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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「東塚古墳」

「東塚古墳」

 「東塚古墳」は、狛江市中和泉1丁目に所在する古墳で、『東京都遺跡地図』には狛江市の遺跡番号46番の古墳として登録されています。画像は、この東塚古墳を東から見たところです。

 この古墳は、昭和62年(1987)に墳丘の測量と発掘調査が行われており、古墳周溝の北東部分が検出されています。現存する墳丘は、南東側の墳端から墳丘中腹にかけてと、西側墳裾部が削平されており、また南側中腹も局地的に大きく削られています。発掘調査と並行して行われた墳丘測量の結果、本来の墳丘径は径35m、高さ5m、墳頂平坦部径8mの円墳で、従来考えられていたよりも若干大きいことがわかっています。また、墳頂部近くにテラス状の部分が認められることから、墳丘が二段築成である可能性も考えられるようです。


「東塚古墳」

 画像は、南から見た東塚古墳のようすです。
 大きな石が何段にも積まれており、見た目は庭園の築山という印象です。
 この古墳の埋葬施設については、墳丘の発掘が行われていないことから未確認であるようです。また、以前より葺石の可能性が考えられていましたが、これも調査の結果、確認されなかったようです。周溝内からは、土師器片のほかに、2種類の円筒埴輪と朝顔形円筒埴輪が検出されています。


「東塚古墳」

 古墳の南側から、墳丘に登れる石段が造られています。早速、登らせていただきました。


「東塚古墳」

 石段の途中のようすです。さらに登っていきます。


「東塚古墳」

 墳頂部が見えてきました。
 石段は登っていくに従って段々小さくなっていくのですが、ひょっとして古墳が大きく見えるように計算して造ったのでしょうか?


「東塚古墳」

 墳頂部のようすです。竹林となっている中に鳥居が立てられており、その奥には祠が祀られています。


「東塚古墳」

 かつては「百塚」とも称せられた狛江の大古墳群も、その後の開発による削平が続き、残存する古墳はわずか十数基です。今、残された古墳だけでもなんとか保存されないものかと願うところですが、狛江の街も少しずつ開発が進んでいるようです。
 いっそのこと「古墳の街」とか言って大々的に町おこししちゃえばいいのに、と思うんですが、なかなか難しいでしょうかね。徒歩数分の場所にこれだけ多くの古墳が残されているのは東京都内でも狛江だけですし、良き開発が行われることを願いたいものです。。。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅱ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』


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  1. 2018/05/13(日) 22:07:46|
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「松原東稲荷塚古墳 その2」

「松原東稲荷塚古墳」

 画像は、狛江市中和泉1丁目にある「松原東稲荷塚古墳」を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号48番に登録されている古墳です。

 狛江古墳群は和泉、猪方、岩戸と、大きく3つの支群に分けられており、この「松原東稲荷塚古墳」は和泉の支群に属しています。東方100mには「東塚古墳」が現存しており、北方100m程の地点にはかつて「絹山塚古墳」があったとされています。
 松原東稲荷塚古墳は、昭和35年(1960)に当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査により把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には、10番に「稲荷塚」という名称で取り上げられています。
 同書に掲載されている当時の記録によると、墳丘は西側の約3分の1が大きく削り取られており、また東と北の墳丘裾部も削平されて民家が位置していました。墳頂部には稲荷祠が祀られて、樫などの繁る屋敷森となっていたようです。これは、近年まであまり変わらない状況であったように思いますが、最近になって墳丘西側の2階建ての集合住宅が取り壊されており、また墳丘上に繁っていた竹などが伐採されて、古墳の全体が見やすくなっているようです。


「松原東稲荷塚古墳」

 昭和35年当時の規模は、東西径約30m、南北径約28mで、高さは、東側裾部で3.35m、南側で3.8mで、本来の規模は、径約33m、高さ約4mの円墳と推定されています。墳形は円墳とされていますが、帆立貝形の可能性も想定されているようです。
 画像は、西側から見た松原東稲荷塚古墳です。墳丘が大きく削られているようすを見ることが出来ます。
 墳丘には葺石が存在しており、10~20cm大の河原石が使用されています。また円筒埴輪の破片も確認されているようです。


