
板橋区には、多くの古墳や塚が『東京都遺跡地図』に登録されています。その中にはほとんど調査もされないまま破壊され、言い伝えとしてのみ残されている塚も数多く存在します。この「びく塚」もそんな塚のひとつです。画像は、板橋区小豆沢4丁目に所在したとされる「びく塚」の推定地を南から見たところです。板橋区の遺跡番号162番の塚です。
この「びく塚」について、昭和7年発行の『志村郷土誌』には次のように書かれています。
「八百漁藍塚 往昔太平洋の荒波が小豆澤の地に迄及んでいた事は貝塚の項目にも述べた通りである。従って当時の住民は漁業を以て生業としていたのであるが、地形の変転は止むべくもあらずして、太平洋の波は遠く東方の彼方に退く様になって来た。ここに於て住民は漁業に代るべき生計の道を講ぜねばならなくなり、即ちいつしか漁具を捨てて農業に従う様になったのである。その時の戸数は総て十二軒あったので、之を十二軒百姓という。さてこの十二軒の人々が漁具を棄てて農に就かんとする時、その盟約を堅く守る為め、祖先伝来の数百の漁藍を悉く穴に埋め塚とした。之を伝えて八百漁藍塚というのである。近年に至るまで小豆沢に生れた者は、その盟約を守ったという。現在此の塚は貝塚となっている所である。」(『志村郷土誌』146~147ページ)
また、平成7年に発行された『いたばしの地名』には次のように書かれています。
「小豆沢の台地下、新河岸沿いで漁業をしていた人々が、農業を始めた時、今まで使っていた多くの漁藍(びく)を一ヶ所に埋め塚を作った。その塚を「八百漁藍塚」と呼び、そこから始まる坂の名称にもなった。」(『いたばしの地名』102ページ)
画像の奥に向かった下り坂が「漁藍坂」と呼ばれた坂で、、交差点のすぐ奥あたりが「びく塚」の推定地となるようですが、昭和7年頃の区画整理の道路工事により台地ごと削られているため、塚は痕跡も残らず消滅しているようです。ちなみに『東京都遺跡地図』では画像の東側(右側)の住宅地のあたりが所在地となっているのですが、平成20年に発行された『板橋史談 第247号』30ページ「小豆沢(四)びく塚・くび塚」による「びく塚」の推定地に説得力を感じたので、この地点の画像を掲載してみました。
<参考文献>
志村『志村郷土誌』
板橋区教育委員会『文化財シリーズ第81集 いたばしの地名』
板橋史談会『改訂版 いたばし郷土史辞典』
板橋史談会『板橋史談 第247号』
- 2013/09/30(月) 00:14:14|
- 板橋区/志村古墳群
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画像は、板橋区小豆沢4丁目に所在したとされる「善右衛門首塚」の推定地を南から見たところです。画像中央の電柱の前の路上が、かつて善右衛門の首塚が存在した推定地です。塚はすでに消滅しており、言い伝えとしてのみ残されている伝説の塚です。『東京都遺跡地図』にも未登録となっています。
この「善右衛門首塚」について、昭和7年発行の『志村郷土誌』には次のように書かれています。
「善右衛門の首塚 漁藍塚から数間東方に離れて一叢の薮がある。瓦礫陶片等磊々としている。之が首塚と言伝える所であって、鍬鎌を加えたり一歩でも此の地に入るようなことがあれば、直に覿面の怪知があるということで、古来幾人となく開墾を試みたが皆其の災厄に遭って、目的を達する事が出来なかったということである。この善右衛門と云うのは、小豆沢村の名主で、当時領主、地頭より「小物成」と云ってキビ豆類の小物にまで課税され、非常に苦しみつゝあった村民を救わんとして、前野村の市衛門と共に直訴したゝめ遂に斬罪に処せられたのである。村民は之を聞き知り恰も慈父を失った様な思いでその首を請いうけ、此の塚に葬ったのであった。其の後時かわり星移りて此の尊き犠牲者もいつとはなしに一般からは忘れられようとしているが、つい近年迄何れの人かは知れぬが時折この塚をたずねては香花を手向けていたという。恐らく善右衛門を刑に処した地頭の後裔の者ではなかろうか。」(『志村郷土誌』147~148ページ)
昭和7年頃に区画整理が行われるまでは塚は残されていたそうで、数本の太い木と篠竹が生えており、祟りがあると恐れられていたので誰も入る者はいなかったそうです。

残念ながらこの「善右衛門の首塚」は取り壊されて跡形もありませんが、この塚の上に立てられていたといわれる庚申塔が、板橋区小豆沢4丁目にある龍福寺(小豆沢観音塚古墳のある小豆沢神社の隣)に残されています。龍福寺の門を入ると右手に庚申塔等が集められた塚があり、この中に首塚の庚申塔も保存されています。このお寺は、通称「板碑寺」と呼ばれるほどの多くの板碑を保存しているお寺として有名で、かつては二十余基の板碑がありましたが、空襲でその多くが破損して現在では7基が残るだけだとなっているそうです。。。

