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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「天文台構内古墳」

「天文台構内古墳」

 画像は、三鷹市大沢にある「天文台構内古墳」を北西から見たところです。三鷹市の遺跡番号13番の古墳です。

 この古墳は武蔵野段丘の南端、東京都三鷹市内の国分寺崖線沿いに所在します。昭和45年(1970)と46年に2度の発掘調査が行われており、測量図が『三鷹市史』に掲載されたものの調査結果は学会に報告されなかったそうで、この古墳の存在は長い間ベールに包まれたままでした。その後、平成4~6年に東京都教育委員会が多摩地区所在古墳確認調査団に委託して行われた確認調査による報告書により、平成7年にようやくこの古墳の内容が周知されることとなりました。

 江戸時代の地誌『江戸名勝図会』には「富士塚」として記載されており、また「甲府様の御鷹場のお立場」という記述も見られるようです。

 富士塚 大沢村内字羽根沢台というところにあり。高さ一丈許。頂上二間四方程。この塚は先年この辺甲府様御鷹場にてお立場になりし塚ゆえ、いまに村内にて女人不登。富士浅間を祀るゆえ、いまに斯くは唱う。(『多摩川流域の古墳』76ページ)

「天文台構内古墳」

 その後、平成16年度には測量が行われ、さらに翌平成17年度から21年度にかけて再調査が行われました。これにより新たに玄室が発見され、復室構造の横穴式石室であることがわかります。更に翌年には方形の周溝が発見され、上段が円形で下段が方形を呈する「上円下方墳」であることが確認されます。また玄室からはフラスコ形の須恵器と坏形土師器2点が完形で発見されるなど、次々と新たな発見があったようです。この土器は築造年が660年前後だとはっきりとわかっており、この古墳の築造も7世紀後半と推定されているそうです!

 古墳の規模は、周囲を周溝に囲まれた南北30~31m、東西25~27mの方形を呈する一段目と、上段に直径18.6mの円形の墳丘からなる「上円下方墳」です。高さは現在2.1mほどですが、築造当時は3.6mほどはあったと考えられています。上円下方墳であるこの「天文台構内古墳」の発見当時は、東京都府中市の「武蔵府中熊野神社古墳」をはじめ奈良県奈良市の「石のカラト古墳」、静岡県の「沼津市清水柳北1号墳」、福島県白河市の「野地久保古墳」に続き5例目だったそうです。


「天文台構内古墳」

 主体部は3室構造の横穴式石室です。墓前域には門柱石と、「ハ」の字形に広がる両脇の川原石積みが確認されています。前室は天井石が崩落していましたが、床には直径3~5cmほどの川原石による敷石があるようです。玄室は胴張り形で、天井が崩れ落ちているものの凝灰岩の切石を積んだ壁面が残されています。この形態の石室は、多摩地区において八王子市の「北大谷古墳」、府中市の「武蔵府中熊野神社古墳」などとよく似ているそうで、関係が注目されています。
 葺石は、同じ上円下方墳である「武蔵府中熊野神社古墳」の全面が葺石で覆われていたのに対して、この「天文台構内古墳」には葺石は存在しないようです。

 この古墳は国立天文台三鷹キャンパス内に所在します。守衛室で受付をして国立天文台の常時公開コース見学の見学路から見ることができますが、残念ながらコースを外れて古墳に立ち入ることはできないため、遠方からの見学になります。
 今後の更なる調査と整備を楽しみに待ちたいところです。。。

<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
三鷹市教育委員会・三鷹市遺跡調査会『東京都三鷹市 天文台構内古墳』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
雄山閣『東京の古墳を考える』
財団法人 たましん地域文化財団『多摩のあゆみ 第137号』

  1. 2013/12/31(火) 00:08:12|
  2. 三鷹市の古墳・塚
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「原横穴墓群」

「原横穴墓群」

 画像は、三鷹市大沢にある「原横穴墓群」の推定地を西から見たところです。三鷹市の遺跡番号19番の横穴墓です。

 「原横穴墓群」は昭和49年、住宅建設のための宅地造成に伴い3基の横穴が偶然に発見され、調査の結果、埋葬された人骨6体が確認されています。この横穴墓群は、三鷹市内の他の横穴墓群がすべて野川沿いの国分寺崖線に所在するのに対し、野川に注ぐ支流の谷に面しているのが立地の特徴であるそうです。この谷を挟んで向かい側には上円下方墳である「天文台構内古墳」が所在しています。