「松原東稲荷塚古墳」

 この大きく削平された墳丘断面には、巾3m、厚さ0.8mの主体部の礫部がのぞいています。上段墳丘の頂部から掘った舟底形土墳に5cm~15cmの河原石を充塡するように構築するとされています。画像が、内部主体ではないかと思われる現在の礫部のようすですが、調査から50年以上が経過していますので、墳丘の崩壊が若干進んでいるように見えます。
 その後の、昭和51年(1976)に行われた調査の際には、この礫部の断面から鉄鏃と刀子片が採集されており、礫部内からは直刀片が確認されているようです。


「松原東稲荷塚古墳」

 墳丘の東側のようすです。こちらも、西側ほどではありませんが、若干削られています。
 民家の存在により土留めが行われているようです。


「松原東稲荷塚古墳」

 古墳の南側から墳頂部に登るための石段が造られています。
 土地の所有者の方にお断りしてお参りさせていただきました。早速登ってみます。


「松原東稲荷塚古墳」

 墳丘上には、稲荷祠が祀られています。
 数年前までは鬱蒼とした屋敷森となっていたので、路上からこの稲荷祠を確認することは出来ませんでした。。。


「松原東稲荷塚古墳」

 墳頂部から、削られている西側を見下ろしてみました。かなり高さが残されていることがわかります。
 「百塚」と呼ばれる程多くの古墳が存在した狛江市内も、そのほとんどの古墳が破壊されて消滅しています。それでも十数基の古墳が残存するという中、残された古墳だけでもしっかりと保存されると良いですよね。また、風化や崩壊が進まないうちにしっかりと調査が行われると良いと思います。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』


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  1. 2018/05/11(金) 00:08:36|
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「印塔塚」

狛江市「印塔塚」

 画像は、狛江市元和泉1丁目の「泉龍寺」を南から見たところです。
 泉龍寺境内の説明板によると、曹洞宗寺院の雲松山泉龍寺は、奈良東大寺の別当として名高い良弁僧正が天平神護元年(765)にこの地を訪れ、法相宗の奥義を広めたことに始まるとされています。天歴3年(949)には、増賀聖が廻国の折に天台宗に改めて境内をひらき、堂宇を建立しましたが、中世の戦乱期には寺は荒廃し、草庵だけとなっていましたが、ここに、槽洞宗通幻派の桂破泉祝和尚が行脚中に訪れ、堂宇を建立して寺を復興し、多くの僧徒が参集しました。天正18年(1590)の徳川家康の関東入国後には、和泉村の領主、石谷清定が瑞牛和尚に帰依してともに諸堂を整備しました。江戸時代には徳川将軍家から朱印地20石を拝領し、境内は1万6,900坪に及んだといわれています。


狛江市「印塔塚」

 この泉龍寺境内には「印塔塚」と呼ばれる古墳が所在したといわれています。
 この古墳は、昭和35年(1960)に行われた狛江古墳群の分布調査の際に把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には44番の「円墳」として取り上げられています。同書には「若干起状があり径10m前後を推定 台地の南側縁辺に近い位置」とあり、当時すでに破壊を受けて若干の起状となっているものの、まだ痕跡の残されている古墳のようすが記されています。
 その後の昭和51年(1976)の調査の記録には「泉龍寺境内の北部にあり、現在は墓地となっており、ほとんど削平されている。わずかな微高を示し、その範囲は径26m程度である。」とあり、この時期には古墳は墓地として改変されていたようです。
 その後、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には、この古墳は記載はなく、『東京都遺跡地図』にも未登録となっています。

 画像は、泉龍寺本堂北側の印塔塚の所在地とされる周辺のようすです。実際に現地を訪れて肉眼で見てみると、画像中央の通路の部分が盛り上がっているようすが観察できるのですが、写真で見るとちょっと判りにくいかもしれません。古墳の所在地とされるほぼ全域が墓地として使用されていることから、発掘調査が行われる可能性等はちょっと考え難いところですが、このわずかなマウンドが古墳の痕跡と考えて差し支えないのではないかと思います。
 「印塔塚」という名称からして、墳丘のどこかに宝篋印塔が建てられていたのではないかと思うのですが、この宝篋印塔の存在は確認することが出来ませんでした。。。

