
今回は、狛江市中和泉3丁目に所在する「白井塚古墳」の最新画像です。
実は、この白井塚古墳がこれから史跡公園として整備され、公開されるという情報を以前より聞いておりました。
それで、今年10月に古墳カード巡りのために狛江を訪れた際、現状を確認するために、ちょっと遠回りしてこの古墳の横を歩いてみました。
まず最初の画像は、2013年1月に撮影した白井塚古墳です。
墳丘の西側は削平されており、崖状に切り立った上に真っ赤な祠が祀られています。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-118.html(『白井塚古墳』2018年5月15日)http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1236.html(『狛江百塚コンプリート2020 その4』2020年11月27日)
しかしなんと!
今年10月に訪れた時には、紅く目立っていた祠は取り払われていました!

土地の所有者の敷地内に、真新しいお稲荷さんの祠が祀られています。
これはいよいよ史跡公園化に向けて整備が始まったのか!
ということで、あらためて白井塚古墳を見学させていただきました!

10月の白井塚古墳を東から見たところ。
まだ大きな変化は見られないようですが、墳丘上には黒いシートが敷かれていました。。。

ちょっと画像ではわかりにくいのですが、残存する墳丘南側には大きな窪みがみられます。
かつて古墳には防空壕が掘られているそうなので、おそらくはその防空壕が時間の経過とともに崩落してこの窪みになっているのではないか?と考えられますが、このあたりの真相は、これから行われる発掘調査で解明するのかもしれません。。。

墳頂部にかつて祀られていたお稲荷さんの祠と鳥居は、すでにみられません。

墳丘南側は1/4ほど削平されています。
画像はその断面の様子です。

墳丘の西側は2/5ほどが削平されています。
かつては版築の様子がはっきりとみられたそうなのですが、現在は覆土が流失してかなり崩れている様子。
このあたりもこれから整備が行われるのでしょうか。。。

比較的、崩れていないのではないかと思われる墳丘断面の様子です。
なんとなく版築の痕跡かな?と思われますが、よくわかりません。
まずは調査の進展が楽しみですね。。。
<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
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- 2021/11/13(土) 23:06:43|
- 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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狛江市で発行されている古墳カード特集その4。
今回は狛江市中和泉3丁目所在の「兜塚古墳」です。
とりあえず、この古墳は大きな変化はないようですね。
狛江古墳群中、最も良好に残る古墳です。
この古墳は、過去にも『古墳なう』にて掲載しています。
詳細は過去の記事を参考にしてくださいませ。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1020.html(「兜塚古墳」2019年9月9日)http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1236.html(「狛江百塚コンプリート2020 その4」2020年11月27日)
これが「兜塚古墳」の古墳カードです!
これでめでたく5種類をコンプリート!
コンプリートした者のみが入手できるシークレットカードも無事にゲットしました!
この企画、地元では多くの子供たちが参加したようです。
引き続き、第2弾のカードの期待できそうですし、狛江以外の地域も含めてもっと盛り上がるといいなあと思っています。
<参考文献>
現地説明板
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- 2021/11/08(月) 20:08:03|
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狛江市で発行されている古墳カード特集その3。
今回は狛江市中和泉1丁目所在の「経塚古墳」です。
周囲を道路やマンションに削られながらも。マンションとマンションの間に残存する古墳で、発掘調査も行われたうえで整備されて保存されています。
この古墳については過去にも取り上げていますので、古墳についての詳細は過去の記事を参考にしてくださいませ。
【このブログの関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-121.html(2013年4月24日「経塚古墳」)
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1238.html(2020年12月2日「狛江百塚コンプリート2020 その6」)