 残念ながらこの横穴墓群もすでに消滅しており見学することは出来ませんでしたが、他に1基の存在の伝承があるそうですので、まだ未発見の横穴が存在する可能性もあるのかもしれませんね。。。

<参考文献>
三鷹市ホームページ

  1. 2013/12/30(月) 23:57:32|
  2. 三鷹市の古墳・塚
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「羽根沢台横穴墓群」

「羽根沢台横穴墓群」

 画像は、三鷹市大沢にある「羽根沢台横穴墓群」を東から見たところです。三鷹市の遺跡番号21番の横穴墓群です。

 この羽根沢台横穴墓群は、昭和52~53年に宅地造成工事に伴い6基の横穴が発掘調査されています。1~3号墓の全体と4~6号墓の墓前域が調査された結果、玄室内から埋葬された人骨総数23体のほか、陶器や須恵器、「和釘」の頭部2点が出土したそうです。以前は台地上に横穴が残されていたのですが、宅地造成の工事により台地ごと削られており、すでに消滅していました。残念ながら再訪するのが遅すぎたようです。。。
 横穴は、画像の右側から2号墓、3号墓、1号墓、4号墓、5号墓、6号墓の順に所在していました。ただし、画像左側の雑木林の部分からは新たな9基の横穴墓が確認されており、このうち偶然に開口した1基(7号墓)の内部が確認されているそうです。この区域は現状保存されているようなので今後の調査が楽しみです。


「羽根沢台横穴墓群」

 同じ台地上の縁辺部に祠が祀られていました。まわり中を削られて崖線上にへばりつくように残されていますが、今でもこの横穴墓群を見守っているのでしょうか。。。

<参考文献>
三鷹市教育委員会・三鷹市遺跡調査会『羽根沢台遺跡 Ⅱ』

  1. 2013/12/28(土) 22:26:48|
  2. 三鷹市の古墳・塚
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「御塔坂(おとうざか)横穴墓群」

「御塔坂(おとうざか)横穴墓群」

 画像は、三鷹市大沢にある「御塔坂(おとうざか)横穴墓群」を東から見たところです。三鷹市の遺跡番号22番の横穴墓群です。

 御塔坂横穴墓群は、三鷹市大沢4丁目付近の国分寺崖線中腹に位置する、市内で最大規模の横穴墓群で、墓の分布は市境を越えて調布市域にも及んでいます。宅地化が進んだために見学できる古墳は残されていませんが、これまで17次にわたる発掘調査で19基が確認されているようです。画像の中央の道路とその周辺にほぼ横一列に並ぶように配置されており、多くの横穴は天井などを失った状態で地下に埋没しているそうです。ちなみにこの道路の整備に伴う調査は当時、「横穴ストリート」の名でメディアに紹介されたそうです。
 この御塔坂横穴墓群の東側の区域については、新たな横穴の発見の見込みはないことが判明していますが、西側の「羽根沢台横穴墓群」との間にはまだ多くの未発見の横穴墓が存在すると考えられています。

 この横穴墓群の名称は、国分寺崖線から野川に下る「御塔坂(おとうざか)」に由来するそうで、この「御塔坂」は、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に登場する「うとう坂」に由来するそうです。ではなぜ「御塔坂」が「うとう坂」になったかは、諸説があり定かではないそうです。「御塔坂」は現在は、バス停や交差点名として残されています。

<参考文献>
三鷹市教育委員会・三鷹市遺跡調査会『御塔坂横穴墓群 Ⅰ』

  1. 2013/12/26(木) 01:08:23|
  2. 三鷹市の古墳・塚
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「愛宕塚・愛宕山横穴古墳」