<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2018/01/26(金) 22:51:57|
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「庚申塚」

「庚申塚」

 「庚申塚」は、昭和35年(1960)に当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査により把握されていた古墳です。狛江市教育委員会より発行された『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている「狛江古墳群地名表」には27番に掲載されています。
 同書には、古墳の所在地は旧番地の「和泉1678番地」とあり、「10m内外の規模か 台地の中央部より北側の位置」とあり、また「寺境内」とも書かれています。
私が入手した古地図で確認したところでは、画像の区画のあたりが「和泉1678番地」となっているようです。現在はこの周辺にお寺は存在しないようなのですが、古地図にはこの一角は「庭園」と書かれています。ひょっとすると、かつて存在したお寺の中に庚申塔が祀られた古墳らしきマウンドがあり、このお寺の名残で、昭和の頃までは「庭園」が残されていた、というところなのかもしれませんが、これ以上の詳細はわかりませんでした。



「庚申塚」

 画像は、和泉本町1丁目に所在する「松原庚申堂」を西から見たところです。

 先ほどの、庚申塚の跡地(庭園の跡地?)とされる和泉1678番地から数十メートルほど南側という、かなり近接した場所に存在するお堂です。この場所にも、古墳らしきマウンドは存在しないようですが、庚申塚に立てられていた庚申塔がこのお堂に移されているという可能性は、十分に考えられるところです。

 とりあえず、庚申塚についてわかったことはここまでです。(というよりもほとんど何もわからなかったわけですが)庚申塚という性格からして古墳というよりは塚だったのではないかとも考えられますが、これ以上の痕跡を見つけることはできませんでした。。。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』


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  1. 2018/01/22(月) 02:50:59|
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「絹山塚古墳」

「絹山塚古墳」

 画像は、狛江市中和泉1丁目に所在した「絹山塚古墳」の跡地を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には狛江市の遺跡番号47番の古墳として登録されています。

 この古墳は、住宅建設のために破壊寸前となった昭和36年(1961)5月に緊急調査が行われています。もともとこの古墳は名称のない古墳だったそうですが、この発掘の際に土地所有者の名前から「絹山塚」という名称がつけられたのだそうです。
 発掘調査の結果、直径40m前後、高さ5mほどの円墳で、当時すでに墳丘の南側約3分の1が削られていました。墳頂部が径約18mにわたって平坦となり、墳頂部中央に深さ約70cmほど低下した窪みがあったそうです。墳丘中央部に礫群が集中して発見され、大刀小破片1個が出土しています。また同地点から寛永通宝2枚と陶器片若干が発見され、江戸時代にこの古墳が盗掘されていることが明らかになっています。
 墳丘裾には幅8.5m、深さ1mほどの周溝が取り巻いていることが判明しています。築造は6世紀前半と推定されているようです。

 その後、古墳は宅地化により消滅。現在は集合住宅が建てられており、古墳の痕跡を見ることはできないようです。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
日本考古学協会『日本考古学年報14』


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  1. 2018/01/21(日) 00:57:07|
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「圦上峡塚(いりうえきょうづか)古墳」その2

狛江市「圦上峡塚古墳」

 さて、今回は、以前に一度この『古墳なう』で取り上げた「圦上峡塚古墳」のその後のようすです。

 圦上峡塚古墳は、狛江市中和泉4丁目に所在したとされる古墳で、『東京都遺跡地図』には遺跡番号66番の古墳(円墳)として登録されています。かつて、古墳ではないかと推定されたマウンドが存在したことから発掘調査が行われ、古墳の周溝が検出されるのではないかと想定されましたが、結局古墳に関する遺構は検出されなかったという場所です。
 2015年1月31日の『古墳なう』では、発掘調査直後の更地となった古墳の所在地の写真を掲載しましたが、わりと最近、近くを通りがかった際に古墳の跡地がどうなっているか気になって見に行ってみました。(自転車でフットワークが軽かったし)が、
 あ、やっぱり、というか、隙間なく宅地化が進んで古墳の面影は何も残されていませんでした。。。