この古墳には、雲松山 泉龍寺・狛江ガーデンハウス管理組合・住友不動産株式会社による説明板が設置されています。
フェンスの内側に設置されていますので、注意深くいないと見落としてしまいそうな説明板です。
次のように書かれています。
経 塚 古 墳
経塚古墳は、5世紀後半ごろの築造と推定される円墳で、
当初、直径40m以上の墳丘に、幅10m以上の周溝がめ
ぐっていました。
以前は、墳丘上に、中世13世紀から16世紀にかけての
板碑が、約30基ほど林立していました。そのうち10数基
は、いまも泉龍寺などに保存されています。また墳丘から常
滑の蔵骨器も出土しています。中世墳墓として再利用された
のでしょう。
さらに経典を埋めたという伝承があり、泉龍寺を開創した
奈良時代の良弁僧正の墓とする伝承もある複合的な遺跡です。
平成9年12月、狛江ガーデンハウス新築に伴ない、泉龍
寺と住友不動産株式会社により、土留め等の整備がなされ、
貴重な文化財として保存されることになりました。
平成10年3月
雲 松 山 泉 龍 寺
狛江ガーデンハウス管理組合
住 友 不 動 産 株 式 会 社

じゃ〜ん。これが経塚古墳の古墳カードです!

久しぶりにやってきた、「むいから民家園(狛江市立古民家園)」です。
画像は、狛江市の指定文化財となっている「旧荒井家住宅主屋」です。。。

同じく狛江市の指定文化財となっている、「旧髙木家長屋門」です。
古墳を見学して撮影した写真を、市役所3階社会教育課窓口か、このむいから民家園の管理棟にて提示すると、訪れた古墳の「古墳カード」を入手することができます。
一日あれば徒歩でも5箇所の古墳を巡ることはできると思いますし、ぜひコンプリートしたいところですよね。

「旧荒井家住宅主屋」の内部の様子です。
昭和50年代前半、私が少年時代に訪れたじいちゃんばあちゃんの実家も、まだ土間でした。
軒下からピョコピョコとカマドウマが出てくるんですよね。。。
家の中を突き抜けて、奥の庭みたいな空間にゴエモン風呂があって、お湯に浸かりながら見上げると、屋根の隙間から星空が見えました。
今となっては、もう信じられません。。。

こうした神棚も、近頃は見かけなくなりました。。。

これが「歩こう!狛江の古墳」のパンフレットです。
狛江市役所の社会教育課、古民家園、小田急小田原線の狛江駅、和泉多摩川駅などで今年の4月から配布されていたようですが、現在は品切れとなっているそうです。
来年にまた増刷されるかもしれないとのことなので、是非とも手に入れたい一品ですね。笑。

集めた古墳カードは、こ〜んな感じでパンフレットに挟み込むようになっているのですが、これだと裏面が見えなくなってしまうので、、、

私はトレーディングカード用のリフィルシートを別途購入して保存しました。。。o(*^▽^*)o~♪

狛江市の文化財マップと「猪方小川塚古墳」と「亀塚古墳公園」のパンフレットも入手しました。こうした資料も充実してきましたね。
古墳好きとしては、狛江市にこそ郷土資料館ができるといいなあと思っています。
いつの日かぜひ。。。
<参考文献>
現地説明板
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- 2021/11/06(土) 23:38:08|
- 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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今回は、狛江市中和泉に所在する「中宿塚古墳」の探訪の記録です。
この古墳について、古い文献を調べてみました。
昭和10年(1935)狛江村発刊の『狛江村誌』の著者であり、鳥居龍蔵氏の「武蔵野会」にも属していたという地元狛江市の郷土史家、石井正義氏は、昭和初年度に「狛江百塚は墳陵の一にして、此地国造国司の墳墓なり。九十九塚とも車塚とも云う。其の数多く故に百塚と呼称す」として『狛江百塚の記』という手書きの草稿をまとめています。そしてさらに子息である石井千城氏が昭和33年に補訂して、『狛江百塚』としてまとめられています。
私はこの『狛江百塚の記』や『狛江百塚』の実物にはいまだにお目にかかったことがないのですが、昭和60年に狛江市史編さん委員会により発行された『狛江市史』で、この『狛江百塚』についてふれられており、この中に「中宿塚」の名称も見られるようです。
その後、昭和35年(1960)に、狛江市内の古墳の分布調査が行われます。この際、当時残存する古墳の実測調査とともに隠滅した古墳の記録も取られており、この調査結果が、昭和54年(1979)に狛江市教育委員会より発行された『狛江市の古墳(Ⅰ)』に『狛江古墳群地名表』として掲載されています。
「中宿塚古墳」は、この地名表の29番に記録されているようですが、当時既に古墳の現状は「平夷」とされており、形状も「不明」とされています。
画像は、南東から見た現在の中宿塚古墳です。
まだわずかに基底部らしき形状が残されており、この高まりが古墳であれば、立派に「残存」と呼んでも良い状態であると思われます。