「愛宕塚・愛宕山横穴古墳」

 板橋区成増3丁目の東京印書館通りに面したあたりに「愛宕塚」と呼ばれる塚があったといわれています。この塚の推定地は、「愛宕山」と通称される、白子川を臨む舌状台地の先端にあたり、画像左手の集合住宅の奥あたりに所在したのではないかと思われます。塚は古墳ではなく中世のものであると考えられているようですが、開発により崩されていて現在は跡形もありません。
 またこの台地上の北東側(画像の右奥あたり?)からは、横穴古墳が1基発見されています。『東京都遺跡地図』には未登録ですが、昭和53年に東京都教育委員会から発行された『都内横穴墓緊急調査収録(東京都埋蔵文化財調査報告第五集1978年)』には、板橋区内で唯一の横穴として詳細が記載されています。
 横穴は昭和33年、愛宕山の中腹に於いて住宅建設のための整地中に偶然発見されたそうで、残念ながら横穴はわずか一日で破壊されてしまったものの、玄室と羨道部が実測調査されています。また、この横穴から出土したとされる人骨と鉄製刀の破片が「青蓮寺」に残されているそうです。横穴古墳は群集することが多いため、周辺に複数の横穴墓が存在するのではないかと考えられているようですが、現在までに発見された横穴はこの1基のみであるようです。


「勝軍地蔵」

 「愛宕塚」の上にはかつて山王社の祠堂が祀られており、この中に甲冑をつけて馬に乗った「勝軍地蔵」が安置されていたそうです。この地蔵は、天保4年(1833)に造立されたもので、昭和32年に「愛宕塚」が崩された際に、板橋区成増4丁目にある「青蓮寺」に移されています。画像がその「勝軍地蔵」が祀られている「愛宕権現」の祠を西から見たところです。
 ちなみにこの寺院は昔は徳丸ケ原の弁天塚あたりにあったそうですが、度重なる荒川の氾濫によりこの地に移転してきたのだそうです。

<参考文献>
板橋史談会『板橋史談 第87号』
いたばしまち博友の会『板橋の史跡を訪ねる』
板橋区教育委員会『板橋区立郷土資料館紀要 第7号』

  1. 2013/12/24(火) 02:08:55|
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「篠塚稲荷神社」

「篠塚稲荷神社」

 画像は、板橋区赤塚6丁目にある「篠塚稲荷神社」を南東から見たところです。

 その昔、この神社の社殿が塚の上に建てられていたというお話を板橋区の郷土資料館で聞いて、見学に訪れてみました。神社は台地の縁辺にあり、古墳であった可能性が高いと考えられているようですが、残念ながら社殿改築の際に塚は削平されており、跡形もなく消滅しています。『東京都遺跡地図』には未登録の塚です。

 伝承によると、ここで農業を営んでいた篠崎藤兵衛という人が稲荷を熱心に信仰して家運の繁栄を願い、私財を投じてこの稲荷神社を創建したと云われており、篠崎氏の篠と赤塚の塚をとって、地元では「篠塚稲荷」と呼ばれているそうです。

<参考文献>
板橋区教育委員会『文化財シリーズ第76集 まち博ガイドブック(下赤塚・成増・徳丸・高島平)』
板橋区教育委員会『文化財シリーズ第81集 いたばしの地名』

  1. 2013/12/22(日) 09:17:25|
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「板橋区№164遺跡(氷川町氷川神社富士塚)」(板橋区登録文化財)

「氷川町氷川神社富士塚」(板橋区登録文化財)

 画像は、板橋区氷川町にある「氷川町氷川神社富士塚」を西から見たところです。『東京都遺跡地図』には板橋区の遺跡番号164番の名称のない年代不詳の塚として登録されており、平成25年3月27日に「氷川町氷川神社富士塚」という名称で、板橋区の登録文化財となっています。

 この「氷川町氷川神社富士塚」は、板橋の富士講のうちもっとも早く成立したといわれる板橋宿の永田講により築造されてた、板橋区最古の富士塚です。塚上には、弘化4年(1847)の奉納石碑や安政2年(1855)の石祠などが建てられているため、19世紀の中頃には築造されていたと考えられています。塚上を中心に淡島神社、諏訪神社、稲荷神社、古峰神社、浅間神社、厳島神社、小御岳神社、天祖神社、八幡神社、北野神社、三峰神社が祀られています。塚は大きく改変されており、原形は留めていないようでした。

