
画像は、狛江市中和泉1丁目にある「経塚古墳」を南から見たところです。狛江市の遺跡番号51番にあたる古墳です。
墳丘は、北側の半分が削平されていて、また西から南にかけても裾部が削平され、1960年の実測調査の時点で東西径28m、南北径1mとかなり小さく削られていたようです。平成8年に行われた調査では周溝が検出されており、出土した円筒埴輪片から5世紀後半の築造が推定されています。元々は径40m以上の大型の円墳であったと考えられ、そのまわりを幅約11〜14m、深さ1.5mの周溝が取り巻いていたと推定されています。狛江古墳群において「亀塚古墳」、「兜塚古墳」に次ぐ規模を有していた可能性が高いようです。

画像は、1834年に刊行された江戸時代の地誌『江戸名所図会』の「経塚古墳」のようすです。かつてはこの古墳の墳丘上に13世紀から16世紀にかけての板碑が林立していたそうで、画像が荒く見えにくいかもしれませんが、左上の経塚古墳の墳丘上の松の木の下に板碑が描かれています。また、墳丘から常滑の蔵骨器も出土しているそうで、中世の宗教的な施設として古墳が再利用されていたということのようです。
この『江戸名所図会』には下記のような記述があり、これが「経塚古墳」の名前の由来となっているようです。
「雲松山泉竜寺 経塚 寺より後の方、用水堀を越えて一丁あまり艮の方、畑の中にあり。少さき岡の上に三囲ばかりの老樹あり。往古、良弁僧都この所に佛経を埋め、松を植えて印とす。この樹下に古牌六枚あり。」
(多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』75ページ)
また、『武蔵名勝図会』にもこの「経塚古墳」ついて下記のように記述されています。
「泉竜寺 経塚 廻り五間余、高さ九尺。客殿の西北の方一町半程を隔つ、但し境内の地なり。伝云良弁僧正経巻を納めたる塚ゆえに経塚と云。」
(多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』75ページ)
また、『新編武蔵風土記稿』にもこの「経塚古墳」ついて下記のように記述されています。
「泉龍寺 経塚 本堂より一町半余、西北の間にあり、則境内なり、寺僧相伝ふ、前代良弁といへるが経文を納めたるところなりと、されど村内に大なる塚十三四あり、其内をいつの比か切崩せしに、中より朽ちたる鐵又は甕の類を得たりと云ことあり、恐くは昔し任せる人の墳墓なりやと土人は云り
(多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』75ページ)


墳丘には階段が設けられていて墳頂部まで登ることが出来ます。墳丘への入り口は普段が施錠されていて、墳丘内への立ち入りには許可が必要です。当日は狛江ガーデンハウス管理室に声をかけて見学させていただきました。ありがとうございました。。。
<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
経塚古墳遺跡発掘調査団『経塚古墳遺跡発掘調査報告書』
現地説明版
- 2013/04/24(水) 03:47:02|
- 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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画像は、狛江市岩戸北3丁目に所在する「橋北塚古墳」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号25番に登録されている古墳です。
この古墳は、昭和35年(1960)に行われた狛江古墳群の分布調査において把握されており、当時の『狛江古墳群地名表』には135番に「三角塚」という名称で記載されています。この調査の際に測量調査が行われており、古墳の規模は、東西径22m、南北径21m、高さは2.85〜3mと計測されています。南側と西北側が削り取られているものの比較的全体の形状をとどめており、本来の規模は径約25m、高さ3.5mほどの円墳であったと考えられています。主体部は不明であるものの、竪穴系のものと推定されており、6世紀代の築造と推定されています。
その後、昭和51年(1976)の調査の記録には「東北部が墳丘にくいこむように削られているものの、他の部分は1960年当時とほぼ同じ保存状態である。現状は径21m、高さ3mを測る。」とあり、この間にも若干の削平を受けているようです。

その後、平成2年には発掘調査により周溝が検出され、この橋北塚が間違いなく古墳であることが確認されています。規模は幅7m、外径36cmと想定されており、埴輪や葺石は確認されていないようです。築造はやはり6世紀代と推定されています。

古墳は、東側と南側が道路、また西側と北側は駐車場となっています。このため四方から観察出来るのですが、狛江市の保存林となっているためか、樹木が多い茂っていて墳丘は見えにくくなっています。
<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
狛江市教育委員会『市内遺跡発掘調査報告書Ⅰ』
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- 2013/04/21(日) 03:47:13|
- 狛江市/狛江古墳群(岩戸)
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画像は、狛江市中和泉1丁目にある「松原東稲荷塚古墳」を南西から見たところです。狛江市の遺跡番号48番の古墳です。
狛江古墳群は和泉、猪方、岩戸と、大きく3つの支群に分けられており、この「松原東稲荷塚古墳」は和泉の支群に属しています。東方100mには「東塚古墳」が現存しており、北方150mの地点にはかつて「絹山塚古墳」があったとされています。
この古墳は墳丘の西側が大きく削られており、集合住宅が建てられています。この断面には礫槨が露出していて、昭和51年(1976)の調査では刀子と鉄鏃が採集され、礫槨の内部に直刀が確認されているそうです。本来の規模は、径約33m、高さ約4mの円墳と推定されています。昭和35年(1960)の調査では10~20cm大の河原石による葺石が確認されており、また円筒埴輪片が採集されているそうです。
樹木が多い茂っていて見えにくくなっていますが、墳頂部には祠が祀られています。
<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
- 2013/04/17(水) 01:45:08|
- 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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画像は、多摩市百草にある「稲荷塚古墳」を西からみたところです。多摩市の遺跡番号5番の古墳です。
この古墳は、多摩川の支流である大栗川右岸の台地状の丘陵に立地します。初めて発掘されたのは昭和27年で、その後、昭和61年以降に3回の確認調査が実施されています。明治時代に墳頂部が削平されて恋路稲荷神社が建てられており、本来の高さは4mほどであったと推定されています。周溝が直線的で角が意図的に深く掘られていることから、全国でも10例ほどしか報告されてない「八角形墳」であると考えられているそうです。東京都内の7世紀代の古墳としては大型の部類に属する古墳です。