当日は、土地の所有者の方にに許可を得て見学させていただきました。
この地域の歴史を知る、御歳92歳という土地所有者のおばあさまにお話をお聞きできたのですが、昭和の時代には、狛江市や、大学の職員が見学に来ているそうなので、なんらかの調査が行われたのかもしれません。
昭和35年の分布調査以降、この中宿塚古墳の名が文献に登場することはなく、多摩地区所在古墳確認調査団より発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にも未掲載で、『東京都遺跡地図』にも登録されていません。
もちろん、古墳ではなく塚である可能性も考えられるところですし、このあたりは今後の調査の進展に期待ですね。

墳頂部の様子です。
歩いてみると地面がフカフカしていました。おそらくは、農地として長年耕作が行われたためであると思われますが、墳丘上は平らにならされているようですし、長年、農地として使用されていたことこが、古墳の存在がいつしか忘れ去られてしまった要因なのかもしれません。

墳丘の南側には小さな祠が祀られていました。
古墳との関連は不明ですが、もしかしたらかつて墳丘上に祀られていたのかもしれません。

この中宿塚と近接する場所には「飯田塚」という古墳が存在したといわれています。
遺跡番号57番の「飯田塚古墳」とはまた別の、『東京都遺跡地図』には登録されていない古墳です。
『狛江市農業協同組合史』によると、飯田塚は中宿塚古墳と南北に隣り合った場所に存在しており、塚のように小高くなっていたといわれています。この高まりはすでに消滅しているようなのですが、戦後の空中写真にはこの飯田塚と思しき地形が見られるようです。
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)3月29日に米軍により撮影された空中写真です。わかりやすいように周辺を切り取っています。
もちろんこれが飯田塚である確証はありませんが、少なくとも民家であるようにも見えません。果たしてこの影が飯田塚古墳なのでしょうか。

画像の道路の左側が、空中写真に見える古墳らしき地点となります。
現在もこの道路は、かつて存在した古墳を避けるかのように弧を描いています。
訪れた日、おばあさまには農作業の手を休めて、貴重なお話をいただきました。
楽しい時間をありがとうございました!
<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
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- 2019/11/16(土) 00:17:00|
- 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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画像は、狛江市中和泉1丁目所在の「駄倉塚古墳」を北東から見たところです。
『東京都遺跡地図』には44番の古墳として登録されています。
この古墳は、以前にも一度取り上げていますが、今年の6月頃、「松原東稲荷塚古墳」と「飯田塚古墳」の現況を見学に行った際にこの古墳にも立ち寄りましたので、最新画像ということであらためて紹介しようと思います。
この駄倉塚古墳は、平成5年(1993)の発掘調査により周溝が確認され、直径40m前後の円墳であると推定されています。周溝からは円筒埴輪が出土しており、5世紀後半の築造と推定されています。
6月半ばの写真ですので、かなり緑豊かな古墳となっていますね。。。

駄倉塚古墳は、小田急線狛江駅から徒歩約2分ほどという駅前古墳で、墳丘の南側には隣接して大きなビルが建てられており、今思うとよく残されたものだと感心してしまいます。
この記事を書いていて気がついたのですが、そういえば説明板が見当たらなかったなあと。ひょっとしてビルの内側とかにあったのかな。。。