 周辺では豊島区高松2丁目の「長崎富士塚」や練馬区小竹町の「江古田富士塚」、新宿区上落合の「高田富士(崩されて現存しない)」などは古墳を改造した富士塚であるとされていますし、同じ板橋区内でも板橋区赤塚4丁目の「赤塚氷川神社富士塚」や板橋区大門の「赤塚諏訪神社富士塚」などが、『板橋区史』により、古墳に盛土して築造した可能性を指摘されていますが、この「氷川町氷川神社富士塚」に関しては古墳との関わりを記述している文献は見当たりませんでした。ただし、『板橋区史』には「上赤塚氷川神社及び下赤塚町諏訪神社境内その他にある浅間神社の人造富士塚は、古墳を利用して盛土したものかとも考えられる。」と書かれていますので、この氷川神社富士塚が古墳である可能性もあるのかもしれません。。。

<参考文献>
板橋区史編さん調査会『板橋区史 資料編5 民俗』
いたばしまち博友の会『板橋の史跡を訪ねる』
板橋区教育委員会『まち博ガイドブック(板橋・熊野・仲宿・仲町)』

  1. 2013/12/20(金) 09:31:20|
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「猫塚」

「猫塚」

 板橋区小茂根4丁目の画像の地点が、板橋区の遺跡番号166番の「猫塚」があったとされる推定地です。『東京都遺跡地図』には年代不詳の塚として登録されています。

 板橋区教育委員会から発行されている『いたばしの昔ばなし』の「二塚のはなし」の項に、この猫塚についてなんらかの言い伝えが残されていると書かれているのですが、具体的な伝承や由来についての詳細はわかりませんでした。推定地は病院の敷地内となっており、路上から観察した所ところでは塚はすでに消滅していて特に痕跡も残されていないようです。

 ちなみに知人から、ときわ台の「天祖神社」の由緒書きに「猫塚」と「狐塚」のことが書いてある、という貴重な情報をいただき、早速この由緒書きを入手しました。ここには次のように書かれていました。

 遺跡から―古くからの「聖地」

 神社の西北にはその形から「猫塚」と「狐塚」といわれた古墳がありました。
 一方、石神井川の左岸の台地にある向屋敷遺跡からは、古墳時代初頭の竪穴住居跡が発掘されています。この古墳と人々の住む集落の間に天祖神社が位置しています。このことから、この神社の地は古くから人々が踏み込むことを禁じられた禁足地すなわち「聖地」で、そこに何らかのきっかけで神々を祭る社(やしろ)がつくられたことが考えられます。

 由緒書きによると、猫塚と狐塚は天祖神社の西北にあり、向屋敷遺跡との間に天祖神社があるとしていますから、おそらく小茂根(旧茂呂町)にあったとされる「猫塚」と「狐塚」とは別物なのではないかと思われます。板橋区教育委員会から発行された『いたばしの昔ばなし』の「五三、二塚のはなし」の項には、南常盤台にあったとされる言い伝えの残されている塚として「ねこ塚」と「馬塚」が挙げられています。このあたりはまだ調べてみようと思っていますので、詳細がわかったら後日書き足そうと思います。。。


「根の上遺跡」

 この「猫塚」の北側に板橋区の遺跡番号167番の塚があり、その周辺には「茂呂遺跡」や「栗原遺跡」が発見されています。また、東方には「根の上遺跡」の存在も知られています。板橋区立小茂根図書館の敷地内に「根の上遺跡緑地」として保存されており、復元された住居跡を見学することが出来ます。
 敷地内に板橋区教育委員会により設置された説明板には、次のように書かれていました。

