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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「糟嶺神社古墳」

「糟嶺神社古墳」

 画像は、調布市入間町2丁目にある「糟嶺神社古墳」を南から見たところです。調布市の遺跡番号56番の古墳です。
 この古墳は、多摩川を望む入間台地の南端に位置します。河川の合流域にあり、沖積地に囲まれた独立丘となっているようです。古墳の墳丘と推定されているものが自然地形による独立丘の可能性もあるようで、古墳であると断定されているわけではないようです。


「糟嶺神社古墳」

 東西径40m、南北径33.7m、高さは5.3mあり、円墳と推定されているようですが、北側が明照院により削平されていて、また東側と南側も方形に削平されていますので、実際に現地で見るとまるで方墳のような印象です。これが古墳であるならば、かなり大きな古墳だったように思います。調布市入間町に所在しますが、狛江古墳群の一古墳と考えられているようです。


「糟嶺神社古墳」

 墳頂平坦部の直径は20m前後だそうで、おそらく削られているのだと思いますがかなり広い印象です。その墳頂部には、糟嶺神社社殿と糟嶺神社碑が建てられています。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
  1. 2012/11/29(木) 03:56:00|
  2. 調布市/その他の古墳・塚
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「ミタマ古墳」

「ミタマ古墳」

 画像は、赤羽台1丁目にある「ミタマ古墳」を北西からみたところです。北区の遺跡番号10番の古墳です。すでに墳丘は失われているようですが、うっすらと中央が盛り上がっているようにも見え、フェンスに囲まれて保存されています。

 現在の赤羽西5丁目のあたり、かつての旧陸軍軍用地内には「大塚古墳」と呼ばれる古墳が存在したそうで、少なくとも大正時代頃までは残存していたようです。残されている写真をみるとかなり大きな円墳で、墳頂部に「明治天皇駐蹕之跡」の碑が建てられていたようです。また、この周辺には「十三坊塚」と呼ばれる13の「塚」が点在していたそうで、その中のひとつ、「天王塚」をある夜に2人が盗掘したところ、人骨と直刀が出土したという伝承も残っているようです。この「ミタマ古墳」もひょっとしたらそんな中の1基だったのかもしれません。


「ミタマ古墳」

 「東京都遺跡地図」のインターネット公開版では”円墳?”とされており、”石棺?”とも記載されていて、古墳の周辺には、石材らしき石が点在しています。赤羽台団地は現在解体工事が行われていて、この際に埋蔵文化財の発掘調査もされるようです。この「ミタマ古墳」も調査を待ちたいところです。

<参考文献>
北区史編纂調査会『北区史 通史編 原始古代』
芦田正次郎ほか『北区の歴史(東京ふる里文庫22)』




  1. 2012/11/24(土) 00:27:30|
  2. 北区/その他の古墳・塚
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「二塚」

「二塚」

 画像は、赤塚3丁目にある「二塚」を東から見たところです。

 言い伝えによると、室町時代の赤塚村では大きな戦があり、大勢の人や馬が死んで壊れた弓矢や刀が捨てられていました。それらがいつまでも風雨にさらされていたので村人たちが気の毒に思い、皆で集めてていねいに埋めてやることにしたのだそうです。二つの穴を掘って、人や馬の亡がらや壊れたいくさ道具を集めてそこに入れて、土を盛って塚を造りました。その後、二つの塚のある場所を「二塚」と呼ぶようになったのだそうです。
 もう一つの塚はいつの間にか壊されてしまったようで、今ではこのひとつの塚しか残されていません。「東京都遺跡地図」のインターネット公開版には記載されていない塚なのですが、「二塚供養碑」が建てられていて、地主の人によりきれいに手入れがされているようす。

<参考文献>
板橋区教育委員会『いたばしの昔ばなし』
板橋史談会『改訂版 いたばし郷土史事典』




  1. 2012/11/23(金) 02:26:15|
  2. 板橋区/その他の古墳・塚
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「御成塚」

「御成塚」

 画像は、板橋区坂下1丁目にある「御成塚」を西から見たところです。

 寛永12年10月7日、徳川三代目将軍の家光がこのあたりで鹿狩りをしたという記録があるそうで、また八代目将軍の吉宗は人一倍狩りが好きだったそうで、盛土で塚を築いてその頂上にいすを置いて腰掛けて狩りをするところに合図を送ったり、また自分も弓を持って狩りをしたのだそうです。現代の東京からは想像もつきませんが、古くは鶴や雁、鴨などがたくさん住んでいたようです。
 元々この塚の高さは4.5mほどもあり、頂上まで登り降りするための道がサザエのように螺旋状になっていたことから、地元では「栄螺山(さざえやま)」と呼ばれていました。享保4年には、キジ25羽と小亀1匹を獲物として捕獲したという記録が残っているそうです。