かつては、この古墳のすぐ横に六郷用水が流れていて、「駄倉橋」という橋が架かっていたそうです。古墳の南側、バス通り沿いの歩道にい「だくらはし」と刻まれた親柱が残されています。
駄 倉 橋 跡
六郷用水に架かる駄倉橋がここにありました。
駄倉橋は、何度か掛け替えられましたが、明治42年
に造られた橋はアーチ橋で、「めがね橋」と呼ばれ人々
に親しまれました。
六郷用水は、慶長2年(1597)から16年かけて徳川
家康の命により代官小泉次大夫末次によって造られた
灌漑用水路で、多摩川の五本松上流辺りから取り入れ
大田区まで全長約23kmに及びます。
この辺りの六郷用水は、昭和40年に埋め立てられ、
同時に駄倉橋も道路下に埋め立てられました。
「だくらはし」と刻まれた親柱がその名残をとどめて
います。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-61.html(2012/09/28 「駄倉塚古墳」)
<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市文化財調査報告書 第16集 狛江市埋蔵文化財調査概報Ⅱ』
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- 2019/09/12(木) 23:35:51|
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画像は、狛江市中和泉3丁目にある「兜塚古墳」を西から見たところです。
『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号55番として登録されている古墳です。
この古墳は、昭和35年(1960)に調査にが行われており、径37m、高さ5mの規模の円墳と考えられていました。その後、昭和51年(1976)の調査では、東西径34m、南北系36m、高さ5mであるとされており、この26年間で墳丘は若干小さくなっているようです。
その後、さらに詳細な調査が行われ、周溝外端まで含めた規模は径約70mとされています。ただし、墳丘南東側の等高線が西側に屈曲することから、帆立貝型前方後円墳の可能性もあるようです。
「兜塚」という古墳の名称からして、帆立貝型前方後円墳という墳形が現実的なのではないかと思われるのですが、このあたりは、今後の調査の進展により、さらにはっきりしてくると思われます。

この古墳は、昭和50年(1975)2月に「東京都指定史跡」に指定され、狛江市により公有化が進められました。周辺は閑静な住宅街として開発が進み、その一角に残されたこの古墳は史跡公園として整備、保存のうえ公開されています。
ちなみに、公園の入り口の扉はいつも閉じられているようですが、施錠されているわけではなく、いつでも自由に見学して構わないそうです。
早速、公園内に入ってみましょう。

公園を入って左側(西側)には、「都史跡 兜塚古墳」と刻まれた石碑と、狛江市教育委員会により説明板が設置されています。
説明板には次のように書かれています。
東京都指定史跡
兜塚古墳
所在地:狛江市中和泉三ー七四九
指 定:昭和五〇年二月六日
兜塚古墳は、昭和六二年(一九八七)と平成七
年(一九九五)に行われた確認調査により、墳丘
の残存径約四三m、周溝外端までの規模約七〇
m、高さ約四mの円墳と考えられます。周溝の一
部の状況から、円墳ではなく帆立貝形の古墳の
可能性も指摘されています。墳丘の本格的な調
査を実施していないため主体部などは良くわかっ
ていませんが、土師器や円筒埴輪が出土してい
ます。円筒埴輪の年代から六世紀前半の築造年
代が考えられています。
兜塚を含む狛江古墳群は南武蔵で最大規模の
古墳群と推定されていますが、墳丘の形状を留
めているのは僅かで、本古墳は良好な状態で遺
存している貴重な古墳といえます。狛江古墳群
では二ヵ所の主体部が発掘調査され、神人歌舞
画像鏡、鉄製刀身、玉類、金銅製馬具などが出土
した亀塚古墳が有名です。亀塚古墳は五世紀後
半から六世紀初頭ころの狛江古墳群の盟主墳と
考えられますが、兜塚古墳は亀塚古墳の次世代
の盟主墳と考えられています。
平成二二年三月 建設
東京都教育委員会
画像は、兜塚古墳を北西から見たところです。
狛江市内に残存する古墳の中では、おそらく一番保存状態の良い古墳です。
どの角度から見てもきちんと円形に見えるという円墳が、東京都内では少ないのです(帆立貝型前方後円墳かもしれませんが)。

接写。
こうして近寄ってみると、古墳の大きさが感じられますね。
私は、こうした古墳公園が大好きで、野毛大塚古墳なんかは心の底から落ち着くのですが、この兜塚の公園にもゆっくりと腰を下ろせるベンチがあるといいなあと思っているというたわ言。。。