規模は、第1段の径34m、第2段の径22mの八角形墳で、周囲には幅約2mの周溝が巡っています。主体部は全長7.7m、玄室の長さ約3.8m、幅約3m、前室の長さ約2.3m、幅約1.7m、羨道の長さ約1.6m、幅約1,2mの横穴式石室で、凝灰岩質泥岩を用いた切石切組積胴張り複室構造です。6世紀から7世紀にかけての多摩地域の古墳は、河原石積の横穴式石室を持ち、径10~20m台の円墳である場合が多いようですが、この「稲荷塚古墳」は切石切組積胴張り複室構造の石室を持ち、石室構築技術や古墳の規模において優位性を持つことから、多摩地域の首長墳と考えられているようです。

以前は墳丘に木造の覆屋が建てられていて、この中で横穴式石室が露出公開されていたそうですが、石材の劣化が目立ってきたため平成9年度に保存措置を講じたうえで埋め戻されています。現在では2種類のブロックによって色分けされていて、石室の大きさや位置などが判るようになっています。

昭和32年に発表された『古墳殺人事件』(島田一男著)はこの「稲荷塚古墳」の発掘調査の様子を題材とした小説です。今でも文庫本として出版されています。八王子市郷土資料館から発行されている『多摩の古墳』にこの本の記事があり、購入してみました。ミステリー小説ですが、古墳についてのリアルな描写もあって思わずニヤリとさせられる場面もあります。古墳好きにはお薦めです!!!
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩市史編集委員会『多摩市史 通史編 一』
八王子市郷土資料館『多摩の古墳』
たましん歴史・美術館 歴史資料室『多摩の歩み 第137号 特集 多摩川流域の七世紀代古墳』
- 2013/04/11(木) 01:10:48|
- 多摩市/和田古墳群
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「臼井塚古墳」は、多摩川の支流である大栗川右岸の台地状の丘陵に立地する、多摩市の遺跡番号4番の古墳です。多摩市百草に所在します。
この古墳は昭和27年に発掘されており、墳丘は削平されて残されていないため墳形や規模は不明ですが、全長約5mの凝灰岩切石積の横穴式石室が報告されています。東方約50mに所在する「稲荷塚古墳」の前室壁面が胴張りであるのに対して、この「臼井塚古墳」は直線状になっており、「稲荷塚古墳」に続いて7世紀前半に築造されたと考えられているようです。
江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』にはこの「臼井塚古墳」のほか、「稲荷塚古墳」や「庚申塚古墳」といったこの周辺の古墳も含めての記述が見られます。
古墳 村の南西の方、小名荒原と云所にあり、この地の山上にて、その広さ二三百坪あるべし、墳の数すべて三ケ所あり、いづれも径り九尺許もあるべし、もとはあまたならびありしが、耕作のさまたげとなるにより、心なき土民なれば、ほりあばきて陸田とせしと云、近き比またその一つをあばきしに、墳の中より出し器物さまざまあり、今松連寺に蔵する数品なり、その余今も此辺に明器とおぼしき磁器の、残欠数多つみて山のごとし、按にこの墳のさまをみるに、径り二尺ばかりづつの丸き石を以て、方四尺ほどに甃にす、深さは一丈余もあるべし、他の古墳を以考ふるに、すべて三等ほどの品ありとおぼゆ、この墳はそれにくらぶれば、尤下等のものなり、内より刀剱等の出るを以てみるに、考徳天皇の御宇、制度さだめられしより、前のものなることは論なし、されば古への直首などといひし役を、つとめし人々を葬せし古墳にや
(『多摩川流域の古墳』79ページ)
この古墳の北方約500mには「塚原古墳群」が存在しますが、同じ台地上にありながら「臼井塚古墳」や「稲荷塚古墳」が「塚原古墳群」を見下ろすような位置関係にあり、また距離を置いて存在することから、群集墳に葬られた集団とは出自を異にする首長墳と考えられているようです。
現在は石室は埋め戻されているため、残念ながら見学する事は出来ません。個人の敷地内の畑地の下に眠っています。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩市史編集委員会『多摩市史 通史編 一』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
たましん歴史・美術館 歴史資料室『多摩の歩み 第137号 特集 多摩川流域の七世紀代古墳』
- 2013/04/08(月) 02:38:02|
- 多摩市/和田古墳群
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