩戸北3丁目に所在する「橋北塚古墳」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号25番に登録されている古墳です。
この古墳は、昭和35年(1960)に行われた狛江古墳群の分布調査において把握されており、当時の『狛江古墳群地名表』には135番に「三角塚」という名称で記載されています。この調査の際に測量調査が行われており、古墳の規模は、東西径22m、南北径21m、高さは2.85〜3mと計測されています。南側と西北側が削り取られているものの比較的全体の形状をとどめており、本来の規模は径約25m、高さ3.5mほどの円墳であったと考えられています。主体部は不明であるものの、竪穴系のものと推定されており、6世紀代の築造と推定されています。
その後、昭和51年(1976)の調査の記録には「東北部が墳丘にくいこむように削られているものの、他の部分は1960年当時とほぼ同じ保存状態である。現状は径21m、高さ3mを測る。」とあり、この間にも若干の削平を受けているようです。

その後、平成2年には発掘調査により周溝が検出され、この橋北塚が間違いなく古墳であることが確認されています。規模は幅7m、外径36cmと想定されており、埴輪や葺石は確認されていないようです。築造はやはり6世紀代と推定されています。

古墳は、東側と南側が道路、また西側と北側は駐車場となっています。このため四方から観察出来るのですが、狛江市の保存林となっているためか、樹木が多い茂っていて墳丘は見えにくくなっています。
<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
狛江市教育委員会『市内遺跡発掘調査報告書Ⅰ』
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- 2013/04/21(日) 03:47:13|
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画像は、狛江市岩戸南1丁目にある「土屋塚古墳」を北西から見たところです。
この古墳は、円墳に小規模な造出が付設された「造出付円墳」と考えられています。墳端テラスを含む古墳本体の規模は直径35.2mで、墳丘高は4.4mと推定されています。幅10.3m、深さ約2.1mの周溝が検出されていて、周溝を含む最大規模は55.8mとなるそうです。地中レーダー探査によると、墳丘中央からやや北東に埋葬施設の存在が考えられていて、粘土槨である可能性が高いのだそうです。
周囲は宅地に囲まれてはいますが、墳丘は比較的良好に保存されているようです。個人の敷地内にあり、入口が施錠されているので墳丘に上ることは出来ませんが、墳頂部には祠が祀られているようでした。

この土屋塚古墳から発掘された円筒埴輪の内面には、指で押圧を加えた痕跡が認められるのだそうです。この圧痕の大きさは、粘土紐一本の幅と一致するそうで、左手で粘土紐を積み上げるのと平行して左手親指のハラで粘土紐を押し潰していったものと考えられています。これは単なる作業の省略ではなく、なんとこの古墳の埴輪工人全員に共有されている”技法”なのだそうで、しかもこの古墳の技法と最も類似性の高いのは、栃木県宇都宮市の塚山古墳群の「塚山古墳」や「塚山西古墳」の円筒埴輪なのだそうです。ただし、下毛野と南武蔵の間に直接の交流があったとは考えにくいらしく、上毛野を基点として関東各地が結びついていたと考えられているようです。まったく考古学というのは奥の深い世界ですよね。

追記
画像はその、宇都宮市西川田7丁目にある「塚山古墳(塚山古墳群 1号墳)」です。実はこの「塚山古墳」というのは私にとって深い縁のある古墳で、実は私の実家に一番近い古墳なのです。初めて間近で見た大きな前方後円墳が、この塚山古墳でした。そんなこともあり、土屋塚古墳を調べていて塚山古墳の名前が出てきたときにはびっくりしました。
この墳丘の植栽のセンスはいかがなものかとは思いますが(これを復元と呼べるのか?)、ただし墳丘上で前方後円の形状を実感しやすかったりとそれはそれで利点もあったりするわけで、私には日本で一番なじみの深い古墳なのです。いずれは地元の古墳も紹介できたら良いなと思っています。。。
<参考文献>
狛江市教育委員会『土屋塚古墳発掘調査報告書』
- 2012/09/11(火) 03:29:54|
- 狛江市/狛江古墳群(岩戸)
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