墳頂部の様子です。
さすがにある程度の広さがありますね。

墳頂部には三角点の標石が置かれています。
確か、ここが狛江市内で最も高い場所だとお聞きした記憶があるのですが、ちょっと記憶がおぼろげになってきています。。。

墳頂部から北側を見下ろしてみたところです。
かなり高さがあるのがわかります。
周溝の痕跡らしき形状が見られます。

公園を出て、南西角から見た兜塚古墳の墳丘です。

南東から見たところ。
この素晴らしき古墳が、後世に残されることを祈ります。。。
<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅱ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
狛江市教育委員会『兜塚古墳発掘調査報告書』
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- 2019/09/09(月) 00:34:53|
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狛江市内は、古くから「狛江百塚」と呼ばれるなど、かつてはかなり多くの古墳が密集して存在したといわれています。
昭和10年(1935)狛江村発刊の『狛江村誌』の著者であり、鳥居龍蔵氏の「武蔵野会」にも属していたという、地元狛江市内の郷土史家である石井正義氏は、昭和初年度に「狛江百塚は墳陵の一にして、此地国造国司の墳墓なり。九十九塚とも車塚とも云う。其の数多く故に百塚と呼称す」として『狛江百塚の記』という手書きの草稿をまとめています。さらにその後、子息である石井千城氏が昭和33年に補訂して、『狛江百塚』としてまとめられています。
狛江の開発が始まった昭和の高度経済成長期以降、多くの古墳は破壊されて消滅。現在残されている古墳は十数基といわれる中、高度経済成長期以前に書かれたこの『狛江百塚』は、その後の市内の古墳の分布調査においても参考資料とされており、失われてしまった狛江古墳群の復元の手掛かりとなっているそうです。
古くは『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』といった江戸時代の地誌類にも狛江の古墳について多くの記述が見られますが、これらに「百塚」という名称での記載はなく、どうやらこの石井氏の著作が百塚の名の由来となっているようです。
ちなみに私は、この『狛江百塚』をなんとか見られないものかと探してみたのですが、少なくとも図書館に置いてあるような代物ではなく、残念ながら閲覧の夢は叶っていません。ただし、昭和???年刊行の『狛江市史』の中で、わずかながらこの狛江百塚についてふれられています。同書にはもはや聞いたことのない塚の名称がずらりと列挙されており、消滅してしまった多くの古墳の所在地や出土品、由来などが記されているようです。

というわけで。前置きが長くなりましたが、画像は、『狛江百塚』にその名が掲載されている「松本塚」ではないかと考えた塚です。周囲が大きな石で囲まれていてわかりにくいのですが、若干の塚状の高まりが確認できます。
この塚についての情報は、名称以外には全く見つけることができなかったので詳細は不明。最終的に塚の所有者のお宅をお尋ねして奥様にお聞きできたのですが、狛江通りが拡張された頃に造られたものである、という以外に塚の性格や由来は不明で、果たしてこの塚が『狛江百塚』に記載の「松本塚」であるのか、それとも単なる庭の築山であるのか、真相はわかりませんでした。。。

背後から見た塚のようす。
それにしても『狛江百塚』、チャンスがあればお目にかかりたいものです。どう書いてあるんだろう。。。
<参考文献>
狛江市『狛江市史』
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- 2019/09/08(日) 23:11:29|
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前回に引き続き、今回も狛江市の古墳最新レポート!ということで、狛江市の遺跡番号48番、狛江市中和泉1丁目の「松原東稲荷塚古墳」の近況です。
平成30年(2013)4月17日の回、平成30年(2018)5月11日の回と2度、この古墳を取り上げていますが、特に前回は、宅地造成の工事のために古墳の西側のアパートが取り壊されて更地となっており、墳丘上の樹木も伐採されて、全貌が見渡せる状況となっていました。
その後、どうなったかなと気になっていたのですが、昨年の東京文化財ウィークの企画事業「狛江の古墳を歩こう」に参加したところ、この古墳もコースに組まれており、見学することができました。
古墳の所在地と道路の境には真新しい塀が造られていますが、路上から見学できる感じ。西側のアパートがあった場所は工事が行われれていました。

