
画像は、立川市柴崎町にある「正一位原市場稲荷大明神」を南から見たところです。
この境内に、立川市の遺跡番号12番にあたる古墳があったとされています。
すでにこの敷地内に墳丘は残されていませんが、『立川市史 上巻 』(昭和43年発行)には下記のような記述が見られます。
立川市柴崎町2丁目73番地に所在する、原市場稲荷社(正一位原市場稲荷大明神)境内について、かねて古墳(円墳)の跡ではないかという疑問があった。
しかしながら現在古墳らしき封土はなく、完全に破壊されており、僅かに隣接土地とのレベルと比較して、幾分境内全般が浮びあがっているように見受けられるが、古墳阯と推定し得る理由としては、左記の7項目をあげ得る。
⑴ 現在の祠が造営される以前、古墳(円墳、以下古墳と呼ぶ)らしい封土があった。
⑵ ⑴について調査の結果、封土のあった事実を裏付ける地元民ならびに古老の証言が得られた。
⑶ 調査に際し、入手した祠造営落成式の写真により、明らかに封土を削土したと思われる状態がみられる。
⑷ 封土があった当時より存在したと推定される境内周囲の樹木の根間に、古墳造営時に使用されたと思われる自然石が多数はさまっている。
⑸ ⑷の樹木については、祠造営時封土を削土した際、樹木の根元深く鍬をいれたため露出せし主要根が、樹幹同様に変化している様子がよくわかる。
⑹ 昭和18年頃まで、境内に扁平形の自然石(40cm×20cm程度)が点在していた。
⑺ 調査により、境内に小形の自然石(20cm×7~8cm程度)ならびに打撃による加工を認められる石の散布が注意される。
(『立川市史 上巻 』218~220ページ)


この記述にある”主要根が樹幹同様に変化している”という樹木は残念ながらよくわからず、当然ながら”古墳造営時に使用されたと思われる自然石が多数はさまっている”という状況も確認はできませんでした。。。
<参考文献>
立川市史編纂委員会『立川市史 上巻 』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
- 2013/05/27(月) 00:32:37|
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画像は、立川市富士見町にある「富士塚」を南東から見たところです。遺跡地図には未登録の塚で、墳頂部は浅間神社となっています。
この塚は、富士浅間神社の神を祭り、江戸時代に盛んに行われた「冨士講」の人々により築かれた塚であるとされていて、「富士塚」と呼ばれています。しかし、立川に冨士講の話が残されていないことや、この周辺から須恵器らしき土器片が採集されたこともあり、古墳ではないかとする考えもあるようです。
『立川市史 上巻 』(昭和43年発行)には下記のような記述が見られます。
立川市富士見町1丁目56番地に存在する富士塚については古墳であるか、江戸時代に流行した浅間講の塚であるか、いまだに疑問を有する塚であるが、最近古老の口伝に江戸時代に塚として盛土したらしいという古文書があると聞いているが未見である。しかしながら浅間講の塚とも、残堀川開さくの残土を盛土したとも聞いていないし、前述の古文書の裏付けがない以上、一応古墳と考慮して今後の研究にまたねばならない。
鈴木家文書の整理の際、何等かの富士塚に関係ある文書の出現を期待したいと考えるものである。
なお、古老の追想によれば、昭和15~16年頃富士塚の周囲(当時桑畑)の畑地より土師器らしい破片を採集をし得たということである。従って学問的基礎づけはないが、秋多町雨間の大塚と地形上、ならびに位置、規模の点で類似するが、私達は古墳という見解を持っている。
(『立川市史 上巻 』227~228ページ)

また、この「富士塚」のある立川市富士見町に伝承する説話として「でえだらぼっち」伝説があります。この伝説とは、頭が雲の中に隠れて見えないくらいの大男である「でえだらぼっち」が下駄を履いてのっしのっしと歩いてきたそうで、現在の立川市富士見町あたりまで歩いてきたところで下駄の歯の間に土が詰まってしまったので、大きな足をふるって下駄の土をぼとりと落とした、というお話です。この、落ちた土によって出来た塚が「富士塚」であり、下駄に土を持っていかれて出来た穴に水がたまったのが富士見町3丁目にある弁天池であるといわれています。
この伝説は、「大塚古墳」のあるあきる野市雨間のほか、多摩地方に広く残されているようです。近年の調査により、古墳ではなく塚である可能性が高いといわれている「大塚古墳」と、墳形や位置、規模の点で類似するというこの立川市の「富士塚」が、やはり古墳ではなく塚である可能性も大きいようにも思います。