   根の上遺跡

 この根の上遺跡緑地の下には遺跡が保存されています。
 このあたりは昭和10年代から遺跡の存在が知られており、古い地名から根の上遺跡と呼ばれていました。
 昭和59この部分の開発に先立ち発掘調査が実施され、旧石器時代から太平洋戦争までの遺構や遺物が発見されました。
 とくに今から約1,700年前の弥生時代後期には、周囲に深い堀をめぐらして(環濠)ムラを営んでおり、その変換の一部がわかるなど多くの成果が得られました。ムラの中には火災にあった家も存在し(火災原因は不明です)、その家の跡(住居跡)には当時の炊事道具や食器など一式が焼け残っており、当時の人にとっては災難でしたでしょうが、生活状況の一部がよくわかる大変良好な資料となりました。
 調査終了後、板橋区では東京都住宅局の協力を得て遺跡の一部を埋め戻して保存するとともに、発見された住居跡を型取りをして再生復元したり、その真上に花だんや砂場をつくり、位置や大きさを示しました。また図書館内の床にも、堀(環濠)などが発見された位置を色を変えて示してあります。
 この根の上遺跡緑地部分と発掘された弥生式土器は、平成9年度に板橋区の文化財に指定されました。

 平成11年3月

     板橋区教育委員会



<参考文献>
板橋区教育委員会『文化財シリーズ第25集 いたばしの昔ばなし』
ときわ台 天祖神社(由緒書き)
現地説明版

  1. 2013/12/18(水) 02:31:08|
  2. 板橋区/その他の古墳・塚
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「板橋区№167遺跡」

「板橋区遺跡番号167番 無名塚」

 板橋区小茂根5丁目の画像の地点が、板橋区の遺跡番号167番の「無名塚」の推定地です。『東京都遺跡地図』によると、年代不詳の塚であるとされています。

 『板橋区史』の67ページの古墳表には、この周辺(茂呂町)の”古墳らしきもの”まで含めた塚として「猫塚」、「狐塚」と「おせど山」の3つが挙げられています。これを『東京都遺跡地図』の板橋区の遺跡一覧と照らし合わせると、遺跡番号167番の塚の名称が「猫塚」ですから、この167番の塚は「狐塚」か、「おせど山」か、ということになります。この167番の塚の推定地は「おせど山」と呼ばれる高台の一番高い地点にあたるようなので、やはりおせど山なのかとも思いますが、詳細は良くわかりませんでした。このあたりはまだ調べてみようと思っていますので、詳しくわかったら後日書き足すことにします。


「茂呂遺跡」

 塚の推定地から北に100mの地点には、有名な「茂呂遺跡」が残されています。現地の説明板には次のように書かれています。


東京都指定史跡
  茂呂遺跡


 昭和24・25年の群馬県岩宿遺跡の調査で、赤土の中から石器が発見され、縄文時代より古い先土器時代(旧石器時代)と呼ばれる時代が日本にも存在したのではないかという可能性が提起されました。翌年(昭和26年)3月、瀧沢 浩氏(考古学者 当時中学生)がこの地域の茂呂山(正確には「オセド山」という。)の道路の切通しから黒曜石製石器一点と礫群を発見したことを受けて、同年7月の明治大学と武蔵野郷土館が実施した共同発掘調査で、関東ローム層中から石器群が確認されました。
 これら石器群は南関東地方における旧石器時代資料の初例となるもので、茂呂遺跡の調査は、日本列島においてローム層中に旧石器文化が普遍的に存在することを実証しました。とりわけ出土したナイフ形石器は「茂呂型ナイフ形石器」と命名され、茂呂遺跡は旧石器時代の標識遺跡として知られています。東京だけでなく日本列島の旧石器時代を解明した記念すべき遺跡です。