その後、画像は今年の春の松原東稲荷塚古墳です。
西側の宅地建設工事も終わったようです。
この工事に伴う発掘調査は行われなかったのかな?という印象ですが、昭和35年(1960)に、当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査によると、本来の規模は径約33m、高さ約4mと推定されています。墳形は円墳とされていますが、帆立貝形の可能性も想定されていたようです。
近年の狛江市は急速に開発が進められており、古墳を取り巻く状況も大きく変わっているようですが、とりあえず、前回の「飯田塚古墳」、今回の「松原東稲荷塚古墳」ともに、壊されずに保存されたようです。
よかったよかった!
【このブログの過去の関連記事】
http://
gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-119.html(2013/04/17 松原東稲荷塚古墳)
http://
gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-896.html(2018/05/11 松原東稲荷塚古墳 その2)
<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
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- 2019/09/06(金) 01:52:49|
- 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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今回から、狛江市の古墳最新レポート!ということで、いくつかの古墳を紹介していこうと思います。
狛江市内の古墳は、これまで自分なりに細かく調べて、何度も現地を散策しましたが、近年は多くの古墳について発掘調査が進み、整備も進んで状況に変化が見られます。
昨年、あらためて狛江の古墳を見ておきたいという思いと、学芸員の先生のお話を直接聞きながら見学できるということで、東京文化財ウィークの狛江市の企画事業「狛江の古墳を歩こう」に参加しました。
当日、学芸員の先生にどこの古墳を廻るのかお尋ねしたところ、「飯田塚古墳」の名が出てきて「えええええええええっ!」と叫んでしまいました。笑。
実はこの古墳、狛江市内で唯一お目にかかることができなかった古墳です。数年前に一度、飯田塚の所在地ではないかと推測した個人宅を訪ねてみたことがあるのですが、残念ながらお留守で見学の許可を得られず、しかも敷地内を見渡しても古墳らしき高まりは見受けられず、ひょっとしたらもう壊されてしまったのかな?とすごすごと帰宅しました。
そんな飯田塚古墳を見学できるということで、古墳めぐりの当日はテンションが上がりっぱなしでした。
画像は、飯田塚古墳を南から見たところです。

ちょっと角度を変えて、南東から見た飯田塚古墳です。
古墳めぐりの当日は見学の時間が限られていたので、後日あらためて訪れてみたのですが、現場の方に許可を得て近くでゆっくりと見学することができました。
50mほど西側には「白井塚古墳」が残存しており、2基の古墳は「宮前遺跡」内に所在します。この遺跡は調査の機会が多くないことから詳細はわからないようですが、昭和51年には白井塚古墳の発掘調査が行われており、古墳の周溝に切られる古墳時代前期から中期の住居跡が確認されています。周囲には、古墳時代の集落跡が存在していると推定されているようです。

さらにちょっと角度を変えて、南西から見た飯田塚古墳です。
古墳の位置をグーグルマップで確認しましたが、以前訪ねた個人宅の敷地内ではなく、おそらくは敷地の外の塀沿いにあったのでしょうね。古墳の場所が林の中で、藪になっていたので気がつかずに通り過ぎてしまったのかもしれません。。。

西から見た飯田塚古墳です。
墳丘は東側と西側が削られており、南北に長い形状となっています。

墳丘上の様子です。
鳥居が建てられており、お稲荷さんの祠が祀られています。

ちょっと角度を変えて、南西から見た墳丘上の様子です。

墳丘上には河原石が見られます。
ひょっとしたら埋葬施設に使われた石材で、多摩川から運ばれたものなのでしょうか。。。

古墳に隣接する、第4地点の発掘調査の様子です。
この地点からは遺構、遺物が検出されなかったことから、飯田塚古墳は周溝の外周を含めても径25m以下の規模であると想定されているようです。