 この圦上峡塚古墳は、古墳の周溝が検出されなかったことから古墳であった可能性は低く、中世以降に築造された塚であった可能性の方が高いと考えられているようです。。。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-311.html

<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2018/01/19(金) 23:39:45|
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「原塚」

「原塚」

 画像は、狛江市中和泉2丁目に所在したとされる「原塚」の跡地周辺を南から見たところです。『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている昭和35年(1960)作成の「狛江古墳群地名表」には20番に取り上げられており、「台地中央部」に所在する「円墳?」として記されています。
 地名表にある番地と古地図を照らし合わせると、画像の道路の左側あたりが古墳の所在地となるようです。戦後の空中写真で確認したところでは、左側の区画の左奥の角の場所に不明瞭ながらも塚らしき円形の影が確認できるのですが、道路の右側にも耕作が行われていない林(か草むら?)が存在します。このあたりが古墳の候補地かなと思いますが、すでに痕跡は全くなく、正確な所在地を知ることは難しいようです。


「原塚」

 画像は、原塚の跡地周辺で見かけた、個人の邸宅内の築山です。ひょっとしたらこれも古墳跡で、元々存在した古墳を流用して造られた築山ではないかとも考えましたが、真相はわかりません。ちなみに空中写真にある原塚らしき円形の影はこの場所に隣接する東側にあります。


「原塚」

 別角度から見た築山のようすです。こちらから見るとデカイんですよね。笑。
 もしこれが古墳であれば、古墳の中心部は右手の駐車場のあたりかと思われますが、真相はわかりません。
 いや、いつもの古墳病にかかっているのかもしれませんね。。。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』


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  1. 2018/01/18(木) 23:59:31|
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「長者塚」

「長者塚」

 『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている、昭和35年(1960)に作成された「狛江古墳群地名表」には137基もの古墳(かもしれないマウンドも含めて)が掲載されています。残念ながらそのほとんどは開発により削平され、詳細はわからなくなっているようです。中には名称がつけられている古墳も少なからず存在しており、なにか由来がわかるのではないかと考えて色々調べてみましたが、詳細はわかりませんでした。

 画像は、狛江市中和泉2丁目に所在したとされる「長者塚」の跡地周辺を南から見たところです。『狛江市の古墳(Ⅰ)』掲載の、昭和35年(1960)作成の「狛江古墳群地名表」には、19番の古墳として記載されていますが、詳細は一切不明です。地名表にある番地を古地図で確認すると、画像の道路と道路の間の区画が古墳の跡地となるようですが、残念ながら痕跡は一切なく、正確な跡地を特定するには至りませんでした。。。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』


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  1. 2018/01/17(水) 21:49:00|
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「小町塚」

「小町塚」

 狛江市は、古くから多くの古墳が存在することで知られており、俚伝などによると、和泉、猪方、岩戸の各地区を中心に200基以上にのぼるともいわれてきました。古くは、鳥居龍蔵氏の「武蔵野会」にも属していたという、地元在住の郷土史家である石井正義氏が狛江町に分布する古墳の調査を進め、『狛江百塚の記』を著しています。その後、子息の石井千城氏が補訂して冊子『狛江百塚』にまとめられており、同書に掲載された古墳の数は77基を数え、狛江古墳群を知る最初の手がかりとなっています。
 その後、昭和35年(1960)には狛江町全域の古墳分布調査が行われ、18基の古墳が現存を確認されるとともに、この時期に作成された「狛江古墳群地名表」には137基の古墳が掲載されています。そして、さらに昭和51年(1976)には狛江市内全域の古墳と遺跡の分布調査が狛江市教育委員会により取り組まれ、『狛江市の古墳(Ⅰ)』にまとめられています。

 画像は「小町塚」の跡地と考えられる周辺のようすです。昭和35年(1960)作成の「狛江古墳群地名表」には11番の番号で、「台地西側縁辺」に所在する「円墳」として掲載されており、「宅地により平夷」とあることから、当時すでに消滅していたと考えられる古墳です。地名表にある地番を古地図に当てはめて確認したのが画像の地点であり、また古地図にはこの場所に「小町」さんという個人宅が記されていることから、土地所有者の姓が古墳の名称に用いられたのではないかと考えられます。
 かつてはこの場所に古墳の可能性のあるマウンドが存在したと考えられますが、現在は集合住宅が建てられており、それらしき痕跡を見ることは出来ないようです。。。