 平成23年3月 建設   
東京都教育委員会


「茂呂遺跡」

 この茂呂型ナイフを発見したという瀧沢少年はその後、夢を叶えて考古学者となったそうですから夢のある話ですね。


栗原遺跡の竪穴住居跡

 さらに北西部の城北中央公園には「栗原遺跡」が発見されており、公園内には竪穴住居が復元されています。


練馬区登録史跡
  栗原遺跡の竪穴住居跡


 栗原遺跡は、昭和30年(1955)に立教学院総合運動場造成の際、発掘調査された遺跡で、このあたりの旧小字名「栗原」を遺跡名としたものです。
 昭和30年から31年にかけての調査では、赤土(関東ローム層)の中から、黒曜石製の打製石器が出土し、今から一万年以上前の旧石器時代から、この地で人々が生活していたことがわかりました。また、縄文土器が出土すると共に、弥生〜平安時代の竪穴住居跡が発見されています。このあたりは、石神井川と田柄川に挟まれた台地であり、日当たりもよく、生活に欠かせない水の得やすい土地であったため、長い間、人々が生活していたことが偲ばれます。
 復元された住居跡は、8世紀初め頃、(奈良時代初め)のもので、昭和32年(1957)東京大学教授、藤島亥治郎博士の設計により建てられたものです。発掘された竪穴住居跡は、地表から約50センチメートルの深さに掘られ、北側に粘土のかまどが築かれていました。柱穴は4個所あり、復元の際には、径約21センチメートルのケヤキ丸太を主柱にし、梁・桁にスギ丸太を用い、カヤを葺いて復元しています。
 この復元住居跡は、奈良の都の華やかさにくらべ、当時の地方農民の暮らしぶりがどんなものであったのかを語りかけてくれます。
 現在は、東京都が用地と復元した竪穴住居を管理しています。
  平成22年3月             
 練馬区教育委員会


<参考文献>
板橋まち博友の会『板橋の史跡を訪ねる』
東京都板橋区役所『板橋区史』
現地説明版

  1. 2013/12/16(月) 02:34:32|
  2. 板橋区/その他の古墳・塚
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「上人塚」(日野市指定史跡)

「上人塚」(日野市指定史跡)

 画像は、日野市日野台3丁目にある「上人塚」を東から見たところです。

 「上人塚」は、多摩川と浅川に挟まれた日野台地の中央に所在します。昭和36年(1961)に日野市の史跡に指定されており、日野自動車株式会社の構内に整備されて残されています。企業の敷地内にあるため無断で立ち入る事は出来ませんが、年に一度、東京文化財ウィークに合わせて行われる「塚つかウォーク」で一般に公開されており、見学することが出来ます。

 塚は平成19年に発掘調査されており、4つの時期に築造された塚であることが判明しています。
 最初の「古塚」は15×13m、高さ2.5mのやや方形をしており、黒色土で堅く叩き締められて構築されています。塚の表面から中世のカワラケが出土していることから、中世に構築された塚であると考えられています。次の「旧塚」は一辺20m、高さ2.8mの方形をしており、黒色土で構築された表面からは近世の陶磁器が出土しています。塚の裾部には溝が巡っていたそうです。次の「新塚」は直径27m、高さ3.5mの半球上をしており、黒色土で構築されています。東側に土坑、道が検出されており、近現代の出土遺物が検出されています。最も新しい「現塚」は中心がやや西側にずれた直径約35mのマウンド状をしており、ローム土で構築されています。調査前には樹齢約50年ほどの樹木が繁茂し、中心に榎の大木があったそうです。


「上人塚」(日野市指定史跡)

 敷地内には日野市教育委員会による説明板が立てられており、次のように書かれていました。


日野市指定史跡
しょうにんづか
上  人  塚
              昭和三十六年十月一日指定

 元禄年間の文書に「請人塚」という記述があることから、
江戸時代には存在していたと考えられる。
 塚の由来については、美濃(現在の岐阜県)から移り住
み、日野用水を開削するなど日野発展の基礎を作った佐藤
隼人を称えるため、隼人の業績を記した書を埋納したもの
という説がある。また、かつてこの一帯が荒れ野であった
時に、狸や狐が上人に化けて甲州道中を行く人をたぶらか
したため、「上人塚」の名が付いたという説もある。
 平成一八年(2006)から行われた発掘調査の結果、こ
の塚の基部には黒土を突き固めた一辺一五メートル余りの
方形の中世の塚があり、その上に江戸時代の円形の塚がか
ぶさっていることが明らかになった。塚の性格は不明だが、
祭祀を行った場所か、土地の境界を示す標識として築かれ
たものと推測される。
                  日野市教育委員会


<参考文献>
東京考古談話会『東京の遺跡 NO.93 日野台地の上人塚と富士塚~ランドマークとしての黒塚~』
日野史談会『日野の歴史と文化 第17号』
現地説明版

  1. 2013/12/14(土) 08:59:39|
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