立川市教育委員会により現地に立てられた説明板には、この塚の頂上から富士がよくみえることから富士塚と呼ばれるようになったのではないかとの説もありました。ひょっとしてまだ噴火していたかもしれない大昔の富士山は、人々の目にどのように映っていたのでしょうか。。。

立川市にはもうひとつ、富士塚ではないかといわれている築山があります。画像は、その「金比羅山」を南から見たところです。この金比羅山は山と呼ばれていますが人工の築山なのだそうで、高さは15~16mほどもあります。地元には玉川上水を掘ったときの土砂を盛って築いたという言い伝えもあるそうです。

現地の説明板には下記のように解説されていました。
金比羅山の由来
立川市唯一のこの山がいつ頃築かれたのか、はっきりしていませんが安政年間(1854~1860)に砂川村の名主砂川家が願主となり、頂上に富士浅間、中段に金比羅神社、下段に秋葉神社を勧請したと伝えられています。
この金比羅山は江戸時代に流行した富士塚ではないかといわれています。
秋葉神社は遠州(静岡県)秋葉山にある火難水難よけの神として古くから知られています。近世になって徳川家康の命によりご神体(三尺坊権現)が小田原に移され、その土地の富士浅間の神として合祀され富士信仰との融合がはかられたわけです。秋葉神社と金比羅神社とが並べて祀られる例は各地に見られ、富士、金比羅、秋葉の三神は互いに関係を持ちながら、この山に置かれたといえましょう。特に金比羅様は玉川上水で舟運が行なわれ(近くに巴河岸跡)た頃、舟神様として祀られ、それからこの山は金比羅山と呼ばれるようになりました。(現地説明板)


下段にあるとされる秋葉神社は実際には山の中腹に見られます。そして、山の頂上に富士浅間と金比羅神社が祀られています。。。
<参考文献>
立川市史編纂委員会『立川市史 上巻 』
国立市史編纂委員会『国立市史 上巻 』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
立川市教育委員会『立川の歴史散歩』
現地説明板
- 2013/05/24(金) 00:51:52|
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「多摩ニュータウンNo.313遺跡1号横穴墓」は、1997年に多摩ニュータウンの区画整理に伴う調査により発見された横穴墓です。横穴墓は複数で発見されるパターンが多いのですが、この古墳は1基のみ単独で発見されたそうです。
町田市の遺跡番号126番の横穴墓で、現在は町田市小山ヶ丘の三ツ目山公園の東部に、実際に発掘された石を使用して築造されたレプリカが公開されています。

墓室に通じる前庭部は都内で最大規模となる、長さ19m、幅4m、高さ3.3m以上と推定されています。さらに前庭部の奥壁から両側壁に長さ4.2m、幅3.8m、高さ3.4mにわたって河原石を石垣状に積み上げており、これも全国的に数少ない例だそうです。羨門(玄室への入口)は柱状に切り出した凝灰岩を組み合わせてつくられていて、板石と河原石で塞がれていたそうです。墓室は長さ7.0m、幅3.1m、高さ2.3mで、中は3つに区画されていたそうです。
どうせなら墓室も再現して見学できたら良かったなあなどと、勝手なことを言ってみたりします。

町田市には「南多摩窯跡群」という八王子や多摩、日野、稲城市にまたがる須恵器の一大生産地があったそうですが、この古墳から出土した須恵器は「湖西窯跡群」という浜名湖付近で生産されたものだそうです。つまり、南多摩窯跡群が操業する以前に湖西窯跡群で生産された須恵器ということになります。おそらく当時、この一帯を支配した有力者の墓なのでしょう。
現地には、町田市公園緑地課による説明板が設置されています。