<参考文献>
狛江市『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』


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  1. 2018/01/16(火) 23:41:16|
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「山谷庚申塔(長者塚?・宗超庵?)」

「山谷庚申塔(長者塚?・宗超庵?)」

 さて、今日からしばらくは、狛江市内の古墳を(古墳ではないかと思われる塚も含めて)取り上げていこうと思います。私は、何年か前に狛江市の古墳巡りに夢中になっていた時期があり、その頃はかなり色々と調べてみました。この『古墳なう』で一定期間取り上げたこともあったのですが、すべてを紹介することなく途中で止まっていて、いつの間にか時間が過ぎてしまっていました。もう少し調べればまだ色々判るのではないかと考えて、詳細のわからない古墳をついつい後回しにしてしまう部分もあったのですが、ここでちょっと方向転換!わからないものはわからないものとして(後でなにかわかったことはその時に書き加えることにして)廻った古墳はどんどん公開していこうと思います。

 画像は、狛江市中和泉5丁目に所在する「山谷庚申塔」です。平成5年(1993)に完成したという銅板葺きの庚申堂には2基の青面金剛像が納められています。
 敷地内には、山谷庚申講による説明板が設置されており、次のように書かれています。

  山谷庚申塔
 この庚申塔は狛江市に二十五基残っているもの
のひとつで、本尊は青面金剛といい、右側が宝永
元年(一七〇四)、左側が文化元年(一八〇四)に
建立されたものです。宝永の塔の青面金剛像は合
掌し、斧・矢・索(縄)弓を持っており、他の青
面金剛像が持っている矛・宝輪ではなく、そのか
わりに斧や索を持つ例は珍しいとされています。
開墾・五穀豊穣を祈願したのかも知れません。
上部左右には日月、青面金剛像の下には大きな三
猿、基部には蓮の葉と蕾が彫られています。
そして「奉造立庚申像一尊武州多麻郡和泉村 敬
白/千時宝永元甲申天霜月良辰同行三十壱人」の
銘があります。
 庚申とは干支の「かのえ・さる」を指し、六十
日ごとにめぐってくる庚申の日には、夜を徹して
庚申様に長寿を願う行事を行ってきました。これ
を庚申待ち、または 庚申講と言います。
この行事は中国の道教に由来しており、俗習とし
て日本に伝わってきました。
 また、この地域は 江戸時代より山谷(さんや)
とよばれており、山谷庚申講はその地名とともに、
今でも脈々と受けつがれています。
 銅板葺きの庚申堂が完成したのは平成五年です。
現在は長寿・家内安全・商売繁盛・交通安全など
を祈願する場所になっています。
                    敬白
 平成二十二年十一月 山谷庚申講


「山谷庚申塔(長者塚?・宗超庵?)」

 狛江古墳群は昭和35年(1960)に分布調査が行われており、当時の「狛江古墳群地名表」には1番に「長者塚」が、また2番に「宗超庵」が掲載されています。当時すでに削平されていたというこの2基の古墳(?)は、ともに「和泉19番地」と記されています。この19番地がどこにあたるのかピンポイントに特定することはできなかったのですが、入手した古地図では「山谷庚申塔」の並びの北西側が20番地、南東側が18番地となっており、その間の山谷庚申塔の周辺が19番地である可能性は高いように思います。この山谷庚申塔が、かつて存在したというマウンドに関係があるのではないかと想定して調べていましたが、残念ながら真相はわかりませんでした。
 昭和35年作成の狛江古墳群地名表は古墳とは無関係のマウンドが記載されていた例も多く、また記されている地番も記載ミスが多かったようなので、塚が消滅してしまった今となっては何ともいえないところですが、この庚申堂はとても気になる存在です。。。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市教育委員会『文化財ノート3 狛江の庚申塔』
狛江市教育委員会『文化財ノート24 狛江の庚申講』


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  1. 2018/01/15(月) 23:45:06|
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