その後、年が明けて暖かくなってから再度訪れてみたところ、衝撃的な光景が!すでに周囲は宅地化が進み、細い参道を進んだ奥に、さらに小さくなった飯田塚古墳の姿がわずかに見えます。

お稲荷様も、なんだかちょっと窮屈そうですね。
消滅せずに残されただけでも良しとしなければならないところかもしれません。
せめて説明板が設置されれば良いなあと思うのですが、近隣の方々が古墳があることを認識するのは大事なことだと思うし、文化財保護の意識も高まりますしね。
<参考文献>
狛江市教育委員会『市内遺跡発掘調査報告書Ⅵ 平成26〜29年度』
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- 2019/09/05(木) 02:19:31|
- 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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画像は、狛江市中和泉3丁目に所在する「白井塚古墳」を東から見たところです。『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号58番に登録されている古墳です。
この周辺は〈狛江百塚〉と呼ばれ、江戸期にはすでに人々の関心を集めていました。江戸時代の地誌類にも多くの記述が見られ、『武蔵名勝図会』の和泉村の項には「この地并に近村に古き塚多し。謂われあることならんに、絶えて土人の言伝えも聞かず。」とあり、また古塚の項には「大なるは六ケ所、小なるは三ケ所」とも記されています。おそらくは「大なるは六ケ所」という古墳の中にこの白井塚古墳が含まれているのかもしれません。「江戸時代後期の『世田谷領二十ヶ村絵図(嘉永年間頃)』や『和泉村彩色絵図(年代不詳)』にもにもこの白井塚が描かれているようです。
昭和51年(1976)2月には、述べ10日間にわたる調査が行われており、古墳全景の測量や周溝の位置が記録されています。墳丘の規模は、円墳であるとするなら直径36m内外、高さ3.5mで、墳丘の周囲を幅2mのテラスと幅約10mの周溝が取り巻いていることが判明しています。
白井塚古墳の形状は、1961年に西側が2/5ほど、またそれ以前に南側が1/4ほど削平されているようですが、北東部は良好に残されていて埋葬施設の破壊は免れているのではないかと考えられています。造り出し付きの円墳や前方後円墳など、円墳ではない可能性も残されているようです。

墳頂部には、鳥居が建てられており、その奥には稲荷大明神の祠が祀られています。
白井塚古墳は、狛江古墳群の中では比較的大型の古墳です。兜塚古墳や絹山塚古墳と類似する規模で、帆立貝式古墳である亀塚古墳の後円部ともほぼ等しいとこから、古墳群の造営にあたって何らかの統一的企画が存在していた可能性も考えられているようです。
白井塚古墳の埋葬施設は竪穴系であると推定されており、これも亀塚古墳や絹山塚古墳、亀塚古墳などと年代的に近似していると考えられています。白井塚古墳の築造は5世紀後半から6世紀前半と推定されています。

墳頂部から見下ろして見たところ。
周囲はかなり削平されてしまっているようですが、高さはまだ残されているようすがわかります。

画像は、墳頂部に建てられている「稲荷大明神」と刻まれた石碑です。
稲荷祠に祭られている棟札の1枚に「文化十年寅年二月初牛」と記されていることから、この祠が少なくとも江戸時代後期には建てられていることが判っており、またその以前から稲荷大明神が祀られていると推定されているそうです。。。

墳丘には、散在する河原石が見られることから、葺石の存在が考えられているようです。

西側の路上から見た白井塚古墳のようすです。建物の間から、墳頂部の祠を見ることが出来ます。
古墳を削平した際の断面には、ロームの赤土がいくつもの層にわかれた古墳の築造当時のもようがはっきりと残っていたそうですが、古墳の周囲は宅地化が進んでいて見学は困難な状況でした。
当日は、土地の所有者の方に許可を頂いて古墳を見学させていただきました。ありがとうございました。
白井塚古墳は、狛江古墳群の解明にあたって重要な位置を占める、貴重な文化遺産であると思います。
今後も良い形で保存が行われるとよいですね。。。
<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
狛江市教育委員会『市内遺跡発掘調査報告書Ⅰ』
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- 2018/05/15(火) 23:25:28|
- 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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