最寄りの京王相模原線多摩境駅近くには、縄文時代のストーンサークルである「田端環状積石遺構」(東京都指定史跡)というなかなか興味深い遺跡があります。かつては遺跡を発見当時のまま公開されていたそうですが、現在は保存のために埋め戻されてレプリカで公開されています。
町田市教育委員会による説明板がなぜか3カ所にも設置されていたので、根拠なく一番詳しそうな解説を紹介してみます。
田端遺跡
縄文時代中期から晩期(約4500~2800年前)にかけての集落、墓地、祭祀遺跡で、周辺の田端東遺跡(南東に隣接)、多摩ニュータウンNo.246遺跡(現小山白山公園)などとともに広域の遺跡群を構成している。
竪穴住居跡が多数発見された中期には、周辺を含めて推定で約150軒が分布し、主に住居域として使用された。後期には、南北22m×東西10mの範囲に集団墓地が形成され、50基以上の墓壙が存在すると考えられる。墓地上に構築された後期から晩期の環状積石遺構は、周辺に居住する集団が死と再生に関する祭祀を行った場と想定され、当時の精神文化をうかがう上で貴重な遺構である。
南西に見える丹沢山地、富士山の眺望は、遺跡の選地に関連すると考えられ、冬至には蛭ヶ岳山頂に沈む夕陽を観測できる。この景観と都指定史跡を保護するため整備が実施された。現在、環状積石遺構1基、周石墓7基、土壙墓30基、組石6基、竪穴居住跡9軒、配石遺構2基が盛土保存され、環状積石遺構上に同位置には、昭和43年発掘時の様子に復元された複製が展示されている。
平成17年3月31日 建設
町田市教育委員会
<参考文献>
町田市教育委員会『発掘された町田の遺跡』
十菱駿武『多摩の歴史遺産を歩く』
現地説明版
- 2013/05/21(火) 02:01:46|
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画像は、町田市根岸町にある「忠生根岸山横穴墓群」を南東から見たところです。町田市の遺跡番号920番の横穴墓です。
この横穴墓群は、1992年に開始された日向根トンネルの掘削工事中に発見されました。トンネルの範囲から7基が発見され、その後の地下レーダー探査のデータを元に合計23基の存在が判明しました。このうち14基の発掘調査が完了しています。直線距離で170mの範囲に3つの支群に分かれて分布しているそうです。
人骨はひとつの穴に4~5人分が多く、成人男女だけでなく子供も数人確認されているそうです。副葬品は直刀、短刀、鏃、勾玉、ガラス玉などが出土しています。

現地には町田市教育委員会による説明板が設置されています。画像の説明板の左奥に横穴墓が1基あるはずなのですが、すべて埋め戻されているようです。。。
<参考文献>
町田市教育委員会『発掘された町田の遺跡』
現地説明版
- 2013/05/18(土) 03:13:28|
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画像は、町田市三輪緑山にある「西谷戸横穴墓群」を東から見たところです。町田市の遺跡番号449番の横穴墓です。
この横穴墓群は、鶴見川支谷の西谷戸を望む丘陵斜面に分布します。東京都により1959年に7基が、また1982~1983年に2基が調査され、合計9基が3つのグループを形成して存在していることが明らかになっています。9基のうちの5基の横穴墓から人骨・直刀・鉄鏃・ガラス玉などが出土しており、7世紀中頃から8世紀初頭にかけて築造されたと推定されています。地域における有力者の一族の墓と考えられています。
画像は、右から4号~5号~6号~7号墓となっています。

この古墳群は平成4年3月30日に東京都の史跡に指定されており、路上からいつでも見学することが出来るのですが、鉄柵が巡らされているため残念ながら横穴墓の中を見ることはできません。玄室内の様子を見ることが出来ればと思い、この開口したうちの1基(第5号墓)を遠くから写してみましたが残念ながら真っ暗でした。。。

画像は右から1号~2号~3号~8号~9号墓ですが、この5基は崩落が著しいようで埋め戻されています。今後、整備が行われるようです。思えばずいぶん昔にこの横を幾度となく車で通り過ぎていたのですが、その頃はてっきり防空壕だとばかり思っていました。もっとたくさん写真を撮っておけば良かったなあ。。。

埋め戻された1基を近くで見るとこんな感じです。町田市の案内板によると、よりよい環境での文化財の保護ができるよう整備するということですので、楽しみに待ちたいと思います。。。

この近くの通りがかりの小学校で見かけたのがこの案内板で、「椙山神社北遺跡」という縄文時代から古墳時代にかけての遺跡が発掘されているようです。4000年以上も前から人が住み続けている訳ですから、重みを感じてしまいますね。
<参考文献>
町田市史編纂委員会『町田市史 上巻』
町田市教育委員会『発掘された町田の遺跡』
現地説明版
- 2013/05/15(水) 00:22:50|
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画像は、町田市三輪町にある「白坂横穴墓群」を南東から見たところです。町田市の遺跡番号451番の横穴墓です。