画像が、「善右衛門の首塚」に立てられていた庚申塔です。
<参考文献>
志村『志村郷土誌』
板橋史談会『改訂版 いたばし郷土史辞典』
板橋区教育委員会『まち博ガイドブック(志村坂上・中台・蓮根・舟渡・前野)』
板橋史談会『板橋史談 第66号』
板橋史談会『板橋史談 第247号』
板橋区教育委員会『文化財シリーズ第81集 いたばしの地名』
現地説明版
- 2013/09/26(木) 01:18:26|
- 板橋区/志村古墳群
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画像は、板橋区小豆沢4丁目にある「小豆沢観音塚古墳」を南東から見たところです。板橋区の遺跡番号163番の塚として登録されています。
「志村古墳群」は志村台地の縁辺に位置する、志村2丁目から小豆沢4丁目にかけての古墳群です。小豆沢観音塚古墳はこのうちの1基とされていますが、未発掘の塚であるため古墳であると確定はされていないようです。『東京都遺跡地図』には、「小豆沢観音塚古墳」という名称で登録されていながら、遺跡の概要が古墳ではなく「墳墓」とされています。
1935年の中山道拡幅および土地区画整理工事に伴い後藤守一氏により測量調査されており、『東京府史蹟名勝天然記念物調査報告書』第十三冊「東京府下の古墳」には次のように書かれています。
「俚称観音塚という。上に小豆沢神社祠をおいてあるが、今は墳丘の変形甚しく、僅かに南西隅にその処女状態を保っているに過ぎない。高さ四米あるが、恐らく原形においては五米近くあったでろう。径四十米近くあったろうか、本墳は今回の発掘調査関係以外のものである。」

昭和40年の社殿改築により墳丘は大きく削平されてしまったようですが、それ以前はもっと高い墳丘が残されていたそうです。境内の南西寄りには大きな窪みもあったそうですので、ひょっとしたら盗掘されたか、もしくは崩落した石室が残されていたのかもしれません。今後の調査次第で周溝や埋葬施設など古墳の痕跡が発見される可能性もあるかもしれませんし、本格的な調査を期待したいところです。

大きな窪みがあったとされる墳丘上の南西側のようすです。境内はかなり広く、多くの祠が祀られています。
この周辺はかつて「かに山」と呼ばれていたそうで、板橋区教育委員会から発行されている『いたばしの地名』には次のように書かれています。
かに山(四丁目)小豆沢小名…小豆沢四丁目の台地上地域を言います。ここから南にかけての地には古墳の塚が多く在ったといいます。これらのことから祭祀に必要な土器などに用いられる良質な赤土と共に、土器(埴師)が居住していた可能性があります。埴はハニワ(埴輪)のハニで粘土のことで、ハニがやがてカニに転化したと思われます。近くの赤羽も関東ローム層の赤土を赤埴と呼び赤羽に転じたといいます。または荒川が大きく弧を描いている台地上に位置していて、地形が蟹の姿ににていることからこの名が付いたともいわれています。(『いたばしの地名』101ページ)
この周辺には志村古墳群1号墳、2号墳、善右衛門の首塚、びく塚といった多くの塚があったとされています。かつてはかなり大きな古墳群が存在していたかもしれませんね。。。

画像は、西から見た小豆沢観音塚古墳です。
唯一、『板橋ものがたり ―史跡篇―』ではこの観音塚が前方後円型の古墳であるとされています。その根拠については何も書かれていないのですが、「Googleマップ 」でこの地点を上空から見ると、確かに周囲の道路が墳丘に沿うような形状になっていて、じっと眺めていると前方後円墳に見えてくるから不思議です。この古墳が前方後円墳であるなら、画像は前方部から後円部を見たところ、ということになるのですがいかがでしょうか。ちなみに、板橋区立郷土資料館で伺ったところでは、「小豆沢観音塚古墳」は古墳かどうかは微妙であるそうです。。。
<参考文献>
板橋区史編さん調査会『板橋区史 通史編 上巻』
板橋区史編さん調査会『板橋区史 資料編1 考古』
板橋区教育委員会『文化財シリーズ第81集 いたばしの地名』
板橋史談会『改訂版 いたばし郷土史辞典』
板橋史談会『板橋史談 第93号』
板橋ものがたり刊行会『板橋ものがたり ―史跡篇―』
- 2013/09/20(金) 02:18:47|
- 板橋区/志村古墳群
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画像は、あきる野市平沢にある「無名古墳」を南東から見たところです。あきる野市の遺跡番号71番の古墳です。
この古墳には、古くから金の延べ棒が埋まっているという言い伝えがあったそうです。ただし、この延べ棒は「塚の東側に埋まっている」と伝えられているだけで、他には何もわからなかったのだそうです。やがてこの言い伝えも忘れらかけられた頃、道普請で塚を削ることになりました。人々の間では再び延べ棒の話題が持ち上がり、まるで宝探しでもするかのように塚を掘り崩したのだそうです。
そして掘り始めてからしばらくして、誰かが墳丘の裾から壷を掘り出しました。人々の注目が集まる中、壷のふたを開けてみるとそこには金の延べ棒ではなく、一振りの刀が入っていました。その後、掘っても良いとされている場所を掘り進めましたが、ついに延べ棒は出てこなかったのだそうです。今でも残されたどこかに金の延べ棒が埋められているのではないかといわれています。

古墳は、東側と南側を道路によって削平され、また北西側は畑地により削られており、コンクリートに囲まれながらも三角形になって残されています。墳丘上には秋川市の保存樹木である「松海道えのき」があり、また墳丘上には小さな祠が祀られています。「東京都遺跡地図」のインターネット公開版では”10×10m、高さ1mの古墳”とされています。
ひょっとしたら、金の延べ棒は今でもこの榎の木の下に埋められているのかもしれませんね。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
秋川市教育委員会『秋川昔物語-秋川市ところどころ-』
- 2013/09/08(日) 03:03:30|
- あきる野市/その他の古墳・塚
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