 『新編武蔵』には、下記のように記されているようです。

『御立場中山道より南三丁(330m)あり、享保年中に築かせ給う所にて今も御放鷹の時御腰掛を設しめ給う。高さ一丈五尺許(4.5m)、其の登れる道其塚宛も栄螺の如きをもて土俗栄螺山と唱う、又此の地に続きて御栗林と称する所あり、是も享保の頃栗樹許多を植えさせられしよりの名なりと云う。』

 「東京都遺跡地図」のインターネット公開版にはこの塚は記載されていない状況ではありますが、現在では志村公園内にこの「御成塚」が残されているほか、「御成橋」や「御成塚通り」といった地名にもその名称が残されています。また、小豆沢地区にも御立場の跡があったそうで、かつては土が盛られて小高くなっていたそうですが、削平されて今は正確な場所はわからなくなっているそうです。

<参考文献>
板橋区教育委員会『いたばしの昔ばなし』
板橋史談会『改訂版 いたばし郷土史事典』




  1. 2012/11/20(火) 23:52:11|
  2. 板橋区/その他の古墳・塚
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「赤羽台1号墳」

「赤羽台1号墳」

 画像は、北区赤羽台4丁目にある「赤羽台1号墳」を南から見たところです。北区の遺跡番号6-1番にあたる古墳です。

 この古墳の所在するこの一帯は、かつては隣接する八幡神社の境内の森だったそうですが、砲兵連隊の駐屯地として整地された後に戦後の宅地開発などもあり、ほとんどの墳丘は削平されていたそうです。その後、東北新幹線建設に関連する工事に先立つ発掘調査が行われて、合計15基の円墳が確認されました。現在はそのほとんどが星美学園の敷地になっており、この古墳群は「赤羽台古墳群」と呼ばれています。「赤羽台1号墳」はこの中で唯一墳丘の痕跡の残っている古墳で、径31mの円墳とされていますが、削られてかなり小さくなっているようです。

「赤羽台1号墳」


 敷地内には、他にも古墳かもしれない痕跡が残されています。画像左下の4号墳があったと思われる地点には小さな盛土が残されています。また、画像右下の7号墳があったと思われる地点にも塚状地形が見られます。

「赤羽台4号墳?」「赤羽台7号墳?」


 下の画像の9号墳があったと思われる地点は、学校の築山となって保存されているのでしょうか。。。

「赤羽台9号墳?」

 学校の受付で許可を得て見学させていただきました。ありがとうございました。

<参考文献>
北区史編纂調査会『北区史 通史編 原始古代』
品川区立品川歴史館編『東京の古墳を考える』


  1. 2012/11/18(日) 11:30:18|
  2. 北区/赤羽台古墳群
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「赤羽台第3号古墳石室」

「赤羽台第3号古墳石室」

 画像は、北区十条台1丁目にある「赤羽台第3号古墳石室」を南から見たところです。北区赤羽台4丁目の「赤羽台古墳群」で確認された15基の円墳の中の1基である「赤羽台第3号古墳(北区の遺跡番号6-3番)」の石室を、北区十条台の中央公園内に移設保存したものです。

 「赤羽台古墳群」では、5基の古墳で埋葬施設が確認されています。この3号墳は、東方向に開口する全長4.1mの横穴式石室で、側壁も下部を残すのみで天井石も失われていましたが、床面は良好に残されていました。石室側壁には「房州石」が用いられていて、石室内からは多くの遺物が出土したそうです。また他に4号墳、5号墳、6号墳、7号墳の石室が確認されており、4号墳からは古墳群中唯一埴輪が出土しているようです。

「赤羽台第3号古墳石室」

 上のドーム状の施設の中に移設展示されていてガラス越しに見学出来るようになっていますが、中が薄暗いのとガラスが汚れていてよく見えないのが惜しいところです。飛鳥山公園など、もう少し目立つところに移設しても良かったのではないでしょうか。。。

<参考文献>
北区史編纂調査会『北区史 通史編 原始古代』
現地説明版




  1. 2012/11/17(土) 19:55:22|
  2. 北区/赤羽台古墳群
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  1. 2012/11/14(水) 01:25:21|
  2. 未分類
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「砧大塚」

「砧大塚」

 画像は、砧公園1丁目にある「砧大塚」を西から見たところです。世田谷区の遺跡番号47番の塚です。

 この塚は古来より「大塚」と呼ばれていて、かつては西岡秀雄氏により「西岡第1号古墳」として紹介されていました。しかし、1959年に大場磐雄氏により発掘調査された結果、葺石や埴輪、主体部も発見されず、盛土はすべて真っ黒な腐植土壌で、発掘された遺物も鎌倉から室町期の土師皿や中世の通貨などであったそうです。つまりはこの結果、この塚は古墳ではなく、上人塚や行人塚、念仏塚に類するものと推定されているようです。規模は、径22.5m、高さ4mとされています。
 元位置は南東約50mの位置にあったようですが、東名高速道路の建設のため1967年にこの位置に移築保存されています。

<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』



  1. 2012/11/09(金) 06:27:51|
  2. 世田谷区/その他の古墳・塚
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