この横穴墓群は2つの支群に分かれており、第1支群の6基のうちの5号横穴と6号横穴の2基が昭和36年(1961年)に発掘調査されています。玄室の内部は5cmから10cmほどの河原石が敷きつめられており、数体の遺骨や須恵器などが発見されているそうです。築造の時期は7世紀ごろと推定されています。昭和50年(1975年)10月27日に町田市の史跡に指定されていて、5号墳と6号墳の2基がいつでも無料で見学ができるように整備されていますが、入口がフェンスで保護されているので内部へは入れません。
画像は第5号横穴で、内部に河原石が敷かれている様子を見ることが出来ます。故意に割られたと思われる須恵器の破片が発見されています。天井はアーチ状になっているそうです。


画像は第6号横穴です。この横穴墓群の第一支群中最も東にあり、最も高い位置にあります。全長21cmの刀子が出土しており、玄室内部からは3体分の人骨が遺存していたそうです。ご近所のご主人との立ち話によると、竹林の中にも横穴が開口したと思われる窪みがあるそうで、今後新たに発見される横穴墓もあるのかもしれません。
現地には町田市教育委員会による説明板が設置されており、この説明版によるとこの地域は昔沢山城のあったところで、白坂横穴墓群の「白坂」とは「城坂」の意味であるともいわれているそうです。

第1号横穴です。奥壁幅2.5m、天井がアーチ状になっているそうですが、土砂によって埋没しているため内部を見学することはできません。

第2号横穴です。玄室は楕円形で最大幅は2.4mを測ります。第1号横穴よりも若干高い位置にあります。こちらも土砂によって埋没しているため内部を見学することはできません。

第3号横穴です。奥壁幅は2.6m、高さは2.2mを幅と高さの最大値となっているそうです。玄室の後ろ半分の壁下と中心線上に排水溝があるそうです。こちらも土砂によって埋没しているため、残念ながら内部を見学することはできません。


第4号横穴です。この横穴は前半部分が失われているそうです。土砂が崩落しているものの道路に向かって開口しているため、アーチ状になっている天井部を見ることができます。

第7号から第13号横穴まで7基ある第2支群のうち、唯一見学できたのが道路沿いに開口している第13号横穴です。
ご近所のお婆さんとの立ち話によると、この何十年で少しずつ岩盤が崩落して現在のように大きく開口してしまったのだそうです。「白坂横穴墓群」のあるこの山は以前は個人所有だったのですが現在では町田市が所有しているそうで、タケノコを穫っても大丈夫だよとのことでしたがやめておきました。。。。。
<参考文献>
町田市史編纂委員会『町田市史 上巻』
町田市教育委員会『発掘された町田の遺跡』
現地説明版
- 2013/05/13(月) 09:53:15|
- 町田市の古墳・塚
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「玉田谷戸横穴墓群」は、三輪地区の南端、横浜市との県境に位置する横穴墓群です。凝灰岩質の岩盤に掘り込まれた4基の横穴が確認されていて、7世紀代につくられたと推定されています。町田市の遺跡番号442番の横穴墓です。
画像は、1号墓を南東から見たところです。入口がフェンスで保護されているため内部へ入ることは出来ませんが、内部を観察することは出来ます。

この横穴は大場磐雄氏により昭和2年に「内部に家形彫刻を有する横穴」として発表されていて、考古学史的にも貴重な史跡です。この天井部分から側壁にかけて柱や梁などを浮き彫りで表現した「家形横穴墓」は全国的にも類例が少なく、都内ではこの1号墓と3号墓の2基のみだそうです。なお、遺物として鉢形黒色土器一点が発見されています。
ちなみに左の側壁の一部は関東大震災のときに剥離したのだそうで、その後も崩壊が進んでいるようにも見えます。


画像は3号墓です。この3号墓にも四柱式屋根を表現したとされる彫刻が彫り込まれています。遺物として須恵器の破片が発見されています。
この横穴墓群は、昭和2年(1927)に都指定旧跡となり、その後平成20年に史跡に指定されています。


2号墓と4号墓は入口部分が土砂で埋没していて、内部を観察することは出来ませんでした。
現地には町田市教育委員会による説明板が設置されています。。。
<参考文献>
町田市史編纂委員会『町田市史 上巻』
町田市教育委員会『発掘された町田の遺跡』
現地説明版
- 2013/05/05(日) 03:28:06|
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